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2017-08-15 真の独立への道 ― ヒンド・スワラージ M.K. ガーンディー 著 / 田

[]真の独立への道 ― ヒンド・スワラージ M.K. ガーンディー 著 / 田中敏雄 (翻訳)

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読者と編集長の対話形式ですが、どちらも書いているのはガンジー。この質疑応答が、グイグイ鋭い。自問自答が鋭い。

このテキストは40歳のときにイギリスからの帰路の船の中で、船会社の便箋に母語グジャラーティー語で書かれたものだそう。それが追々、自身が主宰する週刊誌『インディアン・オピニオン』のコラムで活字になり、あとで単行本としてまとめられ、インドでは発禁処分となり英語訳を決意。ドイツ人の友人によって訳されたという経緯があるそうです。

対話の中で東インド会社が「勇者カンパニー」というニックネームのような名前で呼ばれていたり、独特のトーン。シリアスになりすぎたらこの状況に負けてしまう、そんなふうに考えていたのかなと思う箇所もあります。質問の設定はすべて「イギリスに対するおびえ」「イスラームに対する劣等感」という、ヒンドゥー教の人々の深いところを丸裸にするもの。切り込むどころの深さではない。焼き魚を骨の隙間までものすごくきれいに食べる人の箸のあつかいのような、そんな構成です。読み出したら止まらないほどスリルがあります。


イギリス人たちの自治や個人主義について、回答者(編集長)としてこのように語ります。

イギリス選挙人の聖書は新聞になってしまっています。選挙人はその新聞で自分の意見を決めます。新聞は不正直なものです。一つのことを二つにして出します。

(五 イングランドの状態 より)


二人のイギリス人は同じではありませんが、私たちインド人は同じでしたし、いまでもそうです。

(九 インドの状態<続> ── 鉄道 より)

ヴェーダーンタ思想が根っこにある感じが、ありありとある。


当時のヒンドゥー教の人たちのメンタルには、こういう追い込まれたような部分もあったのだな…、と、うかがい知れる箇所もありました。

(以下の両社会は「ヒンドゥー」と「イスラーム」)

読 者:イギリス人たちは両社会を本当に相いれさせることができるでしょうか?

編集長:それは臆病者の質問です。その質問は私たちの劣等感を示すものです。二人の兄弟が一緒になろうとすれば、誰が仲を割けるでしょうか? もし二人を第三者が争わせたら、その二人の兄弟を私たちは愚か者というでしょう。同じようにもし、私たちヒンドゥー教徒、イスラーム教徒が愚か者となれば、イギリス人に罪を着せることはありません。

(一○ インドの状態<続> ── ヒンドゥー教徒、イスラーム教徒 より)

この質問者(読者)の設定は、弱気になるヒンドゥー教徒。日に日に「主体性を捨ててラクになりたい。もともとイギリス人が来る前から感じていたイスラームに対しての思いも、ぜんぶイギリスのせいということにしてしまえばいいじゃないか」と考えるようになっていく心を、ガンジーは重々、理解しているんですよね…。



そのうえで、こうくる。(以下、編集長の発言部分)

インドをイギリス人が取ったのではなくて、私たちがインドを与えたのです。インドにイギリス人たちが自力でいられたのではなく、私たちがイギリス人たちをいさせたのです。それはどうしてか、それを見ることにします。あなたに思い出してもらいたいのですが、私たちの国にイギリス人たちは、本当は商売をするためにやって来ました。あなたの勇者カンパニーを思い出してください。カンパニーを勇者に誰がしたのですか?

 気の毒なイギリス人たちには支配する気持ちはありませんでした。カンパニーの人たちを助けたのは誰でしたか? カンパニーの人たちの銀を見て誰が誘惑されましたか?

(七 インドはなぜ滅んだか より)

「勇者カンパニー」は東インド会社のこと。自ら進んで支配されたがるような、そういうところはなかったという自問自答。



そして弱体化した自立心を、さらに分解します。(以下、編集長の発言部分)

 イギリス人が寝具や手荷物を持って立ち去ったら、インドは孤児となってしまうと思ってはなりません。このようになったら、イギリス人にこれまで抑えられていた人々が争うようになるかもしれません。腫れ物を抑えるのはなんの益もありません。避けて膿が出るのがいいのです。ですから、もし私たちがたがいに争うように運命づけられているのなら、争って死にましょう。弱者を助ける口実で他人が介する必要はありません。

(ニ○ 解放 より)

ここは「生きるのは、生き残るのは、自分だろ? いつの間にか、生きてやってるみたいなことに、なってない?」と問うかのよう。



他の本でもそうだけど、ガンジーはどこまでも身体論でくる。以下はメモせずに入られないほど、ドスンとくる。

力は恐れないことにあるのです。身体に肉の固まりが付いていたからといって力が出るものではありません。

(八 インドの状態 より)

で、自分の力はいつ使うのさ。

そんなふうに、「インドの心」を分解して喝を入れていく。どの章の問答もことごとく鮮やか。


8月15日は「日本悲しい日、インド楽しい日」なのだけど、インドが楽しくなる前は、こんなに国民の主体性が崩壊していたのか…。と驚く。

わたしはいまの日本の感じは、メンタル面で「真の独立」に向かっているような気もしている。日本人同士で争っているのは、膿が出ているのだと思えば。


2017-08-13 石郎崎(いろうざき・静岡県伊豆半島)

[]石郎崎(いろうざき・静岡県伊豆半島

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なんとなくじわじわと「崖」を見たくなり、石郎崎というところへ行ってきました。

「なんとなく船越栄一郎」「なんとなく片平なぎさ」そんな情景を求めたのは「砂の女」を読んで「砂の器」にイメージが連鎖したため。日本海!と思ったけれど、よく考えたら伊豆は太平洋。でも、きっとそんな感じが期待できる。


ここは伊豆半島の最南端。熊野神社の祠があり、縁結びを願う人々がいました。行ってみてから知りました。

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遊覧船乗り場を横目に、参道へ進みます。




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駐車場の辺りには、穴がいっぱい。




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上がっていきます。




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かつてはなにかの施設であったであろう、取り壊しの景色を超えて




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これすごい木! と思ったら、鳥居もそこにありました。




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柵があって入れなかったけれど、「そうそう、ここで、告白するの。罪を」という気分になる。




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そして画面が引きになって…

竹内まりやの曲が流れる。(記憶妄想Mix)



もうここで、けっこう満足。

していたのだけど…

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ぎゃー。あそこに片平なぎさがいないわけがない! という景色に変わった。

脳内BGMが選曲を変えねばと思ったようで、岩崎宏美に変わった。(外見上はなにも起こっていません)

ああいそがしい。



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小屋みたいなところへ着きました。




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神社の窓からの景色。なんだかこれが、すごく印象に残っている。




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ここをぐるっと回る。折り返し地点にも祠があります。




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たくさん歩いて降りてきて、イカ焼きだ! と思って近づくと、見事なフェイク。

わさびアイスクリームを食べました。とっても昭和な夏の思い出ができました。

2017-08-12 私憤と義憤のあいだでケシカラニズムを制御する

[]私憤と義憤のあいだでケシカラニズムを制御する

日々暮らしていると、会話の中からさまざまな私憤と義憤をブレンドした言葉が耳に入ってきます。

わたしは数年前にこういう思いについて考えたことがあって、そのときに「避けたい思考の言葉リスト」というのをつくりました。いま読んでもまったく思いが変わらないので、ここで紹介します。

普段なにげなく使っているフレーズを見て「あああ”あ”あ”」と自責してしまう人もいるかもしれませんが、わたしは突き放すつもりで共有するのではなくて、わたし自身、自分の中にその種(タネ)があることに気づいて、芽が伸びないように摘んでいるものです。


わたしはヨガを続けることの効用の大きなものとして「私憤と義憤を混同しなくなる」というのがあると思っています。混同していることに気づいたときに、義憤として処理せず私憤の領域まで踏み込んで、自分の中にある「怒り」をなかったようにしないというのは実はすごく重要なのではないか。そんなふうに考えるようになりました。

いつ頃からかというと、「悪口の受け止めかた」というのを3年半前に書いていたので、その頃には明確に意識するようになっていました。

以下は町やスーパーで聞こえてきた会話、ニュースでインタビューに答えている人の使ったフレーズなどから拾いました。


  • 「○○のためにやったのに、○○になるんじゃ意味がない」

それぞれの○○に入るものの組み合わせによっては、テイクできないならギブしませんという図式が成り立ってしまう。気をつけたい。


  • 「いかがなものか」

他人がどこかの領域において迷惑な存在である状況を晒しつつ咎めたいという、場の構造まで巧妙に計算したフレーズでこわい。政治家の麻生さんみたいにキャラにハマっていると、また別の技巧(煽り芸)なのだけど。


  • 「どうよ」「けしからん」

すごく使いかたの難しい、素人は公で使う場面のなかなかないフレーズ。毒舌といわれるエンターテインメントの人だけが使いこなせる言葉のように思う。


  • 「ざまあみろ」

もう昭和のドラマの世界って感じがしますが、飲み屋などではいまだに耳にします。若いうちからこういう感情は減らしていかないと、人相に影響しそう。顔の筋肉に。


  • 「ほれみろ」「ほれみたことか」「いわんこっちゃない」「そうなると思っていた」

時制を超越できていたかのような、万能感全能感がすごい。「そんな気がしてた」という予言めいた言い回しもタイミングによっては同じ感じになるので、気をつけなきゃね。


  • 「自業自得」「因果応報」

インド思想の定番なのだけど、そもそも人間の口が言うのがヘンな気がしている。おしおきは神の仕事ってことになっていると思うので。


  • 「思い知らせてやる」

「だからそれは神の仕事では」シリーズ2。


  • 「お灸をすえてやらなければいけない」

「だからそれは神の仕事では」シリーズ3。これはを実社会で耳にすると、わたしの眼に浮かぶイメージは「せんねん灸」のイメージなのでほっこりしてしまうのだけど、言っている側のイメージは磔なのだろうから、言われたらめっちゃシュンとした感じにしなければならない。


  • 「○○じゃなくてよかった」

想定していたことが無くなった時点で必要なくなった感情なのに、わざわざもう一度捕まえに行こうとしている状態に執着を感じる。「○○でよかった」のほうに変換する余裕があるかないかで、自分の状態がわかる。


  • 「うまくいくわけがない」

もはや呪い。黒魔術。でも、「うまくいきそうにない」は準備に向かう思考ならば前向きなので、拾ったほうがいいときもあるのだけど。


  • 「あわせる顔がない」「顔向けできない」「どの面(ツラ)下げて」

「穴があったら入りたい」は全身なのでしっくりいくのだけど、顔だけにされるとやっぱり表面なのかと感じる。頭が優勢すぎる。


  • 「ひとこと言っておきたい(言ってやりたい)」

先の関係がないと想定しているから言えるのだと思う。「最後にひとこと言っておきたい」としたほうが、相手の時間を奪わないし限界のない妄想を植えつけることもなく済む。これを抜けないようでは、ネットニュースのコメント欄に書き込む人のことを批判できない。


  • 「かわいそう」

「隠れ激質の鈍質コーティング、慈悲添え」みたいな料理のしかたになっていないか、注意深く使う必要があるフレーズ。(綿矢りささんの「かわいそうだね?」は、その感じをさらに掘り下げてエンタメ化していて天才!)


昭和の歌の歌詞や時代劇を見ていると、こういうフレーズがすごく多くて驚きます。

読んでいるだけで純質がローになってくると思うのですが、なかには友人を励ましたいときについ使いたくなるものもあって、二重苦みたいになるフレーズも。でもその義憤も根っこは「わたしの大切な友人に、なにをしてくれるのだ!」という私憤。やっぱり「憤」には変わりがない…と、思いはブーメランのように返ってくる。



わたしは逆の「思考の言葉」も探していて、こっちを探すほうがたいへんなのですが、ひとつ「これはいいなぁ」と思うものがあります。



 「だまされたと思って」



理解されなかった場合(できなかった場合)の責任までまるごとバッチコーイな感じがたまりません。「おしつけさせろ〜」って感じがかわいらしい。


なんでもかんでも言語化する必要なんてないのだけど、ネガティブなフレーズを耳にしても身近な人を嫌いにならないために、自分の中で準備をしておけば長くつきあえます。愚痴を聞くときも、わたしのなかでちゃんと分解ができていれば「ただ言いたいだけなんだよね」と思える。

やさしくなるのは簡単ではないな…と思うのは、やさしくなるためには自分のめちゃくちゃ汚ないところをドブさらいのようにやっていくプロセスが欠かせないから。なので、「やさしい気持ちになれない」と悩んでいる人には、アメリカ横断ウルトラクイズで○と×のやつの泥のほうへダイブする瞬間のような、ああいうのと同じだと思って自分の中にあるフレーズをすくい上げてみる、そういう作業をこわがらないでほしいと思います。

こわいのはわかるよ、わかるんだけど、そこは



 「ウルトラクイズだと思って」



やってみたらよいと思うの。

今日もまた、この喩えがわからないヤングをおいてきぼりにして、ごめんなさいね。



なんというか…

ポジティブ・コーティングがクセになってしまって、かえって人が離れていく。

そいういうことも、あると思うのです。



▼「ケシカラニズム」という言葉は、この本からいただいています