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15-11-07 (Thu)

[][]「狂女」たちのフェミニズム

大分以前に書きかけたエントリで(その後、まあそういうことになって新しいエントリをきちんと書く余裕がなかったりもしたので)、かなりタイミングのずれがある上に、特に答えがあることではないのですけれども(<これはいつもですわね)。

以前のエントリで触れたfont-daさんの考察に、「大学フェミニストイメージ戦略」に関する疑問があって、わたくしは「イメージが悪いことはわかっても、それについてはどうしようもない」と書いた。そして基本的には「どうにかしたくても(というより、どうにかしたいのだけれど)、どうしようもない」と、おそらく今でも、思っている。

けれども同時に、ちょっとだけ、思う。イメージが悪かったら、いけないのだろうか。

確認しておきたいのだけれど、これはfont-daさんが仰っていることへの直接の反論ではない。あのエントリでの「イメージ戦略」は非常に特定された文脈における特定されたイメージの話であって、ここでわたくしが書いているのはそれに触発された別の話である。「フェミニズムに親和性がある」と言っている人を、それにもかかわらずフェミニズムから遠ざけてしまうようなイメージをまき散らすのは、もちろん業界的には望ましくないのだろうし、そもそもfont-daさんの御指摘のケースについては(アカデミアという知の特定の形をめぐる権力構造に依拠した「啓蒙」の問題については)たしかにそこには問題があるとも思う。

その上で。

イメージのよしあしというのは、言うまでもなく、難しい問題である。わたくしにとっての「フェミニストのいいイメージ」が、他の大学人フェミニストが感じるそれと同じだとは限らないし、完全に大学業界外の人間で、しかもフェミニズムには一定の親和性のあるわたくしのきょうだいや友人の感じる「フェミニストのいいイメージ」が、同じように大学業界の外でフェミニズムに親和性を感じている別の誰かのいだく「いいイメージ」と同じとも、限らない。

しかしそれはある意味ではどうでも良い話であって、気になるのは、フェミニスト(あるいはフェミニズムでも良いのだけれども)というのはそもそも「良いイメージ」と親和性が高いのだろうか、ということだ。あるいは「フェミニスト」を自認するわたくしが他の「フェミニスト」に対して、その人が「良いイメージを(他の誰かに)与えること」を期待/要請するというのは、かなり奇妙ではないだろうか、ということでもある。

これは、ある人(あるフェミニスト)の主張に対して、それは正しくないとか賛成できないとかという批判を投げかけることとは、違う(わたくしはそれはあっても良いし、むしろあるべきだと思っている)。「正しい」ことを言っていてもイメージの悪い人/団体もあるだろうし、その逆のケースもあるだろう。

ただし、「イメージ」について言えば、少なくともフェミニストではない「一般の」人々にとって、フェミニズム(あるいはフェミニスト)の「イメージ」が良かったことは、それほどあるのだろうか。「髪を振り乱し」「気がふれて」「うらみ節で」「醜怪で」「ヒステリーを起こし」ながら、しかも「他人の迷惑をかえりみず」「押し付けがましく」「自分勝手に」振るまっている女、というのが、いわば「由緒正しい」フェミニストのイメージだったのではないかと思う。そしてそれは勿論「フェミニズム」にとっても「フェミニスト」にとっても、一面でとても不幸なことではあったけれども、同時にその反面、少なくとも「フェミニスト」の一部にとって(そして「フェミニスト」を遠巻きに見ていた女性たちの一部にとって)、それは喜ばしいことでもあったのかもしれない、とわたくしには思える。

「まともさ」の域外で「悪いイメージ」とともに髪振り乱して自分勝手に生きている女性たちを知ることは、とりわけその女性たちが時に驚くほど幸福そうであったり闊達であったりすることがあるのを見る時、不思議なよろこびと力をもたらしうる。「悪いイメージ」を与えられることを恐れなくても良いのだという実感のもたらすよろこび。「良いイメージ」を持たなくても生きていけるのだという実例のもたらす力。単純ではあるのだけれども、フェミニズムにとってそれはやはり重要な力なのだと思うし、逆説的にフェミニズムの「最良のイメージ」の一つを構成するものでもあるのだと思う。へたれ机上フェミとしては、やっぱり「まともさの域内」にとどまって戦うという戦略を、自分では採用したいわけなのだけれども、ヒューマニ系としては、おそらくそこにとどまらない(少なくとも表面的な感覚のレベルにおいてはとどまらないように見える)ことの力をも、どこかで信じていたりするわけで<優柔不断

「良い(あるいは受け入れうる)イメージ」の問題は、フェミニズムの制度化の問題と直接に繋がっている。「フェミニズム」をより広く浸透させようとすれば、ともすれば不必要な同一化の拒否を引きおこすような(「あんなのと一緒にされたらたまらない」)、あるいは恐怖感や嫌悪感を引き起こすような(「あれはちょっと無理」)、そういう形象は「フェミニズム」から極力取り去るべきだということになるだろうし、そういう「フェミニスト」はむしろ余り前面にはしゃしゃり出てくれるな、ということになるだろう。けれどもその時に「フェミニズム」はひどく退屈でやせ細ったものになってしまう。

繰り返すけれど、これはfont-daさんのエントリへの批判ではない。他の「フェミニスト」を見て「この人はわたくしちょっとだめ、引いちゃうわ」「こういうやり方で<フェミニスト>って言われても困るわ」と思うことが、わたくしにはたまにある。というより、最近まさにそういう出来事があって、font-daさんのエントリとコメントとを拝読しながら、その事が苦い気持ちで思い出されたのだった。引かれているのはお前だよ、というのはとりあえずおいておいて、その時のわたくしの勝手な個人的な視点から見ると、同じフェミニストとしては「わたくし」より「この人」の方が「ダメ=イメージ悪い」なのであって、「ちょっとどうにかして頂戴よ、これでフェミニズム語られてもみんな引いちゃうわよ」という事になっている。

さらにもう一つ繰り返せば、これは主張の妥当性の話でもない。主張の妥当性だけが問題であれば「その主張はこういう理由で同意できる/できない」という話になるだろう。そうではなく、「イメージ」というか「感じ」というか、そういうレベルの話である。勿論これはとてつもなく傲慢な姿勢であって、それ自体まったくもってとんでもない話なのだけれども、それにもかかわらず、一瞬、「でも<フェミニズム>に対して、良いイメージを持ってほしい/間違えたイメージを持ってほしくない」みたいなことがわたくしの脳裏をよぎり、その瞬間には「良いって誰にとってよ?」とか「間違えたって誰が決めるのよ?」とかいう問いはすっきりと消え失せてしまっている。その時わたくしはフェミニズムにとってきわめて重要であるはずのものを、フェミニストとして、否定しているというのに。

要するに、あれです。それと極めて類似した傲慢さと愚かしさに直面した時にそれを批判するのは簡単だけれども、そうは言っても、そういう「感覚」をもたらす愚かしさと傲慢さとが自分の中にも拭いがたくしっかりと根を下ろしていることを、忘れるべきではないなあ、と。

12-11-07 (Mon)

[][]ジョディーしか目に入らない(ネタばれあります)


先日、本当に久しぶりでパートナーのPと外出。のんびりパートナーと外出するような気力と体力と仕事上のゆとりが最後に揃ったのは、もう思い出せないくらい昔です(いやそれはちょっとオーバー)。で、映画でも観ようよということになったのですが、日本語字幕についていけないPが観られるのは英語の映画のみ。それに加えて、台風の中サポートに来させた引け目もちょっとあったのでPの好みで映画を選ばせてみたところ、なーんとジョディー映画にあたってしまいました。個人的には今年一番見たい映画だと思っていたパンズ・ラビリンスに行きたかったのにしくしく(多分この先も時間ない)だったのですけれども、結局観たのは「ブレイブワン(ニール・ジョーダン監督、ジョディ・フォスター主演、2007)」(以下ネタばれがあります)。





正直どうなのだろう、この映画。そもそも。恋人を殺されて自分も半殺しの目にあったばかり、はじめての外出で街を歩く他人がすべて怖いという人が、見知らぬ男に「銃売ってやるよ。撃ち方も教えてやるよ」と声をかけられて、いきなり路地抜けて長屋抜けてついていくだろうか?わたくしなら、速攻逃げます。いくら現実世界の「ありそうさ」がそのままフィクションには当てはまらないとはいっても、フィクションならフィクションで、「あり得そうにない出来事をあり得ることとして納得させる技法」が必要ではなかろうかと。

そして「あり得そうにない出来事をあり得ることとして納得させる」という点を圧倒的に妨げているのが、ジョディーと二人の男性(死んでしまう婚約者と、彼女と不思議信頼関係を結ぶ刑事)との関係の描写である。その死がそれに引き続く一連の行動を引き起こすだけの圧倒的な喪失として残るような、婚約者とのつながり。そして、説明はつかないながらも、互いにみずからの存在をゆだね合うような、刑事との確実な信頼関係。この映画が説得力を持つためにはその二つの感情の強度が絶対に必要なはずなのだけれども、とにかくそれが著しく欠如しているのだ。

ジョディーが婚約者と愛し合っている(いた)ということは確かに台詞では示されるし、それなりにセックスシーン(もどき)もあるのだけれども、何だかどうにも「ストーリーを起動させるためにもうすぐ殺される(あるいは殺されちゃった)人と、主人公」というだけの関係にしか見えない。

刑事との関係についても、具体的なエピソードの積み重ねが不十分なだけに、「こいつらは運命で結ばれるのだからつべこべ屁理屈言っても仕方ないわよね」くらいの強烈な化学反応が必要だと思うのだけれど、これまた「あ、先日喫煙所でお目にかかりましたね」「やあ、その節はどうも」くらいの、ゆるく淡白な感情の交換しか読み取れない。二人の手がふと重なり合うというような「思わせぶり」シーンすら用意されているのに、そこから「思わせぶりな雰囲気」は頑として伝わってこないのだ。

というわけで、ラストシーンはジョディが「勝手に」犯人を射殺してしまうとか、さもなければ、もうこの際毒食わばナントカで刑事も射殺するとか、そうでもしてくれないことには、どうにもおさまりが悪い。私刑行為の最後の最後に刑事に助けられるという設定は、それこそ感情が伴わないのに「この二人はもはや運命共同体」設定だけを勝手に進行させる感じで、ちょっときつい。


けれどももしかすると、その「おさまりの悪さ」が重要なのかもしれない、とも思う。そのような圧倒的な感情的説得力の欠落ぶりがあまりに露骨というか、お地蔵さん同士だって撮りようによってはもうちょっと恋に落ちているように見えるだろうよ、というような状態なのは、もしかすると最初から感情的説得力を意図的に拒絶しようとしている、ということの表明なのかもしれない。つまり、「そもそも感情的説得力がないわけよ、暴力ってのはさ」というところがポイントであるということかもしれない。暴力が暴力を生むのであって、そこに挿入される「愛の言説」は全くもって無意味エクスキューズにしか過ぎない、と。

いやそれって今更?とも思うけれども、逆に、今だから重要なのかしら(英米の外交戦略への批判?)とも思ったり。いや、それでもやっぱり今更、かも。そういう意味ではちょっと『ショートバス』にも通じるのだろうか(わたくしにとってのあの映画の唯一最大の魅了は、セックスは愛じゃなくて(少なくとも愛であるよりはるかに大きな割合で)それなりの訓練を要する身体行為である、と主張しまくっているところだと思うので<これも目新しいわけではないけれども)。

ただ、ジョディーと二人の男性との「愛」が全くもってただのエクスキューズであることを白々と見せることそれ自体がポイントであるのなら、ジョディーというのは良いキャスティングなのかもしれない。そのセクシャリティをめぐるゴシップがその役柄にかすかに参照されてきたハリウッド・スターの系列に連なる一人。

他に気になった点。とりあえず主人公と感情的なつながりを持つ男性二人が有色人種であることによって、レイシャル・ポリティクス上の危険は回避されているのだろうか。っていうか、それなりに意味のある男性役って、全員非・白人で、その中止に真っ白いジョディーがいるわけで(映画の中でもわざわざ「肌がきれいで、ナチュラルブロンド」と呼ばれる、スノー・ホワイトなジョディー)、そのあたり何かあきらかにアヤシイ。


というわけで、映画自体は、多分、面白くありません。

それでは退屈だったのかというと、個人的にはそうでもありませんでした。この映画のジョディーは、格好いいのです。役柄がではなくて、髪型とか、服装とか、それより何より、小柄な身体の肩のあたりのいかり方とか、不機嫌そうな唇のひき結び方とそれにつれて少し強張った顎のラインとか、足の運び方とか、用心深さと挑戦的なところとその場から少しだけ身を引いたようなところが入り交じった目つきとか。わたくしの好みの女優さんのタイプというのはここのところかなり固まっていて、以前に大好きだったジョディーからはちょっとずれてきていたのですけれど、いきなりこう、古い忠誠心がよみがえるというか。

以前からわたくしにとっては、ジョディーはいわゆる欲望/同一化という二項の双方の対象として同時に存在してしまう人だったのですが、その点も相変わらずで、ジョディーいいわあ、近くにいたいわあと思うのと同時に、ジョディーのヘアスタイル見て髪切ろうかしらと真剣に考えたり。ちゃんと運動再開しなくちゃとか、ああいうジャケット欲しいなとか。何か方向性がずれてきていますが。

とにかく、ジョディーしか目に入らない。スターを配した映画としては、ある意味王道の楽しみ方が出来たということで、わたくし的には十分にモトのとれた映画でございました。

10-11-07 (Sat)

[]コメント欄のみのエントリ

ですよ。下のエントリでコメント欄がいっぱいになってしまったようで書き込みができないので、こちらのコメント欄にあげます。

ただし、一点だけ。そろそろ疲労がたまっています。ここまでの議論をきちんと読まず(読めず)、新しい論点を出すでも疑問を提示するでもなく、すでに説明してあることをただ蒸し返すだけのコメントに対しては、レスポンスをしない可能性があります。最低限の礼儀をわきまえて議論をしようという態度すら見えないコメントについても、同様です。

06-11-07 (Tue)

[]これがおそらく、「『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさ」

[追記]

追記って最初に書くのもどうかと思いますが。

コメント欄で「通りすがり」さんからの御指摘いただいたように、「映画製作上映の試み」への評価を一切せずに特定の発言を取り上げたのは確かに失礼であり、その点についてはお詫びを申し上げます。

今回の試みは意味があるものだと思っています。それが成功して多くの観客を集めたこともすばらしいと思いますし、今後も再上映の機会があったり、あるいはGLOWに限らず他の大学でさまざまな自己表象の試みがうまれたりしてほしい、とも思います。

また、以下でも繰り返すことですが、以下のエントリは「映画」についてではなく、「企画」についてでもなく、その時のトークであったと報告された特定の発言についての批判です。わたくしは映画自体は見られませんでしたので、それについての判断をすることはできません。

最後に、本エントリのタイトルですが、「これがおそらく、『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさ」というのは、わたくしのエントリ自体を差しています。エントリにおいて言及したakaboshiさんのブログにおいて、この映画を『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさがなくて良いと評価されていましたので、そこから援用して「わたくしのこのエントリは、まさに、プロパガンダ臭ただよう押し付けがましいエントリになるのだろうなあ」と思ってつけたのが、このタイトルです。エントリの文中で複数回にわたって「わたくし押し付けがましいですね」という自己言及を入れたことでその意図は伝わるだろうと思ったのですが、そうでもなかったようです。不明瞭な表現であったことについて、お詫びを申し上げます。(この点については、どうも消えてしまったような気がする今朝のコメントでも書いたのですが、それが消えてしまったわけなので、ここであらためて書いておきます。)

************

LGBT可視化に向けて074●早大GLOW「ゲイとビアンのキャンパスライフ」にパワーをもらうから。

一連のトークの司会を担当した監督の小林浩之さんが、念を押すように語っていた言葉が印象的です。

 「『おネエMANS』とかで、同性愛者に対して派手なイメージを持っている人が多いけれど、実際はフツーで日常に暮らしているんだということを伝えたかったんです。だから、映画の中で日常的な場面をいっぱい撮りました。日本では90年代ゲイブームというのがあったのですが、それはメディアの中だけでした。日本は欧米に比べて大幅に立ち遅れています。まるでアメリカの70年代の頃のように、まだまだカミングアウトどころか自分のセクシュアリティーを認めることすら出来なくて悩む人がたくさんいるんです。だから、この映画のレベルは、非常に『古い』ものなんです。」

学生さん(?なのですよね?)に絡むのもどうかと思うし、上映の案内をいただきながら実際には見に行けなかった負い目もあったりするのだけれども(だから当然映画それ自体については何も言いようがないのだけれども<でも「ゲイとビアン」なんですもの。またここでいちいち言うのって疲れる、と思ってちょっと萎えました)、色々なレベルで上の発言は何か微妙。

「日本では90年代ゲイブームというのがあったのですが、それはメディアの中だけでした。」って、これはかなり検証や批判が必要な気がする。わたくしは自分自身が当時コミュニティにも何らかのアクティビズムにも参加してはいなかったのだけれど、それにしたって。

メディアの中でゲイブームがあったのは確かだけれども(「美青年」ゲイ映画のブームとか)、同時にそれこそアカーの府中青年の家の裁判があり(それはメディアでも報じられましたが)、ダイクマーチや何かがあり(「コミュニティ」から断絶していたわたくしでも噂として聞いてはいた)、アカデミアではゲイブームというよりはクィア理論のブームがあってかなり興味深い論文執筆されたり翻訳されたりしはじめており、そして「メディア」を通じてではあっても確実に多くの人に届いた「女を愛する女たちの物語」のような出版物や、それを通じて可能になる出会いがあった。

それらを全てまとめて「メディアの中だけ」と言ってしまうのは、やはり違うと思う。GLOWの若い学生さんたちにおそらく何の悪気もないのだろうと思うだけに、もう少し気をつけて歴史を見てほしい、とも思う。いろいろな事の準備が90年代にははじまっており(それが直接的にもたらした結果の評価はさまざまだろうけれども)、そしてそのような事が90年代に可能になる前、70年代80年代にも、確実にさまざまな運動があったし文化活動があった。当たり前だけれども、その事にもっと注意を払って欲しい。学生さんなんだし<押し付けがましいです、はい。

それから、あらまあまたその話なのねと退屈されることを承知で、言います。「同性愛者に対して派手なイメージを持っている人が多いけれど、実際はフツーで日常に暮らしているんだ」は、あああそれはねわたくしはどうかと思いますあまり望ましくない用語選択だと思いますというよりおそらく考え方としてどうよそれ<本当に押し付けがましい

派手なのはフツーじゃないのかしらとか日常じゃないのかしらとか派手な同性愛者は「実際」にはいないのかしらとか、もうそのあたりの話は良いのかと思っていましたが、やはり「可視化」という主題は恐るべしと言うのか、以前のチャットでmakikoさんが仰っていたとおり、制度化と可視化(あ、顕在化か)の方向性が少しずつ強まっているように見える現在だからこそ、可視化のされ方(何がどのように見えるようになるのか、その時に何が見えなくなる/見なくても良いことになるのか)に、注意を払わなくてはいけないなあ、と。

05-11-07 (Mon)

[][]あなたのクィアがわたくしを動かす

わたしが探求したい晩年の経験とは、不調和、不穏なまでの緊張、またとりわけ、逆らい続ける、ある種の意図的に非生産的生産性である(28-29)


まだ一章を読んだだけなので本全体について何が言えるわけでもない状態で、文脈も何も滅茶苦茶な自由連想みたいな話で恐縮なのだけれども、この本に出てくる「晩年のスタイル」は、わたくしには圧倒的に「クィア」なものとして響く。それは、「クィア」の学術的な、あるいは政治的に有効な定義にかかわるのではなく、むしろ、わたくしにとってクィアという語が含み持つ感覚、あるいは誤解を恐れずに言えばわたくしにとってその語のいわば「原型」を形作った二人の人物に、かかわっている。

この章を読んだのがクィア学会立ち上げ大会直後だったこともあるのかもしれない。「晩年」についての記述を読みながら、雑務に追われる中でこころの片隅におしやっていたのかもしれないその感覚、彼らのクィアがいかにわたくしを動かし落ち着かなくさせたのかを思い出し、わたくしのしていることが彼らのクィアからいかに遠ざかりつつあるのかを考えて、わたくしは夜中に一人部屋の中を歩き回ったりした。

ベートーヴェンの晩期の作品について語るアドルノを介してサイードが語ること。

「部分が一丸となって創造する全体像」を喚起せずに、部分をつないでいるものが何かは語れない。部分間の差異を最小限にとどめることもできない。そしてまた実際に統一に名前をつけること、統一に特別のアイデンティティをあたえてしまうことは、作品のカタストロフィとしての力を殺ぐことになるだろう。したがってベートーヴェンの晩年のスタイルの力は、否定的なところにある。もっと正確にいえば、否定性こそが力になっている。晴朗さと成熟とが期待できそうなところに、頑迷固陋で、気難しげな、非妥協的なーーおそらく非人間的ですらあるーー挑戦的姿勢が見いだせるのだ。「晩年の作品における成熟は」とアドルノはこう述べているーー「果物に見出せる類の成熟とは似ていない。晩年の作品は・・・・円熟していない。むしろ、しかつめらしく荒々しい。甘さがなく、苦く刺々しく、容易に享楽へと身をゆだねない」(EM564[195])。ベートーヴェンの晩年の作品群は、高次の統合によって和解へと到達したり懐柔されることはない。それらはいかなる枠組みにも合致しない。それらは調和とも和解とも無縁である。(35-6)

その二人の人物のセクシュアリティが「何」であるのか(あったのか)、わたくしは知らなかったし、今も知らない。おそらくこの先も知ることはないだろう。クィアから同性愛の具体的連想を切り離すことの政治的問題とは別の次元で、わたくしにとってその言葉は、最初から同性愛という特別の名に留めつけられたものではなかった。

ただし彼らがわたくしと違うのは、彼らにとってのクィアは、圧倒的かつ非妥協的に、クィアという名前にすら留めつけられていなかった(いない)だろう、というところだ。アカデミックに厳密に言えばこうだが政治的有効性を考えれば違うとか、アカデミックな議論への理解が一方にあって自らの生活やアイデンティティが他方にあるとか、そういう安易な妥協に回収されない、そう、「頑迷固陋で、気難しげで、非妥協的な」何かをわたくしは彼らに見ていた。それはわたくしを怯えさせ(「おそらく非人間的ですらある」)、わたくしを魅了し、わたくしの中での「クィア」という言葉を、ただしその言葉の意味ではなくその感情を、形作っていったのだ。

ひとりはわたくしの先生、正確にはわたくしが勝手に先生だと考えている人で、わたくしに「クィア」という言葉を最初に教えたのはその人だった。「教員だからこそとりあえずゲイならゲイ、レズビアンならレズビアンだと名乗ることに意味があるのではないのですか」と絡んだ学生時代のわたくしに、その人は「いや、だからわたしはクィアですから」と答え、「クィアって、じゃあ、何なんですか」とさらに言い募ると、「しりませんそんなの、自分で考えて下さい」と応じた。

時には、学生であったわたくしがぎょっとするほどに挑発的であったり断定的であったりした。クィア理論の小さなブームがあった90年代半ばだったか、もっと後になってだったか、「今の日本で高等教育を受けた女性フェミニストでないとしたら、その人には知性がないんです」とその人が言った、と聞いた時の驚愕を、忘れることができない。その時にその人が何を伝えようとしていたのかわたくしは知らないし、今、別の文脈で別の人に対して、その人が同じことを言うのかどうかも、わからない。けれども少なくともわたくしは、なぜその当時その人が「日本で高等教育を受けた女性がフェミニストでないということ」を「知性がない」と表現したかったのか、それについて考え続ける羽目になった。

就業事情が悪化するアカデミズムの中で学生が生き延びる可能性を高めるための制度的支援を整える反面で、自分の人間関係や「学会での立場」は言うまでもなく、学生の就職やら「学会での立場」やらが不穏なことになったとしても、批判においても挑発においても、懐柔されたり妥協したりしない人だった。普通そういうことはしない/言わないもんでしょうという思い込みがしばしば通用しない人であるように、わたくしには感じられた。

その人が学会の設立大会に来て下さらなかったことは、わたくしにとっては幸運だった。制度をつくりあげるお祭りの前に言葉を呑み込んだこと、しかも「クィア」と名乗る場でみずから率先してそれをおこなったこと。場をわきまえた行動を、少なくともわたくしに可能な範囲で、こころがけること。その人がいらしていたら、恥ずかしさ(あるいは罪悪感だろうか)のあまりわたくしはその場でひび割れてしまっただろうと思う。あるいはその方がましだったのかもしれないけれども。

場をわきまえた行動。時宜にかなうこと。その場にある制度に自らを入れ込むこと。

かくして遅延性=晩年性(tummygirl注:lateness)は、みずからがみずからに課した追放状態、それも一般に容認されているものからの、自己追放であり、そのあとにつづき、それを超えて生き延びるものなのだ。(40)

そしてわたくしはもう一人の人を思い出す。追放されることを決して容認せず、ましてやそれを追い求めることもなく、しかし、どうでもよさそうな小さな事柄への執着によって、常に微妙に追放されていた人、そしてその事に歯ぎしりしながら抗議をしていた人のこと、その人の愛らしさのことを。その人の晩年を。

その人は一つの国の中で植民地化されたもう一つの国の文化を引き継ぎ、けれども植民地化した国の制度においては十分に(圧倒的ではないにせよ、「ほどほどに」)恵まれた条件を具えており、二つの国の言葉を自由に操りつつ、どちらにおいても常に言葉につまづき言葉を探してお世辞にも雄弁とは言えず、学術書を出版することが夢だという学生でありながら、大学内の掃除の女性や売店のお姉さんとは、あるいは外でビッグ・イシューを売っているお兄さんとは、気がつけば誰より早く誰より仲良くなるのに、学部の有名教授や学会で活躍しはじめた先輩に自分を売り込むことが下手で、どこにいてもいつも居心地が悪そうだった。そして、はみ出しものや半端ものをなぜか惹き付けるその人は、言葉もろくにできないくせに、クラスメートよりも大分年をくっているために理屈っぽいことだけは理屈っぽい、不機嫌な留学生であったわたくしの、一番の友達になった。

その人は、与えられたジェンダーになじめず、けれどもジェンダー越境という概念にもなじめず、通り過ぎる同僚学生を品定めするダイクの友人の姿勢についていけず、自分は十分にダイクではないし余りにフェミニストだと悩んでいた。けれども、必死で女らしい装いを心がけているのにどこかでやりすぎて失敗しているようなぎこちないヘテロ女性ばかりに、しかも「全然友達になりたくないのに、ああいうタイプ」という女性ばかりに、全力で片思いし続けるその人の欲望のあり方は、そのおさまりの悪さと、その人自身にとっての欲望のどうしようもない他者性のゆえに、わたくしにはまさしくクィアなものであるように思えた。

その人について何よりも思い出すのは、しかし、その人が居心地の悪い状態を選んでみずからそこに身を置いているように見えつつ、同時に、決してその状態を穏やかに受け入れていたわけではないこと、常に自分が追放されていることに憤り、憤りを適切に表現するための言葉を探すのに決して妥協をしなかったことだ。だから、その人がマスターの論文テーマとして「ユートピア」を選んだのは、とても自然なことのように思えた。この世界にしっくりおさまらない人が、そしてそれを悠然と穏やかに受け入れる気持ちなど微塵もない人が、研究のテーマとするのに、500年近くも前の著作からはじまる「ユートピア」の概念ほどふさわしいものが、あるだろうか。

もちろん、その人が論文を書き上げることはなかった。そのような「適切で」「時宜にかなった」結末を迎えるわけなど、そもそも可能性としてもなかったようにすら、わたくしには時に感じられる。けれども、実際に起きたのはそのようなことではなく、もっとずっと散文的で退屈で絶望的なことだった。その人は、自宅の前の道路を横断しようとして学生の運転する自動車にはねられ、一週間ほど意識のないまま眠った後、二十五にもならない歳で、あっさりと死んだ。

「自分はダイクっぽく見えないから馬鹿にされるのだ」と言って、その人がいきなり髪を全部刈ってきた時のことを、思い出す。丸刈りにしたその人は、ちっともダイクっぽくは見えなかった。単に、子供であって子供でないような、人であって人でないような、何か別の存在に見えた。その人の葬儀の後、「あの人は、でも、何か最初からこの世界に属していないようだった」と言って周囲の顰蹙を買った同級生がいたけれど、その発言のタイミングのまずさは別として、わたくしには何となくその気持ちがわかった。その人の何かが、わたくし達が「この世界」を認識するために使っている何かからはみ出していて、その人はそのはみ出した部分を決して誤摩化そうとしていなかったのだ。

あなたは今のわたくしと友達になってくれるだろうか。

晩年のスタイルは、まぎれもなく現在のなかに存在しながら、奇妙なことに現在から離れている。(51)

03-11-07 (Sat)

[]余計なお世話と批判とのあいだで

先のエントリについてGORDIAS(まだ星が出せない)にてfont-daさんから反応をいただきました。コメントを書こうと思ったら長過ぎたので、こちらにあげます。

わたくしはこの研究会に所属しておりませんし、『NANA』も『報告』も読んでいないので、ここに書かれたエントリからしか判断ができませんが、挙げて下さった例に関しては、仰ることに概ね賛成です(「フェミニズムがあれば違ったものになっただろう」と「フェミニズムがあれば解決するだろう」は意味合いが違うようには思いますが、全文を読んでいないので何とも言えません)。

また、「研究会」の会員同士が批判を書き合うこと(研究会会員同士ではなくとも、フラットに「ここはおかしいのではないか」という批判を投げかけること)と、「大学フェミニストはわかってないなあ、同じ大学人でも私はちゃんと気がついたけれどもね」と上から啓蒙することとは、もちろん違います。「余計なお世話」だなあとうんざりしたのは、後者です。というか、kanjinaiさんのエントリが後者の方に読めてしまったので(これはわたくしの被害妄想だったようなので、実際にkanjinaiさんのエントリがそうだったということではありません。申し訳ありませんでした。)、そのような「上目線」な表現に対して「余計なお世話だわ」と脊髄反射してしまったのでした。その意味では、font-daさんのエントリが「余計なお世話」だとはわたくしには読めませんでした。

ただ、その上で。「正しいフェミニズム」「完成されたフェミニズム」はないだろうけれども、個々のフェミニストが「より正しいと思うフェミニズム」「より良いと思うフェミニズム」はあるだろうと思いますし、大学の、とりわけ講義においては、それを伝えようとするものではないかとも思います。個人的には、学生としてであれ同僚の研究者としてであれ、わたくしが自分で接して信用できると思ってきたジェンダー論の講師(あるいは研究者)たちは、「わたくしはこれがより望ましいと思う。わたくしはこうだと考えている」と、きちんと伝えようとする人たちです。というか、わたくしにとってはそれが最低限の条件です。

もちろんそれが押しつけにならないようにすることは重要だとは思います。講師/生徒の力関係がすでに存在している中で何かを伝える時に、「押しつけ」の危険を完全に排除するのは難しいとも感じますが。これまた個人的な経験で恐縮ですが、わたくしが学生の時には、「わたくしはこれがより望ましい、より正しいと思う。それはこういう理由だ。あなたはどう考えるのか?」と問うてくれて、こちらの返答がおかしいと思えばきちんと論破する、納得できる点があれば「その点は確かにそうだったかもしれない」と認めてくれる教員に対しては、いくら論破されても、あちらの考えを押し付けられたという気持ちにはなりませんでした。現在の自分にその先生と同じことができている、ということではありませんが<ダメじゃん。

それから、蛇足ですが。一つ二つの批判くらいで「大学人フェミニストからハブにされる」って、すごくなさそうだと思います。というか、そんなに密でタイトな「大学人フェミニストコミュニティー」なんて存在しないと思います。あ、それともわたくしが(いちおう大学人フェミニストなのに)「大学人フェミニストのコミュニティー」を知らないだけなのかしら。怖。

で、それもあって「大学人フェミニストのイメージ」が悪いのも、わかってはいるし残念なことだとは思っても、どうしようもないなあとも思っています。「大学人フェミニスト」といってもあまりにも色々な人がいますし、わたくしが好ましくないと思うタイプの「大学人フェミニスト」一人一人に「それは違うと思います」と「啓蒙」してまわるわけにもいきません。個々のエントリや発言や行動に対する御批判については「わたくしはそれについてはこう思います」と反応することができるけれども、「大学人フェミニスト」という漠然とした総体のイメージについて危機感を持たないのかと批判を受けても、どうすれば良いのかちょっと想像がつかない、という感じです。ごめんなさい。

02-11-07 (Fri)

[]余計なお世話(みんな揃わず、小さい声で)

完全な脊髄反射です。と、最初に逃げをうった上で、Gordias(星が出せない)のこちらのエントリ

大学隔離されていると、このような意見がどのくらいの分布をしているのか、まったく見当がつかない。ジェンダーフェミニズム男性学に関わっている大学人は、この女性に対して、語りかけるべき言葉を持っているのだろうか。

うーん。何というのか。語りかけるべき言葉ってどういう関係の相手にどういうスタンスで語りかけるのかを含めたさまざまな状況に左右されるわけですから、いきなり「語りかける言葉を持っているのだろうか」という設問をたてることにはあまり意味がなさそうだなあ、と思います。

相手が友人であれば、「馬鹿ねーどんな仕事だって一生続くとは限らないよ。身体とかココロとか壊れることってあるんだからね」「っていうかあんた単に身体鍛えた系が好みってだけじゃないよー」とか、言いそうです。というより、ほぼそれに近いことを言ったことがあります。で、おそらく「あんたとは好みが違うのよ!」「っていうかあんた自分の連れが壊れてるからってあたしの彼まで壊れるとか言わないでよ!」とか言われるのだろうと思います。というより、言われたことがあります。

でもまあ、ここでの語りかけるというのはそういうことではなく、「フェミのメッセージ」が伝えられるのか?というようなことなのだろうとは思うのですが、伝わるべき時には伝わるのでは、とかってダメなのでしょうか。「男の子はちゃんと(会社員じゃなくて)肉体労働で稼いで一生お嫁さんを養ってくれないとダメだと思うのー」という女性に対して、真っ先に「それってフェミニズム的には正しくないのですよ。」という方向で話しかけるのがアカデミックなフェミニズムというわけではありません。その女性はもしかしたらそれとは全然違う方面でフェミニズムやジェンダー論に心を動かされるかもしれないわけですし、それならそれで良いのではないのかと思ったりします。どうしてこれだけの事でいきなり「フェミニズムにかかわる大学人に語りかける言葉はあるのか(いやあるまい)」になってしまうのでしょうか。

何がいいたいのか、自分でも良くわからないわー、なのですけれども、何か微妙な気分です。おそらく微妙さのゆえんは、ここでの表現が、「自分には」話しかける言葉があるのだろうかではなくて、「フェミニズム、ジェンダー、男性学にかかわる大学人は」話しかける言葉を持つのだろうかという形になっているところではないかと思います。kanjinai氏はフェミニズムとジェンダー論と男性学に関わっている大学人という自己認識でいらして、「自分には語りかける言葉がないなあ」という反省を述べていらっしゃる、ということだと理解すればよいのでしょうか。しかしそれにしたって、いきなり「フェミニズム、ジェンダー、男性学にかかわっている大学人」て。広。そんな大雑把に自己反省に巻き込まれても、と、ちらっと思うわけでございます。

そもそも、「ほらね、こういう高卒女性に語りかけるべき言葉がないでしょう大学人のフェミニストは」みたいな言外の含みが感じ取れて(被害妄想)、それってどことなく大学人フェミニストと「高卒女性」の双方に対してパトロナイジングでいやだわぁ、と思うわけなのですが、それがどういうスタンスから投げられているのかが見えにくいので、ますます気になります。この唐突な設問にどういう意図があるのかちょっと裏読みしつつ、どうしてそんな上目線?と思って微妙に萎えるというか(「やっぱりアカデミアのフェミニストって、自分たちでは気がついていないだろうけれど、<普通の女性>の感覚からは乖離しているんだよね。私はそこを見落としていないわけなんだけれどもね」)。ええ、やっぱりただの被害妄想ですけれど。小さい声で言います。余計なお世話。

ご自分の反省の弁を述べただけということであればこちらの被害妄想こそ余計なので、お詫びするしかないのですけれども。

01-11-07 (Thu)

[][]だって助けてほしいんですもの。

大分時間が戻ってしまうのだけれど、PA/Fでのプレ・イベント後、「フツーに生きてるGAYの日常」のakaboshiさんのところでの御批判を受けたid:Yu-uさんのところでの考察を拝読して考えることがあったので、それについて。きちんと正確に考えをまとめてから書くというのがおそらく大人な対応なのだろうけれども、ちっともまとまらないので、敢えて今の時点で、整理のつかないことや違和感や疲労感や緊張感やそういうもろもろを含み込んだままで、反応。というより、Yu-uさんには直接お話したことでもあるので、ただのメモというべきかもしれないですけれど。

ここでの「閉鎖性」とは、”生活”につながっていないのではないか、ということなのではないか。

このくだりでYu-uさんは、学会が「特殊な職場内の互助組合」にすぎない閉鎖性を持っているのではないかというakaboshiさんの御批判を受け、そのような互助組合の「閉鎖性」が「生活」からの乖離に起因するのではないかと述べていらっしゃるのだが、このロジックには幾つか問題がある、あるいは少なくとも、「何が」「誰の”生活”と」つながっていないのか、それと「閉鎖性」がどう関係あるのか、それをもう少し明らかにする必要があると、わたくしは思う。

わたくしは、「学会」が一つの「特殊な職場内の互助組合」の側面を持つことそれ自体は、必要でもあり不可避でもあると考える。もちろん、「職場」をどれだけ広くとるのかについての議論は常にあるべきだし、そのような性質はあくまでも学会の一つの側面であって、それ「だけ」に終わるようではそもそも「研究教育業界の互助組合」としての機能すら十分に果たせないだろうとも思うけれども、それは学会にそのような側面があることを否定するものではない。

固定的な権益維持や収奪の制度としてではなく、必要な知やサポートを提供しあい、批判と見解とを交換できる「互助組合」としての「学会」は、広い意味での研究/教育にかかわる人々の「生活」にとって必要なものだとわたくしは思っているし、へたれ机上系のアカデミアとしてそのくらいは自分でどうにかするべきだろうと考えたのが、学会立ち上げに関わった大きな理由でもあった。

しかし、学会が互助組合の側面を持つこと、学会が閉鎖的であること、そして学会が「生活」につながっていないこと、その三つがゆるく併置されることを通じて、「(アカデミアという「特殊な」職場の)互助組合であること」と「生活につながっていないこと」とが間接的ではあれ接続されてしまったとすれば、それは、「生活」につながる「互助組合」としての責任を、安易に学会から免除してしまうことにつながらないだろうか*1。「互助組合」としての側面を持つべき「学会」が、会員の「生活」から乖離し、知的/精神的/制度的サポートを一切提供しなくなったとすれば、それこそが当然批判されなくてはならないことであろう。逆に「互助組合である」側面自体を否定してしまったら、あるいは「(特殊な職場の)互助組合であること」と「生活につながっていないこと」とを漠然と接続してしまったら、「学会が互助組合として適切に機能していないこと」を批判する回路は閉ざされてしまうのではないのか。

「アカデミックな互助組合としての学会」と「生活との乖離」との接続はまた、「生活」を構成するさまざまの制度と「学会」活動とを互いに無関係なものとみなそうとするロジック、「アカデミック」な活動の純粋性(それを肯定的にとらえるにせよ否定的にとらえるにせよ)の幻想を前提とし同時に維持しようとするロジックに、加担しかねない。そして、それこそがアカデミアが「閉ざされたもの」でありうるかのうような幻想を生み出し、それがそもそも閉ざされて完結したものとしては存在していない(存在しえない)という当然の事実を見えにくくしてきたロジックではなかったのだろうか。

その意味では、学会あるいは「アカデミア」が「閉ざされているのか」「開かれているのか」というのは、選択可能な二つのあり方ではないと言っても良いと、わたくしは思う。その上で、その既に開かれているものを、あたかも閉ざされたものでありうるかのように扱うのか、それとも開かれているという事実に向き合うのか、どのようにして向き合うのか、それは学会員の、あるいはアカデミックの、責任を伴う選択であろうけれども。つまり、「閉鎖性」はアカデミアという空間が生活と乖離しているが故に生まれるのではなく、アカデミアという空間を生活と乖離したものとして理解するところに生まれるのではないのか*2

言うまでもないことだけれど、これは、「学会」あるいは「アカデミア」が生活から乖離しているという批判、あるいは閉鎖的であるという批判が、すべて間違えているということではない。さらに言えば、Yu-uさんご自身が「閉鎖的」で「”生活”につながっていない」と仰っているのは、直接的には制度としての学会やアカデミアにかかわる事ではなく(当初はそこから始まった考察であるように見えるし、結局そこに繋がっていくものではあるかもしれないけれども)、「書く」という行為、あるいは概念化するという行為にかかわる点であるので、わたくしがここで書いたことはその意味ではYu-uさんへの反論や異議申し立てということよりは、それに刺激されて考えたこと、という方が正しい*3。わたくし自身が「学会活動」なるものをこれまで殆どしてきていないので(年次大会に出かけて懇親会に顔を出して知ってる人がいないので寂しくなって落ち込んで帰る、くらいが最大の学会活動でございます)、今後「学会」にかかわる中で見解は変わるかもしれないし、そもそもこんな重箱の隅的な言葉遣いの問題なんてどうでも良くてもっと重要な問題がたくさんあるのかもしれないのだけれども、まあ、重箱の隅の言葉遣いの問題が「どうでも良くないのよ!」というのが机上系の机上系なゆえんでもあるわけで、とりあえず今の時点で、わたくしとしては「学会」を語る時にはこういうことを意識しておきたいなあ、と。相変わらず尻切れとんぼですけれど。

*1: もちろんどのような「学会」であれ、「学会」が個々の学会員の「生活」に対して実際に出来ることは限られているだろうし、その限られた事柄すら十分に実行できる資源がないことも多いだろう。ただ、それは学会にはそのような責任がない、ということとは違う

*2:より小さいことになるけれども、「互助組合であるという側面」を「閉鎖性」の理由とするロジックもまた同じ意味で問題だとわたくしは思っている。互助組合であることは閉鎖的であることと同じではない(あるいは少なくとも同じであるべきではない)。むしろ、互助組合が閉鎖的である、つまりあらかじめ決まった構成員/あらかじめ決まった思考以外に対して閉ざされているとすれば、互助組合としての機能がそれで十分に果たせているのか、検討してみる必要があるだろう

*3:っていうかですね、「書くということ」についてはそれはそれで言いたいことがあるのですが、またそれは別の話になってしまって、完全に収拾がつかなくなりそうなので。しかも多分ディシプリンの違いもあってこの点では正面衝突かもですー>Yu-uさん