京都に帰ってきました。実家にも「帰る」けど、京都にも「帰る」。
実家にいる間は、犬と遊んだり、犬と散歩したり、犬の食事を世話したり、あと稀に本を読んだりしていました。うちの犬は世界一可愛いと思うのですが、おそらくみんな同じ事を考えているでしょう。当分は最近読んだ本の話でも書こうと思います。

柴村仁『プシュケの涙』

プシュケの涙 (メディアワークス文庫)

プシュケの涙 (メディアワークス文庫)

・この作品のどこが評価されているのか、私には全然わからないです。前半と後半の2部構成になっていますが、どちらも予想を立てて「こうでなければいいな」と思ったらその通りでした。生きていくなかで経験する様々な「取り返しのつかない出来事」、それを前半では主人公と幼なじみの少女との関係において、後半では物語と読者との関係において鮮やかに描き出したと思いますが、端的にいってその「書き方」が肯定できない、というのが私の評価。
・失われた記憶は、どこに留まるのだろうか。あらゆる出来事は大気のなかのミームによって記録され、誰かに読み解かれる日を待っている・・・・・・『最果てのイマ』の主人公が語ったように、それは「救われる考えだ」。しかし、高密度に圧縮された情報は、解凍に困難を伴う。
残された言葉は解釈者を通過することで変形され、意図は正しく伝わらない。しかし、解釈者が存在しなければ言葉は拡散し、無かったのと同じことになってしまう。記憶を扱うあらゆる技法のなかで、小説はその一般的理解に逆らい、言葉と意図との幸福な一体性を読み手に感じさせる希少な媒体である、と言えるだろう。しかし、それもまた「技法」でしかない。
・『お稲荷さま』第1巻に描かれた、主人公の母親の幽霊。そして今作での、虚構の前半、真実の後半という対比。しかし、今作において描かれた「真実」とは何だったのだろうか。物語を動かすもっとも重要な「真実」は、実は何も明らかになっていないのではないか。飛び降りた(と解釈される)少女の声は、解釈者を通してしか聞くことができない。しかし、そのことが問題だというわけではない。その絶対的な声の遠さは後半の「真実」をよそよそしく感じさせる。それは技法でしかないのだ、と。
・どうやら自分は、前半に関しては割と気に入っているらしい。ある人物は「トラウマって言葉を免罪符にしようという考え方、好きになれない」と語る。辛い記憶はトラウマのように回帰する一方、見知らぬ他者との接点にもなる。その両義性を粘り強く思考するところに、前半の良さがあったように思う。それに対して後半は、意味のわからないギミックを除けば、むしろ自由すぎたのではないか。
・続編が出ているらしいので、そちらは期待している。