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2016-08-13 「ひとり相撲」を練習のようにやる(夏目漱石「三四郎」読書会での演

[]「ひとり相撲」を練習のようにやる(夏目漱石「三四郎」読書会での演習から)

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初夏に関西で久しぶりに夏目漱石読書会をやりました。「三四郎」はわたしとしては初めてではないのですが、これは読めば読むほど名作。

2年ぶりだったので、かなりじっくり読み直して講座に臨みました。参加者のみなさんが事前に提出してくださった宿題で「気になった」という要素は、以下のくだりの前後に多くありました。

広田先生:「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」

三四郎:「そりゃ……」

広田先生:「しないだろう。それと同じく腹をかかえて笑うだの、ころげかえって笑うだのというやつに、一人だってじっさい笑ってるやつはない。親切もそのとおり。お役目に親切をしてくれるのがある。ぼくが学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たらさだめて不愉快だろう。(以降略)」

太字の「じっさい笑ってる」のところを選んだOさんの「自分は、どうだろうか」というつぶやきから、この日は感情について自分の中に入っていく方法みたいな話になりました。


「さもおもしろそうに笑う人を見たとき」について。


うちこ:わたしの場合は、形式上でもそういうふうに笑える人を「うまいな」と感じるときと「うざいな」と感じるときがあって、「これは自分のコンディションか?」と思います。同じものが時によって違って見えるのがわかっているから。忘れちゃうじゃないですか、自分が藁にもすがるような落ち込みの状態も、すごく余裕がある状態も。


Oさん:いつも物事をそうやって俯瞰してみてるんですね。


うちこ:「ふかん」っていうよりは…、記憶がストックしてきたんじゃないですかねぇ。こんな小学生とかイヤでしょ。


(爆笑)

(みなさんここがおかしかったみたい…)


うちこ:自分の記憶のストックからこじれた方向へ思考が作用するのを補正している感じなんですよね…。ひとり相撲を、とことんやる感じなんです。


Tさん:それはその場でやるんですか? 寝る前とかに思い出してやるんですか? その場でだったらすごいと思うんですけど…。


うちこ:書きながら…、かな。ブログも映画を観に行ったとか以外はだいたい2週間以上寝かせるのですが、見直すたびに自分の振り幅に気づきます。このときわたしはこういうバイアスをかけて盛ろう(自分をよく見せよう)としていた、こんなふうにこの人を疑っていた…と。書きながら、見直しながら、欲が乗ってギザギザしてた感情をカッターで切って丸くしていくような作業をしています。




ここで「いつ、どうやってやるのか」というところに関心が集まっているのを話しながら感じていて、帰ってからもう一度考えました。(ひとり相撲について、ひとり相撲しました)


ひとり相撲は「歩きながら」も、よくやっています。

歩きながらだと景色が変わるので、ひとつのことにとどまらずに感情をリストアップしやすいです。「こんな受け取り方はないだろうか?」「いや、こうかもしれない」というパターンがいっぱい出るし、静止して考えるよりもネガティブなところに意識がとどまる率を減らせます。

たとえば仕事でなにかを依頼するときの切り出しかたとか、相手はどんなメリットがあったら気持ちよくやれるだろうかとか、アイデアが必要なときとか、そういうことをリストアップするのにも、歩きながらがいい。川を見るのもよいです。流れるものを見ていると、意識がネガティブなところで滞留しない。電車の中でなにかを思いつくのも、似たような理由かと思います。


ジョギングに出かけるときにデカいアジェンダをもっていくこともあります。走りながら「これについてうじゃうじゃ考えてるけど、削ぎ落とすと、どうしたいんだっけ?」ということを考えます。

自分の脳のはたらきのパターンと身体動作の影響を利用してなんとかなることもあるし、ちょっとそれでは時間がかかるときは、わーっとシャッフルして疲れさせちゃって、いったんふるいにかけて、それでも残ったものを分解する。わりと強度の高いアーサナの練習を好むのは、こういう側面もあります。

「三四郎」も、「こりゃやばい、妄想しすぎだ。自分の毒が自分に回りそう」って時は、歩くんですよね。歩く場面の入れかたがおもしろいと感じます。


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