戦争を語ることについて――太平洋戦争開戦の日に寄せて

日本が中国に侵略戦争をおこなっていたかぎり、私たちは惰性的で無気力なものであったにせよ、抵抗意識をもちつづけてたのであった。……ところが、やがて戦争がヨーロッパに飛火し、それがふたたびアジアにかえって、日本が昭和十六年の暮についにあの絶望的な太平洋戦争のなかにとびこんでいくと、私たちは一夜のうちに自己麻痺にでもかかったかのように、抵抗意識をすてて、一種の聖戦意識にしがみついていった。
高杉一郎「『文芸』編集者として」(『文学』1958.4)

昨夜はNHKで放送されていた太平洋戦争の特集番組を観ました。昭和史の専門家というわけではないので内容の批評は控えますが、その中でくり返し「あの戦争では、日本人だけで310万人の方が亡くなりました」という言葉が出てきたのに対し、その「日本人」とは一体誰のことを指しているのだろう、ということをぼんやりと考えていました。
もちろん戦争体験について語ることは大切なことでしょう。そのことに異存があるわけではありませんが、紋切り型の「戦争体験談」を聞いていると、どこかあの戦争を「日本人の悲劇」として囲い込もうとする心情が入り込んでいるのではないか、という疑問がわいてきます。他者(アジア)の視線を欠いているという点で、また「私たち日本人」の境界を自明視しているという意味で、それは二重のナルシシズムに陥っているのではないか、と。
終戦の日」において戦争について多く語られ、「開戦の日」ではそれほどでもない、というこの偏りは何を表しているのでしょうか。政治学者の藤原帰一は『戦争を記憶する』のなかで「敗戦後の戦争認識には、しかし、いくつかの共通した特徴があった。第一の特徴は、戦争が、国家とか国民の経験ではなく、個人の経験として語られるようになった、ということである」と述べています。つまり、中国人やアメリカ人から責任を問われることのない被害者としての立場から「みんな苦労した」という共通の記憶を語りあうだけで、国民としての立場は、つまり戦争責任を負う国家とのかかわりは切り離されてきたのではないか、と述べているわけです。もしそうであるならば、「終戦の日」における「みんな苦労した」個人的かつ内輪的な語りを相対化するものとして、「開戦の日」における「国民は国家にどうコミットして行ったのか」についての語りもまた重視されなくてはならないと言えるでしょう。


それで冒頭の引用文に戻るわけですが、12月8日の歴史的意義とはまず、日中戦争に対する大規模な忘却だったのではないか、と僕は思います。例えば昭和九年に中国文学研究会を立ち上げた竹内好は、当然のことながら日中戦争に対する不満をつのらせ、大東亜文学者大会への参加を拒絶するという内面の抵抗を行います。しかしその竹内でさえも、日米開戦の翌月には以下のように書いているわけです。

わが日本は、強者を懼れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露がこれを証かしている。……この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。
―「大東亜戦争と我等の決意」『中国文学』1942.1―

彼はその後徴兵され、自身が「一個の犠牲」と称した日中戦争へ参加することとなります。戦後の竹内の仕事というのは、ある面においてはこの文章を否定し、別の面においては肯定する作業であったと言ってもよいでしょう。そのひとつであり、また竹内の代表作でもある「近代の超克」という小論では以下のように書かれています。

支那事変」とよばれる戦争状態が、中国に対する侵略戦争であることは、「文学界」同人をふくめて、当時の知識人の間のほぼ通念であった。しかし、その認識の論理は、民族的使命感の一支柱である
「生命線」論の実感的な強さに対抗できるだけ強くなかった。

亀井勝一郎は戦後の回想で「満州事変以来すでに数年たっているにも拘らず、『中国』に対しては殆ど無知関心ですごしてきた」と述べていますが、日本の知識人におけるこのアジア認識の浅さこそが問題であった、と竹内は述べています。だからこそ、日本人は中国に対して「たかをくくって」臨み、本当の敵は米英だけだと考えることができたのだ、と。
竹内は大アジア主義について「侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味で健全ではある」とかなり危ない表現で評価しています。しかし、ここでも竹内の「アジアに対する無関心がアジアに対する加害性を隠蔽した」ということへの問題意識が反映されていることは見失ってはならないでしょう。


小説家・永井荷風は『断腸亭日乗』のなかで開戦3日後の世相について以下のように書いています。

十二月十一日。晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子いかがならむと午後に往きて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談亦平日の如く、不平もなく感激もなく無事平安なり。余が如き不平家の眼より見れば浅草の人達は尭舜の民の如し。

ここで永井は「戦争が始まったというのにのん気なやつらだ」という風に庶民を見ているわけですが、一部の知識人を除けばこれが標準的な態度だったのではないか、という気がします。少し時代は戻りますが、1940年に近衛文麿の有力なブレーンであった三木清は、出征兵士の送迎に熱狂したのと同じ人間が「家に帰ると、国家のことはまるで忘れてしまったかのやうに、買い溜め、売惜しみ、闇取引」に精を出していることを批判しています(「国民性の改造」)。「国民」としての自己と「生活者」としての自己を使い分けながら庶民は生きていたわけです。
戦後民主主義のイデオローグである丸山真男が1940年の段階において

一旦安定状態が破れて非常状態に移ると、もはや法則は多少とも妥当性を失う。具体的情勢に即した具体的処置のみが事態を救いうる。……だから逆に言えば統制が経済法則を考慮しなければならない間は、その統制はたかだか旧経済機構の修繕の意味しか持たず、それ自身新しい経済体制樹立という「大事」の主体的媒介者たりえないわけだ。従来の統制は客観的には前者の範疇に属するに限らず恰も後者に属するが如くに振舞ったところから色々の困難や摩擦が発生したのだろう。幸い近衛内閣の下に漸く後者的意味での統制確立の機運は熟してきた。

という風に、全体主義という例外状況を利用した、国家に対して能動的に関ろうとする「国民」創出に希望を抱いていたことは、現在ではあまり知られていません。戦争という危機において人は国家に対して無関心ではいられないだろう、と。丸山が戦時中に書いた『日本政治思想史研究』でも

なんらかの社会的変動によつて支配的対場にあつた社会層が自らの生活的基礎を揺がされたとき、はじめて敏感な頭脳に危機の意識が胚胎し、ここに「政治的なるもの」が思惟の前景に現れ来る。しかるに他方社会が救ひ難い程度にまで混乱し腐敗するや、政治的思惟は再び姿を消すに至る。それに代つて蔓延するものは逃避であり頽廃であり隠蔽である。この中間の限界状況(Grenzsituation)にのみ、現実を直視する真摯な政治的思惟は存立しうる。(130 頁)

と書かれています。丸山は幕末という「中間の限界状況」における「政治的なるもの」の前景化を、同じような「中間の限界状況」である戦時期において再現しようとしたわけです。
しかし実際は、永井荷風三木清が慨嘆したように、戦争が始まってもなお「国民」は生まれなかった。そのことが丸山の戦後の転向を準備したのではないか、と思われます。


参考文献

日本とアジア (ちくま学芸文庫)

日本とアジア (ちくま学芸文庫)

アジア/日本 (思考のフロンティア)

アジア/日本 (思考のフロンティア)

戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在 (講談社現代新書)

戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在 (講談社現代新書)

太平洋戦争の歴史 (講談社学術文庫)

太平洋戦争の歴史 (講談社学術文庫)

それと、今回はまったく触れませんでしたが、日米開戦に到るまでの政治過程については森茂樹「大陸政策と日米開戦」『日本史講座』第9巻(東京大学出版会、2005)がコンパクトにまとまっています。