うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

共感とツッコミ、オリジナルと引用。その感情を紐解く


わたしは「読書会」と称した場で、参加する人から事前に簡単な宿題として書いてもらった文章を題材にテキストをつくり、一緒に話をすることがあります。
ほとんどの人は自分の表面の下にある思いを表明する機会が少ない毎日を送っていて、自分が相手に言葉にして伝えようとしている気持ちや意思が



 共感なのかツッコミなのか


 オリジナルなのか引用なのか



これらのことがざっくりしたまま。話し始めて気づく人もいます。ほかの人の話を聞きながら同時に気づいて静かに「うわぁ…。それわたし…」と言い出す人も(笑)。
先日も夏目漱石の「三四郎」を題材にした読書会で、自分が過去に書いた文章(宿題コメント)に対して「(この時の自分は)共感とツッコミがごっちゃになっていました」という人がいらっしゃいました。このように相反するものが共存するのは、健康的なんじゃないかな。どちらかに決めることは、見ようによっては「神様気取りかよ」という感じだし、わたしは「ごっちゃになっている」状態のほうが生きている心身の重みを感じる。人間だもの。


感情がオリジナルなのか引用なのか、というのは、川上未映子さんの「すべて真夜中の恋人たち」という小説に出てくる石川聖という人物の語りがすばらしくわかりやすいです。とてもすてきな場面です。
主人公の入江冬子が恋をしはじめているときに、友人の石川聖になんとなく人を好きになることについて、考えを問う場面。この「なんとなく」という感じや脆さがこの小説(および主人公)の魅力なのですが、石川聖は入江冬子にこんなふうに話します。

「すきだけじゃなくてね、わたし、自分の感情のことが、そもそもよくわからないところもあるの」と聖は言った。
「感情が?」
「そう。これっていつからなのかなあ。もう思いだせないし思いだす気もないんだけど、感情とか気持ちとか気分とか──そういったものが全部、どこからが自分のものでどこからが誰かのものなのか、わからなくなるときがよくあるの」

このことについて、石川聖は「他人のものを引用しているような気持ちになる」とも言います。
この二人は校閲(作家が書いた文章や内容が正しいかを確認する)という仕事をしている仲間。この設定も絶妙なのですが、こんな会話が続きます。

「引用?」
「うん。自前のものじゃない感じ」
「それは、実感がもてないということ?」
「ううん。それとはちょっと違くて。実感があるから、これがあほみたいなのよ」

この続きは小説で。


この話を聞いている入江冬子という主人公は、慣れない恋愛をして混乱しているなか、こんな聖の感覚をききます。冬子は流されながら生きている自分を責めたりもするのだけど、内面で「オリジナルな感情にこだわれる力」はすごくて、仕事で校閲をするときは感情を排除して時間を過ごしているのだけど、そうでないときは調べる先が自分の中にしかない現状の課題に取り組んでいる。恋愛に対して全く逆のアプローチをする二人がふわっとなんとなく話す、とてもすてきな場面です。


調べる先は自分しかないのに深く調べずに年月を重ね、すかすかの自分をこしらえていく。そういう感覚に辟易したことはありませんか。わたしはあります。なので、聖と冬子の両方がずっしり自分と重なって見える。
「自分の中のオリジナルと引用の境界」を意識するようになったのは、いつからだろう。共感とツッコミを混同したり、引用なのにオリジナルのような口調で話してしまうときにハッとする罪の意識は、すごく大切なものなんですよね。これがなくなると、表面上の知人はいても、実のところかなりシビアに孤立してしまう。
「なんか混乱してる」ということをスルーしない時間というのは、とても有意義です。