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31-12-07 (Mon)

[]おおみそか

大掃除をしたら、見えないところはすべて見ないことにしたのに(戸棚の中とか押し入れとか御納戸とか)、丸二日かかりました。何がいけないんだ。どれだけ要領が悪いんだ。しかも今朝おきたらもう埃がつもってるし。しかも筋肉痛になったし。すごい徒労感です。

それはともあれ。

今年もどうもありがとうございます。

夏にパソコンが壊れた影響もあって(あと根本的なとっちらかりの性格<こちらが大)、出した年賀状が早くも続々と宛先不明で戻ってきており、いや〜どうなってるのかしら。しかもきっと出すべきところに出していなかったり。

というわけで、明日(あれ?あさってかな?)年賀状が届かなかった時のために、来年の言い訳を今年のうちに。

皆様よいお年を。

28-12-07 (Fri)

[][][]論文募集中(って時間ないよ!)

年末のあれやこれやで取り紛れてすっかり宣伝を忘れておりました。馬鹿馬鹿。

クィア学会の学会誌『論叢クィア』創刊号への投稿を受け付けておりますので、お手持ちの素材のある方は、是非ふるってご応募くださいませ。お知り合いや担当の学生さんなどで関心がおありの方々にも周知いただければ幸いです。あ。ただ、原則として投稿資格があるのは会員に限られます。

詳細はこちらで御確認いただけますが、とりあえず、事前登録が今年中に必要ですので、その点よろしくお願いいたします。(ちなみにわたくし編集委員ではございませんので、詳細についてのお問い合わせをコメントで頂いてもお答えできません。申し訳ありませんが、下にあるアドレスまでメールにてお問い合わせくださいませ)


   『論叢クィア』への投稿を受け付けています

投稿予定のある方は、2007年12月末日までに、事前登録をお願いいたします。

なお、完成原稿の締切は2008年2月末日です。(クィア学会編集委員会


  • 事前登録の方法

2007年12月末日(消印有効)で、以下の内容を電子メールまたは郵送にて送付してください。(海外から郵送にて投稿する場合は航空便のみ可)

 1.氏名

 2.職業・所属

 3.原稿の種類(論文、研究ノート、その他の別)

 4.タイトル(仮のものでも、結構です)

 5.500〜600字程度の概要

 6.連絡先:郵送用住所、電話FAX、メールアドレス

  (いずれも、編集委員会からの連絡が取りやすいものを記載してください。)


  • 登録先

 電子メール:journal*queerjp.org(*を@にかえてお送りください)

 または

 郵送:〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1

     東京大学大学院 総合文化研究科 清水晶子

     クィア学会事務局・編集委員会宛

 このほか、学会誌についての質問は、編集委員会宛にお願いします。

     journal*queerjp.org(*を@にかえてお送りください)


  • 投稿を受け付ける原稿の種類

 ・論文(20,000字以内)

  レビュー論文も含みます。

 ・研究ノート(12,000字以内)

  研究上の問題提起、研究プロジェクトの経過報告、他の著書を批評する論文、

  外国書の紹介・批評などを含みます。

 ・その他(字数は相談)

  論文と研究ノートの他、各種の活動報告、ワークショップの報告、

  海外の研究・活動の動向、 外国語論文の日本語訳、目録、

  インタビュー・座談会の収録なども受け付ける予定ですので、ご相談ください。

  ※執筆要項は、現在準備を進めています。もうしばらくお待ちください。

  定まり次第、本webサイトにて告知いたします。


  • 『論叢クィア』投稿規程

 1)概要

 本誌は、クィア学会の学会誌であり、年1回発行する。

 2)投稿資格

 本誌は原則として会員の研究発表の場であり、他誌に未発表のものを掲載する。

 3)査読

 本誌の編集は編集委員会によっておこなわれ、原稿の採否は、査読に基づく審査により、編集委員会において決定する。

 4)投稿締切

 投稿は毎年2月末日を締切とする。

 5)投稿資格

 投稿登録の締切は毎年12月末日とする。登録先は編集員会とする。

 6)投稿詳細

 投稿にあたっては別途定める執筆要項に基づいて原稿を作成する。

 7)著作権

 掲載論文等の著作権はクィア学会に帰属する。

 8)進呈

 掲載一件につき、掲載誌一冊を進呈する。

以上

(なお、英文誌名は Journal of Queer Studies Japanです)


23-12-07 (Sun)

[]マッチポンプ、あるいは、対立の禁止が対立をつくりだす

先日都内で開かれた女性学会の公開研究会「07年大会シンポをうけておもうこと」シンポジウムは「バックラッシュクィアする」というもので、今更バックラッシュも厭きましたよ、という気分もないわけではないのですけれども、バックラッシュ云々の問題というよりも女性学会の問題としてやはり放置はしたくないなというわけで、出かけて参りました*1。しかし、参加者みんなで不思議がっていたのですが、驚くほど広報されませんでした、この研究会。某フェミ系MLなどにも広報されたんだっけ?されてないんじゃない?くらいの勢いで。もしかしてそこになにか陰(以下省略)。

さて。

07年大会シンポジウム「バックラッシュをクィアする」について、わたくし自身はアンビバレントな感情を持っている。当日報告にはとても興味深いものもあって、たとえば「フォビア(嫌悪、恐怖の感情)」の表現に焦点をしぼって幾つかのバックラッシュ側の言説を分析なさったクレア・マリィ氏と、「性教育への影響」に焦点をしぼっての分析をなさった風間孝氏、両氏が期せずして(だと思うけれども)、それぞれのケースにおいて「ナショナルなもの」がいかに参照されていくのかをあぶり出す結果になったことなどは、わたくしには(意外性のある結果だというわけではないにせよ)やはりどこかでされておくべき、重要な作業だったろうと思えた。反面、テーマの設定の仕方、当日の状況、さらにはシンポジウム翌日の公開ワークショップでの出来事*2など、このシンポジウムにいろいろと問題があることも、当日からすでにはっきりと認識されていた。

で、厳密にどういう経緯があったのか、いろいろと耳にする話がことごとく食い違うので良くわからないのだけれども、とにかく、幹事主催でシンポジウムを受けて今後の課題を探るべく研究会を開く事になった、らしい。「らしい」と言うのは、そもそも今回の研究会の課題が良くわからないので、あくまでもわたくしの推測なのだけれど。

発題は4人で、五十音順に「イダ→小澤→清水堀江(敬称略)」とする予定が、小澤氏が少し遅れていらしたために最後にまわって頂く事になった。とりあえず、シポジウムに関係するところだけをまとめておくと、以下の通り。

イダ:性の多様性を理解して、二元性を超えていくことが重要。自由を好み、アナーキーなところのある自分としては、広義のトランスジェンダー(=改革方向としてのシングル単位)という認識でいるし*3そのような旗のもとに広く緩やかに団結していくことが大事だと考える。対立を煽り、相手を見くびることなく、批判しあうことことなく共通の基盤をさぐって連帯すべき。

清水:今回のシンポジウムで明らかになったのは、フェミニズムとは根本的にストレートなものであり、その点において取り組むべき課題の優先順位は究極的には自明、との前提。この前提は、まさにその前提それ自身への批判を、あらかじめ「フェミニズムの正当な内部/本体」には属さないものとして封じ込める、同時に、「フェイニズムの外部に存在する敵」をあらたに作り出してしまう。

堀江:今回のシンポジウムをめぐって女性学会の批判に対する脆弱性がまたしても明らかになったことに着目し、その脆弱性への対処をするべき*4。さらに、シンポジウム当日において、報告者の報告テーマよりも報告者の属性アイデンティティ)が次第に焦点化されていくような話の流れがあり、そのようにして「マイノリティ」を呼び出した上でマイノリティを沈黙させる構造が繰り返されている。

小澤:シンポジウム後に話を聞いた「当事者」の意見紹介(「取り扱い注意」とのことなので、ここでは掲載しません)。

その後いくらかディスカッションはあるにはあったものの、特に新しい展開があったわけではなく、基本的にはすれ違いが多かったように感じられ、それは残念だった。もちろん、批判がくるのだろうと予期しつつ、公開でこういう研究会を開催したことは間違いなく一歩前進ではあると思うし、そのためのとりまとめをして下さった幹事の方々、会場を用意して下さった幹事の方々には、御礼を申し上げておきたい。

幾つか、気になったことをランダムに。

#ディスカッション中に指摘があったことだけれども、「クィア」の使用法がとにかくみんなばらばらで(わぁあそれはそれでクィアだわ)、そのために議論がすれ違うこともあるように思う。とりわけ、クィアをアイデンティティ用語として使うのかそうでないのか、というあたりで。かといって定義を統一するのはそれこそ本気でクィアという概念を損なうものだし。いちいち言っていくしかないのだろうけれども、面倒くさいことは面倒です<こら。

#その場で提出された批判に対して、幹事の井上氏が一人で火をかぶって応えていらしたけれども、幹事会の他のメンバーは「そもそも反対だったのに押し切られた人」なのか、「押し切ったけれども黙っている人」なのか、「こんなんどうでもいいじゃん、と思っている人」なのか。おそらく最後のタイプが多い気がいたします(笑)

#不要な対立と有用な対立とを分けるのは誰なのかなあ、というところを全く考え直さずに、不要な対立を避けましょう、と呼びかけるのは、わたくしにはやっぱり生産的なこととは思えない。というかむしろ暴力的では。とちょっと言ってみたいです。

#議論の途中で「またそうやってあなたは対立を煽る。やめて下さい」とのご批判を受けたのですけれども。え〜と、わたくしフェミニズム帝国拡大主義というご批判なら承っても仕方ないとは思うくらいで、どう考えても日常的に「対立を煽って」はいないと思うます。というか、この時はある特定の発言がおかしいのでは、と指摘したのであって、一つの発言への批判が対立を煽ることになる(おそらくフェミニズムとクィアとの対立、ということです。って何それ)、という発想自体がちょっとおかしいです。その特定の発言がフェミニズムを代表するわけでもないでしょうに。

[]

(すっごい長いです。あと、部分的に修正あります)。筋立ても手法もストレート過ぎて自分でも退屈だな〜とは思いますが、まあ、口頭発表なので(と、逃げ)。


今年のシンポジウムを受けて批判的問題提起をするようにとのことですけれど、年次大会シンポジウムを受けてこのような会が催されるというのは、比較的異例なのではないかと思います。もちろん、異例な事自体はかまわないのですが、何のためにその異例な会をしようとするのか、その目的については、これまた比較的曖昧な状態なのではないかとも思います。

この研究会が何を目的としているのか。それは私が決めることではありません。ただし、この研究会の目的であってはならないもの、この研究会が結果として担うべきではない役割、それははっきりしています。

この研究会は、ある種のガス抜きの場としての役割を期待されるべきではありません。この研究会は、「とにかく話は聞いた」というアリバイとしての機能を期待されるべきではありません。つまり、この研究会は、女性学会歴史におけるもう一つのtoken queer eventになってはならないのです。「バックラッシュクィアする」と名付けられた今年のシンポジウムが、そうであってはならなかったように。

もちろん、「そうであってはならなかったように」というのは、裏をかえせば、今年のシンポジウムは危険なほどそこに近づいていた、ということです。女性学会もクィアをやってみたよ。ゲイレズビアンもいるよ。トランスも呼んだよ。女性とクィアは、同じ敵に直面しているんだから、共闘もできるね。ほら、クィアな人もそう言っているでしょ。

冗談じゃない。このシンポジウム企画を幹事会に持ち込んだ発案者の一人として、私は、そう思っていました。まさにその構図こそ、私たちが批判したかったものであり、シンポジウムに向けての研究会で繰り返し指摘されたものであり、個々のシンポジストの発表においては、耳を傾ければそれに対する批判が聞き取れたものでもあります。そしてそれにもかかわらず、かなりの度合いにおいて、その構造はそのまま持ち越されているように、私は感じます。

シンポジウム企画を提出した後、企画の意図が少しずつずらされ、批判が少しずつ封じ込められていく様子を、私は苦々しい思いで眺めていました。ですから、今日お話したいのは、シンポジウムの発表それ自体や、当日の個々の発言についてではありません。そうではなくて、シンポジウム当日にいたるまでの事にしぼって、今日はお話しようと思います。

まず、私個人がそもそもどのような意図と期待をもってシンポジウムの企画案を提出したのか、それをご説明します。

その上で、当初のその企画案が、どのような方向、どのような理由で、変形され、ずらされていったのか。現時点でわかっている範囲で、それを確認したいと思います。

それを通じて私が指摘したいのは、第一に、批判の対象となるはずだったまさにその構造、そのロジックが、批判を封じ込めるにあたってふたたび採用され、再確認されたという事であり、第二に、そのロジックこそ、それ自身が「回避したい」と明言しているまさにその事態を引き起こしているものだ、という事です。

バックラッシュへの対抗言説が最初に気になり始めたのは、いわゆる「ジェンダーフリー」の定義が非常に曖昧であるらしいということを知ったときです。ふと気がつくと「ジェンダーフリー」という言葉流行しているらしい。その時、私はまったく疑うことなく、「ジェンダーフリー」というのは、<生物学的>性差を含め、男女の性差といわれるものそのものに疑問や批判を投じる態度なのだろうと考えました。もちろん厳密に言えばジェンダーのない(ジェンダーフリーな)状態を目指すことと、既存のジェンダー制度に疑問を投げかけることとは違うのですが、まあそういう方向なのだろう、と。

ですから、たとえば「ジェンダーフリーというのは男女の性差までも否定する過激なフェミニスト思想だ」というような、いわゆるバックラッシュ言説を目にしても、それが大きく的を外したものだとは考えなかったのです。いやー日本の保守派も意外に問題点がわかっているわねえ、くらいに思っていました。

ところが、よく良く聞いてみると、どうやらジェンダーフリーというのは「男女の性差は否定しない」ものであるらしい。なーんだそうなのか、とちょっとがっかりしたのですけれども、しばらくすると、それこそがジェンダーフリーの正しい理解であり、「性差を否定するというのはバックラッシュ側のいいがかり」である、ひどいものになると、「男らしさ、女らしさを否定するわけではないが、その押し付けに反対する」ことがジェンダーフリーなのだ(03年の女性学会幹事会有志による、『Q&A男女共同参画をめぐる現在の論点』においても、これと非常に類似した表現が確認できる)、さらには、「男女同室着替えとかユニセックストイレなんてトンデモ言説と一緒にするな」というような表現までもが、たとえばフェミニズム系のMLやサイトなどで、頻繁に見られるようになっていきました。

同時に、「ジェンダーフリーなんていう言葉を使うからそんな言われなき批判を受けるのだ。男女平等と言えばそれですむ話だろう」という表現も、少しずつ聞こえるようになってきます(04年のジェンダーコロキアム報告における上野千鶴子氏の報告参照)。

私が当時とても不安に思ったのは、「いや、それってトンデモ言説でもないかもしれませんよ」という議論、「性差を否定するとしたら、そこに何か問題があります?」という議論が、殆ど見えなくなっていたことです。

注意していただきたいのですが、ここで私が主張したいのは、フェミニズムは性差を否定すべきだ、ということではありません。そうではなくて、バックラッシュ言説への対抗において、「フェミニズムが既存の性差の形態を否定するかもしれない可能性」というものを、フェミニズム自身が(あるいは一部のフェミニストが)積極的に隠蔽してしまった、ということを指摘したいのです。

シンポジウムの場において風間孝氏やクレア・マリィ氏が実例をあげて説明なさったように、バックラッシュ言説がフェミニズムを攻撃するときに動員したのは、互いに支えあう二つの体制、すなわち、二項対立的なジェンダーシステム異性愛体制ですが、そこから逸脱する存在に対する恐怖や嫌悪でした。

ところが、「フェミニズムは男女平等を目指すのだ」「性差を否定しないのだ」と主張したとき、そのようなフェミニズム側からの対抗言説は、バックラッシュを意識するあまり、それらの恐怖や嫌悪を批判するのではなく、恐怖や嫌悪の対象となることを回避する方向に、向かってしまいました。

つまり、その時のフェミニズム側の対抗言説は、いわゆるバックラッシュのロジックとは違う理由で「男女平等」という理念に居心地の悪さを覚えるフェミニストや、既存の「性差」という概念に疑問をいだくフェミニストの主張を、あたかもそれは正当なフェミニズムの主張ではないかのように、扱ったのです。

再び注意していただきたいのですが、私は、そのようなフェミニズム側の対抗言説が、たとえばトランスを、たとえばゲイやレズビアンやバイセクシュアルを切り捨てたことについて、批判しているのではありません。もちろん究極的にはそれをも批判したいのですが、ここで私が言っているのは、直接的にはそういうことでは、ない。

私は、自分をフェミニストだと思っています。

そして、少なくとも私の理解する限りにおいては、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とは、まさしくフェミニズムが批判を向けてきた対象だったはずです。先ほども申し上げたように、その点においては、バックラッシュ言説は大きく間違えてはいなかったはずなのです。だからこそフェミニズムは、トランスのために、あるいはゲイやレズビアンやバイセクシュアルと共闘するために、ではなく、フェミニズム自身のために、その二つの体制から逸脱することへの恐怖や嫌悪そのものに、立ち向かうべきだったのです。

「フェミニズムは性差を否定しない」「男女平等を目指す」というフェミニズム側の主張は、もっとも攻撃されやすい部分を切り離す(あるいは隠蔽する)ことでバックラッシュの攻撃をかわしているように見えながら、その実、フェミニズムにとって根本的に重要な目的を見失いかねないものであるように、そしてその意味で、そもそもの出発点においてバックラッシュの攻撃に屈しているものであるように、私には思えました。

シンポジウムの企画を提案したときに私の念頭にあったのは、そういうことです。

少なくとも私は、クィアな視点からであろうとなかろうと、バックラッシュ言説そのものの分析に興味があったわけではありません。フェミニズムがバックラッシュへの対抗言説を構築するとき、どのようなロジックがどのような理由によって問題となるのか、それを洗い出さないことには、どのようなロジックが望ましいかを考えることも難しくなりますし、フェミニズム自身の可能性をも大きく損なうことになる。私にはそれが気になったのです。

従って、当初の企画案において、批判の対象、あるいは「クィアする」対象とされていたのは、バックラッシュ言説それ自体というよりは、それに応えるフェミニズムの対抗言説でした。

繰り返し申し上げているように、今回のバックラッシュ言説がもっとも露骨な形で攻撃の対象とし、そしてフェミニズム側の対抗言説がもっとも簡単に切り離そうとしたのは、二項対立的なジェンダーシステムと異性愛体制とを覆す、「クィア」なあり方でした。つまり、そのような存在を、望ましくないもの、切り離すべきものとして扱った点において、フェミニズムの対抗言説はバックラッシュ言説と、無自覚な共犯関係を結んでいたのです。ですから私は、まずそこからフェミニズム側の言説の問題点をもう一度見直すべきだと考えました。

けれども、この企画案には批判が出たようです。

細かい経緯は私にもわかりません。けれども、実際のシンポジウムが最終的にどのような形になったのかを見たときにはっきりわかるのは、フェミニズム側の言説構築に対する批判が著しく薄められ、そのかわりに、フェミニストとクィアとが共同してバックラッシュ言説を批判するという枠組みが採用された、ということです。

シンポジウムに向けた二回の研究会における議論そのほかを総合して考えると、その理由の大きなものとして、バックラッシュの激しい状況にあって、フェミニズムがクィアから攻撃されているような印象、あるいは、そのような攻撃を受ける理由があるような印象を生み出すことは、極力避けなくてはならない、ということがあったように思います。そして同時に、フェミニズムが内部分裂しているような印象も、避けなくてはならなかったようです。

バックラッシュへの対抗言説において、クィアな存在を切り離して、カッコつきのフェミニズムを守ること。シンポジウムにおいて、フェミニズムがクィアから攻撃されている印象を与えたくないと思うこと。フェミニズムが内部分裂している印象を与えたくないと思うこと。そして、クィアとフェミニズムが共闘しているのだと言うメッセージを送ろうとすること。

これらは、一見したところ、必ずしもかみあっていないように思えるかもしれません。

バックラッシュをかわすためにクィアを切り捨てることと、クィアとフェミニズムが共闘しているというメッセージを送ろうとすることとは、矛盾するように見える。フェミニズムの対抗言説に対するクィアな視点からの批判はクィアからのフェミニズムへの攻撃を意味すると考えることと、そのような批判はフェミニズムの内部分裂であると考えることとは、つながらないように見える。

けれども、これらはすべて、既存の一つの前提に基づく体制を承認するところから出たものであり、その前提と、そしてそれに基づく体制とを、再確認し、再強化する役割を果たすものである、と考えるべきです。その前提とは、フェミニズムとは根本的にはストレートなものであり、そしてその点において、フェミニズムが取り組むべき課題の優先順位は、究極的には自明である、というものです。

バックラッシュの攻撃からカッコつきのフェミニズムを守るためにクィアを隠蔽する、あるいは切り捨てる、という戦術を可能にするのは、何か。それは、もっとも攻撃にあいやすいクィアな要素はフェミニズムにとって不可欠な構成要素ではなく、あくまでも「つけたし」であって、だからそれを切り捨てても「フェミニズム」は存続しうるのだ、という発想です。バックラッシュというフェミニズムの「外部」からの攻撃に際して、フェミニズムの「本体」を守るためには、フェミニズムの外側にくっついているものを一時的に切り離すことになったとしても、まあ仕方ない、ということです。

フェミニズムの対抗言説に対するクィアな視点からの批判が、クィアからのフェミニズムへの攻撃を意味するのだと考え、それを回避しようとするとき、そこにあるのも、そもそもクィアな視点からの批判はフェミニズムに「対する」、つまりはフェミニズムの「外からの」攻撃であって、フェミニズムの中からの批判ではない、という前提です。

そこではじめて、クィアとフェミニズムの「共闘」という発想が成立する。自分自身と「共に闘う」ことはできませんから、ここでも、クィアな視点はあくまでも「フェミニズム」とは別物として、その外部に、存在していることになります。その意味では、そもそも「共闘」を唱えた時点でシンポジウムの当初の企画意図は消えてしまったのだと言っても、過言ではありません。

つまり、今回のシンポジウムの企画において批判の対象として想定していたまさにそのロジック、フェミニズムの「本体」はストレートなものであり、クィアな視点はフェミニズムの「外部」に付け足されたものにすぎない、という前提が、批判を封じ込めるにあたってふたたび採用されたと考えざるを得ない。「本体」とみなされるストレートな「フェミニズム」をバックラッシュから守るという、これまた全く同じ理由によって。

もちろん、「フェミニズム」と「クィア」との関係がそんなに単純なものではないことは、明白です。クィアな視点はフェミニズムの「中」にも存在するし、それは、少なくとも一部のフェミニストにとっては、フェミニズムの「本体」を構成する重要な要素なのです。

だからこそ、「フェミニズムの内部分裂という印象を与えるべきではない」という要請が、それと同時に動員されてしまうのです。この要請は、クィアな視点からの批判を「フェミニズムの内部」と認めているわけですから、クィアな視点はフェミニズムの外部に付け足されたものにすぎないという前提とも、クィアがフェミニズムを攻撃するのではなく、両者が共闘するような方向を探るべきであるという要請とも、矛盾しているように見えます。

それにもかかわらず、相矛盾するはずの要請が両立してしまうのはなぜか。それは、要請の中身、あるいは要請の前提ではなく、その効果に注目することで、明らかになります。

「内部分裂は望ましくない」という要請は、もちろんそれ自体においては、「だから分裂せずにすむように、批判に耳を傾け、議論をしていこう」という方向に向かう可能性もあります。けれども、その同じ要請が「だから批判は避けるべきだ」という目的のために持ち出される時、その要請にとって何が正当な「内部」であるのかは、そもそもの最初から決まっている。つまりこの時、「内部分裂は望ましくない」と言う要請は、内部にあったはずの批判的視点を、正当な「内部」ではないものとして名指しなおす効果を持ちます。言葉をかえれば、「内部分裂は望ましくない」という要請がこのような文脈で用いられる時、この要請は、その表向きの表現とは裏腹に、正当な内部と認められるものとそうでないものとに内部を分裂させ、その分裂線にそって新たな「内部」と「外部」とを、作りなおしているのです。

クィアな批判的視点をフェミニズムの「外部」として作り直すこと。それはつまり、バックラッシュへのフェミニズム側対抗言説の前提、フェミニズムは根本的にストレートであってクィアな視点はその外部への付け足しなのであるという前提を、あらためて補強するということです。

フェミニズムがクィアから攻撃されている印象を与えてはならないという要請、あるいは、クィアとフェミニズムの共闘のメッセージを送らなくてはならないという要請も、その意味では、同じ効果を持っていると言えます。そのような要請そのものが、クィアな視点をフェミニズムの「外部」として作り上げているのです。

それが、私が今日指摘したいと思っていた、第二の点です。

そもそもの企画段階においては、フェミニズム側の対抗言説に対する批判がフェミニズムの内部から提案され、議論と検討とを経て、より望ましい対抗言説の構築に向けての可能性が探られるはずでした。バックラッシュの攻撃に加えてフェミニズムにさらに別方向からの外部攻撃を加えようというものではありませんでしたし、ましてやそのような攻撃を受ける理由があるのだという印象を与えるはずのものでもありませんでした。

私は、フェミニズムは「外部」からの批判を受けるべきではない、あるいは受ける必要がないと主張するつもりはありませんし、フェミニズムがクィア的な視座を常に完全に包摂するものだと主張するつもりもありません。けれども、バックラッシュへの対抗言説をめぐる今回の件については、すでにフェミニズムに存在している問題意識、フェミニズムが経験してきた歴史、フェミニズムの練り上げてきたロジックを通じて、十分に批判も検討も可能であるはずでした。

それにもかかわらず、フェミニズムの言説構築に対する批判を回避したまま「共闘」の身振りだけを打ち出そうとしたという点において、今年のシンポジウム企画に加えられた変更は、まさに「フェミニズムが<外部>から攻撃されるような構図」をつくりあげるものでした。クィアをあらためて自分たちの「外部」として構築しなおしつつ、それと同時に、「フェミニズム」がその外部にある「クィア」と対立し、攻撃される可能性を、回避しようとしたのです。マッチポンプとはまさにこのことです。

もしも、今年のシンポジウムをめぐって「クィアとフェミニズムの対立」のようなものが見て取れた、あるいは今見て取れるとすれば、その「対立」は、この「フェミニズム」の側が作り出したのです。フェミニズムがその「外部」にあるクィアから攻撃されるような構造を作り出し、さらにそのような攻撃を多少なりとも正当化するような構造を作り出したのは、まさしく、クィアな批判的視座を頑なにフェミニズムの「外部」として認識し続け、構築し続けた、この「フェミニズム」のロジックなのです。


以上、今年のシンポジウムについて、問題だと思われる幾つかの点を振り返ってみました。

フェミニズムとは根本的にはストレートなものであり、そしてその点において、フェミニズムが取り組むべき課題の優先順位は、究極的には自明であるという前提が、そのような前提への批判そのものをあらかじめ「フェミニズムの正当な内部」には属さないものとして封じ込めてしまっている。そして同時に、そのような前提が「外敵」を作り出してしまっている。

言い方を少し変えれば、問題は、「外敵」の存在を理由に、「フェミニズムが優先すべき課題が何であり、それをどう達成すべきか」について、内部での立場の違いや意見の不一致を覆い隠そうとしたこと、あるいは、それを意図してはいなかったにせよ、そのような結果を生んでしまったことに、あります。

それでは、どうすれば良いのか。それはこれから話し合われるべきことだと思います。

ただ、とりあえず必要なのは、内部における意見の不一致や違いを認め、批判を批判として受け止めることだというのは、わかっている。つまり、にこやかにお友達を演じるのでもなく、言いたいことを言わせて聞き流すのでもなく、批判を正面から受け止め、必要なら正面から反論すること。それが可能な体制をつくること。

ものすごく単純化してしまえば、今日ここでただ仲良しを確認して終わるのはやめましょうね、というか、最終的にそういう確認に到達しても良いのですけれども、最初からその確認を目標として設定するのはやめましょうね、という、そのあたりから始められないかと、私は思っています。

*1:ますます興味ないや、という方もいらっしゃるでしょうけれども

*2:これはわたくしは参加できなかったので他の方に教えていただいた限りでしか様子はわからない

*3:その意味で、ケート・ボーンスタインの立場と近い、との説明があった

*4:そもそも以前の大会でも、女性学会の批判への脆弱さ、自らの内部にある権力構造への無自覚などが指摘されており、それを今まで受け止め損ねてきたという事実を考えなくてはいけない

16-12-07 (Sun)

[]今年の毒は今年に吐き出す

ということでもないのでしょうけれども、以下のような企画があります。

日本女性学会・公開研究会

テーマ:「06年大会シンポをうけておもうこと」

発題予定:清水晶子、小澤かおる、堀江有里、イダヒロユキ

日 時:2007年12月22日(土)10時から12時半

場 所:国立社会保障・人口問題研究所(日比谷国際ビル6階) 第4会議室

(っていうかこれ、07年シンポですよね?)

Yu-u.さんの群青によると、内容はこんな感じなのだそうです。

2007年の大会シンポジウムバックラッシュクィアする〜性別二分法批判の視点から〜』をふまえて、フェミニズムセクシュアリティに関する研究会をしたいと思います。

 参加は学会員及び、どなたでも可能です。

「だそうです」ってどんだけ他人事風の態度なのって感じではあるのですけれども、わたくしのところにはこのお知らせが回ってこないので(女性学会のメールリスト(?)への申し込みをしたのですが、なぜか宛先リストからもれたようで、それがそのままになっております。ここに深い陰謀を見て取りたい気分満載ですけれど、陰謀の対象にするほどの重要人物ではないので、ただ単に抜け落ちっぱなしになっているようです。泣)、Yu-uさんのエントリを拝読して「そっか〜」みたいな感じです。実は発題予定者もこのエントリではじめて知りました(笑)。それってどうなの〜。

女性学会のサイトではお知らせを見つけられないように思うので(さがし方が悪いだけかもしれませんが)、いちおう宣伝をしておきます。今年の学会シンポジウムで体内に微妙に毒がたまったという方は、是非。

しかし4人も発題者そろえると、時間がかかりますね。あのシンポの問題はある意味では一言で言えちゃいそうなので、どちらかと言うと参加者に開いて議論の時間を長くして欲しい気もするのですけれど、どうなりますことやら。

04-12-07 (Tue)

[]誤配/誤解されたメッセージに対する、宛先のない御礼

文体においても、知見においても、視点においても、分析の手つきにおいても、とてもとても好きで、とてもとても楽しみに拝読していたブログが、閉鎖になりました。かなり以前に一度だけここにコメントを頂いたことがあるものの、わたくしが先方にコメントを残したことは一度もなく、その後もただ黙々と拝読していただけですので、書き手の方が今でもこちらのブログを訪れて下さっているとは思えません。それを承知の上で、一言だけ、出し損ねて明らかに時機を逸した上に宛先をそもそも失くしてしまっておそらく届くことのないファンレターの、その名残というか、申し上げそびれた御礼を二つ。何がなんだかさっぱりだわよ!という方には、あらかじめお詫びを申し上げます。

まず一つ、閉鎖にいたった過程について、わたくしは完全な門外漢なので良くわかりません。けれども、当該のエントリおよびそこで指し示されていた先を拝読して、わたくしが強く受け取ったのは、ブログという形態をめぐる議論でもなく、ましてや特定の個人への批判でもなく、もしかしたらそれらとどこかで結びついているかもしれず、それらへの言及なくして描き出すのが困難だったのかもしれない、けれどもそれらに回収されるものではないような、一つの社会におけるホモソーシャルな構造に対する苛立ち、のようなものでした。

繰り返しますが、わたくしは当該のエントリで扱われていた事柄については完全な門外漢ですので、その苛立ちをその形で(あるいはその素材で)表現することが妥当であったのかどうかという点については、全く判断することができません。ただ、わたくしには、その特定の素材以前から存在していたその苛立ちがたまたまその素材の分析を通じて表現されたように、読めました。言うまでもなく、そのような形で素材を利用することの問題点は、常にあります。それでも、非常に露骨に、しかし批判がくればそれを厚顔無恥にしかも狡猾にかわしてしまうような形で(狡猾にかわすというより、正当な批判であってもそれを鼻で笑える力があるという方が正しいですけれども)成立しているホモソーシャルな関係を前に消耗することの多い社会にあって、わたくしは当該のエントリに、苛立ちそれ自体と、ふにゃふにゃしてどうにも押さえがたい目の前のそれをどうにかどこかの時点でとめつけてみせようとする意思とを読み(もちろんそれ自体が誤読かもしれませんが)、その点で勝手な共感を寄せ、勝手に力強く感じていました。実際の分析手続きの妥当性の評価とは別にその点における共感と心強さとは(それが誤読に基づくものであったとしても)わたくしにうけ渡されたのであり、それを受け取ったというわたくしにとっての事実は変わることがありません。

それから、もう一つ。これまた完全な誤解に基づいている可能性が高いのですけれども、これとは別の短いエントリ(「やさしく、やさしく」)で述べられていたことを、わたくしは先月のわたくしのブログにおける一連の意見交換の後、非常につらい気持ちで拝読しました。あの意見交換の時にいただいた様々な御批判や御意見の中に、「あなたが議論の中のどこかの時点で、<教師であること>を引き受けてしまったのが、そもそも間違いであり、誠実でなかったのだ」というものがありました。とても的確な批判だという直感はあるものの、それではその批判にどう応えるべきなのか、わたくしにはまだわかりません。ただ、その批判に通じる何かを、わたくしはその短いエントリから読みとったように思います。実際のエントリで想定されていた宛先は違っていたかもしれず、これは完全な誤配なのかもしれません。けれども再び、誤配であったとしても、そのエントリはわたくしのところに届いてしまったのであり、つらいけれども適確なご批判をいただいたと思っています。

その二つの誤配/誤解されたメッセージに対して、今更ではありますが、御礼を申し上げます。それらが誤配/誤解されたメッセージである可能性のゆえに直接御礼をお送りすることができなかったことを言い訳として申し添え、同時に、こうやって宛先のないままに送り出した御礼がもしかすると誤配を経由していつかどこかであなたに届くかもしれないことをかすかに願いつつ。

またどこかで拝読できる機会があればとても嬉しいです。

03-12-07 (Mon)

[]ぽすころな主体

嘘です。そんなたいそうな話(たいそうなのだろうか?)をしようというのではなくて、仕事の合間の逃げ8割な感慨です。しかもすごい時間的に今更ムード満載。

G★RDIAS(星の出し方を教わった)でのkanjinaiさんのこちらのエントリを拝読して、なんとなく気持ちはわかるわ!そうなのよ!な反面で、「ネイティブ/ノンネイティブ」という個人属性の問題とも違う部分があるなあ、と。

ブクマコメントで「オオモノ度の違いでは」という、なんとまあ元も子もない、けれども全くもってそのとおり、なコメントがあったけれども、それはもう本当に露骨に真実すぎて元も子もないので、というか、おそらくkanjinaiさんが仰りたいのは、「コモノ」同士どちらもたいしたことを言っているわけでもないようなときに、「にもかかわらず」どちらが発言しやすく、どちらがペースをつくりやすいか、ということだと拝察するので、それはそれでおいておくとして。さらに、そもそも日本語以外は英語しか理解できないわたくしは、国際会議といえば英語で行われるもの(あるいは英語通訳がつくもの)にしか出席できないわけなので、たとえばフランス語とか中国語で行われる(あるいは日本語で行われる)「国際会議」の状況を全く知らないのだけれども、少なくともノンネイティブがそれなりの数を占める「英語での国際会議」において、と限定した上で。

自分がオーディエンスの側にいる場合、正直個人的には、ネイティブより非ネイティブ(日本人を含め)の方が、わたくしにとっては、厄介なことが多い。より正確には、ネイティブ・非ネイティブを問わず、「きれいな」英語(まあ米語でも良いけれど)を話す人ではなく「なまりのある」英語を話す人が、「問題」なのだ(もちろんわたくし自身はこちら側に含まれるので、わたくし以外の非ネイティブにとっては、わたくしは問題のある=聞き取りにくいスピーカーになる)。

残念ながらわたくしの耳には、たとえばいわゆる「BBC英語」的な発音は比較的わかりやすい反面、労働者階級風のマンチェスター訛とかスコットランド訛(英語とも思えん)、あるいはインディアン訛やカリビアン訛、オージー訛のきついのとか、フレンチ訛などの英語は、ネイティブスピーカーであろうとなかろうと、わからない。困ったことに、「訛」がかかわる場合、スピーカーがかなりゆっくり話していたとしても、早口よりはまし、程度で、やっぱりよくわからなかったりする場合も、少なくない。

同じような感想を英語のノンネイティブスピーカーから聞くことは、結構あるように思う。もちろん今回kanjinaiさんが御出席になった特定の会議において、そういう問題は一切生じなかったのかもしれないけれども、kanjinaiさんのエントリから一歩外れて、「一般論として」国際会議での発言における「英語支配」について話をするならばこの問題はわりとクルーシャルで、結果として、「自分の英語にまわりがあわせるだろうと期待するな、わかりやすく喋れ」というと、微妙なことになってしまう。

つまりこれは、たとえば非ネイティブスピーカーの日本人であるわたくしがどのような英語を「英語」として教わってきたのかという、教育制度上の「正当な英語」の問題でもあるわけで、だからこそ、「わかりやすい=聞き取りやすい英語をしゃべってほしい」と言ってしまうと、結構きわどいラインに直面する。一歩間違えば、ノンネイティブにして「訛のある」わたくし達みんなにとって比較的わかりやすい「<訛>のない=英米の大都市部の中流階級あるいは一定の教育を受けた階層の」英語を話すよう、ネイティブもノンネイティブも鋭意努力いたしましょう、みたいなことになりかねず、そんなポスコロな。

もちろん、「簡単な英語で話してほしい」は場合によってはありだろうけれども、場合によってはこれも難しい。非ネイティブの研究者であれば、複雑なトピックについて「簡単な英語で話す」ことがデフォルトで要求された場合、そちらの方がむしろ難しい、ということもありえるのではないかと思う(ジャーゴンが使えなくなっちゃうのは、非ネイティブにとっては結構つらいような)。そもそも「非ネイティブがいるから<簡単な>英語で」というのは、かなりパトロナイジングというか恩着せがましいというか、わたくしだったら微妙に腹が立つ。

いうまでもなく、ここで腹が立つというのがそもそも「そんなポスコロな」であって、そこで腹を立てては、勝ち負けでいえば最初から大負けだ。けれども同時に、バイリンガルというほどではないけれども議論についていく程度には英語ができるノンネイティブは、しばしば、ネイティブ以上かどうかは別にしても確実にネイティブ並みに早口だ、という印象が、わたくしにはある(わたくしはそこまで英語ができないので、学会ではもっぱら、自信のなさから異常な早口で発表原稿を読みあげ、議論がはじまれば貝より堅く押し黙る、という最悪のパターンを、王道で堂々と歩むわけですが)。そして、「ノンネイティブのために簡単な英語にしようよ」と言われたら腹が立っちゃう気分と早口になっちゃう気分とは、おそらく全く無関係ではない。

さらに言えば、そういう国際学会でそもそもふとまわりを見渡せばノンネイティブである同僚研究者たちが英語でがしがし議論していたりする事態も普通で、その中で「ええと、英語ネイティブじゃないんでわからないのですが」と言いだすのは、結構勇気がいる。なんていうのか、「勉強してない」ことを曝すみたいで。あるいは、あら、ふんどし忘れたまま土俵にあがろうとしちゃったわ、大変、みたいな(自分でも良くわからない比喩)。ええ、そこで「勉強してなくてだめなわたくしね」と思ってしまうことそれ自体が大負けなのですよ、それはわかっているのですが、でもその場で自分ではついついそう思ってしまうし、そう思われてしまうのではという怖さをぬぐい去れない。だめなわたくし。

それは、「内容以前に言葉で見下されたら困るわ」とでも言うような「そんなポスコロな」なメンタリティではあるけれど、そういう危惧が全くの杞憂でないどころか、「どうせ雑魚」の立場でしかも主要使用言語におけるマイノリティだと、言葉でちょっとつまずいた途端に「ネイティブ・インフォーマント」の立場に押し込められかねない。でなければただの無視とか。そもそも、「これってどうなのよ」という文句からして、こちらが英語で(しかも先方が一定の礼儀と注意を払うような形で)言わなくてはいけない構造であるわけだし。そしてそれは、その場にいるネイティブスピーカーだけの問題ではなく、ネイティブ/ノンネイティブ(あるいは英語に不自由しない人と苦手な人)の双方を巻き込んだ言語をめぐる権力構造の問題として、そしてそのような構造によって傾斜づけられた双方の心理のあり方の問題としても、考えるべきなのだろうな、と。ポスコロなわたくしたち。

ちなみに同じブクマコメントで、kanjinaiさんの論じていらっしゃることはそのままジェンダーの問題につながるではないですかという指摘があって、心より賛同。まさに上の文脈において。

(ちょびっと追記)

というわけで、強く強く言うことが微妙にできないのですが、学生さんで英語ネイティブの方は、可能なら日本語でメールをくださるとうれしいな〜などと思います。なんか緊張するんだもの〜英語で学生さんに返事書くの<やっぱりダメすぎるわたくし。