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2017-08-06 音楽 三島由紀夫 著

[]音楽 三島由紀夫

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友人が家に遊びに来たときに置いていってくれた本。20代の頃に何冊か読んでいるはずなのに、まったく記憶できていない三島由紀夫作品。

蛇口をひねれば水が出てくることを当たり前とする感覚でジャーッと、ざーっと生きていた当時のわたしには、なにも読めていなかったのだと思う。

この小説は1964年に雑誌「婦人公論」に連載されていたそうで、当時の婦人は毎月続きが気になってしょうがなかったであろうなぁ。なんというか、商業的にもじょうず。すんごいじょうず。マーケッターとしてのセンスがありすぎじゃないの? というくらいじょうず。

ヒステリーの女性を精神分析する男性医師が主人公なのだけど、登場人物すべての心理に「ある、あるなぁ…」というところがある。

言葉の使いかたも、なんだかグイッとすてきなキャッチコピーのようなものが多い。医師は女性のことを「問題をドラマタイズしすぎるあなたの性格」と本人に言う。でも、完全に彼女のペースにもっていかれてしまう。「ドラマタイズしすぎる」って! 

そしてこれは、当時から、そうだったんだ… と感じずに入られなかった記述。

このごろの新らしい傾向として私が悩まされるのは、殊に女性に多いのだが、無用の告白癖、いわば精神的露出症とでも言うべきものを満足させるために私を訪れる患者が少なくないことである。

(1より)

似たようなことを、別の分野だけど密室で一対一で対応をする仕事をしている人が言っていた。この本を貸してくれた人。なるほど、そういう流れで貸してくれたのか。「初対面で、そんなに?! というくらい自分の話をしてくる働きマンぽい女性の心理がいまひとつわからない」という。わたしは、そういう場面に遭いすぎたのか、もういろいろ麻痺している。でもこういうことじゃないかということが、あとで出てくる。

医師が、恋人との性交中にこんな脳内描写をする。

ヒステリーとは、多分、こうした健全な性的昂奮の身体的状況を、純粋培養しようと試みる復讐的な企てなのである。もっとも「快」を通じてではなく、すべて「不快」を通じて。

(17より)

わたしはここが、人のこころのおもしろいところであるよなぁ、と思う。

以下のような所も含めて。

ところで神聖さとは、ヒステリー患者にとっては、多く、復讐の観念を隠している。

(43より)

わたしは「"神聖さ" でブランディングをしているけれど、そのエネルギーの出どころを想像するとこわい」みたいな考え方をすることがけっこうある。「わたしの人生、イケてなくないもん! イタくないもん!」みたいなモチベーションで神聖なことに手を出している人は、実はすごく多いのじゃないかな。


以下の部分は、わたしは男性の肉体を持っていないけれど、でもインドのハタ・ヨーガの教典などを読んでいると、そうなんだろうなと想像することと似ていた。

男性の不能の治療は、無意識のものを意識化するという作業よりも、過度に意識的なものを除去して、正常な反射神経の機能を回復するという作業のほうが、より重要であり、より効果的であると思われる。これは私自身の、男性としての生理に徴してみても、容易に首肯されることである。

(27より)

自分の毒が自分に回る感じは、男性でなくてもなんとなくわかる気はしますよ。


わたしはたまに、あまりに赤裸々に自分語りをしたがる人に、ブレーキをかけたほうがいいのか迷うことがある。結局しないのだけど。

それは「不幸マーケティングにだけは、手を出さないほうがいいよ」というようなこと。なんというか、不幸話や苦労話で定常的に人を釣るのは、すごくリスキー。それを望む人に囲まれることになってしまって、結局「不幸でなければ、あなたじゃない」という対象になってしまう。

この小説ではそのような連鎖がすごく上手に構成されていて、医師はこのようにあっさり分析する。

ただ一つたしかなことは、不幸が不幸を見分け、欠如が欠如を嗅ぎ分けるということである

(22より)

小説の中で、この要素の入れかたはちょっと設定に強引なところもあるのだけど、でもその要素を薄めてみたら、ものすごく日常によくあること。


その時代に「婦人公論」を読むような人は、どんな女性という設定だったのかな。そこに、すごく興味がわいた。


音楽 (新潮文庫 (み-3-17))
三島 由紀夫
新潮社