「科学は宗教だよね」ってマジですか?

水からの伝言」についての議論は「信者をどうやって説得するの?」という実践的な部分に移っているようですが、そんなの瑣末なことじゃないのというのが個人的な意見。道徳の教材として「水からの伝言」が使われなければ無問題(懐かしいな)です。
そもそも元記事の趣旨は「全然根拠の無い道徳的な考えに、まるで科学的な根拠があるように見せかけるのは良くない」ということだったはず。つまり、道徳(≒宗教でもよい)と科学を混同するなという話でした。マイナスイオンでも活性水素水でもなく、「水からの伝言」を批判した意味はそこにあったのではないでしょうか。
ところがこんな記事が出ることからもわかるように、議論は全然進んでいないみたいです。
「で、みちアキはどうするの?」⇒やじうま洗脳合戦WATCH
ブクマコメントと併せて見るとよりわかりやすいです、というか、記事を書いたmichiaki氏は少なからずネタとして書いたのでしょうが、一部のブックマーカーの反応が面白い。話が交錯するわけだ、と勝手に納得しました。
最初に結論を書くと、「科学と宗教を混同しないでください」
時々半端な科学オタが「科学的な考えから生き方を学びました」なんてことを言っていますが、お前はどこからそんな考えを拾ってきたんだと小一時間(ry)。


科学と宗教の違いは、まず、宗教と違って科学はあなたに「いかに生きるべきか」を教えてくれません。
将来何が起るかは、誰にも(完全には)予測できません。そのため、これから何をするべきかも根拠がありません。根拠がないから、無理矢理信じるしかない。だから宗教が必要となるのです。
とんでもない天才科学者がガチガチの宗教者だったりして、どうしてあんなに不合理なものを信じられるのかと聞きたくなりますが、その理由は上に書いたとおり。科学者は科学が自分を導かないことを知るからこそ、宗教を求めるのです。
次に、科学は疑うことを基本としますが、宗教には絶対に疑えない境界線が存在します。
よく考えなくても神の存在は突っ込みどころ満載なのですが、本当に突っ込むとその宗教にいられなくなるのでやりません。ですが、科学は何でも疑います。自然法則だけでなく、それを観察する自分の意識さえも。


以上のように科学と宗教は全然違うのですが、その両者が混同されたことに「水からの伝言」の問題があったのです。これって地動説・天動説の問題と似ていませんか?ニセ科学が本当に力を持つのは、宗教と結びついたときです。相手の土俵に登る前に、この両者を切り離すべき。両者を切り離すことさえ出来れば、時々180万円の機械を買わされる可哀想な人が出るくらいで、純粋な科学の問題となります。
個人的な考えですが、個別の事例に対処することが、結果として全体を後退させることがあると思います。はっきりいって、「水からの伝言」が科学的に正しいかどうかなんて極論すればどうでも良い。批判すべきは、科学と関係のないものが結合している点です。ID説とか、既に「怖い例」はたくさん出ています。

AIR

「にはは。可愛い……。うーん。放っといて行っちゃっていいのかな」
「よーし、じゃあ、ちょっと歩いて、振り向いてついてこなかったらここでお別れ」
「わ、ついて来る」
「私と一緒に行く?」
「そっか、じゃあ一緒に行こうか」

バックミュージック『夏影』。カラスの「そら」を肩に乗せて歩き出す観鈴。視線は踊るように観鈴の周囲を回った後、ふたりの背中を捉え、そのまま静止する。『AIR』のロゴが表れるその側で、誰かと手をつなぐ少女のシルエット。
……背中がざわざわする。物語そのものである「AIR編」、終わりの始まりはあまりに格好良い。

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アニメ版AIRでは、シナリオの分量が原作の半分くらいまで削られているのですが、それでも重要なシーンにはきっちり時間を割いて、情感を含めた演出をしてくれるのはさすが。
AIR』最終章となる「AIR編」の前半は、序章『DREAM編』を別視点で眺める形となります。原作ではカラスが語り手になるという前代未聞の形式でしたが、アニメではその辺が表現できないのが残念。まあ、それでも面白いものは面白いので、きっと瑣末なことなのでしょう。
個人的にはこの第5巻、非常に気に入っています。
友達が出来なくて、泣きそうになって、それでも我慢して、やっぱり我慢できなくて見ず知らずの行人に声をかける。ありふれているのですが、切なすぎです。うぐぅ(あ、間違えた)。
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