ことばのくさむら

言叢社の公式ブログです

『神話思考』をめぐって


 

 
● 鶴岡・松村対談『神話思考』をめぐって 
不可能に立ち向かう最たる可能性の学問=神話学
鳥の眼をもった「超リアリストの神話学者」による、実効性のある大著
 

 
◎ 知の体系に対する意義申し立て
鶴岡 「超リアリストの神話学者」。私は松村さんの「神話(学)思考」の魅力を密かにそう思ってきました。三〇年近くの論考を束ねた大著を手にさせて頂き、七〇年―八〇年代に松村さんが神話/宗教学の再興に沸き立っていたアメリカ西海岸に留学されたことが礎だったかと拝察しています。ヨーロッパに出自し「新大陸」へ亡命し移動した頭脳たち、異郷での試行錯誤を発揮した遊撃的な研究者たちの思考と生身にじかに触れられた。潤沢な資本でキリスト教文明の「知」と「信」の再編成者を結集させ、最先端創出の自負がつまったアメリカ。ベルギー生まれのユダヤ人のレヴィ=ストロースが「視線」を創造し「思考」を開花させたのも新大陸だった。松村さんがヨーロッパではなく当時の渦巻くアメリカに行って、同時代的な展開に立ち会われたことが大きいですね。
 けれども重要なことには、そうして礎ともなった二〇世紀欧米研究者による神話「学」の邁進こそが、松村さんに逆説的な覚醒をもたらした。「インド=ヨーロッパのテーマでは論文は書かないし書けない」と告白されておられますが、これは本書の感動的なメッセージの要だと思います。ヨーロッパ/西洋の観念の出自を彼らがインド=ヨーロッパの神話や言語やモノの体系から引き出すとき、それによって同時に二〇世紀には自らの存在を優位化し強化するための方法推進もおこなうことになった。インド=ヨーロッパ語族の神話学、宗教学、言語学、考古学などの学説は、欧米諸国が遭遇した近現代史の時局と深く繋がってもいる。そして松村さんはそれを審判するのではなく、日本の出自という第三の眼を強みに、近代神話学創造の根拠を解き明かしていく。神話内容の分析にあっても、学説のレゾンに必ず切り込む。つまりはこのグローバルな社会に結果している現在までの神話学なる科学・思考をとおして構築されたイデオロギーを直視しようとする。『神話思考』という大きなタイトルはそれをも含意していることでしょう。だから真っ先に外国語に翻訳され評価されるに値する本、リアルな実効性のある大著だと思えます。そこでまずその辺のところを含めて、本書をまとめられた今のお気持ちを伺えますでしょうか?
松村 そうですね、多少回り道になりますが、まず鶴岡さんと私の関係から話を始めるといいと思います。最初のきっかけはマリヤ・ギンブタスの『古ヨーロッパの神々』(言叢杜)の翻訳を鶴岡さんが進めていると聞いたことでした。私はその頃、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)への留学から戻ったばかりで、ギンブタスの授業にも出ていたので関係資料をかなり持っていたんです。つまり分野は違うけど、鶴岡さんと私には共通の関心があると感じたのです。ギンブタスという人はリトアニア生まれでアメリカに移民して来て苦労してハーバードで博士号をとり、流れてUCLAに来た人です。それにそもそもUCLAのインド=ヨーロッパ語族研究自体がアメリカの中で「はぐれ者」だったのかも知れません。新しい知の体系化を模索しようという意欲と多少の金銭的余裕もあったUCLAでは、複数の学問分野を横断する新しいプログラムとして立ち上げられたのです。そしてギンブタスをはじめ、ヨーロッパからの学者を積極的にメンバーに加えていました。ヒッタイト語の専門家でエストニア出身のヤン・プーヴェルが、ジョルジュ・デュメジル流の比較神話学を始め、そこからC・スコット・リトルトン(『新比較神話学』の著者)が出ました。そして彼は、吉田敦彦という、デュメジルのもとで学んだ優れた比較神話学者が日本にいると知って、研究休暇を使って日本にやって来た。吉田先生もリトルトンも日本神話にインド=ヨーロッパ的な要素があると考えていたので、二人の交流が始まったのです。私はその頃大学生だったのですが、吉田先生の本を大変面白いと思った。そして研究室をお訪ねして指導を仰ぐようになって、リトルトンにも紹介され、さらに彼を経由してUCLAのプーヴェルのもとで学ぶことになった。振り返ってみると、こうした背景には時代の雰囲気もあったと思います。つまり、インド=ヨーロッパ語族の比較神話研究は伝統的な学問ではあるけれど、やや行き詰っていた。しかし異なる視点からもっと新しい発見の可能性があるはずだ、その手がかりとしてデュメジルの比較神話学に注目しようという流れです。その流れは吉田先生がフランスから直接持ち込んだ他に、「黒船」ではないけどUCLAとリトルトン経由で日本にも来て、私はたまたまそこに参加した。その意味で「ヨーロッパ・アメリカ・日本」という三極構造は確かにあるんですね。だから、インド=ヨーロッパの神話を研究するためにわざわざアメリカ西海岸に行くのは奇妙に思われるかもしれませんが、研究の新しい体系化の模索というプログラムの中に位置づけてみると、アメリカに行ったことはあながち間違いではない。
 このように私自身のベースにあったのはインド=ヨーロッパ語族文化への関心です。私は神話研究ということで行ったけれども、もちろんプログラムには神話だけではなくて、言語もやれば考古学もやる。トータルな学問として一つの時代なり文化なりを理解しようということでした。しかしそのうち、「インド=ヨーロッパ語族だけを考えていればいいのか」という疑問が出てきた。博士課程を終えて日本に帰ってくると、インド=ヨーロッパ語族漬けの生活のときとは違った感覚が出てきたのです。
 鶴岡さんと私のもう一つの接点は「ケルト」です。UCLAでウェールズ語アイルランド語などを勉強するようになりました。鶴岡さんがケルトの文様とかの、美術史の分野での日本のパイオニアであることを知り、その面でも共通の関心を感じたのです。鶴岡さんは中央のヨーロッパのものではない、もっと周縁のヨーロッパ、しかも美術史の中で中心的な絵画とか彫刻ではなくてあまり陽の当たらないものに(笑)注目した。私が伝統的な歴史学に属さないような、歴史から外れた伝承、神話の中で考えようとしているのを、美術史のほうで似たようなアプローチを鶴岡さんはしていると思ったのです。そして、お互いの関心の集合が重なっている部分が「ケルト文化」や「古ヨーロッパの考古学」だった。ロサンゼルスはアメリカの周縁だし、ヨーロッパの周縁がダブリンなのです。

松村一男氏:バイカル湖にて
 
鶴岡 周縁と中心の方法の違いということでいえば、西洋の表象の歴史にはイコノクラスムもあったけれど、結局は世界や観念を描き出すためにそれを「人間の像」で表す「アンスロポモルフィズム」、つまり人像中心主義の途を取ってきた。人間そのものの存在が前に出たかたちで世界を表象する。それに対してアジア人や日本人はいい意味で身体が後ろに引っこんでいて、自然や時間の移ろいがまず直観され、それをとおして人間も初めて生命を意味づけることができる。本書を読んで思ったのは、西洋の人間中心的な思想に対して、この差異を深く意識してのミッションを日本からできるのではないのかということ。他者の声という、その他の立場からではなく、対等に対面し対抗できる強い学知、知の系の創造、その方法の一番手が、この大著には詰まっているという意味で、松村さんならおこなえると思う。
松村 分量だけは多いから、大きいという意味での「大著」というのは間違いではない(笑)。この本には、それぞれ違ったテーマで三七の文章が入っています。しかし大きさのわりに体系化はできていない。知の体系に対する異議申し立てというのは、おっしゃる通りだと思いますが、残念ながら、代わるものを出せていない。今までの知の体系では捉えきれないものがあることは感じています。典型的にはインド=ヨーロッパの偏重ですが、その点をとくに神話学について、方法論でも対象でも、もう少しバランスを取り戻したいと思ってきました。また、神話と宗教は繋がっていて、宗教学は日本でも明治以来の伝統的な学問です。その宗教学の中に、異なる周辺地域の近接学問である神話学から異質なものを持ち込みたいと思ってやってきました。どれだけ達成できているかはわからないですけど。
 
◎ わからないものの背後に秩序を見る
鶴岡 学者だったらオリジナリティというものがあるわけですよね。本書の「救済としての真実」という章において、イランの祭礼の歌を手がかりに、イランやインド、ギリシャアイスランドアイルランドの神話をとおして三部構造を読み解いていく。松村さんのディスクールは、先行研究者にもないほど緻密で明澄です。
松村 どこまでオリジナルかという話ですが、インド=ヨーロッパの資料をできるだけ原語で読む、デュメジルも読む、それはインド=ヨーロッパ学的にやっていました。救済観についていえば、広い地域に共通して見られる要素がある。それは区分であるし、正義と不義の対立である。それが一つにまとまったらどうなるか。正義を守らず、不義の側に属したときにどういう災禍が起こるかという観念もどうやら共通しているらしい。正義と不義が見事に言語的に対応する例があるし、災禍も見事に対応する例がある。災禍についてはデュメジルが『神々の構造』で言っていることですが、その両力がくっつくこともあるよ、という部分は多少オリジナルかもしれない。インド=ヨーロッパ語族の救済観において、各人、特に社会の代表である王が正義を選択することによって三つの領域の調和が保たれ、人々だけでなく世界全体が救われると考えられていたということは、少なくとも資料からは言える。しかし、そうした救済観をどのレベルでどれだけの人が共有していたかは正直わからない。分析の結果は観念的なものであって、実際の社会とどれだけ強い結びつきがあった考えかというところまでは解明できないのです。自分としては、宗教学者として本当の人々の救済を論じるというより、いくつかの資料を組み合わせたら結構面白いものが出てきた、と嬉々として論文を書いている感じがします。
鶴岡 しかし宗教学者が救済を論じるときに、救済には自力と他力があって、前者が神秘主義、後者が他力本願だと。宗教学者がそうした神秘主義と他力本願を論じるときに、歴史の吟味でなくいきなり物語内容をつまみ出して、コントの一部分だけを取り出して意味づけしてしまいがちだけれども、松村さんの書くものには、神話が生まれる背景にあった認識のリアリズムが常に通奏低音として通っていると思います。
松村 もう一つ鶴岡さんと共通しているのは、問題意識の大きさだと思います。鶴岡さんはユーラシアの文様の壮大な歴史を扱われています。普通の美術史の細かい実証的研究とはスケールが違います。私も問題設定のときに必ず頭の中に大きな図式を描き、自分が論じようとしていることはこの中でどの位置を占め、他の部分とはどういう関係にあるかをつねに意識しつつ論じたいと願っているのです。鳥瞰図が好きというか細部よりは構造が好きというか……。だからこそ、レヴィ=ストロースの影響を受けた神話分析のスタイルが好きなんでしょうかね。
鶴岡 レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』が出たとき、フランスの文学賞であるゴンクール賞の委員たちが、「非常に残念なことにこの本は文学書ではないので、賞はあげられない」と言ったというエピソードが伝えられていますね。確かにレヴィ=ストロースの著作は書名だけをとっても非常に文学的で、主人公が対象に絆(ほだ)されてゆくような言語のセンスに一般の読者もやられる。比較すればサイードの『オリエンタリズム』では、結局西欧と他者との関係は、支配と非支配の対立軸で観念される。でもキリスト教西欧とイスラーム/オリエントの両世界の導火線上を跨いで行き交った「アラベスク文様」等をみれば、西洋人の「支配」は「魅了」とセットであったことが深くあぶり出される。西洋によるアラベスクの酷い収奪と消費は、溺れるほどこの美に魂を奪われた証拠。文様はそうした重大な表象、しるしであるわけですが、翻ってレヴィ=ストロースが他者をこれほど魅力的なタイトルや文体で表現できたのはなぜか。ヨーロッパからアメリカに渡り、当時サルトル等のフランスの知的エリートに対抗できる視線の獲得を願い、自分がそれらにいかに魅了されているか、とろけるのか、を記そうとしたことにおおもとがあると思いますが、そこにちゃんと鳥の目があり構造的なものを取り出せている。
松村 ものを考えるとき、具体的なところに固執する人と、ものの背後を見る人とがいると思います。鶴岡さんは後者だと思う。神話は、レヴィ=ストロースも言っているように、表面はでたらめなんですよ。トーテミズムの規則も。「なんじゃこりゃ」って感じ。そういうものに魅かれる人間は、たぶんそれ自体の面白さよりはその背後にあるものにより多く魅かれているのでしょう。私は、レヴィ=ストロースの前にデュメジルに魅かれましたが、デュメジルは社会も宗教も神話も叙事詩もみんな、インド=ヨーロッパ語族のものはある構造に基づいて生み出されている、と言った人です。それが正しいかどうかは別として、私はそれにびっくりしたんですよ。そういう見方ができるのかと。だからレヴィ=ストロースの先駆になっているわけです。その場合に、デュメジルが学んだ伝統的な歴史言語学ではなく、レヴィ=ストロースヤコブソンを通して習った音韻の構造分析という別の言語学に移行した。だから彼の神話分析のモデルも変わったんです。ただ、流れとしては一貫していると思う。わからないものの背後に秩序を見たいというところは一貫しているんです。
鶴岡 秩序と言えば知覚心理学ゴンブリッチのThe Sense of Orderという大きい本がありますね。世界を体系化・秩序化してみる西洋の知のマップやメソッドを、日本の教育では小さく腹話術的にしか扱えないことが多いですよね。シェイクスピアのセリフひとつを和訳して「わかった!」に至るためには、本当は途方もない、ほとんど工ンドレスな詰め方をしないとダメなんだけど、小さなセリフに映っている大きな秩序への感覚を認識して応用する自覚がない場合が多い。西洋人の強いSense of order「(秩序感覚)は、二〇世紀に言語学、人類学、考古学、美術史学などをパラレルに成長させた。神話学もまた成果をあげていった歴史が浮かび上がるわけですが、明治以来われわれの文化、学問は、単一の項は扱えても、系の構築を引き受けられない。そこにそもそもの断層があるわけで……。
松村 われわれは必ずしもいつも自分で研究プログラムをつくっているわけではないですよね。研究会や学会での出会いがあって、その結果として論文を書いていることが多い気がします。その結果が集まったものが本書なのですが、それを自分なりに大きく三つのテーマに分けてみました。一番古いものが集まっているのは第二部で、私にとってインド=ヨーロッパ語族神話研究が何よりも大事だったときの論文と、それへの反省の論文から成っています。反省するまでにはいくらか間があって、自分の中のインド=ヨーロッパ偏重を正すために、目に見えない構造を神話以外にも見出そうとし、ギリシャ旧約聖書に向かい合いました。それが第三部になっています。第一部はそれと並行的に、もっと理論的なかたちで、いろんな神話研究者たちが持っている共通性と違いとその時代的背景を考えようということで、レヴィ=ストロースデュメジルエリアーデなどを学説史的に取り上げています。またごく最近で、まだ将来の可能性については未知数の部分もあるのですが、本書冒頭に入っている、人類の壮大な、アフリカの草原から世界中への拡散に伴う神話のひろがりを探究しようとする世界神話学というアプローチがあります。今までの枠組みではそうした考え方は出てこなかった。世界神話学はもしかしたら、構造主義に続くものになるかもしれない。こうした新しい神話の考え方についてもできればフォローしていきたいのです。そうした経緯で本書はできたものなので、Sense of orderに基づいているとは自分ではあまり思えません。しかし一書になって眺めてみると、確かに全体を貫く考え方や関心にはある程度の共通性があるようです。
 
◎ 人間の文化をどこから鳥瞰するか
鶴岡 今の若い人たちは松村さんの翻訳でデュメジルを読んでいると思いますが、今後デュメジルを応用していくことについては、積極的にそうしようと思っていますか?
松村 デュメジルは便利なんですよね。扱いやすい。三つに異なった価値を与えてそれを階層化しているような構成を持った神話は、インド=ヨーロッパ語族の場合ははっきりしていますが、それ以外の地域でも見つかっている。人がものをまとめるときに、やはり「三」というものでそれぞれ特徴づけるのはありえそうだ。しかし、それが必然なのか偶然なのかを見極めるのはなかなか容易ではないんです。もし必然だと考えれば、吉田先生のようにインド=ヨーロッパ語族的な構造が日本神話の中にもあるという伝播論の立場になる。でも、そうだったとして、それがどのくらいの価値を持つのかという判断もなかなか難しい。確かに非常に面白いんですけどね。同じように、日本の東大寺の二月堂のお水取りの中に、ゾロアスター教の要素があると松本清張やイラン学者の伊藤義教さんがかつて提唱したことがありました。実際そうだったかもしれないけど、「だから何?」という面もある(笑)。学術的に立証されることと、それがどういう意味を持つのかという関係性の問題です。私は、デュメジルの神話分析をインド=ヨーロッパ世界以外の神話に適用することを拒否も否定もしませんが、分析結果の持つ意味を考える必要はあると思っています。
鶴岡 レヴィ=ストロースコレージュ・ド・フランスで神話学の講座(無文字社会の宗教)を立ち上げたのが一九五九年です。神話学ってごく新しい学問なんだと改めて驚かされる。なぜ日本でも「神話学部」とか「神話学科」ができないんでしょうか。
松村 対象があまりに広すぎることが一つ、もう一つは方法論がないことがその理由でしょうか。本書にも明確な方法論はありません。いろいろな方法を折衷しつつ使っています。本書冒頭にあるのは方法序説ではなくて、私の経歴です。そういう形でしか方法論の問題を書けなかった。神話学の体系を示せてはいません。それが今はもちろん、今後も可能であるのか、私にはまだ判断がついていません。
鶴岡 他の神話学者も示せていないんですか?
松村 いいえ、大学者たちはそれぞれ「これが神話学だ」という理論を出しています。私は『神話学講義』という本で六人の神話学者を取り上げましたが、それぞれに違っている。正しいとか間違っているとかではなくて、みんなそれぞれの思い入れをもって書いていて、それが重なっていなくてすれ違っているんです。レヴィ=ストロースが主に切り取ったのは南北アメリカの神話です。デュメジルはインド=ヨーロッパの神話。「神話」という同じ言葉で言っているけれども、対象が違うとかなり内容が違います。片方で使える分析法も、他ではまったく使えなかったりする。
鶴岡 では、不可能性に立ち向かう最たる可能性の学問ですかね、神話学は。
松村 可能性のままで終わるかもしれない(笑)。人間の文化をどこから鳥瞰するか、その立ち位置を提供するものの一つが、私は神話という物語だと思っています。そういう非常に大きな宝の箱を持っているのですが、大きすぎて、一つの視点から分析することが今までもできていないし、これからも恐らくできないのではないか(笑)。その一端を私なりに切り取ってまとめたのが今回のこの本だと言えます。
鶴岡 松村さんは、文学や心理学や文化人類学言語学など、諸学問の領域を横断しつつ、しかしそのどの「高層建築」にも与せず、たくさんのドームを建ててきた。鳥の眼をもって慎重に緻密に書かれてきたものが編まれたのがこの『神話思考』であると。
 私はよく学生に「mythologyの母親はrealityだ」と言います。一般には「神話」とは現実と乖離した絵空事を語ることだと思われているらしいですが、実はその真逆。美術史学も、イメージの所産を吟味したりする学問であるが故に、まさに一見「『絵』空事」を対象としているように思われるかもしれないけど、美術作品とはルネッサンスでも印象派でもどの時代にあっても実は常にごくcontemporaryな、刻々に迫る同時代の問題や魅了されるものを表し表象しているのです。リアルなものが照り映えている「絵」として見なければならない。神話はそれをもっと長い時空で篩(ふるい)にかけられて残ってきたものですね。「神話思考」というタイトルは、現実を生き抜く人間が、世界と共同体、宇宙自然と自分たちをどのように語り認識しようとしてきたか、という人類の壮大な足跡を、強烈なビームで照らし出している、重厚な作物。松村さんが膨大な神話の文学的なロマンスにも足をからめとられず、リアリストの神話学という城というかご自分の梯子を外さずに三〇年来やってこられた果実で、今回、それをまとめられたことに敬服いたします。

鶴岡真弓氏:アムール河畔にて
 
松村 ありがとうございます。従来の学問の体系の中で誰も書いてこなかったようなものを書きたいという思いは確かにあります。だから本書が既存の学術書の分類でいうとどこに入るのか、楽しみではあります。自分が何か特定の学問分野に属しているという感じはあまりありません。従来の研究にないものを、無意識にだけど模索してきたのだと思います。だからこういう考え方が、読んでくださる人にどう受け止められるかとても楽しみにしています。
鶴岡 サッカーで言えば、本邦に今までに居なかった一二番目の選手の登場のよう。そう言うとなんか明るくて軽いけど(笑)。元より学問や学術はscience。松村さんは日本でも稀有な、サイエンスとしての神話学・宗教学を探究する学者で、これは「神話学の理科系」ですね。 (了)
 
                    2010.6.12.「図書新聞」2969号より
 
 
****************
松村一男 和光大学表現学部教授/神話学・宗教史学専攻
鶴岡真弓 多摩美術大学芸術学科教授/美術文明史家