『社会の発見』論の現在―戦後歴史学における1920年代史(抄)


近代日本において「社会」という概念装置がどのような社会的状況の中から現れ、そしてどのような役割を果たしたのか。このような問いにたいして、人によっては1920年代における吉野作造の思想的転回について想起するのではないか、と思われます。
吉野は明治38年の時点において「吾人の観る所に依れば国家といふも社会といふも全然別個の観念にあらず。……統治なくしては社会は成り立たざるが故に……社会と国家は別物に非ず」と述べていますが、要するにこの時点の吉野にとっての社会とは、国家という全体性を前提としたうえで、そこから零れ落ちてしまう余剰のようなものでしかなかったと言えるでしょう。それが1920年代に入ると「法律と武力即ち一言にして言へば権力」を根本原理とする「国家」と、それよりも広いカテゴリとしての「社会」とが明確に区分されるようになる[吉野1921]。それをより広い文脈に位置づけるならば、明治期の自由民権運動や日比谷焼き討ち事件に代表されるような「国家対個人」という図式に代わって、日清・日露戦争後に噴出し始めた社会問題に対してどのように対処するかが重要な問題になってくる。それに対応して、明治29年の社会問題研究会の結成(翌年に社会政策学会と改称)、32年の『日本之下層社会』の出版に象徴されるように、明治期においてまず統治権力の関心の対象としての社会が発明され、大正期においてそれをより能動的な形で、つまり社会問題の解決主体として社会が発見された、ということになります。
一般的には以上のようなものとして理解されている「社会の発見」論についてですが、直接的には社会学者・杉森孝次郎が『中央公論』大正10年7月号に寄稿した「社会の発見」という論説、あるいは福田徳三の大正11年の著作『社会政策と階級闘争』の第1章「「社会」の発見」など同時代の認識に由来するものであると言えます。ただ、それを日本近代史の主要な問題として対象化したのが、飯田泰三の1980年の論文「ナショナル・デモクラットと『社会の発見』」であるということ、これも衆目の一致するところではないかと思います。
この論考で飯田は次のように述べています。「吉野にかぎらず“大正的”思想状況一般を特徴付けるメルマークとして、「社会」と「人間」の発見をあげることができる。……それまで「御国のため」意識の陰にかくれてあらわにならなかったヨリ基底的な“生”の諸相が対自化されてくるのである。それは一方で、「弱肉強食の生存競争」下にある「実生活」の現実を対象化してゆく志向を生み、やがて「社会の発見」にいたる。他方、ネーションとの一体感を喪失して「何のために?」という問いに「煩悶」しはじめた青年層の一部が「人生」の真実と「自我」の「生命」感を求めて問題を内面化してゆく過程で、「人間」としての自己、「人格」としての主体を発見するにいたる。このような“「社会の実証的対象化”志向と“「自我」の内面的主体化”志向の成立とともに“明治的なナショナリズムの解体”は決定的なものとなるのである」[飯田1980]
このような個人の自立化と、自立した個人によって組織される社会、そして個人の内面を守るためにネーションと対峙する社会、というリベラリズムにひきつけた図式は、その後の研究において繰り返し批判されてきました。たとえば長谷川如是閑を題材とした事例研究での「〔先行研究に対する〕第一の疑念は、「社会の発見」その思想的意味をもっぱら国家的価値の相対化に求めている点である」とか「そこでの社会概念は、西洋近代に典型的な「市民社会」観をあまりにも無批判的に受け入れているように思われる」[織田2007]という類の批判です。しかし、そのような批判は、実はあまり的確なものではない。なぜなら、社会史の研究者であれば誰もが少なからず感じているように「「国家」「社会」「人格」といった概念の定義は、各論者によってまちまち」[武藤2009]である、というのがひとつ。もうひとつは、後述するように飯田の議論というのは、近代日本が結局は市民社会の形成に失敗したという事実から出発し、その原因というか起源を1920年代における「社会の発見」に求めているということ、つまり明治的なナショナリズムから解放された人々が再び集まって結社を形成するのではなく、孤独な個人の集積として大衆社会を形成してしまったことを批判することに力点が置かれているからです。大正期における社会概念と市民社会とがイコールで結ばれていたと飯田が主張していたわけではありません。
(付記:織田氏が直接批判しているのは石田雄氏の著書であり、飯田論文は「社会の発見」論の典型として触れられるにとどまっているので、ここでの批判は幾分アンフェアなものでした。2014/3/7)
以上のような議論の齟齬についてはあとでもう一度触れるとして、ここでは田中希生による「社会の発見」論そのものへの批判にも目を通しておきましょう。田中氏は次のように述べています。「「社会の発見」という言いかたは、戦後の社会研究の背負った病巣の根深さを物語っている。そもそも、吉野のそれが発見に見えるのは、彼が、戦後の研究者が暗黙に前提している「社会」概念と同じもの……を論じているからであろう。……別に吉野のいう「社会」だけが社会ではなく、たとえば社会進化論という形で、「社会」言説の背負わされてきたさまざまな欲望に応じて、明治期にも多様に展開されているのである」[田中2009]。この批判に対して反論するべき点は、ほとんどないように思われます。先述したように「社会の発見」という言い方自体は大正期においてすでに使われているので、その言い方自体を戦後の研究者の責任に帰するのはやや不当な見方かもしれませんが、しかし、ここでの田中氏の批判で決定的に重要な点は、「社会」概念にこめられた意味は流動的なものであるというだけではなく、そのような概念を認識する主体そのものが歴史的な制約を受けていることに対して、戦後の研究者たちが無自覚であったことを指摘している点ではないかと思います。このような主体の歴史的拘束性を取り逃がしてしまうとき、「社会」史はいかに概念をめぐる解釈の多様性を描いたとしても、結局は従来の思想史となんら変わるところがなくなってしまう。田中氏の批判というのは、おそらくそのように受け取るべきなのでしょう。
では、このような主体の歴史性を含みこんだ形で議論を建て直し、改めて「社会の発見」の意義について論じるとすれば、そのための視座としてはどのようなものが考えられるか。また、90年代後半以降、飯田論文に対する批判において典型的に現れているように、西洋の市民社会概念にひきつけた形での「社会」への理解が批判にさらされながら、同時に日本近代史における重要な画期として20年代における「社会の発見」への注目がむしろ高まりつつあるということをどのように理解すべきなのか。私の研究ではこのような社会の自己認識をめぐる問題、すなわち「社会」史という視点から、われわれが大正期、特に1920年代に対して具体的にどのような歴史像を与えることができるのかについて考えてみたいと思っています。



まずは近年の「社会」史を代表する論者として挙げられる、医療社会学者・市野川容孝氏の研究を見てみましょう。市野川氏が注目するのはJ.J.ルソーが『社会契約論』のなかで書いた次のような一節です。「この〔社会契約という〕基本的な契約は、自然の平等を破壊するものではなく、自然が人間にもたらすことのある自然の不平等の代わりに、道徳的および法律的な平等を確立するものだということである」。すなわち「社会」という言葉が本来もつ、平等を志向する規範的側面です[市野川2004]。例えば20年代以降の吉野作造は「社会」という言葉を明らかに二重の意味で使っていて、ひとつはわれわれが生活している現在の社会、もうひとつは将来において訪れる、アナーキズムさえも許容するような「権力無くして完全に治まるやうな社会生活」。市野川氏はこの後者の側面に注目して、社会とは単なる分析的概念、すなわち社会学的な概念ではなく、あるべき社会を記述する概念でもあると主張します。しかし、社会のもつこのような意味は現代ではほとんど忘れられており、「社会」主義政党の衰退、「社会国家」という概念の登場によって「社会」という言葉そのものがきわめて影の薄いものになってしまっている。ゆえに「「社会」あるいは「社会的」という言葉によって何を考えるべきなのか、あるいは何を考えることができるのか――今の日本の状況に照らせば、ある種、反時代的な考察にならざるをえない」のだ、と[市野川2004]。
政治学者の杉田敦氏も、思想史家・市村弘正氏との対談で同じような趣旨の発言をしています。「それにしても、今日、社会というものはどうも影が薄い。他方、市場というものは、厳然としてあると考えられている。また、国家というものも、最近の国際情勢のなかで、むしろ再発見されているような風潮さえある。……そうしたなかで、社会というものを叩いていいのか」。ここで杉田氏が「叩いていいのか」と悩んでいる「社会」とは何か。端的にいえば、丸山眞男のことであると言えます。引用文ばかりが続いて恐縮ですが、先の杉田発言よりも少しまえにされた、市村弘正の発言を拾ってみましょう。
「この社会という概念は非常に新しいものです。たとえばレイモンド・ウィリアムズによれば、社会とは明らかに近代のものです。……そして、今や、この言葉をイノセントなものとして使えないということは、社会学者の間では一般的な了解事項になっているようです。それは、社会というものが、社会国家、さらには福祉国家とほとんど入れ替え可能なようなものになってしまっていることと関連しています。……しかし、そのようにいうことは、逆に、ある時点より前なら、社会という言葉をもう少しイノセントなものとして使えた、ということになります。つまり、国家と社会という二分法が成立していた時代です。……国家に対抗して、私的な、あるいは内面的な領域を守る、という使用法です。たとえば、丸山眞男氏などは、日本では国家権力に対して私的、内面的な領域を守るためのバリアーが非常に脆弱だ、と指摘していました」と。
確かに丸山は1990年の対談で長谷川如是閑に触れながら「近代の歴史ってのは、国家から社会がはみ出していく過程なんです」とか「社会ってのは国家に対立するものなんです。だからこそ、インターナショナリズムになるんです」などと述べており、杉田や市村の丸山観というのは、おおむね正当なものであると思われます。ただ、実際にはもう少し複雑な問題があるのではないか。というのも、石田雄が指摘しているように、丸山自身は国家と対立的に向き合う社会、すなわち市民社会という言葉をほとんど使っていないだけでなく、日本における市民社会の生成に対してきわめて悲観的な見通しを持っていました。丸山の用語法については石田氏の論文に詳しいのでここでは触れませんが、例えば1968年の論文「個人析出のさまざまなパターン」を読むかぎりでは、丸山が社会というものを個人によって組織される自発的結社の集合とみなしており、そのような自発的結社すなわちアソシエーションが日本においては十分に発達していないと考えていたことが伺えます。特にこの時期の丸山の批判的な視線が、後に飯田泰三によって「社会の発見」の時代とされる大正時代に向けられていることは注目に値するといえるでしょう。丸山によると、大正時代には家族主義的な労使協調の理念が打ち出され、組合の組織が妨害され、会社への個人の没入が求められることになったと。また、無秩序な都市化は、都市の住民意識を育てることなく、都市化はすなわち原子化した個人の集合としての「雑然たる無秩序」を生み出すことなる。「そうして東京のようなマンモス都市の現実の姿が、およそ結社形成型の個人析出もまた存在するのだという観念を人々になじみうすいものにさせているかぎり、政治的・社会的な無秩序や隣人連帯の欠如が直ちに個人析出一般と同一視されるような心理的素地はいつも用意されている」[丸山1968]と丸山は結論づけるわけです。
このような1920年代に対する否定的な見方というのは、酒井哲哉によって既に指摘されているように、戦中期に思想形成を行った知識人層の間ではかなり広範に共有されたイメージであったと言えるでしょう[酒井2007]。とくに丸山の場合、先行する世代である南原繁らの国家社会論に対する反発というものが彼の議論を規定していたことは想像に難くありません。新カント主義の影響というものが南原を含めたこの時代の多くの論者に認められるわけですが、その特徴について簡単にまとめると、第一に価値と存在、経験と規範という風に二元論的な思考法をとっていたこと、第二に、そうした二元論的な考え方をとりつつ、人間がその本来的な社会性、価値志向性によって不断に価値を追求し、文化を作り出していくことに人間の人間たる所以を見出していること、第三に、こうして人間が追求する諸価値の間に上下の関係を設けない価値多元主義的な立場をとっていること、とりあえず以上の点が挙げられるかと思います。しかし、特に南原の思想において顕著に見られる内在的かつ超越的な価値を志向する態度に対して、丸山はその意義をある程度認めながらも、やはりその非現実性に対する違和感というものを隠せないでいます。「さきのような南原先生の「警告」が、いかに「実践的」に思い当たったにしても、そうした「非歴史的」もしくは「超歴史的」な立場が態度決定のうえで実証した強みを、思想史をふくむ歴史的アプローチのなかに学問的にリンクさせるすべをついに見出せないまま、私は1944年に、応召によって研究生活から引き離されることになりました」と[丸山1978]。
ただ1960年ごろから「大正デモクラシー」という用語が流通しはじめることからも分かるように、現代社会の起源として1920年代を見るという見方が生まれてくることも見逃せない点ではないかと思います。しかし、その場合でも藤田省三のように「戦後の精神状況である「デモクラシー主義」(民主主義の原理を絶えず空疎な建前へと風化させていく「言葉の濫用」)はそのあらゆる領域において「原型」を「大正デモクラシー」の確立過程の中に持っている」という風に、ネガティブな起源として考えられる傾向があったことは念頭に置いておくべきでしょう。



むろん、このような傾向は60年代の後半以降徐々に変化していったことは間違いありません。この点について詳述する余裕はありませんが、ひとつには丸山真男において市民社会と対置される形で否定的に捉えられてきた、原子化された個人の集合として大衆社会、これが安保闘争をくぐり抜けることで、いくらか肯定的な意味を帯びてきたということ。もうひとつは1969年の衆院総選挙での日本社会党の大幅な議席数低下に象徴されるように(140から92)、日本社会の半封建制、近代化の未達成を主張する講座派パラダイムの影響力が失われてくる。このような状況のなかで、ある程度近代化の達成された日本のポジティブな起源として大正デモクラシーが注目されるようになってくるわけです。
その具体例として、福田徳三に対する評価の変化について見ていきましょう。講座派パラダイムのもとでの福田評価というのは、おおむね以下のようなものだったといわれています。大正期の社会政策思想は戦前日本資本主義に対する批判を貫徹しえず、むしろ倫理主義に傾くことで家父長制的天皇制のもとでの労使協調論を補強する役割を果たすことになった、と[加茂1985]。しかし、1970年ごろから福田徳三に対する再評価の動きが出てきます。例えば池田信による以下のような評価です。「社会保険・公的扶助の具体的検討や社会保障への展望が不十分であること、団体交渉の経済理論は徴視的で静態的なものにとどまっていることなど、彼の理論にはなお批判・検討すべき点が大きく残されているが、国家独占資本主義期の社会政策思想=福祉国家論へと導くことができるような視点と方法とをすでにそなえていることは注目に値しよう」。ここで池田が特に注目を与えているのが福田の「生存権」という概念なのですが、要するに福田徳三は社会政策の基礎を、従来言われてきたような国家の利害を優先した労使協調政策ではなく、社会法としての生存権に求めていたということ、そして国家がそれを承認することを通して福祉国家へと変容していくという展望をもっていたのだと、池田はそのような評価を福田に対して与えます。このような福田に対する評価が、保守政党福祉国家論を綱領に盛り込んだ1950年代ではなく、中曽根内閣を経て福祉の削減が進められる70年代80年代に現れるということに一見奇妙な印象を受けますが、とはいえ日本の福祉制度はそもそも雇用保障に主眼が置かれており、80年代においても公共事業を通した雇用維持という福祉の枠組みは変化していませんでした。その意味では経済への国家の積極的介入を正当化する「生存権」という原理は、「社会保険・公的扶助の具体的検討や社会保障への展望が不十分である」という欠点も含めて、当時の国家と社会の関係がそのまま大正期の社会政策思想に投影されていたと言えるのではないかと思います。
しかし、このような国家と社会との重層的構造を前提とした駆け引きのあり方というのが、1990年代の後半から成り立たなくなってくる。ここでようやく先に引用した市野川や杉田の社会認識へと立ち返ってくるわけですが、実はこの時期、杉田らによって否定的に言及されていた丸山真男もまた、同様の認識に達していたということに注意する必要があるかと思います。丸山は最晩年の1995年の座談会で以下のように述べています。「この頃、いよいよ本当の社会主義を擁護する時代になったなあ、という気がしてるんですよ」。では、なぜ社会主義を擁護しなければならないのか。丸山は国連改革の問題に触れながら、現在の国連が主権国家を唯一の単位としていることの問題性について「一方ではプルーラルな社会団体の、国家からの自主性を強化し、他方で国家を媒体にしないで直接に国際的に結合して地球社会の構成員になるようなシステムを考えるほかない。……ところが、国連改革というと、日本が安保の常任理事国になることくらいしか考えない。情けないですね。ですから、残るは社会主義だけということになる。まあ社会連帯主義といってもいい。かつての1920年代の多元的国家論など、再考の余地があります」と。無論、自立した個人によって組織されるアソシエーションへの注目は一貫しており、その帰結として多元的国家論というものが考えられることについては、特に不思議な点はありません。しかし、1920年代に対する評価が大きく変化していることは、やはり注目に値すると言えるのではないでしょうか。
何故このような変化が起こったのか。この点について丸山自身のテキストから確認することは難しいのですが、それは思想の内在的な変化というよりは、やはり社会状況の変化への対応という側面が強いのではないかと思われます。では、具体的にどのような変化がこの時期に、制度、言説の両面において起こっているのか。



まず福祉制度の変容について見ていく必要があるでしょう。先述したように80年代の行政改革においても枠組みそのものに変化はなかった日本の福祉制度ですが、90年代後半以降の「構造改革」路線のなかで大きく変容していくことになります。すなわち、これまでの雇用保障制度を水面下で支えていた特殊法人地方交付税の改革、公共事業の抑制が行われ、終身雇用制度に変わる新しいセーフティネットが求められることになります。では、どのような福祉制度の改革が行われてきたか。政治学者の宮本太郎は、それには二つの流れがあったと言います。ひとつは「財政の逼迫を強調し、給付水準と自己負担の拡大を進める流れ」。もうひとつは「より普遍主義的な制度への転換を目指す流れ」です[宮本2008]。普遍主義的な制度というのはつまり、貧富に関係なく必要に応じてサービスを受けられるような制度への転換だと理解できますが、たとえば介護保険制度がそうであるように、社会内部の解決能力の不備を国家が補わざるを得ないような領域は拡大しつつあり、一般的な傾向として人々の福祉国家へのニーズは高まり続けている、と言えるでしょう。
このことと関連して、宮台真司が「島宇宙化」と呼ぶところの社会の断片化というのも無視することができません。それは村落共同体や労働組合のような拘束的な中間団体の解体を通して達成されたことである以上、民主化の進展にともなう不可避的な現象なのですが、やや悪意をもった言い方をすればポピュリズム化が進展していると言えます(この点については[三浦1999][宮台2000][鈴木2005]などを参照)。
このような福祉領域の拡大と個人の孤立化によって、国家に対置される固有の領域としての「社会」は弱体化し、個人は直接国家と対峙することになる。そのことは当然国家の存在感を増大させることになるのですが、一方でそれは国民ひとりにつきひとつの政府を究極とする、いわば国家のサービス業化の傾向を助長することになります。
どうも延々と本筋と関係のない話をしているように思われるかもしれませんが、おそらくこのような国家のサービス業化のなかに現代の「社会」をめぐる問題の核心が含まれているように思われます。つまり、国家のサービス業化によって人々は社会を構成することなく孤立して生活することが可能になるわけですが、一方でそのような個人の孤立化が福祉制度を成り立たせる基盤そのもの、つまり社会的連帯を危うくすることは言うまでもないでしょう。であるならば、我々はこの国家と社会との重層的構造を前提とした駆け引きが不可能になった現代においてどのような社会的連帯の形式があり得るのか。近年の「社会」をめぐる発言の多くはそのような関心からなされているように思われます。
おそらく、近年のアナーキズムに対する関心の高まりというのも、そのような視点から説明することができるでしょう。そのような状況の中で活発化している「社会の発見」論が多かれ少なかれ人間の共同性をめぐる問題を扱っているという点は、やはり注目に値するでしょう。酒井哲哉は近年の「社会」史をリードする論者ですが、彼においても大正期の「社会」認識とリベラリズムとの距離、それに対するアナーキズムとの近さに関心が向けられています。つまり「日本の場合、多元的国家論が提起したような問題は、協同体的社会構成に引きつけて理解される傾向が恐らく強かったのではないか。その意味では、寧ろアナキズム的な大正社会主義の視点から、「多元主義」を読み直す発想が必要ではないかと思われる」ということです。
酒井はその一方で、このような社会認識のあり方が帝国主義と相補的な関係を持ってしまったことを重視してします。つまり「「国際主義」と「帝国主義」は紙一重であり、「社会的」なるものは直ちに「自由主義的」とは限らない」と。先に述べた現代社会に対する一般的な危機意識がここにも反映されていると考えるべきでしょう。「社会」というものが不可能になった時代において、しかもそれが一概に否定すべきものでもない時代において、なお社会というものが構想されるなら、その基盤はどこに求められるのか。戦争へと突入していく1930年代とのかかわりを意識せざるを得ない1920年代史は、そのような両義的な問いと、ある種の類似性を持っているといえます。市村弘正の言葉を借りるならば、「「1920年代」には、短絡志向に真向から対立する考え方――空洞どころか「廃墟」にとどまり、そこから考える思考の手だてもまた与えられているのである」と。我々が今後行おうとしている「社会」史もまた、そのような認識を背景として進めていくことになるでしょう。



引用文献
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石田雄「丸山眞男市民社会」1997年講演(『丸山眞男との対話』、みすず書房、2005年)
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市村弘正杉田敦『社会の喪失』中公新書、2005年
織田健志「共同性の探求―長谷川如是閑における「社会」概念の析出」『同志社法学』59(2)、2007年
加茂利男「「大正デモクラシー」と社会政策思想―福田徳三論覚書」平井友義他編『統合と抵抗の政治学』有斐社、1985年
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酒井哲哉「国際政治論のなかの丸山真男―大正平和論と戦後現実主義のあいだ」『思想』988、2006年a
酒井哲哉「「帝国秩序」と「国際秩序」―植民政策学における媒介の論理」同編『岩波講座「帝国」日本の学知』岩波書店、2006年b
鈴木謙介カーニヴァル化する社会講談社現代新書、2005年
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藤田省三大正デモクラシー精神の一側面―近代日本思想史における普遍者の形成とその崩壊」1959年(『藤田省三著作集』第4巻、みすず書房、1997年)
丸山眞男「個人析出のさまざまなパターン―近代日本をケースとして」1968年(『丸山眞男集』第9巻、岩波書店、1996年)
丸山眞男「思想史の方法を模索して−一つの回想」1978年(『丸山眞男集』第10巻、岩波書店、1996年)
丸山眞男他「如是閑の時代と思想―丸山眞男氏に聞く」1990−1991(『丸山眞男座談』第9巻、岩波書店、1998年)
丸山眞男他「夜店と本店と―丸山眞男氏に聞く」1995年(『丸山眞男座談』第9巻)
三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』講談社現代新書、1999年
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宮本太郎『日本の生活保障とデモクラシー』有斐社、2008年
武藤秀太郎「異端の大正デモクラシー―福田徳三と吉野作造」『近代日本の社会科学と東アジア』藤原書店、2009年
吉野作造「木下尚江君に答ふ」1905年(『吉野作造選集』第1巻、岩波書店、1995年)
吉野作造「現代通有の誤れる国家観を正す」1921年(『吉野作造選集』第1巻、岩波書店、1995年)
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