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27-01-06 (Fri)

[]若者女性。あぅ。

id:kmizusawaさんのところで、京大の元アメフト部員によるレイプ事件に関連した記事を拝読して、ほんっとにそのとおりだと思う。関係者らのコメントについて、

被害者への人権侵害という視点がまったく見られない。徹底して加害者や関係者にとっての不幸(不運?)のようなニュアンスだよねー。

そうなのよね、なぜか「現役部員カワイソ」オンパレードで、そりゃあイメージ悪くなって気の毒だとは思うし、コメントを求められた個々のOBなり京大生なりが被害者について安易に「お気の毒だ」なんて言いようがないというのも分かるけれども、あまり同じようなコメントがずらっと並ぶと、激しくこう、いやいやいやいやそれは違うのでは!と。

コメントをまとめた新聞の側の問題なのかも。

で、それとは別に、kmizusawaさんがおそらくあえて突っ込んでいらっしゃらない、ものすごい古典的フェミ的突っ込みを。

石川弘義・成城大名誉教授社会心理学)の話 子供っぽい事件がまた繰り返されてしまった。女性と付き合うためにはそれなりに工夫や時間をかけなければならず、背景には女性に対する若者のコミュニケーション能力の低下がある。集団になると、何でもできてしまうと思い込む「グループマインド」が発生し、理性的な判断ができなくなることも事件発生を後押しした可能性がある。(上でリンクした記事より)

レイプは若者の問題なのかとか、コミュニケーション能力低下の話ですむのかとか、レイプを「付き合う」ことの代用品と考えちゃうのってどうなのとか、そういう部分はとりあえず置いておくとしまして、ですよ。

女性に対する若者のコミュニケーション能力の低下

「若者」には女性は含まれないのですね<フェミ批評初心者

[][]『レッツ・ラブ・香港』上映会

国際基督教大学で『レッツ・ラブ・香港』の上映会があるそうです。

映画については、去年暮れの上映会のページがこちらにあるので、ご参照ください。

1月31日(火)15:10より。詳細はこちら

時間が早いのは、授業の一環としての上映らしいので、仕方がないですかね。

監督もいらしてトークがあるそうです。メディアスタディーズをやってる人らしいし(わたくしの分野とかする程度にかぶる)、香港出身で台湾で教えているということは両方の事情をそれなりにご存知だろうし、とても興味があります。しかし台湾の大学っていうのはLGBT系なんか強いですね。うらやましい(隣の芝生はまっさお<何か違うイメージかも)。

昨年の上映会は行く予定だったのが行けなくなったし、時間がとれれば行ってみたいなあ。

24-01-06 (Tue)

[]上野千鶴子氏が国分寺市での講師任用を拒否されたことについての抗議署名

こちらより、お願いいたします。

他のところでもどんどん言及されてきていると思いますが、皆様どうぞよろしくお願いいたします。当面の締め切りは1月26日(木)の正午だそうです。賛同者氏名は公開・非公開から選ぶことができます。

上野千鶴子東京大学大学院教授の、国分寺市「人権に関する講座」講師任用をめぐる東京都の対応について関心をもっていただいたみなさまへ。

 このページは、この問題に関する情報を提供し、以下の「抗議文」に賛同(署名)するという行動に加わっていただくために開設したものです。わたしたちは、たくさんの方々に、わたしたちのこの行動に賛同し、加わっていただきたいと願っております。どうか、関心おありの方へ広くお知らせくださいますよう、お願いいたします。

22-01-06 (Sun)

[]仕方のないこととはいえ

昨日は朝から雪。今朝も何だか道路に残った雪が凍り付いているようで、雪というものに不慣れなわたくしは出勤時が今から恐怖。

今週末はセンター試験受験生の皆さんも勿論大変だろうけれど、監督業務につく教員や大学職員にとってもセンター試験というのは疲労困憊する業務のような気がする。全国一斉試験ということで、多少なりとも不公平があってはいけないとかで、一挙手一投足、言って良いこといけないこと、板書して良いこといけないこと、そのタイミングなど、ものすごく厳密に決まっていて、「常識的にこのくらいは」という判断が許されないスーパーマニュアル仕事なので、過剰にストレスがかかる。万が一そこで「不平等」があると受験生に気の毒だし、大学としては「あの大学ではミスがあった」といわれるのだけは避けなければ!というプレッシャーもあるようだし。

まあ、それ自体は仕方ないことであきらめているけれども、それにしてもなあ、と思うことも、結構あったりする。

たとえば、昨日こんなことがあった。センター試験で使用する鉛筆というのは「和歌、格言などが書いてあってはいけない」ということになっている。で、確かに受験者に配られる要綱をちゃんと全部読めばそう書いてあるのだけれども、「使用する筆記用具」のところには「B,HB,Fの鉛筆」みたいなことしか書いていなくて、和歌云々というのは別のところに表記されていたと思う。

このために、いわゆる「お守り鉛筆」というのだろうか、神社だかお寺だかで売られている学業成就系の鉛筆を持ってきちゃう受験生が結構いるのだけれど、厳密に言うと使用できないものが多いのだ。すべての会場で受験者の鉛筆のすべてを一本一本チェックしているとも思えないから、実際にはつかっちゃっている受験生もいるだろうけれども、少なくとも監督者が気がついちゃった時点で、その鉛筆は使用禁止ということになる、らしい。なんかかえって不公平な気もするけど。

わたくしの世代というのは今よりももうちょっと「受験戦争」の激しい時代だったせいか、わたくし自身は、そもそもそういうところで規則にひっかかりそうな鉛筆を持ってきている時点で「あんたは負け」という空気の中で育ってきているのだけれども、それにしても、たとえば「学業成就」とか「千里の道も一歩から」とか(なんてものが書いてあるかどうか知らないけど)、あるいは地元神社が探してきたよく分からないお説教和歌みたいなのとか、その程度のもので不公平が生じるかどうか、実際微妙だよなあと思う。

で、本人なりあるいは多分親とか兄弟とか友人なりが「がんばってね」という応援の気持ちでわざわざこの日のために買ってきたのだろう真新しい鉛筆をきれいに削って机に並べている受験生に、「あ、これは格言があるから駄目ね」と言うのって、わたくしとしてはとても、いや。全国一斉試験の公平さという観点からどうしようもないのかもしれないけれども、そこであっさり否定されてしまう「応援の気持ち」を考えると、悲しくなる。

ということで、センター入試本部、そこどうにかなりませんかねえ。あるいは、「受験用学業成就鉛筆」で稼いでいらっしゃる神社仏閣の皆さん、寺社の固有名詞は別にかまわないようですので、それ以外の言葉を入れない鉛筆っていうの、考えてみませんか。

さてさて、わたくしはこれからまた出勤です。同業者のみなさま、がんばりましょう<って今日この時間にブログなんて読んでる同業者はいないかも。

20-01-06 (Fri)

[][]あなたがそこにいてくれるかもしれないから

id:june_tさんのブックマーク経由で読んだこちらのブログ

結局のところ、法律上の性別と解剖学上の性別(少なくともわかっている限りで)に矛盾がなく、社会的な「らしさ」の規範にもそこそこ合致しており、異性の人間とモノガマスに近い関係を持っているわたくしに、このブログに書かれている気持ちがそのまま分かるわけは勿論ないのだけれども。

そういうわたくしで「さえ」、しかもわたくしの場合は専任の教員という立場で守られているのに*1、それでも、ジェンダーセクシュアリティの授業で話をするたびに、わたくしも、彼がいたその場所に(あるいはそれと地続きのどこかに)、いる。緊張し、無知や拒絶あるいはその予感に憤り、理解とつながりとの試みに心を震わせ、その試みが失敗に終わる可能性に怯え、挑発的になり、支えをもとめ、片足を感情を抑えた論理に乗せ、もう一方の足を論理に従わない感情に踏み入れて、その間で絶望的なバランスを探りながら。

「ジェンダー論」を教えるフェミの大学教員、「セクシュアリティ論」を教える非・ジェンダー/セクシュアリティストレートの大学教員で、そういう経験をしている人は、結構いるのではないだろうか*2

文系の教員であるわたくしが授業で何より伝えたいのは、「これはこうでなくてもいいのだ」と言う、ほんの少しの視点の移動、「これは自分のことでもあるかもしれない、ありえたかもしれない」と言う、ほんの少しの想像力、「ちょっとだけこちらの方向に考えをすすめてみよう」と言う、ほんの少しの勇気だ。

けれど、「こういう人たちってちょっと受け付けない」と言ったあなたに、わたくしが「こういう人たち」であることを言ったら、わたくしが伝えたいことをりよく伝えられるのか、それともあなたがその「ほんの少し」の可能性に気がつく前にわたくしを「受け付けなく」なってしまうのか、わたくしにはわからない。「あんたが受け付けなくてもあんたのまわりにそういう人ってごろごろいるわよ、この差別馬鹿!」と思ったとしても(ええわたくし未熟ですから、場合によって学生相手でも本気でそう思ったりします)、そう口に出して言ったら、あなたはそれ以降わたくしの授業から何かを学ぼうとは思わなくなってしまうかもしれない。「あなたが受け付けるか受け付けないかは問題ではない」と理詰めで話をしていったら、あなたは恥をかかされたと思うだけで自分の発言の重みを本当には感じてくれないかもしれない。自分が「ストレート」でないことを言ったら学生は「あの先生はああいう人だからそう思うんだよね」としか受け止めないかもしれない。自分が「ストレート」でないことを言わなかったら学生は「ああいう人」を永遠に教材の対象としてしか考えないかもしれない。

どこで、どこまで、何を、どう見せるのか。「こういう人たち」は基本的に自分の人生とは関係がないと思っている相手に何がどういう効果をもたらすのか。週に一度一時間半顔をあわせるだけの学生たちに対してそれを見極める能力は、わたくしには、残念ながら、ない。そして、誰かが「こういう人たちって」と言い始めるたびに、わたくしはいちいち憤り、不安になり、戦略に確信がもてずに混乱する。

本当は、ジェンダー論をやり、セクシュアリティ論をやる以上、自分にはフェミニズムはいらない、自分とセクシュアル・マイノリティとは全く無関係、そう感じている学生にこそ、何かを伝えなくては意味がないのだろうとは思う。それができなくては、大学の教員としての仕事ができていないのだとも、思う。けれど、

話をしていると、自分が教室のどこかにいるであろうゲイレズビアンに向けて話をしていることに気がついた。マジョリティの立場を考えて話をする姿勢はなかった。

わたくしもまた、不安と混乱のたびに、教室のどこかにいるかもしれない、フェミニズムにつながる疑問や息苦しさを感じている学生、そしてLGBTQの学生にむけて、話をしてきたように思う。わたくしが教室で話を続けることができるのは彼女達がいるかもしれないと思うからであり、彼女達の存在の可能性がわたくしを支えてくれているのだと思う。だから、結局わたくしは、「この話は/この先生は、自分とは関係ないや」と思う学生が出てきてしまう危険をおかして、わたくしはフェミよ、わたくしはストレートじゃないわよ、と言ってしまうことになる。おそらく、わたくしは彼女達に最低限これだけは伝えなくてはと思っているのだ。わたくしはあなたとは違うし、あなたと考えていることも感じていることも違うだろうし、あなたはわたくしの言うことに全く賛成しないかもしれないけれども、わたくしはあなたがいることを前提としてここで話をしているよ、と。彼女達がそこにいてくれるかもしれないことへの、僅かばかりの返礼として。

*1:少なくとも今のところ、日本の「大学」で「専任」(非常勤や年限のある契約ではない、いわゆるテニュアのポジション)に一度ついてしまえば、犯罪でも犯してつかまらない限り、クビにされることは非常に稀だと思う。女性だからとかセクシュアル・マイノリティだからとか、あるいは特定の主張をしているからとか言う理由で、居心地が悪くなったり嫌がらせを受けたり、そういう例はいくらでもあるけれど、で、それはそれで非常に問題ではあるけれども、少なくともそれを理由にいきなりクビで明日から食べていけないっていうのは、ほとんどないと思う。少なくとも、わたくしの周囲では、聞かない。今は、まだ

*2:「大学の」教員、あるいはそもそも「教員」に限らないことのようにも思うけれど、とりあえず自分の経験のある範囲で

18-01-06 (Wed)

[][]ゴールデングローブ

ちゃんとフォローしてなかったのですが、ゴールデングローブ、クィア系花盛りのようですね。それぞれの作品の評価も何も全くまだ見てない状況ではありますが、実際の作品の出来はまた別問題として、これだけ色々出てくるというのはそれだけでたいしたものだなあと思います。一定数の文化表象が常に存在してこそ、「この作品はカス」「この作品はここは良いけれどもここが最悪」などと言うことも、容易になるわけですし(表象というより代表の問題かしら)。

17-01-06 (Tue)

[][]バトラーについて、いちおうメモ

何だかこう異様な書きにくさがただようのですが、いちおうバトラー来日おめ!ということで、ジュディス・バトラー講演会「感想」メモを残しておきます。年初めに縁起がいいし<なぜ。あくまで「感想」です。ええ、逃げをうってます。一度聞いただけできちんと理解できてる気が全くしないし、理解しそびれていたり聞き逃していたり白昼夢にひたっていたり寝ていたりしていた箇所が多々ある可能性が否定できないので、講演会レポートなんて大それた試みは、ムリ。とてもムリ。今後は「理論やってます」という自己申告はやめるべきだと自分で強く感じます。でも、成城トラカレさんid:june_tさんのこちらのブックマークを拝見する限りでは、1000人集まった割には「レポート」あげていらっしゃるツワモノは少なくとも今のところあまりいらっしゃらないようで、やっぱりね〜そうよね〜*1。しかも録音禁止なので、お家にかえってカミサマのお声でも再生しつつ幸せに眠りにおちよう(寝入りはすごくよさそう。でも夢見は悪そう)などという試みも、あらかじめ排除されているわけだし<バトラー用語。

実はわたくし、あちらこちらの皆様の御好意で、土曜日の講演@お茶大に加えて、メインは学生相手(という名目)のインフォーマルセミナー2つに潜入するおゆるしを戴きました。というわけで、計三度にわたってバトラー浴をして、彼女がどの話をいつしていたのかそもそも少し曖昧になってしまって、講演レポートはそういう意味からもちょっと難しい。という言い訳はありでしょうか。

とにかく、そういうわけで、わたくしにとって興味のあったところ(=理解できたところ)だけについて、「感想メモ」。

講演会@お茶大

お茶大での講演会では、日本でのはじめての講演ということもあってか、「バトラーの基本」をおさらいする形で、「安定した境界線を持つ自律した主体が存在し、その内部と外部とは峻別可能である」という前提を繰り返し批判するものだった。ただし、導入部分で用いた具体例は、インターセックス・ムーブメントの話、そしてGIDの病理化に伴う諸問題の話、同性婚の話などで、基本的には04年のUndoing Genderからそのまま持ってきていたし、これは他のセミナーでも共通していたことだけれども、主体あるいは「人間」が、その存在の根幹において、他者に、とりわけ他者の「承認*2」に依存しているという点に明らかに強調点が移ってきているというところにも、ここ数年の彼女の著作の傾向がはっきりと現れていたと思う。

彼女はそこから、クロスジェンダー・アイデンティフィケーションを例にとって、自己を名づける行為(self-naming)は他者に対しての承認を求める呼びかけを不可避的に伴っており、その意味においてトランスジェンダーとはいまだ名づけられても存在してもいない、つまりいまだ空想的なものであるような新しい関係性を他者に誘いかけるものとして考えることができる、と話を展開していく。

わたくしにそこそこ理解できたのはここまでなのだけれど、おそらくこの後がキモだったので、激しく間違えている可能性を覚悟の上で、いちおう続きを。正確なところに関して、どなたかの御指摘・御教授がいただけるととても嬉しいです。まあ、いずれお茶大のジャーナルで講演収録するらしいので、それを待ってじっくり読み直せば良いといえばそれまでですけれども。

さて。上述したような、いまだ存在しない関係性と存在へと他者を誘いかけるトランスジェンダーの自己命名(自己定義と言っても良いのかもしれないけれど)において、いまだ存在していない「わたし」の生存可能性は、必ず他者に依存している。勿論この他者というのは、トランスフォビックな規範を持つ社会でもあるし(その場合、「わたし」の生存可能性は直接的・暴力的に脅かされることになる)、そのような「わたし」を承認するコミュニティである場合もある(逆に言うとそのようなコミュニティの存在こそが「わたし」の存在を可能にしている)。重要なのは、社会がトランスフォビックな暴力を振るう場合は言うまでもないとして、たとえそうではない場合でも、いまだ存在していない「わたし」との関係性への誘いかけが他者に承認されない限り「わたし」は生存できないという点である。バトラーはここでフロイトの「喪とメランコリー」を参照しつつ、見失われた愛の(あるいは関係性の、といってもいいのかもしれない)対象としての他者に対するアグレッション*3が「わたし」それ自身(の内部へと転化された喪失)に対する攻撃性へ、つまり「わたし」の破壊へと形を変えていく作用を紹介し、「わたし」に誘いかけられた他者は*4、その誘いかけに応じない場合に、「わたし」自身による「わたし」のメランコリックな破壊を引き起こすという形で*5「わたし」の生存可能性への暴力を振るっているのではないか、と、問いかける。

最後の部分、繰り返しますけど、自信ないです。そこでフロイト必用かな〜と思わなくもないし。人間存在が他者の承認を必用とするという点から出発してフロイト使わずに同じことが言えるような気がするので、もっと何か全然別のことを言っていた可能性が、かなり高いです。

個人的には「他者の承認に依存する生存可能性」というのはわたくしの従来の関心分野にどんぴしゃで重なるので、そこのあたりは非常に刺激的だった。まあ、逆に言えば、わたくしの従来の関心がそこにあるから、バトラーが何を話してもそこしか記憶に残らん!ということもあるかもしれないけれど。ただ、バトラー自身が今回どこかで、ジェンダーをめぐる自分の視点が、アクティブなもの*6から、ある意味よりパッシブな側面*7に移行しているという話をしていたので、そこがポイントの一つであるのは確か。だと思う<すでに不安。で、わたくしがここにこうやって書くと、日本語としてやたらと分かりにくい上に論旨も飛んでしまうし、しかも退屈なのだけれども、バトラーがそういう話をしている、あるいは書いているときというのは、甘っちょろい言い方になるけれども何か特別な生命がそこに吹き込まれているようで*8、パッシブな側面とか「わたし」の被傷性とか他者の承認への存在の根幹における依存とかという話をしていても、なぜか「いまだ存在しない関係性」に向けて飛翔!みたいな、異様にアクティブな気分になってしまう。少なくともわたくしは。けれども冷静に考えれば、やっぱりというか従来どおりというか、そのような傷つきやすい存在が抹消されてしまう危険に直面している個々の「わたし」がどのようにして「いまだ存在していない関係性」や「いまだ名づけられていないわたし」へ向けて他者への誘いかけを広げることができるのか(あるいはそもそもいかにしてそのような想像が可能なのか)、という点に関しては、バトラーは当然のことながら単一の安易な解答を与えてくれているわけでは、ない。そこは自分で考えてね、ということになるわけで、「質問の人」バトラーらしく、質問を山ほど残し、答えはあまり残さずに、帰っていったのねと思ったり。

あとはまあ、バトラー一人にすべてを期待してはいけないとつい最近しかられたばかりではあるのだけれど、やはりインターセックスやトランスセクシュアルの問題は、非常に誠実に話をしているにもかかわらず、というよりもむしろおそらく誠実に話そうとしているからこそ、やはりLGおよびトランスジェンダーの話とくらべた場合に、少し濃度が薄いような気がする。血肉になっていないと言ったら、これまた比喩として問題かもしれないけれども。導入でインターセックスやトランスセクシュアルのポリティクスに言及しつつも、他者への承認のよびかけをめぐる後半の話はやはりトランスジェンダーが念頭におかれていたように思うし。それが悪いというわけでは勿論ないけれど、Undoing Genderを読んだときもそこが少し気になっていたので、ちょっと興味深かった。

質疑応答その他

上での「承認に基づく存在可能性の問題」というのは、言葉を変えればintelligibility*9の問題でもある。つまり、initelligibleなものの領域というのは、わたくしたちにとってのリアリティの領域、あるいは「存在」の領域であって、その境界線の「外部」に存在するものは、正統に合法的には「存在」していない。この話は本当に多様な局面において展開できることだけれど、バトラーは今回はとりわけ「戦争表象」の話、とりわけ、どのような(あるいは誰の)死や苦しみが認識可能なように示され、どのような死や苦しみが(明白な検閲を通じて、あるいはいわゆる「自主規制」に近い力によって)極力知らされないようになっているのか、それによってどのような「リアリティ」がつくられ、どのような存在が「死」や「苦しみ」の正統な主体としての、あるいはその「死」や「苦しみ」を悲しまれるべき正統な対象としての、要するに、本来「生存する」権利をもったものとしての存在」を奪われているのか、という話を、繰り返し語っていた。その切り口そのものは決して目が覚めるほどに斬新というものではないし、バトラー自身もそれは十分に分かっていることだろうけれど、だからこそ、それにもかかわらず必ず繰り返しその例に戻っていくことが、わたくしには非常に印象的だった。*10

それに関係して、バトラーは今回、「批評critique」について「自らの存在を可能にしている基盤をリスクにさらす行為である」と語っていて(その意味でも、上で述べたようなトランスジェンダーによる、いまだ存在しない「わたし」との関係性への誘いかけというのは、それ自体が一つのクリティークでありうる、ということになる)、それは、たとえばバトラー自身も何度か引用している、スピヴァクによる脱構築の定義とまさに重なっているものなのだけれども、あらためて、そういう意味でのクリティークをわたくしがちびっとでも実践しているだろうかと考えると、非常に非常に非常に心もとない。わたくしはどうしても(自分の生活でも批評なり研究なりを実践する上でも、って、その二つはあまり切り離せるもんじゃありませんけれど)、「生き延びること」に重点を置きすぎる嫌いがあって、リスクを過剰に避けているかもしれないと、反省。存在にかかわるリスクって、わたくしの全生活を見渡しても、Pの滞在権くらいのものだわ*11

同時に、今述べたことを裏切るようではあるけれども、バトラーが「生き延びること」の重要性を明確に強調していたのは、これは彼女の最近の変化だと思うのだけれども、少し嬉しい。お茶大講演もそうだったけれども、それ以外の場でも、たとえばマゾキスティックな自己破壊衝動の批判的可能性というものを承認しつつ、自己破壊につながらない(「サバイバル」を可能にする)攻撃あるいは批判というのがいかに可能なのか、という問いを提示してみせたりしていて、そこはむしろわたくしにとっては新鮮だった。わたくし、たとえばベルサーニとかが少し苦手で*12、主体がそれ自身を破壊する形で実践するクリティークというのは、ロマンチックに、しかも安易に評価される危険性が高く、その危険に対しての警戒を怠ってはいけないのではないかと思っている。バトラーのAntigone's Claimはもしかしてそちらの方向に行きかねないのではないかと、それが少し気になっていたのだけれども、Undoing Genderにしても今回の来日講演およびセミナーにしても、むしろバトラーはそれとはべつの可能性へと進んでいるようで、それは素直に、なんていうのか、嬉しい。

同じくわたくしが好きだったのは、バトラーの本が難しすぎてエリート主義に陥っているのではないか、彼女の著作を理解できない女性たちのことはどうするのか、というような質問に対する彼女の答え。簡単に言ってしまうと、ある種のクリティークはある程度の難しさを避けることができないが、それでもそのようなクリティークには一定の意味がある。そもそも、誰もが一読して抵抗なく受け入れられることというのはすでに誰もが知っていること、現状そのものであり、わたくしたちの理解可能性の領域の境界線を押し広げようとすれば、その作業がある程度困難になることは避けられない、というもの。単純に、そうだよなあ、と。たとえばわたくしの文章が下手であるとか、特定の思想家の特定の訳者による日本語訳がただただ読みにくいとか、バトラー自身の文が実際結構悪文だとか*13、そういうこととは全く違うレベルで、彼女の行ってきた類の批評というのは「簡単」にはなり得ないものだし、なる必用もないと、わたくしは思う。そして、そのような批評は、世界中のジェンダーやセクシュアリティとかかわりのあるあらゆる問題を解決するわけでは勿論ないけれども、それでも、わたくしたちが自分と、他者と、世界と関係をむすぶやり方を模索していく上で、非常に重要な一つの役割を果たしているのだと思っている。

逆にどうかな〜と思ったこと。お茶大の講演会の質疑応答で「バイセクシュアルをどう思いますか」と聞かれて、バトラーは「バイセクシュアルというのは非常に重要なコンセプトだと思う」と前置きした上で、「バイセクシュアルというのは、優柔不断というのでも、混乱しているというのでもないことを理解しなくてはならない」と答えた。そこまでは良いのだけれども、それに続いて、「バイセクシュアルというのはカテゴリーの困難さを指し示す存在であり、固定したカテゴリーとしてではなく、複雑な歴史をもったナラティブとして、より良く理解されるものだ。たとえば、最初に女性と付き合い、その後男性と性的関係を持ち、その後女性のパートナーがいて、けれども男性についてファンタジーを持つ、という具合に。」と話した。わたくしとしては、激しく、それってどうなのよ!という感じ。今まで一人の女性とも(男性とも)付き合ったり性的な関係を持ったりしていなくてもヘテロセクシュアルだと自認したりゲイレズビアンだと自認したりする人がいるように、ナラティブが複雑でなくても、あるいは女性から男性へと揺れ動かなくても、バイセクシュアルであると自認する人はいくらでもいるだろう。バイセクシュアルがとりわけカテゴリーの困難さを指し示すとしたら、その「複雑な歴史性」のゆえはなく、「性的指向」がおもに性器、時にジェンダーによる性的対象選択に基づいたカテゴリー区分を前提としており、バイセクシュアルは必ずしもそのような区分法に従わないずに対象を選択するからだと言うべきだろう。もちろん、ヘテロだろうが、レズビアンだろうがゲイだろうがバイセクシュアルだろうが、歴史を持たない固定したカテゴリーとして性的アイデンティティを考えることには欠陥があり、その意味ではバトラーの言ったことは間違えているわけではない。実際に、後からバトラーは、「あれはバイセクシュアルだけではなくて、レズビアンにもヘテロセクシュアルにもあてはまる話だ」と説明していたし。けれども、あの文脈でああいう言い方をした場合には、それは「あらゆるセクシュアリティに当てはまる話」ではなくて「バイセクシュアルにとりわけあてはまる話」と聞こえる可能性がとても高いし、さらに悪いことに「私はバイセクシュアルとはこのようなものだと理解している」ととられる可能性もとても高い。というか、質問が「バイセクシュアルについてどう思いますか」でそういう答えをしたら、そうとるのが普通じゃないかしら、バトラーさま。べつに彼女にバイセクシュアルの擁護者になってくれというわけではないけれども、「とても重要だ」とかって言っておいて中途半端な答えをされてしまうと、微妙だわぁ。

微妙で終わってしまうのも何なので、もう一つ、印象深かったこと。他のブログでどなたかが書いていらしたと思うのだけれど、バトラーの著作についての質問で、質問者(学生さんだったのだけれど)の読みがバトラーの意図とは違っていた、ということがあった。その時、彼女は「その理解は私の意図したものではない」と明確に言った上で、「しかしそれは非常に興味深い読みであると思う」と、とても楽しそうにその「解釈」を承認したのだった。誤解は訂正するけれど、誤読は奨励するのねぇ、彼女の著作そのものだわぁ、とちょっとどきどきいたしました。

全体に、べつに講演やセミナーに行かなくても、本読めば書いてあったような、という内容ではありました。でも、バトラーでジェンダー論とかクィア理論とかやってきたわたくしと同世代やそれ以下の世代の人間にとっては特にそうでしょうけれど、「なまバトラーだわ!」というのはやはりそれだけで嬉しいものだったりしますし、講演やスピーチ、質問に対する答えの細かいあちらこちらに、場合によってはもしかするとバトラー本人が意識していない形で、インスピレーションを受けたりもします。まあ、根っこの根っこには、「あのバトラーと同じ部屋にいたのね!同じ空気を吸っていたのね!」的な、15年ほども昔のストーンローゼズ来日公演なんかの時とあんまり(全然)変わらない、ただのミーハーな興奮が大きく存在していたりもするのですが*14

*1:追加:そう思っていたら、成城トランスカレッジ!さんのこちらで、とても丁寧なレポがあがっていました。感服です

*2:と訳すのだろうか、recognitionという単語なのだけれど

*3:攻撃性って訳していいのだろうか

*4:それは「わたし」の「外部」に存在すると一般的には考えられる

*5:つまり「わたし」の内部からの攻撃という形で

*6:performing/subverting/doingなど

*7:ジェンダーがいかに刻印impresssされるのか、わたしたちがいかに従属していて傷つきやすいか、など

*8:この比喩とかってデリディアンでもあるバトラー的には駄目かも。っていうかわたくしただの馬鹿ファンかも

*9:この訳語って、理解可能性でしたっけ?認識可能性?調べるのを面倒がっているわけですが

*10:さて、現在の日本で「検閲」と言えば「ジェンダー」なわけですが(違うかしら)、「ジェンダー」という用語を排除することで、どのようなリアリティがつくられようとしているのだろうか。「ジェンダーのない」リアリティがつくられようとしているわけではなさそうだけれど。

*11:いや、それはそれで個人的にはとても深刻ですけれども、パートナーがたまたま病気でワーキングビザの確保が危ういっていうだけをもってクリティークの実践とは、いくらなんでも言えませんわよ

*12:ただの誤読に基づいている可能性もかなりありますが

*13:わたくしはそれにもかかわらず彼女の文のリズムそのものがとても好きだけれども、悪文かどうかといわれたら、やはり往々にして悪文であろうなとは思う。ただ、それはエリート主義によるものではなく、ただ単にあれ以上上手には書けないのだろうとも、思う

*14:歳がわかりますわね

16-01-06 (Mon)

[] おひさしぶりです

遅ればせながら、新年おめでとうございます。

本当に久しぶりでまた舞い戻ってきました。今年は少しずつ断続的に(〈継続的ではないところに注意を払っていただければ幸いです)更新を続けていこうと思っております。

昨年の10月くらいからでしょうか、[ ]実際には生活全般に壊滅的ダメージを受けて、まあ大変でございました。

実際に冷静に考えてみれば、壊滅的ダメージを受けるほどの時間をとられるわけでもなく、[ ]わたくしが一人おたおたしてしまったというだけなのですけれども。おたおたの相談に乗ってくださった皆様、もしごらんになっていらしたら、あらためて心からお詫びとお礼とを申し上げたいと存じます。

[ ]

で、年が明けまして、事態が改善したのかと言えば、外的事実は全くもって一向に改善しておりません。[ ]そういう事態は日々こともなく、穏やかに引き続いております。

ただ、なんというのか、わたくしが徐々にその状態に慣れてきまして、なんだかもうこれはどうしようもないからこのまましばらくゆっくり放っておいてもいいわ、という気分になってきました。まあ、前々からそのような「心積もり」ではいたのですけれども、頭で「心積もりをしておく」のと実際にそのような「心もちになる」のとの間には、わたくしの場合はかなりの隔たりがあったようで、前者から後者に移行するのに数ヶ月もかかったということのようです。不思議なもので、[ ]

というわけで、全く事態に改善が見られないまま、微妙に「いんなーぴーす」を手に入れ始めてしまって、これはきっとなにか良くないに違いないとも思うのですが、とにもかくにもこの状態ならわたくしの仕事も少しはできるしということで、そういう微妙な事態のまま新年を迎えることになりました。とりあえず、今年の目標は[ ]

それでも、仕事から帰ってきて、[ ]とにかくさまざまな気持ちが一度に押し寄せてきて、「なんでもないわよ、目にゴミが入っただけよ」になってしまうので、目標達成にはまだまだ先が通そうではあります。