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2014-02-23 三四郎 夏目漱石 著

[]三四郎 夏目漱石

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電車のなかで知り合った女性とのまさかのゆきずりナイトから始まる青春小説。

熊本から東京へ出てきてさまざまな人と出会い、感化されていく三四郎。なかでも「乞食」に対する東京モン四人の意見に刺激を受ける場面が印象に残ります。この時代に名刺を持ってる美禰子(みねこ)のインテリ魔性トークにやられ、湯気が立つほどの借金礼状ラブレターを書くことになったあとは、胸キュンの展開に…… と、わたしが要約するとこうなるのだけど、どんな話やら(笑)。

「こころ」が「男同士って……無駄に重っ!」という小説だったのに対し、「男の子同士って、かわいい」と思えるのがいい。

この時代は戦後で男性がたくさん亡くなり、女性が余っていた時代なのだそう。そんな時代背景を踏まえて読むと、おもしろみの増す小説です。



そして何より、この小説は登場人物の会話とキャラクター設定がとにかく凝っている。「表メンター」「裏メンター」ふたりの人物が登場します。三四郎は表メンターの広田先生のことをたまに「広田さん」と描写するけど、裏メンターで友人の与次郎はずっと与次郎で、呼び名で示される微妙な心理の変化もおもしろい。

まずは表メンター・広田先生の発言セレクションから、特選で。

君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか。

枠をおもいっきり取っ払う発言が多い中、これがベストワン。




滅びるね。

日本の未来をぼんやり意見して会話を成立させようとする三四郎に、ばっさり。




時代錯誤(アナクロニズム)だ。日本の物質界も精神界もこのとおりだ。

あきらめ感がたまらなく魅力的な人物です。




日本より頭の中のほうが広いでしょう。

きゃー。




すべて宇宙の法則は変らないが、法則に支配されるすべて宇宙のものは必ず変る。するとその法則は、物のほかに存在していなくてはならない。

ヴェーダーンタです。広田先生のモデルになったといわれる岩元禎という哲学教授はドイセンの研究をしており、ドイセンというのはウパニシャッドをドイツ語に訳したヴェーダーンタ哲学研究家なので、ほんとうにこんな発言をしていた人なのかも。




女性に対する意見も、的確!

「あの女はおちついていて、乱暴だ」

「女が偉くなると、こういう独身ものがたくさんできてくる。だから社会の原則は、独身ものが、できえない程度内において、女が偉くならなくっちゃだめだね」

いちいち鋭い。



このほかにも、「偽善家・露悪家の我意識論」も読みどころです。





そしてわたくしイチオシの裏メンター・佐々木与次郎の発言は、かなり日常に役立ちます!

禿を自慢するものは老人に限る。

ふたつの意味でツボれるふしぎな笑いがこみあげる。




細工に落ちるというが、ぼくのやる事は自然の手順が狂わないようにあらかじめ人力で装置するだけだ。自然にそむいた没分暁(ぼつぶんぎょう)の事を企てるのとは質が違う。細工だってかまわん。細工が悪いのではない。悪い細工が悪いのだ。

とても情熱的で行動的で、ぐわーっと突き進む感じに屁理屈がつくのがたまらない。友人役として最高の存在。こんな友人のいる三四郎はしあわせで、実際そう感じている三四郎のやさしい心の描写も読みどころ。




人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。

なにげにいろいろお見通しなのに、先回りして言ったりしないところが与次郎の魅力。




与次郎の処世術の、この教訓もいい。

相談は一人一人にかぎる。おおぜい寄ると、めいめいが自分の存在を主張しようとして、ややともすれば異いをたてる。それでなければ、自分の存在を閑却された心持ちになって、初手から冷淡にかまえる。相談はどうしても一人一人にかぎる。

与次郎はいまの世で自己啓発本を書いたら売れるタイプの人だと思う〜。



上京したての頃に与次郎との会話について、三四郎が感じていることの描写。

三四郎は世紀末などという言葉を聞いてうれしがるほどに、まだ人工的の空気に触れていなかった。またこれを興味ある玩具として使用しうるほどに、ある社会の消息に通じていなかった。ただ生活に疲れているという句が少し気にいった。なるほど疲れだしたようでもある。三四郎は下痢のためばかりとは思わなかった。けれども大いに疲れた顔を標榜するほど、人生観のハイカラでもなかった。それでこの会話はそれぎり発展しずに済んだ。

ただの疲れと下痢なんだけど(笑)、都会に感化される三四郎の変化の始まりが書かれている。




与次郎は三四郎をいろんなことに巻き込んで、迷惑もかける。でもいいやつなので、三四郎は

なんの事だかわからない。しかし愉快になった。

与次郎の存在そのものに安らぎを見いだしているみたい。




三四郎の自己分析にもおもしろい表現がいっぱい。

以下は、「池の周りを散歩する」ことでドーシャをコントロールする場面の描写二種。

  • 三四郎は癇癪を起こして教場を出た。そうして念のために池の周囲を二へんばかり回って下宿へ帰った。
  • その日はなんとなく気が鬱して、おもしろくなかったので、池の周囲を回ることは見合わせて家へ帰った。

漱石グルジはラジャスを「癪(しゃく)」とか「癇癪(かんしゃく)」と表現することが多く、タマスは鬱。シンプルだ。




三四郎は年長者の前へ出ると堅くなる。九州流の教育を受けた結果だと自分では解釈している。

これ、なんかわかるなぁ。



女性を見るときに感じる描写は、いつものグルジ節

三四郎はこの表情のうちにものうい憂鬱と、隠さざる快活との統一を見いだした。その統一の感じは三四郎にとって、最も尊き人生の一片である。そうして一大発見である。

大げさなのが青春! 気が多いのが青春! 




何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨をとおして髄に徹する訴え方である。甘いものに堪えうる程度をこえて、激しい刺激と変ずる訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである。

ここは精神的官能描写なのだけど、最後の「見られるもののほうがぜひこびたくなるほど」という表現が刺さる。




その意味のうちには、霊の疲れがある。肉のゆるみがある。苦痛に近き訴えがある。

まだ恋の初期の描写なのに、ここまで考えるなんてってくらい自意識過剰なのが面白いんだよなぁ、漱石グルジ。




この女はすなおな足をまっすぐに前へ運ぶ。わざと女らしく甘えた歩き方をしない。したがってむやみにこっちから手を貸すわけにはいかない。

なんかここ、きゅんときますね。男性に甘えられない女性は別の意味で切なくなるところであろうのぅ(笑)。




こういう空の下にいると、心が重くなるが気は軽くなる。

三四郎が好きな女性と二人きりで歩けた際の、雲を見てのひとこと。これを女性に言う。三四郎も、女性から見たらじゅうぶんミステリアスであったと思う。




三四郎は店先のガスの光で、女の黒い目の中に、その驚きを認めたと思った。事実としては、ただ大きく黒く見えたばかりである。

恋の病の深さを、いきなり突き放す主語に変わって表現する第三者手法。ちょっと膝カックンな描写リズムがたまらない。




与次郎の言うところによると競技より女のほうが見にゆく価値があるのだそうだ。女のうちには野々宮さんの妹がいるだろう。野々宮さんの妹といっしょに美禰子もいるだろう。そこへ行って、こんちわとかなんとか挨拶をしてみたい。

最後のところで「ラブリー」(小沢健二)の「世界にむかってハローなんつって手を振る」の詞とリズムが浮かんだ。




このほかにも、画家の男性と化学系の男性が登場します。あなたはどの男性が好み? 理由は? と、いろんな女性に聞いてみたくなる小説。男性には、美禰子とよし子の究極の二択を強いてみたい。登場人物がイケイケの都会人ばかりなので、いろんな意味で刺激があります。

ヴェーダーンタを煎じ詰めたらロックな思想になっちゃった、というような発言の目立つ広田先生のファンになってしまいました。

こりゃ明るくていいわ。


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