うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ゾンビ化する人々 人類には4つの種族がいる 鈴木ほうざん 著

ゾンビ化する人々 人類には4つの種族
道場仲間が貸してくれました。
紹介するにあたって、非常に難易度が高いノリ(本そのものというよりも、紹介することの……)の本ではあるのですが、ネット掲示板発の「ヨコ書き」の書物(あのテンションを、タテ書きでは表現できまい)もなんとか咀嚼。
このブログの読者さんは、うちこがこれまで読んできたわりと古典的な本の紹介に慣れていると思うので、はじめはとっつきにくいノリかもしれませんが、文章の語調にアレルギー反応を示すのはもったいない。


この本は、「他人を嫌いになってもしょうがない状況に対するハウツー本」のような印象。
ちょうどこの本を読んでいた頃、仕事で「初対面の組合せで行なわれる会議」が目白押しで、この本に助けられました。いつも「うーん、ここは、どうしておきましょう。ずばっと問うのは、次回にしようかな」と考える。
ひとりに言うと、「(仕事のミッションや顧客ニーズに関係なく)わたしは、やりましたから!」「わたしは、わたしなりに考えているんですよ(でも、手ぶらなの)」ということの駄弁によけいな時間を使ってしまう人が発生する。そんな毎日を送っています。なので、人間観察の瞬間がものすごく多い。


これまではめちゃくちゃインドっぽく、「ああ、この人はタマス多めだな」とか「うわ。この人めちゃサドヴィック。仲良くなりたい!」とか、3つのグナで体感解釈をしていたのですが、この本はそれを別の表現で具体的に書いてくれています。


先に、この本の特徴的な「人類の分類」について書かれている箇所を引用しておきます。

<46ページ 「パー」と「グー」と「チー」より>
この世の中には、

■1:自分が、迷うことにならないように、迷うことを恐れながら、その結果、月並みな世間に合わせて、何に対しても「それはどうしてか?」とは、考えないようにして、生きている人たちがいる。

■2:自分で、考え、沢山迷って、時に恐れを知らず生きている人たちがいる。

■3:何も迷わないし、迷うことすらも恐れない人たちがいる。

これを、私は、
1 (ー_ー) 2(○_○) 3( _ ) と図にしています。

このような分類がされていて、この3つに属さないのが「ゾンビ」という分類になっています。
グナとはまた違う感じなの。グナは「そのときの状態」で変化するけれど、この分類はもう、「そういう人。以上」という分類。

<41ページ ゾンビという命名の由来 より>
私のいってるゾンビは、
実行もしないのに、あたりまえのことを言う人。
本音をいわないで、たてまえばっかで話す人。
まわりにあわせて、自分をもってない人。
わかりやすく、ゾンビという形でまとめたまでです。

というのが、ゾンビさん。



では、この流れをふまえつつ、いつものように、紹介行きます。(なるべく愚痴っぽくならないように〜)

<24ページ 起きている人と 眠ったままの人との断絶 より>
「これはよしやるぞ」と思ってやるのは「本人の積極的な意志」だけど、でも、「間違いたくないから・・・神様にしかられたくないからする」と、こういうのは、「恐怖」から何かをすることなんですよ。

ぜんぜん、違うでしょ?
やりたいからやる子供と、親にしかられないようにやる子じゃ。
この喩えでわかるように、違うんですよ。

罪悪感なんて持つと動機そのものが不純になる。
で、その判断も、言うことも、結局「変なこと」になる。
「スカスカの中身ないこと」ばっかりに。

何かやっちゃっておきながら、何をやったのかも自覚していないのに、あとから謝ったり。何か言われないために、最初に謝っておいたりと。
自分を必要以上に、謙虚にみせたり、などです。

「自分を必要以上に、謙虚にみせる」は、「謙虚モードでやっときました」というメソッドか。メールの中には、かえって失礼な敬語があふれてる。

<29ページ 起きている人と 眠ったままの人との断絶 より>
しかし、確実に「不毛性」がそこにあるのに。
そんな簡単なことも認めようとしない。これは心の病です。

共感。沖先生の「信じるな、疑うな、確かめろ」ってのは、仕事の面でも本当にいい教えだと思う。

<56ページ 薬物やアルコールの常用者はゾンビ化する より>
うつ病はまた別モノです。
「典型的な」うつ病の場合には、乱暴に経過を書くと、
たとえば、それこそサラリーマンのストレス系のうつだと、


■1:そもそも最初の社会とか人生に関する価値観自体が他人からの受け売りで、その人生観に創意工夫の形跡がなく、最初からして自発性がない。

■2:それがあるとき、会社の命令による激務などでストレスを蓄積。

■3:酒などを飲んで睡眠障害を誤魔化すも、内臓疾患や、原因不明の発作などを発病。

■4:そこから無気力〜挫折感〜自己嫌悪〜絶望感〜自殺願望、と、お決まりコースになり、

■これまた、お決まりコースの「薬物治療」で「半端に」社会復帰。


このプロセス全体に共通するのは、「主体性がひとつもない」ということです。


1:最初の価値観も主体的でないもので、

2:次のストレスすらも、これも他人や社会という外部から与えられたもの。

3:最後も医者と薬の力で他人から与えられたもの。

4:発病のきっかけも、治療も、全部、外部からのもの。


で、こうなったケースでは、完治または症状が改善したと称する人々の典型的な言い分が、まるでロボットのように口を揃えて、


■1:家族の支えが必要
■2:友情が必要
■3:小さな幸せに価値を見出さなければいけないんだ


と、まるで、刑務所で教科書通りに更正させられた囚人みたいなことを言い始め、しかも、彼等はすべてその意見が画一化している。
カウンセリングとか精神科の治療というのは、カルト宗教か? と思えるほど、生気のない「仕上がり」で彼らは戻って来るのだ。

現代の人事担当者って、大変な仕事だと思う。

<62ページ パー(○_○)の人との対話 より>
その「視点」(私言うところの目とか「パー」)を得ている人には、ひとつの特徴があって、それは、物事の2面性を、同時にあるいは交互に検証する癖があるということ。
(中略)
だから、パーの人のひとつの特徴というのが、物事を必ず、まったく正反対から見る癖があるということなんです。

で、それが、どうしても哲学的というか、論理的に行くところまで行ってしまい、中途半端にどっちかに加勢するということが出来ないので、最後は、どっちも同じものに見えるような地点に至ることになる。

わたしは、そういうところがあるかもしれないなぁ。

<80ページ 無自己の探求をしたある女性の話 より>
あんまり、しんどい自分を見るのがつらくて、それでも見なければならず、目を閉じることも出来ないでいると、自己否定とか、自己消去が起きるわけですね。
するとね、スイッチが、切れるんですよ。自分スイッチが切れる。

このときに、ふたつのスイッチの「切れ方」があって、

●1:「見ている目」だけが、残されて 見られる世界が希薄になるスイッチと、

●2:「見ている目」が消えて、「見られる世界」だけが残るスイッチ

(中略)バーバラさんは、前者だけが、その後続いたのだと思います。

「バーバラさん(女性・仮名)」って書いてあったのだけど、この人のこと? と思いました。

<82ページ 無自己の探求をしたある女性の話 より>
よく、「地に足のついた生き方がどうのこうの」と、ゾンビがいいますが、実のところ、そんなもの、冗談ぬきに、一定期間、足の裏に意識でも過度に集中してりゃいいのですよ。

おっといきなりここでサマスティティヒ。

<156ページ 他の種族を邪魔するゾンビの手口と戦ってきたパー種とグー種との違い より>
…正常グーの人がゾンビに壊されないようにするには
…どうしたらいいんだろう

これについては、『正常グーがゾンビに取りこまれないためには、とりあえずのまとめ』を書いておきました。


■1:自分をのめりこませる人生の目的、夢、目標に没頭する

■2:完全燃焼を心掛ける、燃焼しているか、振り返る時間を持つ。

■3:自分とその人の間の利害関係をいったん脇に置いて、その人の言っていることも脇に置いて、臭覚で、自分によぎるかすかな違和感を逃さない。

■4:ここで語られた、ゾンビの特性について復習する(笑)

■5:パーと分かり合えるという幻想を捨て、パーとの距離を尊重できたら、パーとの共存ができるので、パーの人からゾンビの見分け方を、背中で教えてもらう。そこで回数を重ねる。

この「自分とその人の間の利害関係をいったん脇に置いて、その人の言っていることも脇に置いて、臭覚で、自分によぎるかすかな違和感を逃さない。」というところで、友達のユキちゃんが以前「なんとなく嫌な感じのすることを避ける」と言っていたのを思い出しました。「避ける」と明言したところが印象深くて。
あと、「回数を重ねる」って、なにごともそれだなぁ、と。意識して回数を重ねるか、そうでないかが重要なんだろうな。

<210ページ グーの人達について より>
自分が「個人的に嫌いな人」の事や、多少「変わっている者」とか、そういうのを、いちいち「ゾンビ」と言ってたら、それは違います。

また、微妙なのは、摂食障害とか、家庭内暴力とか機能不全家族、これらの問題は、「直接には」関係しないということです。

なぜならば、家庭に問題があっても、どんなに心に傷を負っても、パーはパーとして生き延びますから。
グーもグーとして生き延びます。

(中略)
パーも心に傷を負ったとしても、より透明性やひんやり度を増すかもしれません。より孤独性を好むようになるパーの場合です。

(中略)
全く社会生活を普通にしていたとしても、何も自覚症状がなかったとしても、ゾンビはゾンビなのです。

これが精神医学とか、カウンセリングなどとは全く違う点なのです。
先天性の「意識構造の違い」なのです。だから、従来の知識のメスでは、切り分けることの出来ない「分類法」なのです。

命名すれば、ここでいままでテーマにしてきたものは、医学でも心理学でもなく、「意識の物理学」みたいなものです。

意識の物理学!

<213ページ 会話を異常な状態にしてしまうゾンビたちの特徴 より>
ゾンビは、その事の最初から、相手を自分を安心させる道具、自分を自分で肯定するための道具に使おうとしている。

(中略)

つまり、そもそも話すつもりなどなく、同意されることや、自分の存在価値を認められたい、とか、「私の意見を認めて」という、それがゾンビの本当の動機であるならば、ゾンビは、誰ともコミュニケーションも対話も成立し得ないのである。


(中略)
つまり、もはや、ゾンビとの「対話」が不可能となった今では、私たちに出来ることとは、


■1:対話が不可能として、拒否するか、

■2:それとも、ゾンビが対話の出来ないその原因について、調べるかである。

わたしはSNSでうわーっとお友達登録されたとき、「自分を安心させる道具、自分を自分で肯定するための道具」に使われているなぁ、と思って、すごく苦手な仕組みだと思いました。
twitterはこれまたちょっと違っていて、「会話を半分は放棄しています」というスタンスが新しい、人の「存在」ではなく「発言」をキャッチコピーに使う名刺ツールのような側面を感じる。

<220ページ 「お互いに理解すべきだ」という言葉を誤解していませんか? より>
「付き合ってるんだから、私のこと分かりなさいよ」
ではなくて、

「分かり合えるかどうかを、互いに検証している最中を、付き合っている関係」、というのである。

どうして、付き合うと、すぐに「分かり合うべき」という言い分になってしまうんだかねー・・・

世の中では、異性が付き合うとか、婚約とか、結婚とか、同居とか、入籍とか、出産、こういうことを、互いの関係が固まる【太鼓判】と勘違いしている人が多すぎる?ということです。

自分ではそうでなくても、世の中的に「太鼓判」と勘違いしている人が多いのに結婚をすると、大変なことになる(笑)。もうこれは実践で学びました。
それはそれとして、ここを読んだときに、なぜか「恋もよい修行かも」と妙に前向きな気持ちがわきました。読んでいたときだけですが(笑)。

<222ページ 「お互いに理解すべきだ」という言葉を誤解していませんか? より>
「誰が食わしてやってんだ」と親が子供に言った時点で、その親は、子供にとっては、もう話にならないゾンビ親なんですよね。

そっかー、わたしの家はゾンビの家だったかぁ。薄々感じてはいたが。

<241ページ ゾンビと言い合いになった時に気をつけるべきこと より>
本当の意味での「論理的矛盾」を突くという行為は、決して、言葉のあげ足を取るという意味でもありませんし、いたずらに理屈を展開することでもありません。
その事を理解出来ないゾンビは「自分が頭を使いたくない」という動機から、

「それは理屈だ、理論に囚われている」

とか、馬鹿な事を言い出します。

しかし、「論理矛盾を指摘する」という行為は、たとえば、デッサンでいうと、デッサンの狂いを指摘するのと同じです。

(中略)

「文章」というものは、あたかも「言葉によるデッサン」のようなものなのです。だから、もしも、そのアウトライン(主題)とか、遠近感(説明の順序や文法)などが狂っていたら、それはデッサンとして(=文章として)成立しないのです。

前にもなにかの拍子に「ヨガはデッサンに似ている」と書いたことがあるのですが、こういうコミュニケーションの場面では本当にパースが組めないし、呼吸と身体が連動しない。

<244ページ ゾンビと言い合いになった時に気をつけるべきこと より>
まとめておきますと、以下に羅列するものは、すべて、ゾンビたちが自分で言ったことに責任を取らないための、逃げの「いい訳」なのです。


1:「試しに、ちょっと言ってみただけさ」>言うな

2:「大して、真面目に言ったわけじゃないんだ」>真面目に言えよ

3:「何かのきっかけになればと思って言ったんだ」>嘘つけ

4:「あなたのために、わざと言ったんだ」>自分を繕うためだろ

5:「そんなつもりで言ったんではないんです」>(こういう場合は「だったら、どんなつもりだったか説明しろ」と普通の会社でも言われます)

6:「あんたと話していると私は不快感と脱力感に襲われるのよ」>お互い様だ

7:「あんたには、今はわからない事を言ってあげたのよ」>今、そこで向き合うのから逃げるためだろよ


以上を見ると解るように、ゾンビというのは、単なる「嫌なやつ」「変なやつ」では、とうてい、今までは、
くくれなかった・・・にもかかわらず、
「社会的には、普通の顔して、生息している」のである。

わたしは「〜ということだったので」という言い方に「〜時点では」という時間軸を伴わない発言に敏感です。状況は分秒で変化しているから。「前からそうだった」とか、「ずっとそうなんです」とかも同様。「その時間軸の始点は?」と問います。
「試しに、ちょっと言ってみただけさ」「何かのきっかけになればと思って言ったんだ」「そんなつもりで言ったんではないんです」とかは、「はい、じゃあここからは別料金! と言いたいところだけど、今日のところはしぶしぶまけときますよ」と思いながら、ほぼデイリーで出血大サービスという感じかもしれない。いや、そうだ。


それでも毎日仕事は仕事でなんで楽しいかと言うと、「その時間を無駄にしないためにした質問の要素を踏まえて接してくれる人」の存在に気づいたり、そのときは黙っていても、あとで「実は前から僕もそこは気になっていて、気にしていることを封印してた」って20代のかわいい男子(見た目の話じゃなくてね。ハートね)が言ってきたりするからです(笑)。
わたしもオバちゃんになったもんだ。


★この本はアマゾンなどでは買えないので、この本を出版している「無明庵」というサイトの該当ページをご紹介しておきます。
⇒「ゾンビ化する人々 人類には4つの種族がいる 鈴木ほうざん 著