絶対マケンポー

真夜中のこんばんは。ロマンてっくくんです。こんばんは!

久しぶりに更新しようと思って開いたら、タゴモさんが二つほど更新されてて、読もうかと思ったんですけど、ほら、あの人たまにすご〜く長い駄文書くときあるじゃないですか。まぁ大体面白いからいいんですけど、いくら面白くても長文を視界に入れた瞬間から面白くなれるわけではないですし、長い文読んだ先にやっとオチがあったとか、無かったとか、そういうのとか、もう寝なきゃいけないんで辛いじゃないですか。だので、先にボクの更新というなの行進、、そして、変身!!させていただきますね^^

はい、ここまでで書きたかったことぜ〜んぶ忘れました〜d=(^o^)=bp(^^)qd=(^o^)=b\(^o^)/(゜∇^d)!!デデーン


だので、おもいだしちゅう。。。








ピッポッパップーン!まだ思い出せない。確か自分のアメーバのブログを読んでて…何かを思った。なんだっけか。。
久々にブログに書きたい!ってくらい、皆さんも納得の面白いことだったと思うんですよね。マジマジ


明日ってか今日10時からバイトなんでそろそろ寝たいところなんディスケド。。。

珈琲の……





いや、珈琲の話では無かった。ぶっちゃけ珈琲の話で珈琲素人の皆さんが「ほへぇーナルホドー。ロマンてっくくん詳しいんだねー。おもしろーい!」と、決して社交辞令の頷きではなく、充実感のある納得で納得できる話はいくらでもできるんディスケドねー( ̄ー ̄)フフーンフーン
珈琲通の方はちょっと勘弁してください。

でも今話したいのは珈琲の話ではない。



記憶…








いや記憶の話では無かった。そもそも話したいことが先にあって、それを忘れてこその記憶だから、順序ちがう。






リーバイス……









いやリーバイスジーンズすげーハマッテルンスヨ。ニューバランスとかリーバイスとか、雇用者を守るために株を上場しなかったり途上国に工場を作らなかったり(今は作ってるけどね。メイドインイングランドとかメイドインアメリカとかは高いやつでアルよ)、勿論デザインで惚れたんすけど、デザインいいのいっぱいあって、その中でどれ選ぶとかだと、ほら、ボクは「メイドインジャパン」とか「雇用者を守る」とか「創業者が博愛主義で」とかそーゆー言葉に弱いんで、好きですけどね。メイドインジャパンジーンズは高くて買えないっす。いつかね


この話じゃないんだよな……








真矢みき…………









ド綺麗ですよね。









NHKの半井さん………








超ド綺麗ですよね。









いかん、タイムリミットじゃ……





ゲームオーバー、俺の変身は解け、闇に溶ける。


あ、夢占いの話だった。夢占いでなんか意味ありげなシーンが出てきたとき、とりあえず死の前兆じゃないかの確認の検索は欠かせませんよねっていうオ・ハ・ナ・シ


センキュー!ミッドナイ!グッドナイ!

MOTアニュアル

東京都現代美術館、という美術館が、台東区にあります。なんか、いろんな地下鉄の駅から行けるんだけど、どの駅からも遠い、っていう、なんとなく現代美術の立ち位置をそのまま現しているような美術館です。失礼か。去年、うさぎスマッシュという展覧会に行ったのを書いたかもしれないけど、今回はそれに続き、二回目のMOTでした。あ、MOTっていうのは東京都現代美術館の略らしい。よくわかんないんだけど。

MOTアニュアル2014フラグメント、っていう若手作家を集めた展示を見ました。はいってすぐ、高田安規子さんと高田政子さんという2人組のアーティストの作品があって、面白かった。まず、小さな軽石に、円形競技場や凱旋門の彫刻を施した作品があった。大きなスケールのものを、小さいスケールにしてしまうということの、違和感を覚えた。ただ、日常で使うものである軽石を使い、その違和感を増幅させようと試みたのなら、軽石っていまはもうほとんど使わないものだから、あまりうまくいってないと思った。あと、庭園迷路、という写真の作品も好きだった。岩やレンガについた苔に、小さな小さな迷路(遊園地にあるやつを上から眺めたようなやつ)を掘っている作品だった。異なるスケールを自在に行き来しているような感じがした。
宮永亮、という人の作品は、『WAVY』という映像作品だった。アトラクションに乗っているような感じがした。夢を見ているようだった、と言っていいかも。いろいろな場所の、いろいろな時間の、いろいろな風景が出てくるが、切り貼りといった印象が残らないのは、すべてが実写で、普段何気無く眺めることのある風景ばかりだったので、全部ぼくの脳みそのなかで勝手に繋がってくれたのだとおもう。
青田真也の作品は、ふだん何気無く使っているボトルやらビンやらをヤスリで磨いた作品だった。磨かれたものは、ぼんやり優しい色使いになる。ぼくの予想では、天国の家で使われているボトルやビンはあんな感じだと思う。天国では成分表示やパッケージなんてかんけいないし、だいいち、みんなの生前の記憶を頼りに作られた世界なのだから、あのくらいぼんやりしているのがふつうだろう。
福田尚代というひとの作品は、繊細なかんじがした。原稿用紙から、マス目だけをくり抜いて複数枚並べている『残像:筏』という作品が、梯子みたいに見えて面白かった。原稿用紙のマス目をくり抜くとハシゴのようになる、というのは新たな発見だ。他にもけしごむや本を使った作品があって、文学的な、詩的なモノが好きな人にはおすすめしたい。
吉田夏奈、というひとの作品は、自然が大きなテーマだったと思う。ぼくは美術の素人なので、やはり作品を作る(あるいは描く)技術にばかり目がいってしまって、どうも色の乗せ方が雑だなあ、などと感じてしまった。作者の意図が海やジャングルや、あるいは地球の内部に向いていることはよくわかったんだけど、どう作品にして見せていくのか、ということがよくわからなかった。でも、『ポテトインテリア』という作品は、将来広い家に住んだときに置きたいとおもいました。
パラモデル、という2人組ユニットの作品、模型的なものへの執着を感じた。地下鉄の構造図みたいなのが壁一面に貼ってあって、どの駅も他の駅と繋がっていた。言ってる意味わかるかな。地下鉄って、たしかに、駅と駅は繋がってるんだけど、そのあいだは真っ暗で、線だから、地上の駅ほどその間を埋めるものがリアルじゃないな、とおもった。ちなみに全部関西の駅でした。関西のアーティストらしい。林泰彦さんという方は実際にスペースにいて、巨大な作品が制作されている最中でした。もうひとりの中野裕介というひとは、もっと思索を促すような作品で、ぼくはそちらのほうが好みでした。なにか哲学的命題について考える時に、それを目の前にすると、ヒントが隠れているような。そういう、思想のそばに置いておきたい芸術作品って、荒川修作が思い出されるんですけど、そんな感じでした。

ちょっと、iPadで書いたので誤字とか多いですけど、勘弁してください。それでは、また!

フルーツ・オブ・パッション

 こんばんは。

 先日、兵庫県立美術館に行ってきました。今日はその感想を書きたいと思います。そこでやってたのは、フルーツ・オブ・パッションという展覧会でした。この展覧会のコンセプトを簡単にいうと、現代美術のメッカ的なフランスのポンピドゥー・センターから、2000年代のイイ作品を集めてきたよ、っていう感じです。巡回しないので、兵庫県立美術館でしか見られない展覧会です。3月23日までやってるそうなので、みなさんぜひ行ってみてください。

 さて、まずこの美術館の建物じたいが、安藤忠雄の建築っつーことで、べつにぼくは安藤忠雄好きではないんですけど、建物好きには楽しいと思います。海の近くにあって、屋外に彫刻とかもあるので、環境がとても良いと感じました。

 今日は、フルーツ・オブ・パッション展のなかの、イントロダクションと題されたすでに巨匠っぽい位置づけの人たちの作品について書きます。なんていうか、実物を見ない人に配慮してかくので、イメージしてください。で、面白そうだったら兵庫にGO!
 あ、太字の人は今回の展覧会に出品してた作家です。

 フルーツ・オブ・パッションの入り口には、ダニエル・ビュレンという人の作品があります。チケットをもぎる係員がいる場所より前にあるので、作品に気付かない人もいたと思います。ビュレンという人は、幅8.7センチのストライプを使った作品が有名な人です。というか、ぼくはそれしか知りません。入口の壁が、どーんとでかいんですけど、一面このストライプで塗られているのです。幅8.7センチのストライプを、もう1965年とか1967年からずーっと使ってるのです、この人は。色の指定は、必ず、白ともう一色。今回は、白とマゼンダでした。そして、一度使った色は二度と使わない、という決まりがあります。
 これが面白いのは、何気ない壁を視覚化してる、ということです。壁って、ふだん作品じゃないでしょ。たとえばサンゲツの壁紙とか、どんだけオシャレでも実用品で、アートではないじゃないですか。そういう壁っつうものを、いまいちどあらためて意識させよう、という目論見ですよね。それもきちんとした作法で、ルールを作って、何十年もやる。それが面白いなあと思いました。
 ちなみに、幅の指定、ということで思い出したのは、マーク・ロスコです。ひじょおおに抽象的な絵画を描く人なんですけど、この人は絵画を壁に設置する高さとか、見る人と絵画との距離とかにすごくこだわった人です。床から○○センチの高さに置く、とか、○○センチ離れて見てね、とか指定したこともあった。こういう、キャンバスと見る人の関係性、っていうのは、現代美術によくある主題ですね。

 んで、そういうキャンバスの中だけにとどまらない、キャンバスと空間に主題をおいた作品は、もうひとつロバート・ライマンの作品がありました。白の画家、って言われてるらしいです。なんか、かっこいいね。この作品は、絵画で、ほぼ正方形に見えるんですけど、キャプションを見ると若干縦が長いんです。223.5 x 213.5 cmとあるので。キャンバスの大きさって大事なんですよね。作家は、一ミリ単位で意図するんでしょう。さらに、この作品は、(美術館の)壁に固定する留め具まで指定があります。この金具で四点を留めて展示してね、っていう。これはおもしろいですよね。ここでもやっぱり、作者の意図はキャンバスの外に(も)あるんです。
 ちなみに、そういえば、福田美蘭っていうひとには、三面の交わる部分、つまり部屋の壁のすみっこにフィットする立体的なキャンバスに描いた作品がありました。美術館って、絵のなかだけを見ていちゃだめだったりするんですね。なんでその位置、場所にあるのか。どのようにその場に存在しているのか、考えるのが楽しいのかもしれません。

 白の画家、にたいして、黒の画家、と紹介されている人もいました。ピエール・スーラージュという人です。この人の作品もキャンバスなんですけど、はしっこ以外はほぼ黒の画面に、細い白い線がスーッと横に四本、走っています。そうすると、人間は、目線を左右に振られながら画面を見ることになるのです。こういう大胆なことを取り入れているのも、おもしろいですよね。絵の見方を、絵が規定してくる、っていう。それを非常に、わかりやすく端的にやってる。で、そうやって見ていくと、黒も一色ではなく、非常にむらがあることに気が付きました。それだけです。

 サイ・トゥオンブリーの作品も見ることができました。今回の作家の中ではいちばんの大物ではないでしょうか。作品は絵画です。このひとの作品は「詩的」だとよく言われます。リルケの詩が好きだったそうです。らくがきみたいだけど、クレーみたいならくがき感とはまた全然違う、もっと抽象度が高い感じで、なおかつ見るものに与える印象には個人差があまりない感じがします。

 ゲルハルト・リヒターのは、『グレイ』という作品がありました。何も意図しない、何も意味しない、という絵画で、まさに全面グレイです。ただ、表面はしわのようにごつごつしていて、均整がとれててきれいですが。
 これは作者のコンセプトが明確に示されてました。こーいうコンセプチュアルな作品っていうのは、コンセプチュアルっていうのは概念的な、とかいう意味で、つまり作者に明確な意図があって「こう考えたらおもしろいよね」みたいな確信があって作ってる、ってことだと思います。あるいは「こういう見方を提示します!」みたいな。見た人が「そう考えて作ったのかあー!」って思うようなね。そういうことできるには、やっぱりたくさん本を読んで、いろんなことを知識としてもってなきゃいけないわけです。じゃないと、「あいつの考えをしりたいな〜」ってみんな思わないから。「どういう考えがあってこれを作ったんだろう?」って見る人が思うためには、やっぱり「何かを考えているなあこいつ」と確信を持たれる人間にならなきゃいけないのです。そのひとに寄り添って考えた結果適当の産物だったら、むかつくし。そういう意味で、作品には誰が作ったかってことがすごく重要だと僕は思います。

 あと、絵は、勉強をさせてくれるものでもあります。あなたのいままでの人生のものの見方では、見れませんよ、っていう絵は、やっぱりおもしろいのです。見るという行為は、常に「理解した気になりたい」っていうエゴと同時にあるもので、つまり非常に傲慢なのですね。そういうこちらの見方を、ドーンと突き放して拒んでくる絵を見たときに、つまんないと思ったら負けな気がしませんか。その作家の人生を知って、その作家が愛したもの、読んだもの、考えたことを知っていくうちに、その絵の見方が変わったりする、その過程が僕はおもしろいと思います。つまり、最初からおもしろい絵はおもしろくなくて、その絵が自分のなかでおもしろくなっていく過程がおもしろいと思うのです。

 
 さてと。正直、ねむすぎて途中から何を考えているのかよく分からなくなってきたので、寝ます。もう、このブログも、そろそろ自分の独り言みたいになってきている。ちなみにイントロダクションにはあと一人、アグネス・マーチンの作品もありました。六人全員の紹介が終わったので、おやすみなさい。また続きを書くかもしれません。

テレビドラマのはなし

 恥ずかしいことだが、僕はあまりテレビを見ない。テレビを見ることによって白痴化がすすむ、と大宅壮一のようなことを考えているわけではない。テレビでも何でも観たほうが観ないよりいいと思うし、テレビは楽しいものだと正直に思う。でもあまり観ていないいちばんの理由は、高校三年間の寮生活において、テレビと疎遠な生活を送っていたからである。
 んが、もともとテレビは好きなので、持ちこみ禁止のDSに地デジ受信のアンテナのようなものを付けて、こっそり見ていた。それが『流星の絆』であった。脚本は宮藤官九郎。そのころ、レンタルで『マンハッタン・ラブストーリー』も見た。

 いままで、テレビドラマというものについて、あまり意識して考えたことがなかった。映画や小説については、自分が見てきたものの傾向や趣向性について話すこともできるが、テレビは「消えもの」よくと言われるように、見たものについてほとんど忘れていた。今回、思い返す機会があったので、いままで見たことがあるテレビドラマについて語ってみようと思う。テレビドラマに詳しい人は、僕のうろ覚えな怪しい記憶を、「そんな話じゃねえよ」あるいは「よく覚えてるねえそうそう」などど勝手にリアクションしてもらえばいいと思う。詳しくない人は、なんかまたたごちゃんが見たもの聞いたもの自慢してるよ、みたく思ってもらえればいい。ちなみに、ウィキペディアの日本のテレビドラマ一覧みたいなところから選んできたので、たぶん全部ではないし、一部しか見てないのに全話見た気になっているものもあるかもしれない。そこらへんは、適当である。

バスストップウッチャンナンチャンウッチャンが出演してた。たしかウッチャンが家にオウム飼ってて、お客さんに変なこと言ったりしてた。あと、ウッチャンが花火を打ち上げたりしてたね。カバチタレ!。たしか、山ピー出てたよね。常盤貴子が可愛かった。ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ。タッキー主演だった。なんかへんな雰囲気のドラマだったように記憶している。急に恐くなるような。違ったっけ。ムコ殿。ムコが、義理のお姉さんのお風呂を覗いちゃったシーンが印象的。あと、一人ぼっちのハブラシは名曲ですね。恋がしたい恋がしたい恋がしたい所ジョージが出てた気がする。そのわりにはコメディーではなかった気がする。アンティーク〜西洋骨董洋菓子店。このころからミスチルが好きで、それからよしながふみも好きになったりした。少しだけ。かなり好きなドラマである。人にやさしく。スリーピース、の話だった、と思う。ああいう家に住みたいと思った。あと、加藤清四郎くんが出てた気がする。ゴールデンボウル黒木瞳が出てた。要潤が毎回ボーリングをしてた気がする。要潤じゃなくて金城武だった気もする。ちょっと不倫要素とかあってドキドキしながら見てた。マンションの鍵が出てくる話だったよね。このドラマでスネークアイという言葉を知った。空から降る一億の星。スマーイル、なんとかかんとかー、っていう主題歌。NG大賞みたいなやつに、NGシーンが多くノミネートしていた気がする。サトラレ。これは再放送で見た気がする。見ていない気もする。ぼくが地球を救うウッチャンの話。ウッチャン好きだから見てた。SFっぽい話。CGとかもあったのではないか。ウッチャンが階段から転がり落ちるシーンは、死んじゃうんじゃないかと思った。なんか、広場みたいなところで。あと、隕石とか落ちてきた気がする。すべてが曖昧だが、全話見てる。たぶん。ランチの女王竹内結子。というより、スリー・ドッグ・ナイトの主題歌であるジョイ・トゥーザ・ワールドっていう曲。いまだにスリー・ドッグ・ナイトのことは好きで、フェイスブックで最新情報を入手しているのであった。そう考えると、見たのは再放送だった気がしてきた。そうか、ぼくは習い事をほとんどしていなかったので、学校から帰ったら夕方にやっているテレビドラマの再放送を毎日観ていたのだ。今思い出した。スカイハイ。これも再放送だ。釈由美子。綺麗だった。なんか、地獄の門番みたいな釈由美子が、死んだ人を一度現世に送り返して、自分の死んだ理由を直視させる、みたいな内容だったと思う。森本レオの回が印象的。僕の生きる道。草なぎくんが主演。そんなに乗り気じゃないけど家族が見てたから見てた気がする。ビギナーミムラ。あとなんか堤真一がいた気がする。なんの話かは全く覚えていない。プライド。これでクイーンにハマった。中学時代だった。コンサートも行った。フレディーの代わりに変なおじさんがいた気がする。福岡ドームでの出来事。あとHEROも好きだった。僕と彼女と彼女の生きる道。これは、草なぎくんが、学校に行きたくない子どもにうんちさせるシーンが印象的。そんなシーンなかったかもしれない。オレンジデイズ。たぶん、ミスチルが主題歌。大学生ってこんなかんじなんだ、と思っていた。ぜんぜん違った。いや、半分くらい当たっていたかもしれない。瑛太が電球を替えるシーンをなぜか覚えている。不機嫌なジーン竹内結子が理系の研究者、たしか昆虫を研究している人を演じていた。早漏、という言葉はこのドラマで知った。もしかしたら途中で見るのをやめたかもしれない。あいのうた。これは、高校時代にレンタルで借りて見た。いまもシナリオを持ってる。はじめて脚本家の存在を意識したのはこの作品。ちなみにこの脚本家の岡田恵和さん(恵の字がほんとはちょっと違う)がテレビドラマの脚本家では一番好きかもしれない。あと、このドラマは主題歌も好き。菅野美穂も好き。和久井映見も好きだった。とにかく全部好きな作品。結婚できない男。なんか、最後の方、夏川結衣と付き合ったのかそうじゃないのか覚えてない。ビニール袋ぶらさげて二人で歩いてたのは覚えてるけど。誰よりもママを愛すおやじぃ。。この二作は記憶があいまいだけどどっちもちゃんと見てる。たぶんおやじぃ。は二回見てる。誰よりもママを愛す、は家が燃えた気がする。気のせいかもしれない。流星の絆。前に書いたようにDSで見た。寮で、こっそり。クドカンが好きだった、というか、松尾スズキが好きだったので、大人計画の役者が見たかったのだろう。ドン★キホーテ。これは最近だった。友人に勧められてひさびさに全話見た。松田翔太は好きである。11人もいる!。面白かった。弟がファンブックのようなものを持っている。鈴木ソアラが可愛かった。ぽっかぽか。ちち〜。はは〜。王様のレストラン三谷幸喜。再放送。ナースのお仕事。かなり好きだった。弟がサントラを持っている。君の手がささやいている。このドラマのおかげで、「雨」だけは手話で話せる。小さな女の子が、耳が聞こえないお母さんに、雨が降ってるよ、洗濯物とりこまなきゃだよ、と手話で教えてあげるシーンがある。あ、もしかしたら、原作の漫画にあったシーンかもしれない。たしか原作を読んでいる。あんまりよく覚えていない。きらきらひかる。これは、ミスチルが主題歌だったから、再放送を観たのだと思う。おもしろかった。一時期、検死官になりたかった。法医学のはなしである。線路内に立ちションして感電、線路に落ちて電車にはねられた遺体を解剖するシーンで、深津絵里演じる新米検死官が「おちんちんを(解剖)!?」と言っていたのが忘れられない。天国に一番近い男。松岡君。有名人には一定数、君で呼ばれるのがなぜかしっくりくる人がいる。松岡君もその一人だ。なんか、太い鉄パイプみたいなのに巻きこまれて死んでた気がする。ビューティフルライフ常盤貴子とキムタクが真っ白い空間を行き来しているエンディングをやたら覚えている。あとまあ、踊る大捜査線とか、キッズウォーとか、大好き!五つ子とか、GTOとか、有名なのは見ている。昼ドラも結構見ていた。幸福の明日とか。オープニングで、小太りの主婦が草原を走ってくる映像をよく覚えている。お話の内容はそんなコメディタッチではなく、子どもを取り違えてしまう悲しい話。主題歌はDEEN

 とりあえず、てきとうに挙げてみました。僕の記憶の掘り起こしに付き合わせるだけのブログになってしまいました。ほかにあったらまたこの記事に追加しておきたいと思う。べつに、もういいんじゃないか、とも思う。というのも、なんか、意外と自分、いろんなドラマ見てきたんじゃないか?というのが、嬉しいのである。そして、小学校中学校と、ほんとうにテレビばかり見ていたのよなあと、そして、今後もっとテレビドラマを観ていこうかなあなどと、思っている。見る、という漢字と観る、という漢字がごっちゃになってみにくかったよなあ、ごめんなあ、とも思う。

新年明けましておめでとうございます。

 こんにちは。年が明けました。年が明けて、もう四十時間強経ちました。年が明けてから、寝て、夢を見て、起きて、を二度繰り返しました。初夢もしっかり見ました。最近、というか秋ごろから、毎晩夢を見ます。それと、寝付きがあまり良くありません。嬉しいのは、寝付きがあまり良くなかった翌朝というのはやたら目覚めがいいということです。なんか健康的なのかそうじゃないのか分かりませんが、そのような日常を過ごしています。どうでもいいこと書いてすみません。

 前回、大学の後輩のゆーすけロマンチックくんにブログを書いてもらいました。いつ書かれるのかなあと思っていて、僕も頻繁にこのブログを覗いていたんですが、なんか僕の前回の記事にものすごくタイトルを寄せて書いてくれていて、それゆえに彼の記事があがっていると気が付きませんでした。そんな年の瀬でした。ゆーロマくんの記事、面白くないですか。どうですか。僕は最近好きなんです、彼の文章が。

 お年玉を、もらいました。今年も。ありがたいことです。ぼくは春から働くので、たぶん続きはもらえません。支払完了です。ぼくは生まれてから二十二回、一月一日を通過していて、つまりぼくが生まれてからおじいちゃんおばあちゃん、おじさんおばさんは強制的に22年間のローンを組まされたようなものだったのです。総額はいくらくらいになったのでしょうか。そして、ぼくはその恩返しをしていけるのでしょうか。もらった愛の恩返しは次世代へ、ほんの金銭的な恩返しくらいは、最低限、本人たちにしたいなあ、と思います。本当にありがたいことです。

 どうでもいいでしょうけど、コツコツ貯金をすることにしました。これからの人生を考えると、やっぱりがんばってお金を貯めたいと思うのです。

 新年の抱負、お金を貯める、かな。

 それでは、また。

やるっきゃないから、死ぬっきゃない!!

真夜中のこんばんは。
たごもりさんが、ブログのパーソナリティーを探していたそうで、ならボクしかいないだろうと思い、名乗り出ました。ゆーすけロマンティックと言います。よろしくお願いします!

ブログぐらい一人でやれよって感じですけどなんて思ってないですけどね。

たごもりさんはブログを一人でやるのが寂しい反面、みなさんはボクという存在の登場で、いままで住み慣れたウエダ・タゴモのユニバースなんとかかんとか・シティが、なんか違う感じになっちゃって寂しい。第一期ウエダ・タゴモのユニバースなんとかかんとか・シティが恋しい。そんな風に思ってはいませんか?

大丈夫。

今まで幾度となく仮面ライダーの新作が発表されても、みなさん、最初は不安で多大なるディスをかましても、第三話あたりでフィギュアが欲しくなりましたね。

大丈夫。

人間の 慣れ という力は素晴らしいものです。臭いも、感触も、視覚も聴覚も、同じものにさらされ続ければほとんどなれてしまいますね。

大丈夫。

慣れの力はきゅうきょくです。その最たるものが「靴擦れ」の慣れです。同じ靴なんだから何度履いても靴擦れするだろう。絶望的だな。なんて、新しい靴を何回か履いて思ったこと、ありませんか?


大丈夫。

私も最初はその原理がわからず、この世のしょうもない部分に超自然現象を認めてしまったようで、腹が立ちました。

大丈夫それはたぶん靴が柔らかくなったりして自分じゃなくて靴の方が慣れたのでそういうこともあるので大丈夫です。


では、夜も更けてきたので、12月だからまだ暗いものの、6月とかならもう明るくなり始めててもおかしくない時間ですね。そう考えると、場合によってはまだ寝てないのに明るくなり始めてても絶望する自分というのも、この世には存在しうるということなので、先取り確率論的絶望 というのも、考えられなくもないです。


だいじょうばない。

あと、さっきから外でカラス的な鳥系生物の鳴き声が、あまりにも機械的というか、等間隔に「カア」と鳴るんで、この世のしょうもない部分に超自然現象を認めてしまったようで、非常に腹が立ちます。そして明日、日付かわって本日12時から14時までバイトが入ってるので、そろそろ寝ないと、寝坊か、ギリギリに起きて頭が発芽米状態でレジを打たなきゃいけないので、寝ます。ので、自己紹介はまた後日で失礼します。。

「頭が発芽米状態」という表現は、気に入っているので私の各種SNSアカウントにて取り扱っておりますが、すでに購入済みの方は、「あ、気に入ってるからってま〜た販売してる」と寒い思いをしておららるかもしれませんが、どうぞお許しください。こうゆうのは、本人が自覚してるか、否かが、許せるか、許せないかの鍵となっておりますので、お許しください。

では、身内が見ている想定のテンションで書いてしまいましたが、たごもりさんの知り合いの方も見てくださってるかも知れないので、不届きな文章ですみませんでした。
これからちょくちょく更新するかと思いますが、厳しく暖かい目線で見ていただけたら幸いです。よろしくお願いしますm(._.)mおやすみなさい!

やるしかないから、しぬしかない。

 「やるしかないから、やるしかない。」というキャッチコピーがありますね。あれ、相当バカだなあと思います。まあ、「バカだなあ」と思わないで「そうだなあ」と思うバカがうまいぐあいに就職していくシステムは、至極まっとうだと思いますけどね。あれを「バカだなあ」と思うような奴はたぶん、それ以外の部分でも人生うまくいかないでしょうし、その上手くいかなさを楽しめる人間だと思うのです。ま、どうでもいいですね。

 十二月に、就職活動が始まるじゃないですか。で、三年生に、「シュウカツ不安ですぅ」みたいなことをたまに言われるんだけど、まあ、それを言ってくる奴らっていうのは、こちらが相談に乗るまでもなく、勝手に上手くやれる奴らなんですよ。うまいことシュウカツが終わった四年生って、「下級生にシュウカツについて伝授したさ」でウズウズしてるじゃないですか。「自分はこのくらい頑張ったよ、そしてその結果この会社に入れたよ」、ジャーン!っていう。そのプチ報告会じゃないですか、「後輩の相談に乗る」というのは名目だけで。だから、そういうふうに「シュウカツ不安ですぅ」を言えて、先輩にドヤ顔することを許せる奴っていうのは、なんていうか、世の中上手く渡っていくことが可能な奴か、働くことへの意識が高い奴なので、大丈夫だと思います。

 えっと、つらつらと書いていこうかな。

 17日、下北沢のB&Bっていうサブカルくさい書店にて、巖谷國士先生から、シュルレアリスムについてありがたいお話を聞きました。面白かった。マックス・エルンストアンドレ・ブルトン瀧口修造なんかにも言及しながら、シュールレアリスムとは何ぞやということを、「特定の様式がない」ということを前提に、科学主義、合理主義、ユートピア思想、さらには資本主義における労働なんてものと比較しながら、まあとにかくいろいろ分かりやすく話をすすめてくださった。とくに「見る」についてのお話は、「目」は教育されるものだっていう話から、カンブリア紀の「目」、遠くの富士山を見る「目」なんて、いままで自分がなんとなーく感じていたものが言語化されていくドキわく感を味わえた。で、その巖谷先生が、講演中おそらく百回以上「シュルレアリスム」って言っていたんだけど、ていうか、あの人たぶん人生で一千万回くらい「シュルレアリスム」と発音していると思うんだけど、なんか「シュルレアリスム」とはもはや言ってなくて、「シャリスン」みたくなってました。なんか、ひとは、「シュルレアリスム」って言いすぎると、「シャリスン」になるんだろうなあと思います。ガラパゴス諸島に生息するオットセイが独自の進化をたどってガラパゴスオットセイになったように。これが、ぼくみたいな「シュルレアリスム」と口に出したことが人生で五回くらいしかない人間が、いきなり「シャリスン」と言うと「ふざけんな!」って話になるわけよ。「ちゃんといえ!」って。シュルレアリスムを「シャリスン」と言っていいのは巖谷先生だけですね。

 20日、キュンチョメっていう若手美術家の個展を、高円寺に見に行った。以前、山本現代というギャラリーでグループ展があったとき、その存在が際立っていたので、まあ、なんとなくチェックしていた作家である。で、今回は震災をテーマにした展示。震災って、いま森美術館でやってるアウト・オブ・ダウトもそうだけど、やっぱり「そっからどう変革していきましょうか」みたいな持っていきかたが正攻法だと思うし、震災とがんじがらめになっている日本をどうリカバーするのか、という問いがバックにある感じがするのですが、キュンチョメの作品は、あくまで震災は「きっかけ」であって、どうせ震災があってもなくても問題にされていたであろうテーマを扱っているんじゃないかな、という気がしました。いや、そもそもテーマなんてなくて、つまり「こういう表現をやりたい」っていうのが根底にあるのではない気がする。ただ単に、世界の変容を面白がっている。変容し、不安定になりゆく個人と世界との繋がりを、SNSではなく、街の中で再現する。そのとき、震災っていうのが一つの装置として、舞台として機能する、ただそれだけなんだろうと思う。あと、キュンチョメはホンマさんとナブチさんという二人組なんだけど、ホンマさんは普通にコミュ力が高いっぽい。作品がわりとゲリラ的なので、いきなり顔面につばを吐きつけられたりするのかなあ、と思いながら恐る恐るギャラリーに行ったんだけど、普通に優しく声をかけられました。
 ただ、ここのところ、やっぱりアーティストと観客のポジショニングってすごく難しいと思っています。いま、こういうふうに何か書くと、わりと本人に検索されて、読まれちゃうじゃないですか。インターネットは。で、相手が商業的な、EXILEとか浜崎あゆみとかなら、いくら褒めても悪口書いても本人に見られることはまずないでしょ。なんならジャスティン・ビーバーとか、「なんかげっ歯類みたいなきもい名前だなあ」と僕は思っているけれど、そういう思いを今書けたっていうのは、ジャスティンそもそも日本語読めないからじゃないですか。つまり何が言いたいかというと、エゴサーチって、してもいいけど、「エゴサーチしてる」ということをあからさまに発信するのは、結局自身に対する発言や議論をけん制していることに他ならないんじゃねえの?っていうことです。そういうことをしてると、みんな、商業的な、おっきいところの話しかできなくなる。キュンチョメのことを書きたいと思っている人たちについても、「あんまり適当なことを書くと本人、およびその周辺のセンモンカに読まれちゃうんじゃないか」っていう気持ちが、素人批評を委縮させてると思うんです。それはキュンチョメだけじゃなくて、世の中のあらゆる「過渡期」にある表現者についてですけど。インターネットを駆使しすぎることの弊害というか。「先生目つぶってるから」って嘘ついておかないと、みんな手を挙げないんですよ。それを薄目開いて見てりゃいい話で。
 ただでさえ現代美術って「どう解釈していいか分かんねえ」ってなる分野で、苦笑いで通り過ぎたくなるじゃないですか。それはおそらく、みんな「作品には裏付けがある」ってなぜか信じているのが問題だと思うんですけど。分からない、ということが、イコール知識不足だと思い込んでしまう。はっきり言って、若手現代美術作家なんて馬鹿ばっかりだし、たしかな裏付けなんてどこにもない。
 美術家の、おそらく最も重要な仕事は、世界を可視化させることだ。つまり、「こんなんできましたけど」って言うところまで。しょせんあいつらは、僕たちが世界を見るための変換装置だと思っていい。眼鏡だとしよう。その眼鏡を掛けて見えたものをどう解釈して理解するか、あるいは見えたもののどの部分に注目するかは、観客次第だと思う。怖気づくことはない。だから、「あんたの眼鏡でこういうものが見えたよ」っていうのを、もっと言っていいと思うし。そんなもの、作品に対する感想ですらないのかもしれない。僕たちは眼鏡の造形を褒めてるわけでも貶しているわけでもないのだから。そんなつまらない仕事は、それこそ専門家に任せてしまえばいい。

 さて。他にもいろいろ書こうと思ったんですけど、時間も遅くなってきましたので、またにします。

 明日は後輩とお酒が飲めるような気がします。最近、「後輩に気を遣ってもらいながら飲むお酒が抜群にうまい」ということに気付いてしまって、いかんなあと思っています。