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2017-12-06 お菓子とビール サマセット・モーム 著 / 行方昭夫(翻訳)

[]お菓子とビール サマセット・モーム 著 / 行方昭夫(翻訳)

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自意識過剰なモードに入っている人間の思索のあれこれというのは十中八九、多少はうとましいものであるはずなのに、そう感じない。とっくに済ませておけよと思うような思春期を振り返って分解する記述には、毎度ながらうなってしまう。これは書き手として "精神的に紳士" だからなせる技?

小説の序盤で少年が自転車に乗る練習をする場面があるのだけど、そのときのメンタルの記述がすばらしく緻密でドキドキしました。そうそう、そういうことを多くの人が乗り越えてきたはずなのに、なんでこうなってしまうのだろう。そんな疑問を置き去りにしない、でも執着もしない。粋というのとも、ちょっとちがう。

わたしは子どもの頃「Dr.スランプ アラレちゃん」で則巻千兵衛が山吹みどり先生と結婚できてしまうことが妙にイヤで、それを言語化できないままこじれた大人に育ったのだけど、その心のからくりが紐解かれたようで、読みながらものすごく怖くなりました。わたしの心はその頃、この主人公に似ていたのだろうか。

今日はここでやめてもよいのだけど、ここでやめるとなんのこっちゃ… となるので、その雰囲気を表現の中から少し拾うと

結婚すればどんな行為をするのかは、理屈では分かっていたし、そのものずばり言葉で言うことも出来たのだが、実際には理解していなかった。何かいやらしい感じで、そんなことをするとは信じられなかった。地球が丸いと理屈では分かっていたが、本当は平らだと信じている。それと同じだった。

(7 より)



女性が便秘しやすいのは誰でも知っているはずであるのに、彼女たちがトイレに行くことがまったくないかのように描くというのは、騎士道精神の行き過ぎではなかろうか。

(11 より)



でもそれは控えた。彼女がかっとなる場面は見たことがなかったけれど、かっとなることもある人だと思っていたからだ。この質問をしたら、きっと怒りそうだと漠然と感じた。僕に向かって、許せないほど傷つくような罵声を吐く機会など与えたくなかった。

(16 より)

子ども頃のわたしは、せんべいさん自体は好きなのです。「ん〜…みどりさん」なんて急に声がダンディな超・低音になる場面などはケタケタ笑いながら、モノマネしながら見ていました。でも同時に、みどりさんがこの先ずっと「結婚してやった」みたいな素振りを封印したまま生きていく予定調和のようなものがあの世界の中でも…、という展開に小さくガッカリしていたのです。わたしのなかの小さな女が、当時、そう感じていた。みどりさんに自我がない前提になっているように感じたことが、悲しかったのです。

こんな感情、いまさら解凍されなくてもよかったのに…。なんで引っ張り出すかなぁ、サマセット・モーム。


月と六ペンス」も半分を過ぎた頃にはもう先に進まずにいられないくらい、この先どうなるのか知りたくなってしまったけれど、この小説もそうでした。

主人公が本性を隠しきれなくなる場面への切り替えの、ここからもう一気に読み進めたくなってしまう。

 この本を第一人称で書かなければよかったのにと思う。自分の愛想のよいところとか、いじらしいところなどを描くのならこの手法で結構である。この手法は、健気な姿とか微苦笑を誘う姿とかを描くのにしばしば使用されるが、その場合には実に効果的である。読者のまつ毛に涙が光り、唇に優しい微笑が浮かぶのを頭に描きながら、自分のことを書き進めるのはよい気分である。しかし、自分の間抜けな姿をさらす場合には、あまり具合の良い手法とは言えない。

(15 より)

作家にとっての不都合が、読者にとっての好都合だって、わかってるよ。と話しかけるように先へ誘う。

うまいなぁと思いながら、もうどうにでもしてという気分になる。


この小説の冒頭は、受験でも使われたりする文章だと解説にありました。

 留守をしているときに電話があり、ご帰宅後すぐお電話ください、大事な用件なのでという伝言があった場合、大事なのは先方のことで、こちらにとってではないことが多い。贈物をするとか、親切な行為をしようという場合だと、人はあまり焦らないものらしい。

よくよく読むと、冒頭の時点で「主人公にとっての不都合が、読者にとっての好都合だって、わかってますよ。では始めますよ」といって連れて行かれているようなものなんだよな…。

夫が多すぎて」「雨・赤毛」「月と六ペンス」と読んでみたけれど、わたしは長編のほうが好きです。時間をかけて、こってりしぼり上げられる感じがたまりません。しぼった最後のしぼり汁に、自分でも一生確認しようとしなかったであろう自我のタネが見えちゃう感じ。くせになるなぁもう。