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完全ネタバレ!宮崎駿監督作品『風立ちぬ』の感想


先月20日に全国454スクリーンで封切りとなった映画『風立ちぬ』は、初登場で堂々の第1位を記録!オープニング2日間で観客動員数74万7451人、興収9億6088万5850円を叩き出し、「大人向けの内容だからファミリーの動員が難しいのでは」とか、「題名に『の』という文字が入ってないのでヒットしない」などのネガティブな予想をものともせず、興収100億円以上を十分に狙える見事なスタートダッシュを切っています。この勢いは2週目以降も全く衰えることなく、何と3週連続で1位を獲得。累計動員は350万人、累計興収は早くも43億円を突破している模様。宮崎アニメのブランド力は健在ですねー(^.^)

ただ、映画を観た観客の評価はかつてないほど割れまくっており、「素晴らしい!宮崎駿の最高傑作だ!」と絶賛する人がいたかと思えば、「なにこれ全然面白くない!最低の作品!」とメチャクチャ貶す人がいるなど、両極端な反応が多いようです。いったいなぜなのか?

というわけで、公開からだいぶ時間も経ったことですし、ちょっと内容に踏み込んだ感想を書いてみたいと思います。以下の文章はネタバレを含むため、映画をまだ観ていない方はご注意ください。

まず冒頭、自宅の屋根に設置した手製の飛行機に乗り、悠然と空へと飛び立つ少年時代の堀越二郎。予告編でもお馴染みのシーンですが、驚いたことにこの場面で聞こえるSE(効果音)は全て人間の声によって作られているのですよ。発案者はもちろん宮崎監督です。ムチャするなあ(^_^;)

ただ、最初にこの仰天プランを聞いた時はどうなることかと思ったんですけど、実際に観てみるとほとんど違和感なし。東宝スタジオの音響演出担当者が、レバーを引っ張る「シュコ、シュコ」という音やスイッチを入れる「カチッ」という音、プロペラが回る「ブルルル」という音など、10種類以上の効果音を全て人間の口で再現し、それらを重ね合わせることによって、見事に飛行機が飛ぶシーンを描写していました。

本当は宮崎監督本人が声を吹き込む予定だったようですが、ためしにオーディションをやってみたらあまりの下手クソさにスタッフ全員の猛反発を受け、渋々専門家に任せたらしい。いや〜、危ないところだった(笑)。

さて、飛行機が大好きな二郎少年は毎日のように飛行機の本を読み漁り、やがて夢の中でイタリアの航空機メーカーの創業者ジャンニ・カプロニ伯爵(カプローニ)と出会います。「設計はセンスだ」とか「創造的人生の持ち時間は10年だ」など、度々二郎を激励するような言葉を投げかけるカプローニを演じたのは、狂言師野村萬斎

野村さんは宮崎監督から「カプローニは二郎にとって尊敬する大先輩であり、メフィストフェレスでもある」と説明され、良い人か悪い人か分からないような”二面性を持った人物”として演じたそうです。

確かに映画を観てみると、カプローニは夢の中で二郎に次々と素晴らしい飛行機を見せ、あたかも善き理解者であるかのように接していますが、いったい彼をどこへ導こうとしているのか真意が見えず、終始不穏な空気を放っていました。しかし、二郎はカプローニと(夢の中で)出会うことによって様々なことを考え、重要な決断していくようになります。

それから数年後、二郎少年は立派な青年になっていました。ここでちょっと気になったのは、この映画って時代が飛ぶ時に何の説明も無いんですよね。普通ならテロップで「何年後」とか「西暦何年」とか見せるじゃないですか?

今までの宮崎アニメでは本作ほど長期的なストーリーを描かなかったし、そもそもファンタジーの世界なので「西暦何年」とか出せなかったということもあると思うんですけど、今回は史実をベースにしているのだから、「今がいつなのか」を観客に示す配慮があっても良かったんじゃないかと(「展開が分かり難い」という批判もこの辺からきていると思われる)。

で、機関車に乗っていた二郎は”風”で帽子を飛ばされ、それを拾ってくれた少女・菜穂子と運命的な出会いを果たします。その直後、関東大震災が発生!このシーンでも飛行機と同じく、地響きの音を人間の声で表現しており、迫り来る巨大地震の驚異がまるで生き物のような雰囲気を醸し出し、倒壊する建物や逃げ惑う人々などの見事なアニメーションと相まって、怪獣映画を思わせる大迫力を生み出していました。

つまり本作では、人間が効果音を再現することによって、飛行機や地震を擬人化してるんですよね。特に飛行機に関しては、二郎が心血を注いで作り上げた子供のような存在であり、それが飛行実験中に何機も墜落し、最終的には戦争の道具として使われることの悲しさを、より強調しているように感じられました。と同時に、兵器としての恐ろしさや不気味さも表現しており、普通に効果音を作るよりも遥かに観た人の印象に残る仕様になっているのですよ。

この大震災によって東京は壊滅状態。二郎は菜穂子の付き添い人のお絹さんが足を骨折しているのを見て、すぐにカバンから計算尺を取り出し、応急措置として彼女の足に巻き付けます。そして、二人を家まで送り届けた後、名前も告げずに去ってしまいました。

映画はこの後、三菱に入社し飛行機開発に没頭する堀越二郎の姿をひたすら描いていきます。この辺の描写は、飛行機オタクの宮崎駿が、その知識をフル活用したマニアックなエピソードやテクニカルタームが満載でとても楽しめました。また、二郎の同期の本庄や上司の黒川など、周囲のキャラクターも非常に魅力的で好感が持てます。それぞれの声を演じた西村雅彦と西島秀俊のハマリ具合も素晴らしい。

さて、必死になって新型機の開発を続ける二郎ですが、なかなか思うような成果が出せずに行き詰っていました。そこで、しばらく休暇を取って軽井沢の避暑地へ出かけることに。ただ、この場面も説明不足なんですよねえ。例えば、今までの宮崎アニメだったら上司から「しばらく休め」と言われるシーンを直前に入れて、その後場面を転換させる、という手順を踏んでいたはずなんです。でも、この映画ではそういう説明を意図的に省き、まるでジャンプカットのようにシーンとシーンを繋いでいる。もうこれはね、「大人向け」というよりも「映画好き向け」のアニメですよ。

普段からたくさん映画を観ている人なら、少々説明不足なシーンでも理解できるし、むしろ、わざとらしい説明シーンや説明セリフを入れるよりも、スパっと省いてテンポ良くカットを繋いだ方が気持ちいいんです。だけど、映画を観に来る人は映画好きばかりじゃありませんからね。むしろ、普段あまり映画を観ていない人の方が多いでしょう。そのことを十分理解していた宮崎監督は、だからこそ今まで一貫して”子供が観ても分かる映画”を作り続けてきたんです。

ところが、『風立ちぬ』ではそういう”掟”を自ら破り、敢えて映画に関するリテラシーが高い人向けの作品を作った(歴史的な知識も必要)。もっと言えば、”子供に見せるため”という大義名分を捨て去り、誰にも遠慮する必要が無くなったことで、本当に自分が作りたい映画を作りたいように作ることができた、という感じでしょうか。つまり、いい意味でも悪い意味でも、本来宮崎駿が持っていたアニメに対する”初期衝動”みたいなものが全開になっちゃってるんですね(なぜこのような”省略”を多用しているのかについては後述)。

で、二郎と菜穂子が軽井沢で再会するシーンですが、ここでも「風」が二人を結びつけています。最初の出会いでは、風に飛ばされた二郎の帽子を菜穂子が拾い、軽井沢では風に飛ばされた菜穂子のパラソルを二郎が拾う、など本作では「風」を暗示的に使ったいいシーンが多数見受けられました(”風”に様々な意味を持たせている)。

この日以来、二人の距離は急速に縮まり、なんとわずか数日で求婚に至ります。決断早ッ!普通なら、男女の心の揺れ動きなど様々なプロセスを経てゴールへ到達するものですが、宮崎さんはそういった経緯すらもすっ飛ばしちゃってるんですよね。

ちなみに、軽井沢のシーンではカストルプという謎のドイツ人が二郎に近寄ってくるんですけど、この人が何者なのか、映画を最後まで観ても良く分からない。「ここは魔の山だ」とか「日本もドイツもみんな破裂する」など不思議な発言を連発しながらクレソンばっかり食べてる奇妙な外人で、おそらくスパイ活動をしてたんじゃないかと思われますが、結局正体は不明なまま(『風立ちぬ』って、こういうモヤモヤ感が結構残るんだよね)。

この後、二郎は職場へ戻り、飛行機の開発を続けます。しかし、秘密警察が二郎を探していたため、とりあえず黒川の家へ身を隠すことになりました。そんな頃、菜穂子の父から「喀血(カッケツ)」の電報が…。菜穂子の病状が悪化し、血を吐いて倒れたのです。慌てて仕事道具一式を抱えて東京行の汽車に飛び乗る二郎。移動中にも計算尺を使って設計を続けるものの、菜穂子のことが心配で涙が止まりません。

菜穂子の実家に着いた二郎は玄関も通らず、一目散に彼女の部屋へ飛び込んで菜穂子に抱き付きます。そして熱烈なキスを交わす二人。本作は、今までの宮崎アニメにはあまり無かったキスシーンがとても多くて印象的でした。

二郎が会いに来てくれたことで、菜穂子は「しっかり病気を治そう」と決意し、サナトリウムでの療養生活が始まります。しかし、二郎からの手紙を読んで不安に駆られる菜穂子。手紙には、自分の仕事のことしか書いてなかったからです。そういえば、サナトリウムに入って以来、一度も見舞いに来てくれません。「この人は仕事しか頭にないんだわ…」、「このままでは病気が治る前に私たちの貴重な時間が終わってしまう…」。そう考えた菜穂子は山を下りて二郎に会いに行ってしまいます。

驚いた二郎は、それでも菜穂子と暮らすことを選択し、黒川の家に住まわせてもらえるよう頼みますが、黒川は「結婚もしていない若い男女が一緒に住むなんてけしからん!」と猛反対。これに対して二郎は「すぐに結婚します!」と即答し、その場で結婚式が執り行われることになりました。

黒川夫妻の仲人のもと、即席の結婚式が催され、正式に夫婦となった二郎と菜穂子。そして宮崎アニメ史上初の初夜シーン!声を演じた庵野秀明は「恥ずかしくて嫁さんには見せられない」と言っていましたが、とても綺麗な良いシーンでした。

こうして二人の新婚生活が始まったんですけど、相変わらず二郎は仕事が忙しくて、なかなか一緒に過ごす時間が取れません。帰宅はいつも夜遅く、しかも家に帰ってからも仕事の続きをやり出す始末。そんな二郎の横顔を見ながら、布団に入ったままそっと二郎の手を握る菜穂子。

やがてタバコが吸いたくなった二郎は菜穂子を気遣って他の部屋へ行こうと思い、「手を離してもいい?」と聞きますが、少しでも長く二郎の側にいたい菜穂子は「ここで吸って」と言います。それを聞いて手を繋いだままタバコを吸う二郎。

このシーンは結構賛否が分かれたみたいで、「肺を患っている病人の側でタバコを吸うとは何事だ!」っていう意見も多かったらしい。確かに、一見すると「自分の都合を優先して女性の迷惑も顧みずに平然とタバコを吸う身勝手な男」に見えなくもありません。ただ、この時点で既に、「私たちに残された時間は非常に少ない」ということが二人の共通認識になってるんですよ。

菜穂子は「二郎と一緒にいられるならタバコの煙ぐらい構わない」と思っていたし、二郎も「菜穂子に気を遣ってタバコを吸わなかったら、逆に彼女を悲しませる」と考えていたのです(「他の部屋で吸う」という選択も同様)。だから、「手を繋いだままタバコを吸う」という状況こそが、二人にとって最も幸せな選択だったわけですね。

そうしているうちに作業は佳境を迎え、あとはテスト飛行を残すのみとなりました。明け方、疲れ果てて帰宅した二郎の寝顔をやさしく見守る菜穂子。その顔を見届けた後、彼女は「ちょっと散歩に出かけてきます」と黒川夫人に言い残して家を出て行きます。途中、バスの中から菜穂子を見かけた加代(二郎の妹)は胸騒ぎを感じ、夫人に知らせて部屋に行ってみると、そこには置き手紙が…。菜穂子は二郎の元から離れ、サナトリウムに戻る事を決めたのです。

「美しいところだけを、好きな人に見てもらいたかったのね…」と事情を察してつぶやく黒川夫人。この時代、結核は”不治の病”と言われていました。サナトリウムに入って治療を受けても完治する保障はありません。「たとえ病気が治ったとしても、自分が美しいままでいられる時間はあまり残ってはいないだろう」、「だったらせめて、自分の一番美しい姿を大好きな二郎に見てもらいたい」、「幸せでいられる唯一の時間を、彼と一緒に過ごしたい」。

そう考えて療養所を抜け出した菜穂子は、二郎のそばで短くても充実した瞬間を味わい、そして「もうこれ以上、二郎に自分の綺麗な姿を見せ続けることはできない」と悟った時、幸せな思い出を持ったまま、サナトリウムへと帰っていったのです。

菜穂子の気持ちを察して居ても立ってもいられなくなった加代は、外へ飛び出し彼女を追いかけますが、既にその姿は無く、そして二度と戻ってくることはありませんでした。道でボロボロと号泣する加代の姿が本当に切なくて、とても心に残るシーンでしたねえ。

昭和10年(1935年)2月4日、堀越二郎が心血を注いだ「九試単座戦闘機」試作1号機がついに完成しました。初飛行の日、大空へ飛び立つ九試を見守る二郎。その時、彼の側を一陣の風が吹き抜けます。二郎はその風に懐かしい気持ちを感じました。それは、二郎と菜穂子が出会った時に吹いていたあの風のような…。

その瞬間、九試単座戦闘機は最高速度440kmという驚異的な数値を記録したのです。二郎は風の吹いてきた方を振り返りました。菜穂子がいるサナトリウムの方角を。「僕の飛行機のために力を貸してくれたのか…?」。そして、二郎は最愛の人を永遠に失ってしまったのです。

それから数年後、二郎は九試単座戦闘機を更に改良・発展させた十二試艦船を開発しました。極限までの軽量化を行った結果、高い運動性能と速度性能に加え、長大な航続距離までも合わせ持ったまさに究極の万能戦闘機!それこそが、後に大東亜戦争で圧倒的な戦闘力により連合軍パイロットを震え上がらせた伝説の零式艦上戦闘機、通称:ゼロ戦の誕生だったのです。しかし、二郎が最もこの飛行機を見せたかった人は、もうこの世にはいませんでした。やがて日本は破滅の道を突き進んでいくことに…。

そして、場面は夢の中へ。二郎は地面に散乱するゼロ戦の残骸の中を歩いていました。そこでカプローニと最後の対話を果たします。

・カプローニ:「やぁ、来たな。日本の少年」


・二郎:「ここは私達が初めてお会いした草原ですね」


・カプローニ:「我々の夢の王国だ」


・二郎:「地獄かと思いました」


・カプローニ:「ちょっと違うが、まあ同じようなものかな」
       「君の10年はどうだったかね?力を尽くしたかね?」


・二郎:「はい。終わりはズタズタでしたが」


・カプローニ:「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは…」
       「美しいな…。良い仕事だ」


・二郎:「一機も戻って来ませんでした…」

短くシンプルなやり取りながらも、あまり感情を表に表わさない主人公の切ない心情を凝縮したいいセリフだと思います。実際の堀越二郎はどうだったのか分かりませんが、この映画の二郎は美しい飛行機を作りたかっただけなのに、(結果的に)大勢の日本人が命を落としてしまったことに心を痛めていました。

そんな彼を、菜穂子は無限の愛で包み込みます。この場所で二郎が来るのをずっと待っていた彼女は「あなた…生きて」と優しく語りかけ、二郎は「ありがとう…ありがとう…」と万感の思いを込めて応えます。そして菜穂子のパラソルが風に乗って空高く舞い上がり、彼女自身も消えていきました。儚く美しい風のように…

この映画はゼロ戦の開発者についての物語であるにもかかわらず、実際にゼロ戦が飛ぶシーンはほとんど映らないばかりか、戦闘シーンもありません。更に状況説明も省略ぎみで、ジャンプカットのように時代や場面が激しく切り替わっていきます。そのため、「展開が早過ぎて良く分からない」とか「盛り上がりに欠ける」などの批判が相次いだのでしょう。

ただ、本作は実在の人物を元にしているとは言ってもドキュメンタリーではなく、大部分がフィクションであり、宮崎監督が描きたかったものは、「限られた時間の中で精いっぱい生きる若い男女の純愛物語」なのです。

「僕たちは一日一日を大切に生きている」という二郎のセリフの通り、彼ら二人はまさに一分一秒を(タバコを吸うために他の部屋へ移動する時間すら)惜しむような生活を送っていました。他の人たちには決して理解できない”二人だけの特別な時間”を過ごしていたのです(主題歌にも「他の人にはわからない」「けれどしあわせ」という一節があるように)。

結婚する時に黒川から「それは愛情ではなく、エゴイズムではないのか」と詰め寄られても、「私たちには時間が無いんです!」と押し切り、次のシーンではもう結婚式をやっている(なぜ二人の結婚を認めたのか理由を描かない)。

また、二郎が菜穂子に求婚するシーンでも、なぜ二郎が彼女に惚れたのかの説明をクドクドと行うより、行動や結果に転化することで彼らの”覚悟”や”生き急ぐ様”を見せている。普通の恋愛映画なら、もっと盛り上がるシーンを入れたり、過剰に説明的な場面が入っていたりするものですが、戦闘シーンや恋人が死ぬシーンを敢えて見せず、恐ろしいまでのストイックさで戦時下のラブロマンスを描き切っているところが実に潔い。

また、この映画で描かれている大正から昭和にかけての社会情勢は、大震災・不景気・格差など、あまりにも我々が暮らしている現状と酷似しています。そんな激動の時代の中で、傷つきボロボロになりながらもしっかりと”夢”を持ち、真っ直ぐに力強く生きる主人公の姿が印象的でした。

悲壮感漂う世の中だからこそ、”美しい夢”を原動力に変えて「生きねば」ならない。そんなメッセージが、主人公を通じて伝わってくるような気がします。ラストに流れる荒井由実の『ひこうき雲』も、この映画より何年も前に作られたにもかかわらず、歌詞の内容が作品の世界観にピッタリで驚きました(まるでこの映画のために作られたかのよう)。本当に美しい映画ですね(^.^)


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