『競馬で儲かった』はテクかツキか

「必勝法不可能論」に対抗できるのは「競馬には絶対真理がある」とする立場だけであろう。つまり、「よほど不運な要因が入りこまないかぎり、勝つ馬は決まっている。それがわからないのは我々が未熟だからだ。絶対真理を極めることができれば、1着馬はおろか2着馬もわかるようになる。だから単勝馬単も1点で取れるようになるだろう」というわけである。
次のようなケースで単勝買いしてみよう。

 ①番人気  2.0倍  的中確率45%  期待値90%
 ②番人気  3倍  的中確率30%  期待値80%
 ③番人気  4倍  的中確率20%  期待値80%

真理探究論者が③番人気の単勝を買い的中させる。彼のせりふはきっとこうだ。

  • やっぱり、この馬が1番強かった。俺の推理に狂いはない。前走は前がふさがる不利があったが、末脚はピカ一なのだから、少頭数で直線が長い東京コースなら絶対勝つと推理した俺の読み勝ちだ

このように自画自賛するに違いない。反省するとすれば「自信のレースだったのだからもっと大きく賭けてさえいればトータルでも儲かっていたのに」といったところだろう。

  • この距離3戦3勝だったのだから鉄板で負けるはずがなかった
  • 調教タイムがずば抜けていたのだから、いつもの俺なら大勝負していた。あのときはどうかしていたんだ

勝つべくして勝った要素は後からいくらでも付け足すことができるし、事前に「発見」していた「勝つ要素」が多ければ多いほど、優越感にひたることができる。
たしかに一番強いはずなのに実力が下位に評価されている馬が実戦で楽勝するケースは珍しくない。こうした馬を発掘できるのも競馬のだいご味である。だから狙った馬が勝った場合「この馬が一番強かった」と考えてしまい、決して「20%の確率で起こることが起こった」と受け止めようとはしない。負けた場合の理由も巧妙に説明づけられる。

  • スタートでの出遅れさえなければ
  • 末脚が生きる展開にならなかったから
  • 騎手の騎乗ミスがすべてだ

つまり、真理探究論者にあっては、③番人気の的中確率は20%ではなく限りなく100%に近いものと想定されていて、結果は「予測の勝利」とされるのである。
弱い馬はなかなか勝つことはできない。実力のある馬だからこそ勝てる。だが実力があるからといって毎回勝てる馬はほとんど皆無である。弱い馬が勝つこともあれば、最強馬でも負けることがある。競馬は絶対の世界ではなく確率の世界なのだ。その事実を直視せず自画自賛するのは滑稽なことといえよう。


専門紙の年間回収率は成績トップのところで80%台である。しかも毎年のようにトップが入れ替わっている。この数字はいかなる予想方式も無効であることを暗示させるに十分な説得力をもっている。一方、世の中には回収率○○○%を自慢する必勝本や有料サイト、パソコンソフトが多数存在している。出目論やサイン解読のたぐいは論外にしても、もっともらしいデータ分析や多変量解析などの統計学を使ったものなど多種多彩だ。
これらに共通する難点は、いずれも後付けの研究でしかなく、データのなかに特異な高額馬券が入り込んでいるために全体の回収率が押し上げられただけにすぎなかったり、たまたまその期間だけ的中率が良くて回収率が高くなっただけかもしれないことだ。
後付けでならば、どんなデータでも最も特異な点や期間に合わせて都合のよい必勝法を説くことができる。一般論として、統計的な分析を事後的に行うと偶然の要因を正しく評価することができず、分析そのものが意味のないものになってしまう。なにせよ馬券の選択、組み合わせは無限大にある。それらの中からいくつかを検証してみれば、回収率○○○%になるケースが見つかるだろう。いわば偶然に起こったケースをあたかも「発見」したかのようにカン違いして後からそれにあう説明を勝手に作り上げてしまう。
過去のデータの集積によって得られた仮説は、この先の、新しい、独立な、一連のデータによって検証されねばならない。こうした再現性のある必勝法は皆無である。

 失敗を外的な原因で説明する傾向について

私たちが我田引水的な信念をもってしまうのは、自尊心を保持したいなどの重要な心理学的な欲求や動機を満足させる必要があるためと解釈できるが、完全に理性的な人でも、成功を内的な原因で説明し、失敗を外的な原因で説明する傾向について、自尊的欲求の要因に言及することなしに認知的メカニズムからも説明することができる。
何事かに成功しようとすれば努力するであろうし、また、いかなる成功も少なくとも部分的には努力が影響している。だとすれば、努力が成功の内的な原因であると考えるのは正当なことである。一方、失敗というのは、一般に努力したかいなく、そうなってしまうものである。そこで、失敗の原因は努力以外のところに求めざるをえないことになり、多くの場合、外的な要因が捜されるのである。
 人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)( トーマスギロビッチ 新曜社 1993)

 競馬の『必勝法』のパラドックス

競馬の『必勝法』なるものは、それが必勝法であることが明らかであればあるほど、必勝法でなくなってしまう。だから、世に出ない隠れた『必勝法』があるに違いないと信じる人もいるだろう。そんなものはないのである。1節の回収率110%が約束された必勝法があったとしよう。年間50節あるから1.1の50乗の計算になり1年で資金を100倍以上にすることができる。1万が100万になる。翌年は1億になり、翌々年は百億にできることになるだろうか。競馬でこうしたことはありえない。

  • 高額資金を投入すると、オッズを下げてしまい、回収率が悪くなる。。
  • 馬券には「当たり外れ」がかならずあるから、拡大した資金を投入していくと外れた時点で大損してしまう。

競馬は「3分間でできる確実、安全な複利式利殖法」になりようがないのである。

本物の必勝法なら自分だけ儲ければよく、売りに出して商売する必要はない。したがって、売られている必勝法は、いままで回収率が70%だったのが、この必勝法のおかげで80%になった、あるいは90%になったというレベルの話なのである。そして、この、たとえばAの必勝法を採用する人が増えてくることに比例して、回収率は悪化し、替わりに新奇な必勝法や、もはや古いとしてクズかごに捨てられたはずのもろもろの必勝法のたぐいが逆に輝きをもってくるという堂々巡りに翻弄されるだけである。

 競馬の楽しみ

競馬の楽しみは、馬券を買う楽しみに負うところが大きい。しかし、毎月毎年負け越しでは競馬の楽しみは限りなくゼロに低下するだろう。競馬には「レースを読む」というゲームとしての側面がある。マージャン、ポーカー、将棋、読みを競うゲームはすべて賭け事の対象になるが、いずれも「勝ったり、負けたり」で力量差があまりない場合に楽しむことができるのである。控除率25%の競馬では、誰一人勝つことができない。胴元だけが勝てる仕組みになっているのである。だから、競馬を賭け事にしてはだめであろう。馬券はレース観戦料の気持で出せる額に抑えたほうが賢明なのである。
相撲、野球、これらも賭け事の対象になるが、好きな人は、贔屓の力士、贔屓のチーム、贔屓の選手をかならず持っている。競馬もしかりで、もっと馬にほれ込むべきである。強い馬を強いと率直に認め、称賛する気持を持たずにどうして競馬ファンといえようか。


高額配当狙いで穴期待が高まれば高まるほどアンチ本命派になっていく。人気をかぶった馬が負けることを期待する。負けてしてやったと喜ぶ競馬を続けていては、その人は決して競馬ファンとはいえなくなる。特定の贔屓チームもないくせに、巨人が負けさえすればいいというアンチ巨人の野球観戦派を野球ファンとはいえないことと同じことである。


競馬をギャンブルのための手段に卑しめたくない競馬ファンの馬券は、複勝馬券が基本である。高配当がうたい文句の馬券は的中に自信がもてないから、あとから付け足したりもして何点も買うことになり、「当てる」のではなく「当たり」を喜ぶ出たとこ勝負の宝くじと変わりない。自分が買った馬券ではレースを追うことができず、レース結果と手もとの馬券を見比べている。(当たったかどうかを知るために、あたかも宝くじを買った人が当選番号を調べるように)。複勝馬券ならこれぞと思う馬にしぼって賭けることができる。レース観戦がしやすくなる。かつ面白い。反省、研究にもプラスになる。1頭の馬を終始スタートから追っていったときの面白さ、楽しさは連勝式の馬券では絶対に味わえない。

  • レースは1頭を追うほうがレース観戦に力が入る。複勝馬券を買っておれば、抜かれても2着、3着で頑張っているときのハラハラ、ドキドキとか、後方から追い、差し、1着場に届かなくとも2着、3着でゴールしたときの迫力とかを味わうことができる。5点買い、10点買いの馬券ではレースを十分に観戦して楽しむことができない。
  • 複勝馬券の利点は単勝馬券にも当てはまる。しかし、単勝馬券は1着か否かがすべてであり、大方の本命を的中させても「俺が当てた馬」という喜びにいま1つ欠けるし、本命を切った単勝馬券ではアンチ本命派になりさがっていくので競馬ファンとしては避けたいところなのだ。この点、複勝馬券は「俺が目をつけた馬で取れた」という喜びが大きい。
  • 複勝なら控除率が25%でなく、20%である。配当でツキを楽しむことができる。複勝の3倍は10点買いの30倍に匹敵する。

以上の観点から複勝馬券が基本であること、複勝馬券が競馬を楽しむための条件をすべて備えていることを強調しておきたい。
複勝だと、2度続けてはずしてしまうと取り返すのが大変だからやる気がしないという人が多い。「取り返す」という考えが間違っているのである。「どの馬券でも取り返すことができない」のが競馬の真実なのだ。取られた馬券代は、終わったレースの観戦料であるから二度と戻らないものと割り切ることが肝腎であろう。馬券代に賭けた金額の分だけスリルを味わうことができたのである。それはそれで忘れて、次のレースをいくらの金額で楽しむかを検討してみたらいかがか?