斎藤環氏

 ここまでの議論で、私は何度か斎藤環氏を支持する発言をしてきた。しかし、いくつかの発言は内容的に勇み足だった。私は医師ではないし、氏のなかで(私の知らない)精神医学や精神分析の議論がどう「ひきこもり」と関わっているか、よくわからないと言うべきだった。ただ、氏の「ひきこもり本」に表明されている立場については、状況に応じて擁護すべきだと思っている。それは私自身の努力を後ろ支えするものではないかもしれないが、最大の良心に基づいた議論だと思うし、私自身つねに立ち返りたいと思っている。少々傲慢かもしれないが、私の努力の「環境を整備してくれる」ものかもしれない。当然ながら、医師である斎藤氏と、「当事者個人」である私とでは、できることは違っているはずだ。

「語られる」存在から「語る」存在へ

 これまでのところ、引きこもりは、外的な視点から「語られる」だけの存在だった。仮に当事者が「語る」ことを許された時であっても、それは「私、苦しいんです」というような素朴な真情吐露が許されるだけであり、外的観察視点が我が物としているであろうような理論的な枠組みに口を挟むことは許されなかった。(これはもちろん、いろんな精神疾患や、カテゴライズされた社会的マイノリティについても言える事情だろう。) 2ちゃんねるのヒッキー板などを見ていると、こうした「自分たちの外部にある、観察し、排除し、治療しようとする視線」に対する警戒と敵意が見て取れる。当事者は、「観察者」の視線に対話的に合流することができないと感じている。それが、支援者に対する恐怖を肥大させたりもする。(実際に、恐怖すべき「治療者」もいるのだが。権威的な精神科医や、「2時間で治る」と豪語する長田某など。) 外在的な観察視点と当事者たちの内面的な苦しさとの解離が、当事者たちの疎外感を増幅し、自分たちの社会的処遇への不安を増幅していることは間違いない。
 思うに、当事者たち自身が、自分たちの苦しみや存在に内在的な議論を展開するべきではないか。そうしてその内在的な議論は、これまで私たちを観察していた「理論的視点」をも自分たちの内に取り込み、消化して、これまでの「観察者」との対話をはじめるべきではないか。あるいはこう言ってよければ、そうした「観察者」たちとの関係において、「論争的参加」を試みるべきではないか。
 これまで当事者に与えられた発言権は、「当事者ゆえ」の無条件のものであり、それゆえ実はその語りの内容そのものはどうでもよかった(問題にされなかった)。「当事者が語る」というその形式だけが重要なのであり、「内容」については相手にされていなかったのだ(せいぜい、観察者/支援者たちの理論的枠組みを補強するネタ提供だった)。私の言う「論争的参加」は、こうした当事者への「無条件の受容」を取り下げつつ、逆に内容面において対等な承認を求めるものだ。差別や保護の対象としてではなく、論争の相手としての存在を承認されること。(ただし、多くの当事者の境遇においては、「無条件の受容」さえもが機能しておらず、当事者たちはただ単に追い詰められている。こうした境遇においては、まずは「無条件の受容」が必要だと思う。それは、「論争する声」が当事者の中に準備されるためにも。)
 当事者は、「当事者だから」承認される段階から、「たしかにいいことを言っているから」承認される段階へシフトすべきだ。それは、「語られる存在」から「語る存在」への変貌である。(繰り返すが、そこには対等な自由競争の厳しさがある。保護の対象ではないのだから、「認められない」かもしれないのだ。) 当事者の豊かな語りと論争的参加によって、「理論 → 対象」の硬直した観察図式を掘り崩すこと。
 実はこれは、「ひきこもりの焦燥」とはまた別の、独特の焦燥感を身に抱えることでもある。対話的な言葉の関係に投げ込まれることによって、私たちは「もっと読まなきゃ」「もっと語らなきゃ」という生産的な焦燥に目覚めることだろう。――こうなれば、あとは各人が自分の流儀で自分の文脈に応じた論争的参加を試みればいいのであって、私の思うに、これこそが「自立」ということではあるまいか。「社会的自立」というのは、なにも社会に迎合しろ、ということではなくて、社会に向けて対話的・論争的に参加してゆけばよい、ということではないのか。当事者特有のやっかいな自意識は、「そんなもの気にするな」という説教によってではなく、状況への対話的・論争的参加を通じて消えていくのだと思う。


 id:Ririka:20031011に、「ひきこもりは動物化だ」という主旨の発言がある。これは言うまでもなく「外から観察した記述」だ。いっぽう彼女自身が記している「当人が望んでそうなったのではない」という記述は、単なる外的記述ではなく、いわば内面事情を想像したものになっている(東浩紀氏の「ひきこもりは人間的である」という発言も、やはり当事者の内面事情――より正確には内的な情報処理事情?――を語ったものであり、「彼らは社会的にはどういった存在になっているか」という記述ではない)。「ひきこもりは親に養われた動物的存在だ」という外的記述が先行してしまうのは、id:Ririka氏の責任ばかりともいえず、やはり当事者の内在的語りが貧困すぎるのだと思う(支援者の語りは貧困かもしれないが、それより何より当事者の語りは貧困なのだ)。――ただ、実は社会には「ひきこもりなんてまとめて屠殺しろw」などというまさに当事者を「動物視」した罵倒も存在しているわけで――そんなものは2ちゃんねるでしか見たことはなく、また実際に「屠殺」できるわけもないのだが、「殺してしまいたい」という衝動が実際に社会の一部に存在しているのは否定しようもなく―――、「動物的」という外的記述の強調は、ひきこもり当事者の置かれた政治的状況にとってきわめて不穏なものだと言わざるを得ない。もちろん、状況と議論の文脈によってはRirika氏のような議論もすべきだが(実際私はその指摘から刺激を受けた)、ただ、ひきこもり当事者をどう記述するかというのは、とても政治的な問題なのだということには自覚的でいたい。

嗤えない日本のヒキコモリ

 北田暁大氏の「嗤う日本のナショナリズム」(『世界』11月号)を立ち読みした。そこから考えたこと。
 北田氏の指摘する「裏リテラシー」とそこから発生する「繋がりの王国」は、ともに「ひきこもり当事者」にとってはまさに鬼門となっている現象ではないだろうか。
 たとえば次のような指摘。

 とんねるずといえば、80年代を象徴する「じぶん探し系」の領袖だ。彼らの笑いは、楽屋落ちや内輪ウケの延長線上にある、一種のコミュニケーション芸である。*1

 私は斎藤環氏の言う「じぶん探し系」という命名には疑問を感じているのだが(内容の空疎なコミュニケーションに興じる彼らは、その接続感覚において充足し終わっているのではないか?)、「ひきこもり系」に対置されたとんねるずの芸風に――そしてそれに近いセンスの友人たちに――80年代〜90年代の私がひどい嫌悪と疎外感を感じていたのは確かだ(もちろん今もだが)。そんな「繋がりの王国」には、「入っていけない」、いや「入っていきたくない」。周囲との連帯感を保証するフレームを自分の内にインストールしたくない(というかできない)、そこから来る社会的不能感(「自分だけは入っていけない」)。
 2ちゃんねるには「ヒッキー」という、ひきこもりを主題にしたカテゴリもあるのだが、そこに現れる「ナショナリスト」はひきこもり当事者を全体として(外在的に)差別の対象とし、「ヒキは氏ね」「ゴミども」「いいかげん働け」といった発言を繰り返す。だがそれはどちらかというと少数派で、スレッドの大半を占める(当事者自身による)内在的語りは、「女ほしい」「ゲームも飽きた」「これからどうしよう」「死ぬしかないのかな」といった無力な反省的自意識の吐露でしかなく、しかしそこには「その無力感ゆえの連帯感のフレーム」も生じにくい。
 ひきこもり当事者は常に「世間の見方」と「弱すぎる自分」との間で引き裂かれているので(id:migel:20031011)、たとえば「30にもなって」「やっぱ仕事しない奴はクズだよな」などとくり返し「自分の中の世間」にあたる「連帯感を保証するフレーム」を持ち出してくるのだが、そこですぐに持ち上がってくるのは「でも自分はそんな社会の常識に入っていけない」という不安感であり、この不安感の方が勝ってしまうため、いわば「自己内差別」にあたるフレームは維持されない。同様に、「当事者が他の当事者を差別するフレーム発言」である「いい年して」「30にもなってヒキってるなんて氏んでください」といった若年層による年長者批判も、若者独特の「自分は年を取らない」といった幼稚な感覚にもとづくものであり、「自分はひょっとしたら一生この状態から出られないかもしれない」と恐怖している多くの当事者たちはこのフレームにも乗ってこない。
 かくして、2ちゃんの「ひきこもり板」においては、当事者以外や一部の当事者によってくり返し「連帯感を保証する差別的フレーム」が提示されはするのだが、そこで差別されるのは自分たち自身であり、その構図の継続は激しい恐怖を引き起こすので、連帯感は維持されない。そこには「自虐的アイロニー」はあるかもしれない(「もうダメぽ」)が、「ロマン主義」はあり得ず、ただ怯える人たちの「とりあえずの寄り集まり」があるだけだ。
 唯一、北田氏の指摘したような「シニカルなロマン主義」があるとしたら、それは「支援者」たちへの態度においてだろう。たとえば斎藤環氏はニュース板における「朝日新聞」であり、氏のスレッドは「信者」と「アンチ」に二分される。斎藤氏を支持する「信者」はナイーヴな「サヨ」にあたり、「アンチ」たちはまさに北田氏の言う通りの陰謀説を披瀝する(もちろん斎藤氏のかわりにタメ塾、ニュースタート、あるいは他の個人、といった権威的存在が来ても事情は同じ)。ひきこもり当事者は社会的にあまりに弱く孤立した存在なので、表立って「支援」を表明しているすべての個人や団体が「権威」として料理される。しかし――ここが大事なのだが――そこでは他の板にあるような楽しいお祭り気分は希薄で、「アイツら(支援者)がヤバイ存在ならば、まさに俺たちは何をされるかわからない」といった恐怖が常である。「朝日新聞」を叩くときのようには、彼らは支援者を「自分には関係のない存在」と楽観して捨てることができない。「直接、自分に働きかけてくるかもしれない」存在なのだ。
 北田氏は論文の最後で、シニカルなロマン主義に別の語りを対峙させる可能性を示唆して終わっていたと思うが、自分がシニカルにネタにした権威的存在(支援者)が「自分に襲いかかってくるかもしれない」と恐怖する引きこもり当事者の精神に、積極的なヒントを見出すことはできないだろうか。シニカルになりきれない、怯えたロマン主義・・・・。彼らはその「おびえ」ゆえに、批判的発言を摩滅させられない。彼らはその「おびえ」ゆえに、「状況への参加者」たる自覚を捨てられないのだ。


 「ヒッキー板」以外でも、2ちゃんねるのユーザーにはひきこもり状態にある人が多いと思う。しかし、他の多くのシニカル・ロマン主義ユーザーと同じく、ひきこもり当事者は「支援者」について語らない限りは「世界」やその他もろもろの事象について「他人事」として、メタな次元から語り得る。このスイッチの切り替えは、匿名掲示板では(ひきこもりに関係なく)当り前の操作なのだろう。

私をテキに対峙させる単語

 何人かの支援者・当事者・ご家族から、「ひきこもり」という単語はあまりにネガティヴで印象が悪いから、使いたくない、使ってほしくない、という声を聞いた。「ヒキコモリという単語は、必要以上に当事者を型にはめ、押さえつける有害な概念だ」。
 この言い分に、実は私も動かされている。「ヒキコモリ」は、「オタク」ほどには居心地のいい分類ではない(今のところ)し、そもそもその状態から抜け出したがっている人が多いのだ。できれば、「引きこもり」などというスティグマは受けたくない。
 『「ひきこもり」だった僕から』(ISBN:4062110725)などというタイトルで実名で本を出してしまった私にとって、これはかなり切実な話。事実私の母は、このタイトルに断固反対し、この本を出したことは私の人生にとって極端に不名誉でマイナスになることだ、と心配してくれている。
 私自身は、本を出したことがプラスであるのかマイナスであるのかは、今後の私次第だと思っている。私が「ひきこもり」に参加的姿勢で臨むのか、それとも隠すべき恥辱の過去として封印してしまうのか。実は私自身、今後どう転ぶのかはわからない。
 ただ、もし「ひきこもり」問題に積極的な参加的姿勢を示すのなら、私は「ひきこもり」を――上に記したように――内在的に語り、そこから自分と他の人の社会参加の道を探れないか、と思っている。その際、やはり理論的・あるいは文化的考察も行ないたいのだが、仮に「ひきこもり」という言葉を外してしまったら、私の言葉は――ありがちの理論的「ひきこもり論」と同様――「ひきこもりについて論じる高尚で空疎な言葉」になってしまわないか。「ひきこもり」という言葉の留め金にいつも還って来ることにおいて、私の考察は「切って血の出る」、自分の実存と存在とを賭けた話になるのではないか。(自分の実存とは関係ないところで難しい話をしているだけの人が多すぎるのだ。)
 というわけで「ひきこもり」は、私にとっては自分の理論的良心が地上との接点を結ぶ留め金のような単語なのだが、こうした考えはダメなのだろうか。

 僕はじぶんの価値基準をいちばんはっきりさせてくれるものは「敵」の存在であると考えています。*1

 私にとって「ひきこもり」は、自分にとって最もつらい傷であると同時に、最も効率的に自分の「敵」を招き寄せる単語でもあるだろう。私はたぶん、「ヒキコモリ」という嫌な単語を通して、最も対決すべき「テキ」に対峙するのではないか。

「借りを返す」奇跡

 昨日のコメント欄で、id:CharlieGordonid:hikilink、debune、の三氏によって、「恩返しする」「借りを返す」という興味深い発想がもたらされた。俎上にのぼっている中塚尚子氏の論文「『借り』を返したい」(『ひきこもる思春期』ISBN:4791104757)を読んでみたが、そこではこの「借りを返す」というテーマは、社会的不適応に苦しむ当事者たちの「万能の核が満たされる」奇跡との関係で語られている(映画『ギャラクシー・クエスト』における「これは現実なんだ! キミたちの知識が必要だ!」)。
 id:CharlieGordon氏のいう「恩返し」が有効な視点であると思われるのは、そもそも「恩返ししたい」と思えている時点で、その人は自分の感謝の対象を通じて「世界」や「自分の過去」と和解し、もって自分自身と和解できているように思える点だ。・・・・ただし私見では、危惧されるのは、こうした「感謝」を安易に持ってしまうことで、本来問題にすべきであった過去や世界との関係、本来そこで葛藤すべきであった諸問題についてまで、ないがしろにされてしまって、いわば政治的にトッポい、「都合のいい存在」になってしまいはせぬか、ということ。(私にとって、政治的葛藤は、ひきこもり問題の核心に位置することだ。)
 いっぽう中塚氏の指摘する「借りを返す」であるが、私はこれを、「万能の核が満たされる」経験との関係においてではなくて、上記の「敵との対峙」において考えてみたい。
 ひきこもり当事者は、その引きこもり経験において、どうするすべも持たぬまま、自分の肉体に閉じ込められ、いわば自分を放置している。そこでは自分や自分の本来大切にすべきであったはずのものは放置され、ないがしろにされている。 → ヒキコモリを内在的に語りつつ社会参加すること(論争的に社会に参加すること)を通じて、それまで放置されたままだった自分の中のあれこれの葛藤や価値は、蘇生され、はじめて「大切に扱われた」ことになる。私はこれを「借りを返す体験」と表現したい。そこでは「敵への対峙」において「大切なもの」が賦活され、それへの感謝とともに「借りが返される」のだ。(そのときに「これは現実なんだ! キミたちの知識が必要だ!」は、「万能感の実現」とはまた違った意味を帯びるだろう。)
 ・・・・って、中塚氏の挙げている『ギャラクシー・クエスト』においても、「借りを返す」チャンスは「異星人という敵」との対峙においてもたらされたのだった。どうやら私たちにおいて、「真に大切なもの」は、「敵への対峙」において初めて切実に体験されるのではないか?(ひきこもり当事者が世界全体を敵に回して自分ひとりだけを貴重なものと考えがちなのも、こうした構図ではないか。) わかりやすい敵の出現において、私たちの存在と技能はフルにその意義を発見し、もって体中にエネルギーがみなぎるのではないか。*1
 敵を知らない労働は、たぶん大切なものも見出せていない労働だ。


 私たちがつねに虚無感に襲われるのは、<存在>(ハイデガー)は、それそのものとしては「感謝」とも「恩返し」とも無縁な、無頓着で無慈悲な成立でしかないからだ。どんな悲惨な出来事も可能であり、どんなに貴重なものでも無慈悲に流され抹消される。徹底的に無慈悲な「痕跡の漂白」。「そっ、そんな!・・・」という叫び声を救済するのは、私たち生きた人間だけだ。
 いや、「大切なもの」は、各人が自分で見つけるべきなのかもしれない。各人が本当に納得して「自分の大切にすべきもの」を見出した時にこそ、その人なりの「論争的社会参加」が始まるのだろう。その人独自の、自立の道が始まるのだろう。その「大切なもの」は、「大自然」だろうか、「イジメられていた自分」だろうか、それとも他の何かだろうか?

*1:滝本竜彦氏の小説が思い出される・・・・

私たちに「存在意義」をもたらす「物語」

 上記の中塚氏の論文に関連して、精神科医らしい人の日記から。

 未熟な自己愛を持ち、自己愛の傷つきに耐性のない彼らは、万能的自己像が傷つくのをおそれて他人からひきこもります。でも、彼らはやはり「なかま」を、他者との関わりを求めているわけです。
 普通だと、他者と関われば現実原則にさらされるわけで、万能的な自己像は傷つかずにはいられません。しかし、「前世」という、この世とは関わりのない場所に万能的自己像を保持しておけば、自己愛の傷つきを怖れることなく関わりを持つことができます。他の自己愛者も、同じ前世を共有しさえすれば、傷つくことなく関わりに参加することができます。
 「あなたは前世では魔術師だったのよ!」とか言われても、現実に適応している人なら「はぁ?」と引くだけでしょう。でも、未熟な自己愛を抱えたまま、圧倒的な空虚感を感じて日々をすごしている人であれば、心の片隅ではありえないと思いつつも、「そうだったのか!」と思ってしまうのではないでしょうか。それはまさに“奇跡”です。きのうの「艦長からのメッセージ」ですね。かくして、「前世」のネットワークは広がっていく、と。
 つまり、「前世」とは、万能感を維持したまま他者と関わる彼らなりの方法なんじゃないでしょうか。

 ここでは彼の言う「自己愛型ひきこもり」が、自分の存在に万能感をもたらす「物語」との関係で語られている。
 私が上の方で考えた「敵との対峙」は、こういう空想的な「物語」を呼び込んではいけない・・・・
 断じていけない。
 いや、「敵の存在」こそが、自分を巻き込んだ存在世界を「フィクション」として立体的に立ち上げ、努力を駆動するようになるのでしょうか。


 「前世」や「私の存在の意味」を空想するこうした夢想家たちを、私は激しく嫌悪します。それは対話的に見えて、相手に自分の意味を押し付けるにすぎない。
 私はおそらく、物語との関係における万能感をもって「敵」と対峙するのではなく、打ちひしがれた一個人として、空想的にフィクション化されることのない(脱神秘化された)敵と対峙する。その相手が「敵」であるのは、「物語」との関係においてではなくて、ただそのたびごとに発せられる「言葉」や「行動」においてだ。相手を実体化してカテゴライズするのは、それ自体が対象の神秘化だ(ただし、ほとんどの個人は、カテゴライズしても不都合がないぐらいに変化に乏しいものであるが)。
 「自分の戦い」が見出せない時に、たぶん人は「意味」を見失う。

「工学的必然性」vs「論争的参加」

 私は空想物語に参入することにおいてではなく、他者たちとの論争的・対話的関係において社会に参加する。
 ・・・・私が「フィクション親和性が低い」のは、フィクション読解においては、私の側の責任を持ち込んだ「論争的参加」がそこでは不可能だからではないか? ・・・・いや、そもそも理論的な書物さえ読めなくなってたのだからな・・・・。・・・・そう、私が文字や言語に求めたのは、その「実効力」だった。「その言語に付き合うことにおいて、何が実現できるのか?」。・・・・ひとまず私は上記において「論争的参加」ということを一つのキーワードとして打ち出したが、以前の私はもっと徹底した「効果」を言語に期待していた。・・・・それは、ひょっとすると「現実への効果」に期待する形のファンタジーだったのかもしれない。私は「魔法」や「前世」は信じないが、「私にできるかもしれない何事か」に最大限の期待をかけ、もってわが人生の価値としようとしたのではないか。「生まれてきたことは最大限、何に利用し得るのか」、「生身の人間として生まれてきたことにおいて実現すべき最高度の現象=ミッションとは何か?」・・・・・こうしたことばかり考えていた。理論的-工学的ファンタジーの実現を目指すことにおいてやはり「万能感」を夢想していたのか、そうやって自分の自我を守っていたのか。
 私が目指していたのは、たぶん「本物の必然性」だと思う。「そうか、これのために生まれてきたのか!」と、自分の人生の謎のすべてに答えを与える究極の必然性との出会い、そしてそれへの没頭。・・・・それは最高の「自由」ではないだろうか? 私は、最高の意味での「必然性」を目指していた、それは「人間としてなし得る最高の現象操作」として、理論-工学的に実現されるべきものとして夢想された。


 「工学的必然性への没頭」は、おそらく「対話も論争も必要としない」、「時間軸のどこかで何かが達成され、そこですべてのミッションが終了する」没頭だ。私はそうしたものを目指していた、熱望していた。それだけが自分の人生に意義を与えると信じていた、というよりそうでないと耐えられなかった。さもないと私は「放置された肉塊」でしかなかった。いっぽう私は上で、「社会への論争的参加」という姿勢を提言している。これは逆に、ものすごい勉強量と言葉の豊かさを求められる、「終わりのない過程」だ。
 ――この両者の違いに含まれる含蓄を、よく考えてみること。*1

*1:ちなみに「転移」の対象は、「私にとっての必然性を体現した人物」だったと思う。中塚氏の論文には、新宮一成氏の次のような言葉が引用されている。「転移によって我々が愛を向ける場所は、この世のほかにある」。・・・・私の言う「工学的必然性」は、自分の「必然性」の実現を、「この世のほか」ではなくまさに「この世」において実現しようと目論むもの。私が苦しくなりおかしくなる理由は、どうもこの辺にあるような気がするのだが、いかがだろうか。

「人間的」

http://d.hatena.ne.jp/Ririka/comment?date=20031017#cRirika氏の発言より。
 東浩紀氏はヒキコモリを「人間的」とある意味好意的に(?)表現してくださったのだが、ひょっとするとこの理解にさえ問題があるのかもしれない。ひとまずはこちらの予断抜きに相手に向き合う必要があるからだ。(当日記の議論でも、id:kagami氏が強調していた。)
 大事なのは、各人が自分の事情に即して自分固有の言語で語り始めること、そして各人が、自分なりの流儀で論争に参加できることではないか。ひきこもり当事者の言語は、たいていの場合、何も語れないまま硬直している。