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05-01-10 (Tue)

[][]ヴァージニア・ウルフはやっぱり怖い


以下、ちょっと前に某所で喋れと言われて喋ったものです。タイトルはついていません。当日のイベントをまとめて冊子にするのしないのと色々言われておりまして要するに未決定なのですけれど、とりあえず様子が判明するまではこちらに挙げておきます。

「日本の大学でのクィア・スタディーズの現状や問題点についての簡単な紹介と将来の展望」を、10-15分で、クィアにもフェミニズムにも(おそらく)超!無関心!な聴衆を相手に話せという、わたくしの能力をはるかに超える御仕事で、無理無理無理わたくしには無理!と泣きわめきつつ、とりあえず先方の御仕事上の要望には極力御応えしようとした結果、かなりの省略と単純化が目立つものになっておりますが、かわいそうに力及ばず倒れたのねとゆるく見逃していただきますよう、お願い申したい次第でございます。

同時通訳だの何だのの問題がございまして、当日は急遽これより多少短いバージョンに変更いたしましたので、正確には、これは喋ったとおりのものではなく、喋る予定だった原稿、ということになります。

相も変わらずブログエントリとしては無意味にずるずると長いのですけれども、ポイントとしては「ヴァージニア・ウルフってエラい」という事でお願いいたします<なにそれ。

ちなみに、非常に個人的な怨恨だの不満だのがぎっしりと詰まっておりますが、それらの怨恨だの不満だのを向けたはずの先には全く伝わらなかったようでございました。その程度の力だということだと思い知り、ハンカチを振り絞り噛み締め引きちぎりつつ、一層の精進に励みたいと思います。多分。

また、このスピーチは某クィア系ブログに「クィア・スタディーズなんて役に立たないものですがそれが何か」といわんばかりの喧嘩上等なエントリを書いている知人との会話の中から考えてきたことをもとにしています。エントリに何か問題があればそれは勿論わたくしの責任ですが、エントリに見るべきところが万が一あるとすれば、その少なくとも半分はその知人に帰せられるものであろうと思いますので、ここに謝意を表します。


イントロダクション:『自分だけの部屋 』

でも、とあなた方はおっしゃるでしょう、私たちは女性小説についてお話下さるよう御願いしたのですよ――それが自分だけの部屋と一体どういう関係があるのですか、と。[ . . .] 私がせいぜいできることは、一つの小さな点についてある意見――すなわち、女性が小説を書こうとするなら、お金と自分自身の部屋を持たねばならないということ――を述べるだけなのです。ということは、いうまでもなく、女性の本質及び小説の本質という大きな問題を未解決のままにしておくことになりましょう。

Virginia Woolf


もちろん、これは私のスピーチの冒頭ではありませんし、「大学における人文科学未来」についてのスピーチの冒頭ですらありません。皆さまもご存知のように、これは、全く別の女性が、全く別のテーマについておこなった講演の冒頭部分です。けれども、今日ここで「大学における人文科学の――私の場合には、大学におけるクィア・スタディーズの――未来」についてお話するにあたって、ヴァージニア・ウルフのこの講演の冒頭を盗み出し、それを幾分違うお話に接ぎ木するところから始めることを、お許しいただきたいと思います。

女性と小説について話すようにといわれたウルフは、女性の本質および小説の本質という大きな問題を未解決のままにして、お金――年に500ポンド収入――と鍵のかかる部屋という「小さな点」について意見を述べたい、と言いました。500ポンドと鍵のかかる部屋、これを物質的・制度的な制約の問題と読み替えることができるでしょう。ですから、私も今日はウルフのまねをして、まず制度的な制約の問題からお話しようと思います。

けれど、ウルフのこの講演を読んだことのある方ならお分かりの通り、この「小さな点」は、実際には、小さいどころか、彼女のいう「大きな問題」――女性とは何か、小説とは何か――に直接かかわる問題でもありました。それを「小さな点」にしてしまったのは、当時の(つまり1928年の)イギリスの制度であり、その制度の中では他の「大きな問題」こそ、より重要で本質的だと考えられていたわけです。重要ではないといわれている事がらの重要性を主張すること、本質的で大きな問題とされている事柄が大きく見落としているものがあると指摘すること、これはフェミニズムの、そして部分的かつ非正統的にフェミニズムの伝統を引き継ぐクィア・スタディーズの、重要な企ての一つです。私が今日二番目にお話するのは、この点についてです。

とはいえ、私が今申し上げたように、クィア・スタディーズはフェミニズムの伝統を正統に受け継ぐ存在ではありません。フェミニズムがクィア・スタディーズの母であるとしても、クィア・スタディーズはフェミニズムだけの子供ではありません。クィア・スタディーズには他にも(そして、他にも多くの、というべきでしょうが)母がおり、そのいずれにとっても、クィア・スタディーズは正統な子供ではないのです。私がウルフの良く知られた演説の冒頭を盗み出し、それを少し違ったお話へと接ぎ木しようとしているように、クィア・スタディーズは、何かを盗み出し、非正統的にそれらを接ぎ木しながら、進んできました。この非正統性の問題が、私が今日お話する三番目の点です。


制度的な問題

それでは、まず最初の点、制度的な制約という点、今日のテーマに従って、大学という制度の中での制約の問題から、お話をしたいと思います。そして、これはクィア・スタディーズという領域、とりわけその未来について話そうとすれば、避けて通れない点でもあります。

ここではあらためて詳細には立ち入りませんが、クィア・スタディーズ成立の背景をなす歴史的諸要素を少し考えれば、クィア・スタディーズというこの領域が、すでに存在している制度において自らの存在が許されていないという事態に対する抵抗からうまれてきたのだ、という事は、明らかです。

たとえば女性学からはじまるフェミニズム研究を動機づけてきた必要性を思い浮かべていただいてもいいでしょう(これはまさしくウルフが述べている事柄の延長線上にあるわけです)。あるいは、ゲイレズビアン・スタディーズを可能にした100年にわたる同性愛者の権利獲得運動を、さらには、80年代後半のエイズ・パニックにおいて明らかになった国家の制度的な見殺しへの憤りに裏付けられたエイズ/クィア・アクティビズムを想起していただいてもかまいません。日本の状況に限って言うのであれば、そこに、日本には伝統的に同性愛者差別は存在しないと言い放ちつつ同性愛者やそれに関連する用語が失笑なしでは語られない文化的閉塞感への憤り、不健全であるはずの同性愛者には公的施設は使わせられないと主張する行政組織との対決、などを付け加えることもできるでしょう。

いずれにせよ、既存の制度のもとではみずからの存在がおびやかされているのだという意識、そしてそれは自分たちの問題ではなく制度の問題であるはずだという意識は、クィア・スタディーズの根幹の一つをなしているのであり、そしてそのような制度の問題は、様々なところで、様々なレベルで、今も存在しているのです。

それでは、大学という制度のもとで、この制約はどのような形で、どのようなところに、あらわれてくるのでしょうか。ウルフにならって長大な物語を紡ぎだし、その中から問題が自然にあぶり出されてくるというような手法をとるだけの時間も能力も私にはありませんから、ここでは幾つかをきわめて散文的に列挙しておくしかないのですが、たとえば、建物の構造の問題があります。大多数の教職員や学生が男女二つにわかれたトイレを当然の事だとみなし、それ以外のオプションが存在すらしていない状況で、そしてそれに対する違和感も批判もほとんど表明すらされない(あるいはできない)状況で、男女の性別二元制に異議を申し立てるトランスジェンダーの学生が、どのように存在できるのでしょうか。あるいは、そのような異議申し立てをおこなうクィア・スタディーズが、どのように現実味をもって存在できるのでしょうか。

あるいは、講義ゼミのおこなわれる教室において、教員からの、あるいは同僚学生による、セクシズムやヘテロセクシズム(つまり男女二元制に基づく異性愛主義のことですが)に満ちた発言が日常的に存在する中で、異性愛者ではない、あるいは伝統的な男女の区分にあてはまらないと感じている学生は、自分が大学という制度の中にいても良い存在なのだと、どのように信じられるでしょう。セクシズムやヘテロセクシズムに居心地の悪い思いをする学生は、自分の感じる疑問が不当なものでも軽微なものでもなく、学問的な検討に価するものなのだと、どのように信じることができるのでしょうか。

たとえ大学におけるそのような制度的なセクシズムやヘテロセクシズムに打ちのめされることなく研究に打ち込む学生がいたとしても、そのような研究を裏うちしてきたさまざまな基本的な事柄について――その理論的な基盤について、その歴史的な出自について、あるいはそこにあった不正や憤りや戦いについて――学ぶことのできるコースも、それどころかそれを伝えることのできる教員すら、今の日本の大学の制度においては、ほとんど存在していないのです。

さらに申し上げれば、それだけの多くの制度的な困難を乗り越えたとしても、クィア・スタディーズを研究しようとすれば、とても大きな――ウルフであればそれを「小さな」と呼んだことでしょうが――障壁が控えています。つまり、ウルフによれば「知的自由は物質的なものにかかっている」のですが、彼女の言うところの年に500ポンドの収入、つまり研究に打ち込むための資金、奨学金や研究奨励金、あるいは講座を維持するための資金などを獲得するのは、非常に困難です。

もちろん、資金の枯渇はクィア・スタディーズのみの問題ではなく、人文科学の多くの領域、とりわけ学際的な領域であればあるほど――つまりこれは既存の制度によってうまれる、あるいは少なくとも促進される問題であるという事ですが――、同じ問題を抱えていることは、言うまでもありません。けれども、クィア・スタディーズにおいては、学際的であり、従来の大学における学問の制度のどれか一つに完全にはあてはまらないという事だけが、資金の不足をもたらしているわけではありません。そもそも大学における学問の制度において、資金をまわすには値しないと判断されやすい要素を、クィア・スタディーズは持っているのであり、そしてそれはクィア・スタディーズにとってきわめて本質的な、あるいは本質という言葉がクィア・スタディーズと相容れないとすれば、クィア・スタディーズを特徴づける非常に重要な、要素なのです。


普遍性への異議申し立て

その要素の第一としてあげられるのが、クィア・スタディーズは人間主義的な伝統における普遍性の主張――そして私はここでという単語を哲学的な概念としてではなく、あまねく誰にでもあてはまる、という日常的な意味で使っていますが――に異議申し立てをするものだ、ということです。もちろん、これはクィア・スタディーズの専売特許ではありませんし、クィア・スタディーズはこれをフェミニズムの歴史から(少なくとも部分的には、非正統的な形において)受け継いでいるのです。

人文科学の領域におけるフェミニズムの挑戦については、ここで多言を弄する必要はないでしょう。法学において、社会学において、文学において、あるいは哲学において、フェミニスト達は、人間主義的な普遍性の理念が、いかに男性中心主義的な制度のもとでのみ成立し、それを維持するべく機能してきたのか、いかにそれらの理念それ自体が、きわめてしばしば、女性の排除を前提とすることによって可能になったのか、それを指摘し続けてきました。たとえばウルフがお金とくらべれば重要ではないと述べたまさにその投票権を求めた女性達。たとえば精神と肉体との大いなる自由、自己への大いなる信頼のあらわれた男性作家の作品を皮肉なまなざしで描き出したウルフ自身。あるいはたとえば男性作家の描き出す多様で個性的な女性像と現実の女性がおかれた状況との奇妙な不一致に驚いてみせるウルフの考察を、いわば押し進める形で、西洋の形而上学の伝統は女性をそもそも存在させなかったのだと看過したイリガライ。

これらのフェミニスト達は、既存の人間主義的な普遍性の片隅に女性も加えて欲しいと要求したわけでも、普遍性の理念と対峙するべくある種の特殊性を主張したわけでも、ありません。たとえば投票権の要求のように、一見したところ既存の普遍性への参入を要請するかのように思えるものであっても、あるいはイリガライの哲学のように女性の固有性を主張するように見えるものであっても、それらの主張が実際におこなおうとしてきたのは、ユニヴァーサリティーを標榜する主張それ自体のローカリティー、普遍性の主張が暗黙のうちに前提としている特殊性を批判的に問い直すことであり、最初に申し上げたウルフの言葉を使うなら、何が本質的で重要で大きな問題であるのかは、問題の設定の仕方によって変容するのだ、と指摘することでした。

それは、クィア・スタディーズにおいては、例えば、主体の成立の過程において近親相姦タブー以前に同性愛タブーがあるのではないかと考えたバトラーに、あるいは英国近代規範的な男性性がホモフォビアによってかろうじて支えられているのではないか、それどころか19世紀末以降の西洋文化は同性愛/異性愛の定義の危機をめぐって構造化されているのではないかと論じたセジュウィックに、引き継がれる姿勢です。言うまでもなく、彼女達の主張も、それまでは殆ど重要ではなく、特殊で局所的であるとされていたまさにその問題が、問題の設定の仕方によって、いかに普遍的な、あるいは大きな、あるいは重要な問題としての姿を見せるのかを、示そうとしたものだったのです。

つまり、クィア・スタディーズは、既存の人間主義的な普遍性の理念に強く異議申し立てをし、それにあらがおうとするものであると同時に、局所的な特殊性へと回収されることをもかたくなに拒もうとする、そのような性質を持っているのです。普遍性にも特殊性にもあらがいつつ、そのどちらをも手放そうとしない、そのような性質によって、しかし、クィア・スタディーズは既存の大学制度においては中途半端でうさんくさい存在になります。現在の大学における学問は、すでに設定された大きな、重要な、普遍的な問題を受けいれるか、あるいは――というよりむしろこれは同じ要請の二つの側面なのですが――特殊個別な事象を特殊個別なものとして扱いつつ、すでに設定された普遍的な問題へと昇華させるか、そのどちらかに身を落ち着ける研究を、要請しがちであるからです。

そのために、クィア・スタディーズの研究者は、しばしば、研究の普遍性の不足を批判されるか――なぜなら、そこで扱われるような、ジェンダーセクシュアリティ、欲望や親密性の制度にかかわる問題は、より〈大きな〉問題へと接続・昇華されるならまだしも許せても、少なくともそれだけでは特殊な一部の人々にとってのみ重要なのだと考えられているからですが――、さもなければ、あるいはそれと同時に、そもそもの最初から特殊個別な問題を扱う――そしてここが重要なのですが――特殊な人物として、いわば、その特殊性を忘れ去らない限りはそもそも普遍性には到達できない存在として、その範囲内で、思考し研究するよう、要請されることになります。

つまり、多くのフェミニズム研究者同様、クィア・スタディーズの研究者も、次のような質問に常にさらされているのです――「女性/同性愛者である君にとっては、それは重要な問題かもしれないが、そんな事にとらわれず、もっと大きな問題を考えるべきではないのか?」と。けれども、「男性/異性愛者である君にとって、それは重要で大きな問題なのかもしれないが、そんなに視野を狭めるべきではないね」などと批判された事のある研究者が、いったいどれほどいるのでしょうか。さらに悪いことに、このように研究者個人の特殊性への回収がおこなわれるとき、クィア・スタディーズの研究者は〈特殊な人物〉としてアウティングされてしまいます。哲学の/文学の/社会学の専門家であれば、そのような専門家として研究し発言することを期待されることでしょう。けれども、クィア・スタディーズの研究者は、しばしば、クィア・スタディーズの専門家としてではなく、日本語で言う「当事者」として、つまり「同性愛者として/トランスジェンダーとして」、研究し発言しているのだろうと、勝手に想定されてしまい、そして、彼らの研究も、彼らのような特殊な一部の「当事者」だけにかかわる問題なのだろう、と決めつけられてしまうのです。


非正統性

しかし、実のところ、クィア・スタディーズにとって普遍性が問題となるのは、大学という制度の中においてだけではありません。ひとたびアカデミアを離れ、さまざまなアクティビズムの場やコミュニティーにかかわる時、クィア・スタディーズが、今申し上げたのは逆の方向からの批判、すなわち、普遍性を主張する知の体制への指向が強すぎるあまり、「当事者」にとって何の役にも立たなくなっている、という批判を受けることも、少なくはないのです。あるいは、クィアという概念がそもそもそのように特殊性を帯びた存在としてアイデンティフィケーションされる事それ自体にあらがう衝動をも持つものであるために、クィア・スタディーズの研究者はそもそもそのようなアイデンティティを持つ「当事者」の特殊性を忘却しているのだろう、彼らの研究も、普遍性の理念に従う「研究者」だけにかかわる問題なのだろう、と考えられてしまうのです。つまり、ここでは今度はクィア・スタディーズの側が、このように問われるのです――「知の体制にとってそれは大きな問題かもしれないが、もっと焦点を当事者に絞るべきではないのか?そちらの問題の方が重要なのではないのか?」と。

ここで、アカデミックな制度に対して既存の人間主義的な普遍性の理念の問題点を指摘することはできますし、アカデミアの外の、ひとびとが時に〈現場〉と呼ぶものに対して、割り当てられた特殊性を受け入れることの危険性を唱えたり、短期的には役にたたないように見えたとしても、普遍性の概念を問い直し、知を再編成することは重要なのだと主張したりすることも、できるでしょう。そして実際、クィア・スタディーズは今までもそれをしてきましたし、これからもそれを続けるでしょう。

けれども、正直に認めなくてはならないのは、そのどちら側からの批判も、少なくともある一定の程度においては、外れているわけではない、という事です。ユニヴァーサリティーとローカリティー/パティキュラリティー、アカデミアと〈現場〉、クィア・スタディーズはそのいずれかをとる事ができませんが、残念な事に、とりわけクィア・スタディーズが扱う事象に関して、この両者はしばしば仲良く両立してはくれません。ですから、クィア・スタディーズはその間で引きさかれ、どちらにおいてもどこか足りず、もしくは過剰で、どこかずれているのです。あるいは、先ほどの表現を再び使うなら、クィア・スタディーズは、どこかうさんくさく、いかがわしいのです。しかしまた、どこかうさんくさくいかがわしくなければ、どうして〈クィア〉の名を冠していることが出来るでしょう。

いずれにせよ、私が、大学という制度においてクィア・スタディーズが支援を受けにくくなる理由であり、しかしクィア・スタディーズにとっては非常に重要な要素だと申し上げた、これが二番目の点になります。クィア・スタディーズは、常に非正統的な学問にならざるを得ない、ということです。

この非正統性は、アカデミアと〈現場〉の境界線でのみ生じるわけではありません。そもそも、人文科学の枠内に限っても、クィア・スタディーズはきわめてうさんくさく、きわめて非正統的なやり方で、先行する思考の蓄積を引き継いできました。ここで、またもやウルフの言葉に耳を傾けたいと思います。十九世紀前半の女性作家の境遇に思いを巡らせつつ、ウルフはこう述べます――「彼女たちには背後に何の伝統もなかった、否、あっても、殆ど助けにならないほど歴史の浅い不完全な伝統しかなかった」。そしてそのような伝統の欠如の中で、「何かが裂け、何かが引っ掻かれ」たような、文章も物語の進行も壊れたような小説を綴る一人の女性作家が、ついにそれまでの小説では描かれ得なかった場面――女性同士の情愛に満ちた親交の場面――を描き出すのに成功する過程を、描写してみせるのです。

不完全な伝統。クィア・スタディーズの背後にあったのも、まさにそれでした。どの一つの思考伝統もクィア・スタディーズが手放そうとしない特殊性を語るには十分ではなく、従って、手に入るもの全てをかきあつめ、本来の流れを壊して継ぎ合わせなくてはならなかったのです。あるいは、セジュウィックが見事に明らかにしたように、性愛や親密性の規範がそれ自体矛盾に満ちているために、それを考察しようとすれば、相矛盾するいくつもの思考を盗み出し、それらを不当にも接ぎ木してしまう必要があったのです。

ですから、クィア・スタディーズの論考は、しばしば、先行する思考を参照する際に、読み間違えている、それぞれの思考伝統や文脈を理解していない、と批判されます。そしてこの批判は時にまったく正当なものです。しかしまた、時には、読み間違えること、参照する思考をそのもともとの文脈ではなくクィア・スタディーズの文脈に暴力的にもすえ直してしまうことは、必要なことでもあったのです。ウルフの女性作家にとって、新しい場面を描くために、文章も物語の進行も壊してしまうことが必要だったように。


展望

私が今申し上げた二つの問題、つまり、普遍性の主張の批判と、非正統的な形での思考の接続とは、クィア・スタディーズに固有のものではない、という御指摘を受けるかもしれません。そして、その御指摘はまったくもって正しいのです。皮肉なことに、この二つの要素は、少なくとも人文科学という領域においては、研究と思考とを促進させるダイナミクスの一部であったはずですし、その意味においてはいわば普遍化されうるものではないかと思います。しかしもちろん、そう言うのと同時に大急ぎで、クィア・スタディーズ固有の問題意識やその成立の歴史へのある種の忠実さ、つまり普遍化されえないことがらに対するある種の固着の必要性を、強調しておく必要はあるのですが。

ただ、まさしく、このような普遍化への指向と特殊性への固着を臆面もなく共存させるその身振りにおいて、アカデミアとその外にある事になっている〈現場〉との間で引きさかれているそのうさんくささにおいて、その結果としての非正統的な盗み出しと接ぎ木の作業の露骨さにおいて、クィア・スタディーズは、少なくとも日本の大学における人文科学が、直面はしていても必ずしも直視しているとは限らない、この緊張に満ちたダイナミクスに、もっとも自覚的に向き合っている領域の一つだと言えましょう。

そしてその意味では、現在、クィア・スタディーズがその世界的な潮流として、普遍性の批判と非正統性とに彩られたもう一つの人文科学の学問領域であるポストコロニアル・スタディーズに急速に接近しているのは、当然の結果でもあります。言うまでもなく、日本のクィア・スタディーズは、日本の他の多くの学問領域と同様、ポストコロニアルな――あるいはその用語が不正確であるならば、それに加えて、西洋化と近代化が重ね合わせされてきたところに生じる――非正統性の問題を、抱え込んでいます。けれども、日本における最初期のクィア・スタディーズが――それは英米においてとそれほど変わらない時期にはじまったのですが――早くからそのことに自覚的であったにもかかわらず、過去10年ほど、この国でのクィア・スタディーズの中心がその問題に明確に取り組んできたとは言いがたいのも、事実です。私たちは、少しずつ慣れ親しみ始めてしまった形での引きさかれや、うんさんくささや、盗み出しではない、別の非正統性、別の居心地の悪さ、別の接ぎ木の仕方を、探し始めなくてはならないだろうと思います。結局のところ、慣れ親しんでしまったうさんくささのどこに、クィアなものがあるというのでしょう。

けれども、だからといって、私が最初に申し上げた点、すなわち、制度的な問題点を、放置しておくわけにはいきません。もちろん、ずっと申し上げてきたように、クィア・スタディーズの直面する制度的な問題点の幾つかは、クィア・スタディーズを特徴づける性質と深くかかわっているのであり、従って、私たちは、制度的な制約に苦情を言いつつ、いざクィア・スタディーズがすっぽりと制度に落ち着きそうになれば身をよじって逃げ出すという、厚顔無恥なふるまいを続けなくてはなりません。しかし、それは、制度的な問題点の全てを放置することが望ましいということではないのです。最後にもう一度だけウルフに立ち戻ることを許していただけるのなら、ウルフは、想像の中にしか存在しないシェイクスピアの妹が現実に生まれてくる未来を想像して、演説の原稿を締めくくっています。けれども、この未来の女性詩人は、ただ黙って待っていても生まれては来ないのです。ウルフの結びの言葉を、またしても盗み出して、私も終わることにいたします。

私たちがそうした準備を、そうした努力をすることなくして、彼女が再び生まれてきた時には、詩を書いて生きていくことができる世の中にしようと決意することなくして、彼女が立ち現れることは期待できません。それは、不可能なことでしょうから。だが、私たちが彼女のために努力すれば、彼女は現れるでしょうし、かつ、たとえ貧しく無名であろうと、そのように努力することは、やり甲斐のあることだ、と私は主張したいのです。

28-12-07 (Fri)

[][][]論文募集中(って時間ないよ!)

年末のあれやこれやで取り紛れてすっかり宣伝を忘れておりました。馬鹿馬鹿。

クィア学会の学会誌『論叢クィア』創刊号への投稿を受け付けておりますので、お手持ちの素材のある方は、是非ふるってご応募くださいませ。お知り合いや担当の学生さんなどで関心がおありの方々にも周知いただければ幸いです。あ。ただ、原則として投稿資格があるのは会員に限られます。

詳細はこちらで御確認いただけますが、とりあえず、事前登録が今年中に必要ですので、その点よろしくお願いいたします。(ちなみにわたくし編集委員ではございませんので、詳細についてのお問い合わせをコメントで頂いてもお答えできません。申し訳ありませんが、下にあるアドレスまでメールにてお問い合わせくださいませ)


   『論叢クィア』への投稿を受け付けています

投稿予定のある方は、2007年12月末日までに、事前登録をお願いいたします。

なお、完成原稿の締切は2008年2月末日です。(クィア学会編集委員会


  • 事前登録の方法

2007年12月末日(消印有効)で、以下の内容を電子メールまたは郵送にて送付してください。(海外から郵送にて投稿する場合は航空便のみ可)

 1.氏名

 2.職業・所属

 3.原稿の種類(論文、研究ノート、その他の別)

 4.タイトル(仮のものでも、結構です)

 5.500〜600字程度の概要

 6.連絡先:郵送用住所、電話FAX、メールアドレス

  (いずれも、編集委員会からの連絡が取りやすいものを記載してください。)


  • 登録先

 電子メール:journal*queerjp.org(*を@にかえてお送りください)

 または

 郵送:〒153-8902 東京都目黒区駒場3-8-1

     東京大学大学院 総合文化研究科 清水晶子

     クィア学会事務局・編集委員会宛

 このほか、学会誌についての質問は、編集委員会宛にお願いします。

     journal*queerjp.org(*を@にかえてお送りください)


  • 投稿を受け付ける原稿の種類

 ・論文(20,000字以内)

  レビュー論文も含みます。

 ・研究ノート(12,000字以内)

  研究上の問題提起、研究プロジェクトの経過報告、他の著書を批評する論文、

  外国書の紹介・批評などを含みます。

 ・その他(字数は相談)

  論文と研究ノートの他、各種の活動報告、ワークショップの報告、

  海外の研究・活動の動向、 外国語論文の日本語訳、目録、

  インタビュー・座談会の収録なども受け付ける予定ですので、ご相談ください。

  ※執筆要項は、現在準備を進めています。もうしばらくお待ちください。

  定まり次第、本webサイトにて告知いたします。


  • 『論叢クィア』投稿規程

 1)概要

 本誌は、クィア学会の学会誌であり、年1回発行する。

 2)投稿資格

 本誌は原則として会員の研究発表の場であり、他誌に未発表のものを掲載する。

 3)査読

 本誌の編集は編集委員会によっておこなわれ、原稿の採否は、査読に基づく審査により、編集委員会において決定する。

 4)投稿締切

 投稿は毎年2月末日を締切とする。

 5)投稿資格

 投稿登録の締切は毎年12月末日とする。登録先は編集員会とする。

 6)投稿詳細

 投稿にあたっては別途定める執筆要項に基づいて原稿を作成する。

 7)著作権

 掲載論文等の著作権はクィア学会に帰属する。

 8)進呈

 掲載一件につき、掲載誌一冊を進呈する。

以上

(なお、英文誌名は Journal of Queer Studies Japanです)


01-11-07 (Thu)

[][]だって助けてほしいんですもの。

大分時間が戻ってしまうのだけれど、PA/Fでのプレ・イベント後、「フツーに生きてるGAYの日常」のakaboshiさんのところでの御批判を受けたid:Yu-uさんのところでの考察を拝読して考えることがあったので、それについて。きちんと正確に考えをまとめてから書くというのがおそらく大人な対応なのだろうけれども、ちっともまとまらないので、敢えて今の時点で、整理のつかないことや違和感や疲労感や緊張感やそういうもろもろを含み込んだままで、反応。というより、Yu-uさんには直接お話したことでもあるので、ただのメモというべきかもしれないですけれど。

ここでの「閉鎖性」とは、”生活”につながっていないのではないか、ということなのではないか。

このくだりでYu-uさんは、学会が「特殊な職場内の互助組合」にすぎない閉鎖性を持っているのではないかというakaboshiさんの御批判を受け、そのような互助組合の「閉鎖性」が「生活」からの乖離に起因するのではないかと述べていらっしゃるのだが、このロジックには幾つか問題がある、あるいは少なくとも、「何が」「誰の”生活”と」つながっていないのか、それと「閉鎖性」がどう関係あるのか、それをもう少し明らかにする必要があると、わたくしは思う。

わたくしは、「学会」が一つの「特殊な職場内の互助組合」の側面を持つことそれ自体は、必要でもあり不可避でもあると考える。もちろん、「職場」をどれだけ広くとるのかについての議論は常にあるべきだし、そのような性質はあくまでも学会の一つの側面であって、それ「だけ」に終わるようではそもそも「研究/教育業界の互助組合」としての機能すら十分に果たせないだろうとも思うけれども、それは学会にそのような側面があることを否定するものではない。

固定的な権益維持や収奪の制度としてではなく、必要な知やサポートを提供しあい、批判と見解とを交換できる「互助組合」としての「学会」は、広い意味での研究/教育にかかわる人々の「生活」にとって必要なものだとわたくしは思っているし、へたれ机上系のアカデミアとしてそのくらいは自分でどうにかするべきだろうと考えたのが、学会立ち上げに関わった大きな理由でもあった。

しかし、学会が互助組合の側面を持つこと、学会が閉鎖的であること、そして学会が「生活」につながっていないこと、その三つがゆるく併置されることを通じて、「(アカデミアという「特殊な」職場の)互助組合であること」と「生活につながっていないこと」とが間接的ではあれ接続されてしまったとすれば、それは、「生活」につながる「互助組合」としての責任を、安易に学会から免除してしまうことにつながらないだろうか*1。「互助組合」としての側面を持つべき「学会」が、会員の「生活」から乖離し、知的/精神的/制度的サポートを一切提供しなくなったとすれば、それこそが当然批判されなくてはならないことであろう。逆に「互助組合である」側面自体を否定してしまったら、あるいは「(特殊な職場の)互助組合であること」と「生活につながっていないこと」とを漠然と接続してしまったら、「学会が互助組合として適切に機能していないこと」を批判する回路は閉ざされてしまうのではないのか。

アカデミックな互助組合としての学会」と「生活との乖離」との接続はまた、「生活」を構成するさまざまの制度と「学会」活動とを互いに無関係なものとみなそうとするロジック、「アカデミック」な活動の純粋性(それを肯定的にとらえるにせよ否定的にとらえるにせよ)の幻想を前提とし同時に維持しようとするロジックに、加担しかねない。そして、それこそがアカデミアが「閉ざされたもの」でありうるかのうような幻想を生み出し、それがそもそも閉ざされて完結したものとしては存在していない(存在しえない)という当然の事実を見えにくくしてきたロジックではなかったのだろうか。

その意味では、学会あるいは「アカデミア」が「閉ざされているのか」「開かれているのか」というのは、選択可能な二つのあり方ではないと言っても良いと、わたくしは思う。その上で、その既に開かれているものを、あたかも閉ざされたものでありうるかのように扱うのか、それとも開かれているという事実に向き合うのか、どのようにして向き合うのか、それは学会員の、あるいはアカデミックの、責任を伴う選択であろうけれども。つまり、「閉鎖性」はアカデミアという空間が生活と乖離しているが故に生まれるのではなく、アカデミアという空間を生活と乖離したものとして理解するところに生まれるのではないのか*2

言うまでもないことだけれど、これは、「学会」あるいは「アカデミア」が生活から乖離しているという批判、あるいは閉鎖的であるという批判が、すべて間違えているということではない。さらに言えば、Yu-uさんご自身が「閉鎖的」で「”生活”につながっていない」と仰っているのは、直接的には制度としての学会やアカデミアにかかわる事ではなく(当初はそこから始まった考察であるように見えるし、結局そこに繋がっていくものではあるかもしれないけれども)、「書く」という行為、あるいは概念化するという行為にかかわる点であるので、わたくしがここで書いたことはその意味ではYu-uさんへの反論や異議申し立てということよりは、それに刺激されて考えたこと、という方が正しい*3。わたくし自身が「学会活動」なるものをこれまで殆どしてきていないので(年次大会に出かけて懇親会に顔を出して知ってる人がいないので寂しくなって落ち込んで帰る、くらいが最大の学会活動でございます)、今後「学会」にかかわる中で見解は変わるかもしれないし、そもそもこんな重箱の隅的な言葉遣いの問題なんてどうでも良くてもっと重要な問題がたくさんあるのかもしれないのだけれども、まあ、重箱の隅の言葉遣いの問題が「どうでも良くないのよ!」というのが机上系の机上系なゆえんでもあるわけで、とりあえず今の時点で、わたくしとしては「学会」を語る時にはこういうことを意識しておきたいなあ、と。相変わらず尻切れとんぼですけれど。

*1: もちろんどのような「学会」であれ、「学会」が個々の学会員の「生活」に対して実際に出来ることは限られているだろうし、その限られた事柄すら十分に実行できる資源がないことも多いだろう。ただ、それは学会にはそのような責任がない、ということとは違う

*2:より小さいことになるけれども、「互助組合であるという側面」を「閉鎖性」の理由とするロジックもまた同じ意味で問題だとわたくしは思っている。互助組合であることは閉鎖的であることと同じではない(あるいは少なくとも同じであるべきではない)。むしろ、互助組合が閉鎖的である、つまりあらかじめ決まった構成員/あらかじめ決まった思考以外に対して閉ざされているとすれば、互助組合としての機能がそれで十分に果たせているのか、検討してみる必要があるだろう

*3:っていうかですね、「書くということ」についてはそれはそれで言いたいことがあるのですが、またそれは別の話になってしまって、完全に収拾がつかなくなりそうなので。しかも多分ディシプリンの違いもあってこの点では正面衝突かもですー>Yu-uさん

03-07-07 (Tue)

tummygirl2007-07-03

[][][][]「制度化されたフェミニズム」批判

今回の学会では、LGBTQ系の人がそれなりに少なくないけれどもそんなに多くもない、という感じだったので、若い学生さん(院生さんというべきですか)から研究者の人から何となくわさわさ集まって話をする機会が多くて、それがとても良い感じだった。オオモノに弱いわたくしは、最終日のフェアウェルパーティーで若い研究者と一緒のテーブルに座ってわらわらご飯を食べていてふと気がついたらいつの間にか斜め前にJosephine Hoが座って普通にその場の馬鹿話に加わっていて一気に食事が喉を通らなくなったりもしたけれど、そのくらいのカジュアルな雰囲気というのは良いものだなあと思う。

学会の中日に現地のガールズ・バーに10人ほどで出かけたところ*1、その日は非常に客の入りが悪くて驚くほど盛り上がりがなくて、それは残念だった。写真はそのイベントの入場券。お店の人によると「普段はもっとずっと盛り上がる」のだそうで、もしかすると他で何か大きいイベントがあったのかもしれない。けれどもいずれにしても「レズビアン・バー/ガールズ・バー」というのは商売として成立しなくて、基本的にはミックス、時折ガールズイベント、という感じらしい。トランスボーイの子も普通に入れたけれど、現地のお客さんはトランス系、ブッチ系が少なくて、女の子女の子なカップルが多かったような気もする。もちろん、たまたまこのイベントがそういう客層を集めていたのかもしれないけれど。

その土地で現地版(翻訳版ではなく)の『ヴァジャイナ・モノローグズ』の上演をしている演出担当者という人にも出会えたりして、色々と聞いてみたかったのだけれども、土地の言葉が出来ないわたくしは一々英語の出来る知人に通訳をしてもらわなくてはならず、ただでさえ大音響で音楽のかかっているバーでは話にならなかった。やっぱり言葉ができないとダメです。

その帰り道、映画監督でもあるヤウ・チンとタクシーをシェアして、色々と話をした。彼女が『レッツ・ラブ・香港』の上映にあわせて国際基督教大学でトークをしたときに一度会ってはいるのだけれども、どうせこちらのことを覚えてはいるまいと思っていたら、学会初日に「私のこと覚えてる?」とむこうから声をかけてきてくれて、記憶力の良い人だなあと、ちょっと驚嘆*2。わたくし、人の顔を覚えられない、名前はもっと覚えられない、という大きな欠陥の持ち主なので、相手がこちらの顔と名前を覚えていると何だかもうすごく罪悪感がぞくぞくと背筋をあがってくるのですが、まあそれはそれとして。

日本と香港、土地は違うけれども、フェミニズムや、ましてやクィア・スタディーズを大学でやっていくのはかなり厳しい、という状態は共通していて、お酒も入った深夜のタクシーでぶつぶつと愚痴を言い合ったりしていたのだが、その過程で、「でも台湾はちょっと違うよね」という話になる。もちろん台湾の人に言わせれば台湾だって大変だし、はたから見るほどうまくいっているわけではない、ということになるのだけれど、それでも「傍から見る限りでは」、やっぱり台湾のクィア・スタディーズやアクティビズムは盛況だという印象を受ける。何が違うのだろう、とわたくしはかねがね不思議に思っていた。勿論そこには、たとえばメインランド・チャイナに対して「自由なくに」という印象を生み出したいという台湾の国際政治があったりもするし、前のエントリでも言及した発表にあったように、香港ではキリスト教原理主義による活動があったりもしたらしいのだが、それに加えてヤウ・チンは「台湾では制度化されたフェミニズムの歴史があるから」ということを言っていた。

わたくしは不勉強で台湾のフェミニズムの歴史というのを全く知らないのだが*3、ヤウ・チンによれば、台湾においては政府主導で「フェミニズム」がアカデミアに導入されて定着したという歴史があり、だから、アカデミアにおいて、そして大学教育を受けた人々の間で、ある種の「フェミニズム」が前提として共有されている。そのことの弊害は勿論あるだろうし、制度化してしまったフェミニズムがあるからこそ、そうではないフェミニズムの可能性を切り開くのがより一層難しくなるという側面もあるだろう。けれども、そのような「前提の共有」があることによって、台湾の大学や社会において、クィア・スタディーズやアクティビズムが場を確保していく余地も大きくなったのではないか、というのが彼女の考えだった。

繰り返しになるけれど、この分析が正しいのかどうか、わたくしには判断ができない。でも、その話を聞いた時には、もしそれが本当だとしたら「制度化されたフェミニズムっていうヤツが一つ日本にも欲しいですなあ」とは、思った。フェミニズムがアカデミアにおいて、あるいはそれを超えて、制度化されていくことの弊害というのは勿論あるだろうけれど、なんというのか、ちゃんと制度化されたフェミニズムが存在している状態で「あんなフェミニズムなんてダメだ」と思う存分言って見たい、と言ったら良いだろうか。ヤウ・チンと二人、心臓が縮み上がるほどの荒々しい運転をする深夜のタクシーに揺られながら、「フェミニズムが制度化しちゃってダメだ、という批判ができるほどの、安定した制度化されたフェミニズムが、欲しいね〜」「ね〜」と、ため息を付き合ったのだった。

夜が終わって、学会が終わって、日常に戻って冷静に考えれば、フェミニズムやクィア・スタディーズが悪い形で制度化されることよりは、制度化されないことの方が良いのかもしれない、あるいはそもそも良い形の制度化というのはありえないのかもしれない、とも思う。けれども同時に、アカデミックな「領域」としてある程度の制度化がされないことには、ジェンダーセクシュアリティに関する研究の裾野は広がりにくく、深度も大きくなりにくいだろう、とも思う。どこの、誰に、どの程度まで、範を求めることが可能なのか、あるいはそうすべきなのか。多少なりともアカデミックな制度化を試みようとするならばそのようなリサーチくらいは行うべきなのかもしれず、しかし、そもそもそんな専門的バックグラウンドと余力のある人を、どこに探せば良いのだろう。わたくし個人には、日本の大学で仕事をしていると、そんな余力はとてもないのだけれど。*4

*1:開催した土地のレズビアン・シーンを調査している人がいて、その人がインタビューのために出かけるのにみんなでくっついていきました。ただの邪魔者たちです

*2:彼女は今年下北沢であったアジアクィア映画祭に行きたかった〜、と言っていた。次の機会に来日してくれるといいなあ

*3:とか威張っていないで調べなくちゃいけないなあ。そのうち。いつか<違

*4:こんなブログを書いていなければ良いのかも。例によって例のごとくの自爆ですが。

02-07-07 (Mon)

[][]アイデンティティ・(ノン)ポリティクス

さすがに前回のエントリだけでまた数ヶ月放置では、時折見に来てくださる方々にもあまりにも申し訳が立たないので何かを書きたいのですが、かといって書けるほどのネタも見つかりません。あ〜人生ってたいへん。というわけで、先日参加した国際学会についてのレポートです。学会そのもののレポートというより、学会に参加しての感想文、ですが<学生のレポートで出てきたら即却下ですわね。

わたくしが参加したのは、基本的に東アジア圏におけるクィア・アクティビズムやディスコースについてのパネル。そもそもアジア圏の学会だったこともあり、そこそこ人も入り議論もあって、まあ成功だったと言ってよいように思う。

パネルを組んだ時点では、英米(というより主に米国)大都市圏からのトランスローカルな影響による不可避な反省性/再帰性が、東アジアのクィア実践においていかに現れてきているのか、またそのような反省的/再帰的な実践がいかにインターリージョナルに相互に影響しあうのか、その二重性の実践がグローバリズムとナショナリズムの双方に介入していく可能性がどこに見出せるのか(あるいはそもそも見出しうるのか)、というようなことをテーマにしましょう、ということが目的だった。

もちろん実際には、「そのテーマは今後継続課題ということで」という、学会パネルにありがちな尻つぼみぶりが発揮され、わたくしのものを含めそれぞれかなりずるっと縮小した発表になってはしまったのだけれども、ただ、そうやって各発表者が微妙にひよって身の丈程度の発表をしてみたところ、まったく意図していなかったのに、わたくしの発表と香港の研究者の発表とがまったく違う題材を扱いつつも非常に良く似た問題意識によるクィア・ディスコースの分析を行っており、さらにそれに対して会場参加者からも他の地域についての類似した考察が聞けたりして、予想外に面白いことになった。

わたくしの発表は、直接には伏見憲明氏の新著『欲望問題』を扱い、非規範セクシュアリティの承認要求がネオ・リベラリズムな脱「政治」化要請との親和性を持つのではないかという問題提起を試みる、というのが一応の趣旨。「承認要求」と、マーケットの、あるいは国家の要請との問題含みの関係というのは、クィア理論の初期から繰り返し考察されてきたもので、いまさら何一つ目新しいことはないのだけれども、それにもかかわらず、じゃあ解決されているのかと言えば解決されていないことでもあり、だからやっぱり馬鹿の一つ覚えの様であっても時折繰り返さなくてはいけないのだろうと、わたくしは思っている(<自己正当化)。さらに言えば、今回の発表では時間的・能力的な制約のために触れることができなかったが*1、わたくしにとってはこれは伏見氏の新著に限定されるものではなく、たとえばそれこそ以前にコメント欄でYu-uさんが指摘なさっていた一種のアカルイ運動みたいなものへの直感的な警戒の念とか、「運動のわかりやすさ」とか「説得力」とか「効果」の問題が唱えられる時に感じる不安とか、そういうものともつながって、今この時期の日本にあっては、結構クルーシャルでアクチュアルな問題であるように思う。この問題設定のあまりにも漠然とした感覚性というのか、それが心の底からアカデミックではないなあ、と今書いていて思ったりはしたけれど、まあそれはそれとして。

わたくしの発表と重なる部分があると感じたのは香港のクィア・アクティビズムについての発表で、こちらは明確なキリスト教原理主義を背後にして非規範的ジェンダー/セクシュアリティへの攻撃が近年激しさを増しており、それに対抗する戦略を模索していく中で、LGBTQポリティクスの脱政治化、あるいは言葉は悪いけれども一種の「同化戦略」が進んでいることへの危惧に裏打ちされたものだった。この発表自体は香港のアクティビズムの多様性をくみ上げきれず、香港におけるLGBTQアクティビズムがみんな同化戦略へと吸収されているかのような分析になってしまっている、という批判もあるようだったが、少なくともそのような傾向が目立つようになっているという点については特に反論は出ていなかったように思う。興味深いのは、このようなある種の「バックラッシュ」のもとでの承認要求が、ラディカルな「政治色」を抜き取ると同時にコマーシャルなマーケットとしての「ゲイ」という集合体を維持する形で行われていることで、このようなアイデンティティ・(ノン)ポリティクスのあり方は、もちろんすでに英米のクィア・スタディーズにおいても問題視されてきたことでもあるのだけれども、とりあえず現時点で日本のそれと非常によく似た動きをしていることには、注意を向けておいてよいのではないかと思う。

もう一人、今回のパネルのモデレーターでもある別の発表者は、ちょっと前から、アジア圏のクィア・スタディーズやアクティビズムが、言語上も、従来の研究の蓄積や運動・理論への影響関係の上でも、好むと好まざるとに関わらず英米(とりわけ米国)経由で対話をする状況があることをとりあえずの前提とし、たとえば共通言語が英語であるという事実を(これまたとりあえず)一端受け入れた上で、アジア各地の運動の経緯や実態、言説や理論が相互に直接参照しあうような理論的枠組みを考えようとしていて*2、その線での発表。実はわたくしはこの人の主張のアクチュアリティを余り切実に理解していなかったのだが、今回のパネルを通じて、これは考えてみるべきことなのかなあ、とちょっと反省した。どういう形が取れるか分からないけれども、その方向で幾つかの国や地域にまたがったアカデミックなプロジェクトを組めればいいねえ、などと夢物語をしあって、その時はちょっと楽しかったです。帰国して日常生活の忙しさがはじまってしまうと、なんだかもう、そんなことできるの?みたいな気分にもなったりするのですが。

[][]『欲望問題』とネオ・リベラリズム

まだ考察途中での発表だったのだけれども、一応関係する節だけ部分的にアップ。日本語バージョンをきちんと書いていないので、英語バージョンだけです。ところで、英語アップしようとすると禁則処理がうまくいかなくて、単語を平気で途中でぶちきって行が変わるのですが、これって日本のシステムだから仕方がないのでしょうか。

「承認」とネオ・リベラリズムとの関係という考察の方向性を与えてくださったR大のN氏にココロよりの感謝を。そして憧れを<こら。

追記

これは、"Surviving the misrecognition; how to un/do identity politics"というタイトルにて、清水晶子が行った発表の一部です。

この発表は、6/16-17日に上海大学において開催された、"2007 Shanghai Conference: Conditions of Knowledge and Cultural Productions"という学会の、"Translocality and Inter-regionalism:The Queer Praxis of Inter-Asia"というパネルにて、行われました。*3

The Issue of Desire

  In the past few years, the backlash against feminist and other progressive politics, including the demand for recognition of non-normative genders and sexualities, has intensified in Japan. Unfortunately, mainstream feminism and other progressive political organizations in Japan have so far mostly failed to stand up point-blank against the homophobic , biphobic or transphobic sentiments mobilized by the backlash discourses, which may be part of the reason why the recent LGBTQ activisms have not seemed too keen on raising their voices against the backlash, whose most conspicuous target is feminist politics rather than a demand for LGBTQ (especially gay and GID) acceptances. A recent book by Fushimi Noriaki, titled Yokubou Mondai (The Issue of Desire), can be seen as clearly registering this reluctance on the part of gay activisms to side with both politically vulnerable and unreliable mainstream feminism. The more important characteristic of the book is, however, its distinctively neoliberal inclination.

  The whole second chapter, out of three chapters of the book in all, deals with the political discussion surrounding the jenda-furii (gender-free) movement in Japan. This movement, which was at first supported and led by the government and aimed at relaxing the constraints on the existing norms of gender, has turned out to be one of the easiest targets for backlash discourses. In this book, Fushimi distances himself both from some of the moral conservatives who attack homosexuality as a threat to ‘traditional’ Japanese family values, and from what he grossly generalizes as ‘feminist claims’, which are ‘overtly irresponsible(62)’ claims that negate the entire society as less than ideal. It is a typical ‘third way’ political tactic of describing its own position as a sound and moderate political middle ground, against what is defined as the extreme political bigotry of the right and the naive and unrealistic naysaying of the left.

  However, the neoliberal inclination of Fushimi’s argument can be seen not so much in the way he situates himself as the reliable ‘third way’ in the volatile political debate over genders and sexualities, as in the way he argues for the shift of focus in gay politics from ‘the issue of discrimination to that of desire’. Defining the issues of discrimination as inspired by the notion of justice, Fushimi argues that the notion of discrimination can only be summoned with the ‘justice’ always already given to those who are discriminated against. Nevertheless, he continues, this ‘justice’ is based and ‘justified’ merely on the grounds of the ‘pain’ of the discriminated, and therefore can only be ‘a feeling of one person, a personal justice (58)’. According to Fushimi, the ‘pain’ of a discriminated person is an issue of desire just as much as the pleasure or convenience of another person is, and therefore should be justified through a negotiation with other forms of desire. He thus redefines discrimination not as a public and social issue of injustice regarding a structural and institutional inequality, but as a matter of personal feelings. Claims against discrimination will be understood, in this context, as obtrusive demands that impose personal and private feelings of ‘justice’ and ‘pain’ that have nothing to do with those to whom the demands are made.

  The reduction of the issue of discrimination to that of personal ‘pain’ has in itself a strong resonance with the rhetoric of U.S. neoliberal gay activists that attacks progressive politics against social and economical injustice as obsessed with victimhood (Duggan, 55). When he goes on to argue that one should better attempt to negotiate between various interests than to protest against discrimination(Fushimi, 54-6), in other words, when he calls for individual effort of negotiation without contesting the existing social, political, or economical structures and institutions that may make negotiation on an equal basis extremely difficult, or sometimes impossible, however, the argument unquestionably reveals its neoliberal ‘equality’ principles that advocate equal personal autonomy and responsibility within the uncontested existing system of inequality. It is no wonder, then, that while Fushimi claims that he would not discard the identity term Gei (gay), he proposes to use the term as a sign of desire effective in finding a sexual partner, not as a sign to mobilize gay identity politics in the conventional sense.

  This is precisely what Duggan calls the ‘rhetorical remapping of public/private boundaries’ in the neoliberal brand of gay activisms in the United States. Taking examples from the writings of an online group, IGF (Independent Gay Forum), Duggan demonstrates how the new neoliberal form of gay politics ‘does not contest dominant heteronormative assumptions and institutions, but upholds and sustains them, while promising the possibility of a demobilized gay constituency and a privatized, depoliticized gay culture anchored in domesticity and consumption (Duggan, 50)’. While the U.S. gay rights activism has had a relatively consistent political goal of simultaneously expanding the right to sexual privacy against the powers of the state and expanding ‘gay public life through institution building and publicity (Duggan, 51)’, Duggan argues, the new third-way gay activism attempts to ‘shrink gay public spheres (Duggan, 50)’, in accordance with the neoliberal principle of privatization and personal responsibility, into ‘a miniaturized state and constricted public life, confined to a very few policy decisions, coupled with a vast zone of “private” life dominated by “voluntary” economic and civic transactions (Duggan, 62)’. Both the U.S. neoliberal gay activism and Fushimi in his new book are effectively depoliticizing the politics of sexualities by shifting it from the public to the private sphere, and redefining it as an issue of free, personal endeavour rather than that of structural/institutional discrimination. [Here you can see some of the principles they advocate on their website.]

  As can be observed in the IGF’s principles, not only do the U.S. neoliberal gay activisms advocate free market and small government, but they also uphold these values as part of ‘the American system’. In their argument, the call for political recognition does not motivate the criticism of the existing public institutions. Instead, it serves to endorse the very ‘American’ institutions as that which have the authority to secure the freedom and autonomy of the ‘private’ sphere, and, therefore, as Duggan argues, sits very comfortably with the post 9/11 rise of patriotism in the United States. Here again, a striking similarity can be detected between their politics and the argument developed in Fushimi’s new book with its fundamental affirmation of the existing public institutions, which easily connects with a fundamental affirmation of the national. Answering his own question whether ‘this society is worth maintaining’, Fushimi says he would like to think so, and continues : ‘Surely one can endlessly keep pointing out what is wrong about this country, Japan . . . but my experience and my gut reaction tell me that this society can get so close to my ideal (63)’. Following this casual rhetorical replacement of the social and the national is the affirmation of ‘Japan’ as that which should be maintained as it is: ‘Overall, not everything about this country is getting worse (64)’; ‘Enabling the desires of the others as much as possible, while trying to accommodate them so they will not contradict the formation and sustenance of this country… I would like to share this country with others as the forum for such endeavours (64, emphasis mine)’. Considering how many backlash discourses also promote ‘patriotism’, we could argue that Fushimi is trying in this book to secure gay existence by upholding the kind of gay politics that not only reformulate the sphere of the public and the political according to neoliberal principles but are also accommodated to national orders, thereby contravening the kind of gay politics that have endeavoured both to secure and expand the right to sexual privacy against the powers of the state and to open the question of sexuality to the sphere of public interference to the existing institutions.

  In fact, already in an interview conducted in the year 2000, a leading Japanese sociologist, Miyadai Shinji, argues that attempts at social reorganisation through liberation movements could, in Japan, only serve to establish what is to be liberated as what is disturbing to, and therefore is to be excluded from, the community. Therefore, he maintains, and Fushimi argrees, it often turns out to be more effective in bringing about reorganisation of society, to gradually turn various queer existences into an accomplished fact in society by ‘making friends with your enemy’ than being confrontational and thus making enemies through, for example, having recourse to identity politics. One may consider Fushimi’s attempt in The Issue of Desire to survive under the backlash by discarding ‘un-Japanese’ identity politics and by endorsing the national as an incontestable precondition, as following this observation. The crucial difference is, however, that while in this interview Fushimi still talks of possible social reorganisation through ‘non-typical forms of activisms’, seven years later in The Issue of Desire the search for possible public forms of intervention and reorganisation has been replaced with neoliberal and nationalistic gay ‘politics’, if they can be still termed as such, that are reduced to the personal effort to ‘make friends’ without radically questioning the existing social structures.

*1:っていうのもアカデミックお役所言葉ですわね

*2:理論的枠組みよりも実際の組織をつくれよ!とか言われそうだけれど、理論系のアカデミックとしてするべき仕事をしていると、同じ机上系のわたくしとしては思います

*3:大会サイトをチェックしてもこの発表のタイトルは出てきませんが、これは大会オーガナイザーがミスを訂正しないままに大会が終わってしまったことによります。この点については伏見さんにもご説明申し上げてあります

29-06-07 (Fri)

[][]すべきことは多いけれども自分にできることは少ない

というより、何かをやろうと思うと時間がなかったり能力がなかったり最悪気力がなくなったりするわたくしが悪いのですが、アカデミックにもそれ以外でも課題は山積しているにもかかわらず何一つ効果的に仕事ができない今日この頃でございます。登校時に耳鳴りがすることとか、教室に入ると学生さんの「ニンゲンノニオイ」で一瞬文字通り気が遠くなることがあることとか、明らかに心因性と思われる「わたくしのカラダの右腕だけがケダモノクサイ」という感覚とか*1、もしかしてちょっとここのところ、そもそものつくりがヘタレなわたくしの何かが綻びかけているのではないかしら?等と思ったりしますが、そんなことは仕事のできない言い訳として認めてもらえない世の中です。というより、カラダは異常に丈夫ですし。というより、最近職場が変わったのですが、それから数ヶ月で5キロ太りましたし。ストレス太りなのよ!とは思うのですが、我ながらますますふくぶくと健康そうに見えます。外見にだまされてはいけない、と、自分に言い聞かせる毎日です。よくわかりませんけれども。

そんな中、知人に「いったいあのブログは更新する気があるのかないのか」と言われてよくよく心の中をのぞいてみますと、いつかは更新したいという意欲の萌芽はまだ残存しているらしいので、とりあえず何か更新しておくことにします。

効果的に仕事ができない理由は100万ほども思いつくのですが、そのひとつとして、どっち向いて効果的に仕事をするのが効果的に仕事をしていることになるのか、よくわからないわぁ、という、なんだかマスターの学生さんのようなナイーブな悩みに取り付かれている、ということがあったりします(すみません、マスターの学生さんだっていまどきそんなこと言ってぼ〜っとしたりしてはいないのかもしれませんが)。

たとえば。尾辻さんをOK!って応援するべきかしら。OK!言説の怖さをも話すべきなのかしら。とか。

そもそも大学教員って何かするべきなのかしら。何かしたらそれは権威的だから何かするべきじゃないのかしら。とか。

女性学会って内側から立て直すべきなのかしら。それとも先人を見習って(なんじゃそりゃ)出て行くべきなのかしら。とか。

学生さんにフェミニズムとかクィア理論とかちゃんとポリティカルに教えるべきなのかしら。それともそんなこと教わっても迷惑そうだから人文系の院生さんのニーズにあわせてフェミニズム理論とかクィア理論とかの脱政治化バージョンを基礎教養として地味に教育するべきなのかしら。とか。

アカデミックにフェミニズムやクィア・スタディーズを制度化していくのって制度化さえ不可能なよりはましなのかしら。それともそれって方向自体が大間違いなのかしら。とか。

っていうかわたくし、ご立派なアカデミアの中で(あるいは中から)ヒト様にモノを教えたりするほどモノゴトがわかっていないので、後20年くらい一人で気楽に勉強していても良いように、宝くじでも当たらないかしら。とか(違)。

*1:実際にニオイが感じられるのですが、他の人に試してもらったところ(もらうなよ)、そんなこた〜ない、らしいので

13-10-06 (Fri)

[][]哀悼

http://d.hatena.ne.jp/toshim/20061012

もう少し待っていて戴きたかったです。

御著書に文句をつけたり批判したりして、あっさりと論じ負かされて悔しくて眠れなかったり、家に帰ってこっそり猛勉強してみたり、そういうことをしたかったです。

年齢はそう違うわけではないけれど業績的には日本での机上クィア理論の大先輩である方に、心からの敬意を込めて。

わたくしはどうせたいした仕事ができる器ではないので、せめて御仕事のほんの一端だけでも次の人たちに引き継いでいけるよう、地味に生きていきます。

30-09-05 (Fri)

[][]出版差し止め

ちょっとびっくりしたニュース。リンクをたどっても詳しいことが分からないのだけれども、とりあえず載せておきます。もし何かご存知の方がいらしたら、教えていただけると嬉しいです。

簡単に言ってしまえば、アメリカのHaworth Pressから、同出版社から出ているJournal of Homosexualityのスペシャル・イッシュー(特集版って言えばいいのかしら?)として出版予定だった、古代ギリシア・ローマにおける同性間の欲望と愛をテーマにした本が、出版差し止めになったと言うお話。差し止めの理由は「同性愛」ではなく、その中に、成人男性と未成年の少年との性愛を容認していると取られかねない論文が入っていると保守系サイトであるWorldNetDailyによって批判され、出版社に抗議が殺到したから、らしい。

この論文の要旨はこちらで読めるのだけれど、これを読んだ限りではわたくしはこの論文には全く興味が持てないわぁという気がするのも事実。cross-speicesデータを参照することが人間のセクシュアリティの話をするときに本当に有効なのかというあたりにわたくしはとても疑問を感じるし、古代ギリシアの様式にのっとれば成人男性と未成年の少年の関係は少年の育成にとって有益である、というのも、時代も文化も階層構造も全く違う古代ギリシアのやり方をそのまま現代社会に持ち込むこと自体に無理がありそうだと思う*1。勿論論文そのものを読んだわけではないので正確なことはいえないけれども、そもそもどうしてこんな論文が?(Jouranl of Homosexualityだからなのかしら<この雑誌への偏見。根拠はございません)と思ったりは、する。

ただ、学術論文としてのレベルの問題であるならば、最初から掲載を認めなければ良いだけの話。あるいは実際にこの論文が「古代ギリシアにならって、現代社会において成人男性と少年との性愛を復活すべきだ」と主張しているとして、その主張に雑誌の編集部として、あるいは出版社として、問題を感じるのであれば、これまた最初から掲載を認めなければ良かったのだ。この論文の著者は以前にも似たような論文(これとか、これとか、ですかね)を出したことがあるらしいので、今回採用側が著者の従来の主張を全く知らずに論文の意図を読み違えたということも考えにくいし。

いったん審査して掲載を決めた論文(というより、それが載っている本そのもの)を、保守派の圧力であっさり出版差し止めにしてしまうという出版社の決定が、わたくしにはちょっと分からない。しかもこの記事によれば、出版社側は「(WorldNetDailyに記事が掲載されてから)1日足らずで20通ほども抗議のメールが来た」ために、「(当該論文が)成人男性と未成年の少年との性愛に賛成していると解釈する人がいるという事実に基づいて」、「出版社としてはそのような(成人男性と未成年少年との性愛を承認するという)主張には全く賛同できないので」出版差し止めの決定を下したと説明しているらしい。

わけがわからないんですけれど!たかだか1日20通ですよ?ちょっとヒートアップしているブログのコメント欄につくコメント数より少ないですよ?しかも、ある論文に特定の解釈を加える「人がいる」ということと、その論文の主張がその解釈通りであるということの間には、かなりの隔絶がないかしらね?さらに言えば、ある特定の主張を気に入らない人が一定数いるとして、「その主張を気に入らない人がいる」ことが学術論文出版の基準になるって、どうなのよ?そんなことを言ったら、殆どの論文は出版できないような気がするわよ。出版社(あるいは編集者)側が、ある特定の主張を読み取ってそれには賛成できないというのならば、最初からそう言って掲載しなければ良いのに。

なんというのか、この記事だけから判断すると、出版社の腰が座らなすぎな気がしてならない。はっきり「私たちはこの論文をこう解釈して、従ってこの論文の主張には賛成できず、出版するつもりはない」とか「この論文の質(あるいは方法論でも何でもいいけれど)は満足のいくものではない」と言うのもイヤだけれども、かといって圧力を加えられたり売り上げが落ちるのもイヤで、どうにか誤魔化そう、みたいな。Haworth Pressってそれなりに良い本も出しているし(何冊も持ってるし)、なんだか残念。っていうか、出版社がここまで弱腰っていうのを見せ付けられると、なんだか怖いわ。

*1:安易に過去に戻るっていうのがとにかくキライなだけかもしれないわ。てな気もするけど

13-07-05 (Wed) Journal of Lesbian Studies: Call for Papers

[][]Call for Papers

知人からまわってきたものです。こんなところに載せても見ている人がいるかどうかわかりませんが、万が一ということもあるので、一応載せます。若手の(って若手じゃなくてもいいんですが、基本的に若手の方が発表媒体の欠如に苦しんでいるので)研究者の方がもし迷い込んでいらしたら、是非御一考ください。(エディターの方にはウェブ掲載の許可を取ってあります)



Call for Contributors—please consider or let your friends and colleagues know!

Thematic issue of the Journal of Lesbian Studies on LESBIANS IN EAST ASIA

edited by Saori Kamano and Diana Khor.

The Journal of Lesbian Studies will be devoting a thematic journal issue and book on the topic of LESBIANS IN EAST ASIA.

We are interested in receiving articles about lesbians in East Asia (Japan, Korea, Taiwan, Hong Kong, and China), including comparative analyses involving other countries outside of this region. We welcome both theoretical explorations and empirically based articles using either quantitative or qualitative methods, but we will also consider personal accounts. We especially encourage contributions by authors who do not usually publish in the English language. Even though the journal requires the articles to be written in English, authors who have contributions but do not write in English may want to invite someone to translate their work or help with the English, and then list this person as second author.

Topics include but are not limited to the following: experience of being a lesbian in family, school and work settings, “passing” as straight, dealing with pressure towards marriage, the domestic arrangement of lesbian couples, legal and social issues concerning lesbian couples, friendship and networking among lesbians, development of lesbian spaces, involvement in activist organizations, portrayals of lesbians in the mass media, teaching lesbian studies at the university, and so on.

Please send a one-page abstract of your proposed contribution to both Saori Kamano at s-kamano@m7.dion.ne.jp and Diana Khor at diana.khor@r6.dion.ne.jp by August 31, 2005. Abstracts will be evaluated for originality, thematic relevance, and clarity.

All thematic issues of the Journal of Lesbian Studies are simultaneously reprinted in book form by Harrington Park Press, the book affiliate of Haworth Press. We hope that the resulting book will be used in Lesbian Studies, Women's Studies and Asian Studies courses, and will be available in feminist bookstores.

We hope you will consider writing a contribution in this area. In addition, please let your friends and colleagues know about this project and forward this to appropriate individuals and lists everywhere. If you have any questions, please feel free to contact us.

Many thanks,

Saori Kamano and Diana Khor

さらに、Journal of Lesbian Studiesについての説明


About the Journal of Lesbian Studies.

We are the guest editors of the special issue on East Asia, and the editor

of the journal is Professor Esther Rothblum. Professor Rothblum is a

former President of the Society for the Psychological Study of Lesbian, Gay,

and Bisexual Issues of the American Psychological Association. She also

received the Distinguished Scientific Contribution Award from the Society

for the Psychological Study of Lesbian and Gay Issues in 1991.

The first issue of the Journal of Lesbian Studies appeared in 1997, and has

been continuing since, with four issues published every year. It is a

US-based journal, but it is indexed widely in a range of English-language

journals in diverse fields. The following is an excerpt from their website:

"An enlightening balance of scholarly and practical information, the Journal

of Lesbian Studies presents an interdisciplinary body of work in a

completely lesbian context. The journal is a vital forum for research and

theory, addressing the history, politics, science, race, literature, and

life cycle issues of women who love women."

"The Journal of Lesbian Studies examines the cultural, historical, and

interpersonal impact of the lesbian experience on society, keeping all

readers current findings, resources, and community concerns. Independent

scholars,

professors, students, and lay people will find this interdisciplinary

journal essential on the topic of lesbian studies!"

For more information, please access their website:

http://www.haworthpressinc.com/store/product.asp?sku=J155

http://www.haworthpress.com/web/JLS/

Saori Kamano, Ph.D.<s-kamano@m7.dion.ne.jp>

Diana Khor, Ph.D. <diana.khor@r6.dion.ne.jp>