tukinohaの絶対ブログ領域

2013-09-28

[]歴史用語における「変」と「乱」の違いについて 歴史用語における「変」と「乱」の違いについて - tukinohaの絶対ブログ領域 を含むブックマーク

一般個人が適当なことをつぶやくのはともかく、メディアがそれを鵜呑みにして適当な情報を拡散させるのはいかがなものかと。

ツイートによると、「変」は「成功したクーデター。成功して世の中が変わった、という勝者の視点から」、「乱」は「失敗したクーデター。反乱が起きたものの鎮圧した、というこれも勝者の視点」とのこと。あと、ほかに「○○の役」というのもあり、こちらは「他国や辺境での戦争。他国からの侵略(元寇弘安の役)でも使われる」だそうです。

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ぱっと思いつくだけでも「壬申の乱」「応天門の変」「禁門の変」など上記の定義にあてはまらないものが多いようです。ただ、同じ事件を扱っていても教科書によって呼称が違うケースも多く存在し(「薬子の変」を「薬子の乱」と書く教科書もあるし、「禁門の変」を「蛤御門の戦い」と書くことも)、呼称の統一が図られてもその根拠が明確にされるわけではありません。また、研究状況の進展に伴って呼称が変化する場合もあります(「承久の変」から「承久の乱」へ、「ノモンハン事件」から「ノモンハン戦争」へ)。

武田忠利「歴史用語と歴史教育」(『歴史学研究』第628号)がこのような歴史用語をめぐる錯綜した状況を整理してくれているので、この論文に依拠して歴史用語の根拠について考えてみましょう。「(大化の)改新」や「(建武の)新政」「(明治)維新」など特定の事件にしか使われない用語を除くと、武力行使暴動を伴う出来事には以下の用語が付けられます。

乱・変・役・戦・出兵・寇・合戦・事件・事変・戦争・征伐・征討・動乱・内乱・擾乱・一揆・騒乱・騒動・進駐・蜂起・闘争

特徴としては

1.変・乱・役・戦・合戦などの用語は明治初期までで、その後は使われないこと。とくに古代では変・乱が大部分を占める。

2.事件は明治以前には使われず、明治以後には国内・国外を問わず事件が使われること

3.民衆運動については前近代には一揆、近代以降は騒動が使われること

などが挙げられます。しかしこうした特徴に明確な根拠があるかといえば……

今回問題とされた「乱」と「変」の違いですが、武田氏は「乱が支配的政治体制の変革にも及びかねない反乱事件を含むのであるのに対し、変は政治的支配層の内部でおこった権力闘争に過ぎない事件である」という安田元久氏の見解、「相対的に短期間の、政治的・社会的な変動を伴わない支配層内部の権力闘争を『変』」とする木村茂光氏の見解を検討しつつ、近代に入ると士族反乱を最後に「乱」が使われなくなることから「乱」は武士身分やそれに準ずる僧兵などを主体とした国家権力への反乱であること、基本的には双方が武力衝突を予期した事件であり比較的大規模な事件であるか、もしくは不意に生じた小規模な事件がその後大規模な衝突に発展した場合などを「乱」の特徴として挙げています。

とはいえ、結局のところ歴史用語はデファクトスタンダードなので、どうしても漏れは出てくるし、「乱」を大規模な武力反乱、「変」を支配層内部の権力闘争と定義しても、どこまでを「大規模な武力反乱」と考えるかという事実評価の問題も絡んでくるので、厳密に定義するのは難しいようです。「禁門の変」と呼ぶか「蛤御門の戦い」と呼ぶかは、出来事の規模や性格(コップの中の争いと考えるか、倒幕などより大きな体制変化とつなげて考えるか)などの評価とも関連するわけです。「承久の乱」も戦前は「承久の変」と呼ばれていましたが、これは戦前「天皇はつねにもっとも尊い存在なのだから『反乱』を起こす道理がない」と考えられていたため。鎌倉幕府内部での権力闘争も「和田合戦」や「宝治合戦」「霜月騒動」など「乱」が使われていませんが、これについて武田氏は「鎌倉幕府内部の権力抗争は、私的内紛とみなされ、国家権力に対する反乱とは異なるものとして扱われてきたことを示している。……鎌倉幕府は単なる地方政権にすぎないという認識が反映されているのか、江戸時代お家騒動と同程度の扱いである」と述べています。

2013-04-15

[]徳川綱吉の再評価について 徳川綱吉の再評価について - tukinohaの絶対ブログ領域 を含むブックマーク

世の中のほとんどの人間は、馬鹿でもない代わりにさほど賢くもなく、独創的なこともしない代わりに独りよがりなこともしない、ということは我々が日々実感するところですが、こと歴史に関しては「名君/暗君」「文明/野蛮」「進歩/退嬰」の二分論で切り分けたくなるのもまた然り。専門の歴史学者もこうした二分論から完全に自由にはなっていないのですが、しかし、これはちょっと如何なものかと。

いま使われている歴史の教科書では聖徳太子の事績や実在に疑問がつけられたり、鎌倉幕府の成立が1192年ではなくなっている。「いいくに作ろう鎌倉幕府」は今や「いいはこ(1185年)作ろう鎌倉幕府」になっているのだ。

そして、教科書の変化で目に付くのは、人物評価の「上がった人」「下がった人」の明暗である

(中略)

劇的に評価が上がったのが、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉である。1988年版にはこうある。

〈生類憐みの令をだして犬や鳥獣の保護を命じ、それをきびしく励行させたため、庶民の不満をつのらせた〉

綱吉はぜいたくな生活をするようになり、仏教への信仰から多くの寺社の造営・修理を行い、幕府の財政を急速に悪化させた〉

みなが知る暴君の印象を強めるものだったが、現在では180度変わった。

〈犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた〉

 悪法とされてきた生類憐みの令が、〈綱吉政権による慈愛の政治〉とまで褒められている。『教科書から消えた日本史』の著者で、文教大学付属高校講師の河合敦氏は「綱吉ほど近年の研究で教科書上の評価が変わった人物はいない」という。

徳川吉宗が「暴れん坊将軍」になったように、「憐れむ坊将軍」が時代劇になる日も近いかもしれない。

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実際に教科書を見ていないので何とも言えないのですが、「綱吉政権による慈愛の政治」なんて露骨な褒め方を教科書で書きますかねぇ。綱吉政権の評価がここ30年ほどで大きく変化したのは事実ですけど、言えたとしても「生類憐みの令のような法令も一応合理的に解釈できる」という程度。

あと、綱吉政権を「戦国の気風を残した武士の武装解除」として評価する動きもあるそうですが、それくらいのことなら、ちょうど30年前に塚本学氏が生類憐みの令と諸国鉄砲改めの共時性だとか、傾奇者が反権力の表現として犬を捕まえて煮て食べた話だとかを書いているので、割と今更感が。

生類をめぐる政治――元禄のフォークロア (講談社学術文庫)

生類をめぐる政治――元禄のフォークロア (講談社学術文庫)

最近講談社学術文庫に入りました。名著なのでみなさん読むよろし。要点をまとめると以下のような感じでしょうか。

0.生類憐みの令は犬対策が中心ではない。

1.綱吉政権の時期は人と動物の関係が大きく変化する時期であったということ

新田開発が進み、山間部まで人が住みようになり、鳥獣害対策が深刻な問題になる。そうした事情もあって、当時の農村にはかなりの鉄砲が存在していた。そうした人々は戦時には足軽にもなり得るため、取り締まりを行う必要があった。そうすると、農民自身に代わって為政者が動物の取り締まりを行う必要が出てくる。

2.将軍権力が山野を支配する方法の変化

8−9世紀ごろには天皇家が許可したもの以外の鷹狩が禁止されているが、鷹狩は土地の利用や鳥獣に対する支配を示す象徴的な意味があったと考えられる。信長以降、狩場の保護のため鉄砲の利用を禁じる例も見られる。しかし綱吉政権の時期には幕府や諸藩の鷹制度は縮小されつつあった(費用など多くの原因が挙げられる)。のちに出された生類憐みの令は、狩場の保護のように生類を「獲物として」保護するのではなく、生類への慈悲という、より普遍的な原理に基づいて保護することで、山野を支配をする幕府の権威を「鷹狩とは違った形で」表現する試みであったと考えられる。

吉宗政権の時期に鷹狩は復活するが、かつてのように幕府の鷹制度は全国に及ぶものではなく、関東に限定されたものとなった(藩領の支配は藩に一任し、幕府が介入しなくなったことの表れ)。

3.憐みの対象となった生類は、幕府による管理の対象でもあったこと

犬の保護よりもはるかに徹底されたのが、捨子・捨牛馬の保護であった。その意味では、生類憐みの令が「人の命を軽視し動物の命を重視した」という批判はあたらない。ただ、ヒューマニズムに基づいて出されたというわけでもなく、捨子に関しては「農村における小家族の成立=親方の庇護を離れ、家族の内部で子供を育てなければならなくなった」という事情、捨牛馬に関しては「荷物運搬や軍馬としての利用など公的な役割を課せられながら、武士自身は牛馬を飼わなくなった」という事情などが背景にあった。

4.犬の保護と都市管理

鷹狩に用いる鷹の餌として、あるいは鷹狩の補助に犬は使われていた。こうした犬の飼育にかかる手間や費用は民衆にとって重い負担であったから、犬は怨嗟の対象ともなり、特に反社会的な傾奇者たちの標的にされた。こうした動きを幕府としては抑制しなくてはならなかった。また野犬問題も深刻化していた。犬関連の法令戌年に集中して出されるなど将軍の恣意的な思惑に左右される部分も大きかったが、傾奇者たちの反社会的行為を取り締まると同時に、犬小屋を設置し、人々に慈愛の心を要求するという目的があったと考えらえれる。しかし、この試みは失敗する。犬小屋の管理は江戸の民衆にとって重い負担であったし、農村においては狂犬病が深刻な問題であった。ただ、鷹狩の縮小とともに、犬を鷹の餌として使うことは無くなっていく。


といったところでしょうか。犬の保護だけは撤廃されますが、あとは大体不可逆的。

要するに綱吉は、所与の環境に対して、当時の教養人らしい反応をみせた結果ああいうことを行ったというだけの話で、名君か暗君かといった評価は割とどうでもよく、この時期の社会状況や政治の変化と関連付けて生類憐みの令を理解することが大事ということです。

chingechinge 2013/04/15 12:36 井沢元彦の受け売りだが、側用人制度を作り出した点で
政治的天才と言うことはできる。(院政のぱくりだけど)
日本人の生命軽視価値観を変えたという点では名君かもしれない

tukinohatukinoha 2013/04/15 20:03 井沢元彦の本を読んでいないのでわかりませんが、
綱吉政権の時期に戦国の気風が払拭されたというくらいの話なら塚本さんの本にも書いてありますし、「逆説」というほどの話ではないんじゃないかなぁ。

nisinisi 2013/05/18 19:41 側用人に切れ者の腹心を任命すれば将軍専制政治が
できるんだっけ。

tukinohatukinoha 2013/05/19 21:17 自分で調べてください。

2013-01-09

[]初詣の成立 初詣の成立 - tukinohaの絶対ブログ領域 を含むブックマーク

という論文を、高木博志さんが10年以上前に書いておりまして。私もその内容要約を別のブログに書いたことがあるのですが、お正月なので転載しておきます(手抜きの極み)。

要点:近世以前において正月、特に元日の過ごし方は千差万別であったが、一般的には家の中で歳徳神を迎える傾向が強かったと考えられる。それが、元日に行われる官公庁への拝賀と学校の元始祭を通して宮中行事と結びつき、元日のもつ特別な意味が社会に浸透していく。こうして国家的祭祀としての初詣が成立したのである。さらに初詣はその成立過程において「物見湯山」的な性格を強めていく。その背景には鉄道会社その他による商業的な狙いがあったと考えられる


まずは明治維新よりも前の元日の過ごし方を見ていこう。大正六年一月十五日付の『京都日出新聞』には「維新前の京都の正月」と題した、以下のような記事が書かれている。

「町屋では元日は戸を閉ぢて一日寝込むので、これを寝正月といつた。恵方棚を作り、にらみ鯛を竈の上に懸ける。鯛は夷の持物で赤は陽を表するからである。正月の活動は二日から始る。書初、謡初、廻札、商始、初乗初皆二日からである。(中略)恵方参りも賑つたが、殊に鞍馬の初寅詣は景気があった。寅の日は本尊出現の日とも、毘沙門天の縁日とも云つている」

元日はどこにも出かけず、家の中で歳徳神を迎えること。それと、近世の初詣と言うべき恵方参りが三が日とは関係なく、十二支に基づいて毎年違う日に行われていたこと。この2点は注目に値するだろう。

それに対して、江戸では屋内で歳徳神を迎える「年徳棚」の存在と共に、元日に「恵方参詣」が行われていたことが天保九年(1838)に刊行された『東都歳時記』に記されている。農村部でも三が日は家の中で休息する地方、元日から年男が神社に参詣する地方など多様な習慣が存在していたことが報告されており、近世の正月の過ごし方は千差万別であったと言える。ただ、一般的には柳田国男が以下のように書いている通り、家の中で歳徳神を迎える場合が多かったようだ。

元日だけは戸をしめ掃除もせず、家にこもって親子夫婦ばかり、和やかに静かに一日を送るのが、古風な正月の幸福であったと思われるのに、人が群がって住むようになると、まず早天から飛び出してやたらに訪問をする

――柳田国男「これからの正月」1941――

では、初詣という習慣はどのような過程を経て社会に定着したのか。1929年に刊行された矢部善三『年中事物考』には以下のように書かれている。

「既にして、元日早旦に、先づ上は宮中に於せられて御神事あり、その大御手振りのまにまに、全国の神社に於いて神事あり、国民の習礼として元旦の神拝がなければならぬ処である。(中略)此の風習は、やはり宮中に於る四方拝に起源を発して居るものらしく」

矢部が言うには、宮中において行われていた四方拝という儀式を国民が真似て作られるのが初詣である、ということだ。この単純な図式をそのまま受け入れることは出来ないが、初詣の成立において官公庁の果たした役割は注目される。


『京都日出新聞』の記事を参照しながら、その成立過程を辿っていこう。

まずは明治十九年の正月だが、大晦日に行われていた祗園社への参詣についての記事で「去年は十二時頃雑踏してお旅町より巡査が人力車を止むる程なりしも、一時過ぎには人足も稀となりたり」とあり、元日の参詣が行われていなかったことを表している。明治三十三年の段階でも「元日は魔が襲ふとて門戸鎖す家多かりしも、二日は皆晴れ晴れしく家門開け放ちたれば人出も従つて多く」とあり、元日は家に籠もる近世の習慣が続いていることをうかがわせる。

しかしその一方、官公庁や諸学校では早くから元日の行事が行われていた。

「また京都府庁は例により諸官員一同参賀に昇庁せしにつき庁前は馬車人力車にてさしも広き門前も暫時は往来を止むるくらいなりし、その他裁判所府立公立の諸学校に於ても例によりて門松注連飾をなし、いづれも新年の飾りをなしたり」

こうした元日の習慣は、学校を通して地域社会に広がっていく。明治二十四年に制定された「小学校祝日大祭日儀式規定」において、正月は「元始祭」として社会全体の年中行事に組み込まれるのである。

http://www1.jca.apc.org/anti-hinokimi/archive/chronology/senzen/shogaku910617.htm

なお、元始祭は明治三年に宮中で創始された新しい祭であることを付け加えておく。


以上のような過程を経て元日に特別な意味が付与されるようになったわけだが、それに伴って明治二十七年以降は恵方を知らせる記述が毎年元旦の新聞に登場するようになる。このことから、元日の恵方参りが一般化したことを知ることが出来る。

その恵方参りのあり方も変化していく。明治三十二年の記事では

「本年の恵方は寅卯の方なり、されば京都の真中六角堂頂法寺よりいへば、東丸太町の熊野社、聖護院お辰稲荷、壇王の東にある法皇稲荷、平安神宮、吉田神社なるべし。(中略)それとも屠蘇に酔ふた人は神棚を仮に家の寅卯の方に移して拝んで置くも差し支えなからん」

とあるように、正月参り=恵方参りという意識がうかがわれる。ところが明治四十年になると

「大人は市議事堂へ、子供は学校に君が代を寿き奉りて帰れば、父子夫婦合携へての神詣で物見湯山(中略)神社にては伏見の稲荷神社、八坂神社、恵方は今宮神社、近くは白雲神社への参詣者多く」

と、「恵方参り」とは別に「神詣」という概念が出現する。しかも「神詣」の対象は官幣大社である伏見稲荷と八坂神社であった。

大正期に入ると「初詣」という言葉が定着するが、それに代わって「恵方参り」という概念が後退していく。大正五年の記事では以下のように書かれている。

「京阪電車の広告では八幡が恵方とあるし、京電の広告では稲荷が恵方とある、大分に方角が違うが、どちらでもエイ方に参詣したら御利益があるに相違あるまい」