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18-10-06 (Wed)

[][]バイセクシュアルを可視化すること

Vice Versa: Bisexuality, Eroticism and the Ambivalence of Culture

_Vice Versa: Bisexuality and the Eroticism of Everyday Life_ by M. Garber*1

ものすごく昔に買って、その厚さにうんざりして本棚に放り込んだまま失念し、二年に一度ほど「あ、これそのうち読まなくっちゃね。うふ」などと思って、でもそれはいつでも「そのうち」であって「今」ではないのでまた本棚に放り込み、そのまま失念する、という作業を繰り返してきた本。

研究会があったので渋々読みました。途中まで。

わたくしがまともに読んだのは前半部分のみで、そこは結構興味深い。具体的にバイセクシュアリティがいかに不可視化されてきたのか、バイセクシュアリティが「大流行!」(疫病のごとく*2数十年周期で流行するようです)する時でさえそれがいかにあたかも「バイセクシュアリティ」ではないような捉え方をされていったか、そういう話はなかなかにスリリングだし、「歴史上有名なゲイレズビアン」のあの人もこの人も(アレクサンダー大王からオスカー・ワイルドまで)、ちょっと待ってよみんなバイじゃ〜ん、というまあしょ〜もない確認も、そうそうそうなのよね程度の笑いにはなるし、まあそもそも10年以上前に書かれた本であることを考えれば、必要なステップではあったろう。さらにたとえばそういう「この人はゲイかレズビアンかバイか」という(繰り返すけれども、しょ〜もない)推測ゲームが始まったときに、「バイはみんな嘘つき(ヘテロを偽装している)、そうじゃなければ弱虫(自分を受け入れられない)、そうじゃなければ未成熟(本当のセクシュアリティまで成長しきっていない)」という前提のモトで「だからこの人もあの人もゲイ/レズビアン」になっちゃうっていうのはこれはどうよ、という指摘も、まあ今更珍しくもない基本的なものとはいっても、豊富な資料と共に一応抑えておいてくれるのは、それはそれで嬉しいし。

バイセクシュアルの不可視化の歴史の中でとりわけ気持ちよく苦く笑えたのが、以下の部分。1990年、ノーサンプトン*3のレズビアン&ゲイ・プライドマーチが、その前年につけ加えられたばかりの「バイセクシュアル」をマーチの名称から外すことを決定した時の話。*4勉強にして知らなかったのですが、これは結構有名なごたごたらしく、ぐぐったら色々出てきます。こんな論文もあったりして読みたかったのですが、自宅からはアクセスできない*5ので、未読です。で、この時のオーガナイザーはバイセクシュアルをマーチの名称から外すことは「政治的連携の表明であって、バイセクシュアルの個々人を拒絶しようとするわけではない」と主張していたそうで、何か聞いたことがある感が非常にただようのだけれども、まあそれはそれとして。

Lesbians in the Northampton area wrote the local gay press with anger and indigation to ask why bisexuals insisted on "attaching" themselves to their community. "Proponents of the inclusion," wrote the Boston gay paper _Bay Windows_, "claim the word would allow for a more diverse and accurate celebration, and that gays and lesbians are being 'biphobic' when they exclude bisexuals. They say excluding them is tantamount to heterosexuals excluding homosexuals. Opponents counter that bisexuality is a different experience [from] homosexuality, and that events such as pride marches should reflect their specifically gay and lesbian history. If bisexuals want to celebrate their differences, they say, let them do it with their own resources and organizations."(_Vice Versa_ p.81)

簡単に訳すと

地域のレズビアン達は、いったいどうしてバイセクシュアルたちはレズビアンのコミュニティに「くっつこう」とするのか、と地元のゲイ・プレスに怒りの手紙を書いてきた。ボストンのゲイ新聞であるベイ・ウィンドウズによれば、「バイセクシュアリティを含むことに賛成する人たちは、バイセクシュアルを排除しようとするゲイやレズビアンは『バイフォビック』なのだと主張する。バイセクシュアルの排除は、ヘテロセクシュアルによるホモセクシュアル排除に等しいではないか、と。しかし、反対派の人々は、バイセクシュアリティはホモセクシュアリティとは異なる経験なのであって、プライドのようなイベントは、ゲイやレズビアンの固有の歴史を反映するべきなのだ、と反論する。もしバイセクシュアルたちがバイセクシュアリティという差異を祝いたいと思うのであれば、自分達のリソースと自分達の組織を使って勝手にやってくれ、というのだ。(強調はtummygirlによります)

ガーバーによれば、アメリカではバイセクシュアルを含むなという主張は主にレズビアンの団体から提出されていたようで(レズビアン・フェミニズムの強力な遺産ということか。あるいはそれに対する反動なのか)、そこら辺は日本とは違うような気はしますが、しかしなんと言うか、いずこも同じ秋の夕暮れ。というか、まあこの時点ではどうやらトランスは議論にすらなっていない模様で、それもそれでどうかとは思うわけですが。

まあ、これは明確にして意図的なバイセクシュアル排除であるわけで、その意図と名称とが相互にきちんと反映しあっている点で、いさぎよいといえばある意味いさぎよいとさえ言えるような気がします。その点では、上でちょっと触れた「バイセクシュアル個々人を排除しようと思っているわけではない」云々は、明らかに排除しようとしているのに、その意図を糊塗しようとしているという点で、さらに一層ど〜なのかな〜と思ったりもするわけなのですが、いずれにせよ、ガーバーによれば、バイセクシュアリティはこのような政治的選択としての意図的排除という形をとらなくても、ふと気がつくと不可視化されているもの、らしい。

彼女がその理由としている(らしい)のは、バイセクシュアルがそもそも単一で固定した欲望形態に基づく一つのアイデンティティという概念に抵抗するものだ、ということ。

Bisexuality [...] constitutes itself precisely as resistance -- the "refusal to be limited to one" -- even if that "one" is defined as "bi." (ibid. 160)

バイセクシュアリティとは、まさしく抵抗としての、すなわち、「一つに限定されることへの拒絶」としての、性質を帯びるものである。たとえその「一」が「二(bi)」として定義されるものであったとしても。

つまりバイセクシュアリティは「バイセクシュアリティ」という一つのアイデンティティを構成することができない、より正確には、アイデンティティを構成することができないということそれ自体がバイセクシュアリティなのだ、と。従って、単一性、均一性、あるいは固有性を根拠とするアイデンティティの議論においては、バイセクシュアリティはどうしても抜け落ちてしまう*6

それとの絡みでちょっと面白いなと思ったのが、ひびのさんの最近のこのエントリ。わたくしは「尾辻さんに意見を送っても意味がない」とは思わないし、彼女の政策集における「セクシュアル・マイノリティ」の定義から「バイセクシュアル」が除外されていることが(それを言えば、「性同一性障害」は入っていても「トランス」は言及されないことも)意図的な排除であっただろうと考える根拠も、わたくしには、特にない。とりあえず「形だけ」であったとしても、「LGBT」という表現を使おうとしているのは嬉しいし、関西レインボーパレードもやはりそこのあたりを考慮した名称なのだろうと(勝手に)思っている。それでも、そうやって「セクシュアル・マイノリティ」を定義する個々の実践のうちに、バイセクシュアリティが(この場合はトランスも)不可視化され続けている、というひびのさんの指摘は、正しいだろうと思うし、尾辻さん個人への攻撃ということではなく、そういう指摘は重要だろうとも思う。

実は、同じ問題は、「新木場事件を繰り返さない」の要望書にも見て取れる。ここでも「同性愛者や性同一性障害、インターセックスなどのセクシュアルマイノリティ」という表現が繰り返される中で、もちろん「など」が担保になっているとはいえ、バイセクシュアリティやトランスジェンダー、性同一性障害の認定を受けるつもりのないトランスセクシュアルなどは、結果的には不可視な存在となってしまっているのが非常に気になったのだった。「など」があくまでエクスキューズとして担保されているに過ぎないということは、たとえば、「道徳での『多様性の尊重』において、同性愛も多様なセクシュアリティのひとつとして尊重されること」が、「多様なセクシュアリティについて教育内容として取り上げる」ことを求める要望として独立項目になっていること(そして、それと並列する形で、たとえばバイセクシュアリティは言及されないこと。あるいは、「多様性の尊重」において「多様なジェンダー」の尊重について取り上げることは、とりたてて言及されないこと)からも、見て取れるだろう。もちろん、この要望書は何よりもまず新木場事件という「同性愛者」をターゲットとした具体的な事件への反応として出されたものであり、「同性愛者」が優先されるのはその意味では当然なことだと考えることもできるし、そうであればそこであえてそれ以外のセクシュアル・マイノリティに言及したことは評価するべきであって、批判するべきことではないのかもしれない。まあ少なくともわたくしはそう考えて賛同したのだけれど*7、そこの指摘はきちんとしておくべきだったのかも<相変わらず後になって反省。

しかし、たとえばガーバーに従うと、そもそもバイセクシュアリティはアイデンティティとしては成立しないわけで、そうなると、成立しないアイデンティティを含むも排除するもない、ということになる可能性もあるような気がする。ガーバー自身は明らかにそういう方向に進んで行くようで、彼女は本書の後半部においては(わたくしはまともに読んでいないので、研究会での説明を聞く限りは、ということですが)、バイセクシュアリティを

  1. 時間につれて変化する欲望のその総体を指し示すものである
  2. 一対一ではなく、第三項を常に参照するような欲望のあり方を指し示すものである

という方向で説明しようとしていくようなのだけれど、わたくしはこれはもうどうかな〜、と。バイセクシュアリティが現行のジェンダー・セクシュアリティの規範においてはアイデンティティとしては成立しないだろう、というか、おそらくそこで成立しない欲望やセクシュアリティのあり方をとりあえず投げ込んだものがバイセクシュアルというカテゴリーであろう、というのはわたくしも賛成なのだけれども、ガーバーのこの図式は結局のところバイセクシュアルの理想化=他者化におわる可能性が高い。そもそも1にしても2にしても、バイセクシュアリティだけではなく、ホモセクシュアリティであろうとヘテロセクシュアリティであろうと、欲望というものには必ずつきまとう性質だし、それをバイセクシュアリティに限定するのは、ホモ/ヘテロセクシュアリティに内在しているけれどもとりあえずアイデンティティ・ポリティクス上不都合な要素をバイセクシュアリティに押し付けて、バイセクシュアリティを理想化しつつ、バイセクシュアリティ(と、そこに押し付けられた諸要素)を決して実現できないものとしてぶん投げてしまっているのに等しい*8。以前のエントリでも書いたように、バイセクシュアリティが「抵抗である」とすれば、それは欲望対象の選択において対象の性別という項を特権的に扱うジェンダー制度への抵抗であり、バイセクシュアリティがアイデンティティとして成立しないとすれば、バイセクシュアリティを「バイ」としてまとめることを要請する制度そのものを「バイセクシュアリティ」が疑問視するからであって、欲望の形態として常に不定であるからでも時間に沿って変化するからでもないはず。だと思います。ていうか、このあたりのことを、こちらのコメント欄でid:maki-ryuさんがきれいに説明してくださっているので、よろしければそちらを。

ということはつまり、バイセクシュアリティがアイデンティティとしては成立しないよ、うふ、と言って終わってしまえば、結局のところ、バイセクシュアリティの不可視化を要請するようなホモ/ヘテロの固定的二分法とその根底にあるジェンダー制度とは揺るがないわけで、必用なのはバイセクシュアリティをバイセクシュアリティとして可視化しつつ、バイセクシュアリティとして「しか」可視化されないのはどうなのよ!ということをぶちぶちと言い続ける、ことなのかもしれない。あるいは、バイセクシュアルを可視化することの困難さを指摘し続けること、それ自体に「バイセクシュアルの可視化」の意味があると言ってもいいのかもしれないけれど。*9

[][][]ちなみに

ちょっとずれるけれども、上の本で興味深かった記述の一つに、エイズ・パニックの時の合衆国でバイセクシュアルバッシングが激しくなった、というものがある。要するに、ゲイ男性がエイズでどんどん死んでいくのはヘテロ社会としては別に気にならな〜い、どうでもいい〜、という感じで無視できるはずだったのに、そこに「バイ(特にバイ男性)」という存在がいると、「ゲイの病がおぞましい隠れバイ男を伝わって無垢なヘテロ女に!そしてそれがヘテロ男に!」みたいな経路が想定できてしまうので、バイ男許すまじ!ということなのだけれど。

この経路、2ちゃんねるなどで時折見かける「外国人男とやる日本人女が性病を日本の国内に!」というパターンとそのまま重なるので、余りにもわかりやすくておかしいくらい。要するに境界を横断する性、分けられているはずのカテゴリーをつなぐセックスというのは、常に激しく警戒されるという、見本みたいなお話。そういうのを読んでいると、バイで外人とやりますが、それが何か!みたいな、無意味に攻撃的な気分になりますわね(アセクでモノガマスですけれどもね)。

*1:どうやら近年は_Bisexuality and the Eroticism of Everyday Life_と、サブタイトルがメインタイトルに変更になって発売されている、らしいです

*2:とか言う比喩がそもそもいけないのですが

*3:ってイングランドだとばかり思っていたのだけれども、合衆国にもあるらしい。マサチューセッツ州だそうですよ

*4:92年には再びバイセクシュアルが含まれるようになり、現在はLGBを一切はずしてNorthampton Prideになっている模様です。

*5大学からも多分できない・・・オンラインなのに。論文一つだけ購入するかどうか悩んでます

*6:このあたりの可視性と単一性・固有性の問題については、イリガライの議論を参照するといいような気がするのだけれど、ここでは省略

*7:と言ってから確認してみたら、賛同者に名前載せてもらってないですよ!涙ですよ!賛同してくださいと言って断られることはあっても、賛同したいですと申し出て断られるっていうのは、どういうことでしょうか。っていうか賛同ありがとでした、みたいなメールを戴いた気がするのですが、何らかの見えざる手が働いて除外されたのでしょうか。<ぱらのいあ

*8:ものすごく強引に言ってしまうと、ここでガーバーがやっていることは、ホモセクシュアリティって許されない愛だからこそ至上の愛なのよ!というのと、あんまり違わんような気がするのですが、わ〜でもそんなことちょっと表立っては言えませんから、撤回します<ガーバーは「ものすごく」オオモノなので、オオモノに弱いわたくしは圧倒的に腰が引けます

*9:まあ、それでも「何故そこまでして可視化したいのか」「政治的に何がかかっているのか」などと言われることはあるわけで、具体的に何がかかっているのかと言われれば、「性別を第一基準にして欲望、恋愛、あるいは人生パートナーの選択をしないでもすむこと、そしてそれによって不当な法律上・社会生活上の不利益や心理的圧力を被らなくてもすむこと」になるわけです。それじゃゲイとかレズビアンとかの権利が認められれば結果としてはそれですむわけだからいいじゃん!という話になるらしいですが、「選択したパートナーの性別によって不当な法律上・社会生活上の不利益を被らないこと」を、「同性のみをパートナーにする人間として」主張しなくてはならないというのは、それはそれで「心理的圧力」でもあるわけで、そこがちょいと違う、というのか。

16-10-06 (Mon)

[]重なるところ

ちょっと時間がない上に明らかに風邪!をひいたらしいので、知人から戴いた情報のメモだけ。(ものすごく寒いんですけど、今日ものすごく寒くない、ですよね?ウールのセーター着てウールのひざ掛けしてカイロいれてるんですけど、やっぱりこれってわたくしが変ですわよね。変=クィアじゃなく、変=体調不良な方向で、変ですわよね。)

イギリスObserver紙より。Cabinet split over new rights for gays

学校会社、そのほかの諸機関がセクシュアリティのみを理由にした事業提供の拒否を行ってはならない、という法案をめぐって、もめている模様。で、ああまただなあ、と思えるのが、反対派側のこの主張。

'There are some difficult issues,' she said. 'There are issues around Christian B&Bs, where it tends to be Christians that stay there and some of the religious lobby are saying they would not be happy for a gay couple to stay there.'

クリスチャンであってゲイ、という人たちがすっかり黙殺されてしまうのは、例によって例のごとく、です。

さて、ひざ掛けもう一枚探してきます(涙)。

14-10-06 (Sat)

[]併置してみると

新・新木場事件について、Sumposionより

私は、この事件を始めて知ったとき、「またか!」と思った。「またこのような事件が起こったのか!それも6年前の新木場事件と同じ場所、同じような加害者社会的特性、同じような犯行理由で。いったい、私たちはこの6年間何をしてきたのだろうか?ゲイコミュニティは、セクシュアル・マイノリティーズの活動は、いったい日本社会の何を変えてきたのだろうか?」と問わざるを得なかった。

ニューヨークで起きたゲイ・バッシングについてBig Queer Blogより

My head is swirling with anger, frustration, sadness and pain. I'm trying to reconcile all of this this with the fact that yesterday was National Coming Out Day [. . .] that we continue to think and act as if we are much safer and freer than we are, and wonder what it will take for things to change.

批判の対象が前者はゲイ・コミュニティそのものに向いているという点で両者は決定的に違うのだけれども、そしてそれを併置してどうしたいのか自分でもまだ良くわからないのだけれども。

ゲイ・フレンズがいることがオシャレ女子の必須要件になるかのような表象すら生み出してきたニューヨーク。ホモフォビアについての授業をすれば「<ホモの方たち(ママ)>がテレビにあれだけ出ているのだから、日本にはホモ差別(ママ)はないと思います」と書いてくる学生が必ずいる東京

砂の中に頭を突っ込んで、さすがに今はもう安全になっているはずだ、と思いこもうとしていることの、怖さ。隣のやつが砂から頭を出しちゃったからこちらまで巻き添えを食ってせっかく見ないふりをしていた危険に気がついちゃったじゃないか、と憤慨することの、愚かさ。

まだまだそこに危険があるじゃないか、隣のやつを責めてもそもそもの危険は減らないじゃないか、と批判するのは、比較的やさしい。説得するのは、それとくらべて、はるかに難しい。さて。<全くまとまらないまま放置

13-10-06 (Fri)

[][]哀悼

http://d.hatena.ne.jp/toshim/20061012

もう少し待っていて戴きたかったです。

御著書に文句をつけたり批判したりして、あっさりと論じ負かされて悔しくて眠れなかったり、家に帰ってこっそり猛勉強してみたり、そういうことをしたかったです。

年齢はそう違うわけではないけれど業績的には日本での机上クィア理論の大先輩である方に、心からの敬意を込めて。

わたくしはどうせたいした仕事ができる器ではないので、せめて御仕事のほんの一端だけでも次の人たちに引き継いでいけるよう、地味に生きていきます。

ヘルプ

上記エントリ、はてな内だと自動的にトラバが送られてしまうのを忘れていました。トラバを送るつもりではなかったのに、アクセスだけ増えて身が縮む思いです。

トラバの取り消しが可能で方法をご存知の方がいらしたら教えていただけませんでしょうか。下手に動かして二回もトラバ送るようなことになってはと、身動きがとれません。

12-10-06 (Thu)

[]

id:gnarlyさんのこちらで知った情報。

セクシャルマイノリティ差別解雇裁判

「性同一性障害」を一概に「セクシュアルマイノリティ」とみなすのはどうかという問題はあると思うのだけれど*1、とりあえずこの人の場合は「マイノリティ」として裁判を起こすということだから、そこは良いのかしら。いずれにせよ、一般的ではない性を根拠にした差別であれば、「セクシュアルマイノリティ差別」というのは正しいとは思うけれど。

で、ちょっとぐぐって見たのですが、上のページ以外に情報が見つかりません。書かれていることが事実であれば明確な差別だし、どこかの団体が支持を表明したり支援を呼びかけたりしていてもよさそうな話だと思うのですけれど、どういうことなのでしょうか。どなたか詳しい情報をご存知でしたら教えてくださいませ。(ここによれば、そのうち詳細がアップされるとのことではありますが)

とりあえず、heads-upということで。

*1資格ないぞ、ということではなくて、当人からしたらセクシュアル・マイノリティと一般的に言われるグループとは違う、という場合もあるように思うので

11-10-06 (Wed)

[][]恐れはどこにある2006version

またまた更新が滞って、何だかもうブログをやっているとは言いがたい状況になっているのだけれど、かといってきっぱりやめようという決断もできないあたり、わたくしの人間性を良く反映しているなと思う毎日です。「更新しなくちゃなあ」と思うと胸の奥が沈む気がするので、ついに自分のブログには一切アクセスしなくなってしまうあたりの「とにかく逃げる」姿勢も、わたくしの人間性を良く反映しているなと思う次第ですが。

さて、そんなことは本当にどうでも良くて。

先日ICUであったイトー・ターリのパフォーマンス「恐れはどこにある2006version」を見てきた。仕事の加減で前半のドキュメンタリー上映およびトークセッションは泣く思いで断念。仕方ないから後半だけということで、職場から台風の中をICUまで、これは本当に半泣きになりつつ、出かける。

イトー・ターリのパフォーマンスは二、三年前になるだろうか、恵比寿でのboderline cases展での「虹色の人々」を見て以来。この公演がとても印象深かったのでまた是非、と思いつつ、そして公演情報もわりと頻繁にキャッチしつつ、何故か公演日が仕事と重なったり抜けられない用事があったり(あるいはPの風邪が肺炎になっていたり)して、今まで結局見逃してきていたのだけれども。

観にいっておくべきだったなあと強く後悔するような、またしても非常に力強く、非常に不思議な、パフォーマンスだった。

今回のものは「恐れはどこにある2006version」ということで、以前やっていたパフォーマンスの改訂版とでも言えるようなもの、であったらしい。わたくしは以前のヴァージョンを見ていないので、2006versionの個性であるとか、あるいは以前のものとの連続性であるとか、そういう(おそらく非常に重要な)点については、何も言うことができない。それでも、スタンド・アローンのパフォーマンスとして見ても、それはそれでとても面白いものだったと思う。

パフォーマンスは、真っ暗な中で四角い木枠の内側にしゃがみこんだターリが、小さいマイクに息を吹き込んだり、キスをしたりして、観客にはその音だけが聞こえてくる、そういう状態で始められる。じきに薄い明かりが木枠をかすかに照らしはじめ、目も慣れてきた観客は、そこにターリがいること、そして自分たちの耳に届いている音はそこで作り出されているらしいことに気がつくのだが、その時には、木枠とは全く離れた場所にあるスクリーンに、木枠の内側にいるターリの映像、マイクを弄び、口に含み、髪をくぐらせ、首筋をなでるターリの、苦痛に耐えているとも一人きりの官能にひたっているともどちらとも取れるような姿、いずれにしても、非常に「プライベートな」印象を与える姿が、映し出されるようになる。薄暗い中でその映像がしばらく流された後、別の映像、尾辻かな子大阪府議が自らのカミングアウトについて語る映像が、最初の映像と併置して示され、それとほぼ時を同じくして、ターリは木枠に虹色の紐を巻きつけ始める。カミングアウトについて明るい口調で語る尾辻府議の声が響く中で、ターリは自分の身体を床に押し付けるようにして木枠の内側にも虹色の紐を張り巡らせ、同時に身体の下に敷いている「何か」に空気を入れて膨らませはじめる。ついには、張り巡らされた紐とふくらみはじめた「何か」とによって木枠の内側に十分なスペースがなくなり、ターリはまず自分が木枠から這い出し、次いでその「何か」を木枠から引きずりだすことになり、そしてパフォーマンススペースに照明がついて、映像が消える。

ここに来て観客は、ターリが引きずり出してきた、わずかに空気が入った膨らみかけのその「何か」が、どうやらラテックス製の巨大なおっぱいだということに、気がつく。明るいベタの照明の落ちる空間で、ターリはその膨らみかけの巨大なおっぱいに空気を送り込み、それをひきずり、それと戯れ、その形を整えたかと思うとそれを観客に向けて投げ飛ばし、飛びついては跳ね返され、息を切らさんばかりにしてそのおっぱいに全身で働きかけ、その間にも、おっぱいは少しずつ空気を吸い込み、はずだり揺れたり引っ張られたりしながら、「おっぱい」として成長していく。なにぶん巨大な、完成すれば人が3、4人手をつないでもその周りを囲めるか囲めないかというくらいのおっぱいなので、ターリとおっぱいと、そしてときには観客を巻き込んだ、この不思議な働きかけあいは、おっぱいが十分空気を吸い込んで大きくなりきるまで、延々と続けられることになる。

勿論あるレベルにおいて、このパフォーマンスの前半を「クローゼットな」状態として、そして後半をレズビアニズムの、あるいはそうと名指さないとしてもターリという女性セクシュアリティの、そしてもしかしたら「おっぱい」に代表される「女性性」の、公然の(「カムアウトした」)賛歌として、理解することは、可能だろう。突然明るくなったパフォーマンススペースで成長を続ける巨大なおっぱいには、それだけで何か独特の解放感があるのは確かだし、その巨大なおっぱいが、あたかもそれ自体一つの生命を持つものであるかのように悠然と時間をかけて膨らみ、あるいはターリや観客からの働きかけに対して勝手気ままな反応を返す(空気を吸い込んだ、余りにも巨大なラテックス製のおっぱいは、なかなかこちらの思う通りには動いてくれない)、その様子が不思議にエンパワリングであることも、あるいはまた、そのような巨大で自分勝手で堂々としたおっぱいに対して、だからこそこちらも遠慮せずに触れたりぶつかったりすることが、これまた独特の高揚感をもたらすことも、間違いない。

けれども、そのようなダイレクトな解放感や高揚感を、「あれと同じおっぱいを持つ女であるわたし」「あれと同じおっぱいを持つ女を愛するわたし」によるダイレクトな共感に、あるいは「あのおっぱい」に対する「わたし」の欲望の全面的な達成の称揚*1に、ただ回収させることを拒むものが、このパフォーマンスには存在している。

非常に単純なレベルの話として、このおっぱいはとにかく巨大だ。大きいおっぱい、などという生易しいレベルをはるかに飛び越えたその巨大さは、おっぱいの「おっぱい性」をひるむことなく主張するのと同時に、「おっぱい性」を明らかに無視してしまっている。しかもこのおっぱいは、独立している。誰の身体についているわけでもなく、誰に操られるわけでも、誰の手中に納まるわけでもない(手中どころか腕の中にだっておさまらない)。ターリは息を荒げながら全力でこのおっぱいを動かそうとするけれど、おっぱいは押されれば勝手に戻り、引っ張られれば抵抗し、投げ出されれば跳ね返り、どうにも好き放題なのだ。そもそもおっぱいに空気を吹き込むのはターリではあるのだけれど、おっぱいは結局のところ自分のペースでゆっくりと膨らんでいくのであり、ターリも、そして観客も、おっぱいのペースにあわせておっぱいの準備ができるのをひたすらに待っているのであって、パフォーマンスの場を支配しているのは、明らかに、ターリからも観客からも独立したこのおっぱいなのだ。

このようなものとしてのおっぱいを、「私の持つおっぱい」「私の愛する彼女の持つおっぱい」に重ね合わせるのは、それほど容易なことではない。このおっぱいは誰かのおっぱいではないし、誰かを示す記号ですらなく、異様なまでの巨大さと自分勝手な存在感を持つそれが何かを示すとすれば、まさにこの「巨大なおっぱい」それ自身でしかありえない。確かにターリはそのおっぱいを欲望しているようではあるのだけれども、それではターリが欲望している、おっぱいでありおっぱいでない「それ」が、つまるところ一体何なのか、この巨大な物体の何がターリの欲望を引き寄せるのか、それを観客が本当に言い当てることは、できない。おっぱいは、ターリからも観客からも、そしてそのどちらの欲望からも独立した、いわば他者としてそこに存在する。おっぱいへの「女性としての」共感と同一化を阻む、あるいは「おっぱい」を想像的な欲望の対象として*2還元することを拒む、ある種の距離感が、そこには間違いなく生まれているのだ。

ここで興味深いのは、このような共感や同一化を阻む「距離感」を生むもの、つまりおっぱいの巨大さや独立性やある種の従順さの欠如というものは、まさしく、後半のパフォーマンスの解放感や高揚感をもたらす要素でもある、という点だろう。わたくしたちの安易な同一化や共感を、あるいはわたくしたちの欲望の想像的な対象へのおさまりの良い還元を、さらにはわたくしたちによるダイレクトな理解を拒むからこそ、逆説的に、このおっぱいはわたくしたちを魅了し続ける。このことは、前半のいわば「クローゼット」のシーンとの対比によって、一層明らかだろう。

このシーンにおいてもある種の距離感は間違いなく存在しており、それは何よりもまず、闇の中にうずくまったターリと、そこから離れたスクリーンに映し出される彼女の姿およびマイクを通して(つまりまたしてもターリ本人の身体が存在する場所とは違うところから)聞こえてくる彼女のつくりだす音との距離として、表現される。スクリーンに映しだされる薄暗いターリの映像と、そしてマイクで拡大された物音(ターリの呼吸音、マイクに口付けし、マイクを齧る音、そしてマイクが肌をゆっくりとこする音)とによって、観客はほとんど覗き見的な近さから、ターリのプライベートな空間に接している。しかし、まさにそこに、落とし穴があるのだ。観客が見て、聞いているターリは、ターリの空間には存在していない。ターリの身体はすぐそこに、目の前にあるのだけれども、ターリをとりまく闇と、スクリーンおよびマイク音量の圧倒的な大きさとのために、観客の注意はそちらへとひきつけられ、闇の中にいるターリからは容易に逸らされてしまう。*3

木枠の内部に備え付けられているらしいカメラに切り取られるターリのアップの映像は、インティメイトであると同時に息苦しい。観客は、ターリの身体から距離を置いたまま、ターリのインティメイトな空間を侵す招かれざる客として招かれているのであり、ターリの身体を無視してターリに不正に近接しているまさしくそれゆえに、カメラに切り取られた狭い領域を超えてターリの欲望に触れることはできず、それに巻き込まれることもない。そして、不正な近接のもたらすこの息苦しさは、もちろん、自らの欲望の抑圧された対象とともに木枠の中に押し込められ、欲望の対象を対象と認識することも許されないままに、欲望する姿を観客に距離をおいて眺められる(=欲望される)、ターリの息苦しさでもあるだろう。*4ここでは、観客のターリへの距離と不正な近接とは観客とターリとの断絶として、そして観客から距離を置いて存在するターリとターリの欲望の対象との強制された近接は同時に対象へと向かうターリの欲望の遮断(あるいはその禁止)として、機能している。距離と近接とのねじれて息苦しい関係が、距離の概念を不可能にする断絶を生み出すのだ。

そうであれば、後半の解放感・高揚感は、まさしく、そのように近接とのねじれた関係によって不可能になっていた距離が取り戻されることと、関係しているだろう。木枠を這い出すターリの行為がカムアウトとして理解されうるとすれば、そこでのカムアウトは、一つには、そのような距離の回復として、表現されているのだ。それは観客とターリとの間に明確な距離を置くことで観客による不正な近接を拒むものであり、そしてまた、ターリとターリの欲望の対象との文字通りの圧縮を拒絶することでターリの欲望を可能にするものだ。

断絶を拒絶し距離を回復するこのカムアウトは、しかしだからこそ逆説的に、ターリの欲望と観客とを近づけることになる。観客はもはや、ターリの身体と欲望とを黙殺して、スクリーンに映し出された欲望するターリを安全な距離から観察することができない。スクリーン上のターリを一方的に「見る=欲望する」立場にあった観客は、パフォーマンスの後半部においては、ターリと彼女の欲望の対象である(けれどもターリからは独立した)おっぱいと、文字通り同一のパフォーマンス空間の中に、同じ床の上に、身を置くことになる。観客は、ターリに働きかけられ、見つめられ、おっぱいにのしかかられ、おっぱいを押しのけ、ターリと共におっぱいの成長を待つ。今回、パフォーマンスの記録のためのビデオカメラがターリに挑発され、おっぱいを押し付けられたのは、その意味で象徴的な瞬間だっただろう。観客はもはやターリとその欲望への不正で一方的な近接をはかることはできない。ターリを見るものはターリに見られることを、おっぱいを見るものはおっぱいに立ち向かわれることを、予期しなくてはならないのだ。もちろんターリの欲望はおっぱいに向けられているのだが(そしておっぱいの欲望はどこに向けられているのか?わたくしたちはそれを知ることができない)、観客はその欲望に否応なく巻き込まれるのである。

そしておそらくそれはラストシーンにおいてこの上なく明確になる。

パフォーマンススペースの奥に巨大に膨らんだおっぱいが圧倒的な存在感を持って腰を据え(おっぱいが腰をすえるってどういうことよ、とふと思ったりするけれど)、ターリは離れた場所に、それと向き合って、立つ。そしてそのまま、ターリは小さく身体を振動させはじめる。じっとおっぱいに目を向けたまま、ターリの身体が小刻みに、しかし激しく震え始め、それと同時にターリの身につけたラテックスの衣装が互いに打ち付けられ、触れ合って、ぴたぴたぴたぴた、水に小さくさざなみが立つような音が会場に響き渡り、激しさを増し、そしてそれがクライマックスを迎えて、ターリの振動とラテックスの音とが、ひた、と止まって、パフォーマンスは終わる。このシーンにおいて観客はターリの欲望の対象が何物とも判別のつかないその巨大な「おっぱい」であることを確認するのだが、ターリの欲望の高まりは、ターリとおっぱいとの接近をもたらすことはない。ターリとおっぱいとが一体化し、溶け合い、あるいは絡み合うことで欲望の高まりとその成就が示されたのであれば、その時観客は再び「観客」としての安全な場に戻ることが可能になったかもしれない。けれどもそうする代わりに、ターリはおっぱいとの距離を保ち、おっぱいの他者性をそのままに放置し、そしてその遠くにいるおっぱいへと欲望をむけることで、パフォーマンススペースをターリの欲望で満たすのだ。観客をその中に置いたままで。

この時のターリは明らかにセクシーであった、とわたくしは思う。しかしそれは観客がターリを欲望するというのとは違うだろうし、おそらく観客がターリと共におっぱいを欲望するというのとさえ、違うかもしれない。むしろ、観客に向けられたのではないターリの欲望がターリに向けられたのではない観客の欲望を引き起こし、観客はターリの欲望に欲望し、あるいは自らの欲望がターリの欲望のどこかに巻き込まれ、自分がターリの欲望の中で、あるいはそれと触れ合って、欲望していることを、感じるのだ。わたくしたちはターリの欲望の対象が正確に何であるのかを知りようがなく、そしてターリの欲望の形態が正確にどのようなものであるのかすら知らず、ターリを欲望するのでもターリに同一化するのでもない。ターリも、ターリの欲望の対象も、そしてターリの欲望の形態も、わたくしたちにとっては異物のまま、他者のままだ。それにもかかわらず、わたくしたちは自分の欲望がターリの欲望に連なっていること、そこに巻き込まれてしまっていることに、気がつくのである。

そしてこれがターリの「カムアウト」の第二の、そしてよりラディカルな、意味であると言えるだろう。このパフォーマンスにおける「カムアウト」の行為は(それをカムアウトを呼ぶとして)、何よりもまず、カムアウトの場に立ち会う者の欲望のあり方を変える、あるいはその者の自分でも知らなかった欲望のあり方に気づかせるものなのだ。その意味で皮肉なことに、ここでの「カムアウト」は、パフォーマンスの中で流される尾辻かな子府議のカムアウトについての語りが示すものとは、根本的に異なっている。尾辻府議は、レズビアンとしてカムアウトしたことによって、かえって欲望の対象とみなされることがなくなってセクシュアル・ハラスメントが減ったかもしれないと、つまり言葉を変えれば、別の欲望の体系に属していると示すことによって異性愛の欲望の体系からは切断されたのだと、冗談まじりに語る。しかしターリのカムアウトのパフォーマンスが実行するのは、異なる二つの欲望の体系の間に存在することになっている断絶を拒絶することであり、異なる体系に属していたはずの欲望を自らの欲望に巻き込むことだ。*5わたくしたちが「カムアウト」のインパクトについて語るのであれば、これ以上強力なカムアウトを想像することが、できるだろうか。

そうであれば、「恐れはどこにある」のか。それはおそらく、ターリを閉じ込める木枠とそれを取り巻く暗闇に、そのターリに不正な近接をはかる観客に、その両者の間に存在するように見える断絶に、さらには、木枠から這い出した後、観客の反応をあらかじめ予期できないままに自らの欲望の場へと観客を(今度は許容された参加者として)招き入れるターリに、それぞれ存在しているだろう。しかしそれは同時に、ターリのパフォーマンスに立会い、ターリの欲望に巻き込まれざるを得なくなった観客の中に、存在しているだろう。異物によって構成される欲望の場に自分達の欲望が巻き込まれていくことを、いや、より正確に言えばおそらくはそこに自分達の欲望が既に巻き込まれていることを、わたくしたちは受け入れることができるだろうか。それともわたくしたちはその欲望に背を向け、異物によって構成される欲望をわたくしたちからは断絶したものとして再び木枠に押し込めたいと願うのだろうか。ターリのパフォーマンスによってわたくしたちは、その「おそれ」をどうするつもりなのか、問われているのである。

[]しかし

こんな長文をだらだら書いているから更新が重荷になるのですよね。っていうか仕事しろよ、って思います。はい。

[]

久しぶりに更新したので胸のつかえがとれてカウンタなどを確認してみました。

全然更新しないのにたずねてくださる方がいらして、それはもう本当にありがたいというのか申し訳ないというのか、多分その両方でぐだぐだなのですが。

今月の5日、6日、7日早朝あたり、「バイセクシュアル」検索でいらした方が微妙に目立つのですが。七日にあった「バイセクシュアル」関連の文献討論会出席者の方でしょうか(笑)

ぎりぎりになって「バイセクシュアル」でネット検索しても余り文献読解上は意味がないのでは。

[]セクシュアル・アイデンティティ

寝る前にふと「そういえばバイセクシュアルで検索して来る人は文献討論会の後は減っているのだろうか」と思ってもう一度カウンタを確認したら(減っていました。笑)、ここ二日ほど、「セクシュアル・アイデンティティ」の検索でいらっしゃる方が多いことに気がつきました。ここは検索で上位にひっかかるような人気のあるブログではないので、普段は検索エンジンからおいでになる方は殆どいらっしゃらないのだけれど、何?大学レポートとかそういう時期じゃないような気がしますが。

セクシュアル・アイデンティティでわたくしのところにいらしても、まとめて何が書いてあるわけでもなし、つくづくお気の毒ですわよねぇ?

*1:「わたしはクローゼットから出てレズビアンの欲望を満足させたのよ!」

*2:つまりターリの、あるいは観客の欲望の理想的な対象として、そしてそのようなものとしてのみ存在するものとして

*3:実際、このシーンでわたくしは何度か観客の方を眺めてみたけれど、もちろん観客全員を最初から最後まで観察できたわけではないにせよ、観客はの多くは、ターリのうずくまる闇の方ではなく、それと逆の方にあるスクリーンを見つめていた

*4:これが「クローゼット」を余儀なくされしかも同時にポルノグラフィックな欲望の対象に設定されもする「レズビアン」の状況といかに痛切に呼応するものであるか、それはあらためて指摘するまでもないだろう。

*5:そしてこの構造は、観客がレズビアンであろうとそれ以外であろうと、その根本においては変わらないだろう。既に述べたように、ここでの「おっぱい」はレズビアンの欲望対象を表象するものとしては回収されきらないからである。