バイセクシュアルを可視化すること

Vice Versa: Bisexuality, Eroticism and the Ambivalence of Culture
_Vice Versa: Bisexuality and the Eroticism of Everyday Life_ by M. Garber*1
ものすごく昔に買って、その厚さにうんざりして本棚に放り込んだまま失念し、二年に一度ほど「あ、これそのうち読まなくっちゃね。うふ」などと思って、でもそれはいつでも「そのうち」であって「今」ではないのでまた本棚に放り込み、そのまま失念する、という作業を繰り返してきた本。
研究会があったので渋々読みました。途中まで。
わたくしがまともに読んだのは前半部分のみで、そこは結構興味深い。具体的にバイセクシュアリティがいかに不可視化されてきたのか、バイセクシュアリティが「大流行!」(疫病のごとく*2数十年周期で流行するようです)する時でさえそれがいかにあたかも「バイセクシュアリティ」ではないような捉え方をされていったか、そういう話はなかなかにスリリングだし、「歴史上有名なゲイ/レズビアン」のあの人もこの人も(アレクサンダー大王からオスカー・ワイルドまで)、ちょっと待ってよみんなバイじゃ〜ん、というまあしょ〜もない確認も、そうそうそうなのよね程度の笑いにはなるし、まあそもそも10年以上前に書かれた本であることを考えれば、必要なステップではあったろう。さらにたとえばそういう「この人はゲイかレズビアンかバイか」という(繰り返すけれども、しょ〜もない)推測ゲームが始まったときに、「バイはみんな嘘つき(ヘテロを偽装している)、そうじゃなければ弱虫(自分を受け入れられない)、そうじゃなければ未成熟(本当のセクシュアリティまで成長しきっていない)」という前提のモトで「だからこの人もあの人もゲイ/レズビアン」になっちゃうっていうのはこれはどうよ、という指摘も、まあ今更珍しくもない基本的なものとはいっても、豊富な資料と共に一応抑えておいてくれるのは、それはそれで嬉しいし。
バイセクシュアルの不可視化の歴史の中でとりわけ気持ちよく苦く笑えたのが、以下の部分。1990年、ノーサンプトン*3レズビアン&ゲイ・プライド・マーチが、その前年につけ加えられたばかりの「バイセクシュアル」をマーチの名称から外すことを決定した時の話。*4不勉強にして知らなかったのですが、これは結構有名なごたごたらしく、ぐぐったら色々出てきます。こんな論文もあったりして読みたかったのですが、自宅からはアクセスできない*5ので、未読です。で、この時のオーガナイザーはバイセクシュアルをマーチの名称から外すことは「政治的連携の表明であって、バイセクシュアルの個々人を拒絶しようとするわけではない」と主張していたそうで、何か聞いたことがある感が非常にただようのだけれども、まあそれはそれとして。

Lesbians in the Northampton area wrote the local gay press with anger and indigation to ask why bisexuals insisted on "attaching" themselves to their community. "Proponents of the inclusion," wrote the Boston gay paper _Bay Windows_, "claim the word would allow for a more diverse and accurate celebration, and that gays and lesbians are being 'biphobic' when they exclude bisexuals. They say excluding them is tantamount to heterosexuals excluding homosexuals. Opponents counter that bisexuality is a different experience [from] homosexuality, and that events such as pride marches should reflect their specifically gay and lesbian history. If bisexuals want to celebrate their differences, they say, let them do it with their own resources and organizations."(_Vice Versa_ p.81)

簡単に訳すと

地域のレズビアン達は、いったいどうしてバイセクシュアルたちはレズビアンのコミュニティに「くっつこう」とするのか、と地元のゲイ・プレスに怒りの手紙を書いてきた。ボストンのゲイ新聞であるベイ・ウィンドウズによれば、「バイセクシュアリティを含むことに賛成する人たちは、バイセクシュアルを排除しようとするゲイやレズビアンは『バイフォビック』なのだと主張する。バイセクシュアルの排除は、ヘテロセクシュアルによるホモセクシュアル排除に等しいではないか、と。しかし、反対派の人々は、バイセクシュアリティはホモセクシュアリティとは異なる経験なのであって、プライドのようなイベントは、ゲイやレズビアンの固有の歴史を反映するべきなのだ、と反論する。もしバイセクシュアルたちがバイセクシュアリティという差異を祝いたいと思うのであれば、自分達のリソースと自分達の組織を使って勝手にやってくれ、というのだ。(強調はtummygirlによります)

ガーバーによれば、アメリカではバイセクシュアルを含むなという主張は主にレズビアンの団体から提出されていたようで(レズビアンフェミニズムの強力な遺産ということか。あるいはそれに対する反動なのか)、そこら辺は日本とは違うような気はしますが、しかしなんと言うか、いずこも同じ秋の夕暮れ。というか、まあこの時点ではどうやらトランスは議論にすらなっていない模様で、それもそれでどうかとは思うわけですが。
まあ、これは明確にして意図的なバイセクシュアル排除であるわけで、その意図と名称とが相互にきちんと反映しあっている点で、いさぎよいといえばある意味いさぎよいとさえ言えるような気がします。その点では、上でちょっと触れた「バイセクシュアル個々人を排除しようと思っているわけではない」云々は、明らかに排除しようとしているのに、その意図を糊塗しようとしているという点で、さらに一層ど〜なのかな〜と思ったりもするわけなのですが、いずれにせよ、ガーバーによれば、バイセクシュアリティはこのような政治的選択としての意図的排除という形をとらなくても、ふと気がつくと不可視化されているもの、らしい。
彼女がその理由としている(らしい)のは、バイセクシュアルがそもそも単一で固定した欲望形態に基づく一つのアイデンティティという概念に抵抗するものだ、ということ。

Bisexuality [...] constitutes itself precisely as resistance -- the "refusal to be limited to one" -- even if that "one" is defined as "bi." (ibid. 160)
バイセクシュアリティとは、まさしく抵抗としての、すなわち、「一つに限定されることへの拒絶」としての、性質を帯びるものである。たとえその「一」が「二(bi)」として定義されるものであったとしても。

つまりバイセクシュアリティは「バイセクシュアリティ」という一つのアイデンティティを構成することができない、より正確には、アイデンティティを構成することができないということそれ自体がバイセクシュアリティなのだ、と。従って、単一性、均一性、あるいは固有性を根拠とするアイデンティティの議論においては、バイセクシュアリティはどうしても抜け落ちてしまう*6
それとの絡みでちょっと面白いなと思ったのが、ひびのさんの最近のこのエントリ。わたくしは「尾辻さんに意見を送っても意味がない」とは思わないし、彼女の政策集における「セクシュアル・マイノリティ」の定義から「バイセクシュアル」が除外されていることが(それを言えば、「性同一性障害」は入っていても「トランス」は言及されないことも)意図的な排除であっただろうと考える根拠も、わたくしには、特にない。とりあえず「形だけ」であったとしても、「LGBT」という表現を使おうとしているのは嬉しいし、関西レインボーパレードもやはりそこのあたりを考慮した名称なのだろうと(勝手に)思っている。それでも、そうやって「セクシュアル・マイノリティ」を定義する個々の実践のうちに、バイセクシュアリティが(この場合はトランスも)不可視化され続けている、というひびのさんの指摘は、正しいだろうと思うし、尾辻さん個人への攻撃ということではなく、そういう指摘は重要だろうとも思う。
実は、同じ問題は、「新木場事件を繰り返さない」の要望書にも見て取れる。ここでも「同性愛者や性同一性障害インターセックスなどのセクシュアルマイノリティ」という表現が繰り返される中で、もちろん「など」が担保になっているとはいえ、バイセクシュアリティやトランスジェンダー性同一性障害の認定を受けるつもりのないトランスセクシュアルなどは、結果的には不可視な存在となってしまっているのが非常に気になったのだった。「など」があくまでエクスキューズとして担保されているに過ぎないということは、たとえば、「道徳での『多様性の尊重』において、同性愛も多様なセクシュアリティのひとつとして尊重されること」が、「多様なセクシュアリティについて教育内容として取り上げる」ことを求める要望として独立項目になっていること(そして、それと並列する形で、たとえばバイセクシュアリティは言及されないこと。あるいは、「多様性の尊重」において「多様なジェンダー」の尊重について取り上げることは、とりたてて言及されないこと)からも、見て取れるだろう。もちろん、この要望書は何よりもまず新木場事件という「同性愛者」をターゲットとした具体的な事件への反応として出されたものであり、「同性愛者」が優先されるのはその意味では当然なことだと考えることもできるし、そうであればそこであえてそれ以外のセクシュアル・マイノリティに言及したことは評価するべきであって、批判するべきことではないのかもしれない。まあ少なくともわたくしはそう考えて賛同したのだけれど*7、そこの指摘はきちんとしておくべきだったのかも<相変わらず後になって反省。
しかし、たとえばガーバーに従うと、そもそもバイセクシュアリティはアイデンティティとしては成立しないわけで、そうなると、成立しないアイデンティティを含むも排除するもない、ということになる可能性もあるような気がする。ガーバー自身は明らかにそういう方向に進んで行くようで、彼女は本書の後半部においては(わたくしはまともに読んでいないので、研究会での説明を聞く限りは、ということですが)、バイセクシュアリティを

  1. 時間につれて変化する欲望のその総体を指し示すものである
  2. 一対一ではなく、第三項を常に参照するような欲望のあり方を指し示すものである

という方向で説明しようとしていくようなのだけれど、わたくしはこれはもうどうかな〜、と。バイセクシュアリティが現行のジェンダーセクシュアリティの規範においてはアイデンティティとしては成立しないだろう、というか、おそらくそこで成立しない欲望やセクシュアリティのあり方をとりあえず投げ込んだものがバイセクシュアルというカテゴリーであろう、というのはわたくしも賛成なのだけれども、ガーバーのこの図式は結局のところバイセクシュアルの理想化=他者化におわる可能性が高い。そもそも1にしても2にしても、バイセクシュアリティだけではなく、ホモセクシュアリティであろうとヘテロセクシュアリティであろうと、欲望というものには必ずつきまとう性質だし、それをバイセクシュアリティに限定するのは、ホモ/ヘテロセクシュアリティに内在しているけれどもとりあえずアイデンティティ・ポリティクス上不都合な要素をバイセクシュアリティに押し付けて、バイセクシュアリティを理想化しつつ、バイセクシュアリティ(と、そこに押し付けられた諸要素)を決して実現できないものとしてぶん投げてしまっているのに等しい*8。以前のエントリでも書いたように、バイセクシュアリティが「抵抗である」とすれば、それは欲望対象の選択において対象の性別という項を特権的に扱うジェンダー制度への抵抗であり、バイセクシュアリティがアイデンティティとして成立しないとすれば、バイセクシュアリティを「バイ」としてまとめることを要請する制度そのものを「バイセクシュアリティ」が疑問視するからであって、欲望の形態として常に不定であるからでも時間に沿って変化するからでもないはず。だと思います。ていうか、このあたりのことを、こちらのコメント欄でid:maki-ryuさんがきれいに説明してくださっているので、よろしければそちらを。
ということはつまり、バイセクシュアリティがアイデンティティとしては成立しないよ、うふ、と言って終わってしまえば、結局のところ、バイセクシュアリティの不可視化を要請するようなホモ/ヘテロの固定的二分法とその根底にあるジェンダー制度とは揺るがないわけで、必用なのはバイセクシュアリティをバイセクシュアリティとして可視化しつつ、バイセクシュアリティとして「しか」可視化されないのはどうなのよ!ということをぶちぶちと言い続ける、ことなのかもしれない。あるいは、バイセクシュアルを可視化することの困難さを指摘し続けること、それ自体に「バイセクシュアルの可視化」の意味があると言ってもいいのかもしれないけれど。*9

*1:どうやら近年は_Bisexuality and the Eroticism of Everyday Life_と、サブタイトルがメインタイトルに変更になって発売されている、らしいです

*2:とか言う比喩がそもそもいけないのですが

*3:ってイングランドだとばかり思っていたのだけれども、合衆国にもあるらしい。マサチューセッツ州だそうですよ

*4:92年には再びバイセクシュアルが含まれるようになり、現在はLGBを一切はずしてNorthampton Prideになっている模様です。

*5:大学からも多分できない・・・オンラインなのに。論文一つだけ購入するかどうか悩んでます

*6:このあたりの可視性と単一性・固有性の問題については、イリガライの議論を参照するといいような気がするのだけれど、ここでは省略

*7:と言ってから確認してみたら、賛同者に名前載せてもらってないですよ!涙ですよ!賛同してくださいと言って断られることはあっても、賛同したいですと申し出て断られるっていうのは、どういうことでしょうか。っていうか賛同ありがとでした、みたいなメールを戴いた気がするのですが、何らかの見えざる手が働いて除外されたのでしょうか。<ぱらのいあ

*8:ものすごく強引に言ってしまうと、ここでガーバーがやっていることは、ホモセクシュアリティって許されない愛だからこそ至上の愛なのよ!というのと、あんまり違わんような気がするのですが、わ〜でもそんなことちょっと表立っては言えませんから、撤回します<ガーバーは「ものすごく」オオモノなので、オオモノに弱いわたくしは圧倒的に腰が引けます

*9:まあ、それでも「何故そこまでして可視化したいのか」「政治的に何がかかっているのか」などと言われることはあるわけで、具体的に何がかかっているのかと言われれば、「性別を第一基準にして欲望、恋愛、あるいは人生のパートナーの選択をしないでもすむこと、そしてそれによって不当な法律上・社会生活上の不利益や心理的圧力を被らなくてもすむこと」になるわけです。それじゃゲイとかレズビアンとかの権利が認められれば結果としてはそれですむわけだからいいじゃん!という話になるらしいですが、「選択したパートナーの性別によって不当な法律上・社会生活上の不利益を被らないこと」を、「同性のみをパートナーにする人間として」主張しなくてはならないというのは、それはそれで「心理的圧力」でもあるわけで、そこがちょいと違う、というのか。

ちなみに

ちょっとずれるけれども、上の本で興味深かった記述の一つに、エイズ・パニックの時の合衆国でバイセクシュアルバッシングが激しくなった、というものがある。要するに、ゲイ男性がエイズでどんどん死んでいくのはヘテロ社会としては別に気にならな〜い、どうでもいい〜、という感じで無視できるはずだったのに、そこに「バイ(特にバイ男性)」という存在がいると、「ゲイの病がおぞましい隠れバイ男を伝わって無垢なヘテロ女に!そしてそれがヘテロ男に!」みたいな経路が想定できてしまうので、バイ男許すまじ!ということなのだけれど。
この経路、2ちゃんねるなどで時折見かける「外国人男とやる日本人女が性病を日本の国内に!」というパターンとそのまま重なるので、余りにもわかりやすくておかしいくらい。要するに境界を横断する性、分けられているはずのカテゴリーをつなぐセックスというのは、常に激しく警戒されるという、見本みたいなお話。そういうのを読んでいると、バイで外人とやりますが、それが何か!みたいな、無意味に攻撃的な気分になりますわね(アセクでモノガマスですけれどもね)。