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2016-09-24 「ストーカー」は何を考えているか 小早川明子 著

[]「ストーカー」は何を考えているか 小早川明子

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夜のラジオで耳にした著者・小早川さんの語り口がたいへん鋭く気になり、読みました。(ラジオの内容はこちらで読めます

この本は「ストーカー、こわい!」という防御の喚起というよりも「自分もなにかのタイミンが重なれば、ストーカーと同じことをする種を持っている」と認識できる本で、「うわぁ、この感じ、よく言語化するなぁ」という示唆だらけ。

以下の箇所を読んで、自分にそんなところはないと言える人なんて、いるかしら。

 自分の気持ちに気づくというのは実は怖いことで、気づきたくないがために心理系の本ばかり読む人は大勢います。なぜなら、解釈の世界にいる限りは安全だからです。

 しかし、気づきとは解釈ではなく、理解することです。つまり本当は「問い」を解くことではなく、「問い」を理解することが解決なのです。

(170ページ ともに特殊解の鍵を探す より)

「解釈の世界にいる限りは安全」とは、ずばっと斬ってくれたものです。



この本を読むと、ストーキング(行為)と依存(心理)と妄信(背景)の境界があいまいであることがよくわかります。

特に加害者は、「世間並みに成功していない自分など、本来の自分ではない」と考えます。「成功しそうにない」という焦り、「成功しているのに」という不満や疑念が抑えられなくなると自暴自棄になるのです。

 自分が「成長」することに対しては関心も意欲もない。「成功」への露骨なこだわりがあるだけで、しかもその成功とは非常に個人的なもので、仕事やお金、恋愛や結婚はあくまで「自分が世間並みになる」、「ほめられる」ための手段としてしか考えられません。

(17ページ 急反転する愛憎 より)

ヨガをしていると【「成功」への露骨なこだわり】と【常識的な向上心】の境界を見る機会があります。こういう心理状態というのは、そんなに珍しいものではないとも感じます。この部分を読みながら【自分が「成長」することに対しては関心も意欲もない】という問題の根の先までズバッと見ているところに、ほんとよく見てるな…と唸りました。



以下のような状態も、「自分には関係のないこと」なんて言えない。

自分の過去に強い不満がある人は加害者にもなりやすく、自らを憎む熱を帯びて、カッとなって暴力的になりやすいのです。

(52ページ 自分を嫌いか、好きか より) 



誰でも、誇り、友情や信頼などを失って途方に暮れている時、ふと目の前に橋が渡されると、簡単に彼岸に渡ってしまうことがあります。

(79ページ 依存症とストーキング病 より)



「信じている」と口に出すのは、多くの場合、不信感がある時です。「信じていい?」と聞くのはすでに信じていない証拠です。

(中略)

 ストーカーはよく、「信頼関係を壊したのは相手だから、信頼関係を取り戻す努力をしろ」と主張しますが、信じるも信じないも、相手の言動に対する自分の心理的反応ですから、信じられなくなったという結果も、自分で責任をとるしかないのです。

(69ページ 「愛してる」と「信じていい?」の落とし穴 より)



「過覚醒」とはひどく敏感であるという意味です。ストーカーというのは、「俺を馬鹿にしている言動はないか」「私を裏切っている言動はないか」と、頭の中で常に検索エンジンをかけ続けているかのようです。率先して自分にとって不快な事象を探し、攻撃の種を拾うことに余念がないのです。

(118ページ 攻撃行動の因果関係 より)



 多くのコンプレックスは過去と結びついていますが、それを気にし続ける心理は、今は自転車に乗れるのに、友だちよりその時期が遅かったのを恥じ続けているようなものです。過去は過去として現在から去ってもらうか、大事に棚上げしておいて時々覗く程度にしないと、人は前に進めないのです。

(180ページ 呼吸を合わせる、常識を言い放つ より)

「過覚醒」のところは、まえに「ヨガが上達して性質が濃く出る時期の話」というのを書いたことがあって、これは2011年に書いたのですが現在もアクセスの多いトピックです。常に自身が攻略したものを検索し続けるような状態に「体力」が加わることの怖さについて書たのですが、思い当たる人が多いのでしょう。それにしても「検索し続けるような状態」というのは、なんてわかりやすい表現。最後の引用の「過去は大事に棚上げしておいて時々覗く程度に」も、沁みます。



以下は、以前わたしが経験から「わかる」と思う箇所です。

 本心を言う時は、常に自分を主語にすれば露骨にはなりません。相手が「お前は最低の女だ」などと越境してきたら、「私は今の言葉が不快です」、あるいは「私はその言葉が辛かったです」とレスポンスし、どうしても相手のことを言いたいなら、「私は、あなたが××だと想像します」と、自分の考えであることを明確にして、自ら責任を負った発言をすべきです。このようにして自分と他人の境界線をいつも意識して自分の領域内の話をすることが距離の取り方であり、マナーだと私は思います。

(27ページ DNA鑑定で解けたこだわり より)



気をつけなくてはいけないのは、一度、警告や被害届など刑事問題に対応のステージを上げた場合、可逆的対応をしてはならない、ということです。警告・逮捕・釈放後は当事者同士はもちろん、関係者が同席しても直に会ってはなりません。加害者は、あたかも自分が許されたかのような勘違いをする可能性があります。

(109ページ 心理レベルでの危険度 より)

常に自分を主語にするというのは、書き換えの余地を与えない文章の組み立て方ということですが、これはいろいろな人がなにげなく書く文章を見ている限り、とても難易度が高いと感じます。可逆的対応についても本当に上記の引用のとおりと思うのですが、「許された」が「やはり必要とされている」というふうにすぐ転化する思考をする人もいます。

これはウェブサービスの同業者とたまにする話ですが、昨今は「お知らせメール」が「招待メール」に脳内変換されてしまう人がいて、これはFacebookの雑な翻訳のせいじゃないかしら(ものすごく待たれている、誘われている、会いたがられていると感じさせる翻訳になっている)とも思ったり。SNS上の機能の上で、感情の主語がとこかを認識する感覚を麻痺させるような日本語の使い方が増えている。なのでこの本の上記で指摘されていることは、どんどん難しくなるだろうと思います。

かつてのmixiの「足あと」を、うまいずるい日本語だなと思ったものですが、目的は「監視」か「物色」です。



以下は、日常的に考えてもむずかしい、ストーカーへの対応の考えかた。

感情は、所有者である自分自身に処理する責任があることを徹底理解させる。相手に感情処理の責任を持たせようとする立場から降りるのを待つ。

(163ページ 非武装地帯、「閾」として/著者が加害者に向き合う手順の8)

お詫び会見で「誤解を与えるような表現があったことをお詫びします」という常用フレーズがあったり、主語のおかしい紋切り型表現から禁止していかないと、感情の主語を失うメンタルになる状況は減らないと思うのだけど、あまりこういう話ってされない。



以下は、数字の見かたについてハッとしました。

兵庫県警では届出のない110番通報などで認知した男女間トラブルでも、「男女もめごと事案」として、ストーカー事案と同等の扱い(総合相談管理システムへの登録、情報の一括管理)をし、迅速な対応をとっているといいます。同県警は警告件数で全国トップですが、こうした取り組みが全国的なものになればと思います。

(200ページ 警察の現場力 より)

件数が多い=ストーカー被害が多い、ではないんですよね。閾値を下げれば数は上がるのがあたりまえなので、数字は算出方法もしっかり見なくては。


恋愛をしない人が増えたらストーカーが減るかというとそういうものでもない気がするし、ほかの対象に変わるだけではないかな。執着する対象の数をふやして散らすのもひとつの方法だけど、わたしは自分の感情は自分のものだという認識の教育を、かなり幼少でやってたほうがいいような気がしています。自分もそういう教育を受けたかったと思うので。

腕力の関係で襲われたら不利なのが女性だからニュースになりやすいけど、実際はストーカーの女性も多いことが、この本を読むとわかります。

この本を読みながら、昔ストーカーの行動や発言をネタにしていた明石家さんま(「さんちゃん、寒い」というコント)や、「恥」という短編を書いた太宰治はすごいな…、なんてことをふと思いました。


▼紙の本


▼Kindle版

2016-09-23 シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 エマニュエル・トッド

[]シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 エマニュエル・トッド 著 / 堀茂樹(翻訳)

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読むのが大変でしたが、この複雑な背景を他国の人間に説明する本を書くって、すごいことです。

どんな人がどんなことを書いた本かというと、「もしもビッグデータにイシューを立てて差別問題を取り扱える山本七平がいたら」みたいな内容でした。

シャルリ・エブドのあの行為の異様さ、これはいま本当に起きていることなのですか?という感覚のやり場のなさを、どうしたものか。わたしはこの小さなブログにですら「アッラーに "さん付けできない" のがもどかしい」と感じるくらい、そこはセンシティブというよりもほかの宗教と違うだろあそこの神様は…という感覚でいるので、シャルリ・エブドのような行為が起こりうる思考背景にいろいろな角度で関心を持っていました。(なかは空洞なのではないか、という予測とともに)


この本が出た後に英国のEU離脱があり、同時期に「帰ってきたヒトラー」という映画を観ました。この本を読むためにも、観ておいてよかった。

この本は長いフレーズの倒置で書かれている文章が多く、一文を読み切る間に混乱することが何度もありましたが、読後に「マーストリヒト条約」「ライシテ」「ヴィシー政権」なども調べて、なんとか読みました。

この本の要素の要約であろう内容が最新の「問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論」(紙の本 / Kindle版)にあるようなので、読むなら最新の本がよいかもしれません。


恐ろしいことに、読めば読むほど「なんか似ている、日本人のあの行動。世代格差とあの思考」という現実がチラつきます。が、フランスとは大きく国の状況が違います。人口学・歴史学・家族人類学である著者はわかりやすく解説とデータ解析を重ね、フランスとドイツの関係を主軸に説明が続きます。論理が偏った方向へ導かれないように設定のデータを少し不利な状況にし、それでもなお浮かび上がってくることを論じています。ヨーロッパ人ではないのでデータを見てもその地域特性を想起できないのですが、結論付けを読みたくなる語り口で、格差や信仰の度合いを詳らかにしていきます。

以下の2箇所は、「フランスはあんなに立派な教会もたくさんあって、さぞキリスト教徒が多いであろう」という思い込みが、「日本はあんなに立派な大仏や仏教寺院があって、さぞ仏教徒が多いであろう」と似たようなもの? ということを、実感として想像させてくれる。

1990年代の始め以降、無信仰でいることの根本的な問題がついに浮上するようになった。神が存在しないというのは高度に理性的な考え方だが、人間存在の究極の目的という問題に解を与えてくれない。無神論を突き詰めていくと結局、意味なき世界とプロジェクトなき人類を定義するところにしか行き着かない。したがって、世俗主義的フランスもまた、それなりの角度から、今日の新しい宗教的居心地の悪さに貢献している。無信仰に慣れなければならないからではなく、ついに、教権主義の側からの異議申し立てという倫理的・心理的なリソースを奪われた「絶対」の中で無信仰を生きなければならなくなったからである。

(86ページ 第1章 宗教的危機 / 無神論の困難さ より)



 現代のフランスに、そんな対決を続けていけるような体力はない。この国がプロテスタントの追放とヴァンデの乱を越えて存続できたのは、当時はヨーロッパで人口の最も多い国だったからにほかならない。今日、若者の10%を格下の市民のような立場に追いやり、彼らのうちの最も優秀な者たちがさしずめ英米へでも逃げていってしまえば、それは取りも直さず、中級国家としてのフランスの終わりを意味するだろう。

(282ページ 結論 / 未来のシナリオ1 対決 より)

歴史と宗教と人口の変化を重ねて語られるので、納得してしまう。納得したくないことも、人口と家族構成の変遷で説明されてしまいます。



以下は、自分の親とその上の世代を見るときの感覚と重なります。

フランス国立人口統計学研究所(INED)の所長だったフランソワ・エランは、天才的なメタファーでもって、高齢者の人口が一挙に増加するのは、予測もされず、調節もされなかった大量移民現象のように分析され得るということを理解させてくれた。

 シャルリは歳をとっていく。すると、彼の後ろめたさのなさに拍車がかかっていく。彼はますます、自分の幼少時代へのノスタルジーの作用を受けるだろう。その時代のフランスには、ほとんど白人ばかりが暮らしていて、街にハラール精肉店〔イスラム法で食することの許される肉だけを扱っている〕がない代わり、学校の食堂で金曜日は魚と決まっていた〔カトリック教会ではキリスト受難の金曜日には鳥獣の肉を食すことを避ける〕わけで、教会と革命が共存していたのである。

 そう、事態はたぶんもっと深刻になっていくだろう。その後、好転することはあるのだろうか。

(294ページ 結論 / 予測可能な状況の深刻化 より)

わたしの親は昭和20年代前半生まれなのだけど、「後ろめたさのなさに拍車がかかっていく」感じは少し感じる。まえに同世代のヨガの修練者たちと「親が迷いなく口にする反中感情にギョッとする」という話になったことがあるのだけど(「うちも!」という人が何人もいた)、それでも親の世代は「自分の幼少時代へのノスタルジーの作用を受ける」ということはないように見える。ものすごくアメリカに憧れるべくインプットを受けてきた世代の人たちだけど、いまそれが逆転して、そこへがんばって対応しようとしているように見える。そこにわたしは尊敬の念を抱いたりもする。



以下の箇所はあえて順番を入れ替えて引用します。いずれも136ページから。

戦闘的な無神論は固有の神学を持っていて、祖先の神であれ、他者たちの神であれ、神の不在を主張するために闘うことを重視し、これを優先的なことと見做す。フランス社会を特徴づける宗教的混乱の中に、次の四つの基本的要素が見られる。

【1】無信仰の一般化

【2】被支配的状況にあるマイノリティの宗教であるイスラム教への敵意

【3】被支配的状況にあるそのグループ内部での反ユダヤや主義の擡頭(たいとう)

【4】その反ユダヤ主義擡頭に対する、支配的世俗社会の相対的無関心

 このような文脈においては、次のようなことが社会学的に、政治的に、人間的に明白だ。すなわち、イスラム教をフランス社会の中心的問題として指定すれば、フランス人のマジョリティにとってではなく、ユダヤ系の者にとって、身の危険が増大するのが必至であるということ。


この説明の数行前に、以下のことが書かれています。

 2015年1月7日の事件は、したがって副次的に、それより前の殺害事件ですでに明らかになっていた反ユダヤ主義に対する平静さを、ふたたび表出することになった。デモ参加者たちが集結したのは、最も重大なことを告発するためだけではなく、すなわち反ユダヤ主義、およびユダヤ教というマイノリティの宗教が直面しなければならない危険の高まりを告発するためではなく、もうひとつのマイノリティの宗教であるイスラム教に対するイデオロギー的暴力を神聖化するためだった。

(136ページ 第2章 シャルリ / カトリシズム、イスラム恐怖症、反ユダヤ主義 より)

連続して起きているテロ事件の根っこにあるものを理解したい人に、この説明は「おぉ」となる。

シャルリー・エブド」の風刺画の件は、「なんでああいうことに作業の手を動かせるのか」ということが気になっていたのだけど、殺された人たちの情報を見ると、若いのは編集長と警備員らで、絵に関わっていた人たちには70歳以上の高齢の人が多い。「これいまの時代だったらコンプライアンス的に吊るし上げられるよね」という表現は日本にも多いけど、宗教の冒涜という面ではやはり異様で、でもそれをやれてしまう感覚の人がいる。このモヤモヤに、この本は解を与えてくれました。

それにしても、自分はもうすぐ死ぬし。と思う年齢であったところで、あんなことするか? 「シャルリは歳をとっていく。すると、彼の後ろめたさのなさに拍車がかかっていく。」という解説は感覚的にわかりやすいけれど、自由の愛しかたとしては「ずいぶん変わった形」としかいいようがない。


わたしはフランスのコメディやユーモアがすごく好きなのだけど、この著者は最後のほうで、こんな語り口。

〔いま男の視点から説明すると……〕学問の人類学でなく具体的人類学が、イデオロギー上の普遍的人間を日常生活の普遍的女性に転じてくれる。また、差異を有する具体的人間を差異を有する具体的女性に転じてくれる。具体的女性となると、これは到底、概念みたいに簡単には拒絶できない。まして、すごく綺麗な女性だったりしたら尚更である。異国風の美女と、国産のブスの間で躊躇すると、フランス人の普遍主義者は一般的によき選択をする。フランス人女性も同じように行動するに違いない。男女関係におけるイデオロギー的なきまじめさの不在は、その上にものを打ち立てることのできるいっぱしの台座だ。フランスがフランスであり続けられるのはこのようにしてであって、間違っても、冒瀆に関するイデオロギーを育てることによってではない。

(296ページ 結論 / 共和主義再生の秘密兵器 より)

このあとも、うまいこと展開するなぁという語り口なのだけど、引用箇所は終論の章なのでここまでにしておきます。


最後に引用した箇所のような感覚がちょいちょい挟まれるのでわたしはおもしろくグイグイ読みすすめたのだけど、「きまじめ」な人には無理だろう。新書で出てるけど、これはノウハウでも分析だけでもない。冒頭にも書きましたが、「もし山本七平の本をリアルタイムで読んでいたら」という感じで、考えない習慣を矯正する効果としてはこの上ないです。

ただそれなりにむずかしいので、万人におすすめかというと、それなりにむずかしいです。


▼紙の本


▼Kindle版

2016-09-22 正直に語る100の講義 森博嗣 著

[]正直に語る100の講義 森博嗣

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いつもイッキ読みしてしまうシリーズですが、今回はゆっくり読みました。

いくつかの講義にまたがって「かねてより気になっていたこと」に言及があって、ちらちら見ては、わたしもいろいろ考えをめぐらせました。

キンドルには「ハイライト」という機能があって(付箋を貼っておくような感じ)、以下の講義のタイトルにハイライトをしていました。

  • 6:意欲を見ようとするから、意欲さえ見せれば、となる悪循環。
  • 17:自分が何者かという観測が、戦略において最も重要な情報だ。
  • 27:「オレオレ詐欺」のフィルタリング機能
  • 45:禁断症状なんて、普通の食品だってあるでしょう?
  • 51:「疑問の声」という場合、賛成する声は含まれない。
  • 54:「もう少し勉強してもらいたい」という批判のし方はみっともない。
  • 55:知らないならそう考えるのは正しい、と評価すべき。
  • 56:指摘を不満だと解釈する人たちの心理とは。
  • 58:「友達にはなりたくない」という表現の危うさ。

この51と56が、すごく気になりました。わたしもここに登場するような会話の展開になることが、たまにあるのです。


 どうも、そういうふうにさきまわりして勝手に萎縮する世の中らしい。だから、大げさに自粛したりするのだろう。さらに、さきまわりして火をつけ、炎上させて、人を苛めるのだ。言葉を言葉どおりに取らない人が本当に多いと思う。

(51 「疑問の声」という場合、賛成する声は含まれない。 より)

ここがすごく気になって。

わたしは長くインターネット・サービスの仕組みにかかわる仕事をしているのですが、「なんでこうしたのですか?」と聞くと、話が前向きに進まなくなることがあります。以前は女性に多い傾向かと思っていたのですが、相手が男性でもそういうことはあり、そしてそのあとにわたしが女性だからだろうか(いわゆる男性のプライド問題)とも考えてみるのですが、そうでもないのです。年齢性別に関係なく「ああやっぱりそこ、気になる?」「よくその仕様への疑問を口にしてくれた」と喜ぶ人はおり、それをきっかけに親しくなることもあります。

優先順位や判断の理由を訊かれるというのはうれしいことのはずなのに、なんで中身に関係なく萎縮するの? と思うことが多かったので、今回の51と56の講義は自分のことのように感じながら読みました。


56に「疑問=批判」と受け取る人の思考として、子どもの頃からそうであるという例が出てきます。

これはヨガを習いに来る人と話しながら感じたことがあったので、気になりました。ウェブの仕事のときは「予算がないのかな」「ポジションを守りたいのかな」などと組織にありがちなネガティブ要件を想像できるのですが、ヨガのように「そもそもそういう要件、ないよね」と思う環境でも萎縮の反応は起こる。

「いま○○さんがおっしゃったことは…」と少し細かく認識を掘り下げようと思ってわたしが口を開いただけで「あ、それは、そうじゃなくて…」みたいな感じで、本題に入る前に一瞬ブロックしたがる反応をごくたまに見るのです。もちろんネガティブな掘り下げはしないので、そのあと本題に入れるのですが。


このように「そういうのって、あるのだよな…。でも、なんでかな…」と思っていたことに共感する内容があり、ほっとするというのとは違って、あきらめがつくというのとも違うモヤモヤが形をなしてきました。こういう萎縮は増えないほうがいいと思うのです。

文章の中では、ほかに以下のフレーズをハイライトしました。理由は「はげしく同意」というところ。

飼い主に噛みつくしか選択肢がない人は、犯罪者にもなりやすい。

(10:「将来に不安がある」と答えた人が多い、という馬鹿なアンケート結果。 より)


本当の平和は、悪を封じるのに個人の怒りを必要としないシステムなのだ。

(52:怒りから平和が生まれるだろうか? より)


良い仕事をすれば、自ずと「これ誰がやったのだろう」と見た人は感じるわけで、必ずその担当者へ行き着くのだから、わざわざ出てくるのは逆効果ではないだろうか。

(66:コマーシャルが、単なるメディアになってしまった。 より)

とくに最後の事項にうなずきました。


ほかにも、93番目の講義にあった日本の書籍の発行日があやふやな件と出版界が復活するのは無理そうという話を読みながら、家電の「オープン価格」を想起しました。ばちっと価格を書いてくれないにしても、発売前に情報を読んでこれは欲しいかもと思った後に「オープン価格」って? となる。本の発行日と同じように、わたしにはこれがよくわからない。


大阪の人と愛知の人の言葉の話(ご夫婦の会話)を読んだときには、学生時代の思い出がよみがえりました。

わたしが学生の頃、「チビT(ちびてぃー)」というのが流行っていて(わたしの記憶では、それを流行らせたのはいしだ壱成さん、それを名古屋の友人が「ピチT(ぴちてぃー)」と言っていました。わたしは当時「ピチT」と言われると想起するイメージがもっとマッチョな人で、「メロリンQの人がTシャツを着る感じ(いまでいう山本太郎さん)」と思ったのでそのように名古屋の友人に話したのだけど、「えー? だからピチTじゃんねぇ」というまた独特の「主語どこ?」というイントネーションで返され、ふわっと話が終わったのでした。


今回は読みながら過去のことを思い出すことがすごく多くて、それはこれまで以上にわかりやすく書かれていたのか、わたしがこのエッセイの調子に慣れてきたために自分の記憶を紐付けられたのかわかりません。

講義の中には「言葉に敏感であることは、社会で生きていく基本事項だと思うのです。」で締めくくられているものもあり、言葉がつい気になる人におもしろい話が多いかと思います。いつものことながら、おすすめよ。


▼紙の本

正直に語る100の講義
正直に語る100の講義
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森 博嗣
大和書房


▼Kindle版

正直に語る100の講義
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大和書房 (2016-08-03)