今回より、このブログの文體をさらに古の形に變へてみむとぞ思ふ。なんとならば、、、いゝかげん、歷史的假名遣ひの中途半端なる用ゐ方になむ飽きにける。

これくらい徹底していれば共感する。



まあ、松永氏はもちろん単に自分の好みのことを書いてゐるだけなのだらうから、「共感できる日記を見つけて良かったですね」とだけ言ふのがまともな反応だとは思ふが。
「徹底」といふ表現を見て誤解するおっちょこちょいな人がもしかしたらゐるかも知れないので一応書いておくか。
文体が現代文だと歷史的假名遣ひの中途半端なる用ゐ方だと考へるのは、一つの考へ方にすぎない。その考へ方からするなら、当然ながら文体を擬古文にするのは「徹底」と言へる。だが「文体は文体、表記(仮名遣)は表記」とする考へ方から見ると、それは別に「徹底」と言ふべきものではなく、「旧仮名も擬古文も使ってゐる」といふだけのことだ。言ふまでもなくさうしない者が「不徹底」だといふことにはならない。
ついでながら、歷史的假名遣ひの中途半端なる用ゐ方は間違った言葉づかひだらう。例へば「歴史的仮名遣だけ使ふのでは中途半端だ」とでもすべきだらう。
(数分後に追記)
「「文体は文体、表記(仮名遣)は表記」とする考へ方」と書いてしまったが、これでは間違ひだ。「「〜なのだから、文体は現代文でもよろしい」とする考へ方」とすべきだった。「文体は文体、表記(仮名遣)は表記」は事実なのだから「(一つの)考へ方」などと言ってはいけない
私の場合、「文体も変へないと不徹底だ」とは全然思はないので、今後(万一)擬古文で書くやうになったとしても、それは「徹底」ではない。