『らき☆すた』最終回に寄せて−面白くなければ面白がれば良いのだ!

らき☆すた 4 限定版 [DVD]
らき☆すた』は「面白がること」が出来る作品でした。ニコニコ動画の話ではなく。
今期の他の作品と比べてみると、『瀬戸の花嫁』のように大笑い出来る作品ではなく、『School Days』のように感情を刺激される作品でもなく、『電脳コイル』のストーリィ展開の巧みさや『桃華月憚』の斬新さもありません。
2,3年後にはみんな忘れているかもしれない。でも、僕はこの作品に対して非常な愛着を感じますね……。それくらい僕は『らき☆すた』を「真剣に見て」「面白がる」ことが出来ました。
僕が画面構成について真面目に考えたのは、たぶん『らき☆すた』が初めてです。
この作品で一番多く見られた構図はおそらく、こなた・かがみ・つかさ・みゆきの4人でテーブルを囲み談笑している姿でしょう。こういうときは、右に2人、左に2人配置して、カメラを中央において4人全員の顔が映るようにするのが一般的です。ところが『らき☆すた』では、どういうわけか上下右左に一人ずつ配置するので、ひとりは後頭部しか見えないというシーンが結構あるんですよね。話に合わせてぴょこぴょこ動く後頭部。あはは。最終話に出てくる似た構図と比較すると、変さがわかるかもしれません。

極端な長回しがあったかと思えば話し手に合わせて構図が180度反転したり、会話の内容に対する共感の度合いによってキャラクタ同士の距離が代わったり(特にこなたとかがみは近づいたり離れたりと忙しい)、声優が空気を読まないアドリブを入れたり、脇役の声がみんなくじらだったりと、人によっては「どうでもよい」ことが楽しくてしかたありませんでした。


これって、子どもの遊びに似ているのかもしれません。大人がつまらないといって投げ出した本でも、子どもなら著者近影に落書きして遊んだり、ちぎって紙飛行機を折ったり、改変して全然違う話にしたりと、知恵を絞って楽しみ方を考えるでしょう。
作り手が想定した遊び方でも、他人に共感してもらえる遊び方でもないかもしれません。
しかし、僕はそういった遊び方を「子どもっぽい」などと批判しようとは思いません。そもそも子どもっぽさを持たないような人間がオタクになったり、まして批評をしたりなんてするものではないと思っています。むしろ、そうやって能動的に(子どもっぽく)面白がっている人がいることを想像せず、安易に「『らき☆すた』のファンは思考停止している」などと批判することの方に嫌悪感を覚えます。
らき☆すた』の会話が平凡である、創造性がない、という指摘は正しいのかもしれません。でも、そこで立ち止まってしまうのではなく、会話以外の部分に楽しさを見つけて「面白がる」ことを試してみてはどうでしょうか?
例えばこの作品では「場面転換」が非常にあっさりしていますが、それによってどのような効果がもたらされているのでしょうか?カメラの長回しはどのような効果を?「普通の話⇒しんみりした話⇒普通の話⇒らっきー☆ちゃんねる」という構成の意味は?などなど、意味を、そして楽しさを取りこぼしたのではないか確認してみるべき箇所がたくさんあります。
仮に「オタクの才能」というものがあるとすれば、それは「面白い作品を見つける」ことではなく、作品を見るための視点を多く持っていて、その中から作品を楽しむために一番有効な視点を選び出せること、言い換えれば「作品を面白がること」なんだろうなぁ、と思います。
最近、あるライトノベルを買い集めています。もちろん読むのですが、主目的はそれではなくて、表紙を眺めることです。ベッドの上に腰を下ろしたとき一番良く見える位置に並べて。