引用

 昨日のコメント欄で、私の引用は不適切ではないか、という指摘があった(「あらきけいすけ」さん)。そこでリンク先に飛んで下のほうまで読んでみたのだが、これは「押しかけ厨」という私の知らないカテゴリーを分析した文章だった。私自身は上のほうだけ読んで「ひきこもり」との関連で役立ちそうな言葉を引用しただけだったのだが、こんな文脈があったとは。なんとも軽率だった。*1
 ひきこもりについては、「自己愛」という一言で括って罵倒するのはまずいと思うが、たとえば斎藤環氏は「ひきこもりというのは自己愛が健全で、だから滅多に自殺しない」と言っている(逆に多くの自殺者にあっては自己愛が破壊されているのだ、と)。
 「自己愛」を巡っては、まだ考察が必要なようだ。

*1:こういうご指摘は大歓迎です。

専門家とミドルマン

 宮台真司氏の近況報告欄に、「ミドルマン」という概念が紹介されている。
 「専門家」はとても難しいことを考えているわけだが、その専門家の議論をいちおう全部押さえた上で、事情をよく知らない人にも分かりやすく説明する人。それが「ミドルマン」。(世論形成に重要とされている)
 宮台氏は「自分は専門家だが同時にミドルマンもやらなければいけない」と言っているが、ひきこもり問題についても今のところそういう状況があるのかもしれない。

中立?

 「ひきこもりを支援する」と称する個人や団体は数多いが、それぞれが独自の思想的立場に基づいて活動している。私自身、10代の頃には支援される側の立場で、そして最近はスタッフの立場でそういう団体に関わってみて思ったのだが、支援される人は、多くの場合その団体や個人の思想に染め上げられてしまう(というか少なくともそういう顔をしていないと居心地が悪くなる)。
 私自身はそういう党派性がイヤで、団体を飛び出したり、なるだけ派閥色が出ないようにネットワーク型の支援関係を目論んだりしたのだが、・・・・。
 果たして、「中立」というのはあり得るのだろうか?
 私はどうも、当事者各人が「自分の思想」を屹立させるしかないのではないかと思う。つまり当事者本人といえども、「中立」ではあり得ないのではないか。――というか、この社会に「中立」なんてあるのか。

言葉を薬液のように扱う

 病院側による薬剤の誤投与によって患者さんが次々に亡くなっている。
 僕は、言葉において、自分と他者における「苦痛軽減」を目指している。
 しかし、誤った言葉は、むしろ苦痛をいや増し、場合によっては人を死に至らしめる。
 言葉を発する時には、薬液を処方する時のような慎重さが必要な気がする。

箴言

 人間の積極的な努力については、あまりたいした成果は期待できない。やめたくなる。でも、

  やらないよりはやった方がマシ

なのだ。その程度でしかないけれども、でも、「やらないよりはやった方がマシ」なのだ。