『とらドラ!』についての雑感

とらドラ! Scene1(初回限定版) [DVD]

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視聴者にストレスを感じさせること無く「青春の痛み」も「恋愛の苦さ」も、ついでに「性の匂い」も感じさせようという、非常によく出来た(そして都合の良い)物語。よく出来てはいるのでしょうが、完全に最適化されているため、画面から緊張感を受け取ることはなく、恥ずかしさに耐えられなくなると視線を逸らしてしまうカメラワークの堪え性のなさだけが印象に残ります。
大河が北村に告白する瞬間も、竜児が大河を名前で呼ぶ瞬間も、カメラはさっと「話を聞く側」「名前を呼ばれる側」の方へと振り向いてしまう。言い換えるなら、視聴者の関心を常に「何かを受け取る側」へと向けることで、他者へと向き合うことの重さを回避しているのです。

「何で誰もわかってくれないんだろう……。私たち、こんなにぐじぐじ悩んでるのに」
  (第2話Aパート・逢坂大河)

それは結局のところ「甘え」でしかないわけですが、物語とまっすぐ向き合う厳しさの無い微温的な画面構成と「それでも朝は来る」を繰り返す物語は、その「甘え」を擁護しているようで、どうもすっきりしない感じ。
また、作中では繰り返し家族関係の希薄化が強調されていますが、それでも希薄化したのは血縁関係・社会的慣習を根拠とした家族だけで、家族という概念そのものが否定されているわけではありません。では、いったいどこに家族の根拠を求めるのか。それはもう、運命というか、直感に頼るほかありません。第1話冒頭のモノローグで明らかとされているように、この物語の想像力は理屈をすっ飛ばし、ひと昔前の『ムー』の読者投稿欄「ムー民広場」的なものへと直行します。ふたりが出会うことは最初から決まっていて、真の名前(「手乗りタイガー」でも「逢坂」でもなく「大河」)を呼ばれると理屈抜きでビビッと来るわけです。


原作ファンからは中々好評のようですが、以下の変更点について彼らがどう思っているのか聞いてみたいところです。
第1話の序盤、主人公・竜児とヒロイン・大河が初めて出会う場面について、原作では以下のように描かれています。

「……鬱陶しい奴……」
彼女が、二つの大きな眼球で、竜児を睨みつけただけ。それだけ。
たったそれだけのことに、そのほんの数秒の緊迫に、竜児は圧倒されていた。圧倒されて、頭の中が真っ白になって、全身が絞り上げられ、緊迫されたように動けなくなり、そのまま文字通り卒倒したのだ。
  (原作小説37Pより)

大河は手を出さず、視線で殺すだけ。それに対してアニメ版では、直接手を出します。

視線で人を殺すことの非現実性に、アニメは耐えられなかったのでしょうか(殴り倒すのも十分非現実的ではありますが)。しかし問題はそこではなく、原作だと実は表立って暴力を振るうことが少ない(というか北村くんのいる学校では基本的に大人しい)大河が、アニメではより無鉄砲で子どもっぽい性格に変更されている、ということにあります。クラスメイトをいきなり殴っておいて「誰もわかってくれない」っていうのは、いくらなんでも身勝手すぎるでしょう。
上述したように、ひいき目で見ても大河の性格は子どもっぽい。そう考えると整合性の取れた改変であると言えるのかもしれませんが、感情の機微を推測する余地が全然なくなってしまったなぁ、と思うわけで。