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2016-08-29 「見て見て〜」のあとが、「すごいね〜」ではない国で

[]「見て見て〜」のあとが、「すごいね〜」ではない国で

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お盆前後はいろいろなひとが帰国・帰省されますね。

わたしは先日、フランスから帰国中の友人と久しぶりにたっぷり話す機会がありました。たまにオンラインチャットで話していたのでそんな感じがしなかったけど、会うのは9年ぶり。知り合ってからは15年くらいになります。

以前は会社で机を並べて仕事をしていたわたしたちも、いまはお互い全く違う方向へ進み、離れてからの年月のほうが長くなりました。もはや同窓会的な懐かしさというより、大人になってからまったく違う価値観の場所へ身投げした「同士」のような感じです。



彼女は自身の感じる「人恋しい」という感情にまっすぐ向き合えるので、かつて価値観を共有した職場の仲間と交流を保ちながら生活を移行することができたようです。

わたしはインドで勉強をしたあと価値観の混乱からデフラグにかなり時間を要し、対人面ではいまでも「ひとり道場生活」のようなスタンスから移行できずにいるのですが、彼女いわく「環境に流されてしまって、かえって遮断できない人のほうが多いのでは」とのことでした。彼女はサッカー好きの人なので「日本に居ながらそれをやるなんて、長谷部なみのコントロール」と表現していましたが、よくわかりませんでした。どうやら長谷部選手はプラティーヤーハーラがすごいようです。アーサナをする人には長友選手のほうが身近に感じるところですが、なるほどそこは長谷部選手なのですね(「心を整える」という本を出されているのをあとで知りました)。


この日は積もる話がマウンテンでした。

わたしはここ1か月くらい、モリエールにハマっています。モリエール、わかりますか? 洗濯洗剤ではありませんよ。どちらかというと柔軟剤。頭の柔軟剤を作った人です。フランスの喜劇作家で、350年くらい前の人物。

彼女はひとつ劇を見たことがあるそうで、フランス語でもわからない言葉(古い言葉など)があったとのこと。そこから頭のなかの言語について話しました。【日本語⇔英語⇔フランス語】から【日本語⇔フランス語】に進み、もう夢をフランス語で構成することもあるほどになった彼女の話はとてもおもしろく、そこから日本のコミュニケーションの独特さについての話に発展しました。





今日はここからが本題。

わたしもインドで軽くやられましたが、彼女もフランスでそうとうやられたという話。



たとえば、

「ねえ、こんなことしたの。見て見て〜」

と話しかけた場合。




インドだと



 Aさん「ねえ、こんなことしたの。見て見て〜」

 Bさん「それいくらかかったの? いくらで売るの? 儲かるの?」



わたしの周りだけかもしれませんが、実利的な話に至ることがあります。

会話だと「いいね〜」とか「すご〜い」みたいなリアクションが普通に期待できる状況とは限らないんですよね…。あったとしても




 Aさん「ねえ、こんなことしたの。見て見て〜」

 Bさん「いいじゃないか。さすが君はわたしの友達だ」




リアクションがあるにはあっても、中身がちがう。なんか食われてる。なんか食われるインド。

フランスの場合は、別の角度でしんどいようです。「見て見て〜」なんてことをしても、何も起こらないと彼女は言います。




 Aさん「ねえ、こんなことしたの。見て見て〜」

 Bさん「・・・(で?)」




どこにリアクションをすればよいのだと。

そういえばインドでもこういう感じ、あったなぁ。




 Aさん「ねえ、こんなことしたの。見て見て〜」

 Bさん「それで君は、幸福を感じるのですか?」




こんな展開ある…。いきなりスピリチュアルな問い(笑)。問いを立ててくる。これはある意味「・・・(で?)」ってのに近いかも。

フランスにいる彼女は他人同士のやり取りを見ていて「えええこんな話の展開になって、大丈夫なの?」と驚くことがたくさんあり、はじめの頃はいちいち傷ついていたそうです。この「いちいち傷つく」という経験がなんとも重要。

わたしもインドで「いちいち傷ついて」いたのですが、毎回瞬時に「相手の顔が濃くて目ヂカラがあるからって、ひるんではいけない」という思考に切り替え、なんとかしのいできました。でもそのときの「傷つく感じ」が自分でこしらえた幻想であることも同時に理解しなければいけない。というか、行ってみたらわたしが学んだインドのヨガ道場はそういう勉強の場なのでした。


このようにフランス人とインド人の話をしながら、これがSNSの使いかたにも特徴として出るので、おもしろいよね! という展開に。このへんだけはIT系OLの同窓会っぽかった。

日本でのコミュニケーションは、マイルドであたたかい。「見て見て〜」とやれば、なにかしら柔らかくポジティブなリアクションが得やすい。もうこれだけで、ずいぶん贅沢という感じがします。

お互いに「ないものねだりの環境」を感じながら、時間があっという間に過ぎていきました。

2016-08-28 気持ちを脱ぎ捨てたり着替えたい人に、ヨガを。

[]気持ちを脱ぎ捨てたり着替えたい人に、ヨガを。

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だいぶ前のことですが、ヨガクラスに初参加した人から、姓でなく名で呼ばれたいというリクエストをもらいました。

わたしには「ヨガの練習をする時間くらいは、いろいろ脱ぎ捨てられる場にしたい」という思いがあります。

特に女性は参加するにあたって、仕事のみならず家族へのエクスキューズが必要な人もいます。配偶者と共有する姓で呼ばれることから解放されることで、より身体が動くということもあるでしょう。(実家の苗字を捨ててスッキリという逆パターンもあるけどね)




 大切な時間を知られずにすむならば、すんだほうが助かるなぁ…




楽しい時間に対して、あとで罪悪感を感じてしまう。こういうことって、ありませんか? わたしはあります。理論上それは感じる必要のない罪悪感だけど、感情の種は個人の中で発芽するから、理屈じゃないのよね…。

自分で自分の時間をコントロールしにくい人ほど罪悪感を背負いやすいという状況は、理想論をとり除けばけっこうある話。家庭であれ職場であれ、組織の中では忠誠心を適切に表現できないと、ある日突然ガツンとやられたりするし。


そんなわたしはいつも練習中に、忠誠心ではないシンプルな前向きさを自分の中に見出す瞬間を楽しんでいます。練習をやめられない理由は、ここにあるかもしれません。



 脱ぎ捨てたくなったら行ける場所。

 この身体は替えられないけど

 あそこへ行けば気持ちだけは着替えられる! と思える場所。



わたしが自分で設定する練習の場では、「こういう稽古場があればいいのに…」というかねてからの思いを大切にしています。「どこどこの、だれだれさん」という紐付けのない時間は、とても特別な時間。

練習って、すごく個人的なものですからね。




▼先々の稽古日程を加えました(動いちゃえば楽しい)


▼10月の新潟県長岡市開催は残席わずかになってきました

2016-08-27 Perennial Psychology of the Bhagavad Gita / Swami Rama(スワミ・

[]Perennial Psychology of the Bhagavad Gita / Swami Rama(スワミ・ラマのバガヴァッド・ギーター解説)

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これはインドで買って以来、参考書のようにたまに開く本です。いまはこれがキンドルで買えます。すばらしい。

スワミ・ラマの解説はかなりビジネスマン向きで、わたしはこのトーンが好きです。インドの聖典や教典を解説するスワミはたくさんいるなか、パラマハンサ・ヨガナンダよりも現代に近い人(96年まで生きてた)なので、現代の感覚で読みやすいです。自己啓発っぽいトーンに流れすぎないギリギリのところで踏みとどまる感じ。

たとえば、6章5&6節のコメンタリーは、こんな出だしです。

When the aspirant realizes that he is competent and resourceful, he gains confidence and begins following the inner path. Dependency on external resources cannot help him to treat that path. Having deep-rooted habits of depending on external resources leads the student again and again to search outside of himself. He thinks that visiting one shrine and then another and going from the teacher to another will help him, but the inner thirst remains unquenched.

上記を現代社会ではたらく都会のOL脳で意訳すると…

(以下わたしによる日本語化)

熱意ある者が有能で臨機の才をもつとき、彼は自信を得、内面の道へ歩む。外部情報への依存状態は、もはや彼の内面への道には役立たない。根深い外部依存習慣は、何度も「検索」する気を起こさせる。学生は1つの聖堂を訪問し、そしてまた別の場所へ出向く。他の先生から別のものの提案を受けることで「助けられる」と思うけれど、内面の渇きはおさまっていない。


なんというか、こういうふうに訳しやすいトーンなのです。

ヨガブームにもいろいろあって、最近はマインドフルネス瞑想をアメリカのGoogle社員がやっているという情報からヨガへの関心が高まっているようですが、スワミ・ラマが解説で使う「mindfulness」は「記憶の混乱」のところで登場します。

(これについてここで書くのは前提の説明を含めるとややこしいので、このニュアンスを詳しく知りたい人はわたしが書いているもうひとつのブログ「まろやかインド哲学」のビンゴでギーター2章62節・63節の下部の表をご覧になってください)


マインドフルネスというとなんとなく語感から「満たされる」イメージをもつと思うのですが、外部の影響による記憶の紐付けを解いてスペースができたところに自己が満ちてくるということを得るために、「アメリカのGoogle社員がやっている」という前フリが効くというのはおもしろいなぁと感じます。そして、そのおもしろさすらも、スワミ・ラマによる6章5&6節の説明に包含されてしまいます。

この本はコメンタリー本でありながら他の聖典の引用に過分に寄りかかることなく淡々と説かれており、編集もたいへん洗練されています。


▼紙の本

Perennial Psychology of the Bhagavad Gita
Swami Rama
Himalayan Inst Pr



▼Kindle版


★おまけ:バガヴァッド・ギーターは過去に読んださまざまな訳本・アプリをまとめた「本棚リンク集」があります。いまのあなたにグッときそうな一冊を見つけてください。