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2017-09-26 加害者家族 鈴木伸元 著

[]加害者家族 鈴木伸元 著

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先月観た「ELLE」という映画をきっかけに原作本を読み、そのあとがきにあった「失敗を許さない社会」の考え方から、この本を読んでみました。

映画のなかにある加害者家族への扱いが、意外とフランスもこんな感じなんだという描かれかたをしていたので、あらためて国民性のようなものに目を向けようと思ったのでした。

東京では、殺人事件でなくても、大きな話題になる横領などの事件でも異様なメディアスクラムを目にしたり、記者が張り込んでいるのか? と思うような状況をたまに目にします。そして実際、人違いで迷惑行為を受けた例を聞いたこともあります。車に傷をつけられたり、なんだかもう大変です。なので被害者家族・加害者家族となれば、それはもうそうとう大変だろうと思う。この本を読んだら、その大変さは想像を超えるものでした。

そして、以下は冷静に考えると、たしかに多くなるはずの状況。

 今回の取材を通じて、ある一人の女性から「加害者家族」が立たされる中でも、最も難しいであろう状況についての話を聞くことができた。

 その女性は「自分は被害者の家族でもあり加害者の家族でもある」と語った。女性の身内が別の身内に危害を加えたのだった。女性は誰にも話せない苦しみをどうにかしたいと、犯罪被害者の団体にも連絡をとったが、「会には参加させてもらえなかった」という。

 実は、こうした家族内に被害者と加害者がいるというケースは殺人事件の大半を占めている。 

 最近、無差別殺人や猟奇的な事件が社会を騒がせるため、そうした事件が多いように感じられるかもしれないが、実際のところ、殺人事件のうち最も多いのは、40%前後を占める「家族内殺人」である。父母、配偶者、兄弟、子どもが被害者となるケースが大半なのだ。傷害致死の場合も、およそ40%が家族内に加害者・被害者がいる。

(第二章「家庭内殺人」の惨事 より)

借金問題レベルでもしんどいのに、こんなふうに抱えていくことになるしかない状況での板ばさみは、想像するだけで苦しい。この本にも、夜逃げして離婚して姓を変えて信頼できる人にかくまってもらって、その人にも迷惑がかかってしまって…、という事例が出てきます。



そして日本の社会は、やっぱりここが苦しいと思う。

 日本という社会において加害者家族が置かれる立場を理解する上で、「世間」という概念が一つのキーワードになってくる。「世間」は社会学者の阿部謹也が導入した概念であり、現在では佐藤直樹が分析を深めている。1年に1回「世間学会」という学会も開催されている。

「世間」においては人権や権利はない。あるのは「贈与・互酬の関係」、つまり「お互い様」という関わりだけだ。贈られたら贈り返さなければならない。別の言い方をすれば、やったらやり返されるということになる。

 西欧的な意味での「個人」は、「世間」には存在していない。西欧的な社会の概念では、一人ひとりの確立した「個人」が集まって「市民社会」を作り上げているのに対して、日本は個々人があいまいな「世間」によって成り立っているというのが、その概念の簡単な説明になる。


(中略)


 事件が発生すると、加害者家族は、個人が存在しないこの「世間」に取り囲まれる。嫌がらせの手紙や電話、落書きは、ほとんどが匿名によるものだ。集団で同じ行動をすれば、匿名の個人は目に見えない存在として、集団の中に紛れ込める。結果的に常に安全地帯から意見表明をすることができる。そして「世間」による加害者家族への攻撃はエスカレートしていく。

 さらに、匿名性が極めて高いインターネットが、もともと匿名性の高い「世間」の暴走をさらに加速させている。

(第四章 「世間」の怖さ より)

少し前に読んだ「おもてなしという残酷社会」では「お互い様」のポジティブな側面が語られていたけれど、「お互い」に「関係者」がいて、さらにつながりがあるという視点の半径の大きさについてはあまり語られていませんでした。あなたが攻撃したい対象にとって大切な人が、わたしにとっても大切な人かもしれないという想像のほうへは向いていなかった。

でもひとつ前の引用箇所のように、被害者と加害者がクロスするような関係は、コトが身近で起こっている場合にはすごくたくさんあります。勧善懲悪仕立てではない設定で他人を勇気づけたくても、すんなりいかない。それ以前に、まだまだ地獄を見ないと進まない。わたしにはいまの社会がそんなふうに見えます。


わたしは2年前に、自分のヨガクラスやイベントで集合写真を撮らない理由をここに書いたことがあるのだけど、実際のところはさらに理由があります。

たとえばDVをやめられない家族をなんとか振り切って生活を立て直した人や、ざまざまな状況の中で再生中の人にも参加できる場にしたいから。職場にヨガをしている人がいて Facebook をやっているのだけど、知られたらなにか聞かれるだろうな…、なんて思うのはシャンティじゃないでしょうか。みたいな理由で悩んで欲しくないなと思っています。

世の中も個人も、関係はそんなに単純ではないと思うんですよね…。


「ELLE」からの流れで思わぬ方向へつながっていったのだけど、でもこれはかねてよりわたしが考えていることでもあったから、やはり「救い」以前の「世間体」というのは、無視できないというか、無視すると生活上に矛盾が発生するんですよね。

海外ではヨガニードラが自身にポジティブな宣言をしていくものとして受刑者へのセラピーに活用されていると本で読んだことがあるのだけど、日本の場合はまだまだ「ポジティブ」が表面的であると感じます。

表面的だという自覚をもっていることすら、表明しずらいのが現状です。


▼紙の本


▼Kindle版

2017-09-25 雨・赤毛 サマセット・モーム 著 / 中野好夫 訳

[]雨・赤毛 サマセット・モーム 著 / 中野好夫

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ものすごく魅力的な転校生の女の子がやってきた。

そのクラスはちっちゃいジャイアンみたいな野蛮で子供っぽい男子ばかりなのだけど、そのなかに「博士」というあだ名で呼ばれる秀才と、「住職」というあだ名で呼ばれるきまじめな男子がいる。そんなクラスで起こる、あまりにもナマナマしすぎるできごと。

この女の子の転校生は


 プロの転校生


嫌がらせやアテンションに適当に反応しておくことなど、朝めし前。

この三人が、どっちの作戦にどっちが乗ったのかわからない意地悪と仲良しを繰り返し、やっぱりなーという展開になる。なんだけど、そこ、過程みせてくれないのね…。というもどかしさがいい。ものかしさをひっぱりつつの、ラストもいい。

この物語は、途中でどちらがどのタイミングで負けたのか、あるいか仕掛けたのかという推測をぜひ友人と語り合いたくなる。そういう、身近な人の間で話題性をもたせてくれる要素がふんだんにある。

ものすごく気持ち悪いセリフがあって、ぜひ記録しておきたいと思った。

「ああいう女はもう存在そのものが恥辱であって、なにも他の島へやったからって、どうにもなるもんじゃない。結局どうも私はうんと取っちめてやるより仕方がなかった。」


「あなたはおわかりにならない。つまりあなたが盲(めし)いておられるからなんです。彼女は罪人です。だから苦しまなければならない。どんなに苦しいか、私にはよくわかっています。飢え、悩み、辱めを受けるでしょう。私はあの女に、人間の与える刑罰を神への犠牲として受入れてもらいたい。喜んで受入れてもらいたいのです。彼女はわれわれ殆んどが恵まれない絶好の機会を与えられています。神様の愛と恩寵は実に驚くべきものです。」

モーパッサンの「脂肪のかたまり」と似たテーマを扱っているのだけど、もっと直球でグイグイくる。この短編集に収められた代表作「雨」は、そんな物語でした。(設定は全然違います)



この短編集には、ほかに「赤毛」「ホノルル」という物語が入っていて、これらもまたおもしろい…。今日は冒頭から設定を変えて感想を書いたとおり、サマセット・モームの短編は感じるポイントで個人の意識がかなりあぶりだされるから、設定からしてネタバレしないほうがいい。なので、設定を伏せて感想を書くと…


「赤毛」

愛の反対は無関心だと言ったのはマザーテレサでしたっけ。この物語は、そんなところは見たくないという心の扉をメリメリとこじあける。恋の悲劇は死でも別離でもないという。愛の悲劇は無関心だという。

物語の展開が、「どうせ死ぬのだし」とふてくされている人をフックにはじまっていくのがおもしろい。このあたりの構成が、ほんとうにうまい。

一生ふてくされながら生きていくのは、とてもしんどいこと。そういうことを、美しい景色の描写とのコントラストでありありと見せてくれる。


「ホノルル」

先の二つの物語にも通じるテーマがふと明らかになる部分がある。人の心を改めさせたいという気持ちが人間の中に起こるとき、神を引き合いに出す人のこと。

「一流の金持というのは、みんなもともとは宣教師ですよ。」というセリフがある。この第一次世界大戦時代の英国人作家の目線には、他人の心を善意という大義名分のもとにコントロールしようとしながら、物質欲もちゃっかり満たしたいという文明人へのツッコミが満載。

その神の利用のしかたに、東洋人はどう対抗するか。この物語は、この対比がすごくおもしろい。


この短編集は、訳が淡々としているのもよいです。「肩を聳やかす(かたをそびやかす)」なんて日本語も覚えたりして。

戯曲じゃないのに独特のリズムとスピード感があって、クセになる。東洋人の描かれた方もおもしろいです。


雨・赤毛 (新潮文庫―モーム短篇集)
サマセット・モーム
新潮社

2017-09-24 三点倒立ができると、腰と腹でも考えられるようになる。そして頭は休

[]三点倒立ができると、腰と腹でも考えられるようになる。そして頭は休まる

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まえに「倒立は大規模な人事異動のようなもの。膝下部門には引っ込んでてもらって!」というのを書きましたが、今回は少し頭にフォーカスして書きます。

三点倒立は、自転車の乗り方を習得するようにコツをつかんで乗れたら再現性が高いまま着実にいける人もいれば、そうならない人もいます。後者の人は、頭でモノゴトをコントロールできると考える信仰が強すぎるかもしれません。あたま信仰。

頭でっかちというよりは、時代的にそういう感じ(あたま信仰)になっていくものと思っています。



 勉強熱心な人ほど苦戦するのが三点倒立であり、

 それは、別の視点でいうと

 「たいへん救いのあるところ」でもある



わたしは倒立やアームバランスなど、脚以外のところでバランスするもの全般の練習に、こんなことを感じています。

救いがあるというのは、「王道を歩いてきたはずなのに、うまくいかない」「勉強したのだからうまくいくはずなのに、うまくいかない」という状況に立ち向かう力をつけてくれるから。

たとえばなにかの機会を得ようとするとき、「よいとされる手続きを踏んだのだから」「資格を取ったのだから」「成功した人と同じルートを選んだのだから」という手堅さだけではどうにもならない基準があちこちにあって、勉強熱心なほど、いろいろなことのハードルを自分であげてしまったりする。でも世のなか、手堅さだけではどうにもならないこともある。

そんなときにいつものスタンスでふんばっても、展開しない。別の角度の視点が流れを変えてくれる。



 頭を涼しくするのは、おとなになると、むずかしい



三点倒立の練習中には、この「頭を涼しく」の状態を作るために、腹筋と背筋の感覚を小分けにしていく感覚が育ててくれるようなところがあります。


練習の過程では、身体のグラッ、グラッという揺れと不安を乗り越えていくことになるのですが、この「グラッ」でいっきに頭に血が上ってしまう。多くの人が投げ出したくなってしまうのはここで、自分の感情を自分の不安の火であおってしまうことに耐えるのがつらい。つい、ひとりごとも多くなったりします。



 ひたすら、思考を頭以外の部門に分散しつづける



むずかしさの理由は、心の容器である身体が逆さまになることで揺れる、感情のコントロールにあります。物理的にはむずかしくないんですよね…、三点倒立は。

感情の揺れからくる負荷を身体のあちこちへ分散していかないと脚が上がらないのだけど、頭でがんばればなんとかなるだろうと、普段の信仰を採用してしまう。あたま信仰。

でも神さまは、しれっとおへその奥に移動している。


こういう直観を得るのに、倒立やアームバランスは、やっぱりすごくいい。なので、普段のクラスでもメニューに入れるようにしています。

いまはスマホの普及で調べたいときに検索できる端末が身近になって、今後ますます指先と頭だけでがんばろうとしたり、情報だけを得て安心することが増えていく。でも生きていくうえでは、ワイルドセンスが必要なときもある。

ヨガは、ワイルドセンスを育ててくれます。



(おまけ:ヨガクラスのお知らせ)

◆東京で練習したくなったら

倒立のさまざまな過程を見ることができるのは銀座のクラスですが、高田馬場でもワイルドセンスは磨けます。


◆10月9日(体育の日)に東京・自由が丘で三点倒立とバランスポーズにフォーカスした練習会を行います。


◆10月29日(日)に名古屋・藤が丘の「Jyoti Yoga Studio」で、東京の銀座・高田馬場クラスと同じ内容(&アームバランス練習会)をやります。


◆11月3日(文化の日)に新潟県三条市「三条ものづくり学校」で三点倒立とバランスポーズにフォーカスした練習会を行います。


※神戸は12月に行きます。ただいま会場と調整中です。もうちょっとまっててー。