そして、内部崩壊へ
わが小泉首相など足元にも及ばぬほどのやりたい放題ですが、それまでの退廃と沈滞の国を小国ながら強い国にしたいとの朴正熙の強い思いが、軍人に有り勝ちな硬直化した政治文化の中で暴走したとみてよさそうです。
2年後の1974年8月には大統領の命を狙った狙撃事件が起こります。この時は、弾がそれて陸英修(ユクヨンス)夫人が死亡します。陸夫人は、青瓦台(韓国の大統領府)の野党と言われるほど、大統領に国民の立場からの苦言を呈することのできる唯一の存在であったそうで、夫人亡き後、大統領の思考力は益々偏向し、言論弾圧、学生運動弾圧、デモの弾圧などが激しくなります。
しかし、最後は反対勢力ではなく、信頼する味方に殺されることになるのです。朴政権は内部から崩壊します。軍人政治の限界かも知れません。
永久政権へ
維新憲法といわれる新しい憲法は、
●統一主体国民会議を新設、この会議による間接選挙で大統領を選出する
●大統領の任期の延長、重任の規制条項なし
という大統領権限を無制限に近く強化して、永久独裁体制を狙ったものでした。
それまでの憲法では、李承晩の長期独裁に懲りて、三選禁止をうたっていました。朴大統領は、1967年に2期目の当選を果たしており、4年後の71年で任期満了となります。そこで、69年に1期だけ重任を可能にするという改正を行い、国民投票で65%の賛成を獲得して、71年の選挙では三選を果たします。
そして半年後の10月に永久政権を可能にする体制づくりを行ったのです。大統領は完全な自由を手に入れたわけです。
清渓川(チョンゲチョン)に清流が戻った
10月1日の朝日新聞に“ソウル都心、「せせらぎ」復活”の記事を発見して嬉しくなりました。このサイトでも紹介しましたが、8月にソウルを訪問した時には、まだ工事中で、これで果たして10月に水が流れるのだろうか、と気になっていたのです。
ソウル中心部の高速道路を取っ払って、川をつくり、都市中心部を流れる漢江から地下パイプで水を引くそうです。2003年から工事を開始、3867億ウォン(約420億円)の工費を投じての大事業です。
このような大事業、しかもそれは経済活動を阻害するかもしれない、そういう事業がどうして成り立ったのでしょうか。そこには強い政治的なリーダーシップ、政治的な思想があるはずです。
記事は、「高架道路の撤去で『渋滞が深刻化する』との声もあがっている」と結んでいます。こうした反対の声は当然あるでしょう。どのように説得したのでしょうか。興味を惹かれます。
そして、この川が市民や観光客にとってどんな憩いの場となるのか、また一つソウルを訪れる楽しみが増えました。
なぜ射殺されたのか?
朴大統領の独裁ぶりが酷くなって、反政府活動が活発化しており、そのことを憂慮したキム部長が犯行に及んだとされています。また、同じ治安機関である大統領警護室との確執も原因と言われています。というのは、この時同席していた警護室長のチャ・チチョルも銃殺されたのです。チャ室長は大統領のいわばイエスマンで、そのために大統領の独裁ぶりに拍車がかかることに危機感をもったから、と。
いずれにせよ驚くべき大事件で、日本でも大きく報道されました。私も当時は事の真相がつかめないまま、ただ韓国とは恐ろしい国、野蛮な国だという印象をもったことを記憶しています。
大統領の功績は、これまで韓国で高く評価されてきましたが、ここ2,3年は、むしろ陰の部分を明らかにしようとする動きが盛んで、そうしたドキュメントがTVでも放映されているそうです。目的のためには手段を選ばず、ということだったようで、当然犠牲者も多かったでしょう。次回は、その辺りを探ってみたいと思います。
1979年10月26日
今から26年前に遡ります。この年の10月26日の夜、韓国の国民、否世界を驚かせた事件が起こりました。“漢江の奇跡”と言われた未曾有の経済成長を実現し、韓国の近代化を進めた大統領、朴正熙が宴会の席で射殺されたのです。それも同じ慶尚北道出身で、側近中の側近であった中央情報部(KCIA)の部長であった金戴圭(キムジェギュ)に射殺されるというショッキングな事件です。大統領は63歳、就任後18年でした。
27日には非常戒厳令が布告され、金部長は7ヵ月後に処刑されました。
当時中学生だった韓国人の友人が、「あの時は父を失ったような真っ暗な気持になった。韓国はどうなるのだろうと不安になった。」と言っていました。恐らく国民の多くがそう思ったことでしょう。