typeAの散種的妄言録ver1.1 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-01-01

[]マーク・スカウソン『自由と市場の経済学19:15 マーク・スカウソン『自由と市場の経済学』を含むブックマーク マーク・スカウソン『自由と市場の経済学』のブックマークコメント

こんにちのリバタリアニズムが、

その理論的根拠の多くを経済学的知見から得ていることは、

もはや論を俟たないであろう。


しかしその「経済学」は、

一方ではハイエクやミーゼスに代表されるオーストリア学派経済学であり、

もう一方ではフリードマンに代表されるシカゴ学派であるといった、

二つの異なる学派によって支えられている。


この二つの学派はその自由主義的主張の多くを共有しながらも、

いくつかの大きな対立する論点があり、

それがときに感情的な対立すら招いてきた。


残念なことに、論争はしばしば感情的な個人攻撃に陥ってしまう。ロスバード一派がフリードマンを「国家主義者」と決めつけたり、ミーゼスがモンペルラン協会で会議中に席を蹴り、部屋中に聞こえるように「お前ら、みんな社会主義者だ」と叫んだりするのは、確かにいいことではない。

マーク・スカウソン『自由と市場の経済学』「8.偉大なる経済学者は誰か?」 P261


マーク・スカウソンの『自由と市場の経済学』は、

そうした二つの学派の架橋を試みた著作であるといえよう。


スカウソン自身はオーストリア学派に属し、

以下のような著作もある。

経済学改造講座―正統派への「有罪」宣告

経済学改造講座―正統派への「有罪」宣告


だが『自由と市場の経済学』の書きぶりは、

どちらの学派にも公平であるように思う。

スカウソン自身がシカゴ学派の学者とも交流を持ち、

またフリードマンらの実証研究に一定の評価を与えていることからもわかるように、

積極的にシカゴ学派の成果を学び理解しているため、

両論の併記は不偏でそれぞれの長所短所をバランスよく書いている。


勿論著者自身がオリジナルの立場を有しているため、

箇所によっては多少の不満を残すところはある。


特にシカゴ学派オーストリア学派とで激論になりやすい、

5章の通貨制度の話題と6章の景気循環論の話題は、

ブログ主から見て若干の物足りなさがある。


5章は金本位制を支持するオーストリア学派と、

ルールに基づく管理通貨制を支持するシカゴ学派との対立を整理している。

ここで両者の対立点を整理することに注力がされているため、

第三の立場ともいえるハイエクやローレンス・ホワイトらのフリーバンキング論の説明が少ないのは残念だ。

なおスカウソン自体は金本位制の支持者である。


6章は主に1930年代大恐慌期の研究を中心に、

景気循環論の立場の違いを整理したものだ。

スカウセンの評価では、

マクロのデータはシカゴ学派の説を証明し、

ミクロのデータはオーストリア学派の説を証明したというものだ。


しかしオーストリア学派景気循環論では、

中央銀行当局による利子率の恣意的な低下のせいで、

高次の資本財への誤投資消費財の過剰生産がおこり、

価格体系全体が歪み資源が不足するという説明だったはずだ。*1

スカウソンの挙げる証拠が価格体系の歪みや資源の不足を証明出来ているとは、

ブログ主には思えない。

更なる踏み込みがあってもよかったのではないか。


とはいえ実証研究の必要性を指摘し、

オーストリア学派ももっと現実の経済を分析すべきだという著者のメッセージには、

ブログ主は全面的賛同したいと思う。*2

*3


オーストリア学派は基本的に閉鎖的で他学派との交流も少なかったが、

ゼロであったわけではなかった。

フリードマンやタロック*4

最近であればクルーグマン*5オーストリア景気循環論を批判しているが、

こうした批判を受ける"ことができた"のは、

ひとえにロスバードが『アメリカ大恐慌』で"実証研究"を行ったおかげであろう。*6

もしロスバードがいなかったなら、

恐らく上記のような批判もなく黙殺されるにとどまった可能性が高い。


急進的なアプリオリズムで知られるミーゼス自身、

科学の目的は、実在を知ることにある。それは頭の体操でも論理学的遊戯でもない。したがって人間行為学は、実在において与えられるような条件や前提下における行為の研究に、その探求を限定する。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス『ヒューマン・アクション』「2.人間行為科学の認識論的問題」

と述べて経験を参考にすること自体を斥けているわけではない。

ミーゼスが批判したのはあくまで先入観のない"生のデータ"に基づくことの誤りであり、

そのようなデータは存在せず「先験的知識をもとに解釈できる経験的データ」のみがあるという点である。

オーストリア学派は本来実際のデータで理論を例証すること自体は否定しないのであり、

彼らに欠けているところがあったとすれば、

そのための分析ツールの開発に対する姿勢だろう。


経済という同一の研究対象をもつのであれば、

わざわざ別個に研究を進める必要はないであろう。

ハイエクポパーがいうように人はときに誤る存在であり、

それを指摘してもらえる可能性を少しでも大きくするために、

他学派との交流には積極的であるべきだと私は思う。

*1オーストリア学派の、特にロジャー・ギャリソンの景気循環論の概説は尾近裕幸・橋本努『オーストリア学派の経済学』「12.景気循環理論」が簡潔にまとまっている。

*2:スカウソンの危機感は彼ひとりのものではなく、ピーター・ベッキもそうだ。彼の発言は以前当ブログでとりあげた。 cf. http://d.hatena.ne.jp/typeA/20100728/1280306110

*3:2014/1/2追記: twitterにて某氏よりご教示いただいたものだが、折角なのでここで紹介しておきたい。オーストリア学派景気循環論の実証的妥当性を検証した研究の例である。 Robert B. Lester et al., "The Empirical Relevance of the Mises-Hayek Theory of the Trade Cycle" http://www3.nd.edu/~jwolff2/Research_files/Lester_Wolff_Emp_Rel_March_2013.pdf

*4cf. http://mises.org/journals/rae/pdf/RAE2_1_4.pdf

*5cf. http://www.slate.com/id/9593

*6:ロスバード『アメリカ大恐慌』については、以前にリバタリアンブログ「ラディカルな経済学」で紹介されているので、そちらも参照のこと。 cf. http://d.hatena.ne.jp/KnightLiberty/20101010/p1

2012-06-30

[][]ハイエク貨幣発行自由化についての一抹の危惧。 16:10 ハイエク貨幣発行自由化についての一抹の危惧。を含むブックマーク ハイエク貨幣発行自由化についての一抹の危惧。のブックマークコメント

貨幣論集 (ハイエク全集 第2期)

貨幣論集 (ハイエク全集 第2期)

待ちに待ったハイエク貨幣論集』が発売された。

おかげで私もKonozama現象で苦しめられたが、

どうにか発売日から間をおかずに手に入れることが出来た。


昨今の金融政策に対する関心の高まりをうけて、

私もいくつか貨幣に関するエントリを当blogで公開してきた。

ハイエク貨幣発行自由化論についても幾たびか取り上げた。


そのうえで改めてハイエクの「貨幣の脱国営化論」*1を読み返して、

一つ疑問に思ったことがあったので、

ここでメモを残しておきたい。


ハイエク貨幣の脱国営化論を述べるようになったのは、

政治的な圧力によって左右されやすい財政政策と、

安定的に運用されるべき金融政策との不幸な結びつきが、

貨幣の発行権を政府に委ねたままでは解消できない*2からだ、

という洞察からきている。


しかし貨幣発行をも請け負う民間銀行は、

全くそのB/Sにどのような資産をも持てるのであれば、

かなりの割合で安定的資産として国債保有するのではないか、

と私は思うのである。


確かに政治の側から民間銀行に介入することがなければ、

ハイエクの主張通り民間銀行は自由貨幣を発行することが出来るだろう。

しかし国債保有することで、

政治的な結びつきはどうしても出来てしまうように思われてならない。

より多く国債保有する代わりに政治的な便宜を図ってもらう動きが、

出ないとも限らないように私には思われるのである。


長期的に政府が存在することを仮定する限り、

ファイナンスの一環として債務を負うだろうことは、

たとえ最小国家仮定したとしても否定できないであろう。

例えば技術の発達した国防の分野において、

一時の投資に莫大な費用が掛かるのを巧くやりくりするために、

そのための国債を発行することは当然あるのである。

国防の重要性は皆が認識するだろうから、

人びとはそうした国債を長期で徴税でペイすることを認めるはずだ。

そしてそうした徴税の必要性の認識が、

国債の安定性に寄与するだろう。

安定的な資産としてこうした国債は魅力的だ。

だから貨幣発行を請け負う民間銀行が国債保有する可能性は高いと、

私はみている。


こうした世界でハイエク的な貨幣発行の自由が、

長きにわたって維持されるかどうかは定かではない。

特定の民間銀行に対する便宜が、

自由貨幣発行を全く妨げないとは到底思えないのである。*3


果たしてハイエク的なある程度の政府の役割を認める世界で、

貨幣発行の自由化は巧くやっていけるだろうか。

[]リバタリアニズムを効果的に批判するために。 14:40 リバタリアニズムを効果的に批判するために。を含むブックマーク リバタリアニズムを効果的に批判するために。のブックマークコメント

最近では「リバタリアニズム」の語も人口に膾炙してきて、

それに伴ってリバタリアニズム批判的な声も大きくなってきたように思う。

私はリバタリアニズムに立脚する者と自負しているから、

こうした批判的な声が大きくなっていることは歓迎したい。

批判されない思想は死んだも同然であるから、

リバタリアニズムのより効果的な批判をするために、

簡単にどう批判すればいいかをスケッチしてみようと思う。


或る思想を発展的に批判や解消させようと思ったら、

その対象となる思想の積極像を構築することが必要だろう。

というのは対象の思想を否定的にしか捉えないのであれば、

対抗して提出される思想は単なる陰画にしかならないだろうからだ。


ではリバタリアニズムが効果的に批判されるために、

押えておくべきポイントは何であろうか。

私はここで「無知」と「随意性」との2点を挙げようと思う。


「無知」は帰結主義リバタリアニズムに特に関わる。

「随意性」は非帰結主義リバタリアニズムに特に関わる。

但し片方にしか関わりがないということではない点に注意されたい。


そして「無知」「随意性」が、

リバタリアンなら誰しもリバタリアニズムの本質だと捉えるという訳でもない。*4

或る程度の賛同は得られるだろうが、

恣意性が全くないチョイスとは言えない。

但し今回のスケッチはあくまで別の思想的立場からの批判を促すものであるから、

リバタリアンからも受け入れやすく、

また思考のプロセスで使用される道具的概念でなければならないだろう。


「無知」という観点ではやはりハイエクの名を挙げるべきであろう。

最近の論者であれば特にランディ・バーネットを挙げなければならない。

ここで言う「無知」とは、

われわれが利用しなければならない状況についての知識は、集中もしくは統合された形で存在することは決してないのであり、むしろすべての個々別々の個人が持っている不完全で、かつしばしば相互に矛盾する知識の切れ切れの断片としてのみ存在するという事実

F.A.ハイエク『個人主義と経済秩序』「社会における知識の利用」

と言い換えられる。

この観点からハイエク社会主義批判(より正しく言えば"集産主義"を批判)したのであり、

そうした"切れ切れの断片"の知識を巧く調整させる場としての市場を重視したのである。

M.フリードマンのいう「選択の自由」も同様と言ってよい。

『選択の自由』1章で引かれている、

Leonard E. Readの「わたくし、鉛筆」*5でも述べられるとおり、

数百万ものちっぽけなノウハウが、人々の必要や欲望に応じて、人間的なマスターマインドなしに、自然に、自発的に集合

する自由市場の重視は、

一般功利主義帰結主義的なリバタリアンとを同一視する風潮と大きく異なり、

単なる効用主義とは一線を画すものである。


ハイエクはJ.S.ミルを大いに批判したが、

ことこの観点においてはベンサムに対しても同様であった。*6


「随意性」という単語は、

無知という単語と比べてもなじみの薄いものだろう。

簡単に言えば自分の思うとおりに出来ることと言えるだろうか。

この簡単な言い回しからわかるように、

随意性の重視は自分自身の意思で処分できる何らかのものが存在するという前提がある。確固たる個人の存在とその個人が所有する何かがなければ、

どのような行為も随意ではないのだ。


このように述べると主にコミュニタリアンからの反論が予想される。

確固たる個人というものは元々はなくそれはあらゆる関連性の中で形成されるのだと。

しかし抑々この観点リバタリアニズムを考えるうえで重要ではない。

我々は全ての意思形成を他者に頼っているのではないし、

他者とのかかわりを新たに持とうという決意をしているのはあくまで個人だ、

とも言えるだろうからだ。

徳という観点からはまた別の意見があるのだろうが、

一人ひとりの人間の生活における交流という観点からは、

生活者としての個人を措定し、

その個々人の間の関わりや制約*7をどうすればよいのかということに、

話題を限定してよいのである。


そうした個人を措定するならば、

「随意性」という概念は捨て去ることは出来ない。

非随意的であるということは、

一人の人間の意向を無視し強制することに他ならない。


我々は確かに、

或る物差しのもとでは、

或る程度の強制を以て個人を全く自由にしておくよりは幾分よりよくなる、

ということが技術的に可能であることを完全に否定したりはしないだろう。


しかしそのことは、

(ありそうもないが)或る物差しaを社会の構成員全員が認めたとしても、

強制が"最も望ましい"ということは全く述べていない。


よくある過ちとして、

或る主張Aを"技術的に"コストが膨大であることを理由にして、

Aを"原理的に"否定したと勘違いするものがある。

「或る物差しaを社会の構成員全員が認めた」という仮想世界においても、

正義とは強制をすることではなく、

随意的にすべての人が賛同できる仕組みについて、

それぞれが納得するためのコストを少なくすることだ。

特定の人を犠牲にして効用を最大化することは、

個々人の独立性を最初に認めて議論をスタートした以上、

原理的に避けなければならないことである。


この論考は批判者のたたき台とする目的からみても不十分ではあるが、

一通り現時点までの私の思いついたことを、

ここに開示することで更なる議論の深化に資することを期待したい。

[]今更『銃・病原菌・鉄』の感想。 13:27 今更『銃・病原菌・鉄』の感想。を含むブックマーク 今更『銃・病原菌・鉄』の感想。のブックマークコメント

今更『銃・病原菌・鉄』の感想を書くのも、

時宜を逃した感があるが、

どうしてもメモしておきたい気持ちを抑えられないので、

簡単にまとめておく。


まとめておきたいのは全体の要約ではなく、

エピローグに書かれている欧州中国との対比である。


言うまでもないが歴史的には中国の方が一歩先を行っていた。

技術的な進歩でいっても政治的統一の観点でもそうであった。


では何故中国は現在ヨーロッパに後塵を拝する事態になってしまったのか。

これは歴史に興味あるものなら誰でも疑問に思うところだ。

以前にソーウェルの本を取り上げたが、

『征服と文化の世界史』では「他文化軽蔑したり賤業を忌避するような文化的枠組み」という言葉で、

中国の発展の阻害を説明していた。

確かにこれは正しいと思うのだが、

どうしてそうした文化が続いてきたのかという疑問は残ったままだった。


ダイアモンドの述べるところを、

(大いにリバタリアン好みな纏め方で)先に纏めるならば、

中国の長期にわたる政治的統一が、

ヨーロッパの政治的不統一と比べて不利に作用したからだということになる。

そして中国の政治的統一の早さと分裂してもすぐ統合する統一性の強固さを、

地理的要因から説明する。

その詳しい説明は省くが、

地図を開いてヨーロッパ中国とを軽く比較してみるだけでも、

どちらがより勢力を或る程度持った独立勢力が長く居続けられるかは、

一目瞭然だろうと思う。


航海技術に優れてアフリカ大陸まで行っておきながら、

国内の政治闘争で船団の派遣が取りやめになった中国

かたや技術では中国に遅れていたがアメリカ大陸を"発見"したヨーロッパ


中国は水力紡績機の開発も禁じて産業の発展を阻害しているし、

技術で先んじていながらも政治的要因でリードを失った点は明らかだ。


なお思想史をやっていた私の見解を蛇足でつけておくと、

儒教は秦に続く統一王朝の漢によって紀元前に既に官学となっているし、

文学派と古文学派との学派対立などもあったが、

後漢時代には鄭玄などの学者の活躍により主流派が形成され、

唐の時代の勅令を以てテクストはほぼ完成されてしまった。*8

中国宗教や学問のダイナミズムも政治的要因でかなり阻害されてしまったのではないかと愚考する。


ダイアモンドの文章を読んで、

私は改めて"ヨーロッパにはあったが中国には無かった対立"に意識を向けさせられたと思う。

中国には皇帝教皇との対立などなかったし、

大帝国の東西分裂が何百年と続くこともなかった。

豊かな港は中国にはあってもルネサンスはなかった。


我田引水批判は免れないだろうが、

私は秩序の分散の重要さと集中の弊害とを考えさせられた。

皆様は如何だろうか。

*1:『貨幣論集』での訳による。

*2:私見では、政治的妥協の産物である消費税増税と、財政危機を過度に演出する日本銀行の教条的に緊縮的な姿勢も、財政政策と金融政策との不幸な結びつきだと主張できるように思う。この点はリバタリアンのなかでもシカゴ学派的な立場とオーストリア学派的な立場とで見解は分かれると思うが、私は政府の自己増殖的な動きはインフレだろうがデフレだろうがリバタリアニズム観点から等しく批判されるべきだ、と考えている。

*3:勿論ハイエクなら、そうした危惧は硬性の立憲主義で防いでいくと述べるだろうが。

*4:もし強いて本質的なものを挙げるならば例えば「所有権」であろうが、他の観点をみずに所有権の是非のみを論じれば、単なる押し問答になるだけだろう。

*5邦訳はこちらで。 http://d.hatena.ne.jp/kurakenya/20110127

*6cf. 『致命的な思い上がり』ベンサムが言及される部分の議論を参照のこと。

*7:ここで「制約」という単語を使ったのはノージックのいう「横からの制約」を意識している。

*8:こういうと朱子学陽明学はどうなのかと反論を受けそうだが、南北朝の混乱期に仏教流入しなければ、果たして宋学はあっただろうかと疑問に思う。秩序の分散期に辛うじてダイナミズムを取り戻しただけだと考える方が私にはしっくりくる。

2011-10-16

[]サンデルリバタリアニズム批判批判する。 14:44 サンデルのリバタリアニズム批判を批判する。を含むブックマーク サンデルのリバタリアニズム批判を批判する。のブックマークコメント

昔に某所で書いたサンデル批判の焼き直し。


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『これからの「正義」の話をしよう』(以下、『正義』)の中で、

リバタリアニズムを取り上げた3章及び市場について述べられた4章を経て、

5章の冒頭でサンデルは以下のように述べている。


しかしすでに見てきたように、自己所有の概念をつきつめていくと、熱狂的なリバタリアンしか信奉できないようなものが生まれる。落伍者を切り捨てる完全な自由市場、格差を減らし公益を推進するための施策をほとんど持たない小さな国家、本人の同意さえあれば、人間の尊厳をみずから傷つける行為(人肉食や奴隷売買)でさえ認める風潮などだ。


しかし、サンデルは本当にリバタリアニズム自由市場について、

正しく分析していたのだろうか。

当該エントリでは主に『正義』の前半の章を検証して、

サンデルの分析や上記の結論は本当なのかどうかを見ていくことにしたい。


サンデルが完全な自由市場について明らかに批判的であるのは、

冒頭の章からも明らかである。

サンデル議論を2004年に猛威を振るったハリケーン・チャーリーの話題から始める。

サンデルが問うのは、

その際の便乗値上げ、即ちハリケーンが齎した状態に便乗して、

"人の弱みにつけこんで"生活必需品を高値で売りつけるのは正義にかなうのかという点である。


私はその後で言及されるトーマス・ソーウェルやジェフ・ジャコビーの意見に賛成だ。

州は便乗値上げを規制するべきではないし、

それが正義に悖るとも思わない。何故か。

上記の議論をもう一度考えてみよう。


まず、誰が「公正な価格」や便乗値上げを禁止すべき「緊急事態」といったものを判断できるだろうか。

州政府にそれは可能だろうか。

若し、そうした判断が可能だったとして、

「公正な価格」の強制により便乗値上げできるチャンスが減ったなら、

生活必需品を売る側は減ってしまわないだろうか。

高値ではなく「公正な価格」でしか売ってはいけないというのなら、

わざわざそうした「緊急事態」の発令された地域で商売しなくとも、

他の地域で商売するだろう。

そして必要な物資は不足するに違いない。


ここまではサンデルも既に見越していた反論である。

しかし私にはまだ検討すべきポイントが残っているように思われる。

  1. 「公正な価格」を強制できるならば、人々はそれを見越して災害保険に入るのを止めてしまうかもしれない。これは民間の保険会社に対する民業圧迫ではないだろうか。確かに「緊急事態」はいつ起こるとも知れないものだが、人々はその為に"保険"という商品が既にあることを知っている。
  2. そうした便乗値上げが美徳に欠けるというのなら、そもそも充分な物資を保持しながら弱った人に対して何もしなかった人と比しても、便乗値上げ業者は徳の欠けた存在だといえるのだろうか。便乗値上げをして非難されるくらいなら何もしない方がいいのだろうか。

リバタリアニズムは主に3章で扱われる。

サンデルへのリバタリアンの再批判は、

既にid:KnightLiberty氏が既に行っている。

私はやはり私のもの - ラディカルな經濟學


サンデルリバタリアン(特にノージック)が主張する自己所有権を行き詰めると、

当人が死に至る臓器売買や人肉食ですらも正当化されかねないと主張する。

KnightLiberty氏はそのサンデルの意見に敢えて「Yes」と回答している。

これは一見グロテスクな結論である。

それでも私はKnightLiberty氏の見解に軍配を揚げたい。

何故ならサンデルは、

臓器売買や人肉食について、

グロテスクだという印象を与えるのみで、

自己所有権テーゼそれ自体を突き崩したわけではないからである。

意地の悪い言い方をすれば、

サンデル自己所有権テーゼそれ自体の体系自体は筋が通っていると認めているのだ。

彼の批判は印象論、よくて外在的批判であり、

内在的にリバタリアニズム議論を切り崩したとは到底いえないと私は考える。


しかし私はここで敢えてKnightLiberty氏の意見に異を唱えてみようと思う。

というのはリバタリアンにも様々な論者がいるという当たり前のことを示したいからである。

当然だがリバタリアンにも様々な論者が居るので、

必ずしも臓器売買や人肉食、自己奴隷化契約についてサンデルが纏めたもののみが、

リバタリアンの統一した見解というわけでもない。

ヒントになるのはによる、

契約による自己奴隷を否定する議論である。


ランディ・バーネットは、財産権の中でも或る種のものは譲渡できないと論じている。

自分自身を奴隷の身分に売る契約の妥当性について考えてみよう。このような隷属契約は強制力を持たないとする理由は数多く挙げられてきたが、この種の真に自発的合意は履行を強制すべきだと主張する者もいる。…(中略)…すべての権利を財産権であるとみなすならば、ある種の財産権譲渡とされるものによって生じる義務の履行が文字通り不可能であるために譲渡できない権利が、これらの権利のうちにあることになってしまうだろうからである。…(中略)…自発的な奴隷契約はその「奴隷」が「彼の主観的な信念や価値観に対する絶対的な財産権」を譲渡することに同意したとしても、やはり道理にかなわないものである。

ランディ・バーネット『自由の構造』「4.正義の自由主義的なとらえ方」

故にバーネットは自己奴隷化契約はそもそも履行"不可能"であり、履行できないために損害賠償を払うことになるだろうと述べている。この議論を、人肉食議論に応用してみよう。


マイヴェスの「殺され、食べられたいと願う者を募集するインターネット広告」に応募したブランデスは、

結果そのとおり「殺され、食べられた」。

ブランデスは本当に実際殺されるその瞬間まで殺されることに同意していたのだろうか。

これを立証するのは非常に難しいことは直ぐにわかる。

またリバタリアンな社会でも殺人は当然に禁止される。

我々には傍らにナイフを置いておく自由はあるが、

隣人の胸にナイフを突き刺しておく自由はないのである。

前者は誰の所有権も脅かさないが後者は他人の自己所有権を侵害している。

故に食人鬼マイヴェスの話は、

リバタリアンな社会においても"殺人"という罪に問われることになるだろう。

若しブランデスが死の直前に殺人契約に後悔していたとしたなら、

マイヴェスの行為はやはりリバタリアンな社会でも否定されるべきだろう。

私はリバタリアンであるが、

KnightLiberty氏と異なる結論をこの話に与えようと思う。


だが、まだまだこの議論は終わらない。

応用編に入ろう。


若しブランデスが「殺された」のではなく「自殺」したとしたらどうだろう。

これだけで話は大きく変わってくる。

もっとややこしい例を次に挙げよう。

マイヴェスとブランデスが、

若し契約の有効性を保証するために弁護士を雇い、

またいつでも自分の意思で契約の履行を中止できるように、

医師の立会いの下で出来るだけ生命を維持しながら食人行為を行うケースを考えてみよう。

この場合もしかしたらブランデスは左足を試しに食べられた後で、

この契約を履行しない代わりに損害賠償を払うことにするかもしれない。

或いは最初の決意どおり最後の最後まで肉を食まれてから死を選択するかもしれない。


このケースの場合は、

ブランデスの"主観的な信念や価値観に対する絶対的な財産権"を極力害さないように組み立てられている。

この場合もリバタリアンはマイヴェスを有罪とするだろうか。

また最終的な死を選択した場合ブランデスの死を受け入れるべきだろうか。


若しこの場合でもブランデスの死を受け入れるべきではないと結論付けるならば、

貴方は「尊厳死」や「安楽死」をも認められないことになるだろう。

サンデル幇助自殺について以下のように述べている。

しかし、幇助自殺を許容する論拠は、必ずしも自分が自分自身の持ち主である、つまり自分の命は自分のものだという考え方にあるわけではない。幇助自殺に賛成する人の多くは、自己所有権を持ち出すことによってではなく、尊厳と慈悲の名においてそれに賛成しているのだ。


サンデルのこの弁は「尊厳死」や「安楽死」と私が上記でものした議論を区別し、

尊厳死」や「安楽死」は認めても、

"最後まで合意に基づいた食人の結果の死"は認めない有効な意見に聞こえる。

但しその有効性は自己所有権と尊厳なるものが、

完全に分離できるという場合にのみ当てはまるように私には思われる。

本当に"尊厳"と「自分が自分の意思で行動や選択すること」は切り離せるのか、

これには充分議論の余地があると私は考えるのである。

例えば出産行為を続ければ死に至ることがほぼ確実な妊婦が、

自身の命を賭けて子供を産むことを考えてみよう。

若し出産を取りやめるならば妊婦は生き残れるとしても、

妊婦は「自分の意思で出産を選択する、自分自身の命と引き換えに。」

この妊婦の「選択」と「尊厳」とは簡単に切り離せるだろうか。

「生命の質」「尊厳」といった問題を考えるとき、

自己の身体を自己は所有しているという自己所有権テーゼを無視して議論を行うことは、

私には不可能であるように思えるのである。


頁を進めて、「雇われ助っ人-市場と倫理」と題された4章に移ろう。

ここでは志願兵制と代理出産契約とが扱われる。


先ず志願兵制である。

社会のなかでほかにましな選択肢がない場合、兵役に就くのを選ぶ者は、実質的には経済的必要性に迫られて徴兵されるようなものだ。

私は毎日切に「働きたくないでござる」と思っているが、

「経済的必要性に迫られて」毎日会社に行っている。

どうあがいても人は自分自身が置かれた状況からフリーダムに物事選択できるわけではない。

暴力による強制と所謂「経済的権力」なるものは明確に峻別されるべきであろう。

何故なら暴力による強制はその強制された人の状況を何も改善しないが、

経済的必要性に迫られていようが自発的選択は、

少なくともそれを選択しないよりは状況を改善するからだ。

サンデルは「社会のなかでほかにましな選択肢がない場合」と述べるが、

志願兵となったものは確かに靴磨きやビル清掃員よりも「まし」と考えて志願兵になったのだ。

それを「まし」と考えないものは靴磨きやビル清掃員や他の特殊な技能をあまり必要としない職業に就いたことだろう。*1

暴力による強制と違って経済的必要性に迫られての選択というのは、

個々人の主観的な価値観と分離できない。

何を「まし」と考えるかは人によって異なる。


更に議論を進めるために次は代理出産契約を考えよう。

サンデルの例を簡単に要約しよう。

スターン夫婦はともに子供を欲していたが、

妻のエリザベスには出産に伴う医学的なリスクがあった。

故に夫のウィリアムはメアリーという女性と代理出産契約を結んで、

ウィリアムの精子人工授精し、出産し、産まれた子供を引き渡してもらうことにした。

ところがメアリーは出産した子供を手放したくないが為に逃亡した。

養育権は裁判所で争われることになった。

これをベビーM事件と呼ぶ。


リバタリアンはこの契約を支持する。

サンデルはこの契約に瑕疵があるのではないかと述べているが、

その点は上記に述べた志願兵の件と同じく、

経済的必要性の問題は瑕疵に当たらない。

またサンデルは契約を履行しない場合に損害賠償という手段があることを見落としている。

そして何より問題なのは、

メアリーが出産した子供を契約どおり履行した場合の、

スターン夫婦とメアリーに齎される利益の問題

  • スターン夫婦にとっては「子供を育てる喜び」
  • メアリーにとってはその金で得ようとした何か

を軽視しているということだ。

代理出産契約自体が禁止されていれば、

彼らはそれだけ選択肢が失われ、

幸せになる機会をなくしてしまうことになる。*2


個人的な感情を吐露するなら、

出来るだけこうした代理出産契約といったような事態が無い方が望ましいと思う。

しかしそれらを禁止することで却って人々の幸福を損なうなら、

禁止することの方が望ましくないと私は考える。


ここまで述べてきた内容を加味しても、

経済的必要性に迫られての選択は望ましくないと考える人もいるかもしれない。

しかし禁止するだけでは何も解決にならない。

例証を挙げよう。

次の例は児童労働に関するものだ。

児童労働の問題はたんに禁止するだけでは解消しないということだ。禁止するだけでは、親は子供に盗みをさせるとか、ひどい場合には売春のようなもっと悪い「職業」に就かせるだけである。これは実際にバングラディッシュで起こっている。児童労働を利用して製造された製品を禁止する、児童労働抑止法案(一九九三年)-その積極的な推進者として有なトム・ハーキン上院議員の名をとってハーキン法案と呼ばれる-がアメリカ議会で可決されると見越して、バングラディッシュの繊維企業経営者が推定五万人もの児童解雇したとき、幼い少女たちのなかには娼婦に身を落とす例が見られたのである。

ジャグディシュ・バグワティ『グローバリゼーションを擁護する』「6.児童労働は増えたのか、減ったのか」

児童労働を禁止したら幼い少女が娼婦に身を落とした。

これ程悲劇的な話があるだろうか。

自分の価値観で杓子定規物事を捉えると、

こういった悲劇が生まれることだってあるのだ。


それに印象はレトリックで随分変えられるものだ。

例えば貴方はお金に困っているとしよう。

そして貴方は担保なしでお金を借りることが出来る。

しかし貴方は監視される。

貴方が育ってきた村の知り合いたち、

近所のAさんや友達のBくんや親戚のC氏が、

貴方が借りた金をちゃんと返せるか監視する。

もしお金が返せないということになれば忽ち村八分になるだろう。

息苦しい。

利子をつけて返済するのは正直つらい。

しかし周りの監視によるプレッシャーはそれ以上にきつい。


貴方はこんな形で借金をしたいと思うだろうか。

どんなにお金に困っていても、

上記のような形でお金を借りるのは抵抗があるという人の方が多いと思う。

こんな目にあうなら担保を差し出したりもう少し高めの利子を支払うことを選択するのではないか。


既に大抵の人は察しがついていると思うが、

上で述べたのは(かなり意地悪なレトリックではあるが)グラミン銀行を指している。

ノーベル平和賞を獲得したムハマド・ユヌス氏のグラミン銀行である。

グラミン銀行は上記のようなシステム以外にも、

私たちの基準から見ればはるかに高い*3利子率で貸付を行っている。


サンデルは市場は落伍者を切り捨てると述べるが、

自由な市場が無いところでは、

落伍者は生きることすら儘ならないだろう。

産まれてくることすら難しい。

多くの貧しい人々の状況を改善する力を持つのは、

(一部の人には残念だろうが)道徳でも愛情でも強制でもなく、

市場だ。

*1:実際上の問題として、現在の軍事技術は昔と比べてはるかに高度化したため、徴兵制は現実的ではないという点も述べておこう。徴兵制を採用する国がどんどん減っているということは、"徴兵制という国家による奴隷化"(ロン・ポール)は好くないという価値観の浸透以外にも、実践上の問題があるのだ。

*2:また、もう一つの問題として、彼らに選択を強制することは、この選択の機会を発見することにより幸福を増大させるやりかたで彼らが自分の知識を利用するというインセンティヴを損なうという事だ。スターン夫妻は彼らの持つ時間と努力とをさいて内科医を探し出すことに関心を持たなくなるだろう。彼らのような者たちの殆どが関心を持つことがなければ、そもそも内科医を代理出産のために働かせる市場は無くなるだろう。詳しくはランディ・バーネット自由の構造』「8.インセンティブ問題」を参照。

*3:但し、現地において他で借りるよりははるかに低い

2011-06-04

[]「ニュー・マネタリー・エコノミクス」は未だ健在。 14:59 「ニュー・マネタリー・エコノミクス」は未だ健在。を含むブックマーク 「ニュー・マネタリー・エコノミクス」は未だ健在。のブックマークコメント


投稿しました:

「ニュー・マネタリー・エコノミクス」は未だ健在 – 道草

何だか惹かれるものがあったので手を出したら、

結果どえらいことに…。

私は貨幣について関心を持ち過ぎなのかもしれない。


そして以下の本を復習しないといけないかもしれない。

↑にもNMEの話題があった筈なので。


なお以前訳した、

中国の中央銀行は何を企図しているのか? – 道草

もよろしく。


Tyler Cowen邦語文献:

インセンティブ 自分と世界をうまく動かす

インセンティブ 自分と世界をうまく動かす

↑については監訳者のエントリ→2011-05-20 - Economics Lovers Live | タイラー・コーエン『創造的破壊』、日本の論壇に欠けている視線も参照。

2011-05-18

[]「リバタリアニズム」という語の意味について。 20:13 「リバタリアニズム」という語の意味について。を含むブックマーク 「リバタリアニズム」という語の意味について。のブックマークコメント


リバタリアニズム - Wikipedia

↑を参照のこと。



…という訳にもいかないようである。

最近twitterなどで、

リバタリアニズムアナーキズムの区別がつかない」とか、

そういう類のツイートが多くなってきたように思う。*1

以前も述べたように、*2

リバタリアンを厳密に定義することは難しいと言わざるを得ない。


ただ一般リバタリアンと呼ばれる思想家を大まかに分類していくことで、

リバタリアニズム」という語がどのような位置づけを持つのかについて、

簡単なスケッチは可能だろうと思う。


先ず日本のリバタリアニズム研究の第一人者である森村進氏の分類からみていこう。

彼の分類では政府についてどのくらいの規模を許容するかによって、

3つに分類している。

古典的自由主義は最低限の富の再分配は許容する立場である。

古典的自由主義にはハイエクやM・フリードマン、エプステインらが含まれる。

最小国家論は政府の役割を財産権の保護に限定する考えである。

最小国家論者としてはノージックが挙げられる。

政府資本主義は政府の独占的な地位を認めない。*3

政府資本主義者はD・フリードマン、ロスバードが挙げられる。


但しリバタリアニズムには所謂「左派リバタリアニズム」というものも存在する。

よって(1)は以下のように修正される。

森村氏の解説によれば左派リバタリアニズムは、

自分の身体以外の財産は本来社会全体のもので、それは平等主義的な正義の原理に従って分配されるべきだ

森村進『自由はどこまで可能か』「1.リバタリアニズムとは何か」

というものである。

代表的な論者としてはヒレル・スタイナーやマイケル・オーツカが挙げられる。


(2)の定義に従うなら、

リバタリアニズム全体の共通項は"身体所有権の絶対性・不可侵性"のみになるだろう。

しかし一般的に使用される「リバタリアニズム」はそれ以上の意味を含んでいることが、

圧倒的に多い。


また一般左派リバタリアニズムと呼ばれているけれども、

身体所有権の絶対性・不可侵性も超えた思想も「左派リバタリアニズム」と呼ばれることがある。

それはリバタリアニズムという語が、

と狭く解釈されることもあるために生じた現象である。

左派アナーキズムアナルコ・キャピタリズムも、

唯一の政府の存在は認めないという点では一致しているため、

といえるが、

左派アナーキズムと無政府資本主義とでは、

政府の存在を拒絶する理由が全く異なる。

しかし(3)を(4)に適用して、

としてしまうとアナーキズムリバタリアニズムとの違いがよく判らなくなってしまう。


その為便宜上リバタリアニズムという語については、

(1)の意味で解釈しておくことが有用であろう。

実際そのように使われることが圧倒的に多い。


(1)の意味でリバタリアニズムを解しておく方がよいもう一つの理由は、

リバタリアニズムが優れて実践的要素の強い思想だからである。

キムリッカも指摘しているように独自の政党をもち("功利主義党"があるだろうか?)、*4

またCato InstituteMises Instituteといった、

リバタリアニズムを推進するシンクタンクもある。

特にCato Instituteは規模の面からいっても無視しえない。

Cato Instituteのスタンスも加味するならば、

尚のこと(1)の定義を用いるのが適切であるように思われる。


最後に参考文献をいくつか挙げておきたい。

リバタリアニズム読本

リバタリアニズム読本

リバタリアン標榜する思想家について概観するのに便利である。

リバタリアン内部の方法論的な整理に役立つ。

リバタリアニズムの多面体

リバタリアニズムの多面体

↑『リバタリアニズム読本』では触れていなかった共和主義的リバタリアニズムや、

ハイエクと共同体主義者との違いについての整理があり、

一般的に触れられるレベル以上のリバタリアニズムの広がりをつかむのに適切だろう。

id:fuyu-sha氏の書評も参照されたい。