『日本共産党』について

日本共産党 (新潮新書)

日本共産党 (新潮新書)

読了。本書においては「議論を尽くす」という建前の民主集中制が形骸化し、現実にはトップの意向(しかも誰がトップかという明確な規定がない)によって党の方向性が左右されてしまう、という現在の共産党の問題点が指摘されている。
平等を看板に掲げる共産党がなぜ親分・子分関係に陥ってしまうのかという謎について、僕がはっきりとした回答を持っているわけではない。ただ、戦前の社会主義運動においても派閥関係と個人的なつながりが政治の基本理念に優先され、それが原因で離合集散が繰り返され組織としての力を失っていくという光景は広く見られたものであり、日本社会の体質的な問題なんだろう、と思う。
日本共産党についてもう少し。
十五年戦争に反対し続けた唯一の党である、ということを共産党は誇りにしているそうだが、実際には昭和七年ごろまでに党としての活動はほぼ終わりを告げていたと言ってよい。その後も細々とした活動は続けていたものの、世間を騒がせた「活動」としては党内に潜入したスパイにリンチを加えて顰蹙を買ったことくらいで、戦争の前後において実際的な影響力は失われていた。共産党以外の社会主義勢力も、だいたい似たようなものである。
その理由のひとつとして、当然であるが官憲による弾圧が挙げられるだろう。幹部が次々と検挙されたことで方向性を見失ってしまった上に、その幹部の「転向」声明によって一般党員へと動揺が広がっていった。特に昭和8年の佐野学・鍋山貞親の転向声明は、衰退しつつあった共産党に引導を渡すこととなった。「共同被告同志に告ぐる書」というのがそれである。
ただ、もうひとつの理由として、日本社会に横たわる複雑な利害関係が挙げられるのではないだろうか。工場は工場で終身雇用によって繋ぎ止められ、農民は農民で小資本家としての性格をもち、また労働者内部でも大企業と中小企業とでは全然性格を異にし、農民は地域社会の利害関係に組み込まれている。こういった複雑な社会の上に指導者としての「活動家」が乗っているわけだが、彼らはコミンテルンから輸入してきた理論を直訳的に日本社会に適応させようとするため、当然現実とは乖離し、どんどん観念的になっていった。
また、労働組合や農民組合の中に共産党が勢力を伸ばそうとしたために、そのことが紛争の種になり組織が分裂してしまう、という光景も見られた。そして出て行った方は右へと走り、結果的に社会全体のファッショ化を促進するという負の連鎖を引き起こした。
日本のファシズムは「反共」という一点だけで繋がっているようなものだったわけで、良くも悪くもその存在感は大きかったと言えるだろう。