ついていけない!〜高速列車での済南出張

 初めて乗ってみた。この夏に開通した北京ー上海間の高速鉄道に。北京南駅から済南南駅までの乗車だった。
 距離は480キロ。走行時間1時間半。途中停車駅はなし。グリーン席の料金は315元。
 列車の中は広々としていて、乗り心地は悪くはなかった。

 1989年、私は初めて北京に来た時、父と一般の快速列車に乗っていた。済南についたのは夜明け前か夜が明けたばかりだったのか、15分か20分以上も停車していた大きな駅だった。当時は済南までくると、北京までは後6〜7時間。列車も一息つく必要があるようで、長めの休みが取られていた。
 それが、今ではこんなに快適な列車で、こんなに早く着くことができる。隔世の感があり。

 新幹線の乗り心地と良く似ていると思った。が、うまく言えないが、何かが違っている、何かが大きく違うようだ。それはいったい何だったのだろう。
 はっきりと答えられない。とりあえず、違和感を抱きながら、とりとめもなく車窓の外を眺めることにしていた。と、見えてきたのは、広々とした華北平野の大地だった。綿花の取り入れシーズンのようで、大きな俵がたくさん置かれていた。手作業でせわしく綿を積んでいる作業員の姿もところどころ見えた。
 速度は時速300キロ。ほぼ安定的に走行していた。それだけあって、車窓の外の風景もすばやく変わっていく。村が見える。高層ビルが見える。工場が見える。高速道路が見える。水が見える。枯れた大地が見える。冬小麦の畑なのか、青々とした緑も見えた。
 ただ、見えてきた村というのは、道路の舗装もままならぬ村で、田んぼのあぜ道にはカラフルなゴミが積みあがっていた。また、高層ビルというのは、野原のど真ん中に誰かが種でも蒔いたように、にょきにょきと高くそびえているビルだけの建物が多かった。周りとは極めて不釣合いを感じるビルだけのところだった。それも種が同じだったようで、色、形、高さ、配置、何もかも統一規格だった。
 さらに、工場というのは、あたり一面が真っ白に染まったセメント工場もあった。
 高速道路というのは、実に広々としていて、ぴかぴかの路だった。野原のど真ん中を縦横していて、たいへん目立つ存在だった。ただ、通行車両が少なく、たまにしか走っていなかった。白い点線はそのお陰で、たいへん目立って見えた。
 一方、水というのは、あぜ道の水路にせよ、ため池にせよ、河川にせよ、水という水が汚れていて汚かった。中には、澄んだ墨汁のような小川も見えて、少しも波風はなく、出土されたばかりの銅鏡のような光を放っていた。そこにはおそらく生き物がまったくいない、死の光だった。その光をうっかり目でキャッチした自分は、身震いをしてしまった。水が無言の抗議をしているのが聞こえたからだ。
 
 「和谐号」の名とは正反対に、目の前に見えたすべてが必ずしも「調和」とも言えない。あえて、きれいな言葉で表現するならば、多様性があるというのだろうか?が、正直な言葉で言うと、支離滅裂そのものだった。自分自身が身を置いたのは、中国のほこりである「高速列車」。車内は21世紀らしい近代的な空間。しかし、ちょっとでも目線を外にやると、見える範囲だけでも、別世界が広がっていた。近代以前とさほど変わらない世界だったり、近代以前だと想像だにできないゴミにひどく汚染された環境もある。これもそれも同じ21世紀の中国なのか、とまじめに考えると頭が痛くなる。統一感はない。何もかもばらばらに存在している。
 快適なはずの高速鉄道の旅は、有無を言わさず見せられた風景のせいで、快適さが半減し、もう半分は苦痛に悩まされていた。
 そして、到着した済南のホテル。国際会議が開かれる会場は山東大厦。いくつかの複数のビルや講堂からなっている超大型の建物群だ。すべての建物は廊下でつながっていた。国賓館以上のスケールと豪華さ。人民大会堂の入り口にあるような太い大理石の柱がふんだんに使われており、ギリシャの宮殿か、秦の始皇帝の幻の宮殿か。錯覚が起きてしまうほどだった。

 とにかく高い。そして、広い。バンケットは3階建てのビルが丸ごとすぽっと入るほどの大きさ。ただ、がらんと空いていた。宴会用の円卓では、いっせいに60人が丸く囲んで食事をしていた。(しかし、それだと机の向うにいるとおしゃべりしたいと思っても、できっこない)。通った廊下には、いたるところに孔子孟子の教えを想起させる書や置物が置かれていた。これも良く言えば、おおらかで骨太で存在感がある。が、悪く言えば、大而无用(ばかでかい)、必要以上、実用性を通り越して、面子を重んじすぎたということにつきる。
 びっくりしたのはホテルの部屋。まずは宿泊棟は1階から20数階まで大きな吹き抜けになっている。客室はアート型の壁に沿って配置されている。コンピューターゲームでセッティングされているようなバーチャル世界そのものだった。


 眺めると、鳩小屋という言葉が思い出される。ただ、部屋の中はきわめて広い。30平米以上もあるのでは。ウォッシュルームにはシャワールームに便器、洗面台、湯船がそれぞれゆったりと自分のスペースを確保していた。
 さて、ドアを開けた瞬間のことだった。カード式の鍵を通し、ドアをあけたとたん、ガーと部屋の向うで電動の音がした。カーテンを自動的にあけてくれたのだ。荷物を降ろした。「さあ、トイレに入ろう」とウォッシュルームに入った。シー…また電子音がした。便器のふたを自動的に開けたのだ。「ご主人様、おまちしておりました」、とまでは、さすが音声ガイドはなかった。
 そして、鏡の脇にあるボタンを押すと、2秒もしない内に、湯船付近のガラスの壁に電気が通され、一瞬にしてガラスが曇って電動式のカーテンになった。とにかく、不思議な御伽噺の国ようで、手品の連続だった。
 ただ、翌日になって初めて気づいたことに嘆いた。それは、先進的なカーテンには、全部開けるか、全部閉めるか、そのどちらかしか選べない。ほど良い加減で半分だけ閉めようと思っても。選択肢は二つしかない。今度は電動をやめて、手動に変えて、手で調整しようとトライしてみた。しかし、今度は、カーテンのほうはプライドが高くて、でんと立ち構えていて、そんな手で俺を動かそうとでも思っているのという構え方で、断固としてやらせてもらえなかった。
 どこか物足りない。どこか尋常じゃない。
 このとっつきにくいカーテンが、そういう今の中国を端的に表したものなのかなと思ったりしてしまった。いや、もしかして、ただ、カーテンの操り方の修行が私に足りなかっただけのことかもしれない。


済南南駅はたいへん広い。まだ利用客がそれほど多くなかったようだ。しかし、市内から15キロ離れている。ただ、もう10年すればどうなるのか、想像はできない。ただ、ここもただ広くて、列車を待っている間に食事でもしようと思っても、選択肢はなかった。お弁当を売るところさえなかった。あったのは、山東省の薄い焼餅のお菓子だけだった。私がついたのは夕食の時間帯だったので、待合室には老若男女がぱりぱりと焼餅を食べていたおかしな風景が見られた(笑)。
 何かが抜けていると言えば、乗務員のことを思い出した。若くてきれいな子ばかりだった。制服もきちんとしていて、格好はよかった。みな、無愛想な人では決してないと思う。しかし、チケットを検査する際、客に一言声をかける心がけがなかった。一等席でも特別扱いされることもなかった。すぐにできるところから抜けていたものをどんどん追加できるといいなと思っている
 

 さて、会議が終わり、済南南駅から再び高速列車に乗った。1時間半ほどで今度は北京南駅に降り立った。気づいたら、自分が済南に搬送されて24時間、屋根のないところを一歩も歩かなかった。今回もポイント対ポイントの「衛星発射式」の出張だった。北京と済南の距離がうんと縮まったのはもちろんのこと。ただ、私にしてみれば、この二つの町はすでにつながっている一つの町にさえなってしまっている。帰途では、夜の帳も降り、外を眺めても何か見えるわけでもない。そう思って、今度は『スティーブジョブス』を読むのに専念していた。あっという間の1時間半だった。市内移動の感覚だった。480キロの土地のこと、気づいたら、もう自分の頭の中からすぽっと抜けてしまった。記憶すら薄れてしまおうとしている。支離滅裂と違和感を感じさせたのはまだ昨日のことだったのに。恐ろしく思った。