日露戦争後の農村問題・その3

サボっていた分を取り返すぞ!というわけで二日連続の更新。今回のテーマは農村と祭祀についてです。
簡単に言えば、日露戦争後の農村における祭祀は2つの方向へ分化し、それぞれの方向で純粋化されていった、と言うことが出来るでしょう。その2つの方向とは、ひとつが従来よりも規模を広げた、時には複数の村落共同体の構成員を動かす全村的祭祀。もうひとつが村落共同体のレベルを超えた国家的祭祀。ここでは以上の2つの方向へと舵を切っていくことになった原因について書いていきます。


そもそも、どのような文化であっても少なからず宗教的な要素を含んでいる以上、政教一致というのは避けがたいものであるのかもしれません。むしろ、宗教的な観念に基づいた権利要求がそのまま政治的地位向上の役割を果たす、という側面もあるでしょう。
さて、対外戦争の後には、それによって損害を被ったものへの補償が待っています。これは何も国同士の関係だけでなく、国と国民の間でも同じ。しかもそれは金銭的なものだけでなく、死者への弔いという宗教的なものも含まれています。
日露戦争は近代日本にとって二度目の大規模な対外戦争でしたが、戦後補償においては、日清戦争とは全く異なる困難にぶつかりました。まず、死者の数が非常に多かったということ。日清戦争においては死者ひとりひとりについてそれなりの弔いをする余裕がありました。しかし日露戦争ではもう無理。ある程度の広がりを持った地域ごとに忠魂碑を建てるなりをして、まとめて弔うしかなかったわけです。
では忠魂碑を建てようか、ということになると、今度は補助金の獲得競争が始まります。大きな忠魂碑が建てば「うちの村はこれだけお国の役に立ったんだぞ」という名誉の証になるので、それこそ一致協力して運動を起こしました。これが全村的祭祀における画期となったのではないかな、と。
もう一点、若者が大勢戦死した村においては従来の「村の祭祀」を行うことが出来なくなる、というケースが起こりました。そこで、政府としても村落共同体の利害関係を越えた「一国全体の利益」を考える愛国者を政治主体として想定していたのですから、抜け落ちた「村の祭祀」の部分に国家的祭祀を滑り込ませ、それを通して国民を政治主体として教化していこうとしました。
昭和の法学者・穂積重遠は著作『結婚訓』の中で、大安・仏滅・友引などで結婚式の日取りが左右されることについて

「人生の重大事を愚にも付かぬ迷信因襲に左右され、断然それを打破絶滅し得ないやうなことで、何が抑(よく)も新体制ですか」

と痛烈に批判しつつ

「全体国家的な祝祭日を除いては、日に吉も凶もない筈であります」

と、国家祭祀を地方の慣習より一段高い位置に置いています。
農村秩序の動揺、その間隙を突いて祭祀のあり方は変貌していったのです。