うちこのヨガ日記

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真実への道 ― ヨーギになった科学者の自叙伝(後半) スワーミ・ヴィラージェーシュワラ 著

真実への道―ヨーギになった科学者の自
この本は、旅のクライマックスから師の言葉の記録をまとめた最後の3つの章が印象的。今日は16章「運命の前ぶれ」17章「見せかけの悟り」18章「内なる啓示」のなかから、メモしたかった箇所を紹介します。なかでも最後の「内なる啓示」にある著者さんの師であるスワーミ・ヴィッデャーナンダさんの言葉は、これまでに読んできたさまざまな聖者と言われる人の教えと共通するものばかりですが、インド哲学の表現のバリエーションとして、これまた素敵なものでした。

では、紹介いきます。

<267ページ 運命の前ぶれ より>
 スワーミ・ウィッデャーナンダは、明白にここにくるようにとは言わなかった。彼が言ったことは、私はインドでもアメリカでも同じようにサーダナーができるということだった。彼は、あらゆる存在に神を見られるようになるための精神的なサーダナーの一つとして、他者を助けることを指導しただけだ。そして「神に奉仕していると思いながら、他者に奉仕しなさい」と言っていた。私がここに戻ってきてしまったのは、自分の物質生活への愛着と執着によるものだ。それで、私は何人の人を助けられるのだろうか?
(中略)
お金で助けることは、苦しみを取り除くことにはならない。アメリカ、そして世界中に大金持ちはいるが、彼らは経済的に貧しい人々よりも更に惨めで病んでいる。彼らは気持ちよく眠ることさえできず、何かの慢性病のために薬ばかり飲んでいる。

著者が出家を再度決意する場面。「私がここに戻ってきてしまったのは、自分の物質生活への愛着と執着によるものだ。」「お金で助けることは、苦しみを取り除くことにはならない。」と考えるか否かは、その人しだい。師はどちらの道も示したわけですが、今のわたしはマドンナ師匠の「お金持ちになればなるほど、もっと人助けができるわ。」という言葉が好きです。

<284ページ 見せかけの悟り より>
(ほんとかよー、な感じの悟りの祝賀会などの情景描写の後)
 これは、多くのだまされやすいヨーガの生徒のほんの一例に過ぎないが、彼らは世界中にいる無知なグルの間違った指導によって、単に何かの光が見えたということで自分が悟りを開いたと信じ込まされてしまう。ヤマやニヤマのようなラージャ・ヨーガの基本も実践せず、マインドの有害な欲望を清めることもせず、ただアーサナと表面的な瞑想を学び、瞑想の初期段階で何か光を見たぐらいで、自分は自己実現したと思ってしまう。真実は、その「肉体が魂である」という勘違いの信念を持った人々には、閉ざされた秘密のままである。

1970年代って、こんな時代だったんだなぁと、ビートルズ周辺のヨガ時代を思いつつ、思う。昨日の感想にも書きましたが「ヨガナンダ以降」というのはやっぱりひとつの境目なのだと思う。

<288ページ 見せかけの悟り より>
(スワーミ・ウィッデャーナンダとの会話)
「"達成"とは何でしょうか、スワーミジ」。私は素朴に疑問を口に出した。

「この楽器を知っているだろう?」と、彼は自分のひざの上にお気に入りのヴィーナをのせて、本当に優しい声で言った。
「これは神様だ。しかし、私には楽器に見える。これをただ神以外の何ものでもないとして見なくてはいけない。そうして私はアドヴァイタの段階に達したことになる。それは、達成であり、永遠の平和だ。ドゥワイタ(二元性)は、サーンキャよりも、タルカよりも、アドヴァイタ(非二元性)よりも高く、最も高いものだ。君の科学は、サーンキャの段階にも達していないよ」

スワーミ・ウィッデャーナンダさんは、「私もまだ、そう見えないんだよね。悟ってないんだ」というスタンス。この抜け方が、いい。


以下からが、最終章「内なる啓示」からの紹介です。

 毎日、スワーミ・ヴィッデャーナンダは疲れることなく、三つの境地について繰り返し続けられた。つまり、目を覚ましている状態、夢を見ている状態、熟睡の状態だ。
 以下のものは、私が講義の直後に書いたものの大要である。

という出だし以降、ずらーっと内容が続きます。いくつかご紹介します。

<291ページ 師のことば>
「夢の中で、全世界、このリシケーシ全体、空、地球、すべての人々を見ている時、そのあらゆることを現実として考え、痛みも喜びも体験する。しかし、目が覚めると、考え、分析することができるようになるため、自分はどこにも行かなかった、誰も見なかった、誰もこなかった、ただベッドの上で寝ていたと認識してしまう。では、夢の中のあの人たちは誰だったのだろう、あの情景はどこからやってきたのだろうか?」
「それはすべて君自身が創造したものだ。君は全宇宙、無限の空、そして自分の中にいる無数の人々を創造できる。そんなに大きな空間が君の中にあるのだろうか? すべての無限のアーカーシャ(宇宙)が君の中にある。君が創造した情景と対象物は、君自身でもある。したがって、君は創造主であり、被創造物であり、体験者である。ちょうど一人で部屋にいて、映写機にフィルムを入れて映画を見るように、夢の中では映画のフィルムの役割をするマインドから映し出して見ているのだ。夜、光がない時にどうやって夢を鮮明に見ることができるのだろうか? どこから光をもってきたのだろうか? その光は君自身の光であり、アートマンの光である。アートマンの光が心のフィルムに当たり、映写機のようにあらゆる印象を映し出すのだ」

映写機の喩えはよく見ますが、こういうのはこう、スクワット的にざまざまな表現に触れるのがいいかなということで、抜粋。最近体感的に感じるのですが、ヨーガ哲学やインド哲学は、これまたアーサナのように「何度も」ハートで感じることで身についてくるように思います。

<300ページ 師のことば>
「英語の場合、"何もない、誰もいない(There is nothing or nobody)"という時、最初に"ある(There is)"といい、次に"何もない(nothing)"と付け加える。最初の部分の文で"ある(There is)"は何かの存在をほのめかしているが、次の文の"無、あるいは存在しない人(nothing or nobody)"という部分で特定の物や人がいないことをほのめかしている。"何もない(There is nothing)"という文はあらゆるものの存在を意味していながら、自分の探している特定のものはないということだ。そこで存在が認識される。自分の探している特別な存在でさえ、否定されず、存在しないのではなく、ただその場所にいないのである。何もないという体験、それ自体の中に存在がある。なぜなら、目撃者がなくては何もないということを認識することができないからだ。目撃者、存在、そして体験はすべてブラフマンである」

「熟睡の状態には、痛みや喜び、そして『私』の感覚がない。その中で『私』がその存在を体験しなかったとしても、目を覚ました後には『私』はそこにいたことを知っていて、穏やかに眠っていたことを思い出すのである。だから、何もないというのは正しくはないのだ。いつもある(IS)、そしてある(IS)ということは実在であり、それがブラフマンである」

デジャブです。ラマナ・マハルシ師の「I am」の説明と同じような。

<305ページ 師のことば>
「目を覚ましている状態の中で目覚めて完全に悟った人は、俗事のドラマの俳優のように振る舞う。ラーヴァナの役を演ずる人は、ラーヴァナのように話し行動するが、自分自身の中ではラーヴァナではないとわかっている。彼は二つの異なった人格を持ち、舞台の上ではラーヴァナになり、舞台を離れると自分自身になる。しかし、『私』はどちらの場合にもそれぞれいる。彼が舞台上でのラーヴァナの衣装や振りによって影響されていないのと同様に、自己を認識した人は自分の行動によって影響されない」

ものすごく当たり前の説明なのだけど、かえって印象に残りました。

<306ページ 師のことば>
 瞑想の説明をしながら、スワーミ・ヴィッデャーナンダは述べられた。

「君はどんなマントラを唱えてもよい。ラーマでもいい。あるいは継続的に『アハム・ブラフマースミ』(私はブラフマンである)と考えても良い。そして座ったままでも、立ったままでも、歩きながらでも良い。何をしようと、あらゆる行為はブッディと肉体によって遂行されるのであって、アートマンによってではない。アートマンはこれらのいかなる行為によっても制限されることはない。彼は単なる目撃者であって、何も行為をしていない。『私』があの元々のアートマンであると知らなければならない。タイラ・ダーラー(絶え間ない一定の油の流れ)のように、君はその考えを常に抱き、肉体とマインドの意識を忘れなければならない。瞑想する者、瞑想の過程、そして瞑想の対象物は区別なく一つにならなくてはならない」


「例えば、君が紙について考える時、紙についての考え(気づき)をもち、"紙"という言葉の音、色や質感の見た目、そして意識である『私』という考える者がいる。深く考えていくにつれ、『私』は消え、徐々に音と紙の形と色も消え、ついにはマインドが紙と一つになり、すべてが忘れ去られる。このようにして、考えがしばらくの間、ブラフマンに安定すると、『私』、周りの世界、そして他のすべてのものは消え、ただブラフマンの意識だけ残る。それが本当の瞑想である」

この流れが個人的に印象深かったのですが、先日の日曜に写経をしているときに感じた、「瞑想する者、瞑想の過程、そして瞑想の対象物は区別なく一つになる」「紙についての考え」という状況が重なります。瞑想については説明しにくいので書く機会が少ないのですが、「写経」は現代の日本人にとって、継続することで瞑想感覚を得やすい行為のように思います。(関連日記:「写経で感じたシークエンス」)

<307ページ 師のことば>
「もう一つ、大きな綿の山の例をあげよう。綿は暑い太陽の中で何日も何ヶ月も放っておいても、燃え出さない。そこへレンズを持ってきて、綿に太陽光線の焦点を合わせてみる。適切な距離でレンズを置いたままにして、太陽光線を集中させると、綿は燃え出し、ほとんど焼けてしまう。太陽光線だけでも、レンズだけでも燃やすことはできず、その集中によって燃えたのである」
「同様にして、人はこの無知を燃やすため、ブラフマンを悟るためには、マインドを安定させてブラフマンにその焦点を合わさなくてはならない。グルの智慧の言葉とブラフマンを思念することを太陽光とし、安定して瞑想するマインドをレンズとし、アジニャーナ(無知)が綿である。いつそれが来るのか誰にもわからず、すぐ次の瞬間に来るかもしれないし、千回生まれ変わった後かもしれない。しかし、その努力を諦めるべきではない。
 これらはただの例証で、ブラフマンを説明したり描写することはできない。自分で体験しなければならないのである。ブラフマンを忘れてしまうと、今見ている世界だけが現実に見えてしまう。その時、夢の例、綿の例を思い出すことだ。これがマナナ、つまり熟考で、アンタルムカになること、内側を見ることである。
 アンタルムカとは、肉体の内側を見たり、カップの中に入っているお茶を見ることのように存在の内側を見ることでもない。また、りんごの果汁がりんご全体に浸透しているのを見るようなことでもない。外側と同時に内側を見ることを意味している。ブラフマンは真空の中にさえ存在しているのだ」

山田君、ヴィッデャーナンダさんに二枚持ってきて。

<315ページ 師のことば>
 不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)について話されている時、聖人はご自分自身に言葉や考えや例が足りないと思われることは決してなく、テープレコーダーのように絶え間なく続けられた。「アドヴァイタとは、『二つではない』という意味だ。なぜ『二つではない』と言って、『一つだ』と言わないのだろうか?」。
 師は質問を出してから次のように答えられた。
「なぜなら、われわれはブラフマンについては、ブッディと共に考えなければならないからだ。そこには、二つのもの、つまりブラフマンとブッディがある。しかし、ブッディは影であり、ブラフマンが実在なのだ。その実在は非実在を通して理解されなければならない。実在が認識されるまでは、二つが存在する。しかし、実在が認識されると、たった一つのものが存在する。ウパニシャッドではこう言っている。『最初彼はたった一つだった。そして一つが複数になった。だからそれはアドヴァイタというのだ』。

よく陰陽やコインの表と裏にたとえられる話ですが、ここでは「実在が認識されるまでは、二つが存在する。しかし、実在が認識されると、たった一つのものが存在する。」という箇所がよいです。アドヴァイタの話は最後にももう一つ引用紹介します。

<318ページ 著者さんが瞑想過程での思考を語る場面>
 意識の『私』は、有機物質の集合体とは異なっているはずだ。従って『私』は肉体ではあり得ない。では、私は誰なのか? 『私』という言葉から意味するものはどんな存在だろうか? また、肉体の感覚をもち、それを所有し、いつも「私、私」と主張するのは、誰なんだろう? 私は、この生命のない肉体に住み、感覚に付きまとわれている『私』を知らなければならない。物質世界は、実際には形のないエネルギーであり、その物質的現象は感覚器官によって創造された幻想に過ぎない。
 考えることに深く没頭するにつれ、外側のことに何も気づかなくなり、『私』は純粋な思考、ただの考え以外の何ものでもなくなっていた。私の人生で初めて、最も恐るべき問題と直面していた。


 『私』は誰なのか、それが問題であった。


 否、私に答えなどなかった。まだ理解もできなかった。朝方スワーミ・ヴィッデャーナンダが言われたことをよく考えていた。
「わかっている。私がこれをしているのではない。私がしゃべっているのではない。肉体がそれをしているのだ。肉体がテープレコーダーのようにやり続け、私は何も考えずに、それが勝手に続けているのだ」


 私は自分の熟考を続けた。聖人が意味した『私』とは誰なのだろうか。そこで、肉体とは違う『私』がいるにちがいない。その『私』とは誰なんだろう?


 答えは見つからなかったが、その疑問は私の中で堅く組まれていた。答えが出るまで、私は諦めない。

「それが勝手に続けているのだ」という表現が妙に新鮮でした。


<326ページ 師のことば>
 アドヴァイタとは、二つではないという意味だ。なぜ一つと言わずに二つではないと言うのだろうか?
なぜなら、実際上の世界では、魂は多くの姿で現われ、パラマートマとは違っているからだ。多様性はアヴィッデャによるもの、つまりマーヤー(幻想)とも呼ばれるここのエゴの無知によるものだ。エゴは非常に肉体に執着し、利己主義で、偏狭だ。全世界を一つの存在として考えられず、すべてに神を見ることができない。
エゴは間違いであり、実在ではない。それ自身の存在をもたないが、鏡に映る像のようにパラマートマの反射にすぎないのだ。
 エゴは自分自身の存在に脅威を感じる。だから自己防衛して、他のものはすべて敵であると考えるのだ。エゴは何百万回もの生を通して、非常に強くなっており、ほとんどエゴ自身が実在であると信じるようになっている。だから、これを消すのは非常に難しいことなのだ。放棄と真剣なサーダナー(苦行)を通して、人は心を浄化し、利己的な意志をもったマインドを追放する。そして神、聖者、悟ったグルの恩恵によって、ネーティ、ネーティ(これではない、これではない)の過程を経て、像がその対象物に吸収されるように、人は間違ったエゴをパラマートマに溶かしていく。そして至高なる真実が、すべてはまさにブラフマンであるということを照らし出すのだ。
 一つの太陽が、様々な水の瓶に反射して太陽がたくさんあるように見えたり、一つの対象物が複数の鏡の中でたくさんの像となって見えるように、ブラフマンも感覚認識を通して多くの生物、無生物として映っている。
これがすべての真実の中の真実である(サッテャシャ・サッテャム)。

これを読んでいて、たとえば「敵の数だけ味方がいる」といったなにげない表現などもああ、二元論なんだなぁ、と思う。「二つではない⇒一つとはいわないよ。そのまえに、無くしてみようとしてごらんよ」というメソッドは、これほんとにすごいよねインド人。


ヨガナンダさんが楽太郎さんで、ラマナさんが歌丸さん(なんとなく見た目で割り振ってない? とか突っ込まないで)ならば、ヴィッデャーナンダさんには「こん平さん」的なきらめきを感じました。

真実への道―ヨーギになった科学者の自叙伝

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