日本語練習虫

旧はてなダイアリー「日本語練習中」〈http://d.hatena.ne.jp/uakira/〉のデータを引き継ぎ、書き足しています。

『最新欧文活字標本』(欧文略標本)ほか森川龍文堂が発行し「紀元二千六百年文化柱」に納められた活字見本類の刊行年と所在

2022年12月の国立国会図書館デジタルコレクション全文検索機能のアップデートと、2024年1月の国立国会図書館サーチのリニューアルを受けて、2015年に書いた「森川龍文堂の読みと『最新欧文活字標本』の刊行年」という記事について補足しておきたいと思います。

なお、もしこの記事をご覧いただいている方に、以下の図書資料の書誌データを扱える方がいらしたら、「龍文堂」についてほぼ全て「リュウブンドウ」という読みだけが採られているところに、別名として「リョウブンドウ」を加えていただければ幸いです。

「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」に納められた森川龍文堂もりかわりょうぶんどうの活字見本類

長野県茅野市蓼科高原)に設置された「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」https://maps.app.goo.gl/dQmFhMPK2eBPgRuJAに、1940年(昭和15)までに森川龍文堂が発行した活字見本類が11点収蔵されているらしいことを、NDL全文検索によって知りました。朝日新聞社編集部編『紀元二千六百年文化柱総目録』(昭和15年12月、朝日新聞社)の101ページhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1104999/1/86に掲げられた一覧を記します。

221 森川龍文堂 龍文堂活字清鑒 1 昭和十年発行
菊判146頁
222 新體明朝活字 1 同 95頁
223 最新龍宋活字 1 同 82頁
224 漢文正角楷書標本(ママ) 1 同 76頁
225 最新歐文活字標本 1 同 82頁
2597年版
226 四號明朝活字見本帳 1 同 44頁
227 最新假名付ケース張用紙 1
228 最新書體活字 1
229 森川龍文堂正楷書活字 1
230 カナモジカイノカナモジカツジ 1
231 森川龍文堂 カナモジウリダシ 1

なお、222番から226番までの「同」は恐らく判型が菊判であることのみを指しており、発行年がすべて昭和10年であるわけではないものと思われます。また227番から231番は1枚もの(チラシやポスターに類するもの)ではないかと予想しています。

以下、この『紀元二千六百年文化柱総目録』に掲載された森川龍文堂資料を軸にしつつ、国立国会図書館サーチなどの検索結果について、各々の刊行年と所在にかかわる覚書を記しておきたいと思います。

文化柱221『龍文堂活字清鑒』(1935.11)

森川龍文堂『龍文堂活字清鑒 邦文書体之標本』表紙(横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵)

奥付の記載(昭和十年十一月一日印刷・昭和十年十一月五日発行)に基づいて、発行年月を「1935.11」としました。各館の書誌を見ると、書名の採りかたに方針の違いが出ています。

文化柱222『新體明朝活字』(推定1938.1)

森川龍文堂『新體明朝活字』表紙(福島県立図書館蔵)

冒頭に掲げられた「新體明朝活字の種類に就て」という文の2ページ目に「當所に於て是等の條件を具備し、美術印刷向活字として、昭和八年に着手彫刻補刻數年の後漸く發賣するに至りました」「是れに新體明朝活字と名けて、本文用六號五號四號と順次作成發賣致しまして、今日漸く九種の完成を見るに至りました」とあります。この九種というのは、初号、五号三倍、二号、四号、五号、9ポイント、8ポイント、六号、6ポイントの合計9サイズを指します。少なくとも福島県立図書館本には刊記がありませんでした。

三谷幸吉『手易く出来る活版印刷開業の栞』(印刷改造社、1936年)に綴じ込まれている森川龍文堂「邦文活字の書體及規格一覧表」に見えている新體明朝は、二号、四号、五号、9ポ、六号、6ポの6サイズです(https://dl.ndl.go.jp/pid/1056304/1/9)。これ以降の刊行と思っていいでしょう。

NDLサーチでは、大きく分けて書名を「新体明朝活字」とする群と「新体明朝活字標本」とする群の2つのグループがあるようです。

第二次『印刷雑誌』21巻1号(1938年1月)雑報欄に「森川龍文堂細形明朝成る」と題して《森川龍文堂は「新體明朝活字標本」菊判アート紙刷約百頁のカタログ一冊を發行した。》とする記事が次のように記されていますから(NDL館内限定:https://dl.ndl.go.jp/pid/3341163/1/146、少なくとも後半の4点はこの1938年1月に発行されたものと見て良いのではないでしょうか。


新體明朝活字に就て曰く「細型明朝活字が生れたのであります。細型活字は細線のが良いのでは御座いません。印刷面が全面的に良く揃つてゐる、字數が多い事、文字が鮮明であること、縮字轉字にしても、細線が切れずに良く字劃が判つきりしてゐる事等が揃つて居らねばなりません。當所に於て是等の條件を具備し、美術印刷向活字として、昭和八年に着手彫刻補刻數年の後漸く發賣するに至りました」とある。以て新體明朝活字の出現理由を知るに足る。収むる字種は初號三千三百字/*1五號三倍四千字、二号一萬二百字、四號八千五百十四字、五號八千八百字、九ポイント八千百字、八ポ七千五百字、六號八千ニ百字、六ポ六千ニ百字。

「収むる字種は」云々と書かれている内容は、福島県立図書館本の冒頭に掲げられた「新體明朝活字の種類に就て」という文の1ページ目に掲げられている字種一覧の引き写しであり、アート紙刷95ページの福島県立図書館本を見た限りでは、活字見本の本体部分に全サイズの全字種が掲載されているわけではありません。

2014年に実見した福島県立図書館本で「新体明朝活字標本」と記された箇所を目にした記憶がなく、前半4点と後半4点が同じ資料を示しているのか異なる資料なのか、別途確認しておきたいと思っています。三康図書館の書誌では書名として「新体明朝活字標本」と記されつつ「表紙別書名:新体明朝活字」という補足がありますから、わたくしが福島県立図書館本の何かを見落としてしまっている可能性があります。

文化柱223『最新龍宋活字』(推定1936)

森川龍文堂『最新龍宋活字』表紙と扉(福島県立図書館蔵)

印刷出版所『日本印刷需要家年鑑 昭和11年版』(1936)に森川龍文堂による龍宋活字の広告が綴じ込まれているほかhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1231434/1/501。第二次『印刷雑誌』19巻6号(1936年6月)にも、一種の名刺広告として「丸呉竹活字」「龍宋活字」「漢文正楷書」の三種が掲げられています(https://dl.ndl.go.jp/pid/3341144/1/47)。

文化柱224『漢文正角楷書標本(ママ)』(推定『漢文正楷書標本』1936)

大阪出版社編『印刷美術年鑑 昭和11年版』が、同年(1936)3月の出来事として大阪市《南区安堂寺町通一丁目森川龍文堂は「漢文正楷書標本」と題し同書體各號の綜合的見本帖を發行》と記していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/266。また第二次『印刷雑誌』19巻3号(1936年3月)に「森川龍文堂の漢文正楷書標本」という記事が出ています(NDL館内限定:https://dl.ndl.go.jp/pid/3341141/1/78。記事に曰く:


最近目醒しい活動を續けてゐる大阪市南區内安一森川龍文堂は又々、新刻漢文正楷書活字見本を滿載したカタログ「漢文正楷書標本」を發行した。初號、三十六、二十四ポ等大活字數十字、一號以下、二號、十八ポ、四號、五號/*2九ポ各七千餘字中より抜萃の文字を収め、特に本文用として代表的な十八ポは七千百三十四字の全部を収錄してゐる。

したがって『漢文正楷書標本』が正しい書名で、出版年が「1936.3」になるものと思います。

NDLサーチ、CiNiiブックス、Worldcatでは見当たらず、印刷図書館や印刷博物館にも所蔵されていないため、国内の図書館等では「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」にしか残っていないかもしれません。

Googleブックスによると朝鮮総督府圖書館『新書部分類目錄』(昭和12年1月1日現在)453ページに、「森川龍文堂編『漢文正楷書標本 文字の精美新活字』昭和11」と記載されているのですが、これは現在も韓国の国立中央図書館に所蔵されているようです。

文化柱225『最新欧文活字標本』(1937)

森川龍文堂『最新欧文活字標本 2597』表紙と扉(福島県立図書館蔵)

2015年の記事「森川龍文堂の読みと『最新欧文活字標本』の刊行年」において、表紙の「2597」は「皇紀2597年」すなわち西暦1937年を表しているのではないかと記していたのですが、今回、NDL全文検索によって第二次『印刷雑誌』20巻7号(1937年7月)雑報欄の「新刊紹介」記事を見つけることができました。

曰く、「大阪、森川龍文堂の「最新歐文活字標本」が新製刊行された。菊判全アート紙八〇頁、略見本としては堂々たるものである。ジョッブフェースとしてはセンチュリー、セルテンハムなど美しい字體が揃つてゐるし、ゴヂツクでは新書體のバンハートが注目される」等とあり(NDL館内限定:https://dl.ndl.go.jp/pid/3341157/1/123、この概要は『最新欧文活字標本 2597』に符合しますから、表紙の「2597」は「皇紀2597年」すなわち西暦1937年の意味で間違いないでしょう。

この記事で扱う《「紀元二千六百年文化柱」に納めらた活字見本類》には含まれませんが、森川龍文堂『新聞活字』(1938刊、奥付無し、印刷図書館蔵〈Za400〉)もまた、表紙の書名が「新聞活字」のみで、扉には「新聞活字/2598」とあります。

私は『最新欧文活字標本』について、2014-2015年当時も2024年現在も福島県立図書館本と国立国会図書館本しか実見していない状態ですが、以下はすべて同じ資料ではないかと思います。

文化柱226『四號明朝活字見本帳』(推定1927-1937)

森川龍文堂『四號明朝活字見本帳』表紙(福島県立図書館蔵)

今までに実見したのは福島県立図書館蔵本だけなのですが、41ページに「普通形」平仮名(築地体後期四号書風)と「中形」平仮名(秀英四号書風)が掲げられています。仮名の活字セットとして、1933年(昭和8)の『活版総覧 : 和欧文活字と印刷機械』111ページhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1209922/1/60や、1935年の『龍文堂活字清鑒』128ページに掲載されているものと同じ内容であり、推定1937-38年『新體明朝活字』92ページの「新体四号明朝」(秀英四号ベースに独自化を試みたもの)にはなっていません。44ページに掲載されている「二分一平字」「二分一太ゴチック」「二分一太丸ゴチック」に「昭和」の字が含まれていますから、昭和2年以降の10年ほどの間に発行されたものと考えられます。

文化柱227『最新假名付ケース張用紙』

活字見本帖は印刷所が補充活字の注文などを行うために利用していた備品であるために、活字会社の廃業や活版印刷所の廃業と共に捨て去られてしまうことが多く、現在まで残っているものは極めて少ない状態です。この活字見本帖に比べても更に「実用品」度が高いため後世に残されにくいと見られるのが「活字ケース張用紙(活字ケース貼紙)」になります。

大日本印刷株式会社/市谷の杜 本と活字館「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」で公開されている「明朝9ポイント活字棚全景」から任意の活字ケースを拡大していくと、スダレケースと呼ばれる形の活字ケースの1列1列に、どういう文字が収納されるべきか、見出しが示されていることがわかります。

大日本印刷株式会社/市谷の杜 本と活字館「秀英体活版印刷デジタルライブラリー」の「明朝9ポイント活字棚全景」より「出張ケース1」(部分)

森川龍文堂『最新假名付ケース張用紙』は、新聞・雑誌などの本文活字セットとして印刷所に提供する活字ケース張用紙――1段ごとに切り離す前のもの――ということになるのでしょう。下記が同じものなのではないかと予想します。

文化柱228『最新書體活字』

『印刷時報』172号(1940年1月号)に綴じ込まれた活字見本シートhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499108/1/105 - https://dl.ndl.go.jp/pid/1499108/1/109の、綴じ込み前のものなのではないかと想像しています。2040年正月に予定されているという「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」開扉時に確認してみたいものです。

文化柱229『森川龍文堂正楷書活字』

第二次『印刷雑誌』20巻3号(1937年3月)雑報欄(NDL館内限定:https://dl.ndl.go.jp/pid/3341153/1/79「森川龍文堂は提携して正楷書活字の全系列を完成されたので、この普及の爲め、本號広告欄の申込」

文化柱230カナモジカイノカナモジカツジ』

『印刷美術年鑑』昭和8年版(1933)綴じ込まれた活字見本シートhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1208644/1/73に類するものなのではないかと想像しています。2040年正月に予定されているという「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」開扉時に確認してみたいものです。

文化柱231『カナモジウリダシ』

『印刷時報』180号(1940年9月号)に綴じ込まれた活字見本シートhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499116/1/65の、綴じ込み前のものなのではないかと想像しています。2040年正月に予定されているという「紀元二千六百年文化柱(文化塔)」開扉時に確認してみたいものです。

*1:原文改行はのみで区切り符号無し

*2:原文改行はのみで区切り符号無し

#組版書誌 ノオト:横尾忠則『暗中模索中』(河出書房新社、1973)の「組版造形」にかかわる活版書籍印刷工程の細部を知りたい話

2024年3月25日発行の白井敬尚組版造形 タイポグラフィ名作精選』(グラフィック社 https://www.graphicsha.co.jp/detail.html?p=54159)で取り上げられている「和文組版」の幾つかについて、本文活字の書体、大きさ、組み方を推定するお手伝いをさせていただきました。2017年に発行されたパイロット版の時点で「正体不明な大正初期9ポイント活字」だったものは2017年9月どころか2024年現在でも相変わらず正体不明のままであるなど【活字書体や字間・行間の「リヴァース・エンジニアリング」を「組版書誌」という名称で担当】させていただくに当たって常々己の力不足を感じているのですが、個人的に3冊ほど、今まで念頭に無かった部分で勉強不足をつきつけられたものがあったので、メモを残しておきたいと思います。

1冊目が、今回取り上げる横尾忠則『暗中模索中』(河出書房新社、1973)です。わたくしは今回の『組版造形 タイポグラフィ名作精選』掲載予定図版によって横尾『暗中模索中』のことを初めて知りました。

通常なら奥付に記載されるはずの内容が本の「背」のみに印刷されているなど一目で分かるextraordinaryな本づくりがされていて、本文組版の造形、書容の設計においてもextremeな匂いがしています。活版書籍印刷のordinaryあるいはorthodoxな技術の細部が分かっていれば、どのくらいextraordinaryなのか、このextremeな本はどのようにしてつくりあげられたのかが、もっと楽しめるのに、今の自分には分からない悔しさ!

1.『暗中模索中』の本文組――マージンの指定がわからない

『暗中模索中』本文の活字サイズや組み方を推定するのは、1ページあるいは1見開きのことだけ考えれば、そう難しいことではありませんでした。文字活字も込め物類も全て岩田母型のポイント活字で組まれているように見受けられたからです。

インタビュー形式になっている本文は、わたくしの見立てでは横尾本人の発言が岩田明朝8ポイントのベタ組で1行67字詰(536pt)、インタビュアーの発言が岩田角ゴシック7ポイントのベタ組で1行76.5字詰(535.5pt)です。行長が正確に合致しないと金属活字の組版は成立しませんから、8ポ本文は版面の外側にクワタやスペースを足して8ポ70倍(560pt)、7ポ本文は同じく7ポ80倍(560pt)となるような文字組版になっているはずです。

横尾忠則『暗中模索中』の本文組(白井敬尚組版造形』158-159ページ掲載見開き部分の内容を元に内田作成)

『暗中模索中』本文行間のインテルは、8ポ本文と8ポ本文の間が7ポイント、7ポ本文と7ポ本文の間と8ポと7ポの間が8ポイントになっているようです。というわけで、本文が形作る矩形であるところの版面――私の造語で言うところの「本版面」https://twitter.com/uakira2/status/889846945342078976――は、タテが536pt、ヨコが概ね236pt程度なっているようです。

ノンブルはノド側に6ポイント活字で、本文とは26-27ポイント程度のアキを取り、更にノド側を大きく空けている状態。なので私の造語で言うところの「総版面」が、タテ536ptでヨコが概ね268pt程度。こうして数字を書き出してみて気がついたのですが、「総版面」はタテヨコ比がちょうど2対1になっていますね。

以上は活字組版の原版を推定したもので、原版から紙型取りし、おそらく平台印刷機で印刷するための亜鉛版を作成して印刷したものと思われました。というのも、行長が現物の実測で186.5mm――つまり上記の寸法関係を0.8%程度縮めた状態で実際の紙面と合致する内容だからです。(『組版造形 タイポグラフィ名作精選』掲載予定画像からこのあたりまで読み込んでいって、現物を手に取って眺めたくなってしまったので、ネット古書店で入手しました。)

知りたいこと、その1.1
『暗中模索中』について、『横尾忠則全装幀集』(パイ・インターナショナル、2013)では「裁ち落としギリギリまで文字を組んで、もしかしたら裁断したときに切れたところもあったかも知れないが、まあ読まれなくてもいい。ひとつの立体作品として作ったものだからね」(164ページ)と回顧されていますが、「裁断したときに切れたところ」はありません。小口と天地を(おそらく)概ね均等に空けるような指定が行われたように見えます。小口、天、地ともマージンは5mmくらいのようですが、この寸法についてどのような指定があったのでしょう。
知りたいこと、その1.2
小口、天、地の5mmほどのマージンは、本文を絶対に切り落とさずに安定的に印刷・製本できる「技術的な限界値」を目安として決定されたextremeマージンなのでしょうか、あるいは純粋に技術的にはあと1~2mm程度追い込めるが審美的な理由で本文活字2倍程度のアキとした、というようなものだったのでしょうか。

2. 1950-70年代に発行された菊判書籍の最大級の版天地を知りたい

横尾が「ひとつの立体作品として作ったものだ」という『暗中模索中』の現物を手に取ってみると、H198×W112×t33という直方体でした。敢て和風に言うと、縦がおよそ6寸5分、幅が3寸7分、厚みが1寸1分というところ。中肉中背の成人男性である自分が手にした場合、親指の腹を小口にかけ、小指で地を、また薬指と中指の腹が背を支える状態で、人差し指が重心より少し上を支えることが出来るサイズ感。

仕上がり縦寸法(198mm≒6寸5分)は、四六判(188mm≒6寸2分)より大きく、A5判(210mm)や菊判(221mm≒7寸3分)よりは小さいサイズ。なので、A判の紙か菊判の紙を大裁ちした紙に印刷したということになるのでしょう。

『暗中模索中』が仮に菊変形判――ページ天地が221mm――として造本されていた場合、本文行長536pt(≒188mm≒6寸2分)が変わらないままだとすると、この版面はどのようなサイズ感になるのでしょうか。

主婦の友社石川武美が昭和19年の『わが愛する事業』で誌面節約のために「それまでの菊版の組版を、横三寸八分を四寸一分に、竪五寸八分を六寸一分にひろげた。活字も特に鋳造したものを用ひた。その結果は内容を二割ほど増した」と記しているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1043523/1/76、マージンを削って三分(約9mm)増やしたという「菊版の組版」の縦方向よりも『暗中模索中』は更に一分(約3mm)大きいサイズです。

日本印刷学会出版部『印刷術講座 第6集 新版』(1952)では「縦組物においては、一行の長さを(1段組の場合)ページ天地の75~85%の範囲できめ、左右寸法を68~74%ていどにとれば、普通の範囲の組版面が出る」と解説されていてhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2477698/1/10、判型ごとの標準的な字詰・行数・総字数がページ天地の75%で示されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2477698/1/11

石川武美の回想をページ天地に対する版天地の比率として見直すと、当初79%だったものを84%ほどまで増やした、という話になります。『暗中模索中』の判型が菊判だった場合に版天地が536pt(≒188mm≒6寸2分)で変わらなければこれはページ天地の85%で、『印刷術講座』が記す「普通の範囲」の最大側ということになります。

知りたいこと、その2.1
1950-70年代に刊行された菊判(あるいは菊変形判、ページ天地が七寸三分〈221mm〉から七寸二分〈218mm〉程度)の書籍で、版天地がページ天地の85%(536pt≒188mm≒6寸2分)を超えるようなものは、どれくらいあったでしょうか。
知りたいこと、その2.2
1970年代までに刊行された菊判(あるいは菊変形判)の書籍で、本文活字サイズが9ポあるいは8ポのもののうち、本文の行長が536pt≒188mm≒6寸2分を超えるようなものは、どれくらいあったでしょうか。

ちなみにわたくしが記憶している菊判書籍の版天地最大級は『アイデア』356号で取り上げた鷗外森林太郎訳『即興詩人』初版(春陽堂、1902 https://dl.ndl.go.jp/pid/897037/1/25)になります。ページ天地219mm(≒7寸2分3厘)に対して、罫線の天地が204.5mm(≒6寸7分5厘)、行長は築地四号活字41字詰め199mm(≒6寸5分7厘、ページ天地の90.8%)、罫の外側にノンブルがある(!)ので、版天地が207mm(≒6寸8分3厘、ページ天地の94.5%)という、永世王者といった趣があります。

3.『暗中模索中』の「組みつけ」――「あき木」のことがわからない

『暗中模索中』のページを繰っていくと16ページごとにかがり糸が見えているので、「1折」が16ページ――ということは裁断前の紙に対して片面8ページ分の版を組みつけているはずです。

私はページものの活版印刷技術について実感的な理解をほとんど持っていないということを今回痛感しているのですが、まずは芦立昌雄『活版印刷教室』(日本印刷新聞社、1966)に掲載されている「組みつけ完成図(ページ物)https://dl.ndl.go.jp/pid/2509579/1/53」を元に、『暗中模索中』の「インポジション」を想像してみます。

横尾忠則『暗中模索中』の「8ページ本掛け組みつけ」想定図

続いて藤森善貢『出版編集技術 Ⅲ 製版印刷編』(日本エディタースクール出版部、1968第1刷、1975第5刷)428ページ「各ページの割りふり図」の内容を、今の「8ページ本掛け組みつけ」想定図に重ねてみます。

横尾忠則『暗中模索中』の「8ページ本掛け組みつけ」想定と割りふり図

芦立『活版印刷教室』と藤森『出版編集技術』に基づいて、印刷時に必要な「くわえしろ」や、製本時に最小限必要とされている「裁ちしろ」や「仕上げしろ」なども見ておきます。

横尾忠則『暗中模索中』の「8ページ掛け組みつけ」時の仕上げしろ

知りたいこと、その3.1
『暗中模索中』の地マージンは約5mmなので、折り返しの仕上げしろを9mmと見ておくと、「けした」部分の「あき木」は19mmほどのスペースを稼いでいることになります。19mmというと約54pt――五号5倍(52.5pt)より少し大きいサイズ――ですが、ページ物の「あき木」の最小サイズはどのようなものだったのでしょうか。
知りたいこと、その3.2
「けした」の間隔を決める「あき木」の寸法単位はミリでしょうか、号数あるいはポイントだったのでしょうか。号数あるいはポイントの場合、本文が号数活字ならインテルも「あき木」類も号数系、本文がポイント活字ならインテルも「あき木」類もポイント系というような感じでしょうか。
知りたいこと、その3.3
「あき木」は「ジョス」のように出来合いのものではなく、指定のレイアウトを実現するために都度製作するようなものだったのでしょうか。あるいは規格品と特製品の双方が使われていたとか?

朗文堂Salama Press ClubさんがYouTubeで公開してくださっている「活字自家鋳造+書籍印刷所 豊文社の記録」の3分50秒あたりhttps://youtu.be/jzZhLVwyWMU?si=lyqXp7jLK9B7xad9&t=230から5分36秒あたりまでがハイデルベルクの平台印刷機による8ページ掛け「原版刷り」の「組みつけ」になっていて、実際の「あき木」のイメージも鮮明につかめるのですが、上記のような細部が分からず今こうして悔しがっているわけです。

端物印刷に用いるテキンのチェースに版を組みつける際に用いる「あき木」「締め木」の類は、木製のものと金属製のものがあり、幅が広いものと五号n分のものを組み合わせて位置合わせを行いますが、ページ物でも同じような感じなのでしょうか。

4. 紙型鉛版と「台付け」――鉛版と「鉛版釘」の周辺事情がわからない

現在精興社のウェブサイトで示されている「活版印刷における工程」で「鉛版」の項目を見ると「できた鉛版は1ページごとに切り分け、余分な箇所を切り落とします。」と書かれていますhttps://www.seikosha-p.co.jp/corporate/process.html

知りたいこと、その4.1
切り落とすのは、下図の赤細線のように「総版面」の外側を長方形に切る感じでしょうか。青点線のように「本版面」の外側をなぞりつつノンブルが途切れないよう最小の面積でつないでおく感じでしょうか。緑太線のように、直線的に削れるところを削っておく感じでしょうか。

『暗中模索中』174ページによって鉛版の切り落とし具合を例示

同じく精興社ウェブサイト「活版印刷における工程」で「印刷」の項目を見ると、「1ページ単位に仕上がった鉛版を印刷機に組み付けます。鉛版を1台分(8の倍数ページの用紙1枚分)ごとに並べ、メタルベースに接着し」とありますhttps://www.seikosha-p.co.jp/corporate/process.html

せんだいメディアテーク活版印刷研究会で樹脂版を作成して「メタルベースに接着」すること――専用の両面テープを用いる手法――も経験しているので、そこはイメージできるのですが、木製の台木(木台)に釘打ちして鉛版を固定していた時期のことが、いまひとつ判りません。

『日本印刷年鑑1953』の「印刷用語集」には見えなかった「鉛版釘」という語がhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2472045/1/178、『印刷時報』185号(1959年10月)の「印刷用語辞典40」には見えているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/11434648/1/59、「平鉛版を木台に打つけるための釘」という説明があるだけで具体的な姿はイメージできません。

鉛版釘のサイズ感については『印刷ハンドブック 凸版印刷技術編』(東京都印刷工業組合、1966)に「長さ約12mm」と記されているほかhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2510566/1/13、言及されている資料を見たことがないように思います。なお、『印刷ハンドブック』では、版を「釘で固定する」手順についても「接着剤で固定する」手順についても文章で解説されているのでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2510566/1/13、とても助かります。

実は今まで気にしたことが無かったため、目にしたことが無いか目にしていてもそれと判っていなかったか定かではないのですが、世の中には「鉛版釘」の釘頭にインクがついてしかも印刷物に痕跡が残ってしまったものがあるようです。ね太郎氏の「名作三十六佳撰メモ」http://www.ongyoku.com/E2/j70/jouhou70a.htmの中に、①「表紙意匠の違い」によって鉛版釘の位置が異なる例(絵本太閤記)、②「同じ表紙意匠で裏表紙の広告が異なって」いても鉛版釘の位置が同じ例(絵本太閤記)、③「同じ表紙意匠で裏表紙の広告が異なる」と鉛版釘の位置が異なる例(生写朝顔日記)が挙げられているのを知り(「名作三十六佳撰 メモ補足」http://www.ongyoku.com/E2/j70/jouhou70m.htm、とても驚いています。おかげで、『印刷ハンドブック』の「釘で固定する」手順④「谷の深い部分」というのが五号全角相当の行間であれば十分に鉛版釘を打つことができるのだと判りました。

知りたいこと、その4.2
明治20~30年代の鉛版釘の釘頭はルビ活字より大きく見えhttp://www.ongyoku.com/E2/j70/jouhou70m.htm、ひょっとすると六号活字(7.75pt~8.0pt相当)くらいの直径なのではないかと見えるのですが、1970年代の鉛版釘ならば『暗中模索中』の本文行間(7pt)に打ち込むことが可能だったのでしょうか。
知りたいこと、その4.3
『暗中模索中』のように本文の行間が狭い(7pt)場合には紙型から鉛版を鋳造する際に小口なりノドなりの余白を広くして上図のように釘を打てるようにするなどしていたのでしょうか。

『暗中模索中』174ページによって鉛版を釘で固定するイメージを例示

知りたいこと、その4.4
あるいは、『暗中模索中』が印刷・出版された1970年代前半には、台木(木台)への釘打ちは既に主流ではなく「メタルベースへの接着」が一般的だったのでしょうか。


横尾忠則『暗中模索中』というextraordinaryな造形の図書が設計された際、活版書籍印刷におけるextremeな技術が要求されていたのか、ordinaryあるいはorthodoxな技術をextraordinaryに使うよう指示されていたというものなのか、「その時代の技術」のことをもっともっと知りたいと思ったことでした。この話題で2冊目、3冊目に続くかどうか、実は自分でも判りません。

安積澹泊・貝原益軒周辺に見える刊本字様「明朝流」という語彙の周辺事情――元禄8年刊『和漢名数大全』「聖堂品々献上目録」は大学頭林鳳岡の目録に依拠か

現代の日本で「明朝体」と呼ばれ、中国で「宋体」と呼ばれるこの字様・書体の印刷文字は、日本で、いつごろから、どのようにして、「明朝」と呼ばれるようになったのでしょうか。

小宮山博史明朝体活字 その起源と形成』(グラフィック社、2020)の「明朝体の定着 ―名称と書体」の項に「日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったのか。調べたいと思っていながらそのままにしています。」と記されているのですが(254-255頁)、仮の起点として、明治8年(1875)に書かれた『東京日日新聞』の本木昌造追悼記事に「漢字は明朝風も楷書も大小いろ〳〵あり」とあるものが嚆矢ではないかとされていました。

小宮山先生から勝手に受け取った「日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったのか」という宿題について調べ続けているシリーズの、今回は第3回になります。

まずは過去2回分のおさらいをしておきたいと思います。

第1回 19世紀前半(1830年代)の事例

このテーマについて2022年1月にいったんまとめたのが「幕末に池田草庵と松崎慊堂が「明朝」と呼んだ刊本字様」というブログ記事でしたhttps://uakira.hateblo.jp/entry/2022/01/17/195623

整板本や木活字本として学術出版を行っていた漢学者たちの活動に目を向けてみようと考えて幕末から遡って行き、池田草庵を経て松崎慊堂(1771生-1844没)が残した『慊堂日曆』に出会ったものです。

朱子學大系第14巻「幕末維新朱子學者書簡集」』(明德出版社、1975)の「楠本碩水書簡」の項に、佐々謙三郎(=楠本碩水:1832生-1916没)と池田禎蔵(=池田草庵:1813生-1878没)とのやりとりが収められているのですが、楠本碩水が企図した『康齋先生日録』出版についての池田草庵からの幾つかの返信のうち、碩水が慶応2年(1866)丙寅5月21日領手したものに「板ハ文字明朝様が冝敷奉存候如何」(板刻する文字書体は「明朝体」が良いと思うがどうだろうか)と書かれていたのです(大系第14巻315ページ)。

漢学者たちの活動を追うという線は、色々な発見がありそうだと思えました。

更に30年遡った天保7年(1836)12月27日の松崎慊堂手録には『欽定武英殿聚珍板程式』を読みながら書かれた覚書があり(東洋文庫377『慊堂日曆』5巻28-29頁)、「写宋字毎百個工銀二分」という原文に対して「写宋字、明朝の筆耕、百個ごとに銀二分。」と書かれていました。慊堂は、武英殿聚珍板に用いられている木活字の字様(活字書体)が(少なくとも「武英程式」において)「宋字」と呼ばれていることを理解しつつ、それが当時の日本で「明朝」と呼ばれる刊本字様であるという認識を持っていたと言えるでしょう。

第2回 18世紀前半(1730年代)の事例

池田草庵や松崎慊堂の事例を含めた調査過程で「明朝 板下」というキーワード検索に浮上してきたのが、『大日本史編纂記録』に収録されている元文年間(1736-1741)の「往復書案」になります。安積老牛こと安積澹泊から小池源太右衛門(小池友識)*1・打越弥八(打越樸斎)にあてて記された細々とした指示のひとつに「板下の文字ニ候間明朝流之板行流之様ニたてをふとくよこをほそく成様ニ」と書かれているのでした(『茨城県史料 近世思想編 大日本史編纂記録』https://dl.ndl.go.jp/pid/9644333/1/53。「縦線が太く横線が細い」というのは現在言われる「明朝体」の説明としても通用するような内容です。

これについては「近代和文活字書体史・活字史から19世紀印刷文字史・グローバル活字史へ」(2023年12月『デザイン学研究特集号』30巻2号 https://doi.org/10.11247/jssds.30.2_20で一定の結論に達しました。

近年非常に充実してきた各種古典籍デジタルアーカイブを縦覧したところ、17世紀末から18世紀初め頃の日本の刊本に1冊の本の中で複数の字様を使い分ける事例が出てきていて、その中に「明朝体」も含まれていたのです。何らかの形で刊本の字様について言及する必要がある際に「たてをふとくよこをほそく成様ニ」書かれた印刷文字のことを「明朝流之板行流」と呼ぶ背景事情が理解できると考えるに至りました。

この時期まで彰考館総裁として『大日本史』編纂について主導的な役割を果たしていた水戸藩安積澹泊(1656生-1738没)の名と、水戸藩の藩版を手掛けた書肆柳枝軒(小川多左衛門)の名に、注意しておきたいと思います。柳枝軒は貝原益軒と縁の深い書肆でもあります*2

第3回 現在探索中の17世紀末(1690年代)の事例(←イマココ)

元禄8年刊『和漢名数大全』末尾の「聖堂品々献上目録」に見える御三家献納本の書誌

今回注目したいのは、元禄8年(1695)刊『和漢名数大全』の「聖堂品々献上目録」に見える造本・装丁の記述です。

貝原益軒が貝原篤信の名で元禄2年(1689)序文を記した元禄5年刊『和漢名数』は15種類の事物が集められていて末尾が「仏家類」となっているのですが広島大学図書館教科書コレクション画像データベース https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/5020141209172854、上田元周重編とある元禄8年刊『和漢名数大全』では「仏家類」に続けて(類別番号を付さずに)「古銭目録」「聖堂品々献上目録」が追加されています。

聖堂というのは湯島聖堂のことを指し、元禄3年に徳川綱吉から与えられた土地に孔子廟と林家塾が移されたもの。翌元禄4年、林家当主の林鳳岡従五位下に叙され大学頭の官職を任ぜられました。こうした一連の過程で諸大名から聖堂に典籍や祭器が献納された、その典籍の目録が「聖堂品々献上目録」になるようです。

『徳川実記第4編(常憲院殿御實紀)』(経済雑誌社、1904)の巻22、元禄3年10月7日の条に「七日孔庿に典籍、祭器等を進献有しは。尾張大納言光友卿。紀伊大納言光貞卿。甲府宰相綱豊卿。水戸宰相光圀卿。松平左京太夫頼純。松平摂津守義行。松平讃岐守頼経。松平出雲守義昌。松平軽部大輔頼元。松平播磨守頼隆。松平兵部大輔昌親。松平出羽守綱近。松平大和守直矩。松平若狭守直明。松平中務大輔昌勝。松平加賀守綱紀。松平薩摩守綱貴。松平肥後守綱政。松平越中守定重。松平丹後守光茂。宗対馬守義真。本多中務大輔忠国。本多下野守忠平。松平伊豆守信輝は典籍。(引用者注:以降の祭器献上者名省略)」と「湯原日記」からの記事として書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917856/1/184

「聖堂品々献上目録」では多くの献納本について造本・装丁など書誌事項に関するコメントが記載されていて、冒頭に甲府、続けて御三家からの献納本が記されているのですが*3、そこに気になる一言が書かれているのです。

御三家本の掲載順は尾州紀州・水戸の順ですが、まず水戸から見ていきましょう。

水戸(徳川光圀)献納『和朝史記』については「書本也表紙黄色紫糸ムスビトジ」であると記されてます。

宮内庁書陵部の平成14年展示目録「書写と装丁」https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/900/900200211000.pdfによると「元禄4年(1694)徳川光圀湯島聖堂に献じたうちの一本」である『日本書紀(日本記)』は「表紙は黄檗染地に藍と緋で霞が描かれ、紫糸で綴じられており」、『和漢名数大全』に記述されている通りとのこと(PDFの18-19ページ)。

展示目録の図22として掲げられている光圀献納本『日本書紀(日本記)』表紙にはよく見ると図書寮文庫の函架番号「506・3」のラベルが見え、「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」によると確かに「徳川光圀校」である元禄4年の写本に該当しますhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000000930000。残念ながら画像公開資料ではありません。

森馨「和図書装丁研究史の諸問題―大和綴を中心に」(『国学院雑誌』96巻1号〔1995年1月〕)に、この光圀献納本のうち『旧事記』『古事記』『続日本後記』は国立公文書館、『日本書紀』が宮内庁書陵部、『続日本紀』が国会図書館に所蔵されているとありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3365693/1/61国会図書館の『続日本紀』は藤森が記す通り「現在はやや変色して樺色、すなわち茶水色になっている」ものの「表紙は黄檗染地に藍と緋で霞が描かれ、紫糸で綴じられて」いる状態だと判りますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2546865

以上を踏まえて、尾州本と紀州本の造本・装丁事項を見ていきたいと思います。

尾州徳川光友)献納『廿一史』には「帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板」とあります(強調引用者)。

早稲田古典籍総合DB元禄8年刊『和漢名数大全』109丁裏110丁表を集中線加工

続く紀州徳川光貞)献納『十三経註疏』は「白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙コハゼ四分一彫物唐草 外題榊原玄輔」。

水戸本には「書本也」と書かれていて写本であったわけですが、尾州本と紀州本にはそうした注記が無いため、刊本だったものと思われます。どちらも帙入りで、尾州本の帙は「緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重」でコハゼが「赤銅彫物唐草」、紀州本の帙は「緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練」でコハゼが「四分一彫物唐草」。尾州本は表紙が唐紙と書かれ本文用紙の言及は無し、紀州本の「白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙」は「裏白練表紙」であることと本文が「白紙」であることを指しているのかとも思うのですが、よく判りません。

紀州本の外題は、貞享4年(1687)に紀州藩の儒官となったという榊原玄輔の筆になるもので、私の読み取りが間違っていなければ尾州本の外題は「明朝流ノ板」つまり明朝体で板刻・印刷されたものと書かれています。

杉浦三郎兵衛『雲泉荘山誌 巻之2』で「其華麗なる美本想像に余りあり」と記されたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1240168/1/31尾州本『廿一史』の姿を確認することができないでしょうか。

文政元年写『昌平志』巻第四「経籍誌」に見える御三家由来本の書誌

国会図書館デジタルコレクションの文政元年(1818)写『昌平志』巻第四「経籍誌」に見える、御三家由来本の書誌事項は次のようになっていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2550771/1/4

  • 『二十一史』 五百本五十帙。共四凾。部面茶褐色紙。書帙縹縉。素凾銅鎖。 右尾張公源宗睦置購 安永七年戊戌二月
  • 『十三経』 二百二本。共二凾。部面黄紙。帙表嫩緑花文緞子。裏靣光縉。銅撿紫縧。素凾銅鎖。○按元禄午十一月所置巻丹籖題皆榊原玄輔書 右紀伊公源治貞購置 天明元年辛丑八月
  • 『旧事記』十本『故事記』三本『日本記』二十二本『続日本記』二十五本『続日本後記』十本『文徳実録』五本『三代実録』二十五本 以上共七分。凡百本。並黄紙褾子。裏面金砂紙。綴以紫縷子。護書青光縉。毎部公自署巻尾曰。元禄肆年。歳次辛未。正月貮拾陸日。前権中納言従三位水戸侯源朝臣光圀謹識。

尾州本『二十一史』は徳川宗睦によって安永7年(1778)に再購されたもの、そして紀州本『十三経』は一部が元禄5年当初のもので徳川貞治によって天明元年(1781)に再購されたもの、――と書かれているようです。

小野則秋『日本文庫史研究 下』(臨川書店、1979)「近世における文庫」の第2章「昌平坂学問所文庫の研究」(56-112ページ)では、林羅山が最後に手元に置いていたものの焼失以来、昌平坂学問所文庫が何度も火難に遭い、辛うじて生き残ってきた様と、残念ながら明和の大火で多くが焼失したこと(一部が残ったこと)が『昌平志』から読み解かれています。

森馨湯島聖堂旧蔵徳川光圀献上本の所在確認と装訂―結び綴の意義」(『大倉山論集 37』〔1995年3月〕)によると、「このように元禄三・四年に諸大名より湯島聖堂に献上された諸本は、明和九年(一七七二)に発生した目黒行人坂を火元とする大火で聖堂も罹災したため、その多くが灰燼に帰した。光圀献上本は、そうした中で焼失を免れた稀有のもの」とありましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/4412121/1/21

徳川光友献納『廿一史』の「帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板」について現物で確認することは出来ない相談というわけです。

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』に見える御三家由来本の書誌

先ほど記した『雲泉荘山誌』に尾州本『二十一史』の書誌を記す書籍目録として記されていた「御献上目録」のことを調べてみたところ、元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』の外題であることが国書データベースによって判りました。

国書データベース経由で横浜国立大学附属図書館蔵『奉納聖堂品々目録』(元禄四辛未九月中浣)を閲覧してみたところ、冒頭が甲府、続けて御三家という構成になっていますhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100349579/3?ln=ja。御三家本を順に拾い出してみましょう。

  • 尾州徳川光友)献納『廿一史』帙緞子萌黄牡丹唐草中紋裏白羽二重表紙唐紙コハゼ赤銅彫物唐草外題明朝流ノ板
  • 紀州徳川光貞)献納『十三経註疏』白紙本帙緞子萌黄中紋牡丹唐草裏白練表紙コハゼ四分一彫物カラクサ 外題榊原玄輔
  • 水戸(徳川光圀)献納『和朝史記』書本也表紙黄色紫糸ムスビトジ

松平讃岐守からの献納本を「通鑑司馬温公」とするか(『奉納聖堂品々目録』https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100349579/5?ln=ja)、「通鑑司馬公」とするか(『和漢名数大全』https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=117)、これ以外はカナと漢字の表記違いを除いて両者が合致しており、大全は元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』を引き写したものと考えて良いのでしょう。

当初は、外形的な特徴のみとはいえ諸大名からの献納本一式について一通りの記録を取ることが出来た人物と想像された、元禄8年刊『和漢名数大全』の「重編者」である上田元周の人物情報を何とかして探し出せないかと考えていましたが、その必要は無さそうです。

元禄4年に『奉納聖堂品々目録』としてまとめるべき典籍を実見して記録を取ることができるような人物。林鳳岡の周辺事情を考えればいいわけです。

刊本の外形的特質に対する林家三代の目線

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』の前、あるいは少し後に作られたような蔵書目録の類は無かったでしょうか。

小野則秋昌平坂学問所文庫の研究」68-69ページに、林鳳岡の先代である林鵞峰が「寛文八年の夏二旬を費やしてこれが曝書をして書目を新たにし、その跋に」(中略)「と述べているが」とあり、「忍岡文庫書目」という目録が作られたらしく記されていました。

跋文の全体は国書データベース経由で筑波大学附属図書館蔵『鵞峰先生林学士文集』から探し出すことができましたが(文集巻98「題忍岡文庫書目後」https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1974?ln=ja、目録それ自体の手がかりを得ることが出来ません。

いったん目録探しから離れて、語彙を探してみたいと思います。

元禄4年刊『奉納聖堂品々目録』・元禄8年刊『和漢名数大全』の「聖堂品々献上目録」を見ると、甲府『三大全』や、松平左京太夫五経集註』、松平大和守『孔聖全書』には「唐本」と書かれています。松平摂津守『朱子語類大全』と宗対馬守『朱子文集大全』には「朝鮮本」*4。松平兵部大輔『通鑑全書』には「明朝新撰」の語が添えられています。

『鵞峰先生林学士文集』巻98を見ていくと、「爾雅跋」に「韓本」「唐本」という語彙が見えますhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1982?ln=ja。また「書授島周史記後」には「嵯峨板ノ大本」「嵯峨本」という語彙が記されているのですがhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/1978?ln=ja、これはいわゆる「光悦本・角倉本」の方ではなく、五山版のひとつ臨川寺版のことかと思われます。

実は『鵞峰先生林学士文集』は、序文と凡例が楷書https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/9?ln=ja、目次以下本文が「明朝流」で板刻されhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/11?ln=ja、後序が行書となっているのですがhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100000896/4707?ln=ja、刊本の字様に関する言及が、どこかに書かれていないものでしょうか。「文集」ではなく「日記」になるのでしょうか。

刊本字様「明朝流」に関する林家三代の言及が「ここにある」「ここには無い」等、――あるいは、荻生徂徠・山井崑崙にある(無い)といった、17世紀末の状況をご存じの方がいらしたら、ぜひご教示ください。もちろん17世紀末よりずっと遡るような事例でも大歓迎です。

*1:小池友識について、コトバンク等では通称「源太左衛門」と書かれていますが https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%B1%A0%E5%8F%8B%E8%AD%98-1073623(2024年1月5日閲覧)、木戸之都子「水戸藩人士の墓碑銘索引」(2009)には「源太衛門小池君墓表・倉澤安」とあります(https://rose-ibadai.repo.nii.ac.jp/record/9983/files/20090200.pdf)。

*2:横田冬彦『日本近世書物文化史の研究』(岩波書店、2018)第11章「作者・書肆・読者 ―益軒と柳枝軒をめぐって」

*3:京都大学貴重資料デジタルアーカイブ https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=116https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011094#?c=0&m=0&s=0&cv=117、早稲田古典籍総合データベース https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i03/i03_01860/i03_01860_p0115.jpghttps://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i03/i03_01860/i03_01860_p0116.jpg

*4:対馬守による『朱子文集大全』献納事情の詳細も含む阿比留章子「対馬藩における朝鮮本の輸入と御文庫との関係につ いて」(『雅俗』14巻、2015年7月 https://doi.org/10.15017/4742028)の面白さ!

新しい書体の活字を製品化する際に関わる全工程の担当責任者名を掲げた唯一無二の「製字専業」築地活文舎による三号太仮名のことと国光社「晩稼流」活字のこと

19世紀の末に、近代日本語活字産業史上空前絶後と言ってよい記録を残したTypefounderがありました。築地活文舎といいます。

「文字っ子」を自認するような方であれば、2004年に大日本スクリーン製造から発売された「日本の活字書体名作精選」シリーズの1つである「築地活文舎五号仮名」に思い当たったことでしょうhttps://www.screen-hiragino.jp/lineup/kana/index.html#h2_06*1

築地活文舎五号仮名フォントの組見本を兼ねた2004年の解説文https://www.screen.co.jp/ga_product/sento/pro/typography/05typo/pdf/058_katsubun5go.pdfや、これを踏まえて書かれた小宮山博史明朝体活字 その起源と形成』(2020年、グラフィック社)の第8章「築地活文舎五号仮名」(402-405ページ)において、「明治30年代初め『印刷雑誌』に広告を出していますが、築地活文舎の規模や実態はよくわかりません」と書かれている通り、築地活文舎に関係する多くのことが謎に包まれたままになっています。

築地活文舎関係で、ほんの少しだけ判っていることを改めてここに記しておきたいと思います。

築地活文舎の創業期と代表者名

印刷雑誌』8巻10号(明治31年〔1898〕11月、印刷雑誌社)に「活文舎々長 村山駒之助」による「祭秀英舎長佐久間貞一君文」という弔問記事が掲載されていてhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499006/1/14、築地活文舎の創業について次のように書かれていました。

余ノ始メテ君ヲ牛込廿騎町ノ自邸ニ訪ヒ君ト相識リシハ、昨夏八月ノ半バナリシ(中略)爾後同志ノ士ト製字専業築地活文舎ヲ創設シテ以来舎務多端ナリシ爲メ、君ト相見ザル殆ド一年

この書きぶりから、築地活文舎の創業は明治30年(1897)の秋頃かと思われます。また、築地活文舎の代表者が村山駒之助という名であったことが判ります。

佐久間貞一の逝去を悼む『印刷雑誌』特集号で、東京活版印刷業組合総代副頭取の星野錫、東京工業協会員総代としての小池相徳、東京市議長の須藤時一郎、東京商業会議所会頭代理副会頭の中野武営といった面々の追悼文に続けて、掉尾を飾ったのが築地活文舎の村山駒之助です。異物感というか違和感というか、この不思議な位置づけについては後ほど触れたいと思います。

府川充男撰輯『聚珍録』(2005年、三省堂)によって知られている通り、明治31年(1898)から同32年にかけて築地活文舎は『印刷雑誌』に7回ほど広告を出していました。

築地活文舎の「三号太仮名」活字を作り出した人々

築地活文舎が残した「近代日本語活字産業史上空前絶後と言ってよい記録」というのは、売上だとか、活字サイズが最大(最小)といったものではありません。新しい活字書体の発売を知らせる広告文中に、その活字書体の版下を揮毫した書家、それを種字となるよう彫刻した彫師、種字から「ガラハ」を作成した技師、更に母型の製造にあたった技師、そして活字の鋳造を行った技師――という、「新しい書体の活字を製品化する際に関わる全工程の担当責任者名」を表示したことを指します*2

先ほど記した通り明治31年(1898)から同32年にかけて7回ほど出された築地活文舎による広告のうち、明治32年1月の『印刷雑誌』8巻12号に掲載された「参號太假名(三号太仮名)」広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1499008/1/15に掲げられた名を拾い出してみましょう。

(揮毫)平山祐之 (彫刻)田中錄太郎 (電気)淺井義秀 (母型)伊藤猪之助 (鋳造)岩瀬銕藏

従来から以上のところまでは『印刷雑誌』によって判っていたのですが、国立国会図書館デジタルコレクションの2022年12月アップデートによって全文検索機能が大幅に強化されたおかげで、このうち数人の動向が見えてきました。

版下を揮毫した平山祐之は、石田寿英『学校新話』の編輯人であり本所区緑町三丁目廿番地 https://dl.ndl.go.jp/pid/808270/1/43、また井上哲次郎教育勅語衍義』の版下を書きhttps://dl.ndl.go.jp/pid/759404/1/56、更に西村茂樹編『新撰百人一首』本文の版下を書いたのではないかと思われる人物です*3
国立公文書館デジタルアーカイブの「職員録・明治五年九月・局中職員簿(明治十年一月十八日本局翻訳係現今ノ職員ヲ附記)」https://www.digital.archives.go.jp/file/1645098.htmlの17/30コマに「雇筆者」の一人として「明治六年四月十九日御雇」と書かれていますから本所区緑町三丁目廿一番地 https://www.digital.archives.go.jp/img/1645098、平山は明治新政府が好ましいと考える書風の浄書を能くする人物だったのでしょう。

種字彫刻の田中錄太郎については、手がかりが見つかっていません。

ガラハ(電気)の淺井義秀は、後に独立し「電気銅版・活版字母・銅凸版・活版製造・諸印刷」業を京橋区鎗町で営んだのではないかと思います(『大家叢覧』https://dl.ndl.go.jp/pid/954627/1/9

母型担当の伊藤猪之助と鋳造担当の岩瀬銕藏についても、手がかりが得られていません。

築地活文舎「参號太假名(三号太仮名)」広告(『印刷雑誌』8巻12号)

ともあれ、こうしていよいよ築地活版の倣製にとどまらないオリジナル活字を引っ提げて明治32年(1899)1月に(東京の)活版印刷業組合に加盟した築地活文舎ですが、何と同年3月22日に廃業してしまったと、『印刷雑誌』9巻6号(明治32年7月、印刷雑誌社)に記されていましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499014/1/10

先ほど、佐久間貞一の逝去を悼む『印刷雑誌』8巻10号(明治31年11月、印刷雑誌社)に「活文舎々長 村山駒之助」による「祭秀英舎長佐久間貞一君文」という弔問記事が掲載されていた、その位置づけの不思議さに言及しました。村山は、豊原又男編『佐久間貞一小伝』(明治37年〔1904〕 https://dl.ndl.go.jp/pid/781454)では全く触れられていない状態ですから、第三者から見て佐久間と村山の縁は特に深かったわけではなく、『印刷雑誌』への広告大量出稿という形で金に物を言わせて佐久間の名前を利用し、「活字専業」事業者としての更なる認知度向上につなげようとした、――そのような状況であったように思われます。

築地活文舎を興した村山駒之助とはどのような人物だったか

NDL全文検索によって、更に村山駒之助の動向もわかってきました。

キーワード「村山駒之助」によってNDL全文検索から得られる結果は、上記『印刷雑誌』関係の他、およそ、次の3種類になっています。

この3者は、同一人物なのでしょうか、同姓同名の他人同士で、かつ築地活文舎の村山とは異なる人物なのでしょうか。

北海道瓦斯の村山については『人事興信録 4版』(大正4)などに略歴が掲載されているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1703995/1/553、一通り調べ続けてみた中で、我々にとって貴重な伝記的資料が鈴木源十郎『札幌之人』(大正4)に記録されていると判りましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/950457/1/98。全文を掲げましょう。

氏は明治元年六月十五日千葉県千葉郡津田沼町大字鷺沼に生る二十三年七月東京専門学校法律科を卒業し二十六年七月更に同校英語科を卒へ十月京都平安新報主筆兼理事となる二十九年活字製造業活文舎を東京京橋区築地に創設し一時其社長たり三十二年三月東京瓦斯株式会社に入り購買課長となり四十三年夏北海道瓦斯株式会社の設立に関係し努力する所あり翌年同社成立と共に其取締役兼支配人に挙げられ以て今日に至る現に札幌支店に在り北海道各支店を監理す

早稲田(東京専門学校)の若手論客であり、津田沼のボンであり、北海道瓦斯の責任者であった村山は、築地活文舎の村山駒之助その人だったわけです。

奥村亀三郎『常総名誉列伝 第2巻』(明治33)によると、村山家は代々質商や米雑穀商を営んでおり、駒之助が東京専門学校の学生であったころに父の村山吉兵衛は千葉郡津田沼村の村会議員を経て村長となっていたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/778111/1/212

『札幌之人』によると、築地活文舎の創立は明治30年ではなく29年だったようですが、確認のために『中央時論』と『早稲田学報』で動向を調べてみました。

明治20年代末の『中央時論』は、ふらついていた時期の村山の動向を、次のように伝えています。

これ以降、第22号(明治29年3月)に「軍事に関する講義録発売を企画」する話が掲載されたことを除きhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1546220/1/25、第27号(明治29年8月)までの間、村山の動向は見えません。

後継誌で明治30年以降の「校友動静」を伝える『早稲田学報』について、「『早稲田学報』記事データベース」で公開されている誌面イメージPDFを1号(明治30年3月)から50号(明治34年2月)まで目視確認しましたが、村山の動向は見当たりませんでした。欠けている18号(明治31年8月)、41号(明治33年7月)、48号(明治33年12月または34年1月)に掲載されていたのかもしれませんが、未詳です。

さしあたり、先ほど明治30年(1897)の秋頃かと想定した築地活文舎の創立は、明治29年夏から30年春までの間のようだと考え直しておきましょう。

村山駒之助遁走後の活文舎

明治35年の『日本紳士録 第8版』では、京橋区南本郷町六の活文舎(活字製造業)の代表者が大倉佐吉と記されていますがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780097/1/123、これ以降京橋区築地(南本郷町)の活文舎に関する記録をNDL全文検索で拾い出すことができません。

また、村山駒之助遁走後の活文舎を引き受けたと見られる大倉佐吉は、明治35年に芝区芝口三丁目で大倉活版所を営む大倉佐吉と同一人物なのではないかと思うのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1543988/1/3、これ以外の状況は判りません。

含笑堂こと大倉保五郎https://dl.ndl.go.jp/pid/1265253/1/1167の大倉書店と京橋区新栄町の大倉印刷所https://dl.ndl.go.jp/pid/864966/1/188は、奥付によっては「大倉活版所」という表記になっていますがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1559340/1/52、これは大倉佐吉の活版所とは異なるものでしょう。

ただし、千葉真郎「忍月の初期小説」(1997年『目白学園女子短期大学研究紀要 (34)』https://dl.ndl.go.jp/pid/1784351/1/203には、保五郎が錦栄堂こと大倉孫兵衛の一族であって含笑堂は(書店として)錦栄堂の傘下にあったとしか考えられないとありますから、大倉佐吉はこの有力書肆であった大倉一族のどこかに連なる人物ではあったかもしれません。

大倉佐吉より少しあと、神田美土代町に活文舎の名前で横山喜助が印刷業を営んでいるhttps://dl.ndl.go.jp/pid/921652/1/67模様https://dl.ndl.go.jp/pid/954438/1/107なのです(大正10年『行く所まで』https://dl.ndl.go.jp/pid/906668/1/224(稀に「活文堂」〔https://dl.ndl.go.jp/pid/801127/1/47〕)、これが村山・大倉から引き継がれたものであるのか否かは判りません。

国光社「晩稼流」活字の仮名と築地活文舎三号太仮名

『聚珍録』第三篇643ページに、前掲の『印刷雑誌』8巻12号に掲載された「参號太假名(三号太仮名)」広告を指して「実は曩に掲げた晩稼流の三号仮名と同じもの」「恐らくは、築地活文舎の解体後、これが国光社へ流れて三号晩稼流や三号明朝体に組み合わされる仮名として用いられたのではあるまいか」と書かれています。

「曩に掲げた」というのは第二篇308・322・331ページで触れていることを指し、往時の教科書用活字について牧治三郎「鉛活字鋳造の揺籃時代(続)」(『印刷界』156号 https://dl.ndl.go.jp/pid/3340646/1/72の記述が引用されています。

教科書印刷問題を書いたので、ここで教科書用新活字の一、二の例をあげると、明治34年晩稼流活字体を売出したのが、京橋築地2丁目の国光社だった。
種類は教科書専用だったので、二号と三号活字が主体で種類はすくなかったが、明朝でなく、清楷書に近い書風で好評を受けた。

引用文中、『聚珍録』で「ママ」と注記されている「清楷書」という語が、「清朝体楷書」というような意味合いなのか、「正楷書」という活字書体の呼称を誤ったものか、そのあたりは判りません。

さて、国光社オリジナルと思われる二号仮名活字には、少なくとも2種類のものがありました。仮に「二号太仮名」と呼ぶものと、「晩稼流」楷書活字と併用される仮名活字になります。

仮称国光社二号太仮名

仮称国光社二号太仮名の初出は、『聚珍録』第三篇647ページ掲出『女鑑』(明治31年7月)掲載広告より古く、国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な範囲では岡勇次郎『日本米穀之将来及米価変動の源因』(明治30年1月 https://dl.ndl.go.jp/pid/803972/1/9)やリギョル『照闇の燈』(明治30年2月 https://dl.ndl.go.jp/pid/824558/1/8)といったあたりになるようです。更に、現在オープンアクセス可能な資料としては筑波大学附属図書館宮木文庫蔵『小學日本地理卷之1』(明治29年9月訂正再販 https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B11/B1108489/1.pdf)まで遡れる状況です。

少し後の用例である『通俗養蚕鑑』(明治32年4月 https://dl.ndl.go.jp/pid/841152/1/5)を入手したので、自序のカラー画像を掲げておきます。

河原次郎『通俗養蚕鑑』(明治32年、発行所:十文字商会、印刷所:国光社印刷所)自序より
仮称国光社二号「晩稼流」仮名

『聚珍録』第二篇の326-328ページに掲げられている図157は東書文庫蔵『尋常小学国語読本』巻八http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83528他で*5、329-330ページに掲げられている図158は東書文庫蔵『国民読本 尋常小学校用』巻八http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83593のようです。

現在オープンアクセス可能な資料としては広島大学図書館教科書コレクション画像データベースの『高等小学国語読本 三』(明治34年8月修正5版 https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/160220170131114641等が最も早い用例になります。

一般的な明朝活字の二号サイズという従来からの見方に従うと仮称国光社二号「晩稼流」仮名という呼び名で構わないのですが、「弘道軒四号」活字や「弘道軒五号」活字と併用されていることから、「弘道軒三号」活字サイズであった可能性もありそうです。広大DBに見える『高等小学国語読本 七』明治34年8月修正5版https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/160620170131114630ネット古書店で入手したので、活字サイズと組版を想定してみました。

西澤之助『高等小学国語読本 七』(明治34年修正5版、発行所:国光社、印刷者:河本亀之助)に活字と組版の想定を書き入れ

解説文に使われている「弘道軒四号」活字(6.14mm角)が、文字間四分アキ(一部三分アキ・二分アキの箇所あり)・行間二分アキ(傍線として使われている罫線の厚み分だけ行間増し)で組まれているものと見て間違いないようですから、そこから追っていくと、国光社二号「晩稼流」活字の大きさは、「弘道軒三号」活字(7.44mm角)ではなく、21アメリカン・ポイント(7.38mm角)同等の明朝二号活字サイズと思っていいのでしょう。

図示したページの国光社二号「晩稼流」活字は、基本の文字間四分アキで、一部八分アキ(五号四分アキ)の形で組まれているようです。

板倉雅宣『教科書体変遷史』(朗文堂、2003年初版、2004年第2版)によると、国光社の教科書で使われている印刷文字は、次のような変遷を辿っていたそうです(『教科書体変遷史』20ページ)

明治二八年、國光社「尋常小學讀本」巻二以上にも、築地活版製造所の明朝体の活字が使用されたが、同年十一月一五日発行「訂正尋常小學讀本」になると、すべて手書きの木版にかわっている。

明治三一年(一八九八)一〇月の文部省告示で、活字の書体・大きさ等が規制されたあとの、明治三二年一〇月二二日國光社発行「尋常小學讀本」(ママ)巻五以上には、独自に開発した吉田よしだ晩稼ばんかの書によるといわれる楷書体の活字を採用している。

『教科書体変遷史』の当該ページに添えられている3点の図版に対するキャプションは、「[右]明朝体活字「尋常小學讀本」巻七 明治28年2月18日・「[中]整版「尋常小學讀本」巻七 明治28年11月15日。」「[左]晩稼流 楷書体活字「尋常小學國語讀本」(ママ)巻六 明治32年10月22日。」となっています。

掲載図版を見る限り『尋常小學讀本』巻七http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83412 または http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83390明朝体漢字活字と二号太仮名の組み合わせとなっており、また明治32年刊『尋常小學讀本』巻六http://www.tosho-bunko.jp/opac/Details/83479の掲載図版は漢字カタカナ交りの箇所ですが、二号晩稼流活字のようです。

牧治三郎は「明治34年晩稼流活字体を売出したのが、京橋築地2丁目の国光社だった」と書いていましたが、明治34年というのは『東京名物志』が国光社印刷所について「近來新製せし晩稼流字體の二號活字は東洋無比の上出來にて摸倣者多し尚本所は國光社専屬なれど一般の需に應ず」と紹介した年でしたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/900923/1/141

国光社「晩稼流」二号楷書活字の自社工場での使用開始は明治32年だったが一般販売を開始したのが34年だった、ということになるのでしょうか。

国光社三号「晩稼流」仮名の不在

先ほど、『聚珍録』第三篇643ページに築地活文舎による三号太仮名が「実は曩に掲げた晩稼流の三号仮名と同じもの」と書かれていると記しましたが、国光社の三号仮名用例は「曩に掲げ」られていません。仮称国光社三号「晩稼流」仮名の用例として『聚珍録』に掲げられているのは、第三篇652ページの図4-282(育英舎編輯所『尋常小学修身教本』巻一教員用〔明治34年8月、発行兼印刷者阪上半七〕46ページ)と同653ページ図4-283(『図按』第18号〔明治36年1月、印刷所国光社印刷部〕奥付 https://dl.ndl.go.jp/pid/3556575)になります。

国会図書館デジタルコレクションの公開資料で見る限り、次の通り、明治35年から41年の期間に三号平仮名を用いた国光社関連の印刷物に築地活文舎による三号太仮名と同じ活字は使われていないようです。

『図按』第18号(明治36年1月)奥付の広告は、かなり特殊な事例だったのではないでしょうか。

牧が「種類は教科書専用だったので、二号と三号活字が主体で種類はすくなかったが」等と記していたためでしょう、『聚珍録』では国光社「晩稼流」活字の仮名にも二号と三号が存在していたものと想定されていますが、国光社には独自書風の三号仮名活字が備わっていなかったと考えた方がいいように思います。

三島宇一郎の弘文堂による築地活文舎三号太仮名の使用

国光社を離れて阪上半七を手掛かりにNDL全文検索を試みたことで、育英舎「少年智嚢」シリーズという重要な手掛かりが見つかりました。

この『少年智嚢 歴史篇』のように奥付欄外に右横書きで「印刷所弘文堂」と記されているケースを洗い出すためキーワード「堂文弘」によってNDL全文検索を試みたところ、「印刷者東京市神田区表神保町二番地三島宇一郎、印刷所神田区表神保町二番地弘文堂」による築地活文舎三号太仮名の用例が、次の通り見つかりました。

更に印刷者「三島宇一郎」で検索し直し、弘文堂の活字をざっと見ていったところ、次のような傾向が見えました。

明治30年頃までは、五号活字が築地体前期五号、四号活字が印刷局四号だったようです(『中学』https://dl.ndl.go.jp/pid/1546241/1/50明治32年豊前志』あたりから四号活字が印刷局四号と築地体後期四号の「乱雑混植」となっていったようでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/766770/1/143、明治33年『教訓俚歌集』までには四号活字が概ね築地体後期四号に入れ替わっているようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/755138/1/70

この明治33年『教訓俚歌集』では三号平仮名活字も使われていて、築地活文舎三号太仮名であるためhttps://dl.ndl.go.jp/pid/755138/1/33、現時点で見つかっている最初期の実用例ということになります。

三島は遅くとも明治26年までには印刷業を始めているのですが(『少年子』https://dl.ndl.go.jp/pid/1565622/1/2、(東京)活版印刷同業組合への加入は明治35年8月のことだったようです(『印刷雑誌https://dl.ndl.go.jp/pid/1499051/1/14

引き続き国会図書館デジタルコレクション公開資料から、三島宇一郎の弘文堂による三号平仮名活字を含むものを見ていきます。

どうやら三島宇一郎の弘文堂による築地活文舎三号太仮名の使用は、遅くとも明治33年に始まり、明治36年または37年で終わっているようです。更に、ここまで挙げてきた用例のうち『少年智嚢 歴史篇』以外は見出し活字としての使用で、本文を三号活字で組んでいた『少年智嚢 歴史篇』では下図のように平仮名が少なくとも2種類の活字で組まれている状態でしたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1733959/1/5

国会図書館デジタルコレクション、佐藤小吉『少年智嚢 歴史篇』冒頭に2種類出現している「て」活字に○印を追記

三島宇一郎の弘文堂は、築地活文舎の三号太仮名を、購入していたのでしょうか、活文舎から譲り受けていたのでしょうか。

先ほど記したように、村山駒之助遁走後の活文舎は、大倉佐吉が引き受けていて、少なくとも明治35年までは継続活動していたものと思われます。

大倉佐吉が築地活文舎三号太仮名を供給していたので、弘文堂では佐藤小吉『少年智嚢 歴史篇』本文を含めて明治33年から36年頃までは購入して使うことができたが、大倉佐吉が明治35-36年頃に廃業してしまったため、以後弘文堂では築地活文舎三号太仮名が使われることが無かった、――という状態であったと見るのが良いように思います。

三島宇一郎の弘文堂以外に築地活文舎三号太仮名を使っていた印刷所があったかどうか、現時点では判りません。

*1:2023年現在では、モリサワフォントとして提供されています:https://www.morisawa.co.jp/fonts/specimen/1855

*2:どのような書体を活字化したいか、その出来栄えはどうかといったことを判断するプロデューサーやディレクターに相当する職能も必要だったと思いますが、そうした役目は活文舎の代表者であったらしい村山が務めたのだろうと考えておきましょう。

*3:『教育報知』35号に掲載された西村茂樹編『新撰百人一首』広告には「多田親愛平山祐之両大人書」と書かれているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3545993/1/11、その『新撰百人一首』緒言では「此編ノ畫圖ハ友人平山祐之氏貯藏スル所ノ安永年間勝川春章ノ彩色畫本ニ據ル」「歌ヲ書スルハ友人多田親愛氏ナリ同氏ハ和様ノ筆道ヲ嗜ミ最モ假名ヲ善クス」とだけ書かれておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/873576/1/11、奥付等でも版下書家の名が明示されていませんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/873576/1/114。そのためでしょう、ADEACアーカイブ跡見学園女子大学図書館「百人一首コレクション」の『新撰百人一首』を見ても編著者として「西村茂樹編 西阪成一略解 白石千別校閲 多田親愛書」とだけ書かれていますhttps://adeac.jp/adeac-arch/catalog/001-mp000184-200010。緒言で「歌ヲ書スルハ友人多田親愛氏」と限定的に書いているのは、本文の版下を書いたのが平山祐之だったということではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

*4:NDL全文検索の際、「青渊先生」という活字表記が「青淵先生」でも検索可能であるよう適切に読めている箇所の他に、「青洲先生」としてOCR処理されている場合があることに注意

*5:『聚珍録』では『尋常小学国語読本』について東書文庫に刊行年違いの様々な版が蔵されていることが書かれているのですが、掲載図版が具体的にどの版のどの巻なのかが明示されていないように思われます。

盛功合資会社または合資会社盛功社活版製造部のものではないかと思われる「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り初号明朝活字について

2023年12月の関西蚤の市で貴重なピンマーク入り活字を入手された書体賛歌さんhttps://twitter.com/typeface_anthem/status/1730789514292101371から、一部をお譲りいただきました。この場を借りて改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

今回は、そのうちの「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り活字に関する覚書です。

「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り初号明朝活字(ピンマーク正面方向)
「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り初号明朝活字(斜め方向)

浪花活版盛功社と名古屋印刷史

名古屋市東区に、印刷資機材の販売やDTP製版・フィルム出力等を行う株式会社盛功社という会社があります。ウェブサイトの〔会社案内〕によると明治22年(1889)「吉田和兵衛が名古屋市伝馬町七丁目にて浪花活版盛功社支店を設け、活字・印刷機械及び付属品販売店を創業」して以来、130余年にわたって印刷関連事業を営んでこられたそうですhttp://www.seikosha-net.jp/kaisya-annai.html〈2023年12月23日閲覧〉)

明治20年と思われる頃に中川多助および増岡重太郎という人物が大阪市西区京町堀通四丁目廿七番屋敷を拠点として「浪花活版」と「盛功社」という2つの屋号を掲げる活版印刷事業を立ち上げていたのですが(「浪花活版(浪速活版)のピンマーク「梅にS」は盛功社の「S」由来と思い至った結果「NANIWA Ⓢ OSAKA」というピンマークも浪速活版(浪花活版)なのだろうと #NDL全文検索 で推定する話」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/06/11/083355、それからほどなくして名古屋に「浪花活版盛功社支店」が設立されていたのですね。明治22年の段階では大阪の事業所も「浪花活版盛功社」であったのかもしれません。

ちなみにこの「浪花活版盛功社支店」創業前後のことについては名古屋印刷同業組合『名古屋印刷史』(1940)に詳述されておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/96、そこでは「大阪京町堀の盛功社」が「明治20年4月創業の浪花活版製造所の前身」と書かれています。

さて、明治28年刊『商業登記会社全集』https://dl.ndl.go.jp/pid/803675/1/124には浪花活版の項に名古屋支店の記載が無く、明治28年刊『日本全国諸会社役員録』https://dl.ndl.go.jp/pid/780110/1/101明治29年刊『日本全国諸会社役員録』https://dl.ndl.go.jp/pid/780111/1/121には記載があり、支店長が福地喜兵衛、支配人が吉田和兵衛と書かれています。

〔会社案内〕では明治27年(1894)の出来事として「支店を解散して盛功合資会社を設立」と書かれているのですが、例えば明治32年8月の官報に「株式会社浪花活版製造所名古屋支店」の登記事項変更が公告されておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2948122/1/18、また明治33年1月の官報に同32年12月での支店閉鎖が公告されていることhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2948242/1/13、同32年12月19日付『官報』が掲げる盛功合資会社の設立登記公告が明治32年12月12日付であることからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2948231/1/13、実際に「支店を解散して盛功合資会社を設立」したのは明治32年12月だったのでしょう。盛功合資会社を設立した際の代表社員は吉田和兵衛で、福地喜三郎は有限責任社員とされています。喜三郎は喜兵衛の縁者でしょうか。

『名古屋印刷史』によると、盛功合資会社は「明治38年大阪青山進行堂の中部発売元とな」ったようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/97。その後、大正7年(1918)の『日本印刷界』99号掲載広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1517518/1/96から111号掲載広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1517530/1/68までは「浪花活版製造所特約店」という肩書と「青山進行堂特約店」という肩書が併記されています。

大正10年(1921)の島谷政一『活版印刷自由自在』掲載広告には特約店云々の記載はありませんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/961210/1/95

その後、三谷幸吉『印刷料金の実際』掲載広告https://dl.ndl.go.jp/pid/1223351/1/80から、『印刷美術年鑑 昭和11年版』https://dl.ndl.go.jp/pid/1684147/1/230や『印刷雑誌』20巻1号https://dl.ndl.go.jp/pid/3341151/1/77あたりまでは「大阪青山進行堂特約販売店」や「大阪青山進行堂名古屋代理店」を名乗っています(「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」https://uakira.hateblo.jp/entry/2023/07/09/001453

〔会社案内〕では、大正11年(1922)に「活字鋳造部を設立、自家鋳造を開始」とされており、『名古屋印刷史』にも同年「自家鋳造部を開設」とあります。大正12年の『愛知県商業名鑑』によると登記簿上の名義は「盛功合資会社」でしたが商標として「盛功社」という名称も登録しておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/950553/1/166、鋳造した活字に「SEIKOUSHA」と刻印していてもおかしくありません。

『名古屋印刷史』に記された、昭和3年(1928)の名古屋博覧会特設「印刷館出品物の概観」には、盛功合資会社の展示について「「Ⓐ活字は盛功社」の白抜き文字も能く利いて居る」と書かれているのですがhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115630/1/175、これは青山進行堂の商標がⒶでありピンマークにもⒶマークを用いた「Ⓐ」や「OSAKA Ⓐ AOYAMA」「青 Ⓐ 活」「大Ⓐ阪 青山進行堂」と同時に「AOYAMA 青 OSAKA」というピンマークが存在していたことをも想起しておくべきところでしょうかhttps://uakira.hateblo.jp/entry/2023/07/09/001453

「大阪青山進行堂名古屋代理店」を名乗っていた名古屋市東区西魚町三丁目の盛功合資会社が、住所と電話番号をそのままに『日本印刷大観』(1938)においては「青山進行堂名古屋支店」と記されている一方でhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1707316/1/100、1940年の月刊『印刷時報』では「大阪青山進行堂名古屋代理店」と名乗っておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1499109/1/62、このあたりの年代の正確な状況はよく判りません。

青山督太郎の大躍進からの青山進行堂廃業に伴う販売網の再編

先日「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」を書いた時点では十分に調べることができていなかったこの時期の事柄を、『官報』の全文検索を通じて、もう少し掘り下げてみます。

昭和12年(1937)3月17日付『官報』に、本店を名古屋市東区東魚町13番地におき「活字ノ鋳造及販売」「前項ニ附帯関連スル一切ノ業務」を目的とする「合資会社盛功社活版製造部」が同年1月1日付で設立されたという登記公告がありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2959542/1/13、盛功合資会社を切り盛りする吉田家の他、有限責任社員の筆頭として大阪市南区長堀橋筋一丁目の青山督太郎の名が掲げられています。

その後、昭和14年(1939)4月6日付『官報』には、盛功合資会社に対しても青山督太郎からの出資が行われた旨が公告されていましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2960167/1/28。同年4月19日付『官報』には、盛功合資会社浜松支店に対しても青山督太郎らからの出資が新たに為された旨が公告されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2960178/1/52

こうして青山進行堂(青山督太郎)との結びつきを深めつつあったように見える盛功社グループですが、合資会社盛功社活版製造部は独立した会社としては短命に終わったようで、昭和14年(1939)5月24日付『官報』に合資会社盛功社活版製造部の解散及清算人選任の公告が出されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2960206/1/26

昭和15年5月10日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2960498/1/22https://dl.ndl.go.jp/pid/2960498/1/27と同11日付『官報』https://dl.ndl.go.jp/pid/2960499/1/18に、盛功合資会社岐阜支店設置の公告が出されています。11日付の方が詳しく書かれているのですが、残念ながら「無限責任八名」に青山が含まれているかどうかは判りません。

さて、「大阪青山進行堂のピンマーク6種と活字書体3種(付:青山督太郎の略歴と生没年――没年の典拠情報求む――)」には記しませんでしたが、第二次『印刷雑誌』25巻10号(昭和17年〔1942〕10月)雑報欄で大阪青山進行堂の廃業が伝えられる半年前の出来事として、同3号(同年3月)の雑報欄に、次のような記載がありましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3341208/1/51

 尚ほ存続経営の下関支店、京城支店、名古屋盛功合資会社ではそれ〴〵左記の活字類を販売することゝなつたが、準備のため約一ヶ月を要しその後、一般の需要に応ずる由。
行書活字、草書活字、隷書活字、宋朝活字、丸形ゴシツク活字、南海堂行書活字は
 下関町赤間町 青山進行堂下関活版製造所
諺文活字は
 朝鮮京城府南米倉町 青山進行堂京城支店
ポイント活字、初号太丸活字、欧文活字(初号以下)
花形活字(初号以下)は
 名古屋市東区西魚町三丁目 盛功合資会社

これは、当時青山進行堂が販売していた各種活字書体の全国販売を、3社で分担していく、その割り振りの告知と考えて良いでしょう。盛功合資会社の割り当てである「ポイント活字」というのは、明朝系および角ゴシック系の「基本書体」という意味合いと考えられます。大阪の青山進行堂が全国に向けて販売していた活字のうち、――

  • 基本書体と初号太丸活字、そして欧文活字を(名古屋)盛功合資会社が担う
  • 書写系書体(丸形ゴシック活字含む)を青山進行堂下関活版製造所が担う
  • ハングル活字を青山進行堂京城支店が担う

――という役割分担が定められたということだったのでしょう。

「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク使用時期の上限と下限を想定

まずは、大正11年(1922)に自家鋳造を開始したとされ、昭和3年(1928)の名古屋博覧会特設印刷館に「Ⓐ活字は盛功社」という看板を掲げていた、おそらく青山督太郎からの資金提供は受けていない時期(昭和12年まで)の盛功合資会社が「NAGOYA Ⓐ SEIKOUSHA」や「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」というピンマークで活字の鋳造・販売を手掛けるようになっていて、自動鋳造機に切り替えるまでの期間にこれらピンマーク入り活字が生産されていたものと考えておきましょう。

そして、昭和戦前期の状況を踏まえると、自動鋳造機への切り替えの時期は、次のどこかの時期ではないかと予想します。

  1. 昭和12年(1937)~同14年、青山督太郎の出資も受けて設立された「合資会社盛功社活版製造部」の頃
  2. 昭和14年~同17年、青山督太郎による増資を受け入れた盛功合資会社(青山進行堂名古屋支店扱い)の頃
  3. 昭和17年以降、青山進行堂製ポイント活字(基本書体)の全国販売店となった「盛功合資会社」の頃

ライセンス的には昭和17年以後に「青山進行堂製活字を名古屋盛功社が鋳造・販売」という意味で「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」と大々的に喧伝するのが自然と思うのですが、時期的なことと販売規模を考えるとピンマークを刻印しない自動鋳造機を導入する格好の頃合いと予想されます。

現時点では、「NAGOYA 青 SEIKOUSHA」ピンマーク入り活字は大正11年から昭和14年または17年までの間に鋳造されたものではないかと考えておきたいと思います。

〔会社案内〕には昭和21年(1946)の出来事として「戦災により焼失した会社の復興に取り組み、覚王山通りにて盛功社として開業、東海地区にて戦後最初に活字鋳造を開始」とも書かれています。この頃に使われた活字鋳造機が、ピンマークを刻印するタイプだったか、そうでなかったか、そのあたり明確には判りません。

三谷幸吉が最初に勤めた印刷所である福井の東洋印刷合資会社についての手がかりが掴めない話

2010年10月に「三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所を推定する」作業をやってみた段階では三谷の著作『直ぐ役に立つ植字能率増進法』(1935、印刷改造社)に「最初に勤めた福井の印刷所」についての言及があるのではないかと考えていたものの見当たらず(2010年12月30日付:「共同印刷での三谷幸吉「さんづけ」の理由」https://uakira.hateblo.jp/entry/20101230、2011年になってから、『日本印刷界』大正9 年10月号に掲載された「活版界に発明考案を推奨す」と題する記事に、自分が最初に勤めたのは「福井新聞の今の最一つ前の福井新聞の前身である東洋印刷合資会社」であると三谷自身が記していたと判りました(2011年2月18日付:「三谷幸吉は「おうちょく」バカだったんだろうか」https://uakira.hateblo.jp/entry/20110218

東洋印刷というと検索ヒットするのは大阪の同名の印刷会社のことばかりなのですが、福井の東洋印刷合資会社についてNDL全文検索では唯一と思われる事例が、明治32年の『北陸区実業大会報告 第3回』奥付になります。発行兼印刷者として東洋印刷の名がありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/801657/1/119、代表者が福井市足羽上町九十九番地の(業務担当社員)土肥平三郎となっています。土肥について、『日本現今人名辞典』各版には「肥料米穀石油販売商を業とし土木請負を兼ね福井貨物運送株式会社支配人たり」とありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780082/1/167、東洋印刷との関係を記したものは見えません。

とはいえ東洋印刷合資会社の所在地として前掲書奥付に記されている「福井市照手上町百五番地ノ一」は、古くは「内国通運福井会社」という社名で土肥が社を代表しておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/803773/1/63、後に「内国通運福井支店」となった運送会社の所在地でしたからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/805283/1/4、全くの無関係では無さそうです。

福井新聞の変遷については田川雄一「明治期福井の地方新聞の教材化」(『福井県文書館研究紀要18』2021年3月 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2020bulletin/images/tagawa.pdfに各種資料から取りまとめた資料があり、次のようなものだったようです(78頁〈表1「福井新聞」の変遷〉より)。

新聞名 刊行期間 発起人・社主
福井新聞(第1次)(1887年「福井新報」と改題) 1881年(明治15)10月16日~1889年(明治22)9月29日 第九十二国立銀行重役 旧福井藩士ら
福井新聞(第2次) 1889年(明治22)10月10日~1891年(明治24)6月30日 南越倶楽部武生派 中島又五郎
福井新聞(第3次)(1897年「大躍起」と改題) 1896年(明治29)~1901年(明治34) 土生彰
福井新聞(第4次) 1899年(明治32)8月28日~ 三田村甚三郎(憲政本党

三谷が「福井新聞の今の最一つ前の福井新聞」というのは、第3次福井新聞のことと思っていいのでしょうか。

第2次福井新聞に関して、池内啓「一地方新聞の軌跡 ―第2次福井新聞の1年9か月と南越倶楽部―」(『福井県文書館研究紀要3』2006年3月 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2005bulletin/images/2005fpakiyou-ikeuchi.pdfという参考資料があり、第3次福井新聞の周辺については、須永金三郎・山崎有明福井県政界今昔談』に「党人機関誌の興廃」(https://dl.ndl.go.jp/pid/783661/1/79)に至るあれこれが書かれているのですが、双方に出てくる人名をキーワードにしてNDL全文検索を試みても、いまひとつ手がかりが掴めません。

どういう掘り方をしてみたらいいんだろう……

明治大正期北越の活版印刷事情について小泉發治(福井・金沢)にかかわることを調べ直してみたら金澤寶文堂の㋩ピンマークの思いがけない由来が見えてきた話

金沢「寶文堂活版製造所」製活字のピンマーク㋩は「ハ・ツ」の意匠だった模様

先週、2023年5月13日付の記事「金沢でピンマーク入り活字を鋳造販売していた宝文堂のことを #NDL全文検索 で調べてみて創業期には辿りつけないでいる話」へ、立野竜一氏からコメントを頂戴しました。筆者が「〈頭が9時の位置にあるウロボロス〉風の○にハの字のマーク」と記していた宝文堂のピンマークについて、これは往時の代表者「小泉發治」の「ハツ」ではないか、というご指摘です。

金沢宝文堂の㋩ピンマーク入り初号明朝活字(ピンマーク正面方向)
金沢宝文堂の㋩ピンマーク入り初号明朝活字(ピンマーク斜め方向)

なるほど、「9時の位置」で強く筆を打ち込み時計回りにぐるりと描いた円は意匠化された「ツ(つ)」の字であったわけですね。

独力で気がつきたかった!

さて、立野氏のコメントで言及頂いたように「小泉發治」については2010年10月30日付の記事「三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所を推定する」https://uakira.hateblo.jp/entry/20101030で触れていました。当時の「国会図書館近代デジタルライブラリー」の公開資料で書籍の出版・印刷者を虱潰しに見ていくことで、三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所を推定できるのではないかと思い立って調べてみた記録です。近デジローラー作戦の有効性を試してみたいという動機でやってみたものだったのですが、三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所についての結論は得られませんでした*1

小泉發治の名は、近デジローラー作戦を通じて、明治30年代半ばに福井で活動していた「小品岡印刷」の関係者として拾い出したものです。

なお、2019年に公開された「デジタルアーカイブ福井」https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/経由で、福井の出版業者・書店を網羅という観点については柳沢芙美子「福井県域の出版業者・書店について ―江戸時代後半から明治前期の概況―」(『福井県文書館研究紀要5』2008年3月 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2007bulletin/images/P051-066yanagisawa.pdfという先行研究があったことを知りました。

小泉發治と活版印刷のかかわり(1)福井「昇文堂」~「小品岡印刷」時代

先ほど記したように、小泉發治の名は「小品岡印刷」関係の奥付情報に出現していました。小品岡印刷合名会社は、元々は品川太右衛門と岡崎左喜介による「品岡印刷合名会社」として活動していたものです。この状況は、2010年の時点では近デジローラーによる奥付情報から推定していたものですが、今回、『福井市商工人物史』(1939年)の「岡崎左喜介氏」の項に次のような記述があったと判りました。一部は柳沢芙美子「福井県域の出版業者・書店について」にも引用されていますが、全4段落のうち中間2段落を引いておきますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1034423/1/67

同家の先々代左喜介氏は、小學校施設の制度實施に伴ひ、明治二年五月市内京町に書籍筆墨商を開業し、爾來盛業を續けて來たが、文化の發展に伴れて將來印刷事業の有望なるのを見越して明治十一年家業を愛婿に任せ、單身上京して印刷局の前身たる紙幣局に奉職し、年餘にして刷版部主補を命ぜられ只管印刷技術を研究鍊磨し皈郷、書籍商を營む傍ら印刷業創始に全力を注いだが、企圖中ばにして永眠した。
先代左喜介氏は嚴父の遺業完成の爲め印刷界に身を投じ、當時福井市印刷業の草分とも云ふべき有隣館活版所を買収して、同業先代品川太右衛門氏と共同經營にて印刷業に從事した。その熱意と努力に依つて業務は多忙を來すに至り、後小泉昇文堂を合併して小品岡印刷合名會社と改稱し、相當大規模に經營してゐたが明治四十年同社を解散、新たに現在の岡崎印刷所を創業して健實な營業方針と、優秀な技術とを以て江湖の信用を厚くし、今日の盛運の基礎を築いた。

引用部分の第2段落について再確認しておきたいことがあります。「振藻堂」という書林であった岡崎左喜介がhttps://dl.ndl.go.jp/pid/867272/1/102、同じく「益志堂」という書林であった品川為吉(品川太右衛門)とhttps://dl.ndl.go.jp/pid/826953/1/91https://dl.ndl.go.jp/pid/792668/1/158、共同で「有隣館活版所を買収」しhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780108/1/126、明治27-28年頃に品岡印刷合名会社へと名を改めた。――そういう状況であったことは間違いないところなのだと思われます。

少なくともNDL全文検索で見つかる資料としては明治22年福井県管内新旧市町村名録』(発行者兼印刷者品川太右衛門・印刷所有隣館 https://dl.ndl.go.jp/pid/764740/1/19明治23年『商法施行条例』(発行者兼印刷者品川太右衛門・印刷所有隣館 https://dl.ndl.go.jp/pid/793121/1/7明治23年福井県現行衛生法規』(発行者兼印刷者岡崎左喜介・印刷所有隣館 https://dl.ndl.go.jp/pid/797151/1/173https://dl.ndl.go.jp/pid/797151/1/174などより古い有隣館の資料が見当たらないことから、差し当たり、岡崎・品川による共同買収は明治21-22年頃のことと見ておきます。佐佳枝中町で出版事業を行っている品川は、明治17年頃まで為吉だった名をhttps://dl.ndl.go.jp/pid/826953/1/91明治22年までの間に太右衛門へと変更したようですからhttps://dl.ndl.go.jp/pid/792668/1/158、「初代品川太右衛門」は、活版印刷も自ら行う印刷出版書林となったことを契機に品川為吉から太右衛門へと商売上の名を改めたものと思われます。

また、昭和10年『現代出版業大鑑』に書かれている福井「品川書店」品川太右衛門の略歴によると「明治15年10月17日生 福井市佐佳枝仲町」「小学校卒業。明治40年現在の品川書店を創立し以来一般新刊書籍雑誌の販売を営み今日に至る」「現に福井県書籍雑誌商組合組長の要職にあり」ということですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1052718/1/432。柳沢芙美子「福井県域の出版業者・書店について」で示されているように、佐佳枝仲町において品川為吉の名で出版を始めたのが明治10年代半ばらしいことから明治16年『小学試業法心得』https://dl.ndl.go.jp/pid/810296/1/65明治15年生の品川太右衛門は2代目ということになるのでしょう。

小品岡印刷合名會社を解散して明治40年頃に「先代左喜介」が興したという印刷事業者ですが、『福井繁盛記』(明治42年)掲載広告https://dl.ndl.go.jp/pid/764750/1/83や、二水庵萍洲『地方新聞外交記者』奥付https://dl.ndl.go.jp/pid/897425/1/51などの表記から、少なくとも当初の名称としては「岡崎活版所」が正しいものと思われます。また、NDL全文検索で確認したところ、明治38年1月4日付『官報』により「小品岡印刷合名会社ハ明治三十七年十二月二十七日総社員ノ同意ニ依リ解散セリ」と公告されていることが判りましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2949781/1/19

明治30年代末に品川太右衛門の代替わり問題が生じ、品川が書店専業、岡崎が印刷専業、小泉が活版材料商を志すという形で小品岡印刷を解散したのではないかと想像するのですが、実際のところはよく判りません。

ともあれ、小泉發治視点でまとめると、小泉は昇文堂の屋号で(おそらく活版印刷関連事業を)独立営業していたところから明治33年頃に品岡印刷との合併を選び(明治33年『九頭竜川筋出水予報調査』印刷者:小泉發治・印刷所:小品岡印刷合名会社 https://dl.ndl.go.jp/pid/831635/1/26、5年ほど後に解散したらしいと判りました。

残念ながら、小泉昇文堂の手がかりは掴めていません。

国会図書館の資料では、明治40年福井県政界今昔談』の奥付に印刷者として名を記したのを最後にhttps://dl.ndl.go.jp/pid/783661/1/83、福井の印刷業界から小泉發治の姿が見えなくなります。

小泉發治と活版印刷のかかわり(2)金沢「寶文堂」時代

『石川県印刷史』「活字の鋳造販売」の項には、明治前半から活字販売を行っていた事業者として、小島致将(経業堂活版製造所)、沓木広文堂、そして経業堂から独立した宇野孝太郎(活文堂)の名が記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3444797/1/75。更に「活字販売が、業界における欠くことのできない分担をもつようになったのは、大正中期ごろとみられる。それは、活字販売を主とする活版材料屋として小泉宝文堂がこのころ金沢市長町七番丁に開業しているからである。」と書かれていました。

横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵 寶文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六號明朝活字書體見本』表紙より

さて、2010年の記事にも記した通り、『全国工場通覧 昭和7年7月版』では「小泉寶文堂」として、金沢市長町、創業明治43年、活字販売業、代表者:小泉宗治となっていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1212137/1/369。また、『紳士興信録 昭和8年版』小泉發治の項には寶文堂、活字製造業、金沢市長町四番丁七二とある一方でhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1174557/1/1052、『日本商工信用録 昭和7年度』には金沢市の「活版・石版」業者として長町四番丁の寶文堂の堂主が岡島政次であるらしく書かれていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1145535/1/688

まずは小泉寶文堂の創業期と見られる明治末から大正半ば頃までの金沢の状況を、もう少し探ってみたいと思います。

明治35年の『金沢新繁昌記 : 一名金沢営業案内』によると、小島致將(經業堂)、沓木政勝(廣文堂)、宇野孝太郎(活文堂)の3者とも、金沢における活版印刷業者として名を連ねていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/995197/1/94大正4年の『大家叢覧』にも3社の名が見えていますが、經業堂は「印刷業」、活文堂は「活版石板印刷」で、廣文堂沓木政勝だけが「活版製造所」を名乗っていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/954627/1/293

明治10年『対数表』奥付で「活版製造所經業堂」という屋号を名乗りhttps://dl.ndl.go.jp/pid/826548/1/67、その後も多くの書籍印刷等を手がけていた小島致將の經業堂ですが、明治42年までのどこかの段階で代替わりして下村二平の「下村印刷工場經業堂」となりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/802718/1/792、また活字は販売しなくなっていたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/975065/1/112

沓木政勝の廣文堂は、先ほどの2冊の他、明治末の『商工重宝 第6版』でも営業品目として「活版製造・器械及附属品販売」と掲げているほかhttps://dl.ndl.go.jp/pid/803693/1/421大正3年『かなさは』にも「印刷活版業」と「活字鋳造」を手がける事業者として掲載されておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/948003/1/32昭和4年『商工信用録』でも「活字鋳造」業とされているなどhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1688408/1/557、この期間も活字の鋳造販売を盛んに手掛けていたようです。

宇野孝太郎の活文堂は明治20年代半ばに活動を始めたようでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/894423/1/27、明治末から大正初めにも宇野の活文堂として書籍や雑誌の印刷を多く手がけていたようですが、大正3年『かなさは』の記載によるとこの頃までには「印刷活版業」専業となっていたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/948003/1/32

明治40年代から大正9年までに発行された『金沢市統計書』では工業統計の項目として「活字」が独立に集計されていますから、各年版から「活字」の生産量・売上等の推移を一覧にしてみました。残念ながら大正7年金沢市統計は国会図書館に見当たりません。

年度数量価額戸数職工依拠資料
明治38(1905)1,600,0002,04026明治41年https://dl.ndl.go.jp/pid/806755/1/80
明治39(1906)1,605,0002,24726
明治40(1907)1,600,0002,08026
明治41(1908)1,602,0002,08326
明治42(1909)1,627,0002,11537明治43年https://dl.ndl.go.jp/pid/806757/1/79
明治43(1910)1,213,0001,57723
明治44(1911)「?」1,60022明治45・大正元年https://dl.ndl.go.jp/pid/975063/1/76
明治45(1912)1,225,0001,71522
大正2(1913)1,225,0001,71522大正3年https://dl.ndl.go.jp/pid/975065/1/98
大正3(1914)3,830,0005,36225
大正4(1915)3,100,0004,34025大正6年https://dl.ndl.go.jp/pid/975068/1/103
大正5(1916)2,600,0004,16025
大正6(1917)2,600,0004,42025
大正8(1918)2,300,0005,75025大正8年https://dl.ndl.go.jp/pid/975069/1/111
大正9(1919)2,250,0006,75025大正9年https://dl.ndl.go.jp/pid/975070/1/65

『石川県印刷史』「活字の鋳造販売」が記す小泉寶文堂以前の3社の概況と『金沢市統計書』の記録に基づく推測として、①明治41年までの期間に沓木廣文堂と他1社が活字鋳造販売を手掛けており、②明治42年に新規事業者が参入、③明治43年には「他1社」が金沢の活字鋳造販売市場から退出し、沓木廣文堂と新規参入事業者が金沢の活字需要を支えていた。――そのように言えそうだと思われます。

『大日本商工録 昭和5年版』では、石川県の「活字」製造業者として、沓木廣文堂と小泉發治の名が並べられていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1136923/1/1626

商工省編『全国工場通覧』 「昭和9年9月版」https://dl.ndl.go.jp/pid/1212170/1/313や「昭和10年版 機械・瓦斯電気篇」https://dl.ndl.go.jp/pid/1036810/1/44、「昭和11年版」https://dl.ndl.go.jp/pid/8312075/1/387、「昭和12年版」https://dl.ndl.go.jp/pid/8312076/1/418、「昭和13年版」https://dl.ndl.go.jp/pid/8312077/1/441では、沓木廣文堂(代表・沓木晋)と小泉活版製造所(創業明治45年11月、代表・小泉發治)の2社が石川県の活字製造業者として掲げられています。

小泉發治の活版製造所は、いつ頃から金沢で活動を始めていたのでしょうか。

2023年5月13日付の記事「金沢でピンマーク入り活字を鋳造販売していた宝文堂のことを #NDL全文検索 で調べてみて創業期には辿りつけないでいる話」に記した通り、横浜市歴史博物館所蔵小宮山博史文庫の宝文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六号明朝活字書体見本』の表紙見返裏に「新製連続数字発売」という、「金沢市長町四番丁七二番地 岡島活版製造所」名義の広告があり、そこに小泉寶文堂のものと同じ商標㋩マークが示されていることや、他の資料状況から、5月の時点では次のように考えていました。

  • 明治43年、岡島政次が金沢市長町四番丁72に岡島活版製造所を創業
  • 大正5年、岡島政次、屋号を寶文堂活版製造所(寶文堂活版製造販売所)に変更
  • 昭和ヒトケタ、寶文堂活版製造所の代表者が小泉發治に
  • 昭和14年、小泉の逝去に伴い組合が資産(と屋号)を買収し株式会社寶文堂発足
横浜市歴史博物館小宮山博史文庫蔵 寶文堂活版製造販売所『大正五年三月改正 六號明朝活字書體見本』表紙見返裏「新製連続数字発売」広告より「㋩岡島活版製造所㋩」」

立野竜一氏から頂戴したコメントの通り、大正5年「岡島活版製造所」名義の活字見本に見える「㋩マーク」は「ハツ」図案である可能性が高い。とすると、明治42年あるいは43年に金沢の活字市場に新規参入した時点で小泉發治が主体となっており、そこから暖簾分けあるいは軒貸しのような形で大正5年に岡島活版が創業されようとしていた、――そのような状況であった可能性もあり得ることでしょう。

岡島初次郎政次の寶文堂と小泉發治の寶文堂

大正15年版の『全国印刷業者名鑑』を見ると、石川県の「活字」商として沓木と小泉の名が掲載されており、金沢市長町四番丁72、小泉發治の寶文堂は創立明治42年https://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/285金沢市高岡町薮内423、沓木晋の廣文堂が創立明治10年とありますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970398/1/284

大正11年版『全国印刷業者名鑑』には両者の名が見えないのですが、代わりに15年版に掲載されていない名が見えています。長町四番丁で活版・石版印刷を手掛ける岡島初次郎の寶文堂ですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970397/1/231

少し回り道をします。

明治40年10月28日付『官報』に「北陸印刷株式会社」の設立登記が公告されましたhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2950646/1/14。曰く「本店金沢市袋町三十番地 支店富山県富山市東四十物町二番地 目的石版活版印刷製本及活字鋳造業 設立明治四十年十月五日」「取締役ノ氏名住所 金沢市袋町三十番地 前田式部、同市味噌蔵町下中丁八番地 藤本純吉、同市青草町二十三番地 松本又吉」「監査役ノ氏名住所 金沢市彦三二番丁三十七番地 宮崎次三郎」。

取締役の前田式部は金沢石版合資会社の主任を務めた人物のようでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/995198/1/62、『石川県印刷史』によれば明治25年の段階で前田玉桐堂という印刷所を開設していたようですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3444797/1/60。銅石版の玉桐堂前田榮次郎https://dl.ndl.go.jp/pid/995197/1/94明治32年に金沢石版合資会社を設立した前田榮次郎https://dl.ndl.go.jp/pid/2948167/1/14と、この前田式部が同一人物なのかどうかを確認できるような資料にはまだ行き当たっていません。

藤本純吉は金沢医学界の重鎮だった人物ですhttps://dl.ndl.go.jp/pid/933863/1/735

松本又吉は明治40年7月1日付で設立された金沢自転車株式会社の取締役も務めるなど実業家を志していたようでhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2950554/1/14明治41年11月14日付『官報』で北陸印刷取締役辞任が公告されhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2950965/1/17明治42年4月9日付で設立された合名会社丸二元市社に出資しhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2951099/1/20大正4年には合資会社大二松本運送部を設立して代表社員となっていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2952912/1/15

さて、明治42年4月17日付『官報』で富山支店廃止が公告されるなどhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2951090/1/17、北陸印刷株式会社の先行きが怪しくなっていく中、明治42年11月30日付『官報』に見られる通り、臨時株主総会による監査役の入れ替えで「金沢市茨木町七番地 岡島初次郎」らが就任していますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2951282/1/20。テコ入れということだったのでしょうが、明治44年1月24日付『官報』にて「北陸印刷株式会社ハ明治43年9月25日解散セリ」と公告され、清算人の一人として岡島初次郎の名が記されていますhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2951629/1/20

大正11年『帝国信用録 15版』には、「岡島初次郎」の名が金沢市長町四番丁の活字製造業者として掲載されておりhttps://dl.ndl.go.jp/pid/956863/1/881、小泉發治の名は見えませんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/956863/1/885大正13年版『帝国信用録 17版』でも「岡島初次郎」の名はありhttps://dl.ndl.go.jp/pid/956865/1/822、小泉發治の名は無しhttps://dl.ndl.go.jp/pid/956865/1/826

こうして更に新しく見えてきた状況と、立野氏から先日の記事に頂戴したコメントによる、昭和3年『金沢商工人名録』には小泉發治の名が記されているということを総合すると、「ハツ印の寶文堂」は次のような履歴を辿っていたのではないでしょうか。

  • 明治43年、北陸印刷株式会社の清算を終えた岡島初次郎政次が金沢市長町四番丁72に岡島活版製造所を創業(岡島初次郎のハツ印)
  • 大正5年(?)、岡島初次郎政次、屋号を寶文堂活版製造所(寶文堂活版製造販売所)に変更(ハツ印)
  • 大正12年以降昭和3年までの間、寶文堂活版製造所の代表者が小泉發治に(ハツ印)
  • 昭和14年、小泉の逝去に伴い組合が資産(と屋号)を買収し株式会社寶文堂発足(ハツ印)

残念ながら、福井で小品岡印刷に参画していた小泉發治と金沢の寶文堂を引き継いだ小泉發治が同一人物なのか同姓同名の別人なのか、そのあたりを判断する手掛かりは、まだ見つけることが出来ていません。

*1:三谷幸吉が最初に勤めた福井の印刷所については、「共同印刷での三谷幸吉「さんづけ」の理由」https://uakira.hateblo.jp/entry/20101230 を経て「三谷幸吉は「おうちょく」バカだったんだろうか」https://uakira.hateblo.jp/entry/20110218 によって判明しています。