写真の内側・外側研究会

2016年04月11日

ウチそと研通信143 −タテ位置の街−

京都に寄る機会があり、前から見たいと思っていた木村伊兵衛のカラー写真、京都駅でやっている「木村伊兵衛 パリ残像」を観た。

シャツやスカート、自動車ネオンの赤を中心に、タテ位置でまとめられた展示はリズム感があり、作者の楽しい気分が伝わってくる。ボケやピントの甘さ、フレームの傾き、画面を横切る人影も、むしろ臨場感を醸し出して、一緒に歩いているような感覚。開館間もない時間だったが、団体と思われるお年寄りの集団が一緒だった。すぐ近くにいたおばちゃん二人は写真を観ながらあれこれと話すものだから、監視員に注意されていたが、つい話したくなるのも仕方のない楽しい写真展であった。普段、カラーフィルムは使わないが、ちょっとカラーを試したくなった。

f:id:uchi-soto:20160410112224j:image:medium

2016年03月30日

ウチそと研通信142 ―「イスタンブール‐思い出とこの町‐」(オルハン・パムク著)のテキストと画像―

オルハン・パムクというトルコの作家のことを全く知らなかったが、偶然手にしたこの本を開いた時に、つい引き込まれた。頁のあちらこちらに古い町の写真や版画が散りばめられて、そのどれもが魅力的だったからだ。奥付を見るとパムク氏は1998年に「わたしの名は紅」というミステリーで世界的に話題になり、2006年にはノーベル文学賞を受賞している。毎年日本人の作家のノーベル文学賞の受賞が取り沙汰されるが、外国作家の受賞や内容については冷淡なのを反省してしまった。ノーベル文学賞の意味合いはそれなりのものだとも思うが、やはり目を通しておくと良さそうだ。

イスタンブール‐思い出とこの町‐」という本はイスタンブール(現地ではイスタンブルという発音が近いらしい)で生まれ育ち、現在も暮らしている作者の誕生時から成人する22歳までの期間の自叙伝風の読み物の体裁をとっている。幼年、少年、青年の時に体験した、家族たちや身近な人々とイスタンブールの町の出来事とともに、紀元前ギリシャの植民都市、次のコンスタンチノープルと称された時代からさらにオスマントルコ時代の事柄などが、途中途中に年代記風に挿入され、さらにフローベルなどヨーロッパの作家たちのイスタンブールに関する記述も引用されて、重層的にパムク氏とイスタンブールの町が叙述されている。個人の経験の流れと、イスタンブールの歴史が重なり合って読み取れるのがこの書物の重要なポイントだ。

またテキストともに大事なものが、引用されている古いイスタンブールを描いた銅版画、古い時代のイスタンブールの町やボスフォラス海峡などの写真、パムク氏の個人的なアルバム写真の類である。画像の選択はとても良質。本のカバーには209枚の図像が収録されているとある。中でも1819年に出版されたアントワーヌ=イグナス・メリングの「イスタンブール及びボスフォラス海峡沿いの絵の旅」という銅版画集について、先行するピラネージの遺跡シリーズの版画を例にして古いかつての栄えたイスタンブールの細部を楽しげに語る。またアラ・ギュレルの1950年代、1960年代の数多くのマグナムタッチのモノクロ写真が収録されている。この本を読みながらすぐに思ったのがゼーバルトの一連の本である。テキストと画像の不思議な織物という点で印象は重なる。ただゼーバルトの本ではゼーバルトの視点は空間各所を絶えず移動し、時間も入り乱れて進行するのに対し、パムク氏はイスタンブールに留まり、時間も一つの軸の前後を滑らかに移動する。改めてこの本の写真撮影者で記憶しておきたいのは1912年生まれのセラハッティン・ギズ、新聞記者であり写真家でもあったというヒルミ・シャーヘンキ、19世紀後半イスタンブールを撮影したアブドゥッラー兄弟、さらに画家を目指していた青年のパムク氏が撮影した数枚の町角の写真はとても魅力的だ。ノーベル賞受賞の際に「ジョイスダブリンドストエフスキーサンクトペテルブルグプルーストのパリ、そしてパムクのイスタンブール」と表現されたと訳者あとがきにあった。

オルハン・パムクイスタンブール‐思い出とこの町‐」

和久井路子訳 藤原書店2007年刊行

2016年03月12日

ウチそと研通信141−近美で見た「恩地孝四郎展」とW氏のドローイング−

先日、久しぶりにウチそと研のメンバーが集まる機会があり、竹橋の近代美術館で開催中の「恩地孝四郎展」を観覧しようということになった。恩地孝四郎の版画作品、とくに木版画は何かの折には目にしたことがあるに違いない。恩地が木版画を始め、田中恭吉や藤森静雄らと自刻の版画集「月映」を出し始めた大正初期は、後年銅版画で著名な存在になる長谷川潔達が、自刻自刷の木版画に熱心に取り組んだ「假面」の時期とも重なる。近代的な木版画の揺籃期ともいえるのだろう。今回はこれでもかという具合に戦前の小型の版画作品が、恩地の製作の主体が大きくまたタブロー風なものに移行するまでの時期に亘って展示されていた。多い点数、ややサイズが小型な点、そして照明が暗めという条件だったので、メンバー全員がやや疲労気味となってしまった。

写真と恩地との関わりといえば、一連のフォトグラム作品や出版社「アルス」の写真関係出版物の装丁やカットでお馴染みだろう。戦前の書名タイトルなどの髭を出したような飾り文字作品は、後年の堀内誠一の「血と薔薇」等のタイトルロゴを髣髴させる。今回の展示では私が未見だった撮影写真も見ることができた。植物などを静物写真的に撮影したもの、中国に旅行した際の現地でのスナップなど、少数ではあったけれど見ておくべきものと思う。中心がフレームからほんの少しずらされているのが多くの作品に見られて面白い。それとともにやはり小型だが古い時代のドローイング作品も見られたのは良かった。恩地という人の世界に詳しいわけではないのだが、今回のドローイングには時代性を感じさせる要素が少なく、個人的には清新な印象がある。そのあとに所蔵作品展示「ちょっと建築目線でみた美術‐編年体」と企画展「ようこそ日本へ:1920−30年代ツーリズムとデザイン」を見学、メンバー全員が本格的にぐったりとしてしまった。鑑賞後のメンバーの感想はそれぞれだったが、当日の寒さもあってへとへとになって反省会に突入した点では共通していた。展示されていた朝鮮郵船の入れ子のようなデザインの観光ポスターをもっと見ていたかったけれど、ついに疲労に負けてしまったのが残念。

今回恩地孝四郎展で気になったのがドローイング作品だが、何時でも展覧会で素描風の作品があると好んで見入る傾向がある。流れる線でもきっちり引かれた線でも描き手の肉体全体が、心の状態も含めて率直に現れ出るような感じがするからだ。いろいろな意味での直接感とスピードが興味深い。恩地孝四郎展でドローイングに出会うというのがやや想定外の感があり、より興味深く思ったのだろう。またドローイングという作業についてふと胸を突かれるような感触を持つのは、ここ何年来か、気になる存在があるからでもある。画家の薗部雄作さんの「崩壊の兆し」という本の中に登場する、渡辺登という人のドローイング作品である。以前にインターネットでの検索を覚えてすぐにこの人の名前を入れてみたが、渡辺崋山の通り名?という検索結果が出る程度で該当するものは見当たらない。私にとっては謎の人物だ。見た作品といってもその本に掲載されている決して鮮明とは言えない小さな図版を見ているに過ぎない。それがどんなものか説明するにはほぼ何も知らず、わかっていないというのが正直なところだ。薗部さんのテキストでは小さなスケッチブックにボールペンで線が引かれているらしく、部屋また椅子がテーマとなっているという。60歳で亡くなるまでのほぼ40年間、この作業を続けていたのだそうだ。渡辺登の章の扉の挿画はそのスケッチの部分が使われていて、ダヴィンチの洪水の画の一部のようにも見える。ほかに4点のドローイングが印刷されている。確かに室内のような、また椅子のようにも見える形がその画の中からただならぬざわめきとともに漂いはじめている。

2016年02月16日

ウチそと研通信140 −昨年12月の「リフレクション」写真展と今年1月の川田喜久治個展を観て−

あっという間に今年も2月半ばになってしまった。その間、いろいろな写真展があり、見に行こうとしながらついつい見逃してしまった写真展も多いが、昨年末の「リフレクション2015」展と今年1月に見た川田喜久治氏の個展「Last Things」について、ここで備忘的なことを書いておきたい。

原宿ギャラリーで展示が行われた「リフレクション」展は2013年から毎年一度、写真家の湊雅博氏のディレクションのもとに行われてきたグループ展だが、今回は阿部明子、榎本千賀子、田山湖雪、由良環の4氏による展示となっている。「リフレクション」展シリーズは一貫して風景というテーマで続けられている。毎年連続して見ているが、毎回質量とも充実している。展示期間中にギャラリーでトークイベントがあり、当日興味深く拝聴した。会場は立ち見の人も大勢いるという盛況で、4人の写真家作業に対する関心の強さが窺われた。ギャラリートークの司会進行はウチそと研のメンバーでもある大日方欣一さんが担当、終始寛いだ雰囲気で行われていた。「リフレクション」展は参加メンバーが1年の間に定期的に集まり、お互いの作業を確認しあいながら、最終的な展示に収束されるというメソッドが特徴的なグループ展示だ。今回の写真の展示は作家個別に展示されるだけでなく、各氏の写真がパッチワークのように混ざり合ったスタイルでも展示が行われ、観覧するものは全体を見るとともに、謎解きをするような形で写真の群れを見てゆくことになる。というよりは私個人はそのように見てしまった。実はギャラリートークの前に会場展示を見ているのだが、ギャラリートークを体験した後では写真の見え方が微妙に変わり、それも面白いと感じられる。作家各氏の発言を聞いているため、ある意味で個々の作家側からの見え方に同調する見え方になったといっても良いだろう。大日方さんの指摘では、地誌的な捉え方、また川や水の存在をどこかで踏まえたものが4氏の作業に通底しているのではないかという見解が示されていた。地誌的な、あるいは地域的なものを踏まえた写真作業は、ここの所多数見られるが、これだけ数を増してくると、個人的には注意深く見続ける必要がありそうだとも感じる。ギャラリートークの終わりに湊さんが今回、すべて女性メンバーの展示ということに触れ、メンバー同士の影響のし合い方が男性の作家の場合と微妙に異なるのではないかという発言があり、とても印象に残った。

1月初めから東京タワー近くのPGIギヤラリーで始まった「Last Things」展は、地誌的な、また地域性から離れた写真の作業といえるだろう。初期のころから続いている川田さんの写真の流れに沿った展開といってもいい展示だった。今回の展示で目立つのは通路や駐輪場を覆う物だろう雨除けの枠付きの透明なプラスチック製天蓋を、下から天空からの透過光を光源に撮影しているシリーズだった。プラスチック板に付着する汚れや小物体、透けて見える空模様などが、光の状態や天候によってさまざまに意匠を変える姿をシンプルにとらえている。フレームに嵌められたプラスチック板を一つのスクリーンとすると、積み重なる汚れ、空模様が様相を変えるさまが幾重にも時空が重なりまた連続して眺められる。ありふれた具体的な「Things」が意味と姿を別に持つものとして見えてくる。このような瞬時に別世界のイメージとして抽象化される写真の引力に惹かれて見入ってしまった。幸運にも川田さんが在廊されていて少しお話を伺うこともできた。今回の撮影には新しいライカのアポ・ズミクロンM 50F2を多用したとのこと。個人的にはもうひとつ、会場の隅のあたりに展示されていた、お店の中に置かれている不思議な衣装の女性小像をテーマにしたモノクローム作品がとても気になった。

「リフレクション2015」展

表参道画廊+MUSEE F 2015年12/8~12/19

「Last Things」

P.G.I.(フォトギャラリーインターナショナル2016年1/8~3/5

2015年12月27日

ウチそと研通信139−赤瀬川さんの絵画鑑賞にはやはりどきりとする−

赤瀬川源平さんが亡くなってもう一年が経つ。昨年末に千葉町田で開かれた展覧会が回顧展めいたものになってしまったが、とても咀嚼しきれない大きなかたまりを与えられたような気がしている。お目にかかると物静かで、軽いユーモアでいなされるのがいつもことであった。赤瀬川さん独特の声やゆっくりとした会話のテンポは忘れられない。

先日、赤瀬川さんが1996年に出した「日本にある世界の名画入門」という本を読んでみた。やはり面白い。登場するのはよく知られているヨーロッパの画家と作品だ。印象派とかフォビズムやキュビズムの作品で、ポピュラーな選び方がされている。ただ取り上げた作品に関しては篩の目が吟味されていて、少し通好みかもしれない。取り上げられていない画家についても、取り上げられた画家と作品の中で語られるので、それなりにかなり背景も幅広く近代から現代までの西欧絵画が語られる。この本の冒頭で述べられているように、作品を検索するのではなく、鑑賞することの楽しみが充溢した「入門書」である。作品の印象は常に何かに喩えられて語られるのだが、読んでいる私はその「たとえ方」と一緒になって絵を見直してゆく。赤瀬川さんの喩えのうまさはたぶんどの人からも認められていると思われるが、深刻ぶることもなく平明でかつ的確だ。目の前の問題(絵画)を抽象的にとらえるのではなく、具体的なものとの関係で飲み込んでしまうのだ。その手際の良さは方法という単純なものではなく、どこか本来的な認識の力から生まれ出ているようで、無駄な忖度をするより、ひたすら赤瀬川さんのテキストを楽しむというのが無難なようだ。

何度か赤瀬川さんと言葉を交わす機会を得ることがあったが、話のとらえ方はいつもあいまいではなく、具体的で答えやすい問いかけ、また話の間に何かを自問しているようなことを感じさせる人という印象がある。会話をしながら別なチャンネルが入っているなと思う人はいるけれど、別な意識を携えながら、柔らかく鋭い言葉で何かを削りだしているということを幾度か感じさせられた。この本を読みながら、赤瀬川さんのことを再び思い出した。

「日本にある世界の名画入門」赤瀬川源平著 光文社刊 カッパブックス