てれびのスキマさんの「1989年のテレビっ子」はマストで読めばいいと思う

てれびのスキマ(戸部田誠)さんの新刊「1989年のテレビっ子」は、テレビから放たれるお笑いやバラエティが好きな人はマストで読めばいいと思う。という一行で言いたいことが終わるのは悲しいので読書感想文をやります。


ダイノジ大谷さんがフジテレビの深夜番組「アフロの変」のオープニングで毎回「カルチャーは点ではなく線である」ということを必ず言っています。こういうことは毎週言い続けないと記憶に残らないので、その意味でもこれを毎回必ず言っていること自体が「点ではなく線である」を体現している。

スキマさんが「1989年のテレビっ子」で書いていることも「カルチャーは点ではなく線である」と大いに重なります。スキマさん自身、この番組についてきっちりコラムを書かれている(http://www.cyzo.com/2015/11/post_24909.html)ので、もともと遠い話ではないのですが。

1978年生まれのスキマさんが現在に至るまで線として、カルチャーの中心と言ってもいいテレビを定点的に享受してきた果実こそが「1989年のテレビっ子」である。例の「笑っていいとも!」最終回のとんでもない場面はテレビっ子にとってはあまりにも語り草ですが、この本でも「テレビバラエティという壮大な大河ドラマを見てきたものにはたまらない、まさに夢の光景」といったこみあげる悦びとともに活写されています。まさに点が線となった瞬間。我々もテレビっ子であり、同じようにテレビを見てきたし、その悦びは大いに共有できるものです。

ただ書き手としてスキマさんが大きく秀でているのは、その点を線として、よりくっきりと太字で際立たせ、物語として紡ぐ芸当があるという部分です。インプットのみならず、アウトプットとしての線。その特色は、帯文に書かれている「膨大なる資料の海、積み上げられたVHSの山、唸りをあげるハードディスク、尋常ならざる視聴体験とその記憶。芸人やスタッフのテレビでの発言や、雑誌でのインタビューを丁寧に拾い上げ、ひとつひとつを織り込んで作り上げた」といった奮った謳い文句が示すとおりです。

ざっくり言ってこの本の読後感って、重厚なテレビバラエティの歴史絵巻がメインの具材としてあって読み応えはあるし面白いし勉強になるなー、っていうのが大きくひとつ。と同時に、これってテレビに映し出されているものを媒介したスキマさんの個人史だよなー、とも思うのです。「まえがき」と「最終章」ともに個人的な思いが濃く反映されていて、筆にも熱がこもっている。このまえがきと最終章の2つでテレビ史を串刺しにしている印象です。客観的に資料をつむぐだけに留まらず、個の部分がより出されている。これまでのスキマさんの本にはない特色だとも思います。

最終章の見開きページに、タモリビートたけし明石家さんま石橋貴明木梨憲武松本人志浜田雅功内村光良南原清隆といった、本文でその物語が描かれてきたスーパースターたちの名前が並んでいる。で、この名前と完全に同じ並びの中に、てれびのスキマ、と著者ご自身の名前も配置されていて、ちょっと笑っちゃいました。ちゃっかりしてる!と。ただ、これこそが「1989年のテレビっ子」がスキマさんの個人史でもあるゆえんなんですよね。そういえば正式タイトルにも「そして11歳の僕の青春記」ってありました。

最近「やっぱ本だな」ってちょっと思うんです。スピードや集合知とかはWebには敵わないけど、入念に紡ぎ上げた文章をじっくり貪り読める。この「1989年のテレビっ子」も、カラーバーを模したどこかレトロな装丁や、400ページに迫るずっしりしたボリューム感が、所有欲を満たすものです。単純に読んでいて心地いい。そんな本をこれからも届けてもらえるよう、スキマさんにはテレビをバラエティをカルチャーを線で観て、紡いでいってもらえればと願っております。