『らき☆すた』の演出に関する雑感

らき☆すた 3 限定版 [DVD]

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最近の『らき☆すた』を見ながら考えたことについて少し。
おそらく『らき☆すた』における演出の大部分は「それを初めて見たもののように描く」ということに集約されるのではないかと思います。彼女たち(特にかがみ)は本当によく驚きますよね。そして「あるある」な話題であっても、その話題を取り上げること自体は初めてである、という風に描かれます。
ただ、ここで言う「演出」の対象が手法に対してなのか、それとも個人や出来事などの事物に対してなのかということは厳密に区別しておく必要があるでしょう。
手法に対する演出ならば、例えば1話のチョココロネに関する話や、その他にも頻繁に登場する極端に長回しな会話シーンが挙げられるでしょう。これはつまり、まず最初にある事物を表現するための典型的な手法が存在し、それを見慣れない形に変形することで手法の存在を前景化する演出である、という風に考えられます。こちらは「文学的な言葉」に対する古典的な理解と近いかもしれませんね。
しかし、それとまったく同じ内容を、手法ではなく事物を対象とした演出であるとも考えることも出来ます。詳しくはこことかここを参照。いかにもアニメ的な手法ではなく、実際に会話に参加しているような固定された視点を取ることで、逆に会話の不自然さが浮き上がってくる(会話の中で正しい日本語を使うことのおかしさ、とか)ということ。この場合、演出の目的は手法の前景化ではなく、演出の対象となる事物の特性を浮かび上がらせることになります。
例えば第17話の終盤、柊姉妹の喧嘩が解決されてしんみりした気分になったのに、なぜか「らっきー☆チャンネル」との間に繋ぎのギャグが挿入された理由なんて解釈が分かれるところではないかと思います。前者の立場ならば「感動話のパロディ」ということになるし、後者の立場なら「かがみの切り替えの早さ」あるいは「感動話も日常においては一部でしかない」ということになる。この違いは大きいかと。
どちらの立場を取るかによって、『らき☆すた』に限らず物語はその姿を一変させます。演出のための物語か、物語のための演出か。日常系のアニメというのは「まず物語がある」という前提を無視するので、その辺の問題がはっきり出てくるんじゃないかな、と。