うちこのヨガ日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-07-30 アウェイ感と疎外感について考えた

[]アウェイ感と疎外感について考えた

f:id:uchikoyoga:20160505144615j:image:h350:right

まえに読書会の流れで雑談から発展した、孤独感とも疎外感ともちがう感情の話。

わたしは「アウェイ感」という表現をよく使うのですが、その日は参加者の人も同じように「アウェイ感」という表現を使っていて、ほかの人の口から発生した言葉を聞いてふと掘り下げたい気分になりました。


うちこ:アウェイ感って、たぶんサッカーをみんなが見るようになってから普通に通じるようになった新しい言葉だと思うのだけど、便利よねぇ…。いままでこういうとき、なんて言ってたんだろう

Yさん:疎外感…、ですかねぇ

うちこ:でも疎外感とアウェイ感は、ちょっとちがうんだよねぇ…。すごく便利じゃない? 「アウェイ感」って

Sさん:むこうはそんなに排除しようとしていないのに、こっちが勝手に感じてるというか…

うちこ:そうなんだよね。勝手に不安を培養している感じ


と、便利だ便利だと盛り上がったのですが、この日は帰りもずっとこのことを考えていました。そこで思ったのは、「アウェイ感」というのは



 自分にも探せばどこかに味方がいるってわかっているのだけど、

 いまこの状況でひるんでます、わたし



という感じなのだけど、

疎外感になると



 排除されていると感じ、味方の存在を感じられない



という心の状態になっているように思います。

アウェイ感と言えば「排除されているわけではないとわかっているのだけど、ちょっとひるんでしまうことって、ありますよね」という意識を多くの人が共有できる。克服する楽しみがあることをわかっていながらの不安。ポジティブな不安。うん、この場合はひるんでる。萎縮ではない。


「ひるむ」と「萎縮する」はどうだろう。萎縮にはちょっとリスペクトが入る。(敬意ではなくリスペクトと言いたくなるのがまた気になるけど今回はスルー)

わたしはアウェイ感の話をしながら、夏目漱石の「三四郎」の世界を思い出していました。熊本から上京してきた三四郎が東京やアカデミックな雰囲気に萎縮するのを察して、友人の与次郎がこんなことを言います。

博士とか学士とか云ったって、会って話してみると何でもないものだよ。第一向こうがそう偉いとも何とも思ってやしない。(8章)


これは関西の読書会に参加した人(Oさん)が、気になった与次郎のセリフとしてピックアップしてくれた箇所でもあります。与次郎のセリフに対して、そのままの共感もあるのだけど、そういうことばかりでもないだろうと思う。と。Oさんの経験として、以下の2つがあるとのこと。

  • 自分は三四郎のようにミーハーなところがあって、すごいと言われている人に萎縮してしまう。話すと普通の人だなと印象を受ける。(共感)
  • 上司で役職がある人に「自分が偉い!と態度に出ている」と感じる。自分が偉いと思っていても表に出さないで欲しいと感じる。(ツッコミ)

これは、未知・既知の差で発生する魔法のあり・なしのような気もします。既知になると減っていくリスペクト。

そして未知・既知の主体を相手側に切り替えると、相手に知られていないから発動できる初心と、相手に知られているから発動するなげやりさがある。

「アウェイ感」にはこのどちらにも寄らない生命力と主体性があって、それが日本語としてなかったところにすっぽりはまっているように見える。いっけんマイナスなようでありながら、そこに明るさを見出せる表現。もともと日本語にすごく不足していたタイプの言葉のように思います。


夏目漱石の「私の個人主義」に、こんな表現があります。

腹の中の煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠(なまこ)のような精神を抱いてぼんやりしていては、自分が不愉快ではないか知らん

今でいったら「メンタル弱い」ですむかも(笑)。最近スポーツの話題で「メンタルが強い」って、言いますもんね。

サッカーは日本語にすごくいい変化を与えている気がする。