べ、別にうらやましくなんてないんだからね!

いよいよ今週末がモモーイ草津ライブですか……。先日、日大で行われたライブが神がかっていたという話を聞いているだけに期待度大ですね。
ウォッチ!声優板http://blog.livedoor.jp/blur66430/archives/50632367.html
と、言いつつ、僕は参加できないうえに、『小麦ちゃん』関連とこれくらいしかモモーイの曲を知らないのですが。
うたまるえかき唄⇒http://www.youtube.com/watch?v=3f6nbYWao3k
よく知らないのに見に行きたいというこの脊髄反射的な衝動は、『NHKのど自慢』の収録を見に行く地元民の気分に近いかも。

水伝論争は迷走を続けています

前回は長々と反証実験について書きましたが、本音はこちらです。
はっきり言って「水からの伝言」に書かれている「よい言葉が水に影響を与える」という内容の真偽はどうでもよくて、科学が「人生は如何に生きるべきか」的な道徳話に利用されるのが気に入らないだけなのです。個人的には。
科学と人生なんて何の関係もないよ……。ましてや宗教なんて。科学はどうしたって宗教にはなれません。なったとしたら、それは科学とは異質なものに変化しています。
マイナスイオンでも、活性水素水でもなく、「水からの伝言」を叩いている意味はそこにあるはず。
反証実験をしても「水からの伝言」が間違いだとわかるだけじゃないですか。せいぜい180万円の機械を買わされる人がいなくなるだけ。そんなことはどうでもよいから、どうか道徳の教材として使うのをやめてください。それだけが 私の望みです(ひぐらし風)。

ローゼンメイデンとは無関係に-デカルトと永遠の少女-

「そうよ……私達薔薇乙女の体は…ひとつひとつが生命の糸で繋がっている…」
「誰かはそれを…」
「絆とも呼ぶのよッ」

アニメ『ローゼンメイデン』シリーズの新作『ローゼンメイデン・オーベルテューレ』の放送が12月23日、24日と間近に迫ってきましたが、放送局がBS-鄯というのがなんとも。ドールの可愛らしさと物語の残酷さ、この両者の緊張感が素敵な作品だけに、何だかんだいって楽しみです。
それはさておき、人形といえばこんな伝説を思い出します。
「フランスの偉大な哲学者デカルトは、溺愛していた娘フランシーヌを病で亡くした後、それとそっくりの少女人形をいつも抱えていました。人形に向けて話しかけたり、身の回りの世話を焼いたりと、生きている人間と同じように扱いました。
あるとき、デカルトの乗っていた船が嵐にあい、沈没しそうになりました。船長は、これはあの哲学者がもっている少女人形の呪いに違いないと思い、フランシーヌ人形を持ち出し海に捨ててしまいました。すると、嵐はすぐに止んだそうです」
以上の話はあくまで伝説、信頼できる文献にこの話は載っていません。しかし、合理主義の始祖であるデカルトにこのように神秘的な伝説が付きまとうというのは、考えてみると中々面白いことです。
もうひとつ、『ローゼンメイデン』に登場する全てのドールを作った「ローゼン」のキャラクターもこの伝説中のデカルトと非常に近いと言えます(作中のセリフでは、ローゼンは哲学者であり、ドールを大きな鞄に入れて持ち歩いていた。伝説中のデカルトも、フランシーヌの人形をトランクに入れて持ち歩いてた)。
近代哲学と人形、この両者にどのような一致点があるのかを今回は考えてみたいと思います。

ローゼンメイデン 6 [DVD]

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からくり人形の始祖を辿ってみると古代ギリシアのヘロンに行き着くのですが、それから2000年近くの年月を経て、デカルトの時代にはかなりのレベルまでたどり着いていました。それからさらに1世紀たつと、からくり人形(オートマタ)は最盛期を迎えます。
そんな時代、デカルトは『方法序説』で生命機械論を説きました。その中では、生きた人間と死んだ人間の違いは壊れた機械とそうでない機械の違いに等しいと説かれています。つまり、肉体も機械と同じように故障した箇所を直せば、死んだ人間が生き返ることもありうるということです。
ただ、この説は論理的に矛盾していなくても、現実との整合性が全くありません。そこで心身二元論を取り入れ、「神の手」を介在させることで現実を飛び越えようとしたのです。
この考えはフランスの思想家ラ・メトリを経てさらに先鋭化されます。簡単なオートマタ(自動人形)を作るより複雑なオートマタを作るには多くの技術が必要となる。「話す人間」を作るにはさらに多くの技術が必要になる、と。
「こうした機械はもはや今日では、なかんずく新しいプロメテウスの手にかかったならば、不可能とみなすことはできない」(『人間機械論』)
このように、いずれは人間が人間を作り出すという思想、それをあのデカルトは実践しているのではないかという妄想がフランシーヌ人形の伝説を生み出したのかもしれません。
ここから先は根拠のない考えですが、人間を機械とみなし、人間そっくりな機械をつくる行為は神への信仰の証明ではないでしょうか。奇跡を再現することは、それを行った神に触れることに他なりません。デカルトは「神の存在証明」なんてやっていますし。
合理主義が生み出した生命機械論はオートマタへとつながり、数多の傑作を生み出しました。しかし「合理主義」が「功利主義」へと移り変わるにつれてオートマタは忘れ去られ、あるものは朽ち果て、あるものはガラスケースに押し込められ、それが動く姿をみることは、現在ではめったにありません。まるで鞄の中で眠る薔薇乙女のように。
僕は、ローゼンメイデンの結末が悲劇的なものではないかと予想しています。
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