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2007-10-28

CLANNAD』のリズム−映像作品の強度と鋭さ− 『CLANNAD』のリズム−映像作品の強度と鋭さ−を含むブックマーク

CLANNAD 1 (初回限定版) [DVD]

CLANNAD 1 (初回限定版) [DVD]

2004年にkeyの第3作目として発表された『CLANNAD』。この作品についてはアニメ版が始まる直前にクリアしたばかりなので色々語りたいことがあるのですが、このタイミングだと何を話してもネタバレになるので自重しています。

テーマは「家族の絆」そして「街と人の絆」。keyの固定ファンが多いというのもあるのでしょうが、作品がテーマを含めて絶賛され、「CLANNADは人生」とか言い始める人が出てくるのを見ると、ギャルゲのユーザって倫理的には超が付くほど保守的だよね、と感じます。ギャルゲ(特にエロゲ)はカウンターカルチャだと誰かが言っていましたが、絶対嘘ですよ。せっかく全年齢対象なんだから、青少年中二病が許されるうちに何でも疑っておきましょう。


そんな話はさておき、アニメ版の話に移ります。第4話まで進んだ現在でも、ある種のファンタジィではあるのですが、決してドラマチックな展開が繰り広げられているというわけではありません。淡々と伏線を張っているな、という印象。ただ、そこで「荒木飛呂彦みたいに毎回起伏のある話を作るべきだ」と言ってもおそらくは不毛な議論になるでしょうから、問題にすべきなのは、いかに「見る」ことの面白さを演出しているのか、あるいは淡々とした日常の中からどのようにして内面的なドラマを抉り出しているのか、ということであると思います。

シナリオ構成には少し、いや、かなり不満があるのですが、とりあえずそれは置いておきましょう。

アニメ版『CLANNAD』の大きな特徴として、カットの切り替えの早さが挙げられるかと思います。例えば第3話Aパートの岡崎朋也古河渚の会話シーン。

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ここから、似た構図の

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ここまでが1分20秒、その間に20回もカットが切り替わっています。同じ場所に座って会話していただけなのに。ただ、その全てが何かを語っているというわけでもなく、捨てカットに近いものを差し込んで強制的にリズムを作っているという感じ。第2話Bパート、朋也の自宅シーンも分かりやすいのではないでしょうか。

f:id:tukinoha:20071028024051j:imagef:id:tukinoha:20071028024104j:imagef:id:tukinoha:20071028024128j:image

僕は映像作品の面白さについて、大きく「強度」と「鋭さ」に分けられるのではないか、と考えています。『CLANNAD』はとにかく鋭い。間を作らず、どんどん流していきます。本当は「強度」のある絵で間を作った方が良いと思うのですが、以下のシークエンスのように「鋭さ」を徹底すると、バランスの良い作品とは違った面白さ生まれることも。

f:id:tukinoha:20071028024200j:imagef:id:tukinoha:20071028024219j:imagef:id:tukinoha:20071028024237j:image

カットだけを見せられても何が面白いのか分かりませんが、ここでは場所を変えながら一続きの会話が描かれています。「動き」が一致していないのでジャンプカットと呼ぶには抵抗を覚えますが、映画っぽい繋ぎ方ですね。屋外、廊下、トイレと空間の広さに合わせて声のエコーがきっちり調節されている辺りにも(当然のことかもしれませんが)ちょっと感心。

もうひとつ、これは『CLANNAD』に限った話ではありませんが、京アニ作品を読み解く上で「視線」の問題は外せないでしょう。

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このように画面の前方に遮蔽物を配置して、視聴者の視線を顕在化しています。他にも誰の視点かはっきりしているカットでは必ず画面をゆらゆら揺らしたりするなど、「視線」に対して意識的であろうとする態度が見られます。


ただ、以上に挙げた面白いカットあるいはシークエンスが、総体として面白いドラマを作り上げているかと問われると、若干疑問に思います。特に第3話のラスト、渚が朋也にバスケをしようと誘い、その翌日、雨の中、朋也が来るのを待っているシーンは「?」のバーゲンセールでした。

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何故朋也はバスケをしに来なかったのか?

「右腕が上がらないんだ……」

昨日言えよ!

石原監督はインタビューで

石原:昔と現在のアニメではかなりテンポが違うと感じています。昔はギャグの部分から泣きのシーンに移行するとき、今よりも時間をかけていたはず。でも、今の若い人から見ると、あんまり時間をかけるとタルく感じられてしまうのではないか?ひょっとしたらギャグのシーンから、すぐに泣きや寂しいシーンに移行しても、意外とついてきてくれる……そのくらいのテンポでないと飽きちゃうかなと思っています。

no title

と語っていますが、「物語る」ことの本質はリズムをコントロールすることにあると僕は考えているので、ちょっと共感出来ないな、と。

均質なリズムは別世界の日常でしかありません。楽しいときには速く、辛いときにはゆっくりと時間が流れていく。それはもちろん嘘なんですが、ころころと変わる表情よりもずっと豊かな感情を時間の流れは表現してくれます。

今期のアニメだと僕は『ef』を非常に高く評価しています。あの作品の映像には「強度」があり、「強度」のある映像は必ず「時間」を内部に含んでいる、だからキャラクタの顔を殊更に映さなくても感情が伝わってくるのです。

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このようなオーバーリアクションで感情を表そうというのは、どう見てもスマートな方法だとは思えません。大体は「よく動くアニメ」として好意的に見ているのですが、時々動かし方があざとく見えるシーンがあるから、人に勧めようとは思わないんですよね。


ちなみに最近、誕生日にエロゲをくれる友人K氏と話をしていたら、アニメ版『CLANNAD』の話になり、ゲームの内容を詰め込みすぎてテンポが悪い、という点で意見が一致しました。しかし、話を省略しても良い、というか、はっきり言えば「いらない子」は誰だろう?という点では意見が対立。

K氏は風子がいらないと言いました。風子がいらないなんて、そんな馬鹿な。僕も内心では風子の話が一番つまらないと思いつつ、可愛いし、渚の話と絡めやすいじゃないか、むしろいらない子なんていないんだ、と全力で弁護しました。

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ところで僕はことみがいらないと思います。

epsomepsom 2007/10/28 08:17 どうもです。

こういうと語弊があるかもしれませんが、今のところ、『CLANNAD』には『まなび』と同じ臭いを感じています。

冗談はさておき。

これまで、日本のアニメは、シナリオにしても作画にしても、「楽で効果的な手法」を突き詰めてきと思うのです。例えば『ガンバの冒険』だったかな、ガンバの走りにスピード感を出すために、敢えて枚数を減らしたそうなんですね。ですが、『まなび』や『CLANNAD』では、なぜか「仕上げが困難で効果的でない手法」を好んで使っている印象が拭えない。

私は基本的に、意味もなく密度を上げても仕方ないと思うんです。エントリにもある「以上に挙げた面白いカットあるいはシークエンスが、総体として面白いドラマを作り上げているかと問われると、若干疑問に思います」という部分ですね。つまり、クオリティの上にあるものを目指してほしいんですよ。製作者には、密度を上げることによって生ずる意味とか、密度を上げることでなにを表現したいのかにもっと自覚的になってもらいたいんです。

「キャラのこの表情や動きを観てくれ!」というのと「そのキャラがどういう考えの下にそれをしているのか観てくれ!」というのは不可分なことですし、相互補完しているはずなんです。

もっとも今のアニメファンて、本来は音楽を良い状態で聴くことが目的なはずなのに、スピーカーの音の良さを追求するあまり音楽を聴くことがないがしろになってしまうオーディオマニアみたいな感じで、作画のクオリティの高さや動きのなめらかさといった技術的表層的なことばかり求めているような気がします。

「〜すればいいんだ」という浅薄な発想と意識から生まれたハイテンポとリズムには全く共感できません。作中のテーマやドラマなど、その作品の目ざすものと合致している表現であるのなら、クオリティや密度がそれほど高くなくても、「強度」のある作品といえるものになるのではないでしょうか。

tukinohatukinoha 2007/10/28 11:24 『まなび』は割と好きな作品なので素直に同意して良いものかちょっとだけ悩みますが、おっしゃることはよくわかります。

京アニと共に語られる「クオリティの高さ」というのはある種の権威ですね。以前『ef』の記事を書いたときもコメント欄に「efはカットの数が少ない。だからつまらない作品だ」と言う人がいましたが、ここでも「クオリティの高さ」が御神体みたいになっている。
深く考えなくてもわかることが多くの人によって語られ、作品を裁く権威になるというのは全く自然なことではあります。ただ、先日のアニメギガで佐藤順一氏が語っていたように(少し文意からは外れますが)、権威だけが一人歩きして、これから生み出される作品のハードルを勝手に上げているのではないでしょうか。

『ef』についての僕の記事は某掲示板でも叩かれましたが、キャラクタの感情は表情や台詞で語らせるのがまともなやり方、と主張している人が割とたくさんいて、どこの世界の「まとも」だよ、と。

悲しそうな台詞を悲しそうな声で語り、悲しそうな表情をクローズ・アップで映す。アニメ版『CLANNAD』はそういう強度のない薄っぺらい描写を塗り重ねた「過剰さ」が鼻につきます。

もっとも、原作自体それほどの作品だとは思わないんですけどね。確かに注目するべき点はいくつかあるのですが、少なくとも『AIR』に比べれば全然普通。その『AIR』も最後の『AIR編』以外は全然普通なんですが……。

hogehogehogehoge 2007/10/28 13:53 動きで魅せるのは金と時間がかかっている証拠、止めで魅せるのは省力化できている証拠、というぐらいしか意味がないでしょう。
無駄に動いている・止めが行き過ぎてヤシガニ化では仕方ないわけで、どっちでもいいわけで。

蔵等は、キャラ全員あほの子だと思ったらまああきらめもついて見れるようになったところはありますが、今週のシャナ、ヘカテーのあほの子っぷりと悠二の鈍さばかりの30分にはひどくあきれてしまいました。吉田さんが黒化して、ヘカテーを襲撃するという話にでもしてもらいたいところです。

tukinohatukinoha 2007/10/28 18:13 気が合いますね。僕も今週の「シャナ」を見て、吉田さんとシャナが結託して悠二を始末し、その後はヘカテーを入れた3人で百合モードに突入すれば良いのにと思っていたところです。

というのは半分くらい冗談ですが、あの鈍感さは何なんでしょうね?萌えアニメって、テンプレートなヒロインにもあまり共感できないのですが、それ以上に、彼女たちは人格を持った存在であるということを全く考えない主人公にカチンとくることがあります。
「おジャ魔女どれみ」くらいかな……。生きた人間のドラマだと感じたのは。

hogehogehogehoge 2007/10/28 19:17 ここで、来週ぐらいに池が出て悠二をたしなめて株を上げるとかぐらいしてもらいたいところです。
悠二以外の男性キャラは悪くないですし。っていうか、さすがにデカ盛りの店出た後にたしなめてもらいたかったです。オガちゃんにでも。
優柔不断よりも、鈍感のほうがどうしたらいいかとかいう地点にも立っていない分たちが悪くみえます。

どれみは名作ですが、萌え系の範疇外にも思えますし。真性萌え、つまり萌えオタ一本釣り狙いの作品でそのあたりをクリアしているのって何かありますかねぇ。
AIRや東鳩は主人公的にはよいと思いますが。

tukinohatukinoha 2007/10/28 19:46 難しい……。
『School Days』の主人公は自分に好意を寄せられていることに気付いて、それを利用しようとしますが、萌えアニメとは言いがたいですよね。『少女革命ウテナ』の登場人物はみんな恋愛に対するアンテナが敏感でしたが、これを萌えアニメと呼ぶのは僕が許せないので却下。
かろうじて条件をクリアしそうなのは『フタコイ オルタナティブ』でしょうか。主人公はとんでもなく優柔不断ですが、一応、自分に好意を寄せられていることに気付いています。気付いていて何もしないという。

hogehogehogehoge 2007/10/28 20:06 萌えアニメという枠の設定自体に問題があるのかもしれません。
テンプレキャラとか鈍感主人公がいるものでないと萌えアニメにならないという・・・

ウテナは、もう10年前になりますか。あの頃はアニメ誌を買っていて、今でも押入れに残っています。ウテナは耽美系アニメであっても萌え系アニメとはならないでしょう。

フタコイオルタは二子玉が聖地という程度しか知らないのですが、見てて腹立たしくなる程度の主人公なのかどうかがやっぱりポイントのようにも思えます。悠二にしても、一期では先週ほど腹立たしく思える回もなかったですが。
先週の悠二だと、前回の弁当シーンあたりからの鈍感さが今回も引き続いて発揮され、次回もまだ引っ張るんじゃないかと思わせるあたりが腹立たしいのかもしれません。

萌えアニメでもしっかりしていたのは、ななついろなんかそうじゃないかという気がしました。最後には冬ソナっぽくなってましたが。ぱっと見、萌え萌えだけど、しっかりした作りだったかと。

tukinohatukinoha 2007/10/29 00:09 『ななついろ★ドロップス』ですか。ハーレムっぽい展開もなく、告白も主人公の方から、というわけで、言われてみれば確かにそうかもしれません。
あの作品もベタと言えばベタですが、萌えアニメが流行る以前のベタさが1周して戻ってきた感じがします。

11 2007/10/29 08:01 右手が上がらないなんて恥ずかしくて普通言わないって
忘れたい、もう考えたくない訳だ
でも絶対に忘れられない(右手だけに)、でも認めないといけない
だからあれでいいの
 ※例えば糖尿の人だって好き好んで言わないだろうし

クラナド=人生=保守的??

tukinohatukinoha 2007/10/29 09:29 いや、糖尿の人だって「明日一緒にケーキバイキングに行こう!」と誘われたら、その場で断るでしょう?適当に理由をつけて。
結局やるともやらないとも言わず、最悪の事態になるまで放っておく辺りは、ドラマチックな場面を作ろうという意図があからさま過ぎはしないでしょうか。

>クラナド=人生=保守的??
ではなくて、人生の幸せは家族と暮らすことの中にある、という考え方が保守的だという話。仏教の言葉にも「孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように」というのがあります。「良き伴侶が得られなければ」という前提つきですが……。
その点、(あらすじしか知りませんが)『智代アフター』のエンディングなんて面白いんじゃないかと思うのですが、黒歴史扱いする人が多いそうなので、結局は家族がみんなそろって仲良く暮らすのが幸せだと考えているのかなぁ、と。

totantotan 2007/10/29 09:50 >1さん
右腕が上がらないことをそんなに簡単に言える主人公であれば
親父にあそこまで嫌悪感示すわけないですもんね

nyonyo 2007/10/29 09:57 「家族みんなそろって仲良く暮らす」は保守ではなく革新の思想になってしまっているのが今の日本ですよ。
自らの家庭を持てる確率が極めて低いオタクにとってはなおさら。

epsomepsom 2007/10/30 07:42 『まなび』……。すみません。

映像表現はアナロジィそのもので、視覚レベルにおいて(現実の)ある対象や事象に類似しており、その類似レベルには様々な段階があります。また、<図像的アナロジィ>は、「コード(意味)」を移転する上で強力な手段でもあります。<図像的アナロジィ>として表象された映像の中には、現実の事象の中で機能していたコードが、観客に無自覚なうちに移しかえられられています。ここで重要なのは、類似性そのものもコード化されているということです。類似性のコードは絶対的ではなく相対的なものなので、その基準は時代や国によって異なります。製作者の手腕は、<図像的アナロジィ>の枠とその相対性を、いかに乗り越えるかによって試されるといえるでしょう。

ここでは、その<図像的アナロジー>を受けてがどのように認知するか、「シノニミィ(類義累積)」的と「アレゴリィ(諷喩)」的に大きく2つに分けられると仮定して、考察してみましょう(その妥当性については別の機会に)。

クオリティ云々、動き云々を重視する観方というのは、「シノニミィ」的表現を求めている人なんだろうなと思います。シノニミィは、訳語から連想されるとおり、関連のある言葉を並べて何か別のものを意味させるメタファの一形態で、語りそのものに重みをつけたり、内容を強化したりする有効な手段です。そう考えると、<データベース消費>、<カタログ世代>、<オタク的蒐集癖>などなど、様々なコンテンツに対する近年のアプローチ形態全て、シノニミィ的行為だなあと感じています。

でも、映像を「アレゴリィ」として観る者にとって、シノニミィはそれほど重要な要素ではありません。例えば『裸の王さま』や『王さまの耳はロバの耳』、『狼と少年』等の寓話や風刺物語を思い出してみましょう。寓話の多くは、同じようなエピソードを重ねることによって、伏線に重みをつけます。しかし、エピソードを積み重ねてクライマックスに至る前提を強化することが目的ではありません。寓話においては、どんなことが起きたかよりも、その話(起承転結の物語形式になっていなくても一向に構わない)の内容が何を意味しているかが重要なのですから。

もちろん、シノニミィとアレゴリィは相互依存的であり、受け手が完全にどちらかに依拠し映像を受容・認識ているわけではありません。バランスの問題ですね。また、もっと別の視点による観かたもあるでしょう。でも、映像作品の「強度」や「鋭さ」、「リズム」といったことを、描画とストーリィの両面から問題構制した場合、「シノニミィ」と「アレゴリィ」に二分することが、ある程度は有効なのではないかと思った次第。

tukinohatukinoha 2007/10/30 20:38 >nyoさん
あまり作品と関係のない話ですが、保守的な思想が揺らぎ始めているからこそ、かえって保守的な思想がさも当然のことのように語られる、ということがあります。nyoさんと僕とでは「保守」「革新」の定義が異なるようですが、僕の返答は以上のようなものです。

>epsonさん
アレゴリィについてですが、例として挙げられている『狼と少年』だと普通に「嘘ばかりついていると人に信用されなくなる」という解釈のほかに「災害は忘れた頃にやってくる」や「大人になると鈍感になる」なども可能でしょう。
以上の話も一種の比喩ですが、アレゴリィというのは、指示対象の内容と同じくらい、「アレゴリィ自体とその指示対象は本質的に無関係である」ことが重要だと思うのです。
もうひとつ、アレゴリィには必ず「時間」が含まれています。先行作品からの引用もそうだし、同じ作品内でも「1話の意味が10話になってやっとわかった」みたいなこともあるでしょう。
要するにアレゴリィは指示対象との隔たりを嫌でも意識させるものである、と僕は考えます。

シノニミィの方はといえば、構成要素や属性などの直接的な類似性、それと同時間性、この2点が重要なものとなります。関係のないものをいくら並べてもシノニミィにはならないし、1話と最終話に類似性があってもシノニミィとは気付けません。

この違いは作品をどういうスパンで評価するのか、という違いに通じるのではないでしょうか。アニメの感想を各話ごとに書くような人は「前回はつまらなかった」「今回は面白かった」とか、「話の内容がわかりづらい」なんて書いたりする。僕はそういう評価はしない(というか出来ない)。少なくとも2,3話のまとまりとして評価するし、「わからない」ことが苦にならない。

「アレゴリィ」「シノニミィ」という区分は作品評においてかなり実践的な概念だと思います。また、上記のように受容態度の分析にも活かせるのではないでしょうか。

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