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2017-01-17 アルコール依存症は治らない 《治らない》の意味 なだいなだ・吉岡

[]アルコール依存症は治らない 《治らない》の意味 なだいなだ・吉岡隆 著

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わたしはアルコール依存症といわれるものを「治る」「治らない」という文脈では語れないものだということを、なかなか他人に説明できません。

いまは若い人がお酒を飲まなくなっているというので、そこについてはとてもよいことだな…と思うのですが、あまりそういうことも口にはできない世の中です。飲みたくても飲めないのだ! という怒りへの返答は、ヨガをしたくてもできないのだ! という人への返答とよく似ていて、「知らなくて済むのであれば、それはそれで幸せなことかもしれないのだけど…」という気持ちになります。

こういう状態が「治る」って、どういうことを言うのだろう。生きているうちに証明できることだろうか。そして証明するとは、誰に対して?

これはまるで「悟った」ということを証明しろというようなもの。そんなことを、コンビニでお酒が買えるようになってしまったこの社会で、どうやるの。わたしは一時期、よくそんなことをよく考えていました。



 「治らない」というのはどういうことか



この本のすごいところは、3つの章それぞれが違う角度で「ああ、治らないというのは、こういうことか」という状態を示してくれるところ。

第1章では往復書簡のようにメールでのやりとりが編集されているのですが、まるでチョギャム・トゥルンパと彼に質問をする人のような鋭さでドキドキします。メールなので「待ち」の姿勢がとりやすいためややマイルドに進みますが、内面に向かう過程での皮の剥ぎかたはけっこうヒリヒリきます。

「はじめに」でなだいなださんが述べられている以下の箇所は、医者ではないけどわたしもうなずくところです。

  • ぼくは医者としての経験を積むうちに、理性など、哲学の講座の中の言葉であって、臨床の場には不似合だと考えるようになった。臨床の場で有用なのは常識だ。理性と常識は混同されやすい。だが似て非なるものだ。

  • 《売る》という言葉に、引っかかるかもしれないが、心理療法家は、分かりやすくいえば、真理を売る人ではなく、常識を売る人だ。そこが宗教家と違うところだ。

インドの哲学もそうですが、「理性」にあたる言葉が出てくる分解説明にうっとりしてしまう人は多く、そんなとき、ああこの人は自分を取り巻く常識から逃れたいのだな、ということがよくわかります。そしてその後は逃れ先を探す方向が全能感に向かうか否かでまた分かれます。

医師による「常識を売る」という言いかたの「売り手としての誠実さ」を理解する人って、どのくらいいるだろう。



以下の言葉も、ズシンときます。

医者は《病気》と診断するとき、生物的人間の面しか考えていない。だがアルコール依存は社会的人間の病気の要素が強い。生物的人間の病気は治癒する。アルコールによって侵された体は、一ヵ月も断酒すれば治癒する(かのように見える)。治癒したのは生物的人間の部分だけだ。それも完全ではなく、最飲酒すれば、すぐ離脱症状がでるところまで逆戻りする。

 だが、社会的人間の部分は、失った信用のために、社会復帰を妨げられる。社会的人間には治癒はない。断酒を続けることで信用を取り戻す必要があるのだ。

(第三章 常識を治癒する 常識を治すには教育が必要だ より)

本人が失った信用から目を背けたいうちは、関係改善に向かわないんですよね…。信用しなくなった側の記憶は消せないから。アル中の人は他人に迷惑をかけたり暴力をふるっては、あとでうやうやしくしたりプレゼントをくれたりするけれど、相手の記憶を消せると考えていることを露呈させてしまうその行為がまた墓穴を掘ってしまう。「埋め合わせ」という魔法は事実上この世にないということを認識できない状態は、周囲にとっては「大人がサンタクロースを信じたいと言っている」のと同じなのだけど。


たとえば仕事でいえば「口の軽い人や大げさな人には重要な仕事は回ってこず、雑に扱われる」というように、個人の抑制力とリンクする「自分がどう扱われるか」という基準は常に社会のあちこちにあるのだけど、結局は行動の蓄積で信用を得ていくしかないんですよね。「治った」って、どうやって証明するの? というむずかしさもここにある。

この本は、「いいことしたという気分によって、自分はなにかを麻痺させようとしている」という状況にハッとしたことのある人にもおすすめです。なんでおすすめかは、第二章を読めばわかります。


▼紙の本


▼Kindle版

2017-01-16 人を操る禁断の文章術 メンタリストDaiGo著

[]人を操る禁断の文章術 メンタリストDaiGo著

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読みながら「そうだよな…」と思いつつ、「でも本当にこればかりやると消費のされ方の質が下がって、せこいの人との関係が強化されてしまいそう…」なんて考えながら読みました。わたしにとっては、「やるべきではないリスト」も多かったです。

文章というのは不思議なもので、読む人がどんどん脳内変換して相手を悪人にしたり理想化したりします。画面に向かって Read Only で過ごすだけの人が多い昨今は、人たらしの文章くらいはとっととマスターしておくのがクールということでしょうか。

この本は「相手に行動を起こさせる文章」にウェイトを置いてあり



 レベルを上げすぎず、話しかけるように。



ということが大切と書かれています。

でも世の中にはものすごく濃密な文脈でコミュニケーションがとれる人もいるので、「わからない人にも、わかりそうに書く」ってのは、やりすぎてはいけない黒魔術のようにも思います。わかりそうなだけで、結局はわからないのだし。


多くの箇所を「やるべきではないリスト」として読みつつ、でも説明の以下はすごく、実感としてほんとうにそうだと思いました。

人は論理で納得しても行動には移りません。

逆です。感情によって行動したあと、その行動を正当化しているのです。理屈をつけて、「正しい行動をした」と自分で自分を納得させているのです。

(第2章より)



仕事上の付き合いのみで、事務連絡のようなメールをやりとりしているだけでも、言葉使いや案件に対する考え方から人柄は伝わってくるもの。

(第3章より)

この本は、理由の説明の箇所に「そんなこと、あけすけに書いてしまわないで」と思うところが多かったです。「あけすけに書いてくれている」と思っている時点で、わたしもこの人の術中にはまっているのだけど。

内容としては、「承認欲求をくすぐろう」とか、もう、策士すぎてこわい(笑)。

わたしがなるべく避けていることがたくさん書かれていました。


それはさておき、わたしはこのメンタリストさんの見た目や話し方がすきです。術中にはまっているのでしょうか。

そのことを友人Hさんに話してみたら「えー。意外。あの人、自分自身が定まらない感じなのに "メンタリスト" って、どうなのと思っているのだけど」と言っていて、おもしろいと思いつつも「いいや、魅力的な人というのはきっとあのようにユラユラしているのだ。そういうものなのだ。阿修羅像だって、微妙な表情の構成じゃないか」とさっそく脳内変換で美化しようとしていました。

わたしはこのメンタリストの術中にはまっているのでしょうか。


▼紙の本

人を操る禁断の文章術
メンタリストDaiGo
かんき出版


▼Kindle版

人を操る禁断の文章術
かんき出版 (2015-02-06)

2017-01-15 ジャミーラの青いスカーフ Rukhsana Khan(原著)/ もりうちすみこ

[]ジャミーラの青いスカーフ Rukhsana Khan(原著)/ もりうちすみこ(翻訳)

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表紙の雰囲気に誘われて読んだ児童文学。アフガニスタンの孤児院の報告書にあった記録や実際にあった事件をもとにしたフィクションとのことですが、序盤は「おしん」の初期のようなストーリー。その途中で挟まれる、少女が母親から聞いた話の回想や脳内トークからイスラームの教えについて学ぶことができます。

児童文学だけど登場人物の特徴が大人同心の人間関係の縮図のようでもあり、けちな人、慈悲深い人、意志を持った人、さまざまな人の価値観や行動が描かれます。

状況がきついときに信仰を支えにする部分を読むと、人が宗教へ向かっていくときの気持ちがよくわかるのですが、なかでも以下の粘度と火入れの話は、とても印象深かったです。強いつぼをつくるコツは「火入れ」にあって、かまどから取りだすのが早すぎたつぼはすぐにひびが入って使いものにならないのだ、という母親の話を回想する場面。

 そのとき、母はいった。わたしたち人間も、粘土なのだと。アッラーは、アダムを粘土からつくられた。そして、わたしたちはみな、アダムの子どもだ。わたしたちにとって、ものごとがうまくいかないとき、それが、火入れだ。早く火から出たくても、じっと火の中でがまんしなくちゃならない。ひび割れの心配がないほど十分焼けたら、アッラーが、ちゃんと取りだしてくださると信じて。(16ページ)

ヨガにも身体を器のように焼いて強くするような考えかた(ガタ・ヨーガ)があるけど、ここでは精神について強い粘土つぼの話がされています。



怒りの感情についての描写は、こんなふうに自分は考えたことがあっただろうか、というものでした。

こんなに泣いて、いったいなにが変わったというのだろう? なにが解決したというのだ? わたしの状況は何ひとつ変わっていない。そもそも、怒りなんて、自分で状況を変えることのできる人にしか意味がないのだ。(165ページ)

冷静にここだけ読むと、たしかにそうなんですよね…。この物語は一人っ子の少女が主人公なので、自分で状況を変えることがすごく難しい立場。親にとって便利に使えれば売れるし、使えなければ捨てられる。この設定で書かれると、「考えても意味がないから考えない」ということがすごく自然に感じられて、「考えないということに執着する」という方向へ流れる心のはたらきの背景を見せられた感じがします。



読んでいると昔の日本人女性もこんな感じだったのではないだろうか、と思うところが多いのだけど、以下のような考え方はやっぱりこの信仰の独特なところだと思う。

 預言者の妻たちは、強い人だった。自分の虚栄心を、ちゃんとおさえることができた。わたしも、そんな人間になりたい。(232ページ)

この物語には、女性が抱く自尊心のありようがさまざまなバリエーションで出てきいます。

児童文学なのでかなり役割は勧善懲悪でわかりやすいのだけど、少女時代に色濃くある美醜に対する区別の感情にイスラーム女性の観念が重ねて書かれています。

中盤にある外国人との交流などは「スラムドッグ$ミリオネア」のようであり、あれよあれよという間にとっとと読まされてしまう。

戦争、成功不成功、貪り、アルコール依存、自尊心をあつかいそこねること、弱いものを犠牲にしてうそをつくこと、いけないと思いながら湧きあがる区別の感情、そして祈り。フィクションだけど、少女が「なぜもっとまじめに祈らないのだろう」という義憤を抱く瞬間などは感情として妙にリアルで、読み終わった後も、このリアルと感じる要素をあっさり「勇気をもらった」というようなフレーズで片付けてはいけない気持ちがしています。


ジャミーラの青いスカーフ
ルクサナ カーン
さえら書房