うちこのヨガ日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-02-27 自分の体重の構成にものすごく繊細になると、ケガをしにくくなる

[]自分の体重の構成にものすごく繊細になると、ケガをしにくくなる

ごくたまにですが「ヨガでケガをしたことがない」というと「えー」という反応をする人がいて、わりとがっつり系のヨガをしていた人からは「あんなにヨガをしているのに?」といわれたりして、「ヨガをしているからケガをしないと思っているのだけど…」とループする。

そんなわたしも自然の中へいくと、10年以上ヨガを続けていてもよくケガをします。

川の中でよろけて石をつかんだつもりが、その石が苔まみれで指のあいだが裂けるような感じになって靭帯を損傷したり、踏み込めると思って踏み込んだ石がズズズと沈んで脚の付け根に痛みが走ったり。すり傷・切り傷・刺し傷など、絆創膏で対応するようなケガもよくします。

スキーでも、よくケガをしました。頭もたくさん打ちました。(これについては以前書きました)わたしが何歳になってもどうにもシリアスさに欠けてしまうのは、たぶんこのためです。


ヨガのときは自分の身体以外のところで重みを支えあうことがないので、あてが外れたようなことが起こる機会がありません。自然の中にいると、たとえば風にあおられて重みが加わったり、鳥が急に迫ってきたり、イレギュラーなことがあります。わたしの場合、ヨガは室内でやるほうがリラックスしやすいです。

ヨガでヒヤリとする瞬間は、意識を向け続ける瞬間の刻みが粗くなったり、異様にひとつのポイントにこだわりすぎたとき。自然の中でも同じように思うことがあります。野球やソフトボールの守備でイレギュラーバウンドをキャッチできたとき・できなかったときの意識の違いが「まさにそれ!」という感じなのですが、これは経験していないとわからないかもしれません。


こういう種類の執着は、それを続けようとする状態の人に外部から注意喚起しても、届かないことのほうが多いです。どこかが興奮している。(「びびる」も興奮です)

ヨガの場合は手順や理解の順番でケガのリスクを減らすことはできるけれど、ケガが起こるまでのストーリーとなると、それは個人単位のもの。内的な理由が根深いほど、外部からのアプローチでは届きにくいと感じます。


 自分の体重の構成にものすごく繊細になると、ケガをしにくくなる


一律で端的にいえるのは、このくらいじゃないかと思います。

呼吸が大切というのは、呼吸を止めると一瞬身体のパーツの中を移動する体重の流れを感じないようにすることができてしまうため、そういう小手先のことでなんとかやってしまう思考をパターン化させないためではないかと思います。まぁスピリチュアルなことをいえば、肉体と精神体をつなぐとか、意識を繊細にとか、そういうフレーズにもなるでしょう。

ちなみに体重の構成は「残っている便の量、便の質」にまで及びます。わたしがヨガのクラスでついつい便の話をしてしまうのは、そのためです。


人間は表情や表現に包まれているからごまかされやすいのだけど、動かすものは液体の入った肉袋。そのなかに心が格納されているんですよね…。

少しウエイトが落ちると動きにエレガンスが出てくる人が多いのは、単純に手足がつかみやすくなるだけでなく、体重の総量が減ることで管理できる範囲が増え、余裕が出るのだと思います。


▼自分を自分で管理するのに、ヨガはいいのよぉ〜

4月の日程まで更新しました。東京へお立ち寄りの際は、おいでになって♪

2017-02-25 この世にたやすい仕事はない 津村記久子 著

[]この世にたやすい仕事はない 津村記久子

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「お、おもしろい…」ひとことでいうと、こんな感想になる。

「おもしろい」ではなく「お、おもしろい…」です。最初の「お」と「…」が、読みすすめるときの安心感の元。バランスの取れた職業観って、どんな塩梅のことをいうのだろう? そういうことについて、うまーく、おもしろーく書かれています。

途中まで「変わったお仕事」の話の短編集なのかと思いきや、串刺しになっているテーマは、まるで恋のように落ちてしまう「仕事」とのある種の関係のこと。

「○○君のこと、好きなんでしょ?」「好きじゃないもんッ」「でもなんかいつも一緒に帰る機会がないか、さぐってる感じだよね」「そんなことないもんッ」みたいな、そういう微妙さ。

自分が無駄な熱心さを発動させていることに気づきつつ合理化するところなどは、うわぁーいやなところをついてくるなぁと思う。しかもその合理化をするときに、「まあまあ楽しい」と、まるで一歩引いたかのようなスタンスの言葉を選ぶところなんかがとてもリアル。


そして終盤になると様相が変わってくるのもいい。

"情熱的に熱心に誇りを持って仕事に取り組んでいる人間を見て無条件で敬意を持ってしまう" という感情は、いったいどこまで原始的な感情なのか。なにも疑わずに仕事と一体化できているかのように見える人に対するあこがれのような気持ちは、どこまで自然なものなのか。そういう、仕事に対してたまに思うけどいちいち拾わずに流している感情が、重すぎないタイミングでいつのまにか差し込まれている。


仕事をしていて自分はマゾなのじゃないかとか、なにか奴隷DNAのようなものが埋め込まれているのではないかと感じたことはありませんか?

わたしは以前、あったんですよね…。そして今もなにかの拍子にその種が発芽しやしないかと、ゾワッとすることがあります。これは仕事や職場を変えるというよりも「仕事と自分の関係」についてじっくり考えてみないと見直せないもの。

この小説の第4話に、こんな脳内セリフがあります。

べつに来いって言われてないのに、ついていくぜとか言っている。これは仕事との不適切な関係である。

「来いって言われてないのに」ですよ。ここなのよーーー! と、ぎゃぁぁぁぁー! っとなりました。


わたしはなにかに夢中になるときの着火点は義憤と私憤の中間にあるのではないかと考えたことがあって、これについてうまく説明はできないのだけど、この小説にはその「中間」に至る瞬間がすごくおもしろく書かれていました。

「好き」とか「夢中になること」について、急にアクセルを踏むしかない感じになったり、逆にちょっとした指摘で急ブレーキを踏んでしまう、そういう中間制御のむずかしさを感じたことのある人に、すごくおすすめです。


▼紙の本


▼Kindle版

この世にたやすい仕事はない
日本経済新聞出版社 (2016-06-17)

2017-02-24 うさぎとマツコの往復書簡 中村うさぎ×マツコ・デラックス

[]うさぎとマツコの往復書簡 中村うさぎ×マツコ・デラックス

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「何年も前の本なのだけど、いま読むと興味深い」と友人が話していたので読んでみました。なるほど読み始めると、いきなり小池百合子さんについての話がおもしろい。

往復書簡形式なのだけど、毎回140キロ出せる人同士のキャッチボールのように、返信の結びが毎度毎度ドスンと重い。

以下は「小池百合子に関しては寛容になれない私がいる」と書いた中村さんへのマツコさんの返信なのだけど…。

 男メンタリティの嫌いなアンタには、男のメンタリティを持つ女はイコール男と同類で、あまり好きではないってことなんだろうけど、アタシはその発想、ある種の男尊女卑なんじゃないかと思ってしまうのよ。

とこのように、まるでヴィヴェーカーナンダかと思うような指摘があって、

さらにこのあと中村さん自身が自分のなかへ潜っていき……

「自分の中にある女性蔑視」に気づいたこととして出てくる内容が

それは私の場合、ベッドの中で顕著に現れる。気持ちよければ男とも女ともセックスできる私だけど、男に攻められるのは好きなくせに、女に攻められるのはプライドが許さないの。

と。これはすごい発見ではないだろうか。



中村さんの以下の自覚的なコメントも、すごく印象に残ります。

 私が美容整形やデリヘルやらを積極的にやってきたのは、自分の中の「女」をパロディ化したかったから。要するに「女オカマ」になろうとしたわけよ。それがどれくらい成功してんのか、私にはよくわからないけど、自分的には「笑い」の要素がどんどん少なくなってきちゃったのが大きな失敗だと感じてる。

 私が私を笑っても、世間が笑ってくれなくなっちゃったのよね。ああ、イタいわぁ〜!

この箇所を読みながら、壇蜜さんのエッセイを思い出しました。中村うさぎさんも壇蜜さんも同じく「女のパロディをやっている」という自覚がある。それを自覚した後のことは、突き詰めるとお金の稼ぎ方の違いでしかないのかもしれません。

自分の中に住む制御のむずかしい暴れ馬的存在を明かしあう様子が、まるでカウンセリング・バトルのよう。

カウンセリングなのに、試合になっている。不思議な往復書簡です。


▼紙の本(文庫化されてます)

うさぎとマツコの往復書簡 全身ジレンマ (双葉文庫)
中村 うさぎ マツコ・デラックス
双葉社 (2014-09-11)


▼Kindle版

うさぎとマツコの往復書簡
毎日新聞社 (2012-07-23)