「今」か、「未来」か

先日のエントリ(「幻想」の効用 - カタチづくり)の※欄がミョーに盛り上がってきた。哲学的で、抽象的だけど、面白い。

議論の中心はこのコメント。

『本当は』人は全ての瞬間にベストを尽くしている

正直、まだ真意は分からない。たぶん、バカの壁があるせい。分からないけど、次のエントリを連想した。

「人生の良いことは未来にあると若い頃はおもっていたものですが、今はですね、『今』しかないのだと思いますよ。今考えていることが一番楽しいですな」

一流の研究者の歩いている時間。あるいは「iPod を捨てよ、町へ出よう」 | Lifehacking.jp

冒頭のコメントはこの思想、この生き方に近いんじゃないか、と思っているのだけど、どうかな。

まあ色々考えてしまうと、そもそも「過去」「未来」というものは存在するのか、「時間」というものは存在するのか、なんて考えてしまう。時間の概念なんて人間の理性(≒狂気)が生み出した幻想かもしれないなー、なんて。本当は「今此処」しかないんじゃないか、なんてね。

それに、生きる価値を未来に置いてしまうと、未来の未来のそのまた未来となって結局「死」に到達してしまう。それこそ「死ぬために生きている」ような生き方になってしまう。

では生きる価値をどこに置くか。生きる価値って何だ。本質は何だ。でもこの問いって、ラッキョウの皮をむくような虚しい思索になってしまう。

なぜ皮を剥くのか。皮の内側に実があると信じるからだ。でも、皮を剥くと、そこにはもう一枚の皮がある。

ラッキョウの皮をむいても本質は見つからない - カタチづくり

このエントリでは※欄で「縁起説」なるものを教えていただいた。

此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す

と説かれる。これは「此」と「彼」とがお互いに相依相成しているのであり、それぞれ個別に存在するものでないことをいう。すなわち有・無によって示される空間的にも、生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象していることが説かれている。

縁起 - Wikipedia

結局人生に「時間の絶対軸」も「価値の絶対軸」も存在せず、ただ「今此処」の「相対関係」を生きるしかないのかもしれない。