牧野淳一郎氏による伊勢田哲治氏の論の紹介、に対する違和感

牧野淳一郎氏が、次のような主張をしていました。

もちろん、伊勢田さんみたいな、科学と非科学に線引きできるはず、という立場をとるなら、なんかあることになるけど。
http://twitter.com/jun_makino/status/546180929253687296

強調は私が施しました。このつぶやきで牧野氏は、科学哲学者の伊勢田哲治氏が、科学と非科学に線引きできるという立場であるのだ、と発言しています。
この後に牧野氏は、質問に応えて、伊勢田氏がそういう立場である事が判る文献として、科学哲学における線引き問題の現代的展開【PDF】を紹介しています。つまり牧野氏は、伊勢田氏の文献を参照し紹介しつつ、伊勢田氏の立場が科学と非科学に線引きできるというものであると主張しているのです。
ところが、伊勢田氏はそもそも、科学と非科学に線引きが出来るという立場などでは無いと私は考えます。
牧野氏自身がリンクしている伊勢田氏の文献を見ても解りますが、まず伊勢田氏が言っているのは、科学哲学における線引き問題(境界設定問題)について、ラウダンが言うようにその問題がつまらないという立場には反対であり、依然として境界設定問題そのものは重要なものである、という事です。

私は従来の線引き問題が問題の設定を誤っているという点ではラウダンに同意するが、線引き問題がつまらない問題であるとするラウダンの立場には与しない。

これは、ラウダンのような強い立場を採らない、という意見の表明であって、それが即、科学と非科学に線引きは出来るという主張にはならない、というのは、少し考えれば判る事です。実際に伊勢田氏は、私は従来の線引き問題が問題の設定を誤っているという点ではラウダンに同意すると言っている訳です。
そして後の方で伊勢田氏は、

しかし同時に、ポパー流の線引き問題の設定は、いくつかの点で問題がある。まず、「線引き(demarcation)」という言葉が示すように、線引き問題は科学と非科学ないし疑似科学との間の明確な境界を設定することを目的としてきた。これはとりもなおさず科学であることの明確な必要十分条件を与えるということであろう。しかしながら、ラウダンも言うとおり、そうした方向で線引き問題が解決できる見込みは絶望的である

明確に、このように主張しています。すなわち、科学と非科学(あるいは疑似科学)との間に線を引く事は出来ないであろう、とはっきり言っているのです。またその少し後には、

このような考え方によれば科学と非科学の間に大きなグレイゾーンを残すことになるであろうが、明確に科学的な分野や明確に非科学的な分野が存在する可能性を排除することにはならない。つまり、線を引かずに線引き問題に対する解答をあたえる方向で考えるべきではないか。

こう書かれています。線を引かずに線引き問題に対する解答をあたえる方向で考えると、はっきりと主張されているのです。
牧野氏は、この伊勢田氏の文を参考文献として挙げておきながら、なにゆえに、伊勢田さんみたいな、科学と非科学に線引きできるはず、という立場などと紹介したのでしょうか。これではまるで、(伊勢田氏が批判しているような)ポパー流の境界設定基準を伊勢田氏が支持しているかのようではありませんか。伊勢田氏の文をちゃんと読んでいれば、そのように表現される立場を伊勢田氏は採っていない、という事は容易に判るはずです。
これが、以前に参照したが内容は忘れた、というような事なら、まだ理解出来なくも無いですが(もちろん、間違えた理由としては納得しやすいという意味です)、直後に伊勢田氏の文献を、参考になるものであるとして提示しつつこの主張、というのはどういう事なのだろうな、と思った次第です。
伊勢田氏は、『疑似科学と科学の哲学』において、科学と疑似科学の境界設定問題について詳細に論じており、そこでも、科学と疑似科学に線引きは出来ない、という論が展開されている訳です(v2log » わざとに行われた言い換えの例なども参照)。ここまで見てきた事を鑑みれば、牧野氏による伊勢田氏の論の紹介は、かなり不正確で不当と言えるのではないかと思われるのですが、いかがでしょうか。