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2016-01-16

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INTERVIEW

2015.12.21

BOØWY STORY ARCHIVE 【1984〜1988:糟谷銑司】

関係者によるBOØWY伝説を裏付ける貴重なるドキュメンタリー

糟谷銑司(株式会社アイアールシートゥコーポレーション 代表取締役

1985年以降、BOØWYのマネージメント・プロダクションとして、ユイ音楽工房にてプロデューサーを担当。プロジェクトの総括であり、主に楽曲制作における著作権管理、ライブ面やマーチャンダイジングなどに力を注がれたBOØWY伝説の立役者のひとり。そんな糟谷氏が、ユイ音楽工房や東芝EMIとのBOØWY契約秘話、ターニングポイントとなったベルリン・レコーディングやロンドンでの海外GIG。渋谷公会堂でのワンマンGIGや、最後のライブとなったLAST GIGSにおける物語を語っていただいた。時代を猛スピードで駆け抜け、社会現象となったバンドの4年間を現場から支えた視点。3時間に渡って繰り広げられた、数々のBOØWY伝説を裏付ける貴重なるトークをお届けしよう。

※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。

テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ


――糟谷さんが、マネージメントとしてBOØWY契約にいたったお話を聞かせてください。

わかりました。僕が関わったのは1985年のアルバム『BOØWY』からですが、少し遡ったところから。……1984年のユイ音楽工房の話から始めましょう。この年にアーティスト事務所であるユイに移籍してきた中原めいこのシングルが発売されます。当時いた制作部にめいこが来て、奥山部長(故人)以下マネージャーたちが一丸となってシングルのプロモーションに狩り出されました。中原めいこのマネージャーは奥山部長。現場担当はロブバードというバンドのマネージャーをしていた重松でした。中原めいこのシングルは1984年を代表する大ヒット曲になるのですが、当時のユイ音楽工房は吉田拓郎南こうせつ、風、山田パンダ山本コータローとウイークエンド、イルカ庄野真夜、長渕剛とビッグネームが所属していて、毎年必ず誰かの曲がオリコンの1位を獲得していました。70年代から80年代、フォーク、ニューミュージックの音楽業界の雄だったんです。

――ユイ音楽工房が、一時代を築き上げていましたね。

日本全国のラジオ局の音楽番組のディレクターとは、マネージャー全員が年齢に応じて先輩/同僚/後輩/友達付き合いなどと非常に親しく付き合っていました。俺は長渕剛のマネージャーで奥山部のチーフマネージャーでもありましたから、若手マネージャーたち集めて……、と言っても俺も32歳くらいでしたが、会議を開いて檄を飛ばし、尻を蹴っ飛ばし、とまあ鬼軍曹をしていて。中原めいこのシングルが、カネボウ化粧品のCMソングとなり、発売後いよいよ売れ行き好調で大ヒットの兆しを見せはじめてきて、さっそく重松を連れて名古屋へ乗り込みました。お目当ては東海ラジオのディレクター、加藤与佐雄さんでした。

――BOØWY移籍のキーマン、加藤与佐雄さん登場ですね。

当時はヒット曲がラジオ深夜放送から生まれていて。ニッポン放送の『オールナイトニッポン』。文化放送の『セイヤング』。TBSの『パックインミュージック』が代表的な番組でしたが、東海地区ではその3局を押さえて名古屋ローカルの東海ラジオの『ミッドナイト東海』がダントツで、与佐雄さんはその番組の統括ディレクターでした。加藤さんは当時の日本の若い才能/新しい音楽を世に送り出すキーマンの一人でした。ところが東海ラジオに行くと与佐雄さん不在です。東京出張ということで新幹線の上りと下りですれ違ってしまいました。携帯電話もない時代です。とりあえず東海ラジオ東京支社に網を張り、東海ラジオの1階の喫茶室で待っていると夕方になってやっと「東京からお越しのユイ音楽工房の糟谷さま。電話が入っております」とアナウンスされ与佐雄さんとつながりました。「最終の新幹線で帰るから飲んで待ってろ」と、指定されたいつもの栄の飲み屋、今でいうショーパブで待っていると23時半くらいになって、与佐雄さんが帰ってきました。めいこの新しいシングルよろしくお願いしますと渡すと「わかったわかった。ラジオでかけりゃいいんだろ。やるよ。やるよ。それより糟谷これを聴いてくれ」と渡されたのがBOØWYカセットテープだった。

――歴史的瞬間ですね。

でもその夜はそれ以上、その話にはならなくて。「どんなやつ?」って聞いても「まあ聴けよ!」って言われただけ。深夜3時まで飲んで騒いで、次の日に東京に帰るんだけど、事務所についてさてこれを聴こうかな〜と思ってると、重松が「糟谷さん、このバンドめちゃくちゃカッコ良いですよ!」って言うんだよ。「なんでお前知ってるの?」って聞くと重松がやっていたロブバードのラジオ番組で、レコードをかけてくれってプロモ―ションされて聴いたそうで「暴力の暴に威嚇の威って書いてBOØWYっていうんですで」って。そう言われればニッポン放送にポスターが貼ってあったなぁ。なんかいかにも関東のヤンキーの暴走族みたいな感じだったなと思い出してると「すっげえカッコ良いんですよ、このバンド!」って。重松が言うもんだから、次の日かな、次の次の日だったかなテープを一日中聴きました。それが2ndアルバム『INSTANT LOVE』だった。

――巡り巡ってきたのですね。どんな印象を持たれましたか?

吉田拓郎とか南こうせつとか、長渕剛とか、パンダさんとか風とか庄野真夜、中原めいことは全く違う音楽で、まず録音された音が聴いたことがないようなロックな激しいサウンドで、ビートルズハンブルグ時代のブートレックのような怒涛のロックンロールって感じで。とにかく聞いたことがない音でした。印象としいてはバッド録音に聴こえたかな。ただボーカルは柔らかく、カッコ良い声で高い音域を楽々と歌っていて、はじめて聴いた声でした。ギターはリードギターというよりもカッティングが凄まじく聴いたことがないようなギターで、ベースはベンベンベンベンいってて、ドラムは上手いかどうかわからなかったけど曲にはあっているようでした。とにかく聴く曲聴く曲聴いたことがないようで、なによりもメロディーが良かった。重松が言ってるよりカッコイイぞ。……そんな印象でした。で、しばらくしてから写真をもらう機会があったんだけど、送られてきた写真に一人すっげえ背の高い奴がいるんだよね。当日は190センチっていう触れ込みで、80年代、俺達の周りに190センチなんてヤツはいたためしがなかったからね。せいぜいどんなに高くても178だ180だって。LOFTでやると天井につかえるんじゃねえのかって。LOFTのライトが熱いんじゃないかとかね。氷室もいい顔をしてるし、松井は眉剃ってこえーし、とにかく何か別格感というか違和感というかすごかったですよ。この4人組は……。

――そんな強烈なインパクトがありつつ。

それで、ユイ音楽工房のいろんな人に話をしました。……俺だけじゃなくて「重松がいいって言ってるよ!」、「与佐雄さんがいいって言ってるよ!」って社内プロモーションから始めましたが、反応は正直いまいちだったな。あまりにも違ってるんだもの。でも、当時は違うってことがすごいことだとはわからなかったんですよね。話は全然変わるんだけど、伝説のマネージャーであるブライアン・エプスタインがビートルズをEMI(レコード会社)に持ち込んだとき、当時EMIの発売していた音楽ともぜんぜん違かったんだよね。しかも、ヒットポップス担当のA&Rじゃなく演芸を録音していたディレクターに任せていて、それが後のプロデューサージョージ・マーティンだったんです。この話はずいぶん後になってロンドンマンチェスター・スクエアーのEMIビルのマーケティングのボスのトニー・ウッドワースからも聞きました。カリブ海のモンセラット島のエアースタジオで、ジョージ・マーティンその人からも直接聞いて。もちろん俺も他のユイのスタッフと同様、違っているということだけしかわからなかったんだけどね。

――他ではないサウンドということですね。

でもまあ、まずは与佐雄さんに返事しなけりゃいけない。電話すると「どうだった?」って言うから、「まだよくわからないだけど、これもし俺がやりたいって言ったらやれるの?」と聞いちゃった。そしたら「もしお前がやるんだったら、お前にやってもらうよ」ということになった。「他に誰か来てんじゃないの?」って聞いたら「以前所属していたビーイングの契約書も破り捨てたし、徳間はワンショットだから、どことも契約していないんだと言ってるよ。やるんだったら俺が本人たちとの間に入る」。でも、同業者だった、マザーの福田(信)もハートランドの春名(源基)も「これいいね!」って与佐雄さんに言ってるというのは聞いていて。「福田とか春名と取り合いすんのは嫌だよなぁ」って思ったから、会社の誰にも了解も取らずに「俺やるから他の奴らは断ってください」と加藤さんに答えたんだ。

——踏み込みましたね。

それで、与佐雄さんが連絡してくれ、BOØWYのマネージャーの土屋浩が事務所を訪ねてきた。目のキョロキョロした小柄なやつだった。よく笑うやつだった。いろいろ話すとバンドの連中も今回の話をとても喜んでいるということで、土屋は阿佐ヶ谷、俺は荻窪に住んでいたからその日は土屋を連れて荻窪のスナックに飲みに行った。土屋の「第1種接近遭遇は悪くなし」という報告もあったのだろうね。次の週に、土屋と一緒にいよいよBOØWYの連中がユイ音楽工房に来ましたよ。まあ、着てる服。おっ立てたヘアスタイル。おまけに化粧までしてて、ユイのスタッフ的には、今でいうハロウィンの仮装パーティーをみるような感じじゃなかったかなぁ。皆びっくりしてたこと今でも忘れられないな。「なに? まさかこのバンドうちでやるの?」ってね。それが、1984年の4月頃だったような気がする。

——歴史的なターニングポイントですよね。

もともとBOØWY新宿LOFTでライブをやってたんだけど、お客さんの人数が増えてきたので、渋谷ライブインに変えたっていうそんな話もしてたな。初めて会ったのにとても話しやすかった。氷室もよく話すし、布袋も気が利いた合いの手入れるし、マコトはいかにも人が良さそうな感じで、松井は無口でまったく話さないから、あ、こいつは俺のこと好きじゃないかもと心配したけどね(苦笑)。

――とうとう接触ですね。

でも実は、この時点では彼らが契約したいのかがよくわからなかった。でも、次のライブをやるのにリハのスタジオ代がバカにならないといってたから、当時千駄ヶ谷のロッキンガム山東ビルの4階にあったユイには小さなスタジオがあったので、そこを彼らに提供して、リハをPAスタッフや制作部のスタッフが見物と品定めを兼ねて入れ替わり立ち代り覗きに来たんだ。俺が長渕のツアーで東京を留守にして、しばらくぶりに事務所に顔を出すとマネージャー連中ではなくコンサート制作スタッフのとは仲良くなっていたんだよね。

――なるほど。

(年表を見ながら)この時期、読売ホールでもライブをやってるんだ? これわからないなぁ(苦笑)。バンドとは11月5日に、ユイ音楽工房と専属実演家契約締結をしてるんだよね。実は会ってから半年くらいは契約せず。与佐雄さんから紹介されて、半年くらい経ってからの契約だった。

――それは何故ですか?

要はどうすればいいのかがわからなかった。これはBOØWYと関係ないんだけど、俺がはじめてマネージャーとして長渕と会ったときに、まず「何をやりたいのか?」を聞いたんです。そうしたら「全国2000人の会場を満杯にしてコンサートツアーをやりたい」って。県民ホールの類ですよね。それを「ギター1本で満席にしたい!」って。「2000人の小屋を満席にしたい場合は、1000人の小屋を2日間いっぱいにしなくちゃダメだ。1000人の小屋を売り切るには500人の中ホールを2日間即完しなきゃらないとダメだ」って話して。「今やってる博多のハコってどれくらいなのか?」って聞いたら「300とか200とか……」。「満杯か?」、「だいたいは。入らない日もある」。それじゃダメだよねって。それを2日間満員にしないと500人なんて無理だよ。単純に1000の小屋をやるには、250の小屋を売り切って、次は500を売り切ってと段階を踏んでいけば、3年半くらいで2000に持って行けるんだよな、計算上では。「ライブが1番得意だっていうのなら、2000人クラスのホールツアーを3年後に実現させるから、絶対に俺の言うことを聞けよ」って話して。「やれるんだったら何でも言うことを聞く!」ってとこから長渕はスタートしてるの。

――なるほど。

与佐雄さんはそういうのを見てたんじゃないかな。アーティストと1番最初に決めたことを絶対にブレずに……、まぁ、みんなやってるんだろうけどね。この会場がいっぱいになったら次に行きますって、わかりやすいじゃない? となるとBOØWYはいま、500くらいの客を持ってる。ライブハウスはやりつくしている。とにかく最初にライブを観た印象は……ワンマンでも1時間くらいしかライブをやらないんだよ。1曲目から全力疾走だったんだよね。だから1時間後にはバンドも客もヘトヘトになってるんだよね。今までずっとそれでやってきたんだって。でも、これじゃあもたないなぁって思ったの。ライブハウスだけでやってくんならそれでいいかもしれんが、だったら俺いらないじゃん? でも、こいつら本気で売れたいんでしょ? 新宿ロフトから渋谷ライブインに数が上がったといってもこのライブハウス・スタイルじゃ無理だ。だから、契約する代わりに「ライブハウス出演を一切禁止!」って極端なこといって、半年くらいやらせなかったんだよ。で、その間に戦略を考えようと思っていたんだけど、……考えても考えてもなにも思い浮かばないんだよね(苦笑)。

――えっ(苦笑)。

半年間契約しなかったというのはそういうことだったんだ。でも、あっという間に半年経ってバンドからはせっつかれる。マネージャーをやっている土屋からは「どうするんですか?」って言われる。その当時は(高橋)まことと松井はバイトをやってたんで、バンドをやらなくてもなんとか食えるんだよ。でも、氷室と布袋は音楽しかやってなかったんで稼ぎはない。BOØWYはライブをやって、それで入った入場料で生活をしているバンドだったので、俺が半年間ライブを禁止ってしたのは死活問題だったんだよ。でも、このことをやり続けていたらトップに行けない、売れないって思ったんだよね。その半年間の間、必死になって考えたんだけど、とにかくアイディアが出てこない(苦笑)。で、しょうがいないんで、もうこれ以上待てないって俺も思って、レコーディングするしかないって東芝EMIの連中とかに会いだして、こういうバンドがいるんだけど「いっしょにやってみる気ないか?」って売り込みを始めたんです。






――ついに東芝EMI登場ですね。

BOØWYは、もともとレコード会社としてはビクターから徳間ジャパンへの流れだったんです。当時、徳間ジャパンにディレクターがいて、俺が観に行った渋谷ライブインにも徳間の当時のお偉方、部長とかがいてね。徳間の部長とか課長とか、販売課長とかが来て順番に挨拶にいくんですライブ後に楽屋にね。でも、その頃のBOØWYは徳間とははやらない、ビーイングは辞めたってなってたの。徳間とは一切契約する気はないって言ってたんだけど、徳間はまだやる気満々で挨拶しにきてたんだよね。その頃、ユイがBOØWYに接しているっていう話も出ていて、マネージャーの土屋から徳間のディレクターに会って欲しいって言われたの。で、今はなくなっちゃった原宿のパレ・フランスで会って。

――お会いしてるんですね。

あ、話が前後するけどその前に渋谷ライブインでも会ったな。ライブ後、楽屋に順番に並んで「お疲れさん!」ってやるじゃない? 俺も挨拶に行ったよ。順番に並んで一番最後が俺。BOØWYの連中とも一回会って話をしたかだけだったかな? ま、新参者だよ。他の関係者も全然知らないし、楽屋にいたのもバンドの友達とか彼女とかで、そういう人も知らなかったし完全アウエイだよね。で、順番待ちで皆が入れ替わり挨拶してんのを並んでみていると、あいつらまったくいい顔をしていないんだよ。で、俺は一番最後に並んでいて、そのときに俺、やるって決めたのになんだか恐くなっちゃって(苦笑)。なんで恐くなったかというと、どんなにお世辞言われたり誉めらたりしてもあいつら全然嬉しそうじゃないの。やっぱいなぁって思ってさぁ(苦笑)。で、最後に俺が番が来てさ。ま、俺がいったからって嬉しそうな顔をするワケじゃないけど「すげえな。でも、あんなに最初からぶっ飛ばしちゃったら最後まで持たねえよ?」って伝えたら「まぁ、わかってんですけどね〜」なんて。後は、呑み屋で実際にあったクダラナイ話でお茶を濁して別れたんだけどね。

――そんな状況だったんですね。

レコード会社をどこにするかは悩んだんだよ。徳間ジャパンで継続するにしてもさ、俺は徳間とは付き合いがないし仲間でもいないんだから、メンバー本人たちが嫌がってる徳間ジャパンと契約するには、よっぽどのことがないとダメだろうなって。もちろん、他のレコード会社にもアテはなかったんだけどね。そんな時に、土屋の紹介でパレ・フランスで徳間のディレクターに会ったんだ。開口一番「安心しました」って言うんだよ。「すごく力があるマネージャーが参加してくれるってことで、徳間もすごく頑張っていこうと思ってます」って。その当時は、前にも話したようにユイはすごいアーティストが揃った事務所だったんでそう言ったんだと思うけど、「ミュージシャンの宣伝関係の協力も是非お願いしたい」って言われて、それで俺キレちゃって(苦笑)。「なんでプロダクションがレコード会社の宣伝関係の費用の協力しないとといけないんだ! お前何考えてるんだ!」って。紹介してくれた土屋に「こいつ一体何なんだ! これからどうやって売ろうかっていう話をしにきたんじゃないのか? なのに宣伝費を持ってくれって話? ふざけるんじゃないよ! 一切やならい!」って。俺はそこで席を立っちゃったんだよね。考えてみれば、生意気なヤツだったんだけどね、30歳そこそこで(苦笑)。普通そんなこと言わないだろうって(笑)。でもまぁ、そんな感じでした。そんなことがあって再び「レコード会社どうしようかな〜」ってなっちゃったんだけど、俺は長渕のマネージャーだったので、一番近かったのが東芝EMIだったんだ。それで、中原めいこの担当をしていた菅谷ディレクターに「こういうバンドがいるんだけどやらないか?」って話をしたら「是非やりたい!」ってなったんだよ。

――EMIきっかけは菅谷さんなんですね。

菅谷さんは、有楽町読売ホールのライブにEMIの連中をがさっと連れて来てね。移籍したばかりの中原めいこメガヒットで一躍スターに仕上げた担当ディレクターだから彼はすごく力を持ってたよ。勢いを持ってたんだよね。で、その時のBOØWYのライブが東芝EMIの連中にすごく評判が良くて、で、やることがほぼ決まったんですよ。東芝EMIも、長渕のマネージャーとめいこのディレクターが組むんならって決まったんだ。

――よいよいよ契約という。

ちなみに、この頃ユイの後藤社長が「マネージャーはなんでもやれ!」命令を発していたんだよ。曲の制作からレコーディングから、宣伝から、レコード営業から、コンサート・ブッキング企画制作&ギャラ回収係から、マーチャン・ダイジングの企画制作売り上げ確保。すべてマネージャーがやれって命令だったんだ。そう言われても、現状のシステムのままだとできることとできないことがあるじゃい? じゃあ新規事業部でやればいいじゃないかって、俺が奥山部のチーフ兼任のまま、これからのユイはロックだって、BOØWYの受け入れ先として第4番目の部『ユイ・ロックプロジェクト』
をスタートしました。くどいようだけど、売る為の戦略として、俺はまだ何のアイデアも出ていなくてね。これはもう、彼らが今後やりたいって曲を聴くしかないな。曲を作って聴いて、どんなライブができるかを考えようって思ったんだよ。それこそ、長渕のライブの時も原則は本人がわ〜っと挙げてきた曲を、俺と舞台監督と照明とPAが、わいのわいのって言って「こんな演出にしよう! こういう曲順にしよう!」とか「こういうMCをするなら、この曲はここに持ってきたほうがいい!」とかって、選曲もMCもスタッフ・サイドと本人で話し合いながら決めてたんでね。BOØWY は、ライブハウスで20曲を1時間でやっちゃうスタイルだったから、何か今までと違うことができないかなって考えて、そのへんから新しいアルバムのレコーディングやろうって話にだんだんなってきたのよ。マネージャーが「なんでもやれ!」というスタイルだから、レコード会社も俺が決めたし、レコーディングするのも俺が決めるワケですよ。バンドで誰が曲を書くかっていったら、氷室が曲書いて詞もつけて、布袋が曲を書いて氷室が詞を付けてっていう氷室/布袋コンビで曲を書いてた。まこっちゃんや恒松も一曲くらいは参加するけど、主たるソングライターは氷室、布袋だったの。じゃあデモテープを作ってもらおうってなって、何曲も作ってもらったんだよね。で、いよいよレコーディングに入っていくんです。その時に持ってきたカセットテープは今でも持ってる。本が入ってる戸棚のなかにある。片面が氷室曲、片面が布袋曲だったな。

――まずは楽曲ありきだったということですね。

半年間、ライブは禁止にしてね。もちろん、高崎文化会館のゲストなど、ユイにくる前から決まっていたヤツはやってましたけど。まだ氷室の名前が“狂介”だったんだよね。前から決まっていた駒澤大学学園祭も覗きにいったりはしてましたけど、山形とか前橋とか地方のは行ってなかったんじゃないかなぁ。このころは。多分、それまでどおり土屋がやってました。いろいろと戦略を考えるんだけど俺もロックははじめてだし、シーンにもまだ居場所がなかった。長渕など、自分がゼロからやって、マネージャーとしてひとつ成功した手法というものは本質的には使えるんだけど、具体的には未知数で思い浮かばなかったので、繰り返すけど、半年以上ライブを禁止させたのはいいんだけど「あの人ライブやるなって言っておいて何もしてないじゃん!」ってメンバーや土屋には間違いなく思われてましたよね(苦笑)。「当時はあの人で大丈夫なの? 信用できないんじゃないの?」くらいは思われてたと思います(苦笑)。だって半年間なんのアクションもないんですもん。

でも、あるとき「一番最初に俺がライブハウス行ったときのこと覚えてる?」って話になったんだよね。そしたらメンバーが「覚えてる覚えてる!」って。「俺、ライブ後の楽屋で一番最後に並んで挨拶したんだけど、並んで挨拶しているヤツらを、おまえらまったく信用してない感じでみてたよな〜。ありゃ怖かったぞ」って言ったら「いや、糟谷さんは違いましたね」って言うのよ。他の人たちはアノ曲がどうとか、ギターがどうとか、ドラムが良いとか言うんだけど、俺はちょっとした小噺、笑い話みたいなのをして、じゃあ!って帰って、その印象がすごくあったみたいで「なんか面白い人だね」ってことになってたみたい。

――へぇ。

彼らが全否定していた世の中の大人とは同じと見られなかったのかも知れないね。そういうことって意外と大事だったのかもしれない。で、いよいよ東芝EMIでレコーディングすることになって、ディレクターを誰にするかってなったんだよ。1985年にリリースした『BOØWY』のディレクターは、子安さんなんですけど、ユイ音楽出版のディレクターは俺なんですよ。最初は、拓郎さんのディレクター、こうせつさんのディレクター、風のディレクター、長渕のディレクター、中原めいこのディレクター。この中で「誰がBOØWYに合うのか?」って考えたワケですよ。で、ユイの後藤社長に「ディレクターを俺がやっていいですか?」って言いました。ロックバンドをやるのはじめてなので、やれるならやりたいんですけどって。

「ユイにもディレクターはいるよ。彼らじゃなくていいのか?」って言われたんだけど「俺がやったほうがいいと思うんですよね」ってやらせて貰うことになったんです。ま、マネージャーがなんでもやれという号令もありましたからね。

――ひとつのターニングポイントですね。

それで、長渕のヤマハのディレクターに「俺、BOØWYのディレクターをやることになったよ!」って言ったんだ。でも「ディレクターって決定的にやらなきゃならないことがあるんだけど知ってる?」って言うんだよ。「全然わかんないから教えてくれ」って、そうしたら「スタジオの机に座って、トークバックで何小節目のそれどれを、もう一回お願いします」って言うんだぞ!」ってさ。「あ、俺そういうの出来ねぇなぁ」って思ったね(笑)。それでEMIの菅谷と相談したら「ロック・バリバリの理解のあるディレクターがいるから」って送りこんできたのが、子安次郎だったわけ。ひょろっとした感じでさ「何やってんの?」って聞いたら、原田知世さんのアシスタント・ディレクターをやってたって。「あれ? 菅谷はロック・バリバリの人っていってたけど、おかしいなって(苦笑)」。そもそも角川映画系のアーティストのアシスタントをやってたんだよね。しかも「え! BOØWYがディレクターとしてはじめてなの?」。いや、菅谷に一本やられたなぁって(笑)。しょうがねぇなぁって思ったんだけど「もともとは何をやってたの?」って聞いたら「ディレクターをやりたくてEMIに入ったんだけど、配属されたのは営業でした」って。そもそもの話なんだけど、レコードショップは売れないレコードは返したいんだけど、でもレーベルは戻させたくない関係性があるんだよね。「ま、売れますから!」ってね。そうやって市場に商品を置き続けるってことと、返品のせめぎ合い。返品されたら、レコード店が払った7掛けの金を払い戻さないといけない。なので100枚出して4割は戻ってくるっていう……独特のレコード会社の試算の仕方があるんだけど、簡単に出したものを戻させたりしないのね。その代り、売りたい作品がある時に突っ込みたいときは、ガサーっと返品を引き取って、倍突っ込むっていう営業のやりかたがあるんだよね。

――技ですねぇ。

で、そんな仕組みがだんだんわかりかけてきたときで。子安くんに「ひとつ力を貸してください!」みたいなことを言いにいって。そして、担当していたレコードを返品させようって思いついて。でも、返品は東芝EIMの紙袋一つにしかならなかったっていう(苦笑)。それぐらい彼が担当していたレコード店っていうは小さいとこばっかりで。ますます「大丈夫なのかね、この人は」って思いましたよね(笑)。まぁ結果として良かったのは小安さんは頑張ってくれて、レコードに関しては全権委任で全部やってくれたってこと。それともう一つ、密約があって(苦笑)。レコード会社と俺の意見がバッティングしたときに、俺の意見を聞いてくれって約束させたんだ(笑)。「おまえレコード会社の言うこと聞いていたらただのサラリーマンでしょ? 俺の言うこと聞いたらただのサラリーマンじゃなくて、マネージメントの意向に沿った一歩進んだディレクターになれるよって(笑)」。「レコード会社がダメだっていっても、俺の言うこと聞いてよ」って。あいつがどう思ってたかわからないけど、新人なんで聞いてくれましたよね。キャリアがあるやつは「ああ、わかりました!」って言って聞いてくれないんだけどね(笑)。そんな幸運にも恵まれて。でも、BOØWYの連中は「大丈夫なの?」って(笑)。「だったら徳間とか、ビーイングのヤツの方が、もっと音楽わかったんじゃないの?」とか、恐ろしいことも言ってましたよ(苦笑)。

――実は子安さんは大滝詠一さんの書生だったんですよね。

そうなんだよね。実はすごいヤツだったんです。で、溜池にあったEMIの中二階にあった一部屋で、曲が集まってきたので子安さんと第1回のレコーディング会議を行いました。まず、プロデューサーを誰にしようって話になって。どこでどういう話になったのか……俺はそこで初めて話を聞いたので、俺が言いだしっぺではないんですけど、四人囃子佐久間正英っていう名前がでたの。布袋が盛りあがったんだよね。俺としては、バンドの当時の気分だと「四人囃子ぃ? ないよ〜」みたいになるかと思ったんだけどね。あ、そうだ、候補として四人囃子佐久間正英さん、伊藤銀次さん、そして一風堂土屋昌巳の名前を、EMIが出してきたんだよね。

――後に日本を代表するロック・プロデューサーとなる、なるほどの3組ですね。

で、順番に会ってみましょうとなって。伊藤銀次はそのころEMIのアーティストのプロデュースをやってたんで、馴染もあったんでしょうね。でも、第1回目に会ったのが佐久間くんで、曲を聞きながら「これはこうだよね、あれはこうだよね」って話して。でも、近寄れたって感じではなかったんです。そもそもが「1stアルバム『MORAL』とか2ndアルバム『INSTANT LOVE』みたいなやりかただったら絶対に売れないねっ」て話で。「ああいうのが好きなヤツだったら良いんだろうけど、それだけじゃダメだよね」って。でも、当時はまだそんなシーンがなかった時代だったんだよね。

―ー開拓の第1歩ですね。

第1回目のときからシェイクハンドで進むようなものでもなかったけど、最後に佐久間くんが「レコーディングはベルリンがいいよ!」って言ったの。全員で「ベルリン!?」ってなって(苦笑)。「ベルリンにハンザ・スタジオってスタジオがあるんだ」なんて言ってたら、布袋が「デヴィッド・ボウイが使ったスタジオじゃん! 行きましょうよ!!!」ってなって。もう本人たちはその気になって、佐久間くんOKで話が終わっちゃって。「子安にどうする?」って。「そんな金ないです」って(笑)。「だいたいヨーロッパまでいくらかかるんだろう?」って(苦笑)。でも結局、話が盛り上がっちゃったので伊藤銀次や土屋正巳と会う約束を断ったんです。で、しょうがないのでベルリンスケジューリングを考えてみたんですよ。3週間だったかなぁ……4週間か。リズム、ダビング、ミックス、プラスアルファ。帰りにロンドンのマーキー・クラブでライブもするっていうプランニング。結果、アルバムとシングルのレコーディング費用が○○○万になったんです。

―ーお〜、具体的な。

大きい旅行代理店ではなくて、ちっちゃい小口の学生街の旅行屋を周りにまわって、一番安いチケットを選びました。でも、安いかわりにリスクが高いんですよ。東京から乗り継ぎ地点まで行って、そこで悪天候でベルリンまでのフライトがキャンセルになったらもう使えないチケット(苦笑)。すべてがその日のその時間に飛行機が動くっていう前提でチケッティングして。それに海外でレコーディングだなんてはじめてでしたから、コーディネーターが必要だってなって、あとエンジニアも大事ですよね。佐久間さんが教えてくれたのか……以前、根津甚八のレコーディングをハンザ・スタジオやられたときに出会ったというマイケル・ツィマリング。ドイツ独特のハンマービート・サウンドですね。そういう「新しいサウンドが似合いそうじゃない?」って提案もあって。

―ーBOØWYサウンドの要、マイケル・ツィマリング登場ですね。

そして、コーディネーターは加藤宏史さんって方がロンドンでやられているL.O.E. ENTERTAINMENTになったんです。佐久間さんに加藤さんを紹介されて手紙を書いてお願いしたんですよ。レコーディングは2月26日からだったから、その前年の11月頃は1ヶ月間くらいは毎日東芝EMIに通っていました。その当時は国際電話テレックスしかなかったから、東芝EMIの国際部が毎日ロンドン本社とテレックスで情報のやりとりをしていたので、その作業の合間に加藤さんに「アンプはこれを用意していただきたい!」とか「何月何日の飛行機で行くので、何時に迎えに来てほしい!」とか「ロンドンのマーキー・クラブは幾らで使えるんでしょうか?」とか「リハーサルスタジオはどうなんでしょうか?」とか「こっちの予算はこれくらいなので、ダビング、ヴォーカル、リズム録り、ミックスダウンまで出来ますか?」。「ミックスダウンは一週間じゃできない」って言われたんだけど「予算がないからなんとかこれでやりくりしたいんです」とか、そういうのを全部テレックスでやるワケ。国際電話は高いからね。

―ーネットもメールも無い時代ですもんね。

そう。FAXもまだ無かったから。最初は全部英語でやってたんだけど、こっちが言いたいことは山ほどあるじゃないですか? さっきも言ったように一番安いチケット買ってるんで、一つ違っちゃうとどうしようもない。リカバーできないんです。だから確実に準備だけはしっかりやっておきたくて。海外ライブなんてはじめてなので「マーキー・クラブでのチケットは幾らにすればいいか?」もわからない。だいたい「ライブにどうやって人を集めればいいのか?」とかね。それを毎日加藤さんに雨あられのように質問するんですけど、英語じゃどうにもなんないので、俺ローマ字で書いたのよ、テレックスだから。「こんにちは」「K、O、N、N、I……」みたいなね。で、加藤さんは自分でテレックスを打てるんで、ローマ字で帰ってくるの。ローマ字読んで、ローマ字で返事を書いて、それをEMIの法務に持っていってローマ字で打って送ってもらってたの。「いい加減にしてほしい!」って怒られてさ(笑)。ギリギリにお願いすると残業になっちゃうからね。なので、業務は17時半で終わるので、15時までに持ってきて欲しいと言われて、朝8時くらいにEMIに行くんですよ。そうすると前の日に届いたテレックスがEMIの菅谷の机においてあるんです。そこを陣取ってそのやりとりをずーっとやってたの。

――そうとうな縁の下の力持ちってヤツですね。あの時代に海外レコーディングとライブって大変ですよね。

で、いよいよレコーディングでベルリンへとなったんだけど、加藤さんから、自分の他の仕事がぶつかってしまって自分は行けないと(苦笑)。で、この会社は日本人は加藤さんだけで、あとは全部イギリス人だそうなんですよ。俺が「えー!」ってなってたら「ミュージシャンで信頼できて、コーディネートとか間違いなくできるヤツがいるから」って紹介してくれたのがクマ原田だったの。

――布袋さんや今井美樹さん仕事でもお馴染みのクマさんですね。実は、イギリスでも有名な実力派ミュージシャンなんですよね。

俺もBOØWYの連中も、クマさんに会ったのはベルリンの空港がはじめてという。第一印象は「髭をはやして髪の長い人だね〜」って。空港で「クマさんですか?」、「ああ、糟谷さ〜ん!」って感動したよね(苦笑)。あ、その前の余談なんだけど、テレックスで通信のやりとりをしている時代に、EMIの誰かが「アメリカでFAXっていうのが発明された!」っていうんだよ。「FAXってどういうの?」って聞いたら、書いた紙をそのまま遅れるんですよ、日本語で大丈夫なんです!」って。「え〜! そんな夢のようなマシンがあるんだ」って思いましたね(苦笑)。そして、2年ぐらいして、ユイにFAXが導入されたんです。その時、俺くらい喜んだ人間はいなかったですね(笑)。「うわー! FAXだぁぁ!」って。そこまで喜ぶかってほど喜びましたよ。

――時代を感じますねぇ。ちなみに、ベルリンでのレコーディング、その後にロンドンでのライブ、さらに、フォトセッションをされて、ヴィジュアル・イメージも作られるという。今でも画期的なプランだと思いました。ストーンズも出演された名門マーキー・クラブでのライブはどのようにして決まったのですか?

きっと言いだしっぺは俺だと思うんだ。あ、加藤さんが「レコーディングが終わったら、ロンドンに来てライブもやる?」って提案してくれたんだったかな……。まぁ半年間ライブ禁止っていってたから(笑)。ご褒美みたいな感じだよね。「ライブ再開はロンドンだぜ!」って(笑)。あと、撮影もやりましたね。

――フォトグラファーハービー山口さん登場ですね。

で、ロンドンにはEMIからアーティスト担当として鶴田正人がきたんです。BOØWYプロモーション戦略なんだけど、俺はニッポン放送だとか文化放送だとか、ラジオ関西ラジオ関係は強かったんだけど。雑誌に強かったのがユーミンをやっていた鶴田だったんだよね。鶴田がこれだ、これだって言ってくれるのが、聞いたことも読んだこともないような音楽誌なワケ。鶴田に相談して、鶴田が取材は「ここがいいんですよ、とか、写真がいいのはここですよ」とか「ライブのレポートはここが真剣にやりますよ」とかを教えてもらったね。で、当時は音楽評論家平山雄一がその辺に詳しくって、平山は長渕のときにも付き合いがあったので、相談に行ったんですよ。「カメラマンはハービー山口が、ロンドン在住ですっごいいから紹介するよ」って。「向こうでずっとミュージシャンを撮り続けているし、ロケーションにいくときに自分で車を運転してくれるよ」って。それで、クマがいてハービーがいれば大丈夫だなって。

――こうしてチームが結集していくのですね。そういえば、BOØWYはファッションにもこだわりがあったと思います。スタイリングは?

当時グラスっていう洋服屋があって、そこの北川っていう営業部長だか宣伝部長だかが、たまたま俺の知り合いの友達だったの。グラスに行くと売れ残った在庫商品があったんですね。倉庫に連れてってくれて「ここにあるヤツ、好きなのがあれば持っていっていいよ」って(笑)。俺も自分の洋服を見に行ったし、土屋も行ったんじゃないかな。BOØWYの連中も行ったね。俺はトレンチコートなんかを貰ったりしてたのね。でも、BOØWYのメンバーは、トレンチコートって感じじゃないもんな。その流れで紹介されたのがスタイリストの大久保篤志だったんですよ。

――そんな流れがあったのですね。

で、大久保篤志と付き合っているうちに、いまはマガジンハウスという名前になった会社の雑誌『平凡パンチ』が「東京」をテーマに特別号(1985年3月18日号/フォトグラファー森川昇)を出すって話を聞いたのね。「BOØWYのメンバーが格好良いからモデルで使わせてくれないか?」って言われたの。で、面白いから六本木の事務所までメンバーを連れていって、なんか本人は「『平凡パンチ』ってなんだよ?」って感じだったんだけどね。で、その場で布袋も氷室も後ろに長くのばしてた髪をチョキンって切られてさ、『平凡パンチ』のモデルになって10ページくらい載ったんだよ。ライブハウス時代のイメージとは違うBOØWYが、全然違う角度で世に出ていったんだよね。そういうラッキーがたまたま重なってたんだよ。すごく面白いと思ったのは、俺がBOØWYのマネージメントをやるようになったんだけど、チームとしては俺の知り合いをつないでいったんじゃないんだよね。そうじゃなくって、ベルリンでもロンドンでも東京でもはじめて知りあう人ばっかりでチームが出来ていったんです。子安も佐久間も加藤もクマもハービーも鶴田も。平山はちょっと知ってたけど、それから大久保もね。BOØWYと仕事するのって面白いなって思いましたね。メンバーも、どんどん違う景色がみられるんだから面白かったんじゃないかな。


――BOØWYプロジェクトは、すごい求心力を持っていたということですね。

そうだね。ほんと面白い出会いだよね。そしてベルリンの話に戻るんだけど、空港にクマさんがいて、ハーヴィス・インターナショナルっていうベルリンの壁の近くにあるホテルに泊まりました。ブランデンブルグ門があって、その西側の壁の近くにハンザ・スタジオがあって。ホテルは、氷室と布袋が一部屋。松井とまことが同じ部屋で、俺は土屋と子安さんと一緒の部屋。佐久間さんはプロデューサーなのでシングルで。で、ハンザの日々がはじまるんだけど、一階にあるカフェのメニューもドイツ語でよくわからないんだけど、佐久間くんは「一週間くらいすると目で読めるようになりますから」って言うんだよ。まさかと思ってたけど、意味はわからないんだけどなんとなくこんな感じなんじゃないのかっていうのはわかるようになるんだよね(笑)。あとは町の方の店に醤油やら洋辛子も売ってて、とんかつ風なヴィーナー・シュニッツェルにかけたり、つけたりして食べてたよね。美味しかったな。

――初の海外レコーディングといえど、食については困らなかったんですね。

そうだね。ベトナム料理屋があって、そこは旨かったな。あとはソーセージの屋台が町の角々にちょこちょこあるのよ。そこで一番うまいカレーソーセージを食べてたね。レコーディング中は時間もあるし、けっこう散歩もしたかな。俺も全部スタジオに子安や佐久間や布袋みたいに張り付いていたワケではないんで、ヒムロックと町に出てソーセージ食ったり、松井やまことと出かけて、ビール飲んだりしてましたね。

――佐久間さんに聞いたんですが、ハンザ・スタジオはもともとヒトラーの娯楽施設で、それが後にスタジオになったらしいですね。

あ、そうなんだ。知らなかったねぇ。3階は半分がスタジオで、半分がビリヤード・ルームだったんだよ。ダビングやってるときはメンバーとビリヤードで遊んでたかな。で、作業が終わったって言われたら聞きに戻るっていう。ビリヤードの隣のスタジオでは、ニナ・ハーゲンがレコーディングしてましたよ。あと、ハンザ・スタジオの隣の左側がレストランだったんですよ。ホテルでは、ロックバンドのフィッシュが一緒でした。俺は知らなかったんだけど、バンドの連中は知ってて。好きなバンドだっかたどうかはわからないけどね。振り返ってみると、BOØWYビーイングにいて、ビクター、徳間でリリースして。でも上手くいったりいかなかったりっていう歴史があって。途中でメンバーが変わって、土屋が参加して。そして、俺も一緒になってきた歴史というか流れがあって。あるとき、バンドにとって科学反応が起きたんだよね。すごくマジックな感じで。今まで付き合いのなかった連中と一気に関係性を構築できたってのは、俺の人生の中でそうはないもんね。まさかベルリンに行くなんて思ってなかったから。


――しかもそこからロンドンでライブですもんね。

マーキー・クラブのリハーサルに行ったら、当時イギリスで大きなレコード会社だったヴァージンにいた宇都宮カズさんが観にきてました。日本の事務所のヒップランドの中井さんもいたんですよ。中井さんと宇都宮さんは、元々ナベプロ時代の仲間ですね。宇都宮さんはヴァージンUKにいて、中井さんはたぶん仕事でロンドンに来てたんでしょうね。で、新入社員だからって、ヒップランド系列のイベンターのグリーンズの鏡を連れて来てましたね。あと、ライブ会場には、映画監督の石井聰互さんがカメラを回してたんだよ。氷室の紹介なのか、布袋の紹介だったのか覚えてないんだけど……8ミリを回してましたね。いろんなヤツがいたな〜。客は80人くらいだったね。ぎゅっと詰めて300人くらいのハコだったのかな。ストーンズがやったとかクイーンがやったとか、そんな話を聞いていて。そのときに泊ったのがフレミングスってホテルで、すっげえ小さい昔の家をホテルに改装したような、廊下も部屋も狭いっていう。そこにみんなで泊まってました。ハービーのお膳立てで、テムズ川や、リッチモンドパークへ写真を撮りに行きましたね。あのときにリッチモンドパークの向かい側の公園沿いに小さい小路があって、小道が右に曲がりながら小さい小川を渡るんですけど、渡ってすぐにまた右に曲がるのね。そこに木が生えてるんだけど、そこはマーク・ボランが死んだ場所なんだって。ハービーが「ちょうどここです、ここですって」。そのころは携帯もデジカメもないから写真は残してないけどね。

――いろいろ巡ったのですね。

あと、最近だけどさ、布袋が犬を連れてテムズ川を散歩していて、堤防にもたれかかってひと休みしてるときに「あ、ここ4人で写真撮ったところだ」って思いだしたって言ってましたね。ブログでもアップしてたでしょ? すごい偶然だよね……。で、無事レコーディングもライブも終えて、ロンドンから東京に帰ってくるんです。ロンドンベイルートボンベイ香港~東京っていう南周りのルートだったんですよ。荷物が山のようで、積めないって言われて罰金15万くらい払って乗せてもらったりしました。でも、それが予算組んだ中で、唯一出たところなんですよ。えらいでしょ? ほぼ予算どおりだったんだよね。あと、そうそう、ハンザ・スタジオでのレコーディングにはフィッシュやニナ・ハーゲン以外に、デペッシュモードもいたんですよ。デペッシュモードはホテルは別だったんですけど、連中がホテルの側のパブに来ていて合流したんです。英語もろくに喋れないのにすごい友達になって、いつまでも酒を飲んでいた覚えがありますね。いったい何を話してたんだろうね(苦笑)。






――とてもいい話ですねぇ。

で、東京に帰ってきて赤坂ラフォーレミュージアムで業界向けのカンファレンスをやりました。俺の気持ちの中ではもう新宿ロフト渋谷ライブインじゃないなと。そんなこともあって選んだのかな。で、やるにあたってイントレを組んで、そのうえに舞台で使う板を敷いて、島みたいにして。人がどれくらい来るのかがわからなかったけど、40人ぐらいだったら格好悪いでしょ? 本人たちが見てきた世界と全く違う世界を経験させたくて、ベルリンでレコーディングして、ロンドンでライブまでしたのに、マスコミ関係者集めたらスッカスカっていうのは嫌だからね。こっちもプレッシャーがあるから、どれくらいだったかなぁ200名以上集めたんじゃないですかね。EMIの映像担当の三保谷さんに映像をまわしてもらって、EMIデビューのお披露目パーティーをしました。実は、そのときにデペッシュモードの連中はコンサートを観に来てるんですよ。たまたま日本でライブがあるからって「じゃあ観にきてよ」って。いかにも俺らの仲間が観に来たみたいにラフォーレに来てました。飯食ったり飲んだりもしましたよ。

――デペッシュモードは世界的なバンドですもんね。面白い出会いですね。ちなみに、赤坂ラフォーレコンベンションの2ヶ月後に渋谷公会堂ワンマンをやりましたよね? いきなりの大ホール。これってかなり賭けな気がしました。

俺がバンドと契約した後、結果、半年ライブ禁止になって、その間にレコーディングでベルリンに行って、ロンドンでライブをして日本に帰ってきて。それでいきなり渋谷公会堂って、ほんと大博打だったんだよね(苦笑)。狙いとしてはメンバーのモチベーションをあげたかったんだよ。でも、その結果、ベルリンでレコーディングしたり、ロンドンでライブしたりしたワケよ。だから「次は、渋谷公会堂だ!」みたいなね。これは、土屋と2人で完全にブラフをこいたのかもしれない(苦笑)。もちろん渋谷公会堂でのライブっていうのは、当時新宿ロフトでやってた連中にはあんまり現実味がある話じゃなかったと思うんだよね。吉田拓郎さんが一年に一回渋谷公会堂でやります、とか、日比谷公会堂でやります、とか、そういうレベルだったんだよね。土屋と話して半年間ライブを辞めさせたときに、その代り、戻って来たときには「次は渋谷公会堂だ!」って俺が言ったのかもしれないね。

――結果、満員となり、その後のバンドの破竹の勢いのきっかけになりましたよね。

破竹かどうかはわかんないけど、しびれまくりですよ(笑)。やっばいなぁって。渋谷公会堂はディスクガレージなんだよね。それからはWESS、ギルド、FOB、サンデーフォーク、夢番地っていう、今までBOØWYがやってきた地方公演とはライブのやり方を変えたんです。イベンターにやらせたの。ライブハウスだけじゃダメなんですよ。だって四国でライブをやったら、ファンが警備やるんですよ? ちっちゃいライブハウスで。しょっちゅう出入りしてる客がやるワケ。でも、そいつらが本番ではいちばん前で観てるんですよ(苦笑)。あぶなくてしょうがないでしょう。これはイベンターを入れなきゃダメだって思ったの。でも、イベンターの警備員は敵だっていう空気が当時はあったんだよね。でも俺はイベンターじゃないとダメだと思った。九州まで行って田舎の村祭りみたいなのに出て、終わって帰ろうとしたら金がないっていって野菜を一箱貰ったなんて笑い話で言われてるけど、それをやり続けていたら終わっちゃうから。金のトラブルは最悪だよね、人間関係終わってくもん。でも、ライブをやるんだったら5万しか払えないって言われても、絶対に5万払ってくれるところ、信頼関係を大切にってことでイベンターにしたんですよ。

――1985年以降、BOØWYは全国ツアーに出て行くことで、キャパをどんどんホールクラスへ広げていきました。

そっから先は、忙しすぎて俺の記憶があったりなかったりするけど、もう皆さん歴史はわかってるでしょうからね。ただ大阪公演だけはイベンターをどうしようかと悩んでました。一度デュークの親分の宮脇さんと話をしたときに「宮脇さんBOØWYやってくんない?」って言ったら「前に高知でやってたんだよね」って。1984年高知県立文化ホール。このときに椅子が20脚くらい壊れたそうなんだよね。後ろの方で見えないやつが椅子の上に乗ってぐっしゃぐしゃになって。その弁償代が100万くらい。それを当時のBOØWYはたぶん払ってないんですよ。ライブの話を持ってきたヤツが支払った形跡もない。それで「コンサートをやって椅子壊して、椅子の弁償代100万っていうのを保証してくれればやる」って。でも「一度こういうことがあったから会場を貸さないところもある。やりたくでもできないかも知れないですよ」って。当たり前の話だよね。でも、当時の俺は市役所の職員と話をしてる気分になっちゃって「バカヤロウ!」みたいな。「テメエ、ユーミンBOØWYとどっちが大事なんだ!」って喧嘩して大阪四国が空白になってたのね(苦笑)。若気の至りだよね(苦笑)。で、あるとき夢番地の善木と話をしたときに「夢番地岡山広島だけでコンサートやってても将来絶対だめだから関西エリア行きたい」とって言ってたのを思い出して「お前BOØWYやるか?」って話したら「絶対にやりたい!」って善木に大阪に行ってもらうことにしたんだよね。今はRADWIMPSの事務所もやっているチームだね。それこそ高松とか松山の初期のライブは夢番地がやってたんですよ。

――BOØWYが全国区でホールクラスで広がっていったことには様々な理由があるワケですね。そして、バンドは1986年〜1987年と大躍進することになり、1987年の12月24日に、渋谷公会堂にて解散宣言をしました。そして翌年4月に『LAST GIGS』が行われたという。

解散の理由については一切語らないって約束をみんなでしたんだよね。そもそも解散についてはわりと初期のころから、一位になったら解散するって話してたんだ。「金が入ったらフェラーリ買っちゃう!」、「俺はポルシェだ!」、「日本で一番高い寿司屋に行っちゃう」とかね。いわゆる金を持ってない連中が語る夢のような話をしている頃からね。それこそ一触即発みたいな時期も何回か通り抜けて来てるんですよ。……それこそ、メンバーが小中学校からの仲良し4人組みたいなワケじゃなかったから。BOØWYをやるためだけに一緒にいた連中だったからね。たとえば、それぞれがプライベートでどんな嫌な目にあっても、ミーティングには一切そんな話はもってこなかったんだよね。松井が「バイトの給料日なのに、オヤジがすっとぼけて給料くれなくて、帰る金もねぇんだ」とか、そんな話すらしないのよ。BOØWYの話しかしないの。なんて大人なんだって思ったね。こいつらすごいなって。俺だったら、愚痴とか言っちゃうもんな……。ライブの話、レコーディングの話っていったらそれ以外の話はしない。こいつらBOØWYだけでつながってるヤツなんだなって。俺もあいつらとつながった4年間でずいぶん教えられたもんね。仕事でつながっている人とはこういう風に共有しなくちゃいけないってこと、はっきり分けなきゃならないんだって。この感じはかっこ良いな、こんな大人になりたいって思ったもんね。

――そんなストイックさが求心力となって急激な成功を生み出したのかもしれませんね。そして、BOØWY最後のライブ。東京ドーム『LAST GIGS』というのは、糟谷さんの中でどんな想いがありましたか?

とある時期に俺が参加しなかった地方のライブの夜に、4人で解散について話したことがあったんだよね。いよいよ、その時期が来たんだなと。俺はその場にいなかったから、話は後で聞いたんだけど、解散するっていうのは、本人たちが話をして決めたことなんで、俺にはくつがえす権限はないんだろうなって感じでした。俺に相談されたら別の答えが出ていたかもしれないけど、本人たちが決めたことだからね。でも、その後のプランだてをしなきゃならないんだよね。レコーディング、ツアーがあるワケで。その最後のスケジィールが1987年12月24日の渋谷公会堂だったの。必然的にそこで解散宣言をするっていうのは決まっていて。どう伝えるかまでは決まってなかったけれど。コンサートの前にやるのか、アンコール中にやるのかって演出は一切決められてなくて。渋谷公会堂でってことだけ。俺は舞台演出をやっていたから、それこそ打ち上げなんて無いんだろうなとか考えながらね。

――全盛期を迎えようとしていたバンドの解散宣言。それは重い時間ですよね。

プロデューサーとして出した条件があったんです。「解散コンサートは、12月24日の渋谷公会堂が終わってからやる。それまでは解散は一切秘匿する。解散を商売にしない。この3つ。「渋公でのライブでは、コンサートが終わってから解散話をするんだから、だったら今まで支えてくれて来た人たちに向かって、どうやってサンキューを言うんだ?」って。「バンドをおっかけて、サポートしてきた人たちの身になってみろ」と。「4人で決めたことだからしょうがない。でも、ファンへの感謝を込めて最後にデカいところでやれ、武道館でもダメだ」っていうのだけ決めてたの。で、そのことを何も知らないイベンターのディスクガレージから「来年、東京ドームができるんだけど、オープニング・イベントを日本のアーティストでやりたいっていう話があるんだけど、糟谷さんやりませんか?」って。いや俺、武道館よりもっと大きいとこって言ったけど、武道館より大きいとこなんて無いなって思ってたんだけど、出来ちゃったんだよね(苦笑)。話を聞いたら、4月の巨人戦の初日の前に、やれる日があるからやってみないかって話になって「最後のライブは東京ドームでやる、それなら了解する」って言ったんだ。俺が了解するっていうのもおかしな話だけどさ。まぁ、でもマネージャーとして了解はする、ただしデカいところでやる、っていうね。ドーム公演は前の公演が終わってバラして、仕込んで、次の日にライブやってバラすっていう、今だったら絶対にあり得ないスケジュールでやったんだよ。空き日なしで、しかも2デイズでね。最後にたまたま転がり込んできたのが東京ドームだったんだよ。

――これまたすごいタイミングだったというワケですね。

解散商売をする気はなかったんですよ。それこそ、ツアーを決めた時点では東京ドームなんて決まってなかったし、ドームでのライブもまったくノウハウがたまってない時期で。……それに、コンサートの曲順を考えた形跡が全然ないんですよ。普段はこんな演出でこうなるから、最後の曲はこうして欲しいとか言うんですけど、この日はメンバー4人で決めたんでしょうね。当日はステージが終わって、ドームって2つ扉があるじゃないですか? 空気圧を維持するために。その1枚目のドアのところに車が停めてあって、メンバー4人と俺と土屋と後藤さんで2台で乗りこんで、即出で赤坂プリンスホテルへ移動って感じだったね。でも、ほんとその時のことはあまり覚えてないんだよね。……こうやってインタビューで喋ることも、これまでなかったからね。

2015年9月11日@六本木にて

BOØWY (氷室京介、布袋寅帯、松井常松、高橋まこと)30th ANNIVERSARY「BOØWY 1224 FILM THE MOVIE 2013- ORIGINAL SOUNDTRACK 」(フィルム缶パッケージ【CD2】2枚組・ステッカー付き

<インタビューを終えて>

3時間に渡ってノンストップでお話を頂いた糟谷さん。もちろん3時間じゃ喋り足りない伝説な歴史の重さ……。しかし、これまで糟谷さんから語られることの無かったバンドへの熱い想い、詳細なるヒストリープロモーションについては、現場マネージャーの土屋さんに任せ、ご自身はプロジェクト全般として、音源制作の管理と著作権、そしてライブやマーチャンダイジングを担当されていたという役割分担の在り方。1985年、ユイ音楽工房と東芝EMIへの移籍後に BOØWYの快進撃が始まったという真実。そして1987年〜1988年、どう終わりを迎えたかという物語。楽曲やライブ映像作品として残されたBOØWYというバンドの肖像。記憶は受け継がれ、そしてバンドが生み出した作品の魂は今も生き続けそして継承されている。

BOØWY STORY ARCHIVE』第1弾、BOØWYプロデューサー、糟谷銑司氏への2万字インタビュー。いかがでしたでしょうか。引き続き、ロックの歴史を変えたBOØWYの伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることでしょう。そして2016年、さらなる注目は、2016年4大ドームツアーを発表した氷室京介、海外展開が本格化してきた布袋寅泰、エッジーな新作アルバムをリリースした松井常松、熱烈にライブハウスを巡る高橋まことによる、現在進行形なそれぞれの物語。BOØWY解散から27年。刺激的な活動を続けるメンバーによるプロジェクトからも目が離せません!!!

次回アップデート予告:BOØWY アーティスト担当 鶴田正人(東芝EMI ※当時)

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