Hatena::ブログ(Diary)

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トラックバックは受信しておりません。また、メール・リンクには基本的にお返事しません
が、無視しているわけではありません。 いつも励まされています。
いただいたメールは、公開する可能性があります。
コメントを書き込むことはできませんが、過去のコメントは読めます。
[語句説明]

2004-04-28  ああ このエントリーを含むブックマーク

コメント欄の重複投稿を消そうとしたら他の発言まで消えてしまった件、「はてなダイアリー日記」の方に質問してみたんですが、皆さんからスルーされてます(泣)。「コメントがたくさんあれば動作が不安定になるのは当然だろ」ということなんでしょうか。すみません。【5月3日追記:リンク先を見ていただければ分かりますが、お返事いただきました。ありがとうございます>はてなスタッフの皆さん。無駄な質問じゃなくてよかった!】



さて、4月29日早朝から家族旅行に出かける予定で、数日ここを更新できません。


精神的に不安定で眠れず、ここにアップする原稿を5時間以上かけて書いていたのですが、スパムメール*1でフリーズし、再起動したら全部消えていました(泣)。

書いていたのは、ベーシックインカム、生活保護の要件、ワークフェア*2、についてなどです。


間もなく出発なので、今日は気になった発言の引用だけ。

 思考は存在から育てられた。しかし思考が未知の新存在をつくるべきですよ。 (埴谷雄高)*3

 この世のわたしの事業は終わった。わたしは意欲に充ちて仕事におもむいた、その仕事のために血を流した。そして世界を一文も富ませはしなかった。 (ヘルダーリン)*4



それでは、みなさんが良いゴールデンウイークを過ごされますように。




*1:メールを開こうとしただけで勝手にダウンロードが始まるのです。昨日から何通も来ている。

*2id:dokusha さんのキーワード化で知りました。

*3:「松岡正剛の千夜千冊」: 第九百三十二夜

*4:『ヒュペーリオン』ISBN:4309600638(品切れ)p.5

ojahumojahum 2004/04/29 11:00 いってらっさーい。>ueyamakzkさん

dokushadokusha 2004/04/29 11:27 トラックバックの件は気にしていません。
やっぱり文章を書く時にはメモ帳とかエディターで一時ファイルを作って書いたほうが良いですよね。Ctrl+S連発で。
お出かけは気をつけて。

matsuematsue 2004/04/29 14:24 お気をつけて〜。ueyamakzkさんも、私もしばらくの休息期間という事で。休息の間得られる知識は得ておこうかどうか考えておきます〜。(どちらかというと真剣気味な怠惰w

hachisuzumehachisuzume 2004/04/29 22:14 「紙」というフリーソフト(有料版あり)を使うといちいち保存する必要がないし、突然のフリーズに泣くこともないので便利ですよ。→http://www.ki.rim.or.jp/~kami/ 興味のある方はお試しください。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/30 02:18 おお、こわいこわい。スパムもフリーズも。◆ueyamakzkさんもよい旅を〜

ueyamakzkueyamakzk 2004/05/03 18:19 みなさん、どうもありがとうございます。無事帰ってまいりました。◆ hachisuzume さん、早速ダウンロードして、使ってみました。ちょっとまだ使い方に慣れてないけど、「勝手に保存してくれる」ってのはいいですね。

BonvoyageBonvoyage 2004/05/03 23:39 おかえりなさ〜い。◆私も自分のブログを持つことにしました。それに伴い、HNも若干変更しました。今後ともよろしくお願いします。

2004-04-27  テーマがはっきりしてきたかな?

昨日もたくさんの書き込みありがとうございます*1。僕もたくさん書き込んで、かなり強く反論したところもありますが、皆さんが懲りずにいてくださるとうれしいです。


今後の課題 今後の課題を含むブックマーク

各人の問題は、基本的に各人が個人的に解決するしかない(「できそうな仕事を探す」とか)。でも、各々が直面する問題には、「個人的」では済まないものもあって、それに取り組んでいくためには、長期的・俯瞰的な問題意識や、協力作業が必要になる。――そういうところで、共有できる問題を探していきたいと思います。

  1. 各人が個人的に成果を出す努力をする(就職活動・商売・学問・芸術など)
  2. 「何が問題なのか」、「検討すべき問題は何なのか」を描き出す
  3. 社会的に利用できる制度や法律知識について検討する
  4. 新しい社会的選択肢を生み出せないか、あるいは変更すべき制度や法律について検討する

ちょっと大げさな言い方かもしれませんが、当ブログで取り組むべきテーマを挙げるとこんな感じでしょうか。少しでも、皆さんと共有できるテーマがあるといいのですが。

いや、でもこれからも楽しんでいきたいです。どうぞよろしく!



社会保障と、その法律的・思想的・経済的基礎付け 社会保障と、その法律的・思想的・経済的基礎付けを含むブックマーク

今日使える時間は、「ベーシックインカム」*2を調べたり、あと、思うところあって憲法を調べたりしていました。

身もフタもない言い方なのですが、いま、年金改革問題で与野党が大揉めしてますよね。・・・・この状況で、「ベーシックインカム」などに現実味はあるのでしょうか。うーん・・・・まだわからん。




*1:まさかコメント量の限界とは。それとも、ちょっとした誤作動?
【追記:大丈夫だったみたいです。消えてしまった原因は不明。それとも僕の単なる誤操作かな? だとしたらごめんなさい・・・・。ていうか、「コメント量の限界」ってあるんでしょうか。】

*2:「basic income」「ベーシック・インカム」「ベーシックインカム」の3語をキーワード登録しました。まったくの素人定義なので、詳しい方、できれば適切な変更をお願い致します。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/28 00:03 昨日のほうに書いてしまいました。もし消えていたらこちらに再掲しますね。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/28 00:12 あ、大丈夫みたいです。お気遣いありがとう。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/28 01:16 はいはい。懲りずにいますよ。◆昨日の最後のコメントに追記。◆悲しくて恐ろしいことに、「私はこう思う。よければ参考にしてください。」が、いつの間にか「あなたもそうするべきだ。」に読み替えられてしまうのです。◆もっと悲しいことに、「これは私個人の偏見ですから、決して盲目的に追従したりしないでくださいね」とか強調すればするほど、読者の「私」に対する信頼度が増して、読者が「俺もこの人の言う通りにすべきだ」というふうに思ってしまいがちになる。これは心理的なマーケティング手法でもよく言われることです。デメリットを強調することで「この人は自分を客観的に見れるいい人だ」というように信頼度が増す。例えば「この化粧品は確かに値段は安くありません。」とかね。典型的には「ですが、それは原料に農薬を一切用いず、○○(特許出願中)のようなとても希少な成分を配合しているからなのです。」というように続きます。◆私の場合は、信頼度を高めるためではなく、本当に私個人の偏見だと思っているだけなのですが。とか書くと、また信頼度が高まってしまう。ああいけない。そんなことを書くとまた信頼度が高まってしまう。おっといけない…<以後無限に続く>◆こういうことが現実として起こってしまうのが、私としては本当につらいのです。実験的な物言いが全然許されなくなってしまう。私の責任範囲が思惑以上に拡大してしまう。私が前述したプロジェクト中に感じたことは、実はそういうことでありました。それで私は2度目のヒキコモリ期に入ったのでした。何ヶ月か、何も言えず何も書けないという生活をしていました。「向こう見ずは罪である」というのは、そういう意味で私にとって極めて身近な命題であります。「私個人」より「社会」のほうに目が行きがちなのも、世間の多くの人がそのような心理的メカニズムを理解してくれないと、自分自身の言動の効果が無節操に拡大して、思わぬところに被害を出してしまうと思うからです。◆そういうことを踏まえて言うと、ここに突っ込めるueyamakzkさんの知性・感性は秀逸ですよ。おそらく直感的になさっているのでしょうが。ここのところに突っ込んでくれる知性・感性の持ち主がいる。それは私にとって生きる希望でもあります。◆自分が思ったよりも他人をアトラクトできないがゆえに引きこもってしまうケースもあるでしょうが、自分が思ったよりも他人をアトラクトしすぎて危険を感じるために引きこもってしまうケースもあります。私の場合は後者です。レアケースなのかもしれませんけれども。「チャレンジするたびに失敗してきた」という点は共通していますかね。アクセルを必要とする人もいれば、ブレーキを必要とする人もいる。うまくマッチングすれば、何かの可能性が生まれてくるかもしれませんね。とか言っておいてまとめます。(おわり)

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/28 13:18 毎度長々と連続投稿申し訳ないのですが、新しい問いを立ててみたいと思います。◆人間の成長には母性と父性が必要であると、よく聞きます。とりあえず、それが正しいと仮定すると、このような問いが浮かんできます。 ≪「ベーシックインカム」=「無条件の保護」=「母性的アプローチ」とすれば、「父性的アプローチ」というのはありうるでしょうか?≫ 父性というと、「冒険へ誘う」「冒険のルールを教える」「一定期間、超えられない師匠として隣に存在する」というような要素をイメージさせます。少し考えてみましょう。◆私自身の経験を語るしかないのですが、私が中学生になった頃、「もうお前の勉強も見てやれなくなった。お金の面では応援できるから、熟でも習い事でも部活動でも遊びでも、何でも好きなことをやりなさい。」と、私の父親が言いました。それは今考えると「俺は父性的存在であることをやめて今から母性的存在になるよ」という宣言でありました。◆私は父親を責めるつもりはありません。家業を継ぐのが当たり前と言う時代ならばともかく、将来の仕事や趣味の選択肢が父親の時代よりもずっとずっと増えている現在において、父性的存在を外に求めなければならなくなるのは不思議なことではありません。私の父親の判断は考えられる限り最高のものであったと私は今も思います。◆それから私は両親の応援を得て、いろいろなことにチャレンジしてきました。習い事もやったし、学問にも取り組んだ。仕事は少しだけですが、起業家・実業家の方とは何人かと知り合った。しかしながら、私が望むような父性的存在には未だ出会えていません。私はこのことを少し寂しく思います。◆「俺、こんな仕事(学問)やってるんだけど、ほんと、おもしろいぜ。」というように私をアトラクトし、「この人はすごい。かないそうにない。」と私を打ちのめす一方で、「でも自分もこの人みたいになりたい。超えたい。超えられないかもしれないが、せめて近づきたい。」と思わせる魅力を持っている人。「この人にくっついて学びたい。」と私に思わせる人。私はそのような人との出会いを渇望している。ただ待っているだけではなくチャレンジを繰り返してはいますが、今のところ、あまりうまくいっていません。◆「自分を冒険へと誘い、師匠となってくれる人」と、どのように出会うか。「父性的アプローチ」があるとすれば、こういった方向性になるのだろうと私は思うのですがいかがでしょうか? 師匠がいないために、すべてが手探り過ぎて、失敗体験が必要以上に増えてしまっている。または行動を起こすのが怖くなってしまっている。そういう言い方はできないでしょうか? 皆様のご意見・ご感想をいただけますとうれしいです。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/28 19:51 昨日のueyamakzkさんの【≪「向こう見ず」は罪である、「覚悟」しなければ≫と言いながら「無責任発言」を続ける、というのは矛盾していませんか。】というコメントに対して、どうしても気になるので、もう一度だけ発言することをお許しください。とっても大事なことのように思えるので。◆コミュニケーションの基礎中の基礎ですが、「メッセージ」と「メタ・メッセージ」というものがあります。「メタ・メッセージ」というのは、「メッセージに関するメッセージ」と言う意味です。◆私は件の発言において、「無責任発言」宣言をしました。これは「メタ・メッセージ」ということになります。つまり、それまでの発言を括弧にくくって、それを「メッセージ」とした上で、それよりも一段高い階層から「これは無責任発言である」と言ったわけです。そうやって、文章全体が無責任なものになるのを防ごうとしたのです。そういう意味では、私の文章はメッセージレベルでは矛盾していますが、メタレベルでは何も矛盾がありません。このように重層的に文章を作ることで、より複雑な情報を伝えることができるのが、私たちの言葉(正確には、言葉、顔の表情や声色、しぐさ、服装なども含めて「記号」と言いますが)の一つの特徴です。◆しかしながら、昨今はこのような重層的な文章読解をできない人が増えてしまっていて、円滑なコミュニケーションができないケースがあちらこちらで増えている。そのことが、情報発信者の負荷(責任を感じる範囲)を増大させているのも間違いないと思います。◆私は、ueyamakzkさんが、そのことを踏まえた上で「読者が重層的な文章を読解できる人ばかりではないから、もっともっと気をつけたほうがいいのでは」とおっしゃったと思ったので、「ueyamakzkさんの知性・感性は秀逸だ」と申し上げたのです。ですが、もしueyamakzkさんご自身が読解できなかったというのであれば、もう少し言葉について学ばれたほうがいいのではないかと、逆に批判をお返ししなければなりません。◆その他の言葉も、「議論のための議論に観念的な決着をつける」ためではなく、例えば「私の場合ももし優先順位をつけるならばどうだろうか?」というような問いを読者に提供するための言葉でした。また、私の側に危機感を煽るつもりはなくても、煽られてしまう人も確かにいるでしょう。できる限り正確に私の真意が伝わるように配慮したつもりでしたが、コミュニケーションは常に双方向なので、私だけが一方的に努力したところで、うまくいくものでもありません。どこかで情報の受け手のことを信頼しなければ、そもそもコミュニケーション自体が成り立たなくなります。◆それでも私は、結果的に誰かに誤解を与えたり誰かを煽ってたりしまったことを心苦しく思います。もっと正確なコミュニケーションが取れるように努力したり、間違った場合は訂正したりするということに対しては自分を開いておきたいと思います。とりあえずは、それが「覚悟」であると思うので。(今度こそおわり)

dokushadokusha 2004/04/28 20:47 Bon voyage!さん、自分のページ持って書かれた方が良くないですか?トラックバックなどで議論は追えますから。
改行とか段落分けがないと読むのにせっかく書いていただいても読むのに辛いです

dokushadokusha 2004/04/28 21:12 (A)昨日の「経済活動が環境破壊などの影響を与えている」という話ですが、わたしは比較的楽観論なんですよね。そういう意味では「向こう見ず」なのかもしれない。山形浩生の訳したビョルン・ロンボルグの「環境危機をあおってはいけない」という本がありますが( ISBN:4163650806)これなどでも経済発展、産業改革の成果が却って環境負荷を軽減させるというような事例が紹介されています。産業というのは相互依存の関係にあって、例えば医療だけ現在の水準で鉄鋼業を19世紀の水準に戻そうという事は出来ないんだと思います。相互にバランスを取り合い、一つのものが極端な方向に走らないようにするには、情報の開示と活発な議論の場が必要だとは思います。しかし全体的には産業の発展と経済の拡大が人類の幸福の総和を増やしていくんだとは思います。今では例のローマクラブの「成長の限界」という観点が北の南切り離し政策ではないかと言う批判を受けてもいるようですからね。
(B)また、「責任」という話題も出てきましたね。この話というのは比較的わたしをつかんで離さない話題でもあります。子供の頃近くの公園にわたしが跳んで撥ねて遊んでいたベンチがありまして、ある日このベンチが壊れておじいさんが怪我をしてしまったんですよね。「このベンチが壊れた原因はわたしが跳んで撥ねていたからではないか」「このおじいさんの怪我はわたしに責任があるのではないか」そんな事を子供ながらに考えていて、やがて「不可抗力」という言葉に行き会ったわけです。今では「責任」には「権限」が必ずついている。「選択」できる事が「自我」であり、「選択」の「権限」に「責任」が伴う。このように考えるようになりました。映画「マトリクス」でも「自我」というものの根拠に「選択」という概念を持ってきていて我が意を得たりと一人でニヤニヤしていました。

dokushadokusha 2004/04/28 21:12 (C)母性と父性という話題がありましたが、やはり母性というのは人間が最初に出会う他者であって、その他者は自分を無条件に受け入れてくれるというような対人間観における肯定的な確信を抱かせる存在なのではないでしょうか。人間はこれがあるからどこまでも人間を求められ、社会を構成できるという原動力であるという気がします。それに引き換え父性というのは確かに「乗り越える壁」でしょうね。しかしこれもあるところからは自分自身を自分自身の父として、自分自身と戦うと言う構図が構成できるような気がします。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/28 23:23 dokushaさんへ。◆自分のページ… そうしましょうかねえ。◆(A)「経済発展、産業改革の成果が却って環境負荷を軽減させる」というのはそのとおりですね。私もその手の本は読んだことがあります。しかし、だからと言って「ほら、向こう見ずでいいじゃないか」というふうになるのは、ちょっといただけません。ささいなきっかけで壊れてしまい、そうなるともう復旧できないような種類のものもありますから。◆(B)不可抗力。そうそう。その言葉が出てきませんでした。「不可抗力とは言え、やらかしてしまったことって、やっぱり心のどこかに引っかかっちゃうものじゃないですか。そういう思いするのはつらいけど、それって大切なものでもありますよね。」ということを言いたかっただけなのでした。大袈裟な言葉を選択してしまったのは私の責任であります。もしそのことで嫌な思いをした方がいらっしゃればお詫びします。もっと精進しようっと。ソフトな言葉がほしいです。◆(C)については長くなりそうですし、できれば他の人の話も聞いてみたいので、また後ほど。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/29 02:22 Bon voyage! さん、このコメント欄は交流や議論が趣旨なので、一訪問者のあまりに長大な自説展開は困ります。単純な話、そういうときにはご自分のブログを開いていただかないと(私への批判を含んでいるならなおさらです)。 ◆ 他のみなさんにも申し上げたいのですが、私は長文投稿自体を嫌がっているわけではありません(むしろ歓迎します)。ただ、言いたいことがあまりにもたくさんあるなら、ご自分で「はてなダイアリー」(無料で誰にでも登録可能)などを始めていただきたいですし、この場でのやり取りがそのきっかけになるなら嬉しいことです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/29 02:22 dokusha さん、こんにちは。「責任と権限」と聞いてどうしても思い出してしまうのが、「≪生まれてこない≫という選択をする権限は私たちにはなかった」というあの話です(芥川龍之介の『河童』、フロイトの「生まれてこないのが最善だった」というジョークなど)。無理をしなければ生きていけないのが事実なら、その「無理」をしてまで生きていこうと思わせるものは何なのか。・・・・また本文でも考えてみます。

dokushadokusha 2004/04/29 02:37 これはおべんちゃらとかでもなく Bon voyage!  さんはページを開設して持論を展開されると良いと思いますよ。非常に興味深い(全部が全部肯定的とも限りませんが)また同じような問題意識を持ったヒトのページと言うのが様々にあるのも良いことだと思います。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/29 09:28 申し訳ないです。そっちの方向で考えてみます。>ブログ開設◆どうもありがとうございます。>dokushaさん

matsuematsue 2004/04/29 14:18 ◆Bon voyage!さん:横からアレですが、僕もおべんちゃらではなく、更新頻度のプレッシャーが生じてしまうかもしれませんが、発信者として、良い意味でも悪い意味でも、Bon voyage!さんは最適だなぁと思いますよ。あんまり「無責任的責任感の有る様な無い様な文章を過度に褒めたたえんでくれ」と言うのであれば、「ではその通りに」って事で解釈しますしw。◆余談:生死を賭けた闘いがもっと頻繁に行われていた時代に生きていたなら、一兵卒として死ねたでしょうか?どのみち生きてこそ幸福と言う価値観に包まれて生きてますからねぇ、としらけっぽく呟いても、僕は生きていたいという衝動に駆られる事に変わりはないのですが…。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/30 07:40 matsueさん:ありがとうございます。◆先ほどユーザー登録したのですが、登録内容をミスってしまっていたのに気づき、しかしどうにも直せないので一度退会したら、同じメルアドで再登録できなくなってしまいました(泣)。ただいま運営者に問い合わせ中です。この問題が解決したら、自分のダイアリーを持とうと思います。

2004-04-26  早くなんとかしないと・・・・。

思想と経済 思想と経済を含むブックマーク

当ブログで最近「自由」とか「世論の保守化」みたいな話をヒキコモリとの関連で取り上げて、結局どちらも「≪経済≫の話に帰着するんじゃないか」というのが僕の見方なんだけど、思想と経済の結びつきについて次のような話が。

人文的に「自由」を語っても、「それじゃ生き残れないよ」となれば、思想を選択している余裕はなくなる。「人間社会を動かす動機は、究極的には経済的なものだ」というのはマルクスも言いそうだけどフロイトが語っていて*1、ずっと気になってる。


昨日のコメント欄でたくさん書き込みいただいて(ありがとう!)、久しぶりに僕も長文の書き込みをしたんだけど、「教育」でいちばん大切な課題は、「経済生活を送れるようにすること」じゃないだろうか。

「お金を稼げる」ということは、「社会の中で、一定の機能を果たす」ということでしょう(スポーツ選手もアーティストもみんな)。どういう機能に向けて自分を特化していくのか、というのが最重要テーマじゃないでしょうか。


「自由」云々という思想の話では、「弱者への富の分配」というのが大きなテーマらしいんだけど*2、思想でいくら説得されても、「でもそれでは皆が食べていけないよ」で話が終わらないか。

以前に杉田俊介さんから「basic income」(生活の最低保障だけは全員に無条件に与えて*3、「働く」のはそれ以上の豊かさの欲しい人だけ、という制度)を教わって驚いたんだけど、ネットで調べてもよく分からないし、「現実味がないなぁ」と思ってシラケてた。ところがさっき検索したら「世界規模のベーシック・インカム」という先月アップされたばかりの文章が出てきて、筆者の方(なんとベーシックインカムを研究テーマにされてる)は立岩真也さんにも教わっているらしい。

う、ひょっとしてついに決定的テーマが出現したか・・・・。



新幹線&「キスいや」 新幹線&「キスいや」を含むブックマーク

昨日に引き続き、TV番組の話題(今日は軽め)。

さっき、「スーパーテレビ」で新幹線の話してたんだけど、観た人いる? 僕は電車(というか移動時間全般)が苦手で、東京まで3時間以上の新幹線も例外じゃないんだけど、なんだか番組観ててワクワクした。なんでだ。いろんな車種の運転席とか。

僕の新幹線最寄駅は「西明石」駅なんだよね。東京駅に着くと、すごい緊張する(なんというか、本当によその国に来たような)。これを読んでくださってる皆さんは、どこに住んでるの?(日本中、というか世界中かなぁ。そうだとうれしいな。)

そうそう、開業当日の「品川」駅から乗ったんだよ!


あと、島田紳助の「キスだけじゃイヤッ!」っていうのをちょこっとだけ観た。以前は深夜番組で、関西ローカルだったのかな?*4 カップルのどちらかが悩みを抱えていて、番組に出演することを通じて解決しようという。たまに観るけど、みんな大変そう・・・・。

そういえばある知人が、「恋愛には楽しいこともあるけど、イヤなことの方が多い」って溜め息ついてた。そ、そうなんですか・・・・友人として女性と付き合ってると、楽しいことばかりなんですが・・・・。



う、観たかったかも。 う、観たかったかも。を含むブックマーク

  • 「お厚いのがお好き?」*5

そんな番組やってるの知らなかった。関東だけかな?

そういえば、本を地道に紹介してくれる番組とか、思想の勉強ができる番組って、ないな。欲しいなぁ。視聴率取れないだろうけど、NHKがやってくれないかなぁ・・・・。




*1:『精神分析入門』ISBN:4102038051、p.401

*2:学部生レベルの知識もないので、間違いのご指摘よろしくお願いします。

*3【28日追記:ベーシックインカムは、「最低限の生活を保障する」とは限らず、「成人全員に一定額を給付する」ということのようです。支給額は少なくても「ベーシックインカム」というんですね。】

*4:今もそう?

*5:公式HPはこちら

matsuematsue 2004/04/27 03:06 ◆<ベーシックインカム>:おお〜っ!3月中に田中さん(実名出てるのでOK?ですよね?)とSKさんと、それに沿うような話をしました。月10万あれば充分生活はできるやんって言われ、そういえば何のためにそれ以上稼ごうとしてるかと言えば…と。妙な符号ですね。しごと広場4月のテーマもその話を受けて、テーマは「消費欲求と生活レベル」。これは結局、最低レベルの生活はイヤだけど、そんな莫大な稼ぎのためにしんどい思いになるのもなぁって感じになりました。富豪指向は少数の様です。(でも社長や独立したいという人は居ましたが。)◆<最寄駅>大阪は間違いないです。〜駅のmatsueっていうとなんだか限定されそうな気がするので様子見てカキコします。まぁ後自転車移動が多くて最寄駅という概念がないですけどねw。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/27 03:25 公的な場所での発言ならいいけど、個人的に交わした会話で実名出すのはまずいこともあるのでよろしくね(オフレコの場合もあるし)。まぁ、今回は大丈夫だと思うけど。 ◆ うーん、しかし貯えがないとイザっていうときになぁ>最低レベルの生活。お金がないと、精神状態モロに悪くなるし。というか、その「最低レベル」さえまかなえなかったりするから問題なわけで・・・・。それと「最寄駅」で聞きたかったのは新幹線の駅でした。【← 本文を直しておきました】

hatenehatene 2004/04/27 04:29 NHK BSで毎週ブックレビューやってますよ。ちょっと前に民放で本のバラエティー番組ありましたね。

・・・・・・ 2004/04/27 04:34 個人的に、経済的自立ばかりを目指すのではなく、まず生活的自立(自分の衣食住の世話、掃除洗濯飯の調達ゴミ出し髪服起床就寝エトセトラ)をさせる事を念頭に置いて教育をしないといかんのではないかと思います。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/27 09:57 ベーシックインカム! まさにフラーが望んだ世界。言葉こそ知らなかったけど、私も前々からずっとそういうことを考えていました。遠からず実行可能な話だろうし。身体が要求する基本的な衣食住・エネルギーがある程度保証されることが、人間の攻撃性を抑制する効果について、私は期待したいのです。そういう条件下でこそ、資本主義的な競争も健全に機能しうる気がしますし。最善ではないかもしれないが可能性は感じます。

木通木通 2004/04/27 10:44 読み方は「あけび」です。やっぱり読みにくかったですね…すみません(^^;)教育方針について、確かに経済生活を送れるようにというのは大切ですね。私はもっと、権利意識やディスカッション能力が身につくようにして欲しかったと、今になって思うかな?(そんな組織にとって都合の悪い教育は今の政府はしないでしょうけど^^;)おかしいことはおかしいと判断し、対応できるようになることが、自分が損をしないですむ(経済的な面でも)ことにもつながるような気がするんですけど…。競争も大切だけれど、皆が生き易い社会を作っていこうという意識を持てるようになることの方が大事なような気がします。それから、「遊ぶ」というのも大事だと思います。遊びの中で身につくことは物凄く多いと思うし。(むしろ遊びを通しての方が色々なことが身についているような…)私もパソコンなんかは遊びで覚えたようなものだし(笑) ゆとりということではなくて、それぞれが興味を持ったことに対して、年齢や経済的な制約なしで、サポートを受けられるようになればいいんですけどね……。「ベーシックインカム」という言葉は私も皆さんと同じで、知らなかったけれど、そんな制度ができないかな〜と、同じようなことを考えたことがありました。◆ところで、「キスイヤ」は私も一時期よく見ていました。番組の方針に合う出演者を選んでいるだろうし、番組を面白くする為に脚色している部分もあると思うので、現実とは違うものと思って見ていましたけど、どうなんでしょうね?長くなってすみません。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/27 11:06 追記ですが、「良心に反する仕事でも行動」(個人レベルだけでなく企業レベルでも同様だろう)ということこそが資本主義が不健全に機能している証拠だ、と私は見てしまうわけです。◆本当は社会のためにならないことがわかっているのに、自分たったひとりがご飯を食べるためにその行動を取ることはいかがなものだろうか。そうやってみんなが貯金を食いつぶすように生きる社会は、一体どこへ向かってしまうのだろうか。と言いつつ、親の貯金を食いつぶして生きる自分。◆親の貯金を食いつぶすか、社会全体の貯金を食いつぶすかしか、私たちには残されていないのだろうか。いやいやそんなことはないだろう。私たちの世代は、私たちの下の世代に、どんな世界を残してあげられるのだろうか。そういう思いを仕事の形に昇華できれば。◆環境問題なんかもそうですけれども、何億年もかけて蓄積された石油資源を食いつぶしているのは間違いないわけで。残り少なくなってくる資源を奪い合うための戦争、という面もありますし。◆個人としても社会としても、どうすれば「貯金食いつぶし方式」から脱却できるのかが目下のテーマであって、これはすべての人がいずれ考えざるを得ないでしょう。自分がそういう時代の雰囲気を先取りしている、または敏感に感じているがゆえに、前例のない問題に取り組まざるを得なくなって苦しんでいる面がある。とか言ったら傲慢なのかもしれませんが。◆昨日id:dokushaさんが「向こう見ず」という言葉を取り上げられましたが、そんな私にとって「向こう見ず」は「罪」である。id:Ririkaさんのところに書きましたが、<自分の何気ない言動が「風が吹いたら桶屋が儲かる」式に伝播していって、結果的に誰かに利益や不利益を与えてしまうということが常に起こるのが私たちの社会の本質の一つである>わけですから、「結果なんてどうなろうがしったことではない」という態度こそが「罪」だろうと私は思います。◆どんな結果が出ても自分には責任があると各個人が「覚悟」することと、逆に具体的に責任を取るのはここまででいいよと範囲を限定してあげる法制度。id:Ririkaさんのところではそのような議論だったと思いますが。◆ベーシックインカムが採用されると、「向こう見ずである罪」を犯さずにすむケースが増えるわけで、私はそういう社会のほうが素敵だと思います。追記と言いながら、相変わらず長くなってしまいました。おわり。

matsuematsue 2004/04/27 15:11 ◆向こう見ずは罪ですか…。確かにそう感じている側面は大きいですね。向こう見ずな人が今の所結果を出してしまう可能性はあるんですけどね。で、僕が下の方に書いたんですが、既存のゲームルール、まぁつまり実際に今働くか?稼ぐか?経済性を持つか?という部分で、迷いや恐怖すら生じる人がひきこもり(だけじゃなく職業と業務内容の格差に悩む人は一般にもたくさん居ますが)にはたくさん見受けられる訳ですね。今はその要求が更に強いみたいですし。程度の大きさ、種類はあれど、向こう見ずを要求され、それに応えざるを得ない機会に見舞われる。「辛いのは誰だって同じだ」と返されて終わってしまう。それでも今、金が必要だというプレッシャーに耐えられない人は其の舞台に移る他は、今の所絶望しかない。それ以外の成功体験を積み上げても、結局そこがどうにもならないと生きていけない、というのはueyamakzkさんが「その「最低レベル」さえまかなえなかったりするから問題なわけで・・・・。」とおっしゃっていた通りです。今の所、経済性前の成功体験は経済性のための準備っちゅう感覚ですね。経済性前の成功体験は無論大事は大事ですが。◆僕は今はどのみち「今」を考えてしまいます(ん?w)。これからを考えている人が悪いという意味ではないのですが、マイナスを感じながらもこれからを待つ、というつもりの人はこちらには居ますでしょうか。(どちらのつもりの人がおられるかまだ判断つかないのでこういう書き方になってしまいます。すいません。)◆<固有名詞>:了解です。◆<新幹線>:ベタに「新大阪」です。東方へはちょっと各駅乗り継いで「京都」からっていう手もあります。西方へは(検索)…おおっ、地元の最寄り駅から直通(JR学研都市線→JR東西線経由)?で「西明石」に行けます。そこから乗るという手があります。西へ東へにんにきw。

ojahumojahum 2004/04/27 17:54 社会が完全に正しい状態を保って、なんら罪を感じないでいい状態が想定できたとしても、それはたんにニュートラルなだけで、生きる意欲が湧くとはかぎらない、と自分の体験では思います。生きていくエネルギーというのは、理性で考えてるあるべき姿とか、理想とかとすこし次元の違ったところで、わいてくるというか。後、ぼくなりにもんもんと考えてきて思うんですが、理性っていうのは、視界を広げようとしながら、結果として視界を限定させて固着させることも多かったなあ、と。それでも考えざるをえないんですけど、あまり自分が頭で考えることもそれほど頼りにできなくて。瞬間的なひらめきとか、気分の変化とか、思いきった行動から、ずいぶん、視野が変わるということも、あると言えばありーので。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/27 19:14 「ベーシックインカム」に興味を持ってくださる方が多くて喜んでいます。これについては今後も継続的に調べていきますので、何か情報がありましたらぜひ教えてください。 ◆ hatene さん、うちは今 BS が観れなくて・・・。あと、小説とかだけじゃなくて、思想書についてのブックレビューないかなー、とか。学術性とエンタテインメント性を兼ね備えた番組なんて、無理なのかなぁ・・・。 ◆ ojahum さん、こんにちは。「考えるがゆえに視界が固着する」というのは、たしかにそういう面がありますね。僕としては、単に「視野を変える」だけじゃなくて、「選択肢を具体的に増やす」ことを考えている感じでしょうか。「考え方を変えればうまくいく」とも思えないし、選択肢ができたあとにそれを選ぶかどうかは、本人の自由ですから。どこかのCMじゃありませんが、「選べないなんて」という状況をなんとかしたい。 ◆ 「…」さん、初めまして。「身の回りのことを自分でできる」ことが心身の状態を変える可能性はありますが、それだけを課題として取り出してしまうと、「説教・躾」の話になってしまうのではないでしょうか(ご家族のお気持ちとしては痛いほど分かるのですが・・・)。私が「生きかた論」をすっ飛ばしていきなり経済生活の話をしているのは、「説教」をいっさい排除して「生き死に」で考えたいからです。「〜しなさい」ではなく、「それをやっていると、死ぬよ」。「それでも構わない」と言われたら、僕にはもう説得の言葉はありません。僕自身は、「自分や家族が餓死するのを回避したい」とか、「このまま泣き寝入りで終わりたくはない」という気持ちが残っているので、いろいろ考えているだけです。つまり、「本人自身の内的動機に着火できるかどうか」が全てだと思うのです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/27 19:14 木通(あけび)さん、こんにちは(植物の名なんですね、きれいだ)。「(経済的・倫理的に)損をしないですむように」、「皆が生きやすい社会を作る」、「興味を持ったことにサポートを」、どれも納得できるご意見です。「権利意識やディスカッション能力」が大事というのも同意見で、だから最近は法律知識や政策論も大事だな、と思うようになりました。で、そういう話って、たしかに高校までの勉強ではほとんど何も教育されないんですよね。特に「法律」なんて、社会生活を営む上で(最低限の知識は)必須だと思うのに。 ◆ Bon voyage! さん、「行動したからかける迷惑」(これについては、ご指摘のとおり「法律」による責任の限定が重要だと思う)とともに、「行動しないからかける迷惑」もあって、ヒキコモリの場合にはむしろ後者でしょう(「迷惑」と言っても、ヒキコモリは法律違反ではないし、ひとまず「家族と自分への迷惑」ですが)。大きな理念を口にすることが自分の行動動機になり得るならいいですが、他者を説得するのは難しいし、いろいろ考えても自分自身がジッとしているしかできないなら、思弁で終わる。むしろ「死ぬよ」とか、「このまま泣き寝入りでいいの? 腹は立ってないの?」とか、身近で避けられない感情との関係で考える方がいいのでは。 → ただし、ヒキコモリに批判的な人に対しては、「あなたの1回1回の言動が、ヒキコモリ当事者に対してものすごく迷惑だ」と言う必要はあるかも(「当事者に対してかけられる迷惑」には、なぜか誰も触れない)。 ◆ matsue さん、発言の趣旨がイマイチ見えなかったのですが、「目の前の経済的必要」に応じるためには、現在のゲームルールに従うしかない、というお話でしょうか。「いろいろ考えたいことはあっても、≪今日のメシの種≫を確保しつつ改革要因を模索するしかない」、あるいは、「改革が実現するまで稼がずに待つことはできない」という。難しいのは、≪現在に順応しながら改善努力をやめない≫ということだと思う。「現在を完全に拒絶しながら空想を語る」のでも、「現在に順応しながら投げやりに生きる」のでもないあり方・・・・。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/27 19:19 わたしゃあ「社会が完全に正しい状態」とか言うつもりはありませんぜ。そんなものがあるとも思いませんし。どちらかというと「社会が完全に正しい状態になることはありえないからこそ、罪を感じることで自分の行動を律する必要性も出てくる」と言っているわけで。◆生きていくエネルギーの話には同意です。昔、あるプロジェクトをやっていたときに、自分の一挙手一投足が最初に「理性的に」考えていたよりもずっと大勢の人に影響を与えるということにあるとき「はっと」気が付いて、それから見える世界が変わってしまったということがありました。極めて直感的に、<「向こう見ず」は「罪」である。「覚悟」しなければ。>と感じたわけです。それで、そういう自分の直感を他人に共有してもらって「そういう考え方もありだねえ」となると楽しいから、理屈をくっつけて話してみる。通じないとつらいんだけど、思いきって書いてみる。また、違った見方を他の人が示してくれたりして、それも読むのもまた楽しい。それは私にとって一つの「生きていくエネルギー」が湧く行動だったりします。全然、理性とは関係なく。がはは。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/27 19:39 上のコメントはojahumさんのコメントを受けてのものです。◆ueyamakzkさん。はいはい。その話、待っておりましたよ。「行動しない」ことも含めての「行動」というか。ヒキコモリの場合は、そっちのほうで苦しむケースのほうが当然多いですよね。身近な人に不利益を与える結果になるわけですから。「親の貯金を食いつぶすか、社会全体の貯金を食いつぶすか、餓死するか」というトリプルバインドになると、ちょいと苦しいですね。私の場合は「餓死しても身内に迷惑かけても世間様に迷惑かけたらいかん」というふうに優先順位が決まっているので、その種の苦しみを解消できているのですが。苦しみたくなければ自分なりに優先順位を付けることかと。◆私から言えるのは、「世の中、そのうち絶対に俺らのほうに向いてくるぜ。だってそうしないと社会全体がサステイナブルにやっていけないんだからさ。その時のために、向こう見ずではいけないというメンタリティを持ち続けながら、思想や言葉を磨きながら、何とか当面をしのいでいこう。遠くない将来、絶対そうなるから。俺たちは伏竜や鳳雛なんだから。将来明るいのに、今死んだらもったいない。」という、こっ恥ずかしい無責任発言しかありません。

matsuematsue 2004/04/27 22:06 ◆ueyamakzkさん:そうですね。他の方との問題意識のポジションの差異を確認したかったという事もあります。僕は結局今は従うしか、順応するしかないという事しか思い浮かばないんですよね。後は経済的自立の話をするなら、やはり今ならどんな手立てをするしかないのか?、どういう考え方が必要か?、といういわゆる「現実的な」話もポツポツ必要かと思いましたので。◆≪現在に順応しながら改善努力をやめない≫はおっしゃる通りだと思います。現状そこに尽きると思います。ただ、前提のどうやって順応するかというのが本当に難しいわけで…公に意見を考えると思考の袋小路なっちゃいますね…。◆自分はとりあえず方向性は有りますけど。例えば今日もめぼしいバイト情報を発見。明日、相談しに行く、という日々です。現実路線を地で行ってる立場から、何か話ができればなぁという事ですか。そんな感じです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/27 22:47 Bon voyage! さん、お返事ありがとうございます。ただ、≪「向こう見ず」は罪である、「覚悟」しなければ≫と言いながら「無責任発言」を続ける、というのは矛盾していませんか。この場に意見が書き込まれれば、少なくとも私は真剣に読みますし、他にも読者はおられます。Bon voyage! さんの発言には、すでに何人もの人が反応して影響を受けている。 ◆ 「世間様に迷惑かけるぐらいなら餓死する」というのは、文脈によっては「当事者の意見」として紹介する価値があると思います。ただ、これはまかり間違うと「当事者の罪悪感・自責の念」を過度に刺激するし、ヒキコモリ批判派がこの言い分に乗っかる可能性が高い。「社会に迷惑かけてまで生き延びようと思うな。社会保障やバリアフリーなんてあてにしないで、現状の社会で働けないなら餓死しろ」。 ◆ 引きこもっている人には、自分が生活費を稼ぐためにやった仕事にまで過度の責任感や罪悪感を感じてしまう人が多い。だから、「実は当事者は過剰な正義感や責任感に苦しんでいる場合が多い」ということを対外的に紹介するのはよくても、「当事者自身の社会参加への罪悪感をあおる」という運動には賛成できません。それではますます「閉じこもれ」と言っているようなもの。むしろ当事者に対しては、過剰な自意識に苦しまないように勧めるべきではないでしょうか。(罪悪感を感じるべきなのは、「金のためなら何でもやる」というような「元気な人たち」なのでは?) ◆ 私たちは、黙っていればやはり干からびていくしかないと思います。「俺たちは伏竜や鳳雛」というのですが、それは「空想的な自己救済」なのでは。「いつかは世の中がこっちに向いてくる」と言っても、その「いつか」まで生き残れない人はどうすればいいのか。そもそも待っているだけでその「いつか」がやってくる保証は?――「ベーシックインカム」に興味を示していただいて嬉しかったのですが、これもやはりたくさんの人が真剣に検討したり行動したりしなければ実現しないでしょう。やはり具体的な選択肢を見出して働いてみるなり、社会保障の可能性について議論してみるなり、という具体的な作業が必要ではないでしょうか。「黙って待っていればよい」「行動は罪だ」というなら、私のこのブログ(という行動)も閉じねばならないことになります。 ◆ 反論もあると思いますが、再度コメントいただく場合には、その書き込み作業自体が(少なくとも私に対する)「向こう見ずな行動」であるという前提でお願いします。また、私は「このままジッとしていては大変なことになる(生きていけない)」という危機意識から考えているので、「議論のための議論に観念的な決着をつける」ことには興味を持てません。――少々きつい言い方になってしまいましたが、「各々がつらい状況にある中で、私たちが少しでも共有できる問いは何だろうか」という私の呼びかけの姿勢に、どうかご理解をお願い致します。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/27 22:49 matsue さん、たぶんその辺が現実的なんだと思います。目の前で具体的な仕事をこなしながら、でもそれだけではいろんな意味で支えていけないので(精神的にあまりに不安定であるとか、高齢化とともに仕事はなくなっていくだろうとか)、長期的・俯瞰的な視点を持った努力にもチャレンジしてみる。 ◆ たぶん、個人的な問題を解決しながら、でもこの問題は「個人的」だけでは済まないよな、というようなことではないでしょうか。各人が置かれた状況は各々が個人的に解決するしかないのですが、でもそこに露呈している問題は「個人的」ではないし、取り組んでいくためには社会的な視点や努力、あるいは協力が必要だと思うのです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/27 23:40 さっきから、いただいたコメントや僕のお返事が勝手に消えてしまいます。どうも、1日のコメント量の限界のようです。あとは翌日以降にということでよろしくお願いします。(ごめんね、ojahum さん。うう、すごい・・・・)

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/28 00:00 ueyamakzkさんの【≪「向こう見ず」は罪である、「覚悟」しなければ≫と言いながら「無責任発言」を続ける、というのは矛盾していませんか。】というコメントを受けて発言いたします。◆実はその通りなのです。肩透かしのようで申し訳ないのですが。◆「世間様に迷惑かけるぐらいなら餓死する」というのは「私」の優先順位であり、それを他人に押し付けようとは思っておりません。マルチバインドのときは優先順位をつけると苦しみが軽減する可能性があるよ、とは言いたいけれど、それを他人に押し付けようとは思っておりません。 「世の中、そのうち絶対に俺らのほうに向いてくるぜ」「俺たちは伏竜や鳳雛」というような「空想的な自己救済」にあえて自分から乗って自分を救う方法も、私はありだと思うし、局面によっては私もそのようにして自分をモチベートするよ、ということを言いたいだけであって、それを他人に押し付けようとは思っておりません。◆これらは、私はそうしているだけであって、参考にしてもらえたらいいけれども万能薬ではないし、盲目的に追随してほしくはない。そういう思いをこめての「無責任発言」という言葉でありました。「この発言に関しては、責任の範囲を限定させてください。発想を広げるためにあえて極端なことを言っているわけですから、そのまんま真に受けたりしないでくださいね。」ということです。◆そのように「無責任発言」(=「これから向こう見ずなことを言いますから読者はご注意」発言)を宣言することで、結果に対する「覚悟」を示したつもりでしたが、いけなかったでしょうか? この種の免罪符発行ができないとすると、発想を広げるような意見は何も言えないということになってしまいます。発想を広げないことには有効な問いも生まれてこないと、私は思うのですが。◆私も私なりに、より成熟したコミュニケーションのあり方を模索している途中ですので、ueyamakzkさんに限らず、ご意見いただけますとありがたいです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/28 00:11 「書き込む」だけなら大丈夫みたいですね。でも、さすがにこれ以上は翌日にお願いします(笑)

2004-04-25  自己支援と他者支援

「≪常識≫だろう、そんなの」 「≪常識≫だろう、そんなの」を含むブックマーク

今日、やしきたかじんの「そこまで言って委員会」という番組をチラッと観たのだが、「日本の戦後教育は正しかったと思いますか?」の問いに出演者全員が「いいえ」、そこからの話の流れで「最近は働かんと家に閉じこもって親に養ってもらう若い奴がたくさんおる」という話に。「そういうクズみたいな若者がたくさん出てきてるのは、家庭や学校の教育が間違ってたからや」ということなんだろう。

この番組、三宅久之(政治評論家)、西村眞悟(衆議院議員・民主党)などが常連で、宮崎哲弥、金美齢、桂ざこば、橋下徹(弁護士)、ハイヒール・モモコといったほかの出演者たち*1も、「左翼批判・常識擁護」という姿勢を基本的に保っている。そう、「常識」擁護・・・・。

番組全体が、つねに「左翼的でゆき過ぎた物の見方」に批判的で、これは要するに視聴者の側にそういう番組を待望する鬱憤がたまっている、ということではないのか。


ヒキコモリ批判に、「だからどうした」と黙って居直りを決め込むことはできるだろうか。僕は難しいと思う。まず、家族が責められる。本人が外の世界とつながりを持とうとする努力は、ヒキコモリを非難する社会の目線によって徹底的にくじかれる。人間関係を作ることができないし、なんとか仕事をしようと思っても、「あいつはヒキコモッテいたんだってさ」という風評が、就労の機会を徹底的に奪う。

生き延びようと思うなら、当事者が自分たちの状況をどのように社会的に説明し、再チャレンジの努力をするのか、真剣に考えるべきではないか。私たちは本当に、「死すべきクズ」でしかないのか。

引きこもりへの批判に対し、「プライバシーには触れないでください」だけで済むだろうか。わざわざこの問題を議論することは、「寝た子を起こす」ことでしかないだろうか。放置すれば、「常識」の圧力に負けて、いま以上に社会から排除されてしまうのではないか。

電車に当たり前のように乗れる人からすれば、「電車に乗るのがつらい」というのは、「甘え」と見えるだろう。苦しみながらも何とか頑張って仕事をして生きている人は、自衛のために閉じこもっている人を「甘えている」と見なすのだろう。「働くより死んだほうがマシ」と言っても、「じゃあ死ねばw」でしかないのだろう。


NHKの特集番組などで、「当事者は苦しんでいる」という認識は広がりつつある。でも、苦しんでいる人間がその心情を吐露しても、かえって反感を買い攻撃を受けることがある*2。あるいは、「当たり前だ、生きるのは誰だって苦しいんだ」で終わらないか。

僕の努力に対して共感的な理解を示してくださったある年配女性*3は、「戦わなきゃ」と言ってくれた。当事者に苦しみがあり、事情はさまざまであっても、「戦わなければならない」という事情だけは、皆いっしょなのではないか。

ヒキコモリには差別や非難があるし、そもそも対人交渉が苦手な人が多いから、ほかの人に比べてスタートラインはずっと後ろかもしれない。それでも、なんとか自分のオリジナルの戦いをすること。自分の事情を説得的に説明しつつ、かといって、それが単なる言い訳になっていないこと。対話的な関係を目指すこと。

差別に抗議する当事者の声に「またルサンチマンかw」という揶揄を返すのは差別の再生産でしかないが、だからといって「抗議の声」だけではどうにもならない。「どういうものなら実際に引き受けていけるのか」を真剣に考えていかないと。


「本当に何も見たくない」というのなら、やはり干からびて死ぬしかないと思う。(そして厄介なのは、生きることよりも「黙って死ぬ」ことの方が甘美に見えてしまうことなのだが、「常識派」の攻撃に対する反感が、結果的に僕らの生きるエネルギーになったりしないだろうか*4。)



「欠乏」と「非日常」 「欠乏」と「非日常」を含むブックマーク

批評家・思想家として知られる浅田彰氏は、イラクに駐留する自衛隊について、「自分たちだけを守るために基地にひきこもりを決め込んでるんだからこれこそまさに『自衛隊』というべきか『自閉隊』というべきか」*5と語っている。「自閉*6」も「ひきこもり」も明らかに揶揄的なニュアンスで用いられているのだが、「差別語狩り」を支持していた浅田氏にしては、少々不用意な発言ではないだろうか。いや、でも「土人の国」とか言ってたしな・・・・。

というか、「自閉症」についてはともかく、「ヒキコモリ」については、確信犯的に侮蔑しよう、ということなのかもしれない*7


ちなみに『批評空間』-1の鼎談に、次のようなやり取りがあった*8

斎藤環: ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏がはやく来れば救われるということはありますね。

浅田彰: 治療者としての斎藤さんは拙速な「兵糧攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。

まず断わっておきたいのは、僕は「ヒキコモリ」と名指される人のすべてを擁護しようとしているわけではないということ。ヒキコモリ当事者すべての弁護士になることを求められても困る。僕が支持したい当事者もいれば、そうではない当事者もいる*9

その上で言うのだが、ここで交わされているやり取りは、(もちろん前後の文脈もあるのだが)「甘やかす親がいなくなればヒキコモリは治る」という保守派の意見とほとんど区別がつかなかったりする。


斎藤氏は「父親の死」を「非日常」というのだが、死んだ直後にはそうであっても長期的には父親のいない生活は「日常」になる。僕は父が亡くなったあと必死に大学に通ったが、ひどく苦しかったし、長期的にはどうにもならなかった。

僕は阪神大震災被災時の経験から、「非日常の空間ではヒキコモリ当事者が活動的になることがある」と書いた*10が、その時の「非日常」もライフラインの復旧とともに消失するし、それよりも大事なのは、震災時に僕が元気になったのは、「欠乏」のためというよりは「他者との接続論理」が変わってしまっていたからだ。日常の生活空間では「脱社会的存在」たらざるを得なかった人間が、非日常下には異様に「社会的・活動的」になる、それは、「欠乏」ゆえではなくて、「日常の消滅」*11ゆえだと思う。(だから「欠乏」そのものが日常化してしまえば、もはや活動は生まれない。)


上のやり取りで大事なのは、むしろ斎藤氏のいう「必然的な欠乏」だと思う。単なる欠乏ではなくて、「必然的な」欠乏。「内的に納得のできる欠乏」とでもいうか。

「国が交戦状態にあるときには国内の自殺率がすごく落ちる」という話を何かで読んだが*12、「敵が明確になる」ことは、「必然的な欠乏」に気付くことと同じだろうか。――いや、しかし戦争の話を持ち出しては、上の「非日常では元気になる」と結びついて、「戦争が始まればヒキコモリは元気になる」になってしまう。

そこで、だから「自衛隊に入れろ」「戦地に送り込め」*13ではなく、「日常生活は戦場だ」という方向に話をつなげられないだろうか。それともそれは空しいレトリックでしかないだろうか。



「ヒキコモリ支援」と僕の事情と 「ヒキコモリ支援」と僕の事情とを含むブックマーク

「ヒキコモリ当事者のために」というテーマにおいては、僕が公的活動としてヒキコモリ支援をどう行なうか、という話と、僕自身が一個人として、一当事者としてどう生きていくか、という話とが交錯している。

僕には、ヒキコモリ支援と関係ないところで生きていく選択肢もあるはずだ。でも、僕は当事者でもあるのだから、「ヒキコモリ支援」は、同時に自己支援*14でもある。


友人 id:aimee は、メールで大意次のようなことを言ってくれたことがある(公開は了承済み)。

 普通の社会人は、いわばスーツで身を隠しながら生きている。ところが上山さんは、いわば自分の皮を剥ぎながら仕事をしているようなもの。せめて、皮を剥がずにできる仕事を生み出せればいいのに。

「ヒキコモリ」というのはたしかに僕にとって切実なテーマだが、当事者やご家族向けの相談業務は、強烈なストレスを伴う。すでにご紹介したかもしれないが、ある40代の知人男性は、ヒキコモリ相談業務を始めて2週間でギブアップした。支援者には、「燃え尽き」も多い。「公私」の分け方など、明確な線引きを確立しなければ、とてもやっていけない。


僕が「ヒキコモリ支援から降りる」ということももちろんあり得るが、もしかしたら、僕はもう「降りる」ことなどできないのかもしれない。そもそも、「戦う」という形で、「上がり」続けなければならないのかもしれない。それがうまくいかなくなったとき、僕は単に死ぬしかなくなるのかもしれない。

あまり悲壮になるつもりもないが、僕はこれからも「自分が生きやすくなる」ということについて様々な角度から研究し、具体的に動かねばならないのだと思う。そしてその意味では、べつに「ヒキコモリ当事者だから」特別ということはない。上では「戦う」云々と言ったが、「自分が生きやすくなるにはどうしたらいいんだろう」というのは、どんな人にとっても課題であるだろうから*15




*1:以上、敬称略

*2:田中俊英氏の日記04年4月21日など。

*3:若くして離婚し、仕事をしながら一人で子供さんを育て上げた方。

*4:とすれば「常識派」の粗暴な説教が逆説的に当事者を社会参加させることになるわけだが、基本的には当事者たちは絶望的に孤立しており、社会的にあまりにも弱いので、説教は本人を潰すことにしかならない。

*5:「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル 「イラク人質問題をめぐる緊急発言」

*6:文章がアップされた日付からして、石破防衛庁長官の「自閉隊」発言は知っていたはずなんですが・・・・。

*7:考えすぎ? 「ひきこもり」というのは普通に日本語の語彙だしね。

*8:共同討議「トラウマと解離」(斎藤環×中井久夫×浅田彰)

*9:細かい事情説明は難しいが、とりあえずここでは「場合と状況による」とだけ答えておく。

*10:「震災 日常」で当ブログ内を検索してみてください。あと、拙著の前半でも震災時のことを記述しました。

*11:あまり報道されていないが、震災時には殺人や暴行などの犯罪も起きていたと聞く。しかしこの話題に触れるのは、もはやタブーだろうか。

*12:デュルケム『自殺論』?

*13:単純な話、「非日常」はトラウマ源でもある。震災でも戦争でも、死はつねに隣りにある。そしてトラウマ・サバイバーたちが「日常」に苦しみ「非日常」に親和的であるという事情に、僕はどうしても興味を持ってしまう。

*14:「降りる自由」の話を、「自己支援から降りることはできるか?」と問い直してはどうだろう。「他者支援からは降りることができるが、自己支援からは降りることができない」 → 自己支援から降りることは自殺であるとか、自己支援と他者支援の絡まり具合であるとか。ダメ?

*15:身も蓋もないが、「戦う」にしても「生きやすくする」についても、効果的な方法の1つが「飛び抜けて優秀な人間になる」ことであるのは間違いない。そしてそれは少なからずヒキコモリのイメージを変え、他の当事者にも好影響をもたらすと思う。既存のスタイルで難しいなら、「ジャンルの創造」を考えるべきなのかもしれない(僕の試みが、そうしたものになり得るかどうか・・・・)。

nonakanonaka 2004/04/26 09:05 引越しなんてのも、すぐ日常化してしまう非日常の一種でしょうか。最近、引っ越したくてたまらないのですが、住むところを変えれば何かが変わるって夢想する人って多いんでしょうかね。

withdrawalwithdrawal 2004/04/26 12:14 はじめまして。ハイヒール・モモコのことが出てたので投稿します。彼女は以前からひきこもりに対する侮蔑的な発言をしてました。『あさパラ』というTV番組でも桂南光と一緒にひきこもりを非難してたのを見たことがあります。私はすでにひきこもってる身なのでモモコの言動に憤慨してますが、もし、私がひきこもらずにバリバリ社会で活躍してたら、きっと彼女みたいに暴言吐きまくってたかもと気づいて以来、彼女を反面教師として冷静に見つめられるようになりました。

withdrawalwithdrawal 2004/04/26 12:22 訂正です。1.憤慨してます→憤慨しました。2.見つめられるようになりました→見つめるよう心がけてます。下手くそな文ですみません。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/26 15:15 マスコミや(自称)知識人が「日本の戦後教育は正しかったと思いますか?」という一元的で貧しい問いしか立てられない(多くの視聴者もそれしか望まない)。それに対して「はい」と「いいえ」で答えられると思っている。≪常識≫を疑えない。≪常識≫を疑ってみて始めておもしろい知見が得られるんだということを啓蒙しない。自分自身は戦後教育の恩恵を受けまくって育ったにもかかわらず、そのことを認めないので、「自分は幸運なことに制度のメリットを多く受けられたけれども、逆にデメリットを多く受けてしまったような人もいるんだろう。」という話にはならない。これこそが戦後教育の最大の失敗のような気がします。◆「どんなやり方にもメリットとデメリットがある。戦後教育は間違いなく一定の成果を上げたが、うまくいかなかった部分も当然ある。これからどんな方法を選ぶにしてもやっぱり一長一短ある。」というところから始めて、「トータルとしてどのようにマネジメントしていったらいいか?」という議論でなければいけないはずなのですが、村上龍が度々指摘しているように、そのような文脈がないのです。◆おもしろい、というかおもしろくないのは、withdrawalさんが「もし、私がひきこもらずにバリバリ社会で活躍してたら、きっと彼女みたいに暴言吐きまくってたかも」とおっしゃるように知性の高さを感じさせるのに対し、モモコたちのサイドには知性も想像力もないために「私も運が悪かったり状況が違ってたりすればヒキコモリになってたかも」「これからも状況次第では、いつ自分もそうなるかわからない」ということを考えることができない(※)。これは一体どうしたことでしょうか。私たちは社会で生きていくために知性を捨てなければいけないのでしょうか。いやいや、そんなことはないだろうと思いつつも、じゃあ一体どうすればいいのかというと、わからない。個人的な努力よりも時間が解決する種類の問題なのかもしれませんしね。そういう思いも私がついヒキコモリを選んでしまう要因の一つです。◆※ おそらく無意識にはそのように感じている。だからこそ批判もしたくなるのでしょう。ユングの心理学で言う「元型」のうちの一つ、「シャドウ」ってやつかな?

dokushadokusha 2004/04/26 15:25 知性は外に向かう武器でもあると同時に、自分にも向かうからでしょう。知性が内攻して自分自身の行動を妨げるという事はあると思います。向こう見ずな者は、とりあえず行動に移してしまうのでしょうからその成果が見えます。知性は、その行動の結果の成功者、その陰に失敗者もまた見えてしまうのでしょうが「世間」には成功者が浮き立つ。
知性が臆病を作るとは言えるのかもしれません。時には向こう見ずも必要なのかも。

木通木通 2004/04/26 18:44 コメント欄では初めまして。オフラインでお会いしたCOですと言えばわかってもらえるでしょうか??先日は返信ありがとうございました。テレビ番組についてですが、やしきたかじんはもともと、差別的な発言や下世話な話題が多くて私は好きになれません。あの人がそれほど支持されているとは思えないんですが、やっぱり、その番組で言っていたような論調は強くなってきているのかな?戦後教育は間違っていたというより、結局は子どもを無理矢理枠にはめようとするばかりで、ひとりひとりを大切にしていくという教育方針が守られてこなかったことの方に問題があると思います。むしろ、今の教育基本法の理念をもっと活かす努力をするべきだと思うのですが、世論は逆の方に傾いていってしまっていますね…。

matsuematsue 2004/04/26 18:46 TV番組に皆引っ掛かりますね…。◆その時「いって委員会の様にだけはなりたくない」という事がどれだけ貫けるか。番組の体裁は仰々しい事をやっている風に見えて、問題意識を深くまで掘り下げようという意識がないはずです。ソコまで行けてるという自覚もおそらくは無いです。だから1テーマ1テーマそれ程深さを要求しない問いで止める。視聴者が付いて来ないだろうし、自分達が深行しても、ひきこもりの問題に限らず、あらゆる問いの深みは、おそらく短期的に成果を出そうとすればする程、自分達を潰すと分かっているからですね。そして「この辺でええやん」と言う主張ですらあるわけです。問題意識系バラエティ。「いって委員会」に限らず、お昼のワイドショーや情報バラエティ番組と言うのはホントにたくさんありますね。またそれで良いと常に求める声があると言う事。井戸端会議。この得体の知れない群像が当事者側からして恐怖感の種になるんですな。◆さて、そこを突破するために時として向こう見ずになれるのか…。そしてなるべきか…。◆個々の番組にやはり伝えなければならないという時、意見を受け付ける所があれば、ネットワークを通じてでもより多く伝えるべきでしょうか。従来の様々な問題の当事者がおそらくは同じ様に繰り返してきた様に。数が少なければその効果を発揮しないと言う所が悲しい所ですが…。この時点で確かに向こう見ずにはなれてないですね。◆TVは複数の視点に立って、長期的に取り組まなければ、例えばひきこもりの様な問題は本質的な問いにすら到達しません。それができる放送局や制作力、粘りを持つスタジオは日本では皆無です。まだ安心なのは強いて言えばやはりNHKか。民放でも生真面目な深夜枠のドキュメンタリーを観ると安心はします。でなければ草の根のネットワークが多様化して熟成し、多様な公開性を持ち継続するまで待つか。

lunglung 2004/04/26 19:13 はじめまして!私自身、ピアカウンセリングなどをして「行き詰まったり」・「燃え尽きたり」してしまいました。。だけど(自分を含めだから・・)目をそらすことができません。「自分が生きやすくなるには?」・・その一つひとつが自分の輪郭を確認していくような、苦痛を伴う作業なのかもしれませんね・・モノローグですみません(汗)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/27 00:35 withdrawal さん、lung さん、初めまして。nonaka さん、木通さん(どなたか分かりますよ。ところで「木通」ってなんて読むの?)、お久しぶりです。Bon voyage! さん、dokusha さん、matsue さん、いつも書き込みありがとうございます。大事なお話が出ているし、お一人お一人にお返事したり、僕が意見をまとめる、というのも変だと思うので、議論の一参加者ということで書き込みます。 ◆ withdrawal さん的な反省意識は、自分を相対化して考えられるとても大切な特質なんだけど(2ちゃんの「オマエモナー」的自己絶対化の正反対)、度がすぎると自己否定的になって身動きできなくなる。「向こう見ず」は絶対必要なんだけど、ヒキコモリの人はこれまでの挫折経験が強烈すぎて、反省意識で潰れてしまっている。「チャレンジ → 挫折」が重なるたびごとに、「自分には無理なんだ」という気持ちが深くなる。そこで、まったく無謀なことをやっても破綻する(長続きしない)ので、変な言い方だけど「的確な無茶」をやる必要がある。「やってみて、軌道修正する」というスタンスが引きこもっている人からは完全に失われているんだけど、やっぱり「小さな成功体験」がないと次につながっていかない。 ◆ それで、その「小さな成功体験」として、異性との関係や社会的評価、というのももちろん大事なんだけど(ホントすごく大きい)、けっきょく決定的なのはやはり「経済的」成功体験だと思う。TV番組の性質は視聴率で決まってくると思うんだけど、これも経済(スポンサー)の問題。現場の製作者の中でも、「作りたいものを作るか、視聴率を取るか」みたいな葛藤は常にあるんじゃないでしょうか。◆「個性を尊重するか、枠にはめるか」というのは教育論争でいつもあるけど、これがいつも「ゆとりか、ツメコミか」になっていて不満を感じる。「個性の尊重」というのは、職業的多様性に向けての各人の才能開花が重要なんで、だからそのためには「ゆとり」じゃなくて「選択肢」が必要。早い段階からの職業見学、たくさんの選択授業、などが大事なんで、「個性の尊重」と言ってもボンヤリ遊ばせておけばいい、というものではないと思う。学校にいる間は「競争」という社会的事実を抑圧しておいて、卒業した途端に信じられないほど過酷な競争社会に直面させる、というのはなしだと思う。必要なのは「多様な選択肢」「多様な競争(1つで負けても再チャレンジのチャンスがたくさんある、あるいは「競争しない」という選択肢もある、とか)」ではないでしょうか(サポートキャンペーンのHP → 『hikikomori@NHK』に載せていただいた拙文はそういう内容でした)。「競争がない」という認識は社会事実に反する。それで、「では何に関する競争か」といえばまさに「経済」なわけで、生活力のためにも、また自家中毒的反省意識から抜け出すためにも、あるいは保守的な世論やTV番組に潰されないためにも、世間的な説得力を作るためにも、やっぱりテーマは経済生活に尽きるし、そこに話の中心を置くべきじゃないでしょうか(って、あまりにも当たり前の言い分?)。僕が「最大のハードルは就労」「難しいのは継続してゆくこと」とか言ってるのも経済生活の話だし、これは僕自身も含めて、みんな「仕事」との関係でホントに精神的にヤバくなってる。「仕事に就けない」「続かない」「人間関係つらすぎ」とか。――長くなったんで(笑)、また本文で触れます。 ◆ nonaka さん、lung さん、お二人の話題に触れられなかったけど、それぞれ大事なお話なので、また。僕は「非日常」も「生きやすく」も、やっぱり「経済」を中心に考えてるんだと思います。

matsuematsue 2004/04/27 03:12 ◆ひきこもっていた間思っていた事をueyamakzkさんが言い当ててる感じがして妙な感じです。「どうすれば…」「何か…」を考える度に思う事でした。それを指摘し続ける事は本当に重要だと思います。僕も指摘し続けたいものです。ドコをどう取り上げるにも全部ですから長いですが…。◆<たった今経済性に乗るなら>:ただ、これから別のレールが無いかを含めて施策を探る間にも、「今」が必要な人にとっては、従来通りの既存のゲームルール、舞台に戻る方法になってしまうのか否かという選択しか余儀なくされていると思います。僕は結局そのルート(バイトによって経済的成功体験を重ねる。それを糧にステップアップで「常識」のステージに入り込む。)を辿る事になるだろうし、自分にとって良い方法かどうかは未だに未知数です。それでダメだったはずなのに、それしか見えてこないという現状にもまだまだ不安を覚えます。◆僕はなんとか大丈夫にはなってきましたが、ひきこもっていた頃に拒絶したくなる様な、例えば今日に至る就職活動の問題点(何故?どうして?)は一切と言ってイイ程変わっていない、と今でも思います。急に変わるものでもありませんし、それはある程度は受けれ入れながらヤルしかない。(のだろうか?含)◆「今」が必要な人にとって必要な考え方、今ならどういう場所が情報交換、コミュニティとして助けになるのか(現実に試行されてる制度や施設情報)、何故ある方法はダメで、ある方法良いのか、〜にとって今最適な振舞い方とは?という事は、実際問題、欲しい話だと思うんですね。◆まぁ要するに今既存のゲームルールに戻る方法以外の方法があるかっていうと、無い、ので、じゃぁでも、でぇも!今ならどうすべ?という事ですなぁ。◆余談:僕はその辺をしごと広場によって賄われてはいます。(既存のゲームルールに戻る方法が未だに話の大半ではありますが。あまりガチガチに就職活動の、あの独特の暗雲たる雰囲気に飲み込まれない分だけ助かっています。)◆という、しごと広場でもしてた様な話ですた。長すぎで申し訳ありません。

2004-04-24  「戦略的」の戦略性。

各人の切実さ 各人の切実さを含むブックマーク

id:Ririka さんところのコメント欄で「自由」についてのお話が続いていて、僕も少し発言した。ちょっと反省しているのは、僕は「経済的な応答関係」*1という自分の問題設定をあの場に持ち込んだだけだったのでは、ということ。

というか、そもそも「自由」「降りる」「応答責任」という言葉に皆が反応して、各々が自分にとっていちばん切実な問題設定を整理しなおした、ということだったのかもしれない*2。僕自身は、ああいう議論のフィールドを設定してくれたことに感謝している(寛大に受け入れてくださった皆さんにも)。


僕は自著(ISBN:4062110725)の中でヒキコモリ当事者を「政治的敗残者」*3と表現しているのだが、引きこもりは、「病気」というカテゴリーで考えるよりも、「負けている」というカテゴリーで考える方がよくないか。つまり、ヒキコモリについて考えるというのは、「医療」の問題というよりは*4、「戦略」の問題ではないのか*5

経済社会に参加できずにいる人間としては、引きこもり当事者はあまりにもナイーブで、戦略的に間抜けだ、という気がしている(もちろん自戒も込めて)。

今はまだ具体的な首尾が見えていないが、戦略的要因の一つとして、やはり理論的探求(というか少なくともお勉強)は必要かもしれない。これについてはまた考える。



「生活者」 「生活者」を含むブックマーク

さっきNHKで、広島の田舎に取材した番組やってた。朴訥で、重労働を淡々とこなし、「生きている」ことに堪能な人たち。

何が、僕とこの人たちを分け隔てているのだろう・・・・。「戦略」などという言葉を弄さなければいけなくなっている自分がつらくなる。



すでに皆さん知ってるんでしょうけど。 すでに皆さん知ってるんでしょうけど。を含むブックマーク

最初うまくいかなくても、そのうちうまくいく*6



というわけで、気温変動のあまりの激しさゆえか、体調思わしくなく、今日はこれにて失礼つかまつる・・・・。




*1:この点には杉田俊介さん(2004・3・31)も触れてらっしゃる。

*2:少なくとも僕にとってはそうだった。 id:Ririka さんご自身は、『責任と正義』の読書会をしたかったと思うんだけど・・・・。

*3:p.188

*4:「医療」の問題として考えること自身の戦略的意義については、これまでも何度か触れた。

*5:とかって書くとまた引かれるのかな。「戦略的」なんて言葉を持ち出すことの戦略的意義はどうよ、というご意見もあるよね。

*6:ちょっとだけ『MYST』ASIN:B00005OUYE を思い出したかも。

RirikaRirika 2004/04/25 01:32 「自分にとっていちばん切実な問題設定を整理…」って観点はだいぶ前に(自身のこととして)書いたことがあります。それだけでももちろん個人的に得るものはあったし一つの達成感はありました。そこで終わりにしなかったのは、それを越えてゆく方向を探りたかったからで、『責任と正義』を読むことにしたのもその流れなのだけれど、読んだ人にしか通じない「読書会」にとどめたくはない(というか、読んでみて、その思いを強くした)のです。/わたしのほうのコメント欄にも、「現実の社会に対する働きかけ」がないとか「言葉遊びだ」というご意見をいただいているけれど、結論を急がないでほしいです。

RirikaRirika 2004/04/25 01:40 つまり…、(自分の見方に引き寄せすぎかもしれないけど)、やっとスタートラインに立てたかもしれない、ってこと(空振りに終わる可能性も高いけど(笑)。ここまで来るのに、わからないこと知らないことがわたしには多すぎて様々な作業と遠回りや寄り道とたくさんの悩む時間(といろんな方との対話)を必要とした、ってことです。

hatenehatene 2004/04/25 02:12 こんにちは。敗退して逸脱したものを再び社会の中に組み込む手段の一つが医療化なんでしょうね。

HRHR 2004/04/25 04:30 明け方見た夢:【地下から地上へ続く、狭く急な通路を上に向かう私。一歩一歩の足どりが重い。やっとのことで地上への出口に辿り着く。ところが、出口はレンガ一枚分の大きさの穴。がっかりして立ちすくむ私。そのとき、外の人が壁を壊して穴を広げ私を引き上げてくれる。そして私はつぶやく、「やっと脱出することができたんだ。僕にはこの夢の意味がわかるから。」】 以前、印象的な夢を見たら紹介してくださいとありましたので、とりあえず。ちなみに、私は30代男性です。

kuraikurai 2004/04/25 07:40 そりゃあるねえ存分にある<「負けている」&戦略的〜 言葉変えると「要領が悪い」ってことと思う。野球で言うなら全員にストレート投げているって感じ。タイプに合わせた対処法を学習しなくてはと思う。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/25 09:50 ピッチャー側にも豪腕エースピッチャーかコントロール重視かとか、すごく落ちる変化球が投げられるかとか、ありますしねえ。◆ところで、戦略戦略とおっしゃいますが、「戦略」ってどういう言葉かご存知ですか? 言葉の定義をないがしろにすると、それこそ言葉遊びで、深い深い落とし穴におちまっせ〜

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/25 22:33 Ririka さん、書き込みありがとう。「スタートラインに立つ」ために地道な努力と試行錯誤を惜しまないあなたの真摯な姿勢に、強い感銘を受けました。「ひるがえって、じゃあ自分は何をしているんだろう」と思った。勉強面で僕が直接チカラになるのは難しいかもしれないけど、よかったらまた遊びに来てください。そちらの日記、これからも読ませていただきますね。陰ながら応援しています。 ◆ hatene さん、なるほど。しかし、精神科医にありがちな「治療主義」というのは、やはりマズイ面もあって・・・・。いや、でも逆に言えば、ヒキコモリは「医療」の問題にし切れないからこそ苦しむ(白い目で見られたり、公的支援の対象にならなかったり)というのも事実。むずかしいです・・・・。 ◆ HR さん、夢報告ありがとう! ご報告第1号です(笑)。「僕にはこの夢の意味がわかるから」というのが印象的ですね(何か具体的な意味がわかったんでしょうか?)。そういえば、「この世の意味は分からない、でも、僕はこの唯一の現実を生き抜く決心をした」という印象的なセリフを思い出しました。(あれ、何のセリフだっけか・・・)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/25 22:33 kurai さん、同意してもらえてうれしいです。そうですね、状況に応じていろんな球を放れないと。法律の言葉遣いを知るのも必要だろうし、場合によっては何も考えないで野性的に突っ切らないといけない局面もあるだろうし。その具体的な勘とかフットワークのセンス、あるいはじっくり勉強する落ち着きなど、今からでも学んでいかなければ、と思っています。 ◆ Bon voyage! さん、「戦略」ってまずかったでしょうか・・・・。「敵・味方」のイメージ、あるいは「相手をやっつける」前提の言葉だから?・・・・

はしはたはしはた 2004/04/26 00:06 情けないことに早くもついて行けなくなりつつありますが…とりあえず「箱庭」、今頃になって全力で騙されたことを白状いたします。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/26 00:34 (笑)。ところで、「ついていけない」というのは、本文の内容でしょうか?

matsuematsue 2004/04/26 01:27 脱線。アットライクな話。◆はしはたさん:大丈夫ですよ。自分もついて行ってるんだかいないんだか半々です。◆箱庭:ネット上のフラッシュはあまたの数だけありますから、結構知らない人も居ると思いますよ。500MHzの環境じゃぁ重かったですが結構面白かったです。僕も最初騙されました。ま、まさかueyamakzkさんが実はっ…!Σ(゜口゜lll)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/26 01:46 「インターネットは全てパソコンの中に入ってる」と思ってる人たまにいるよね(笑)

dokushadokusha 2004/04/26 01:53 ちょっと示唆に富む(?)文章がありましたので「ゴスロリ文化の俯瞰図◆.蹈蠅話蝋で毒を吐く」 http://d.hatena.ne.jp/dogplanet/20040421 もう一つの「ボトム」というような気がして

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/26 08:17 いえいえ、インパクトのある言葉だけに、定義を忘れてわかったつもりになって使うと、かえって混乱することもあるということを少し気にしただけです。私もいい加減に使ってしまいがちなんですけどね。◆「戦略的」とか「戦略を立てる」とか「戦略を持って事に当たろう」というと、確かに何となくわかったような気になります。では、この「戦略」という言葉は、一体何を意味しているか。何かよくわからないことを追いかけて、かえって混乱してはいないか。そういうことを少し問いかけてみたかったのです。◆箱庭には私も以前だまされましたw

2004-04-23  「救済を望まない失業者」?

労働の環境 労働の環境を含むブックマーク

「フリーターは417万人」という数字を3月に聞いたが、これは「15歳以上35歳未満の12%」に相当するそうだ。学生と主婦(主夫)を母集団から除いて計算すれば、比率はもっと上がるはず。

また、最近コンビニでアルバイトしている中高年男性を見かけるが、統計的には「フリーター」にカウントされていない。 → 「パート・アルバイトで生計を立てている人」で数えれば、417万人よりずっと多いんじゃないでしょうか。

最近は企業も簡単に首の切れるアルバイトを求めるらしく、正社員雇用はすごく難しいらしい。

そもそも、正社員になって働いている知人は過労死寸前のような状態で、時給換算すればアルバイト以下。

経済的な自立は本当に至難の業だ・・・・。



「商品」と「作品」 「商品」と「作品」を含むブックマーク

道路工事に従事した友人が、完成後その道を通るたびに誇らしい気持ちになる、と言っていた。労働の動機はお金だし、仕事も「与えられたもの」でしかなかったと思うが、出来上がった道路に対しては「作品」という意識が芽生えたのだろうか。

店にならぶ商品を見ていても、あまり「作品」という気はしない。作り手たちも、「労働に従事している」気持ちはあっても、「作品を作っている」気持ちはあるかどうか。

たとえば1件の建築物が出来上がるときに、それを「作品」と見るのは設計者だけだろうか。「工事関係者全員」ということはないと思う。

「理論」にも、「作品」という意識を持つと付き合い方が変わったりする。

アニメや芸術を楽しむとき、僕らは「作品」を楽しむわけだが、それは同時に「商品」でもあって。


――僕がどの辺で考えようとしているか、ぜんぜんわからない?



「○○とは何か」 「○○とは何か」を含むブックマーク

「資本主義という言葉をよく使っているが、意味は分かっているのか?」というご指摘を受けました。

僕は資本主義という言葉で、「各人が自分の利益を追求する競争社会」とか、「商品生産を媒介にして分業が成り立っている社会」とか、それぐらいのニュアンスを表示していたつもりでした。

全共闘世代なら、「資本主義を理解するならマルクス『資本論』を読まねば」となるのでしょうか。僕も10代のころ、マルクスに(ご多分に漏れず人文的な)興味を寄せていたのですが、僕が大学に入学した1988年(ソ連や東ドイツの崩壊前)でさえ、マルクス経済学はすでに「教養」でしかありえず、現実経済の分析や政策立案には役立たない、というのが通念でした。当時のある有名な雑誌に、「価値形態論から始めるなんてナンセンス」と書いてあったのを鮮烈に覚えています。

現在の経済学関係の文脈では、「資本主義」という言葉にはどのような意味と定義があてられているのでしょうか。そもそもその理解をめぐって、学派が分かれたりするのでしょうか。あるいは、「資本主義の定義」の話と、具体的な経済政策論争とは、あまり関係ないんでしょうか。


先日の「社会学」にも言えることですが、僕が何かの学問を勉強するとしたら、それを通じて自分や環境を変えるため、です。気に入った友人と本の話をするのは楽しいですが、やはりどうしても「どのように生活していくか」という問いに支配されてしまう。学問そのものの面白さに取り憑かれるためには、その学問の追究する問いかけがこちらの抱える問いや必要にシンクロしなければなりませんが、なかなかそうはならない。こちらの葛藤とは関係ないところでなされている議論に見えてしまう*1

当ブログ(日記)の記述を読んでいただければ分かる通り、僕の学問的素養なんて知れたものです。ですが、「なんとか現実的に考えていきたい、具体案を提出したい」ということで、可能な限りの開放性を維持しつつ、いろんなところにアンテナを張って試行錯誤=思考錯誤してみているわけです。バカな発言も多いと思いますが、それは「答えを出して見せびらかす」ようなことではなくて、探求の途上を、あるいはそのプロセスを、お見せしているだけのこと。

ですからできれば、「結果」を馬鹿にするのではなくて*2、「問い」を共有していただけないでしょうか。――もちろん、共有していただけるほどの魅力的な問いを提出することに、僕が失敗している、ということでもあるのでしょうけれど。

ひとまず、「問いを磨くために勉強する」ということになるのでしょうか。



「自分を変える」の難しさ 「自分を変える」の難しさを含むブックマーク

先日のコメント欄で、「自分を変えることと環境を変えること」が話題になりました。「環境を変えるより前に、自分を変えられないのか」というわけです。ここでは、「自分を変える」ということにまつわる問題についてあれこれ考えてみます。


実は、ひきこもりや不登校の当事者に真っ先に向けられる命令が、これだと思います。「自分を変えなさい」。そうして、当事者自身、必死で「変わろう」とする。必死に「環境に順応しよう」とする。そうして、挫折している。

僕自身、中学で自律神経失調症(一番困ったのは下痢症状)が始まったとき、本当に恐かった。「このまま社会から脱落して、ホームレスになるしかなくなるんじゃないか」。自分にホームレスとして生き抜くたくましさがあるとは思えなかったし、要するに「死ぬしかないんじゃないか」と思った。なんとか学校生活を続ける努力をしたけれども、症状は治まらず、けっきょく通えなくなった。「自分を変える」ことに失敗した。

最近では、パニックの発作に苦しんだ*3。これも、直接的な原因がわからず、「自分を変える」と言っても方法がわからない。あるいはパニックほどひどくはありませんが、僕は慢性的にいろんな意味での「知覚過敏」状態にあるので、多くの人にとってはなんてこともない状況や場面が、ひどく苦痛に感じられる(たとえば電車が苦痛であるとか)。

ですから僕の場合、「自分を変える」というのは「苦痛をともなう症状を軽減する」ということでもあるのですが、方法が分からないわけです。少なくとも持続可能な形では。


「気合いで乗り切れ」「覚悟を持って生きろ」といった精神主義的な掛け声にも一定の効果はあると思いますが、これも持続可能といえるかどうか。また、当ブログでも何度か問題にしましたが、「自分を変える」というスローガンには、「洗脳」という危険なモチーフが付きまといます。自己啓発セミナーや狂信的な宗教などは、まさに「自分を変えてくれる」わけですね。


本当に難しい。自分の中で、何に関しては「変える」必要があって、何に関してはそうではないのか。

また、「変える」ではなくて「変わる」という要因もありますよね。たとえば僕は、友人との出会いや仕事を通じてずいぶん変わったと思いますが、それはまさに「変わってしまった」と言うべきもので、一人で孤立して悩んでいても絶対に起こらなかった変化だと思います。――そう、本当はこの辺がいちばん難しいのかもしれない。人間が変化するいちばん大きな要因は「出会い」(別にロマンチックに語る気はありません)だと思うのですが、それから隔離されてしまっている人が多いわけです。すでにいろんな出会いを持った僕でさえ、行き詰まっている。



「求職の意志なき失業者」? 「求職の意志なき失業者」?を含むブックマーク

ヒキコモリが「脱社会的存在」と見なされるとして、しかしそれは「本人が自分で選択して」そうなったのか、あるいはそうではないのか。あんがい大事な論点なのかもしれない。

人間はみな「自分の意志で生まれてくる」のではない。生まれ落ちたあとに、それを引き受ける作業が始まる。

生まれてしまった自分を引き受けられず、閉じこもるしかなくなったとき、それは「意志的に選択した姿」と言えるだろうか。社会学的には、そのように言うしかないということか。

引きこもっている人は、実は「失業率」にはカウントされていない。失業者というのは、「求職中であるが職を得ていない人」であって、求職活動をしていない人は「失業者」にはカウントされない。つまり「失業者」は「自分の意志に反して仕事に就いていない」のだが、引きこもっている人は「自分の意志に従って」職に就いていない、とみなされるわけだ。


単純な話、求職の意志さえ示せれば、「失業者救済」のスキームに乗れるということか。

「失業者」は、経済活動に従事してはいないが「経済システム」からは降りていない(仕事を求めているのだから)。ところが「ヒキコモリ」は、経済システムへの参加表明自体を放棄しているのだから、まさに「降りて」しまっている。とすれば、その経済システムの参加者向けに用意された救済メニューの対象にも、なりにくい。


「閉じこもるしかできなくなった」人間について、これまではその内面事情ばかりが語られ*4、引きこもりについてのシンポジウムでも、パネラーは精神科医やカウンセラー、心理学者ばかり。それはそれで必要な文脈だったのだが、今後考えるにあたっては、引きこもり当事者の抱えた事情が、社会的にはどういう存在であるのか、という観点から考えた方がよくないか。

具体的には、求職の意志を示すことさえできなくなっている人間に、「失業者救済」のスキームで対応できるか、あるいはそれをするべきなのか、という問題ではないか。


ヒキコモリという現象にはさまざまな苦痛や問題が伴うが、最大のハードルは「就労」であり、その持続である。逆に言えば、精神的苦痛や社会的排除などのほかの問題は、「継続的就労」に成功している時点で解決したことになる。

「失業者」の概念を広く捉え、その特化された一分野として「ヒキコモリ」を考えるのがやはり妥当だ、という気がしてきたのだが、いかがだろうか。


当然だが、そこには「自殺者対策」と似たようなジレンマがともなう。「死にたくなっている人は死なせてあげるほうがいいんじゃないか」。前にも触れましたが、けっきょくこのあたりの話になってくるんですね。

「救済を望まない失業者をどうするのか」*5。――というわけで社会学系の本を眺めているのですが、どうもよくわからん・・・・。




*1:そんなことないんだよ、というご指摘は大歓迎です。ぜひ僕を誘惑してください。

*2:もちろん、誤りはどんどんご指摘ください。

*3:さいわい、まだ大きなのは2回だけです。

*4:社会学的な語りにおいてはそうではなかったのでしょうか。すみません、そちらの文脈については知らないです。でも、最近気になる「ヒキコモリ論」は、「社会学」の周辺から聞こえてきているようです。

*5:問題の立て方、間違ってるでしょうか。

はしはたはしはた 2004/04/23 19:40 ひきこもり当事者はひきこもるまで自分を全く変えようとしなかったのではなく、まさに自分を変えるべく壮絶な自己否定を続けた果てに「犯罪者」あるいは「死」、それから「ひきこもり」の三つくらいしか選択肢が残らなかった…というのは私の主観。「自分を変えなさい」という文が「あなたを否定します」という内容ではないことを知る方法ってありますかね?

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/23 21:43 「自分が変わらなければならない」のは、「現在の状況には、持続的に耐え忍べる職業選択肢がなく(見つかっておらず)、それゆえ自分が変わらない限りは、死ぬしかない」から。「選べる選択肢がないのだから、死なないためには自分が変わるしかない」、つまりまさに自己否定の形で環境に順応するしかない。◆「死なずに生き延びられる社会的選択肢はどのようにして可能か」という問いがまずあるのだから、「降りて死ぬのも選択肢の1つだ」とか、「君は降りるという選択肢を選んだのだ」とかいうのは、苦しみながら生きる道を模索している当事者からすれば言葉遊びにしか聞こえない。◆既存の状況の中に私たちに必要な選択肢がないのならば、自分たちで創るしかない。――そんな感じでしょうか。既存のゲームルールですでにやれている人にとっては、「どうしてこのゲームに参加しないの? 鍛え直して(自分を変えて)出直しな」ということかもしれませんが、「社会の自由度を増す」とは、「選択肢を増やす」ということでもあるのでは。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/24 00:13 <僕の場合、「自分を変える」というのは「苦痛をともなう症状を軽減する」ということでもあるのですが、方法が分からないわけです。少なくとも持続可能な形では。>という言葉にシンパシーを感じました。私にもそういうところがあります。昨日の日記へのコメントを書いていて思ったのですが、社会環境が以前よりもカオス的になってきている現状があるということは、見逃せないポイントのような気がします。「カオス的環境の中でサステイナブルに」ということの困難さが自分の目の前に立ちはだかっていることを痛々しいほど実感しています。◆それから、そんなことないんだよ、という指摘をするならば、四の五の言わずにフラーを読んでみてくださいと私はやはり言いたいです。『宇宙船地球号操縦マニュアル』とか。文庫本で安く出てますし。「○○学」というようなくくり方のできない本なので説明が難しいのですが、あえて言えば「システム理論」方面ですかね。システム理論は、何かの学問というよりは一種の思考法で、これを学ぶと自分の興味のあることを考える力そのものがアップします。ほんとに。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/24 02:00 本のご紹介ありがとうございます。≪「カオス的環境の中でサステイナブルに」ということの困難さ≫というのは、先日取り上げた『波状言論』宮台鼎談でも取り上げられていたテーマです。これは確かに、難しくて重要なテーマだと思います。僕らにはどんな選択肢があり得るか。

matsuematsue 2004/04/24 05:39 「商品」と「作品」。 作品という実感よりも、自分が社会の誰かに役に立っている、の方が近いですね。もしくは社会と付き合えている確証でしょうか。そいう物に繋がって行く気がします。上山さんが提示されてる例が<普通>な仕事なので、他の仕事に当てはまるかどうかは分かりません。犯罪的な仕事もありますので。/お礼がもらえる作品が商品になるのだと思います。お礼がもらえない作品は商品でない状態ですが、作品は作品のままです。デザインか芸術かという事で学生時代常に考えていた事です。

matsuematsue 2004/04/24 05:41 予めに僕はおそらくひきこもりの事例ではあまり想像通りの方ではないかという事を踏まえておきます。また体験からシンプルに言葉を出すしかできないタイプです。あまり理論と勉強に走らないで思う事を書込んでいるので、とんちきな事を含みます。ご勘弁を。(コレは他の方に向けて。)でも懸命に全てに目を通し読解は試みています。
失業者はおっしゃる通りですが、その言葉に当てはまらない存在を危惧したのか、無業者という言葉が既に厚労省の文書などに出ていたのを思い出します。求職意志の無い者も含む様です。/継続就労が自分の問題としている核で、この問題に始まりこの問題終わります。この問題は未だ未解決と考えています。お金は未だ有りません。父の会社に入る様に打診してみる事で後一歩ではあります。が、今は採用できる状態ではないとの事なので、それまで待つという状態です。その間に出来そうなバイトを探していますが、自分が、いざという時直ぐに辞められそうな、上手い事考えられるバイトは中々難しいです。

kurai yamiokurai yamio 2004/04/24 07:02 こんにちははじめまして。自分のHPでは上山さん思想に噛みつくものの簡単に振り払われているような気がしてならない暗井と言うもんです。どうぞよろしくお願いしますね。今日はですね、上山さんにお伺い小僧のように質問をアレヤコレヤしてみようと思います。過去に私がHP上で書いた発言と被ることがあるような気がするんですが、資本主義やら仕事について悪い側面だけをチョイスしすぎているのではないでしょうか。仕事と言ったときに、資本主義まで行ってしまうとなんだか仰々しいですけれど、仕事によって得られるメリットも多いですよ。例えば健康診断。これひきこもっている人が受けているケースって少ないんじゃないしょうか。厚生年金に加入できる。将来的に月6〜7万の基礎年金だけじゃ暮らしていけない。また保険にも加入できる。親の保険証を使うのに抵抗がある人にとっては重要ですよ。それ以外にも組織に加入したことによる安堵感や社会的信用もあがると思いますしね。制度には必ず一長一短あると思うんだけれど、その「短」のほうばかりに目が行ってしまうと、どっかのガツガツしたオヤジみたいに「ひきこもりは怠けだ!」という発想と被るところが出てくると思いますよ。以上生意気投稿でした。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/24 09:08 kurai yasuoさんがおっしゃるのはごもっともです。ですが私の場合、一長一短だと自分でも頭ではようく理解しているつもりでも身体が感じる恐怖や嫌悪感が拭えないという感じなのです。意図的に悪い側面だけをチョイスしようとしているわけではなく。◆≪「カオス的環境の中でサステイナブルに」ということの困難さ≫というのは自分だけではなくて普通に働いている人もそう感じているはずで、そういうストレスフルな環境にいると人は攻撃性が前面化してしまいがちになります。いい大人であっても、ストレス過飽和状態で息が浅くなっている。そうすると、ほんのささいなきっかけで誰がいつキレるかわからないから、いつも身構えていないといけない緊張状態を強いられてしまったりします。ストレスフルな環境が、よりストレスフルな環境を再生産している。そういう労働環境ばかりではないのもやっぱり頭ではわかっているのですが、実体験として「まさかと思うようないい大人が突然キレる」現場に立ち会ってしまったりすると、頭でどう考えようと関係なくなっちゃいます。◆こんなことを言うと考えすぎだとよく言われてしまうのですが、実際には考えるのが先ではなくて、自分がすごく緊張しているということをまず感じて、それから「なんで俺こんなに緊張しているんだろう?」ということを考えてみると、なるほどそういうことかも、という順番です。だから「考えすぎで身動きが取れないんだろう」という指摘は、何の解決にもつながらない的外れなものでしかない。考えようと考えなかろうと、緊張するものは緊張しているわけですから。◆「緊張しちゃうよねえ」というところに何とか共感してもらうことがコミュニケーションの第一歩で、現実問題の解決のカギかもしれないと思うのですが、なぜかそこがけっこう難しいのです。頭ごなしに「そんなこと言ったってしかたないだろう!」と言われてしまったりする。「みんなつらい中がんばってるんだから」とか。「いや、だからね、俺だけがつらいならば俺が変われば済むだろうけど、みんなつらいって言うならば、何か根本的なやり方を変えなきゃいけないんじゃないかと言いたいんですよ」と言う言葉は、(至極真っ当な話であるにもかかわらず)不思議なことにほとんど通じないのです。どうしてこんな当たり前のことをわかってもらえないのか、それが私には全然わかりません。◆コミュニケーションにチャレンジするたびにこういうことが起こるので、自分はコミュニケーションをとることすら許してもらえないのかと、自分のニッチを作り出すチャンスすら与えてもらえないのかと、チャレンジするたびに絶望が深まってしまうばかりで。どうすれば自分の当たり前感覚を他人と共有できるようになるのでしょうか? 共有は無理としても、せめて「なるほどそういう感性もありだねえ」と思ってもらえるのでしょうか?

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/24 18:45 matsue さん、「お礼がもらえる作品が商品」、なるほど。逆に、「お礼はもらえるけど≪作品≫ではない」ってのもありますね(というかその方が多い気が)。製作者側と消費者側のバランス関係の問題なんでしょうか。 ◆ 「無業者」:なるほど。失業者ではなく「無業者」の問題として考えればいいわけか。ググったら http://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/09/h0919-5f.html#top ← こんなのとか出てきました。「継続就労」について、具体的な選択肢を考えないと・・・・。(理論とか気にせず、お好きな書き込みをどうぞ。楽しんでってください。)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/24 18:45 はじめまして>暗井さん。ええと、どうも僕が「資本主義」という言葉を乱発したせいで、「社会参加=資本主義の味方=悪」という図式の主張をしていると見られたのかもしれませんが、ひとまず僕は「経済社会に参加できない」というヒキコモリ当事者の事実を問題にしたいだけです。できれば何とか参加したいし、参加できれば、そこにはメリットがあるのはおっしゃる通りだと思います。 ◆ ところがいろんな理由が重なって、どうしても継続参加できないので、何かほかの選択肢はないだろうか、と考えているわけです。ほかの選択肢が見出せず、既存の経済社会への参加もできないとなると、本当に干からびていくしかない・・・・。(ところで、HPのURL教えていただけるとありがたいです。)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/24 18:45 Bon voyage! さん、現在認知されているシステムで快調にやれる人もいれば、そうでない人もいる。苦しむ側に回ってしまった人間が自分たちの生きる道や自由について考えるなら、やはりただ黙っていたのではどうにもならないと思う。仕事に関して、「探す」とか「待つ」だけじゃなく、「創る」とか「変える」とかの難しい要因に取り組まざるを得ないんじゃないでしょうか。 → そして、ヒキコモリ当事者というのはこの辺が最も苦手だったりするのですが・・・・。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/24 20:40 まさにその通りと思います。今ここで話している議論は、下手な自営業者の集まりよりもずっとレベル高いですよ。実は大切なことは、魅力的になろうとか、魅力的なものをつくろうとか、そういうことではない。◆自分が魅力的であることを知る。自分が作れるものが魅力的であることを知る。自分がしてあげられることが魅力的であることを知る。そういうことではないかと思います。実際、ueyamakzkさんは私の興味をひきつけるのに十分魅力的です。他にも、書き込みをしている人、他のブログをしている人、魅力を感じる人は何人もいます。◆どうにかして、「あ、俺って、自分では自分のよさがわからなかったけど、ある種の人からすればこんなに魅力的だったのか」という体験を少しずつ重ねていくようにしていくのが良さそうに思います。どうにかして。

ojahumojahum 2004/04/24 21:18 うむうむ、なるほど。ここにお邪魔させてもらってるのも、たしかに魅かれてるわけですもんね。>ある種の人からすればこんなに魅力的だったのか」という体験を少しずつ重ねていくようにしていくのが良さそうに思います。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/25 00:39 Bon voyage! さん、ojahum さん、どうもありがとう。「小さな成功体験を積み重ねる」というのは、たしかに重要なことだと思います。

matsuematsue 2004/04/26 01:09 『お礼はもらえるけど作品ではない。』◆◆世間一般の認識ではそうなってるという事でしょうか。何だか寂しい話ではありますね。プライドが高すぎてはいけない心理が働き易いのか、控えめに自己評価を落とす、と言うのが自己評価の心理傾向とよく言われますね。国民性というやつでしょうか。周りが出来て当たり前だという雰囲気だから、決して目の前の当たり前な品や事柄を作品(=すばらすぃ!)とは思わない。または思えない。多くの人間にとってなくてはならないはずなのに、不思議な話です。◆◆文化文明の発展(とおぼしき)のために必要な感情なんでしょうね。ある時点で満足してはイケナイと言うなにがし…。競争向上の原理でもあります。◆◆ただ、経済システムの由縁で、給与を貰う=評価数字が出てしまう=自然にお礼は貰ってる、という側面を日常合わせ持っていますよね。作品という対価を与えようが与えまいが、給与という経済性で評価されている人がほとんどな訳ですから、お礼が貰える時点で評価上最低限は問題なくなってしまいますが…。◆◆その友人は素晴らしい感覚を持っていますよ。他人がどう考えているのかという事に惑わされないで、自己の成し得た事柄を自己で評価してるんじゃないでしょうか?逆に多くの人間が自分の成し得た事柄を誇りに思わないのは社会的に問題かもしれません。確かにごう慢な人間性を抑制するんでしょうけど、その代わり落ち込み易い人間性が加速してしまいがちです。◆◆さて、作品か商品かという以前に、経済性という部分で評価をいただくにはどうすれば良いか?はかなり大きなテーマだった気がします。他の方の意見もお聞きしたいですね。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/26 04:01 日本では、「上のほうにも下のほうにもはみ出てはいけない」という同調圧力が高い、という話はよく聞くけど、どうなんだろう。他の国では上にも下にも寛大なのかな。 ◆ 「経済的評価が必要」はまさにその通りで、たとえば野球選手は「作品」だか「商品」だかよくわからんが、何億円も稼いだりしてる。もちろんあんな飛び抜けた存在と比較してもアレだけど、僕らも自分たちなりの経済評価の道を探らねばならない。というか、要するに「カネを稼ぐ」ということの難しさとメカニズムを、真剣に研究するべきなんじゃないか・・・・。

matsuematsue 2004/04/26 08:11 ◆欧米では子供の頃から競争しっぱなしじゃないですか?始めは生まれの段階が決まっていても、如何にソコを抜け出すか、抜かれないか、という意味での競争。よく日本との対比でそんな風に言われてる様に僕は記憶してますが。日本でも段々そんな風潮を感じる今日この頃です。協調性指向はまだまだ相変わらずな感は抜けないですが。上に行きたきゃ行きゃぁいい。下に落ちたら後はシラン。ってイメージです。◆そうですね。「カネを稼ぐ」はまさに。ここまでちょっと長いので、大切なキーワードですし続きを期待して短めに。まず履歴書いらずでバイトにつく方法はあります。単純労働ですが始められるバイトの具体的な話は後日。そして問題は継続性ですね。既存のゲームルールに戻る方法か否かも含め、いつでも良いので後日ブログにて口火を切っていただけたらと思います。◆お礼はもらえるけど作品ではない:評価の話になってしまいました。もう別の分岐点があるとすれば、要は喫茶店等のサービス自体は作品か?車の運転は作品か?という方向性の話もあったかと思います。というか、そういう意味で言ったかもしれませんね。すいません。試しに別方向から展開してみまして。一応ポジティブに見る言葉がありますが長いのでまた後に。

2004-04-22  「自分を変える」と「環境を変える」

雑感 雑感を含むブックマーク

「柔和に見えるものが実は狂暴である」が宮崎駿、「生き生きと見えるものが実は死んでいる」が押井守。

「気高き覚悟を持つ者たちの共同体」が宮崎駿、「絶望した人たちの個人プレー」が押井守。

「覚悟をもて、強く生きろ」が宮崎駿。「希望はなくとも、冷静に生きてゆく」が押井守。



ありがとうございます。 ありがとうございます。を含むブックマーク

昨日の記事にたくさんの書き込みをいただき、しかもそれが本質的な問題に触れ始めているように見えて、喜んでいます。私への批判も含め、厳しいやり取りも垣間見えますが、基本的にマナーを守って下さっているのも嬉しいことです。(とりわけ id:dokusha さんの私への共感的なお言葉に、個人的に感謝申し上げます。)

今日はちょっと長文をアップする時間が取れないので、出していただいた論点を簡単に列記してみます。(網羅的ではありませんが、どうぞご自由にテーマを追加するなり再生するなりしてください。)

  • 「社会学」などの学問は、苦しんでいる人にとってどんな意味を持つか。
    • 「知的好奇心を満たす」だけ? あるいは「戦略上必要」?
  • 「資本主義とは何か」、その隙間に生きるとは、あるいは「別の選択肢」とは。
    • 各種経済政策、再分配、地域通貨、など。
  • 「(自分のために)自分を変える」と、「環境を変える」という2つの焦点。
    • 「覚悟をもて」、あるいは「戦って変えていかねばならない」など。
    • 「自己洗脳」と、「自分に合わせて環境を変える」?


やはりあらためて、「経済的な成果を出す」ための研究が必要に思います。自分が生きていくためにも、当事者たちのためにも、人々を説得するためにも。

たしか村上龍が言っていましたが、現代では人々を説得するのに「理念」を提示してもダメで、「経済効率や利潤」を提示しなければいけない、と。いいか悪いかはともかく、戦略上の真理の一端ではないでしょうか。

「引きこもっている奴らは日本社会の経済的負担なのだ」という意見が、今後批判派の中で強くなってこないでしょうか。


Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/22 22:12 読んでもらって何らかのインスピレーションを受けてもらえたら、私もうれしいです。さて、<「引きこもっている奴らは日本社会の経済的負担なのだ」という意見が、今後批判派の中で強くなってこないでしょうか。>ということに関してですが、これには「そうかもしれませんね。で、なにか?」と答えておくしかないかもしれません。資本主義社会では経済的な「けん引役」と「お荷物」が生じるのは必然で、誰がどちらに属するかを判定したり指摘したりすることには弱いものいじめ以上の意味はありません。資本主義を採用している以上、社会内部に勝者と敗者(これらは相対的なものなので同時に生まれます)が生まれるのを前提とした上で、社会全体としてどこに向かうかを考えるのにエネルギーを使うようにしたいものですよね。…というような「弱いものいじめ文化」よりは一段成熟した文化を育成する必要がありそうですが、「それを誰が表に立ってやるんだろう? 誰もやらないなら自分でやるしかないのか? しかし、現実的に結果を出せてない自分の言葉を誰が聞いてくれるのだろうか」とか考えると、やっぱり気が遠くなりそうです。

dokushadokusha 2004/04/23 00:41 わたしの言葉が少しでも届いたとしたらわたしもうれしいです。わたしの感覚としては経済活動は結局のところ交換だと思うのです。「経済的な成果を出す」というのは、とりもなおさず「自分ではない誰かが自分が今持っている何かを欲しがる」という関係を築くことではないかと思います。「地域通貨」については懐疑的です。通貨というものが関係性の具体化だとするならば、その関係性を閉鎖しなければならない理由がわかりません。また閉鎖した関係には限界があります。ちょっとざっくりした感想のようなものになりますが。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/23 15:22 Bon voyage! さん、本当に気の遠くなる話なんですが、僕としてはやはり「自分でやってみるしかない」、あるいは「やれそうなことを模索する」としか言いようがないし、その努力に人をお誘いする、という感じになると思います。その意味でも、性急に「これが答えだ」と言ってしまわずに、魅力的な問いを設定できればと思うのですが。答えの軌道修正というよりは問いの軌道修正だし、的確な問いを立てるために勉強が必要である、ということかもしれません。(もちろん、日々の生活の中でつねに答えを出していかねばならないわけですが。)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/23 15:22 dokusha さん、先日は「対話的な議論」の姿勢に理解を示してくださってありがとうございます。本当に嬉しかった。また社会学についてのコメントや、「食客」(知りませんでした)など、参考になりました。◆地域通貨については、おっしゃる通り限界はあります。ただ、逆にいえば可能性がないとも言えない・・・・難しいんですけれど(例えば「はてなポイント」も見ようによっては地域通貨ですよね)。ここでも難しいのは、「人が求めるものを生み出す」ことかもしれません。また本文でも考えてみますね。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/23 23:03 自分だけじゃやれないっていうのと、努力してやるものではないというのが文化的醸成の問題の本質なわけで… 「待つ」というのも一つの方法かもしれません。どうやってヒキコモリから抜け出すかというよりも、環境が整うまでどうやって待つか。猶予をどうやって引き延ばすか。待ち方しのぎ方を模索するのもありかもしれません。以下、私もインスピレーションを受けまくったのでコメントを。またまた長くなってしまいます。(おもしろくないときは言ってくだされば以後自重します。)

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/23 23:03 地域通貨についてはエンデの本を読んだだけなので私も詳しいことは知らないのですが、うまく地域通貨を導入できれば気持ちが楽になりそうだ、という感じはします。地域通貨には限界があるということですが、地域通貨は、そもそも現行の通貨制度に限界が認められるために代案として考えられたものです。言ってしまえばどんな制度にも限界はあるわけで、地域通貨には限界があるから地域通貨がダメだという理屈は成り立ちませんね。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/23 23:04 また、関係性を閉鎖すると言っても鎖国のようなきつい閉鎖ではなくて、実際にはもっと緩やかな閉鎖になると思います。資本主義の場合、ほおっておけばグローバル化が際限なく進んでいきますが、そのときに何の分節もしないでおくと社会環境がカオス的になってしまいます。そうなると多くの人にとっては変化がありすぎて生きにくい(たぶんこのことはヒキコモリと関係が深いです)ので、なんとかして世界の分節の仕方を見つけないといけません。関係性を閉鎖することには、そういう意味が実はあったりします。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/23 23:05 地域通貨はその問題に対して「食料・衣食住・エネルギー・人材に関する自立型ユニットで世界を分節してみるのはどうですか」という問いを提供しているように思います。何にしても、関係性をまったく閉鎖しなければ「カオスになる」し、完全に閉鎖した場合には「閉塞する」のですが、両方をうまく組み合わせて「緩やかな解放・緩やかな閉鎖」状態を作ることで、それぞれの極端なケースよりも暮らしやすい「カオスの縁」的な社会ができるはずだ、というのは理論的には間違いない。あとは、具体的にどうするかという話ではないかと思います。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/23 23:05 最後に、「魅力的な問い」という言葉がどうもひっかかるので書いておきます。コミュニケーション、特に他人をアトラクトすることにおいて非常に大事なことです。「魅力的な問い」という言葉には、さも「魅力的な問い」が存在し、それを提示することができるというようなニュアンスを私は感じますが、私はその考え方には賛成できません。問いを受け取った主体が、問いの意味を解釈し、それが魅力的なものかどうか判定するのだと思います。さらに言えば、問いを受け取った人の知性や感性が、ある問いを「魅力的な問い」に変える。そういうことのように思います。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/23 23:43 地域通貨については、「カオス/秩序」という観点と同時に、「生活のセーフティーネット」という面もあるかも。「閉鎖性と開放性のバランスが大切」というのはその通りだと思います。僕としてはあとは、「新しい決済設計図が生み出す心理的効果」というのにも興味があるんです。発券型だと「流通領域が極端に狭い」というだけでふつうの国民通貨と設計図は変わりませんが、LETS とか PICSY だと、決済のメカニズムそのものが普通のお金と違っていて、これが独特の心理的影響を持つのではないか、と。◆ただ、dokusha さんのご指摘とも関わりますが、地域通貨がうまくいくかどうかのカギは、「参加者各々が提供できる商品のメニューが魅力的であるか否か」に大きく依存する。どんなにフォーマットをうまく整えても、そこに乗っかる商品が貧相であれば、経済はまったく動かない。そもそも参加している意味がない。例えば僕が関わっていた地域通貨では、無農薬野菜を持ってこれる農家の方がどんどん稼いでしまって、しかしその方には他の参加者から買いたいものがなかったりする。これでは農家の方は無償で野菜をバラ撒いているようなもので、新しい決済制度に参加した意義はまったくないですね。つまり国民通貨であれ地域通貨であれ、≪他の人々に欲しがってもらえるような物(サービス)≫を提供するのはひどく難しく、そこがネックなわけです。けっきょく、自分や自分の提供できるものを魅力的にできなければどうしようもない、と。 → 「魅力的なものを提供できない人でも生きていける道を探そう」というところで社会保障の話になるのかな・・・・。◆僕は「魅力的な問い」と言いましたが、問いも含めて、「魅力的な選択肢を提供(創造)できるか」ということかもしれない。僕のこのブログ(日記)もそういう選択肢の1つだろうし、「はてなダイアリー」のスタッフの方々は、この魅力的なサービス=選択肢を提供しているわけですよね(「はてな」サービスがなかったら、僕は日記をつけていなかったかも知れない)。さらに言えば、このコメント欄に意見を書き込んでいただくのも、皆さんなりに「魅力的な選択肢」の1つを提示してくれている、とも言える(読者の存在が重要であるのはおっしゃる通りです)。あるいはまた、オフラインでの提供を目指すべきサービスもあって・・・・という感じでしょうか。「待つ」というのも確かに選択肢の1つですが、「新しい選択肢の創造によって能力を高めてゆく」というチャレンジも、試みてみたいと思います。率直に言って、「父親が死んで10年、自分も35歳」の僕には、もうあまり「待つ」余裕はありません・・・・。◆長文の書き込みをいただくのは嬉しいのですが、できれば僕のように図形記号で段落を切るとか、<br>タグで改行するとかして、一括投稿を目指していただけるとありがたいです。同じお名前の投稿がズラズラ並ぶよりは、その方が読みやすいと思うので・・・・。お気遣いありがとうございます。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/24 00:49 なるほど、地域通貨には、コンテクストの問題だけではなく、コンテンツの問題もあるわけですね。それはまさに関係性を閉鎖することのデメリットかもしれませんね。コンテクストとコンテンツがうまく補完関係になければいけない。地域通貨ではそれは今のところうまくいっていないが、はてなではわりかしうまくいっているよう。そんな感じでしょうか。楽天市場とか、ああいうところも立ち上げ期にはコンテクストとコンテンツの問題を抱えていたと思いますが、どうやって乗り切ったんでしょうね?◆「待つ」ことのできる残り時間は人によって違いますもんね。一般解ではないですが、人によってはありかも、という程度で。ちょっと発想を広げたかったのです。◆以後、図形記号方式で書くようにします。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/24 18:44 「コンテクスト」というより、「フォーマット」と言った方が僕の感覚にはピッタリくるんですが、何かの学問の言い方なんでしょうか?>「コンテクスト」。取りあえず、「形式・制度面の整備」と、「具体的な選択肢作り」という話として、また考えてみます。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/24 20:28 「何かの学問の言い方」ではありません。「コンテンツ」に対応させるために使いました。ちょっと不用意であったかもしれません。個人的には自然に使っているのですが、大切な言葉ですから、もう少し注意を払うべきだったかもしれません。◆「フォーマット」というと、「書式」とか「型」と言った意味になりますね。それは無味無臭のただの箱です。それに対し、「コンテクスト」といった場合には「文脈」「背景」という意味になります。それはただの容器ではなくて、その中に入っている「コンテンツ」(=「中身」「前景」)に対して「そのコンテンツがなぜそこにあるのか」や、「どんなコンテンツがそこに入るべきか」ということを積極的に意味付けするような、味や臭いがあるものです。コンテンツとコンテクストは相乗効果を起こし、トータルとして一つの意味を表すようになります。◆(「はてな」サービスがなかったら、僕は日記をつけていなかったかも知れない)とueyamakzkさんがおっしゃっいましたが、それは「容器」にアトラクトされているわけですよね。ここに自分のコンテンツを入れればピッタリだな、と感じた何かがあったのではないか。そのように私は想像したのです。それから地域通貨も、その地域通貨でどのような商品やサービスが取引され、そのことにどんな意味があるのかを私に想像させるものです。それで私は「コンテクスト」という言葉を自然に選んだのだと思います。どちらも単なる「書式」ではなく「背景」を提供するものという意味で。◆実はコンテンツとコンテクストはその都度相対的に決まります。「インターネット」というのは、あるとき生活上の一つのコンテンツとして生まれましたが、今は、あって当然のインフラになりました。今度はインターネットがあることを前提として、「はてな」のサービスができました。インターネットというコンテクストの上で「はてな」というコンテンツが生まれたわけですね。その次は「はてな」があることを前提として、ueyamakzkさんが日記をつけるようになった。そういうような関係があるわけですね。そうやって、コンテンツはその時点のコンテクストを前提として生み出され、中でも優秀なコンテンツは次第にコンテクストになって、次のコンテンツを生み出す土壌になる。◆こんな感じでご理解いただけたでしょうか? 私としては逆に、ueyamakzkさんがどのような意味を含んで「フォーマット」という言葉を使っていらっしゃるのか興味があります。

2004-04-21  社会の事情と個人の事情

体調のせいか、なんか慢性的にボーっとしている。困るよ。猶予はないのに。


流動性の激しい「脱聖化された分業世界」 → 自己管理のテクニックは? 流動性の激しい「脱聖化された分業世界」 → 自己管理のテクニックは?を含むブックマーク

昨日のコメント欄に、「単なる順応主義に現実はあっても真実はない」「精神的に干からびるか、肉体的に干からびるかしかない」というお言葉をいただく。これはヒキコモリ当事者の多くが苦しむポイントだと思う。

『波状言論』の宮台鼎談に「真理クン」という罵倒表現があったが、学問的真理の追究も含めて、僕は自分の生の時間を何らかの「プロジェクト」にしおおせようとしている、そういう面が確実にある。何に向けてのプロジェクトか。「生きている時間をプロジェクトにするプロジェクト」。ブラックジョークのようだが今はそんなふうにしか言えない。

それは、僕にとっての自己管理の条件かもしれない。「真理」は必要ない(というか、信仰の持てない僕は「真理」を前提にできない*1)が、生活の中に発展的要因がないとダメ、というか・・・・。


だが(これも宮台鼎談のテーマだったが)、プロジェクトは流動的な世界のただなかにあって、この流動性に耐えながら持続していかなければならない。ドライで完全に脱聖化された「機能性」しかない世界。分業が徹底的に進み、「相互手段化」が極限まで進んだ社会。――「そこにしか棲めない」(選択肢がない)ときの、自己管理のテクニックは。


月並みだが、「この人と付き合っていきたい」と思えるような人間関係が支え、というかヒントになる気がしている。常に変わらぬ核のような存在。相手の症候的な核との付き合いにおいて、生きるプロセスが目的になる*2

自分を、ある真理が実現するための、あるいはある変化が実現するための媒介にしようとすること。同時に、そのプロセス自身が目的になっていること。

これは青臭い実存談義ではなくて、「生を持続させるための方法論」のもんだいだ。「やりたいことを仕事にする」という指針が単なる青春ごっこではなく、競争に勝ち抜いたり持続的に自分を維持管理するためのテクニックの1つであり得るように。


個人としては内面的自己管理のスタイルを考えるとして、あとはそれが社会的にはどう支えられるのか*3、という問題なわけですが。



「望まざる隠遁?」と可能な選択肢 「望まざる隠遁?」と可能な選択肢を含むブックマーク

id:Ririka さんの「《他者》のつぶやき…」およびそれへのコメント欄でのみなさんの応酬から、問題が少しクリアになった(僕も「人文的応答関係と経済的応答関係」という観点で一回書き込んでいます*4)。

僕はヒキコモリに関して、「降りるしかできない不自由」と言ったのだが、これは社会的にはやはり「降りたい奴が降りた」ことになるのだろうか。つまり「自由な選択権の行使」であると。


身体障害や精神病は「なりたくてなる」ものではない(つまり自由意志は介在しない)が、ヒキコモリはその辺が微妙で、だから「自己責任」問題が発生し、「責任取れ。社会保障をあてにするな」という話が常につきまとう。

「ヒキコモル以外の選択肢はない」というのが当事者たちの主観的理解だと思うが、果たして本当に「他の選択肢はない」と言えるかどうか。――その辺がネックなんだと思う。

当ブログでは何度か問題にしたが*5、ヒキコモリは当事者にとっては不可避の選択であり、主観的には「〜できない」「働けない」という「障害」として意識されている。ところが、それは第三者からは(つまり社会的には?)「自由意志による選択」と区別がつかない


別の選択肢を用意すれば、つまり環境が変われば障害は障害でなくなることがある、という「バリアフリー」の観点に立ちたいが、しかし「ひきこもり当事者のためのバリアフリー」とはどのようなものか。ひとまず経済的には、資本主義しかない。

「別の選択肢」として、北朝鮮やイスラム圏を考え得るだろうか。現実的とは思えない。あるいは武者小路実篤の「新しき村」? 僕はずっと地域通貨に興味を寄せているが、これも「別の選択肢」を探してのことだと言える。

僕は先日から「餓死」を問題にしているが、これも「家を出て働くよりマシ」という仕方で「選択した」ということになる。いくらお粗末でも、あるいはいくら受動的でも、「選択した」ことになる*6


要するに一種の「ユートピア」、理想郷を模索し実現しようということだろうか。

社会学の議論には「再分配」というテーマがあるらしい。冷戦時代までは「資本主義か共産主義か」という二者択一だったのが、「資本主義の勝ち」になり、しかし資本主義だけではあまりに非人間的なので、「たくさん稼げる人からぜんぜん稼げない人へ」富を分け与えましょう、というような話だろうか*7


僕は今まで社会学にはまったく興味が持てなかったのだが(単純な話、それが社会をどう変えられるのかまったく見えなかった)、ヒキコモリについてしっかり考えるならば、問題設定としては社会学的な話になるということか*8


当然だが、理論武装は同時に具体案の提出に結びつかなければならない。そこが難しいわけで、だからこれほど社会学に注意を向けつつも、勉強に没頭する方向には、なかなか行けないわけですよ・・・・。『波状言論』の北田鼎談でも、「考えても状況は変えられない」みたいな発言があったし・・・・・本当にそうなら考えても意味ない・・・・・。

僕はヒキコモリ関係者(当事者・親たち・支援者)からよく「考えすぎだ」って言われるんですよ。「不必要に自分を追い込んでるだけ。もっと自然体で生きなさいよ」みたいな。本当にそうなんですかね・・・・・「考えてもしょうがない」んでしょうか。

何度も言うけど、放っておいたら黙って死ぬしかないと思うんですよ、僕自身が。 「気合入れて頑張れ!」「できないなら死ね!」しかないんですかね?>この世。


「日本社会は断片化し、それぞれが島宇宙化している」とか言われながら、実は少数派は極端に生きにくい社会のままだ、というのがここ最近露呈してないでしょうか。ちょっと政治や経済の状況が危機的になったら、ヒキコモリ当事者なんて真っ先に遺棄(@宮台真司)されそうです。この社会で、理由はよくわからないがなぜか「他者」になってしまった個人は、やはり命懸けなんですね・・・・。


ひとまず僕としては、理由はどうあれヒキコモリ当事者がこの社会における「経済的他者」*9にならずにいるにはどうするか、という点を中心に考えたいし、逆にいえばその点さえ解決すれば他の問題はクリアできたということにならないか。 → つまり「経済的に排除されてしまう」という事態には、それ以外の排除の要因がすべて詰まっている。

うーん・・・・しかし「単なる失業者」をわざわざ「経済的他者」なんて言う必要あるか? 失業者は「経済的応答関係」に参入できてはいないが、「資本主義」からは「降り」ていないもんな(というか降りられない)。

というわけで、「失業者」と「ヒキコモリ」の違い、さらに言えば「障害者」との違い――そのあたりで考えて具体案を練る必要があるでしょうか――ってそれすでに考えてきてることなんですが、難しいですよ。ヒキコモリというのは、単なる失業者であるはずのくせに主観的には障害を抱えている。かといってでは社会的に障害者と認定してもらえるかといえば、「自由意志で選択的に社会関係から降りたのだから、自己責任で」と言われる。労働者としては障害を抱え、障害者と認定されるには瑕疵*10がある。


社会的な罵倒と戦いながら、同時に経済生活も生み出していかねばならない。

「やればなんとかなる」と思ってやってみるしかない。


いかんね、笑いがないよ、笑いが。




*1:強いて考えうる別の指針は「美」と「快楽」か。でも「美」はまだよくわからんし、「快楽」だけでは僕は頽廃すると思う。

*2:「つきあう」というのは、goal(最終目的地)ではなくて aim としての「目的」だろう。つまりプロセスが目的になっている。

*3:ただしLETSなどの「新しい決済システム」のことを考えるときには、僕は「社会的なものの設計図が内面管理に与える影響」という視点を重視しますが。 → 斎藤環『ひきこもり文化論』ISBN:4314009543 p.169〜に少し書きました。

*4:「不利益があってもそれを選ぶのか」というリクツの問題としては、「人文的」と「経済的」を分ける必要はないということですね。

*5:上の方で「障害」で検索してみてください。

*6:主観的には「決断した」覚えは一度もなくても、社会的には「選択した」ことになるのだろう。 → ちがう?

*7:間違ってたらご指摘お願いします・・・。

*8:某思想家や某精神科医が「ひきこもれ!」みたいな発言をしているが、この程度の問題意識も持ち合わせていないんじゃないか。閉じこもる以外の選択肢を持たない人間が社会保障もなしに閉じこもり続けたら、死ぬしかなくなるでしょうに。「いつか働ける」というのは楽観的すぎる。「死んでもいいじゃないか」というなら一貫しているが。

*9:変な表現ですが、「制度の他者」「規範の他者」などという表現が『責任と正義』にあるらしくて、僕はそこから「社会と価値観を異にしている」という意味での≪人文的他者≫、「経済社会に参入できない」という意味での≪経済的他者≫を考えました。そういう問題設定が「ヒキコモリ」を考えるために必要だと思って。 → アホなこと言ってたらご批判ください・・・・。

*10:瑕疵:かし。「権利認定のために必要な条件を満たしていない」という意味で法律用語を流用してみたんですが、変?

dokushadokusha 2004/04/22 01:10 ちょっと申し訳ないけど、いつもと違って余裕がないような気がします。一気に追いこみすぎてもスピードを上げすぎて見落とすものも出てきやしませんかね。ちょっとスローダウンしましょう。「人生なんて何キロ走ったという競争じゃなく、何年生きたというかけっこ」なんでしょうから。
どこでだったか失念してしまいましたが(すいません、はてな内であることは間違いないので思い出したらまた報告します、それとも既にご存知かもしれませんが)「社会学はこの社会に起こる現象を説明する学問であって、社会がかくあるべきと限定したり、予測したりする学問じゃないんのではないか」という発言を読みました。昨日のコメント欄にもありましたけど「ニッチ」というものが社会にも(そして人間の心にも)必要であると思います。社会も人間の心も連立方程式で定義できるように決定論的とは思えません。
社会も人間の心も不条理で矛盾を抱えていると思います。その矛盾を抱えた社会をそのままに(少しずつでも改善しつつ)矛盾を抱えた人間が歩く為には、その間に緩衝帯となる隙間<ニッチ>が必要になるのではと思います。確かに、具体的な金銭、生活では食べられなければ隙間もなく餓死を迎えてしまうのでしょが、あらかじめそこまで予期しつつ議論を煮詰めても社会に所与として備わっている隙間に足を取られるような気がします。
一気に結論を急がず、じっくりと「腑に落ちる仮説」に近づいてみてはいかがでしょうか。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/22 03:11 お二人に自分の言葉を取り上げていただき光栄です。ただ、誤解のないように申し上げておきますが、ニッチという言葉には緩衝帯という意味はありません。環境との関わり合いの中で決まってくる、その人なりの役割や居場所という意味です。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/22 05:07 <引きこもりが「障害」なのか「自由意志による選択」なのかを判定しなければいけない>とか、<、「失業者」と「ヒキコモリ」と「障害者」の違いを明確に提示しなければいけない>とかいう思考回路そのものが、政治・交渉のプロセスとしては既に負け始めているような気がします。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/22 08:51 私の勝手な意見ですが、ueyamakzkさんの文章を読んでいると、この人はひょっとしたら<自分では本当はグレーゾーンを生きたいのにそれが社会的には許されないと感じていて、それがゆえに白黒はっきりさせないと生きていけないと公言してしまうことで、人からは「考えすぎだ」とか「お前の考え方は極端だ」とかよく言われてしまうが、自分では「いや、俺はそんなことはないと思うんだけど」と感じてしまう。できれば「そうそう、現実はそういうふうに見えるよね。本当はグレーゾーンが楽しいのにね。」というような感覚を他の人と共有したいのだが、なかなかそういう人とも出会えずにいる人>ではないかというような感じがするのですが、いかがでしょう? もし、こういうメンタリティーが引きこもりにある程度共通するものだとしたら(というのは私もこの手の人だから言うわけですが)、「お前は障害者なのか、自分の意思で選んでいるのか、はっきりしろ!」と迫られるよりも、「グレーなお前が、いいよ」とか言ってアプローチされたほうがずっと素敵です。とすれば、ケアの主体(行政?)に対しても、「やむを得ずか自分の意思かという線引きは置いておいて、とりあえず水をやってください。いつか大輪の花が咲くかもしれませんから。実際、成功した起業家には元ヒキコモリも結構いるわけで、とりあえずヒキコモリ1000人に無条件で飯を食わせておいて、その中から成功した起業家が5人でも10人でも出れば税金いっぱい払ってもらえて十分元が取れそうじゃないですか。経済効果のオマケつきですぜ。」という感じのスキームで交渉する手もありそうなんですが、こういうのは成り立ち得ないスキームなんでしょうか?

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/22 08:54 あ、それから、具体案の提出を伴う理論武装をしたいとお考えならば、ポール・ホーケンの『自然資本の経済』、それから先日名前の挙がったバックミンスター・フラーは必修科目になります。強くお奨めしたいです。

dokushadokusha 2004/04/22 10:04 ニッチについては拡大解釈かな?古代中国には「食客」という制度(?)があって孟嘗君などは数千人(白髪千丈?)の食客を抱えていたとか言われますね。

aiai 2004/04/22 13:44 自分を取り巻く問題に対処するにあたり、取り得る選択として「環境を変える」の他に「自分を変える」というものがあると思います。こちらを拝見しているとこの二つの選択肢の狭間で身動きが取れなくなっているように見受けられます(「自分は変えられない」、しかし「環境を変えることは大変困難である」)。ご自身でも書かれていますが、まずは「自分は変えられない」という前提から「降りて」みることを真剣に検討されてはいかがでしょうか。もちろんどちらの選択も大変な困難を伴うものですが、ほとんどの場合、「自分を変える」ことの方が容易であると思います。予め申し上げておきますが、「社会のために自分を変える」のではなく、「自分のために自分を変える」のであって、ここに勝ち負けの概念を適用するのは間違いです。

aiai 2004/04/22 13:44 また、「資本主義」や「経済」についてよく言及されているようですが、これらについて正しい知識を学んだ経験はおありでしょうか?というのも、間違った「資本主義」や「経済」に関しての知識を前提に一人相撲をとっているように見受けられるのです(「資本主義だけではあまりに非人間的なので」など。それでは非人間的でない主義とはなんなのでしょう?それは資本主義とどう異なるのでしょう?)。「資本主義」や「経済」はueyamakzkさんにとって二者択一の選択肢のうちの一つという議論の出発点ともいえるもののようですから、それらについての精確な知識は不可欠と思われますがいかがでしょうか。Bon voyage!さんの提案されたスキームを検討する際にも有用と思われます。かしこ。

JohannJohann 2004/04/22 14:43 こんにちは。僕は「自分は変えられない」を前提としていないのですが、「自分のために自分を変える」というのはどうすればよいですか。真剣に悩んでます。あと、dokushaさんが言ってた「死と真摯に向き合うことで、自分の生を受け入れる」はどのようにして可能ですか。ルサンチマンという言葉の射程の広さに、僕はいつもやられてしまいます。

JohannJohann 2004/04/22 14:50 >ueyamakzkさん、「ひきこもれ」という某思想家には呆れました。「母型論」という素晴らしい仕事も台無しです。投企としてのひきこもりを無責任にまき散らしても、何の救いにもならない。

JohannJohann 2004/04/22 15:09 投企というのは言い過ぎました。でも、「ひきこもってることがマイナスにならない職業がいつか見つかる」と。そうですか・・・としか言いようがないです。

HRHR 2004/04/22 15:44 自分のコアとなる感性は、よほどのことがないと変わらない。私の場合そんな気がします。そしてこの感性の部分こそが、自発的な行動を促す原動力・メインエンジンとなっているように思えます。これまでメインエンジンが使えず、補助エンジンで何とか乗り切ろうとしたのですが、どうもパワー不足です。何とかしてメインエンジンに点火したいですね。

HRHR 2004/04/22 15:59 続けて考え込んだせいか、肩が凝って、呼吸が浅くなってきました。一息入れよーっと( ^-^)_且~~。

dokushadokusha 2004/04/22 16:11 厳しい意見もあるみたいな。これは言葉を厳密に定義して、基準を共有してなされるいわゆる「議論」とは異なるのでは無いかと思えるんですよね。(わたしのところでやっているような他者批判なら当然議論の土俵に上らなければなりませんが)今は ueyamakzk 本人の中で、または彼の上に乗っかって、“それ”がどうなっているんだろうという探索のような気がするんですよね。ですので「資本主義」であるとか「共産主義」という言葉にしても、一般的な定義に準じた使い方であるとか、既に手垢にまみれてしまった何物かを現すというよりも、現に今彼の中である何物かを彼が表現するとそういう言葉が相応しい。ということなんじゃないかと思うんですよ。それをわたしたちがアレコレ解釈してみて彼の中の“それ”を同定していく、また彼自身も“それ”を同定していく。こういった作業なんじゃないんでしょうか?

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/22 17:25 まず、aiさんご指摘の通り、「自分を変える」ことの方が容易であるというのは間違いないでしょう。そのことが当面の引きこもりからの脱出に有効であることには疑う余地はありません。しかしながら、「仕事」を「サステイナブルに」やるという壁を越えるには、それだけではちょっと足りない気がするのです。ですが「自分のために自分を変えなさい」というようなメッセージには説得力があります。「俺が甘えているだけかもしれない」「俺が悪いだけかもしれない」という自問にとらわれて抜け出せずにいる私のような状態の人には、この言葉は効きすぎる劇薬です。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/22 17:25 実際には、持続する変化のためには「自分を変えるか、環境を変えるか」という問いから一旦離れる必要がありそうです。代わりに「自分と環境の関係性」に着目してみれば、「自分と環境がお互いのいいところを打ち消しあいながら共進化する悪循環」から、「自分と環境がお互いのいいところを引き出しあい活かしあいながら共進化する善循環」へと移行していくためにどうしたらいいか、という問いが導き出されます。その上で、「自分から変えていったほうがいい部分は自分から変わり、環境から変えていったほうがいい部分は環境からアプローチしていく」ということを、うまく息を合わせて「せーのっ」という感じでやること、それが悪循環から障壁を越えてサステイナブルな善循環へと移行するためのコツのような気がしています。HRさんがおっしゃる「メインエンジンに点火」するためのスターターとなるのは、そういった共同作業になると私は考えています。ウェディングケーキにナイフを入れるみたいに「これがお二方の初めての共同作業です」って感じで。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/22 17:27 そういう意味では、資本主義を何か固定した概念のようにとらえて「このクソ資本主義め」と言って自ら対立を深めてしまうよりは、「資本主義をどのように運用していくのか」というふうに問い立てしていったほうが有効なのではないかと私は思います。実は先述したポール・ホーケンの本には、「人に優しく自然に優しい資本主義の形とは一体どんなものかと考えて実際にやってみたら、結果的に人や自然に優しくない資本主義よりも経済的にも潤っちゃったよ」というような会社や共同体の事例がたくさん載っています。政治・交渉のプロセスとして、自分と環境が敵対するという前提から妥協案を練るよりも、「人や自然に優しくしたほうが結果的に儲かるんだってさ」というふうにして環境側に変化のモチベーションを与えつつ、自分もちゃっかりそれに便乗しちゃうようなやり方のほうが、したたかでスマートだし実現性も高そうだと私は考えていますが、いかがでしょう?

2004-04-20  起死回生に必要なもの

「順応力の育成」しかないのか 「順応力の育成」しかないのかを含むブックマーク

ヒキコモリ当事者を、「自己責任」や「ヘタレ」の論旨で罵倒しても始まらない。あるいは逆に、当事者が「自分で望んでこうなったんではないんです」と主張しても「真性/詐称」の区別がつかないし*1、「私でもやっていけそうな労働環境を」と懇願しても、選択肢は資本主義しかない。

どう転んでも生き残る道がないような気がしてくる。


苦しんでいる人間の存在を「社会の症候」と見るのは陳腐だが、有効性も残っていると思う。ただし、「社会が悪い」と言いつのっても何も変わらない。「ヒキコモリは資本主義の犠牲者だ」とばかり言うのも、「イデオロギー的主張のネタ」にされているようでいただけない。

目の前にある(あるいは自分が生きている)苦痛を、「何を温存し、何を変えるのか」「何が必要なのか」を考えるきっかけにすること。つまりまさに、苦痛を「問い」として受け止めること。

「今ある選択肢」の中から、自分が選べそうなもの・耐えられそうなものを徹底的に探す。どうしても見つからなかったら、自分で創るしかない。あるいは、変えるしかない。


自分という存在や「自分の必要とする選択肢」が社会のルーチンの中にないなら(その結果自分が脱社会的存在になっているなら)、環境に働きかけて自分の居場所(選択肢)を自力で作り出してゆくしかない。

だが厄介なことに、ヒキコモリはこうした能力の欠如から起こっている面が大きい。環境に働きかける政治力・交渉力・企画力*2のセンスは、まさに「社会的な能力」と言えるが、≪孤立≫を基調とするヒキコモリ当事者には、そうした能力やセンスが決定的に欠落している。 → 少なくとも、その育成が1つの課題になる。


「順応力を身につけさせる」援助はたくさんあるが、政治力・交渉力・企画力を養う支援はあまり聞かない*3

社会生活から脱落し、経済生活を送れなくなっている人間の苦痛を問題にしているのだから、それを「政治」という言葉に結びつけるのは不自然ではないと思うのだが、言葉として強すぎるだろうか*4


「必要なのはお金なのだから、『政治・交渉・企画』などとムズカシイことを言わずに、要するに『良き社員・良き商売人』を目指せばいいじゃないか」――というのも1意見だが、これだと「問い」が功利主義に回収されてしまい、ヒキコモリに必然的にともなう倫理的な問いが脱落してしまう。

ただ、以前に当ブログでも検討したが*5、「持続的に仕事がしていける状態に落ち着ければそれでいい」というのもまた確かだし、というよりはそこを基点にした方がいい。


「社会に自分の居場所を作る」ことは、「自分に必要な選択肢に市民権を与える」ことではないだろうか。それはすごく時間のかかる、地道な活動だと思う。――ところが、僕らは目の前の生活費を稼がねばならない。

さあどうするか。



「情報格差」&「脱・naive」 「情報格差」&「脱・naive」を含むブックマーク

今日、デジタルデバイド(digital divide)という言葉を知った。斎藤環さんによると、ヒキコモリ当事者でネットにアクセスしているのは少数派ということで、当ブログの情報もほとんどの当事者には届いていない、ということになる。

しかし、逆に言えばネット上に当事者たちにとって魅力的な情報やスペースが登場すれば、アクセスを動機づけることができるわけで。


難しいのは、「情報提供」をする人にも生活があるということ。貴重な情報を生産するのはそれ自体が労働だ、と考えれば対価が発生する必要があるし、さもないと提供者は暮らしていけない。ところが、情報提供者がネットで報酬を得ることはきわめて難しいし、そもそも有料では利用者が激減するだろう。

『波状言論』第7号には「はてな」代表の近藤淳也さんが登場していて(現在読み中)、地域通貨的に機能するはてなポイントについても触れられている。

ヒキコモリ当事者同士が経済的に交流する方法は何かないものだろうか――これについても、上記の「政治力・交渉力・企画力」の話になるわけですが。


それにしても、「情報を持っていない」というのは、現代では政治的にも経済的にも決定的なウイークポイントですよね・・・・。

ことほどさように、ヒキコモリ当事者には戦略的な意識が欠如してしまっている。4月16日のコメント欄で「naive」という言葉が問題になったが、「脱・ナイーヴ」というのは、ヒキコモリ当事者にとって喫緊の課題ではないだろうか。




*1:ここに、ヒキコモリが公的支援の対象になることの難しさがある。

*2:実はこうした能力を基礎づける最も重要な要因は≪欲望≫なのだが、ヒキコモリ当事者にはそれも欠落している。というわけで本当に致命的。 → 支援は「おせっかい」でさえある。僕は自分の欲望にしたがって動くしかない。

*3:「イデオロギー的洗脳」と「政治力を育む」はちがうと思う。

*4:あるいは、アカデミックには変な言葉遣いなのかな。

*5:ページの上の方から「失業者」で検索してみてください。

HRHR 2004/04/21 01:09 生活費を稼ぐためには、社会に何とか適応して働かなければならない。しかし一方で、自分に生きづらさを感じさせる今の社会の維持に手を貸したくはない。

HRHR 2004/04/21 01:16 そんな葛藤を繰り返す今日この頃です。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/21 03:29 自分がそこにいて心地よく、かつ自分以外の人には代替不可能なニッチを見つけたり作り出したりすることが重要で、そのためには政治力・交渉力・企画力が必要になってくると。はてさて、これって引きこもりの人だけの問題なのでしょうか? 私は、どれだけの大人の人がこういうことができているかと考えると、首を捻りたくなってしまいます。

HRHR 2004/04/21 19:37 単なる順応主義に現実はあっても真実はない。そんな何か乾いた感じがします。それを続けているうちに、自分の中の何かが干からびてくるような…。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/21 20:44 「精神的に干からびるか、肉体的に干からびるかしかない」というような前提を、どうしたらひっくり返せるか? というふうに考えたいものです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/22 00:28 翌日の本文で取り上げてみました。ありがとう。

2004-04-19  「自分の中の自分以上」

発熱とか関節痛とかで体はグダグダだが、書く作業に没頭するほうが楽。


「泣いてみますた」? 「泣いてみますた」?を含むブックマーク

『波状言論』の北田鼎談で、「動員メディアとしてのFLASHムービー」という話題があってとても興味深く*1、あらためて実例と元スレを見てみた。

「1=毒」という人の書き込みやそれをめぐる周囲の反応には、「ひきこもり」というテーマ周辺の事情に通じるところがある。追い詰められた本人、愛情をもって見守るが何もできない親、その親への罪悪感(申し訳なさ)、似た境遇にある共感者、「悲劇のヒーロー(ヒロイン)ぶるな」「甘えるな」という罵声、「世界にはもっと苦しんでいる人がいる」――云々。

「ヒキコモリ」についてどう考えるか、というのが思想の試金石の1つになり得ると思うのだが*2、このスレッドについてどう考えるか、ということでもいろいろ検証できるかも。

google:泣ける2ちゃんねる などを見ても、「泣ける」ことにはかなり需要があるみたい。詳しく見てないけど、「親が死ぬ」話が多いのかな。


僕自身は、いったんひとまず「感動」してみて、その感動してしまった地点から自分を検証してみる、という作業が生産的なように思うのだがどうでしょう。何かの作品や事件にショックを受け、雑念がなくなり、自分にとって本当に大事な問題が見えてくる、というのは大事な経験だと思うのですが。


作為性が見えるとシラケる。陳腐でも「素」だと感動する。――僕らは「素」になれないから苦しんでいる面がないか。何をやっても作為性の牢獄の中にしかいない、だからシラケて溜息をついていないか? 「自然に振る舞う」というのは、こんなにいかがわしいことはないわけで・・・・*3

目の前にある素朴な感動モノに肩をすくめることはできる。でも僕らはたぶん、どんなに「作為的」に振る舞っても、「素」の部分を残してしまうと思う*4。宮台真司氏の言う「あえて」の戦略は、「ニヤリ」を共有するようでいて、実はスキャンダラスな素の心情を共有するだけではないか?

自分の素の部分に素で向き合う逃げのきかなさ*5の方によっぽど共感するし、「アイロニカルにやる」という姿勢自体が最終的にはベタでしかないと思う。2ちゃんねるにも言えることだけど、アイロニカルな姿勢に潜んでいる素朴な態度のほうがよっぽど硬直している。


「素朴にやるのはカッコ悪いからアイロニカルにやる」ではなくて、「素朴であることそのものを洗練する」必要がないか。

「すぐに泣いてしまう」というのは、素朴であることへの免疫がない状態ではないか。

動員スキームとしてはアイロニーの方がいいということなんでしょうか。でもアイロニーが強まれば強まるほど、「素」であることへの免疫力は落ちませんか?



「負けてもいい」? 「負けてもいい」?を含むブックマーク

昨日、「『たたかう』というコミットを欲望できるか?」と書いたんだけど、これは要するに「負けたくない、と思えるか?」ということですね。

「負けてもいい、消えてもいい、何もなかったことにしたい」というのは、これはこれで強烈な願望だと思う。

でも、はたして自分が本当にそう思っているか。


「振られてもいいや」と思うと楽になる。 「振られたくない」と思うとつらくなる。

「死んでもいいや」と思うとどうでもいい。 「生きなくちゃ」と思うと恐くなる。

「自分のせいで親に迷惑が・・・・」を、気にするのかしないのか。

「この人を守りたい」と思えるか。そういう人がいるか。


もちろん、出世・収入・結婚などの「フツーの価値観」で勝ち負けを競うのはつまらないし、そんなものの呪縛からは早々に逃げ出した方がいい。でも、「生きていくことさえできない」とか「自分の大好きな人が苦しむ」という状況を目の前にして、「どっちでもいい」とは、・・・・・・言えるか?


あまりにも圧倒的な無力感に打ちひしがれたときには、消えるしかなくなるのかもしれない。


自分のたいせつな怒りや愛情の感覚に対して、「まだできることがあるかもしれない」と思えるときにのみ、「負けたくない、やれることをやりたい」と思うのか。


これは、「ヒキコモリ当事者」――ヘタレの中のヘタレ――である僕が、どうしてこの「ヒキコモリ」というテーマについてのみは長続きしているか、とも関係する。

このテーマが僕を殺しかねない*6ということにも気付いている。でも、ひょっとしたら僕は、一生このテーマから逃げられないのではないか。それは「意志の強さ」ではなく、何か別の要因ではないか。

そう考えて少々ゾッとしている。


自分自身の中の何かが、「許さない」と言っている。でも何をどう許さないのか。



今日の話、まだまだ続きます。




*1:僕も以前気付かないまま引用していた

*2:というようなことを斎藤環さんも言ってましたっけ。

*3:「笑わせる才能」と「感動させる才能」の近しさを思い出す。どちらも、才能のない人がやると作為的な感じしかしない。・・・・とか言ってて、案外すぐに笑ったり感動したりしているし、好きな友人との関係においてはとりわけそうだ。何なんだろう。

*4:この点、僕はラカンの言う「発話内容の主体」と「発話行為の主体」の区別を思い出したのですが、間違ってますか?

*5:東浩紀さんの言う「あえてベタにやる」

*6:文字通りの意味で

dokushadokusha 2004/04/20 00:57 アイロニーカルな姿勢も誠実に突き詰めれば「人生は死ぬ時までの暇つぶし」と自分の死を意識せざるを得なくなる。自分の死を真摯に受け止めた時に、自分の生もまた真摯に受け止めることができるのではないかな

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/20 18:25 「死が自分を見つめている」感じが僕には常にあります。それを必死に言語化しているというか。しかし、「素朴にアイロニカル」な人に僕が感じるのは、むしろ「自分の死を見ることを拒否する」姿勢です。いや、生物的な死は見ているんですが、自分を相対視する視点がぜんぜんない。▼少し前に「シニカル」という言葉が流行りましたが、「自分もどうせ死ぬし、何をやっても何も変わらない」という発想の人は、あんがい素朴に保守的だったりしないでしょうか。「あえてネタをやる」ばかりの人は、素朴に試行錯誤している人よりも純朴で進歩がないというか。▼自分の死だけは「ネタ」にならないんでしょうか。いや、誰かに向けて自分の死をネタとして提供することはできるでしょうが・・・・・というのが僕の連想ゲームでした。書き込みありがとうございます。

dokushadokusha 2004/04/20 19:30 例えば、上の「【独身男性】−それでも生きて行こう」 とかなんですが。これを見て共感できないことはないです。わたし自身もこのようなコンプレックスに苛まれた時期というのはありました。わたしの場合はなんのかんのと(主には幸運にも恵まれて)コンプレックスを克服してきてしまいましたが、(1:こういう「成功事例」を持ったヒトはそれを語る傾向にありますが、それは一つの事例でしかなく、すべてがそれで方がつくわけは無い。2:「克服してきてしまった」というスタンスも興味深いですね。「トラウマ探し」「被害者最強論」に近いものがあります。)彼は果たして「幸せになれるだろうか」という疑問が沸いてきます。結論だけを述べますが、「幸せ」とは「なる」ものではなく「感じる」物なのではないかと思っています。目の前の、今自分が持っている幸せに気づけないヒトは「幸せを手に入れて」も次の幸せを求めることでしょう。ちょっと論点がずれましたかね。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/20 19:47 「考え方を変えさえすれば全てオッケー」みたいな解釈万能論だとまずいですが、過剰にネガティヴな自意識は邪魔なだけですからね(といいつつ、打ちのめされた時には寝込むしかない、というのが僕の実情ですが)。「何を享受して、何を変えるのか」というフットワークが大事だと思うのですが、その判断センスは「孤立した人間」にはなかなか育たない。周囲に責められたり自責に苦しんだりで余裕のない時にはなおさらですね・・・・。

2004-04-18  「順応」ではなく、「たたかう」というコミットを欲望できる?

オフラインで出会ったかたも含め、メールありがとうございます。コメント欄以上にお返事しませんが、どうか悪く取らないでくださいね。ていうか、コメントもメールもすごく喜んでいます。もちろんリンクいただくのも。

書きたいことはいろいろあるんですが、時間なかったり体調が悪かったりであんまりアップできない。まずいな。


今日も、段落分けはしていますが、同じ一つの話だと思っています。れいによって思考メモです。



「自由に考える」 「自由に考える」を含むブックマーク

4月15日の id:noharra さん、cyotukan さんのコメントから刺激を受けて*1


非常に身もフタもない話なのですが、人間は思春期においては自己内部の衝動(実存)に突き動かされ、社会に出て以後は外的事情(生活の要請)に振り回される。もちろん思春期にも社会的要請はあるし、成人以後にも内的衝動はある。しかし、やはり年齢とともに「食っていかなければならない」が圧倒的要請になってきて・・・・。

さらにしつこく弁明しておけば、そもそも幼少期に生活の心配をしなくてすんでいた、という時点でものすごく恵まれていますよね。――つまり何が言いたいかというと、「生活の要請」に奴隷的に従うのがまず最初であって、そのレベルをクリアできずにいる間は「自由に考える」ことができない、ということです。


先日の「韓国会議レポート」でも少し触れましたが、ヒキコモリは、年齢が若く親に扶養能力がある間は「価値観」の問題ですみますが、時間経過とともに単純に「食っていけない」という話になる。

いや、・・・・よく考えれば、若い間の葛藤にも「自分は食っていけるのか」という経済的不安はあるし、高齢化しても「生きていてもしょうがない」などの実存的な悩みがあり得る(年齢差別や「履歴書の空白」への差別など、文化的・社会的排除の要因は大きいが)。


さきほどNHKの『TR』(トップランナー)という番組に歌手のUAが出ていて、

歌うことの意味なんて考えたくない

と言っていました。僕は彼女の楽曲的価値はまるでわかりませんが、幸せそうに歌う姿や伸びやかな声を聞いていると、「この人は、歌うために生まれてきたんだなぁ」とか思います。才能のある人だな、って。

本人は内的な幸福感にしたがって努力した、その結果社会に受け入れられた――不登校やヒキコモリの当事者はいつもそういう展開を夢見るのですが、親世代や社会人からは「甘えたこと言うな」と言われる。「この社会ではやりたいことを仕事にしている人なんてほとんどいないんだよ」と。「≪誰もやりたくないようなイヤなこと≫をやるからお金がもらえるんだ」とも*2


内的な衝動が、自分を外的な事情との出会いに導いてくれる人はいい。しかし、逆に「内的な事情ゆえに、外的な事情との齟齬を生んでしまう」人は?



「追い詰めることによる救済」のプロジェクト? 「追い詰めることによる救済」のプロジェクト?を含むブックマーク

少々抽象的なことを言えば、「生活の要請」を感じない状態にあっても、僕らには「身体」があるのだから、内的な事情による思考の規制は受けるので、「自由に考える」はありえない、とかいうことになるんでしょうか。

でもここで僕が考えたいのは、もう少し別のことです。


マルクス主義関連の文献で、次のような言葉を目にしたことがあります。「戦わなくても生きていけると考える奴は、要するに支配階級に属しているのだ」。発言の前後の文脈を忘れてしまったので、この「支配階級」という表現がどれほどの射程を持つものかわかりませんが、「戦わなければ生きていけない」という事情についてだけは、示唆的といえるかも*3


もちろん、ヒキコモリ当事者の置かれている経済事情がいつも「プロレタリア的」である、などと主張する気はありません*4。数年前に『世界がもし100人の村だったら』ISBN:4838713614 という本が話題になりましたが、あれを見れば「成人するまで親に食べさせてもらえた」というだけでものすごい富裕層ということになる。

ちなみに、ある「日本人ではない知人」からは、「ヒキコモリというのは、豊かな国の甘えだ」と言われたことがあります。「貧しい国では、ヒキコモルとはすなわち≪死≫だ」。これに関連した意見として、「日本がふたたび貧乏になればヒキコモリ問題は解決する」というのがある。


暴力によって個人を社会参加させる(「軍隊に入れろ!」*5)か、経済的貧困によって社会参加を余儀なくさせるか。

いずれにしても、現状における「社会参加の難しさ」「生きづらさ」については、いっさい考察されない。暴力や貧困によって苦しんでいる人をさらに追い詰め、そのプロジェクトからも脱落する人間は見捨てるしかない、と。

私たちには、もはやこんな貧しい選択肢しか残されていないのでしょうか。



「たたかう」という要因 「たたかう」という要因を含むブックマーク

この社会に居場所を獲得できた人は、たぶんどんな人でも「戦って」いるのではないでしょうか。そうして、ヒキコモリの人が居場所を失い、親に扶養される形でしか生きられなくなっているのは、要するに「負けた」ということではないのか。――だとすれば、「生きていく」ためだけでも、とにかく「たたかう」要因を生きなければ、どうしようもないのではないか。

最近は「負け犬」*6などという言葉が流行ったりして、「勝ち・負け」で人を見下して安心したい人がたくさんいるということでしょうか。そういう人たちから見れば、「ヒキコモリ」というのは究極の侮蔑対象なんでしょうか。

問題は、差別されたり追い詰められたりしている人間が自分たちの窮状について異議申し立てをしても、それ自体が「負け犬の遠吠え」「ルサンチマン」などと言われてしまうことです。改革要因としての≪怒り≫≪苦痛≫の要因が、社会的には≪嫉妬≫のスキームで処理されて終わってしまう。


マルクス主義や宗教や、あるいは安易なイデオロギーに依拠するのではない、自分オリジナルの「たたかい」、失地回復の試みが必要な気がしてなりません。――もちろん、「たたかう」ことそれ自体が一種の「コミット」であり、それがなくても生きられる状態が望ましいのですが、現実にはそれは不可能ではないか。ここまで実情がこじれてしまっては。

何を相手に、どういう論点・スタイルで戦わねばならないのか、はまだよくわかりません。でも、自分はいったい何に腹を立てているのか、なぜこんなことになってしまうのか、については、自分なりに洗練する必要がないでしょうか。そしてそのためには、言葉を交わしてゆく必要があるのでは。


北田暁大さんの「制度の他者」、宮台真司さんの「脱社会的存在」という言葉については、ヒキコモリという現象と関連があるとは思うものの、すでにそれぞれに固有の議論の文脈があるようです。


戦わねば生きていけない、としたら、「自由に考える」その内容も、その外的なシチュエーション(≪敵≫)に左右されるわけですよね・・・・。負けたまま、たたかえないまま、黙って死んでゆくのか、それともそうではない何かなのか・・・・。

「たたかう人」として自立せよ、ということなんでしょうか。――でもねぇ、会社の売上を伸ばすために戦う、とかいうのはともかく、得体の知れない(まさに「不気味な」)たたかいを画策しているとなったら、それだけで社会から排除される、あるいは雇用の対象ではなくなってしまうよね・・・・。その状況そのものと戦わねばならんということかな。

うう、ドンキホーテの香りが・・・・。

でもじゃあ、死ねということか。



今日の話、まだまだ続きます。




*1:ご期待通りのお返事ではないと思いますが・・・・。なんだか変化球ですみません。僕は基本的にこんなのばかりで。

*2:このエピソードは、「しごとふれあい広場アメリカ村」で出会った Sk さんから伺いました。ちなみに Sk さんからはこの他にもたくさん興味深い話を聞いています。できれば少しずつ紹介していきたいと思います。いいですよね?>Sk さん(みてるかな)

*3:しつこいようですが、僕は「金持ちを討て」とか言っているのではありませんよ。

*4:当事者の状態が、「主観的には≪絶対的貧困≫を強迫的に反復しているのではないか」というアイデアについては、先日触れてみました。

*5:先日の韓国レポートには書きませんでしたが、会議後に聞いた話によると、韓国では「従軍体験からもどって以後に閉じこもってしまう事例が多く報告されている」とのこと。どの程度いるのかの数字はわからないし、ネットでも調べられていないのですが。 → どなたか情報をご存知ではありませんか?

*6:30代で結婚していない女性をこう言うとか。若い女性を結婚・妊娠に向けて動員するための無自覚的プロパガンダなんでしょうか。ひどい話です。

HRHR 2004/04/19 13:51 はじめまして。上山さんの日記を見ていい刺激を受けています。現在のひきこもり支援というのは、当事者の思いとは関係なく、ただひきこもりを別のオプションに振り替えることに終始しているように思えます。「一日部屋にこもっているぐらいなら、外に出て散歩したら。」というのもその一例(もちろん健康にはいいのですが)だと思いますが、本質的な何かが欠けていると感じるのは私だけでしょうか?

mastuemastue 2004/04/19 16:58 ひきこもりについて考え、ひきこもりと接したりする事は、≪誰もやりたくないようなイヤなこと≫だと思いますか?

「どんなやりたい事の中にもイヤなことが絶対潜んでいるから、お金がもらえるんだ」という事もあるでしょうね。≪誰もやりたくないようなイヤなこと≫をやりたいという人も居ます。こういう言い方をしてしまうと混乱するかもしれませんが、やりたい事、やりたくない事、を完全に分けてしまおうという方が不自然かもしれません。

行政書士さんを招いてその辛さを聞いた時にそう言われました。かといって、不人気な仕事ってありますよね。その時思うのは、仕事が辛いんではなくて、職場が辛いんじゃなかろうかと思う時があります。ひきこもりが感じてしまう辛さとは、そちらの方が多いんじゃないでしょうか?でないと、僕がひきこもった原因はやりたかった仕事になってしまいます。多分職場だったんだと、今は思います。(詳細分からない方は申し訳ないです。長いので。)まぁ≪誰もやりたくないようなイヤな職場≫に居続けられるからお金がもらえるのかもしれません。

matsuematsue 2004/04/19 17:14 brタグをちょと間違えてしまったにゃ〜。僕は本当は「にゃ〜」などと付ける人間ですよw。matsueをmastueと間違えてるし。でも書込み方は把握しました!下の方はOKです。イタイ事でもまま大丈夫かな。結構楽しいです。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/19 18:18 matsueさんは「仕事が辛いんではなくて、職場が辛いんじゃなかろうか」とおっしゃいました。ひきこもりが、というふうに一般化できるかどうかは知りませんが、すごくリアルだと感じました。少なくとも私はそうです。ただし職種と職場環境には

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/19 18:21 (ごめんなさい途切れました)相関関係があるでしょうね。私を含め、このタイプの人には、「どうすれば自分が働いていける職場に出会えるか(もしくは作れるか)」というノウハウが必要だと思いますが、それがなかなか難しいところですね。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/19 19:14 HRさん、はじめまして。僕らに必要な「本質的な何か」とは何か?というところでみんな(当事者+支援者)の意見が分かれるんでしょうね。「そんなの必要ない」という意見まで含め。僕自身も、「単なる順応主義」以外にどんなことが考えられるだろう、と格闘している感じです。単に「順応せよ」というのでは、続けてやっていけないし、何か間違ってる気がするので・・・・。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/19 19:14 matsue さん、どうも。「入りたい業界とやりたくない業務」という問題として、Sk さんとかと話しましたね。この件は、また本文で取り上げようと思います。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/19 19:14 Bon voyage! さん、そう、まさに「続けて働いてゆける職場」とはどんなものか、どうやったら作れるか、というのは決定的な問題だと思います。そういうものの実現のために、僕ら個々人に何ができるか、というのが難しいわけですが、「ないものねだり」していてもしょうがないですから・・・・。

はしはたはしはた 2004/04/20 03:58 続けて働ける職場の話なんですが、今からおよそ1年前、2003/04/24 に仕事についての自分の希望を書いてみて NHKひきこもりサポートキャンペーン(現ひきこもり相談室)に投稿したら、掲示板が増えたり激怒人が出てきたりしました(Let’s talk フリーテーマ465参照)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/20 19:30 「自分で作る」「自分で変える」を模索するしかなさそうですね・・・・

2004-04-17  「自由に考える」 このエントリーを含むブックマーク

今日は大阪の「淡路プラッツ」にて「デビューネット」*1があったのですが、朝からいつもの体調不良*2で欠席。でも参加者のみなさんは新機軸のスタイルで議論を交わしたようです。


4月15日のコメント欄にいただいた書き込み、いくつか大事なテーマが潜んでいるように思うのですが(たとえば「自由に考える」*3)、またおいおい。


勉強のための本も試験的にいくつか注文してみたのですが、読めるかどうか。


今日はこれにて。おやすみなさい・・・・。




*1「お願いとお誘い」をご参照ください。

*2:発熱+下痢。お腹が下ると体力消耗が一気に加速する・・・。

*3:「自由に考え」たくても、僕らはいつの間にか「生活の必要」によって環境に対して奴隷的にものを考えざるを得なくなる、など。「自由を考える」と「自由に考える」。

dokushadokusha 2004/04/18 20:15 すいません、 http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20040418#p3 についてどう思われますか?

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/18 21:39 ええと、僕はこれまでの議論をフォローしていないし、突然固有名詞が出てきても何のことやら・・・・。「道徳的総会屋」「儀礼的無関心」という言葉そのものには、「ヒキコモリ当事者への態度」との関連で興味はありますけれども。そんなところです。

dokushadokusha 2004/04/18 22:15 すいません、波状言論を見ておりませんので見られた方と思いまして。
一般的な命名であって特定個人を想定したものではないと思うのですが、どうなんだろうかなと。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/18 22:36 固有名詞の事情を知らない一読者としては、一般的な問題設定として受け取っただけでしたが・・・・。

2004-04-16  「孤立した人間にとっての政治」 このエントリーを含むブックマーク

戦時総動員みたいな話になったら、いちばん激しく糾弾されるのはヒキコモリじゃないだろうか。

「降りることを許さない」という同調圧力は右にも左にも存在する。

「お金さえあれば好きに生きていい」という平和時でさえ「ヒキコモリは許さん」と言われるのだから、いざとなったらどんなことになるか。

さらに、引きこもっている人は法律的・政治的言説にからきし弱い。閉じこもっている人間の言葉のダメさ加減は致命的だ。自己弁護さえできない。


僕が震災時に経験したように、引きこもっている人が非常事態下に活動的になる可能性もある。当事者の多くは、平時の日常において「正義感ゆえの挫折と排除」に苦しんでいることが多い*1。非常事態下には、日常生活にはあり得ないような正義感の活躍の場がある。

逆に、日常生活的な「責任」を引き受けるのは苦手な人が多い。応答責任に過剰に強迫的な反応を示す。


引きこもっている人間は、何も仕事を引き受けていなくても――というよりそれゆえに――、慢性的に「非常事態」を生きている。「on/off」がない*2。やっとの思いで外界に語りかけるときには、あまりにも無邪気で呑気に見えたりするのだが。


当事者は社会的・経済的に挫折しており、「連帯」などはできない人たちばかり。孤立した人間として「極端な政治的弱者」なのだが、政治的コミットの能力もない。

「政治的に振る舞わなければ生きられない」というのは不幸だし、それ自体が「降りるなゲーム」の強制でさえある。しかし、黙って放置していたら死ぬしかないのではないか。

「働くことができない」というのは、それ自体ですでに政治的弱者の問題ではないか。


「孤立した人間にとっての政治」ということを、真剣に考えるべきではないか。




*1:世間知らずで、正義感ゆえに傷つく――「ナイーヴ naive」が罵倒語であることを思い出す。

*2:このあたりはPTSDと似た事情かもしれない。ただし、「引きこもっている人の全てがPTSD」と主張しているわけではない。

はしはたはしはた 2004/04/18 14:38 はじめましてー。はしはたと申します。naiveって罵倒語なのですか、はじめて知りました。しかし日本以外(?)では罵倒語である、と言われても不思議には感じません。むしろそのうち日本でも罵倒語になったりする可能性も否定できなさそうな気がします。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/18 14:54 はじめましてー。「naive」の反対語ってなんでしょね。「無神経」ではないし。「したたか」かな。

matsuematsue 2004/04/18 17:56 ふ〜やっとココまで来ました。僕的には結構難しい語彙だらけですが、勉強に利用させてもらってます。機会があれば友人らにも紹介してイイでしょうか?良い意味での日常の議論の材料にしたいと思っとります。さて。naiveはつまり、英語圏では「おバカ、世間知らず、騙されやすい」の意味という事も入ってますね?日本でナイーブに相当するのは、あちらではsensitiveだそうで。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/18 18:04 どうも〜>matsue さん。お友達に紹介していただくのはとってもうれしいです。「議論のネタ」を提供できるのがなによりなので。ところで「sensitive な人間は生きにくい」という言い方をしないで自分なりのしたたかさを身につけるにはどうしたらいいだろう、とか考えるわけです。

bmpbmp 2004/04/18 18:05 naiveは元は素朴な かな 反対はあからさまな、とかになるのかな。 罵倒語のnaiveは、緻密に考えていない、単純馬鹿、って感じですかね。自然である事の反対は人工か、無か、創造か、 という岐路なのかな、微妙な差異を見つけ出していく作業が求められてるんでしょうね。何かを一まとめにこういうものだというレッテルを張れない。

bmpbmp 2004/04/18 18:24 自分や他人の行為が引き起こす(失敗・裏切り・嘘から)孤独感と恐れに怯えて人との関係を結べなくなった人、 真っ暗で先(未来・将来)が見えない恐さで、その場を動けないでいる人 何を言っても理解されなかった事の反発から、逆に自分自身が他人を理解する事を放棄して閉じこもった人、またさらにそういう負い目に恥を感じて何もできずに居る人。 引きこもりってのは誰の心にも「ある」理解不能な「何か」に対する怯え(一過性の状況・状態) の事で人の事じゃない。 引きこもりが「病気」なのだとしたら、病気の根源は「引きこもり」に「無理解」 ただそれだけじゃないかなぁと最近思うようになりました。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/18 22:13 「理解できない何かへのおびえ」というのは示唆的なご指摘です。

matsuematsue 2004/04/19 17:06 辞書的に当たっているかどうかは分かりませんが、既にueyamakzkさんが《センシティヴ》の反対語として《したたかさ》を出してますから、したたかさを身に付ける程に「sensitiveな人間は生きにくい」をある意味で言ってしまう事になるかも分かりません。が、比較対象をして自分は誰よりマシだと言えば、それなりに既にしたたかにもなってしまいます。日本の多くの人にとって救いでもあります。
(sensitiveを無理承知で一言にすれば、《弱さ》にしといて)「弱くありながらしたたか」というポジション。あり得ない事もないです。人間のタイプはグラデーションの様に微妙な差異でしか変わりませんから、気付いた時にはになりますが、「したたかでしたたか」な人間と比べればueyamakzkさんは《sensitive》な人のまま《したたか》です。
《したたか》は《強か》で、強さを表してます。ueyamakzkさんなりのしたたかさを身につけるという事は、ueyamakzkさんのsensitiveを武器に変えて行く事かもしれません。既にueyamakzkさんはしたたかさを身につけるために実行していると見えます。経済性という面でまだしたたかさなど実行出来てない、と思うかもしれませんが…。どうやって経済性を、という部分は既に命題として共有しながら1ヶ月程度経ちますが、もう少し中期的に少しづつ累積させて行く事にしましょう。常に今をもってその橋は既に少しづつ立て掛けられてるという気がするのですが…。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/19 19:18 励ましの言葉どうもありがとう。この「naive/sensitive」の件は、また形を変えて本文で取り上げてみます。他の方もご意見があったら聞かせてください。

はしはたはしはた 2004/04/20 03:21 今さら追加でなんですが、

はしはたはしはた 2004/04/20 03:22 「正義感ゆえの挫折と排除」っていうのにはちょっと感じるものがありました。どうっていわれるとうまく言えないのですが。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/24 02:49 いや、ありがとう。うれしいです。

2004-04-15  goal と aim

うーん うーんを含むブックマーク

こんにちは、上山です。


僕はいったい自分の言葉にどんな機能を持たせようとしているのか、考え込んでしまった。


4年前、引きこもり当事者の心理事情をなるだけ的確に説明する作業を求められたのが始まりだった。でも、当事者の中にも僕を攻撃してくる人はいる。あたりまえだけど、「引きこもり当事者」といってもいろんな人がいるわけで。「私の身近にはこんなに許し難いヒキコモリがいる。あなたはそんな人まで弁護するんですか」*1などと言われても困る。「何をやっても上山が尻拭いしてくれる」と思われても困る。

「ヒキコモリなるもの」はない。閉じこもらざるを得ない一人一人の人間がいるだけだ。


僕としては、「ひきこもり」という現象(およびその単語)を通じて自分の人間関係や仕事――生活そのもの――を作り出し、生きている時間を豊かにしようとするだけだ。僕自身が、なるだけ元気になろうとすること。そのことで、元気になったり楽になったりする人が少しでもいてくれたらいい。――そのくらいのスタンスで充分なんだと思う。

単純な話、僕自身がもたない。


「ヒキコモリのヒの字も聞きたくない」という状態に慢性的にある今の僕は、たぶんこの現象との付き合い方を変えなければならないんだと思う。

自分自身が元気になり、お金をかせぎ、楽しく生きていくためには、何をすべきか。

「自分を犠牲にしてヒキコモリのためにできることを考えねば」というのは、何か間違ってる。というか、続かない。つらすぎる。


身も蓋もないが、僕が餓死の話をするのは、自分自身がそうなる可能性をひしひしと感じているからだ。就労の話を思いつめてするのは、自分が生きていけないかもしれない、と思っているからだ。

ヒキコモリについて考えていても、そのこと自体はほとんどお金にならない。自分にできる活動を具体的に、それこそ目の前で取り組める活動として企画せねばならない。時間はすぐに消えていって、僕はすぐに干からびる。等身大の自分で勝負できる話を。


同い年の鷺沢萠氏が自死のニュース、その他いろいろ。「とても生きていけないかも」という感覚とともに、自分の生きる時間のディテールを有限なものとして実感する。生活時間の、手ざわりのようなもの。

自分のせいで家族がつらい思いをしている、という耐えられない事実に打開策を。そのために必要なものは。


先日から社会学系の議論に興味を向けているが、そこで読書リストに名前の挙がる著者たちは、みな大学に勤務している。つまり「勉強し、考え、情報発信する」ことでお金を稼ぐ立場にいる方たち。

僕はいくら考えても、勉強しても、お金にはならない。

単純な話、たとえば出版計画との関係において勉強し、考える、という作業にしないと。つまり「事業の一環としての勉強」でなければ。司法試験の勉強をするように。


いや、それとも・・・・。ヒキコモリを巡る読書においては、僕は「仕事」という意識を持たない方がいいのか。ひとまず、友人と同じテーマを巡って議論するのはとても楽しい。

「仕事」としては、僕はヒキコモリというテーマを離れるべきなんだろうか。

ある友人からは繰り返しいわれている。「ヒキコモリについては副業的に考えて、生活費を稼ぐのはぜんぜん関係ない仕事にしたら? 上山くん、潰れちゃうよ」

でも・・・・。自分にとって致命的に重要なテーマであることは間違いなくて。


価値のある情報の創造は難しい。それができないのであれば、凡庸な情報を浴びながら生きるための労働に従事すること。

僕はたぶん、「変える」作業に従事しなければならないのだと思う。

でも「変える」って何を。どうやって。



「降りずにはいられない」人として 「降りずにはいられない」人としてを含むブックマーク

昨日のコメント欄に、id:Ririka さんが大事な指摘をくださってる。

 「価値観(内面生活)においては過剰なまでに『制度内的』・『適応的』である」のに、どうして欲望が希薄・困難なんだろう?

強迫的な適応努力が、すべてのエネルギーを吸い尽くすんじゃないだろうか。あるいは欲望のためには、ある程度のイレギュラーな要因が必要なんじゃないか。

 北田本のギュゲスは、「不正を行なう」ことに関心があるのではなく、「自己利益を充足したいという欲求・動機づけ」をもたない、「フリーライドという形ですら制度にコミットしようとはしない」、懐疑論者、として描かれています。

北田本でギュゲスがどう描かれているか、はもちろん本を参照しなければどうしようもないが(僕は本を入手していない)、ここで id:Ririka さんが説明してくださっている問題設定自体は「ひきこもり」に深く関係すると思う。

僕としては、具体的にコミットを動機づけること、あるいはその能力(capability*2)を具体的に生み出すことに興味がある。環境と個人の両方に注目しながら、何をどう変えなければならないのか。何を、生み出さなければならないのか。


内的な動機と外的なシチュエーションとが幸福な結婚をなしたとき、そこに必然性が生まれる。「ねばならない」に悦びが宿る。


「参加せねばならない」というテーゼがまずありき、なのではない。動機づけに失敗すれば、どんなコミットも苦役になる。「コミットせよ」は強制になる。正当化できない。

というところで、≪動機づける≫が最も重要なテーマとして浮かび上がってくる。他人を動機づけることのできない苛立ちが説教や暴力になり、自分を動機づけることのできない幻滅が自壊をうむ。


今のあなたにとって、自分を動機づけるキーワードは何だろう。

僕の場合いまは 「つきあう」*3「かえる」*4など。

うーん。動詞だな。名詞がくる人はアディクション系なのかな。「かわいい」とかの形容詞もありか。「ゆっくり」(副詞)だとスローライフとか。

要するに僕は動詞系の人間だということか。


話がずれてしまったが、大事な問題提起ありがとう>id:Ririka さん。



人を動機づけることができる、というのは偉大な能力だ。

たとえば、一つの魅力的な学問的成果が、その学問ジャンルに多くの人を巻き込んだりするわけだよね。

うーん・・・・。「等身大の動機づけ」というのが難しいのかもしれない。「タイムマシンを作る」というのは魅力的な企てだが、ちっとも等身大じゃない。できもしないことで動機づけても空しい。かといって、「できること」の枠内には魅力的なことがない。

そもそも「生きること」が魅力的なことではなく、残された時間のすべては苦痛一色にしか思えない。つまり動機づけを失っているので、「生きること」へのコミットが苦役にしかならない・・・・というような*5


とにかく、自分にとって切実だと思うことについてたくさん言葉を交わしてみること。その作業の中から生まれてくるものがたくさんあると思うのですが。

「goal」(最終目的地)と「aim」(プロセス自体が自己目的)のちがい。たぶん両方要る。

「goal」も「aim」も、たぶん一人で考えていては明確にならない。


コミットしない、あるいはできない人間として、どんなふうに生きていけるのか、あるいはできないのか。

できるためには、どんな条件が必要なのか。



今日あつかったテーマ、これからも考えます。




*1:実際にあるイベントでされた質問。

*2:アマルティア・センの本はまだ読んでいません。ここではふつうの英単語として使っています。

*3:気に入った知人とのつきあいが続いてゆくこと。つきあいたいなぁ、と思える相手に出会えるよろこび。

*4:「変える」と「帰る」。「買える」もすこし。

*5:このあたりの話に『波状言論』第3・4号の宮台鼎談が触れていて、とても興味深い。バックナンバー入手可能のようです。

cyotukancyotukan 2004/04/16 14:07 『「自分を犠牲にしてヒキコモリのためにできることを考えねば」というのは、何か間違ってる。というか、続かない。つらすぎる。』その通りだと思う。使命感を持つ事がそれほど正しい事だとは思わない。仮に正しいとしても、辛い想いまでしてやる事ではないと思う。これ以上殉教者の人生を送る必要はないと思う。個人の幸福を考えたら 『自分自身が元気になり、お金をかせぎ、楽しく生きていくためには、何をすべきか。』という方へシフトした方が個人として幸せだと思う。  それから欲望について・・・。欲望が希薄なのでしょうか?それとも欲望はあるけれども、分不相応・能力不足と諦めてしまっているのでしょうか?欲望を自覚し、表現し、追い求める事への抵抗(ストッパー)が外れない状態なのでしょうか?思いきりアクセルだけ踏み込んでいて、クラッチが繋げない状態なのでしょうか?欲望のクラッチを「コミット」とか「この世界との、他者との接続」と呼ぶのでしょうか?

hallcinhallcin 2004/04/16 18:49 動詞形の人間と名詞・形容詞形の人間って発想はオモロいですね。これに時制を絡めたらさらに面白くなる??

noharranoharra 2004/04/16 22:54 「僕はいくら考えても、勉強しても、お金にはならない。単純な話、たとえば出版計画との関係において勉強し、考える、という作業にしないと。」私もそうですがそんなことで悩んだことは一度もありません。そんなことは思いつめるべきことではないのでは?お金のためという目的がなければ人間は自由です。何を考えるべきか?、といった茫漠とした問いを絶対的な自由=不安のなかで考えるのが、カッコイイことだと思います。辛いことですが。始めてで偉そうに書き込んですみません。野原でした。

miyagimiyagi 2004/04/16 23:08 こんばんは。突然ですが、僕は松本零士さんの漫画が好きです。先生の作品を読むと、人の命について考え込んでしまいます。僕は、哲学を勉強したことがないのでよく分かりませんが、松本先生の作品には哲学的な雰囲気があるように思います。信念と言ったほうが良いのでしょうか。先生は、今年福祉系の大学で、特任教授に就いたそうです。その学科は、アニメやCGを福祉の分野で使うことを研究するらしいのです。ひきこもりが福祉の対象かどうかという疑問もあると思います。僕は、社会学についてもどういう学問か知らないのですが、漫画と福祉と社会学で何か結びつけられないでしょうか?

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/17 03:24 みなさん、書き込みありがとうございます(野原さんは初めまして)。ウレシイ!

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/18 18:15 hallcin さん、ぜひその「時制を絡めた」話、聞かせて(笑)

2004-04-14  「内部的存在は誰か」 / 「分離と接続」

ギュゲス、あるいは症候的脱落者 → ≪内部と外部≫ ギュゲス、あるいは症候的脱落者 → ≪内部と外部≫を含むブックマーク

こんにちは、はてな大学で勉強中の上山です。

4月12日のコメント欄に、id:Ririka さんが『責任と正義』(ISBN:4326601604)からの抜書きをして下さっています(ありがとう!*1)。


「ギュゲスの指輪」については、たとえばここを参照ください。要するに、「透明人間ツール」ですね。

 人々は《不正がばれたら困る》と考えてしぶしぶ道徳に従っているのであり、もし不正がばれないのであれば誰でも不正を行なう方が得だと考えるだろう

「姿を消すことができるならみんなそうする」、つまり「降り」られるなら降りるし、見つからないなら悪さもする(「道徳を守ろう」ゲームから降りる)、と。その「姿を消した=降りた」人たちを「制度の他者」・「脱社会的存在」と言うようなのだが、引きこもりについて考える場合には少々事情がよじれている。


ヒキコモリ当事者は、経済・社会生活を送れないという意味では「制度の他者」だが、価値観(内面生活)においては過剰なまでに「制度内的」・「適応的」であることが多い。「人間はこう生きなければならない」「男は〜でなければ」といった規範意識がきわめて強烈なのだ。 → 意識においてはきわめて「制度内的」なのに(というよりも「それゆえに」?)、具体行動においてはなぜか「脱社会的」になってしまう、という事情。

★意識的・自覚的な損得計算に基づいた行動選択としての「降りる」ではなくて、「can't help quitting」のようなもの。いわば「症候的脱落」。

ただ、もちろん「自覚的選択」なのか「望まざる選択」なのか、というのは微妙な問題なわけで。


「働かなければならない」「人間関係を持たねばならない」といった規範が社会を覆い尽くすのはたまらんが、こうした議論から見えてきたのは≪内/外≫のゲーム。

どこかでジジェクが、「現代世界では、誰もが『内側に入らなければ』というゲーム巻き込まれており、そのためのバトルがあちこちで展開されている」*2という趣旨の発言をしていて、ずっと気になっていたのを思い出した。彼は現代資本主義について語っていたのだと思うが、考えてみると「内/外」というバトルはいろんな形で見出せる。思いつくまま列挙してみると・・・・*3



政治 政治を含むブックマーク

  • 国際政治は、「誰が制度の他者か」というバトルなんでしょうか。*4
    • 「≪世界を覆い尽くそうとする資本主義≫vs≪イスラム≫」という構図解説をたまに耳にするんですが、どこまで信じていいのやら。


  • 日の丸・君が代問題で教職員が処分された。
    • 僕はこの話、「文化的忠誠」の話と「行政登録」の話をゴッチャにしていると思うのだが。行政登録上「日本人である」ことは、イコール「日の丸・天皇を信仰する」ことを意味しないはず。
    • 僕は日本食や和室が好きだが、それが「信仰か」と言われるととまどう。ましてや「日本人なら信仰しろ」は暴力としか思えない。
    • 「日本が侵略(攻撃)を受けたらどうするのか」というのも、工学的なセキュリティのイメージで考える。「愛国心」「日本人なら」みたいな「降りるなゲーム」は、動員スキームとして今でも有効なんだろうか。
    • サッカーのワールドカップやオリンピックを観ていると、やはりいつの間にか日本を応援している。でもそれは、高校野球でなんとなく自分のいる県の学校を応援するのと変わらない。
    • 僕は関西に住んでいるが、「関西人なら阪神タイガースを応援するのが当たり前やろ」と絡んでくる連中にはウンザリ。
    • 完全に社会から排除されていた個人が、「天皇陛下万歳」で「内側」に入れる、という事情もあるんだろうか。
    • 拉致事件や人質事件に関連して、20代の人が「非国民」という言葉を当たり前に使うのをネットやオフラインで何度か目撃した。これって少数派なんだろうか。それとも大きなトレンドなんだろうか。ものすごく不穏なものを感じる。


  • イラク開戦以来の米兵死者は600人を越えた(!)というが、そのニュースよりも「日本人の人質が3人」という方が僕らはショックを受ける。
    • ジジェクの「社会的想像界」という言葉を思い出す。人質問題にはもちろんいろんな要因があって難しいのだが、「私たちと同じ日本人が」という感情移入的要因は無視できない。「外側」のアメリカ人が何人死んでも大丈夫だが、「内側」の日本人が人質になるのは耐えられない、という事実。
    • 同じ事情は、他のいろいろな社会問題や、あるいはもっと個人レベルの話にも言えるかも。TVのニュースで赤の他人の殺人事件を聞いても大丈夫だが、身近な人間が事故で重傷を負えば耐えられない。客観的事実として「死んでいるほうが重大だろう」という説得は、コンスタティヴには正しくとも、パフォーマティヴには無力だ。
    • そういう感情面での事情とは別に、やはり「客観的な」、いわば行政登録レベルの理解も必要だと感じる。それは「公私を分けて考える」ということだろうか。あるいは、「自分を相対視する」ことだろうか。政治家や公人に要求されるのはそういう姿勢だろうか。いや、でも「代表する」(represent)という要因もあって・・・・。(混乱)



文化的排除と経済的排除*5 文化的排除と経済的排除*5を含むブックマーク

  • 「引きこもりの問題はカネさえあれば解決する」という言い分を聞くことがある。
    • 成熟した資本主義社会である日本では、文化的に「脱社会的」であっても、お金さえ持っていれば、経済的には制度内の存在でいられる(という意味だろう)。
    • 「カネさえあれば」というのだが、それは「タケコプターさえあれば」という仮定に近い。多くの自殺者は経済的理由によって死んでいる。彼らだって「カネさえあれば」死なずにすんだのだ。
    • 就労の局面においては、文化的要因から「脱社会的存在」にさせられてしまうことが多い。年齢差別や「履歴書の空白」など。「経済的効率性」は、文化的排除の口実となることがある → 逆に言えば、文化的排除は経済的実績によって覆すしかないのかもしれない。


  • 「社会の外に追いやられた存在=弱者」について。
    • 社会保障というのは、放っておけば競争社会の中で「脱社会的存在」になってしまう弱者を、ふたたび「社会」のスキームの中に繰り込むプロジェクトだろうか。
    • 杉田さんの言う「弱者が弱者を叩く」構図も、「俺とお前でどっちが内部的存在か」という椅子取りゲームみたいなものか。最初から内部的存在たりえている人はそういう惨めなバトルをしないですむわけだが、「仕事をしないで生きられる」人以外はつねに脱落の恐怖に怯えているし、実は資産家といえども、その資産家としての生き方を「社会に承認してもらう=内部的存在として扱ってもらう」必要があるのではないか。
    • 前段とも関係するが、とにかく「経済的脱落者」にならないことが最優先課題だと思える。


  • 引きこもりは、「脱落者が親に保護されている」状態*6
    • 家を追い出せば、それは単純に「保護されない弱者」として排除され、死に近づく*7。それは「だから同情してくれ」というのではなく、「別の形の社会問題になるだけ」ということ。
    • 「自分は社会から排除された存在だ」という当事者の意識は、おそらく必要以上に肥大している。もちろん、イジメ被害や経済的挫折からくる絶望ゆえだろうが、「必要以上に」肥大させる必要はない → その絶望的自意識をつつきまわして楽しむのがヒキコモリ批判者たちだろう。
    • 実は、引きこもり当事者を軽蔑し排除する機運が高まれば、当事者の絶望は現実的なものとなる。文化的排除は、明らかに経済的排除につながるからだ。

「競争を激化して脱落者は切り捨てる」のか、それとも「なるだけ脱落者の出ないシステムを目指す」のか。 → これはそのまま政策論争ではないのか?



「味方のつくりかた」 「味方のつくりかた」を含むブックマーク

「社会的脱落者には味方がいない」という問題。

  • 引きこもっている人間が最も切望するのは「味方」という存在でありその感覚だと思うが、社会から脱落してしまい、明確な仕事や活動を持たない人間が「味方」を得ることはとても難しい。課題共有がないからだ。
  • じつは「課題共有ができない」ということが、僕らの生きづらさの根幹にあるような気がするんですが、いかがでしょうか。
  • 「日本人」「引きこもり」といった共同体的アイデンティファイによってではなく、「課題共有」による開放系の味方作りが重要だと思うのですがいかがですか。



「絶対的貧困」 「絶対的貧困」を含むブックマーク

あまり言うと、また「左翼だ」とか安易なレッテル貼られそうですが・・・。

  • マルクスは、「ー分という労働力商品を自由に売りさばける △△蕕罎誅働条件から切り離されている」という「2重の自由」に陥ったプロレタリアを≪絶対的貧困≫という言葉で形容していたと思う。つまり「外部に追いやられた存在」とその「再内部化」のダイナミズムに希望を見出していたということか。
    • しかし労働者は(おそらく左翼系の社会運動のせいもあって)マルクスの言うような形では「絶対的貧困」に追い込まれず、だから転覆要因にはならなかった、というのは間違った理解なんでしょうか。


  • 引きこもり当事者は親に扶養されているので、餓死の段階はともかく現在の経済事情としてはまさか「プロレタリア」と比較はできないのですが、当事者の主観事情を説明するのに、「絶対的貧困」というマルクスの言葉はとても魅力的に見えます。
  • 外界の条件としての「主体的労働力と客体的労働条件の分離」*8が内面化された、と考えるのはあまりにもお決まりの発想?*9


  • 「じゃあなぜ日本に突出して多いか?」となりますが・・・・。
    • コジェーヴが資本主義爛熟以後の世界を「アメリカ的動物」と「日本的スノビズム*10」と表現していましたが、今の日本で元気に生きているのが「動物的」*11な人たちだとすれば、引きこもってしまう人たちというのは、「絶対的貧困」を空虚な形式として強迫的に反復している人達なのではないでしょうか。



自由――「分離と接続」 自由――「分離と接続」を含むブックマーク

立花隆『宇宙からの帰還』ISBN:4122012325 にあった、バックミンスター・フラー*12の印象的な言葉 : 「それぞれの人にとって環境とは、『私を除いて存在する全て』であるにちがいない。/それに対して宇宙は、『私を含んで存在する全て』であるにちがいない。*13

  • 「水の中に水があるように存在する」動物*14と違って、人間は世界から分離されている。
    • 再接続を試みるときに、「課題共有」と「労働」の局面を強調する僕は「象徴界的」であり、「自然との一体感」「共同体感情」などを強調するのは「連続性の想像的回復」ということか。
    • 東浩紀さんが「アディクション」を強調されていたのがとても印象的。
  • 「分離 → 連続性の回復」の再生産が人生の全てだと思うのですが、分離のされ方が「運命」として各人に与えられるとして、「再接続の作法・方法」にこそ、各人の掛け金があるということか。(経済的困窮は、僕らから考える余裕を奪う。)


  • 「自由」の問題を、「分離と接続*15」の問題として考えるのは変でしょうか。
    • 「降りられない社会」は、「降りたが最後 再接続のチャンスはない」ということでしょう(共産圏とかファシズムとか共同体主義とか)。
  • 僕らにとっていちばん切実なのは、日本の社会では一旦ドロップアウトした人間は極端に再復帰しにくいということです。つまり日本は、就労の問題において「降りようにも降りられない」社会だといえる。
    • 「降りる自由」は、人文的にはもちろんですが、何よりも経済的に実現すべきではないでしょうか。「人文的な≪降りる自由≫の条件は、経済的な≪降りる自由≫である」というのは言えませんか?



ずるずる。 ずるずる。を含むブックマーク

頭から湯気が出そうなので(笑)、今日はこれぐらいにしておきます。

要するに、「問いを明確にする」作業だったわけですが、僕のメモのどこが稚拙でどこを伸ばすべきなのかを、勉強しながら少しずつ考えていきたいと思います。部分的にでも、課題を共有してくださる方がいるとうれしいのですが・・・・。






誰のルサンチマン? 誰のルサンチマン?を含むブックマーク

僕の「嫉妬」についての発言を、「ルサンチマンの典型」と受け止めた方がいました。

うーん。正直、誤解としか思えません。軽蔑されてしまったようで、放置すべきなのかもしれませんが、「ひきこもり」へのリアクションとしては典型的かもしれないので、いちおういくつか反論を試みてみますね。

 親の金で暮らしている人間がみな「裕福な人たち」なのでもないし、まして「楽しく人生を謳歌している」わけでもない。

いや、それは当たり前なんですが、僕は「働く必要がないほど裕福で、かつ楽しく人生を謳歌している人たち」に限定して喋っているわけで・・・・。「親の金で生きている人」のうち、「裕福で楽しんでいる人」と、「貧乏で苦しんでいる人」(ヒキコモリ)を対比させて、「どうして後者ばかりが悪く言われるんだろう」と言ったわけです。

この点がすれ違ってしまっているので、以下に言われていることは全てすれ違いです。


「社会に出て傷つき苦しみながらも頑張っている尊敬すべき人達」を持ち出して引きこもり当事者を侮辱する、というのは、説教スキームとしてはあまりに陳腐ではないでしょうか。――というより、実はその侮辱図式は引きこもり当事者の内面にこそ最も強烈に存在するのです。「みんな社会に出て頑張っているのに、自分はなんてクズなんだ」。


「ルサンチマン」というのは、たしかに引きこもり当事者に付いて離れないテーマだと思いますが*16、僕の発言に関して言うならば、むしろ問題にしなければならないのは「引きこもり当事者に嫉妬する人たちのルサンチマン」じゃないでしょうか。

「傷つき苦しみながらも頑張っている友人たち」を敬愛するのは僕も同じです。そして、彼らと付き合えることに誇りと感謝を感じていることも。また、「裕福に幸福に生きている人たち」が軽蔑されるべきだとも思いません。みんなが「裕福に幸福に」なれればいいに決まってる。――少なくとも今回非難を受けた発言においては、僕自身が誰かを嫉妬していたわけではなかったと思います。


僕のあの発言がこういう誤解に遭うということ自体が、ヒキコモリを巡る現在の文脈についていろいろ物語っているのかもしれません。TV番組でも、「ボクのことわかって!」みたいなベタなのが多いですからね・・・・。 → これについては、「当事者語り」の置かれた文脈ということで、ちゃんと考えてみるべきなのかも。



ふう。 ふう。を含むブックマーク

さすがにヘトヘトだ。

今日の僕の文章、楽しんでくれる人いるんでしょうか・・・・。





*1:といいながら、id:Ririka さんの期待に添うような議論はぜんぜんできていないと思います。すごく大事な刺激をいただいて、あとは自分の議論を展開してみた、という感じ。申し訳ない。

*2:どの本でしたっけ。

*3:我ながら稚拙なメモの羅列ですが、これが僕の現状です。アホなこと言ってたらご指摘お願い致します・・・。

*4:「波状言論」の北田鼎談でもそういう話題が出てましたね。ところで北田暁大さんははてなダイアラーでした(id:gyodaikt)。失礼しました。

*5:「リベラリズム」云々というのは、どのレベルにある話なんだろう。「文化的」? それとも、リベラリズムというOSの上に、それぞれの文化がアプリケーションソフトとして載る感じ? うう、わからん。

*6:もちろん「資産家の隠居」という例もあるだろうが、自主的隠遁で苦痛がないなら「支援」の必要さえないし、仮に苦痛があるとしても、「働かなくていい」のであれば支援のアプローチはずいぶん違ったものになるはずだ。

*7:ホームレスとして生きていける当事者が多数派だとはとても思えない。

*8:『資本論』

*9:「存在が意識を規定する」ってやつですね。僕は1987年に予備校の講師から聞かされてずいぶん感動したのを覚えています。

*10:否定性をともなわない、空虚な形式の反復

*11:東浩紀さんの表現

*12:「宇宙船地球号」はこの人が言い出しっぺなんだって。

*13:原文:『Environment to each must be “All that is excepting me.”/Universe in turn must be “All that is including me.”』

*14:ジョルジュ・バタイユ

*15:たとえば宮台真司さんが語っていた「政治からの自由と政治への自由」は、「分離の自由と接続の自由」ですね。

*16:滝本竜彦さんの『超人計画』ISBN:4048734814 は冒頭がこの話でしたね。いや、じつは全部読んでないんですが(汗)。 ← 読んだ方がいいですか?

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/15 09:46 はじめまして。バッキー・フラー! 私はなにげに彼を師と仰いでいるんですが、「包括的思考」の重要性は、彼が40年も前に訴えたことなんですけれども、ますます重要になるばかりです。今の「複雑系」の科学の先駆けみたいな人です。

Bon voyage!Bon voyage! 2004/04/15 09:47 彼の本には、引きこもりも含め、現代社会の諸問題を解決するためのヒントがぎっしり詰まっていると、私は思います。

RirikaRirika 2004/04/15 12:15 「価値観(内面生活)においては過剰なまでに「制度内的」・「適応的」である」のに、どうして欲望が希薄・困難なんだろう?(上山さんはそのように説明していたよね?) /北田本のギュゲスは、「不正を行なう」ことに関心があるのではなく、「自己利益を充足したいという欲求・動機づけ」をもたない、「フリーライドという形ですら制度にコミットしようとはしない」、懐疑論者、として描かれています。(なぜ勉強しなくてはならないのか、等)
あと、本書は経済や福祉については触れられていないし、上山さんの目下の課題に対して何か見通しが開けるというタイプの本ではない、とはおもいます。一応。

BrittyBritty 2004/04/15 15:18 ひとこと。あれは感想と記述であり、批判ではあるかもしれませんが、価値を貶める「侮辱」ではないと書き手自身は考えています。たんなる記述と感想を即価値の高下に結びつけること自体がルサンチマンだと考えます。

BrittyBritty 2004/04/15 15:19 そしてAさんがひどくいわれないのにおれがひどくいわれるのは何か、というのは典型的なルサンチマンです。

BrittyBritty 2004/04/15 15:24 なので侮辱うんぬん以下の話は有効ではないですな。労働への価値を共有するかはあなたの問題であって私の問題ではありません。確かに憲法では「勤労は国民の義務」ですが別にその価値を共有する必要はない。

BrittyBritty 2004/04/15 15:25 個人としては、裕福で楽しく健康で挫折を知らないのほほんとした人って大好きです。癒し系最先端。運がいいというのも才能なので、生まれつきの持分をああだこうだいうのは大人気ないということでしょうか。あとは「おまえは誤読している」の応酬になるだけだろうから、私からは以後発言しません。それではご多幸を祈る。

11 2004/04/17 00:34 イラクの若者はいま戦っている、君たちも世界の為、日本の政府を動かしてイラクの戦いをやめさす事だ、この度、人質となった若者三人の様に。先ずは起ちあがることだ。 

2004-04-13  「支援」をメタに語ること

「万能の支援」はない 「万能の支援」はないを含むブックマーク

昨日のコメント欄に、杉田さんid:Britty さんが書き込みをくださっています。哲学や社会学の議論を覗き込みながら、「理論的な」話を試みること――それも、きっと間接的には「支援」たり得るのだと思う。そういう議論が社会的・文化的な環境整備をすれば、当事者たちがそれと気付かなくとも彼らを楽にしているのだ、とか。

たとえば年齢差別を緩和する動きを作れれば、それが直接にはヒキコモリをターゲットにした活動ではないにしても、甚大な支援でしょう。そうした意識はつねに持っているべきだと思います。


3月27日の大阪でのイベントについて報告したいのですが、その報告そのものにともなう独特の困難について、ちょっと考えたりしています。

支援する側が、自分たちの活動を全面的に正しいものと考えてしまうと、何か間違うのではないか。僕はよく「上山は難しすぎる」と言われるのですが(当事者だけでなく支援者からも言われることがある)、要するに僕の言葉が届く相手はごく一部だ、ということ。そしてその「ごく一部」には、当事者以外の方も含まれていたりする。

同じ事情が、どの支援団体や個人にも言えるはずで。「万能の支援者」というのはあり得ないし、「誰に対しても必ず意味のある方法」というのもたぶんない。


僕自身は、当事者の置かれた状況や支援者の方法論について、メタな観点から検証する作業をとても重視しています。だから支援者の中でも、リベラルな方、つまりご自分の方法論を醒めた目で相対視できる方としか、話が合いません。(そういう意味で、たとえば「淡路プラッツ」の金城隆一さん*1などを信頼しています。)


くどいようですが、僕が付き合いやすい相手だからといって、皆さんにとって相性の合う相手であるとは限りません。――そう、この「相性が合う」という点が、きっと支援者と当事者の出会いにとってもっとも重要な点なんじゃないでしょうか。僕は僕で特定のかたよりを持ったキャラクターですし、相性の合う方はごく一部でしょう。


人を楽にしたり元気にしたりするのに万能の方法がないとして、では自分としてはどんな努力をするのか。

たぶん、そこのところでもっとちゃんと考えるべきなのです。



「求められる支援」とは 「求められる支援」とはを含むブックマーク

3月27日のイベントのあと、複数の当事者の方が言っていたのは、次のようなことでした。

 支援者の方々には申し訳ないが、実をいうと「受けたい」と思うような支援はない。支援を受けたいのかどうかさえわからない。

これ、実は僕もそうです。僕は1987年の4月から夏にかけて、関西のさる支援団体*2に籍を置きましたが、それ以後は(ずっと苦しみ続けたにもかかわらず)どこの団体にも相談機関にもアクセスしていません。

もちろん、「ひきこもり」が社会的にクローズアップされたのは1990年代も終盤で、僕は2000年にはもうある親の会に出席して発言を試みるようになっていましたから、自分が支援を必要としていた時代にはそもそもアクセスすべき窓口がほとんど存在しなかった*3、という事情もあります。しかし、それだけでしょうか。僕は、もう少し本質的な問題だと思っています。


支援といっても、精神科医・行政・民間団体・個人など、それぞれでできることも得意分野もちがう。

さて、そこで当事者の皆さんにうかがいたいのです。

「どんな支援なら、受けてみたいですか?」

ご両親の求める支援と、当事者本人の求めるそれとは、また違っていると思います。

支援活動のユーザー(消費者)として、「ニーズを明らかにする」作業は、大事なんじゃないでしょうか。「とにかく支援してくれ」ではなく、こちらから提案していくことも必要だと思います。


あなたは、どんな支援を求めているか。どんな活動を、いちばん必要としているか。――この点についてのご投稿やご発言を、今後ずっとお待ちしております。

・・・・いや、そもそも「支援」なんて、必要なんでしょうか。




*1僕のような立場の人間がこのブログで特定支援者名や団体名を挙げることが「ひいき」、つまり広告活動になり、それがひいては僕の社会的信用をも損ねかねないことは重々承知しています。ですが、「いいものはいい」という態度を、その理由とともに示していくことも大事だと思うようになっています。
 ここでは試験的に固有名詞を挙げましたが、今後マズイ点が出てくれば削除するかもしれません。また、「ウチの団体名を宣伝してくれ」などと言われても、お応えできません。なお、当たり前ですが金城さんから私に対して「名前を出してくれ」などという依頼は一切ありませんし、今後彼との関係がどうなるかも分かりません。さらにしつこく言っておけば、「淡路プラッツ」が万能というわけでもありませんので念のため。

*2:当時は「ひきこもり」という概念はまだなく、支援といっても「高校中退者」を対象としていました。

*3:厚生労働省による最初のガイドライン発表は2001年。

miyagimiyagi 2004/04/14 16:47 こんにちは。僕はこれまで、頑なに支援を拒んできました。ですが、そろそろ降参しようと思います。今はまだ、命だけは助けてください、という気持ちです。どういう支援を受けたいかと聞かれれば、手厚い保護、と答えると思います。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/15 07:54 「手厚い保護」が受けられるかどうかは、社会の経済的・政策的事情によりますよね。民間個人レベルにはどうしようもない。残酷なようですが・・・・。

2004-04-12  戦わないと死ぬのか?

ようやく ようやくを含むブックマーク

『波状言論』*1第5・6号の鼎談「リベラリズムと動物化のあいだで」(北田暁大×鈴木謙介×東浩紀)を読み終えた。前回の宮台鼎談とこの北田鼎談、僕にとって「必要なもの」です。「ヒキコモリ」に興味があってこれら鼎談を読まれた方、ぜひ交流持ちたいです。


まとまりを気にしているとまた書けなくなってしまうので、箇条書きでいま思いついていることをメモしていきますね*2。あなたが気付いたことがあったらまた教えてください。 


2つの鼎談からは、

  1. 流動性の高い世界で、自分を支える難しさ
  2. 「コミットする」と「しない」
  3. 「動機づけ」の難しさ
  4. 「抽象的な理論」が必要である理由は?

ひとまずこれぐらいを大事な問いとして受け止めた。



「理論家」と「当事者」のミゾ 「理論家」と「当事者」のミゾを含むブックマーク

知性と教養とフットワークのある人たちの影響を受けて、僕らの議論を鍛え上げる必要がある。「コミュニケーション」よりは「議論」が要るよ!

  • 理論をやっている人から見ると「上山は理論できない」となって、逆に当事者からすると「上山は難しいことばかり言ってる」となる。
    • とりあえず、苦痛の現場から言説を立ち上げるしかない。「理論を作る」ためではない。実際に苦痛やトラブルに取り組むためだ。
    • 「アイツは鋭いこと言ってるよ」と評価受けるような人間が当事者からもっと出ないことには。


  • 僕は以前、「『語られる』存在から『語る』存在へ」と語っていたはずだった。なのに先日は「自分にできるのはサンプル提示だけだ」と卑屈なことを語っていた。うーん。僕の野心はどこへ向かうべきか。(「当事者」というポジションに出来ること、「専門家」に任せるべきこと)
    • 「『野心』とか口にする前に、まず『食える』ようになれよ」というごもっともな批判が聞こえてくる。でも、僕の考えるに、「野心的に打って出る」姿勢が持てなければサステイナブルじゃないと思うんですが。いや、もちろん「取りあえず食えるようになる」が野心であってもいいんですが、僕自身は「食えるようになる」こと自身を自己目的的に野心にすることができないので・・・・(「生きること」自体は僕にとって基本的に苦痛でならない)。
    • 積極的な事業意識が持てれば、意識もクリアになるし、その事業を誰かと共有できる道も開けるかも知れない。
    • 個人的には、「具体行動を生み出す問い」の名手でありたい。問いの明確化はそれ自体が大きな貢献だと思う。



「書き込んでいいんですか?」 「書き込んでいいんですか?」を含むブックマーク

メールやオフラインで、「私なんかが(コメント欄に)書き込んでいいの?」とたまに言われる。‥事者以外の方は「当事者共同体」への配慮から、当事者は「私ムズカシイ話わからない」、親しい知人は「馴れ合うのも変だろ」、ぁ崟賁膕函廚諒々は「私が書き込んだら荒れるか引かれるかするでしょう」。

  • ‥事者同士が安心して交流できる社交場も必要だと思う。だが僕自身は、当事者とそれ以外の人々がどうやって開放的に交流を持てるか、に興味がある。当事者の内部に留まりつつもなるだけ一般的な言葉使いを心がけているのは、共同体内部に閉鎖的に閉じこもりたくないからであり、外部との疎通性を保つためだ。「当事者以外は書き込むのがためらわれる」としたら、その状況は少しずつでも変えていきたい。
  • ◆岼戮砲垢詁餡鬚箆叩廚覆匹垢襪弔發蠅呂覆ぁそんな理論ごっこは趣味人に任せておけばいい。僕は具体的に苦痛に取り組むために必要な議論を模索しているのであって、それ以上ではない。▼「上山みたいに難しく考える必要はない、金さえ稼げればいい」という人がいるが、その金が稼げないから苦しむんじゃないか。だから対策を考えざるを得ないんじゃないか。▼あなたの苦しみに即して考えてくれるんならば、それが「理論」でなくてもいいです。ムズカシイ思想家の名前だす必要ないです。
  • F襪豺腓Δ里魯悒鵑ね。開放性を維持するという基本方針さえ保っていれば、楽しく遊ぶのもいいと思うのだが。僕には遊んでくれる人がいないという事実はこ(ry
  • だ鎖晴憤紂Εウンセラー・教職員・支援団体スタッフ・研究者の方など、当事者と一線を画している(あるいはその必要がある)方々でも関われる場にしたいです。



北田暁大という方 北田暁大という方を含むブックマーク

の発言にはじめて触れたのは昨年の「嗤う日本のナショナリズム」で、その感想も少しだけ書いたが、今回の鼎談でさらに興味を強めた。メルマガの鼎談から直接引用するのはマズイと思うので、ネット上の北田氏の発言からいくつか引用。

  • 他人の自意識をせせら笑う皮肉屋自身が、誰よりもナイーブに自意識を肥大させている
  • 「お前モナー」ばかりが増殖して、「漏れモナー」がない(自分を相対化することに耐えられない)
  • 「現在」だけを生きていて歴史感覚がない(5分前の歴史さえ参照しない)
  • 「動物化」というのは「馬鹿になった」というのとは全然違いますから、「お前ら人間になれ」と説教しても始まらないんです。重要なのは、動物化という現象を道徳的な予断なしにしっかりと分析したうえで、かれらに届く言葉を見つけ出していくことだと思うんですね。

・・・・さて、ヒキコモリ当事者の苦痛に取り組むのに『責任と正義』(ISBN:4326601604)を読む必要あるでしょうか。



「残酷さが足らない」 「残酷さが足らない」を含むブックマーク

ヒキコモリ当事者はある意味きわめて「素朴」なのだが、そういう素朴さは「ヒキは氏ねw」という悪意の強度に勝てない。当事者独特の残酷さを持つ必要がある*3

  • ヒキコモリが社会的に追い詰められていくことに抵抗するには、〇彖枦反論 経済的自立、の両方が必要。
    • 「経済的自立さえ果たせれば、難しい話は必要ない」、「この社会では、合法的に金を稼いでさえいればどう生きようが勝手なんだから」というのはそうかもしれない*4。だが、思想的な議論の意義をまったく認めない当事者は、戦略的な意識というものをまったく持てていない。繰り返し言う。戦略的な意識を持てない当事者が多すぎる。社会的弱者であり、政治的敗北者であるというのに。
    • ヒキコモリ当事者への干渉主義的(パターナル)な批判は、それ自体が思想的態度だと言える(自分が直接養っているのでもない人間に「お前の生き方ではダメだ」と言っているわけだ)。また、経済的自立が難しい理由には、年齢差別などの社会的バイアスも影響しているはず。 → ボーッとしていてはやられる一方じゃないか?


  • 当事者の窮状を個人レベルのダメさ加減に還元する思考自体が一つの思想だ。
    • 「現在」しか見ない目にはヒキコモリが無歴史的な永遠の相のもとに見えるかもしれないが、やはり歴史的・社会的な側面も持つはず。
    • 「30才以上のヒキ?終わってるだろw」という言い分は、年齢差別に加担して絶望を煽っている(誰かを見下して楽しみたいだけ)。 → 「年齢差別という厳然たる現実」から絶望して終わるのか、それともそうではない何かを模索するのか。「自分はもう生きていけない」という絶望自身が社会的に形成されている面もあることを考えるべきではないか。
    • もちろん、「ヒキコモリの連中は、自分で稼げもしないくせに口ばかり達者」という意見もわきまえた上で考えるべき。稼げずに社会的弱者に留まっている状況を変えるには、具体的に稼いで生きていける状況を作らねばならず、そのためにはコミットが必要だ。



コミット不能 コミット不能を含むブックマーク

というわけで「コミットの必要」というのが出てきてしまったんですが、上記2鼎談でも繰り返し語られている通り、ヒキコモリというのは「コミットできない」という状態なわけで。くそ。厄介だ。


  • 「生きていくことができない」 → 〇彖枦 経済的
    • 「意識自体が身体的にキツくなってしまう」――この苦しむ身体的意識*5、その成立自体が社会的・歴史的?
    • ヒキコモリは、言葉を失ってゆくプロセスだ。 → 「泣き寝入り」という、ヒキコモリの根本性格。 → 「言語訓練」でなんとかならないか。
    • 「生活について考える」と「実際に生活してみせる」は別。「お笑い論」と「お笑い実演」が違うように。笑いについて考えている人間が実際に笑わせられるわけではない。
    • 「よくイラクなんて危険なところに出ていくよ」というのだが、「よく社会なんていう危険なところに出ていくよ」。行かなければ生活できない? じゃ、家で死ぬしかない――そんな感じか?


  • 「社会的インポテンツ」という比喩、問題あるでしょうか。
    • 「インポテンツ」はふつう「男性の性的不能」を指すのだが、単なる「下品な比喩」でしかないか。
    • 「性的不能」という表現自体が「性交すること」を無条件に肯定すべき価値としているのと同じく、この比喩でも「社会参加」が無条件に肯定されている。「社会参加しないのはダメ」。
    • 多くの人の頭の中には、こういう比喩の思考回路が無自覚に存在しているのではないか。


  • みずからの経済的貧困以外に社会参加のモチベーションがあり得ない、という事実を見据えるべきではないか。
    • 北田氏にならって言えば、ヒキコモリ当事者はいわば「動物的に」死んでいこうとしている(「人間的」なら、飢えそうになったら働くだろう*6)。そういう人に「説教」してもはじまらない。萎縮させるだけ。 → 「届く言葉」、あるいは、言葉でダメならば、他の形ででも「動機づけ」が必要なのだ。そしてそれが最も難しい。



杉田さんから昨日のコメント欄にいただいた書き込み :

自分の意志でひきこもっているのか、他者や制度や世間圧力によってひきこもらされているのか、その辺の微妙なかねあいはちゃんと(責任転嫁にならないかたちで)考えると面白いこともあるかもしれないな、とか思いました

『弱くある自由へ』(ISBN:4791758528)というタイトルは魅力的ですね・・・・。著者の立岩真也さんはやはり(!)社会学者で、『自由の平等〜簡単で別な姿の世界』(ISBN:4000233874)という本も書かれてる。――けっきょく、ヒキコモリの問題を考えるには社会学的論戦が必要だということなんでしょうか・・・・。困ったよ俺ぜんぜん勉強してないよ・・・・。



嫉妬 ・ shit ・ shit-hot 嫉妬 ・ shit ・ shit-hotを含むブックマーク

  • 人間は、自分に似た存在にいちばん嫉妬する。親が破格の資産家で「一生働かなくても食っていける」みたいな奴はあまり嫉妬されないのに(要するに別格)、「お隣の中流家庭のヒキコモリ」は嫉妬される。
    • しかし、金を稼げず恋愛もセックスもできず、社会的承認の機会もなく――そんな人生が嫉妬されるってどういうこと? 要するにみんな「社会になんか出たくない」、「働きたくなんかない」わけだよね。この世は地獄なんだよ、誰にとっても。だから、家に閉じこもって食えているというだけでなぶり殺さなければ気が済まないわけだ。「働かずに食えた上に社会的承認まで与えてたまるか」、「お前も苦しめ」。
    • 何度も言うけど、親の金で楽しく人生を謳歌している裕福な人たちが嫉妬されないって、どういうこと? なんで、陰湿に苦しんでいる人間が嫉妬されイジメられ、陽のあたる王道を親の金で歩いている人間は讃美さえされるの?


  • ヒキコモリ当事者間の嫉妬、というのもないか?
    • 友達ができた、恋人ができた、就職した――いちいち嫉妬の対象になる。まさに、「自分と似た存在」だからこその、強烈な嫉妬。情念の泥沼での足の引っ張り合い。
    • 嫉妬とは無縁のカラカラの場所で取り組みたい。イジケた状態を抜け出したい。




*1:順次バックナンバーも販売されるようです。

*2:これまでに触れた論点も多いですが、ひとまず現時点でのメモということで。

*3:僕が思うに、この「残酷さの欠如」は、ヒキコモリ当事者における笑いの文化の欠如に症候的に現れている。「笑い」には、自己と他者を突き離す残酷な視点が不可欠だと思うのだがどうか。

*4:これについては異論があると思う。「経済的自立を果たしていても思想的反論が必要な局面はある」。だが、「生き延びることさえできない」と苦しんでいる人間からすると、それは少々迂遠な言い分だ。ヒキコモリ当事者にとって「経済的自立」こそが最大の難関なのだから、それをクリアしていることを前提にした議論は他人事に聞こえてしまう。――ただし、思想的反論自体が積極的社会参加のモチベーションになって人生を牽引することだってある。ややこしい。

*5:東氏と北田氏がオタクや広告を素材に交わしていた身体論は興味深かったが、ヒキコモリの「苦しむ身体的意識」は、どのような位置づけを持つだろうか。

*6:主観的には、過剰に厳密なコミュニケーションを求めたり、まさに「人間的」なのだが。

杉田杉田 2004/04/13 08:04 上山さん/これは自分のウェブでも少し書いたのですが/例えばフリーターが会社人間から「降りたくても降りられなかった」労働者であるように、ひきこもり当事者も「世間から降りたくても降りられなかった」という側面があるのではないでしょうか?/「ひきこもり=デタッチメント」(脱社会)というのは少し違うのではないか、という気もするのです/本当に社会から「脱」しているのであれば、これほど「コミットメント」や「デタッチメント」の問題に関してあれこれ悩んだり考えたりする必要はないはずなのだし・・・(これは宮台さんの「脱社会性」という言葉への大澤真幸さんの批判的コメントでもありましたけれど)

杉田杉田 2004/04/13 08:07 「弱いものこそがさらに弱いものを叩かざるをえない」という社会的な構造(システム)の問題が、僕のさいきん一番気になっているところです/弱い立場の人間どうしが互いに消耗しあってゆく中で無事にいきのびていくのはけっきょく「勝ち組」(?)なわけで、「金持ち喧嘩せず」というか、そういう悪循環を強いる無意識の構造がやっぱりあるんじゃないかって気がします/でもそれが何かはよくわからないんだけど・・・

杉田杉田 2004/04/13 08:11 ちなみにフランス語でimpuissantというのは「潜在能力がない」「なにもない」という意味で、「性的インポテンツ」の意味もあるそうですが、力=ピュイッサンス(puissant)というと例の哲学用語ではニーチェやドゥルーズが注目している概念です/力がないということ、潜在能力が欠如しているということ、性的にインポテンツであるということ・・・

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/14 02:01 「参加する/しない」、能力を「発揮する/しない」というのも、個人に帰責できる部分と、そうではない部分とあって、その絡まりが難しいですね。でもそのからまりを考えることが、「支援とは何か」を考えることなのかもしれません。

通りすがり通りすがり 2004/04/14 03:12 また来ました。デパスがきかないので夜更かしです(こら)。元ひきこもりとしては「一度壊れきれ」、年齢問題があるので就職どころかフリーターにももうなれません、というわけで支援としては「うちのサイト経由でアマゾンから本買ってください」。でもハンドルはいれてかかないのであった。ではでは〜。

RirikaRirika 2004/04/14 11:52 こんちゃー! 「ヒキコモリ当事者の苦痛に取り組むのに…必要」の判断はつかないけど、『責任と正義』をまんなか辺まで読んだところで、第四章「ギュゲスの指輪=欲求を持たない《制度の他者》」の喩えは、示唆的だとおもいました。ただし結論は、こうなってる。笑っちゃったけどね。
>>我々の社会は、……契約の外におり、賭けるべき自己利益も持たないがゆえに補償の申し出にも応じることのない様々なギュゲスたちが徘徊する不気味きわまる世界なのである。《リベラル》は、この不気味な世界のなかで、ただただ自分たちが多数派であることを願いながら、あるいは多くの人びとが《リベラル》的な感性を持つ可能性に賭けつつ、ささやかな《生》を送っているにすぎない。「政治的判断という概念は、ある特定の『リベラル精神』への自らのコミットメントを認める人びとに対してのみ、訴えかけるものなのだ」(Waldron[1933:57])。このささやかな《生》を充実させるための第五章以降の議論が、非合理でも何でもなくただ「非社会的な」ギュゲスたちを等閑視することによって成り立っていることを、我々はけっして忘れてはいないだろう。>>

RirikaRirika 2004/04/14 11:55 この章について、立岩真也さんによる批判的検討が読める。http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004066.htm とくに、上記引用に関連する箇所は、「◇「全員一致」の断念について」。(でも全体に、本書を読んでいないとわかりにくいかな。)
(わたし自身は、第四章以前を軽んじてるわけではなくて、むしろ第三章までをとても面白く読んだし、学んだことがたくさんある。) おまけ:立岩著『自由の平等』の序章 http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004b1.htm

seitouseitou 2004/04/14 20:09 やほ。こめんとどもね。Uさん賢いしハンサムなのにどうしてどうして(ひきこもる?)、とかいつも思ってるよ自分。ひきこもりを否定するわけではないけど、苦しいのでしょう?苦しむのはどうして、というかんじ、苦しむひつようはどこにあるのかと、こんなこと書くとまた苦しむ?ごめんよごめんよ。うざかったら消して。

RirikaRirika 2004/04/15 07:33 引用文の最後を訂正。「我々はけっして忘れてはならないだろう。」

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/15 07:55 通りすがりさんもサイト持ってるの?▼Ririka さん、引用どうもありがとう。14日の本文で取り上げてみましたが、なんか激しく筋違いのレスポンスかも・・・・。▼seitou さん、お気遣いありがとう。苦しまずにいられるなら、もちろんそれがいいのだけれど。今はひたすら具体案を考えてます。

2004-04-11  「いい仕事」して、楽しみたい

「はてな」スタッフの皆さん、移転作業お疲れさまでした。 「はてな」スタッフの皆さん、移転作業お疲れさまでした。を含むブックマーク

 ただ、表示がたまに不安定だったり、つながらなかったりするんですが、僕だけかな?



「いい仕事」は、人を喜ばせますね。 「いい仕事」は、人を喜ばせますね。を含むブックマーク

 『大改造!劇的ビフォーアフター』みててよくそう思う。「いい仕事」したい。

 難しいのは、「全員を喜ばせる仕事」というのは、たぶんないということ。誰かを喜ばせれば、たぶん誰かに嫌な思いをさせている。



うーん うーんを含むブックマーク

 友人からとってもうれしいメールをもらったり、楽しい1日だったんだけど、ちょっとヘトヘトで(笑)、今日はこれ以上の書き込みは無理。ごめんね。書きたいことは、いろいろあるんだけど・・・・。

 「はてな」で、もっといろいろ遊んでみたいなぁ。コメント欄でアホなことやるとか。


 ではでは、またね。


aimeeaimee 2004/04/12 18:52 今日は恐ろしく眠いです。会社でマウスを握り締めながら、パソコンの前で、なんと1時間以上も!熟睡してしまった。それに気がつかない周りの人も・・・すごいかも。でも、ばれたけどね。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/12 19:58 なんか凄まじいスケジュールみたいやなあ・・・・。

杉田杉田 2004/04/13 00:49 上山様/少し前の注解の欄にあった、ある種の人々の安楽死(尊厳死)は、本人の自由意志を言う前に、周囲の圧力や罪悪感を強いる制度がそうさせている部分が多々あり、自殺は最後には個人の権利としては認めるべきだとは思うけれど、それを言う前にきちんと問わないといけないことがたくさんある――/云々という事柄は、立岩真也さんの『弱くある自由へ』という本で論じられています/この本は名著だと思うので是非お読み下さいませ/介護の世界ではしばしば、「ねたきり」は「ねかせきり」(の結果)だと言われます/にもかかわらず、「ねたきりになる老人はなまけているからだ」的な発言が案外世論では無意識に流れていると思われます/尊厳死(安楽死)も、安楽なのは自ら死を選んだ(選ばされた?)本人なのかそれともその周囲の人間なのか/そういうことはきちんと考えたいなと思います/ちなみに僕もまた自殺は人間の権利のひとつだと思ってはいるのですが/それでいうと、「ひきこもり」も自分の意志でひきこもっているのか、他者や制度や世間圧力によってひきこもらされているのか、その辺の微妙なかねあいはちゃんと(責任転嫁にならないかたちで)考えると面白いこともあるかもしれないな、とか思いました

杉田杉田 2004/04/13 00:54 ちなみに僕も、自分の日々従事する障害者福祉労働をサステイナブル(sustainable)に続けることのいろんな困難さを日常の中で味わい続けているところで、そういう微妙なポジションの「当事者」(?)としての「理論」をアレコレ考えているところでもありますです

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/13 03:55 とっても興味深く励みになる書き込みありがとうございます(翌日本文で取り上げました)。『エフェメール』はその後いかがですか? あるいは、お元気ですか?

杉田杉田 2004/04/13 07:51 そう!『エフェメーレ』2号をまだ上山さんへまだ郵送していません・・・/住所教えてもらってよろしいでしょうか?/大阪でお会いした時は「ひきこもり」という文字もみたくない、という雰囲気だったので、送るのは待った方がいいかなー、と思ったので…/ゴメンナサイ

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/14 01:49 お気遣いありがとうございます。メールをお送りしました>住所

2004-04-09  徹夜してしまった。

今日は『波状言論』の北田鼎談は読めず。残念。


当事者による、当事者のための、・・・・ 当事者による、当事者のための、・・・・を含むブックマーク

id:matuwa さんが、「当事者による不登校論」について情報を出されている(さらに我がコメント欄にも)。

こうした「当事者による研究」は、「当事者の知を発信する自前の学問 : 当事者学」*1を目指すんでしょうか。あるいは、自分たちの状況を理論的に分析してみよう、ということなんでしょうか。いずれにしても興味深いし、できれば一緒に成果を作っていきたいです。

もんだいは、「現場の緊張感」と「研究」とのジレンマなのかな。(ある支援施設代表は、「忙しすぎて本なんて書くヒマない」と言っている*2。)


僕自身は、「当事者が情報発信する」という問題についての当事者なわけで、この件については継続的に考えていきます。



「コミットする/しない」 「コミットする/しない」を含むブックマーク

ニュース*3から考えたことを少し。


僕は拙著の中で、あるいは当ブログでも、(とくに精神科医やカウンセラーの態度に関連して)「思想や理論が生と切り結んでほしい」、「現場の苦痛を冒涜しないでほしい」と言ってきた。「言ってみただけ」のアリバイ作りや「理論ごっこ」ではなく、当事者の苦痛と真剣勝負した理論や技法を示してくれ、と。

これは「専門家」に対して、「当事者の苦痛にコミットしてくれるなら、金のためのやっつけ仕事ではなく、本気で取り組んでほしい」というメッセージだったと思う。いわばユーザー側からの、サービス提供者への「コミット要求」だ。

この話、今でも大事だとは思っているが、いろんな射程というか、危険な要因も含み得ると思うようになった。


今の僕の最大の課題は、「持続していけること」だ。活動や生活がサステイナブル(sustainable)であるということ。ヒキコモリの【当事者/親/支援者】の3者が、各々の事情において、サステイナブルであることの難しさ。それをずっと考えている。

  • 当事者
    • 学校生活や職業生活・社会生活に参加できない。参加しても、精神的・肉体的トラブル、あるいは対人関係などの理由から持続しない。
    • 精神的・経済的負担があまりに大きく、子供への支援を続けていけない。
  • 支援者
    • 民間の支援団体には今のところ公的な補助金が出ない*4ため、料金は高くなりがちだ。ご家族や当人への負担を減らそうとサービス料を過度に低く設定すれば、活動自体を維持していけない。また、精神的ストレスがあまりに強烈であるため、スタッフ自身が潰れてしまうことが多い。

3者それぞれの事情において、「コミットできない」「しても持続できない」という悩みがある。


「文武両道」を説いた三島由紀夫は、フィクションも世界の意味も信じていなかった*5はずだが、フィクショナルな完結願望と「行動へのコミット」から、死なざるを得なくなった。

15歳で初めて尾崎豊『15の夜』を聞いたとき、部分的に共感しながらも、「この人は、自殺するしかなくなるんじゃないか」と思った*6。「そっちに行ったらヤバイよ」と。連想したのが三島由紀夫だった。【4月18日の付記:この箇所の私の記述は、まるで「尾崎豊氏の死因は自殺である」と主張しているかのようで問題ではないか、というご指摘をメールでいただきました。もちろんそのような意図はなく、私自身が15歳時にもった危機的な印象を書き付けただけです。失礼致しました。ご指摘くださったMさん、ありがとうございました。】

これらの固有名詞をブログに書き込む僕自身にも、すでに「コミット」の危険が生じている*7


95年に阪神大震災に被災したとき、日常生活とはまったく違う社会参加の回路を感じた。「社会的なネットワークがすべて崩壊したがゆえに参加できる」感覚。誰のものでもない大気を「自分の肺で吸っている」ような。死と隣り合わせなのだが。

お互いに名前さえ知らない住民同士がいつのまにか助け合った。僕も当たり前のように参加した。当時高い社会的地位にあった多くの人たちは避難先の体育館でボーッとすることしかできず、逆に最も快活に働き回ったのは「プータロー」みたいな人たち*8だったという。

異様に自由なこうした高揚感*9は、ライフラインの復興とともに徐々に消えてゆき、ふたたび窒息的な「機能的日常」が戻ってきた。会社員たちは元気になり、僕のような脱落者たちはまた社会参加できなくなった。


「コミット」には、文化的・経済的・政治的・物理的・など、いろんな形があって、それぞれで参加の回路が違う。


「コミットする」ゆえの問題と、「コミットしない」がゆえの問題と。


僕はもはや現代では、経済的問題さえ解決していればコミットしようがしまいが関係ない、野放しの自由だ、と思っていたのだが、ちがうのだろうか。

僕は「餓死」を問題にしたが、これは逆に言えば「経済的貧困以外に社会参加のモチベーションはない」ということでもある。



・・・・このテーマでは書きたいことがまだまだあるのだが、今日は体力的に限界なのでいずれまた。

つ、つかれた・・・。




*1:『当事者主権』ISBN:4004308607、p.186

*2:『全国ひきこもり・不登校援助団体レポート』ISBN:4939015475、p.26

*3:イラクで民間の3邦人が人質にとられ、緊張が高まっています。

*4:作業所は、「ヒキコモリ」ではなく「精神障害」という枠組みで申請しなければお金がおりない。

*5:澁澤龍彦などもそういう見解のようだ。ちなみに三島氏の絶筆タイトル『豊饒の海』は、「荒涼たる月世界の水なき海の名」という意味だった。

*6:今頃こんなことを言うのは後出しジャンケンだが、当時本当にそう思った。

*7:以前紹介したドゥルーズの言葉、「他人の幻想に巻き込まれたら終わりだ」は、まさに「コミット」の危険を指し示している。

*8:まさに「脱社会的存在」

*9:災害心理学で「ハネムーン期」というらしい。

2004-04-08  接点をもたらす理論

いくつものコメントありがとうございます。しつこいようですが、お返事しなくても無視しているわけではありませんので。すべて読んで、参考にし、楽しませていただいております(書き込みはいつも僕を励ますものと思ってください)。


『波状言論』鼎談「リベラリズムと動物化のあいだで」(北田暁大×鈴木謙介×東浩紀)を読み始めました。まだ前編の途中まで。おもしろい。


attachment のみちすじ attachment のみちすじを含むブックマーク

東氏・北田氏が語る『批評空間』周辺の話はうなずけるものばかり。(僕は彼らより3歳上だが、なぜか時代感覚がほとんど変わらない。)

彼らが僕と違うのは、やはり「アタッチメント*1が続いた」ということだと思う。「何をすればいいのかわからない」と言いながらも勉強を続け、大学にちゃんと通い続けた。僕は心身症になって閉じこもる方向に向かってしまった。


アタッチメントを失った人間が思索をしてもそれは「哲学マニア」でしかない。あるいは、自分の内面事情について当事者として考えるだけ*2。そうやって考える作業はしかし自分と社会との接点を生まない。

「自分はディタッチメント*3しか生きられない」と悟り、20代も後半にさしかかって「いよいよ生きていくことができないらしい」となると、難しい思索をすることは「いたずらに自分を痛めつけること」でしかなくなる。考えることに実りがなく、「悟りも解脱ももたらさない修行」のような作業になる。「理論は僕と世界を結びつけない」。次第に考えなくなる。


「ひきこもり」という語の流通によって、僕は「当事者」というポジションを得ることになり、唯一そのポイントにおいてのみ世界とのアタッチメントが生じた。キャリアがなく、「履歴書の空白」*4をもつ僕に社会との接点が生じた。僕自身、「このテーマについてだけはいい加減なことを言いたくない」という切実な気持ちになれた。他の問題についてはほとんど何も喋れない僕が、このテーマについてだけは異常に滑舌がよかった。

ここ5年間の僕の「うれしかった出会い」は、事実上すべて「ヒキコモリ」というテーマを通じて、あるいはそれに関する僕の発言を通じて生じている。



理論の必要・ジャンルの色気 理論の必要・ジャンルの色気を含むブックマーク

上記鼎談には、「(社会学では)理論的なものが求められなくなってきている」という話題がある。僕は「理論に興味がなくなった」ことを自分の個人事情だと思っていたのだが、そうではなかったのか。

ヒキコモリとの関連で考えてみる。


僕よりも年上のヒキコモリ当事者で、公的な発言を自覚的に試みた人はいない*5。(斎藤環さんは理論的に考えようとしているし、メンタリティ的には「ヒキコモリ系」と呼ぶべきなのかもしれないが、社会的には「当事者」としてではなく「精神科医」として発言している。)

他にも「ヒキコモリ」について発言している方は大勢いるが、どうも80年代(〜90年代初頭?)に左翼系知識人が「オタク」「サブカル」に共感的に振る舞った姿に重なってしまう。内在的理解はないのだが、彼らのイデオロギー的なアリバイ作り、というような。(うわ、言ってしまった。いや、もちろん有り難いんですよ。味方してくださるんですから。ここではあえて誇張的に言ってます。)


「外部から観察する目線」でヒキコモリを理論的に考えようとする言説は、社会学を中心に登場しつつあるらしいが*6、「当事者が内在的・理論的に考えよう」という姿勢はなかなか見られない。【付記:そういう言説は事実上ほとんどすべてネット上にあると思う。】 こういう事情も、「オタク」という言葉が流通し始めた80年代の事情と重なるんだろうか。あるいは、オタクとは違う別ジャンルの文脈と比較した方が生産的だろうか。

いずれにせよ、ヒキコモリはマイノリティーの問題ではある。


20代の始めから30代の始めにかけて『批評空間』というエポックメーキングな雑誌を眺めていた、という経験は僕の世代に特有のものだ。「世界から降りるしかできない」という僕がディタッチメントを深める中で理論的な興味を失ってゆき、「ヒキコモリ当事者」として再び社会との接点を模索し始めたとき、「理論的」であることはどのような意味を持ち得るか。

端的に言って、「この世界に興味深い理論的な営みが存在する」という感覚を持ったことがない下の世代の人たちに向けて、「理論的に」語った言葉に意味があるだろうか。――簡単にいえば、「僕がそんな魅惑をできるのか」ということだ。


ジャンルへの興味は、魅力的な固有名詞が支える。東浩紀氏がいなければ僕の「哲学・批評」への興味はすでに廃れていたろうし、鈴木謙介・北田暁大・両氏がいなければ「社会学」に興味を向けることはなかった。「批評に興味があります」「社会学に興味があります」というその接点を支えるのは、ピンポイントの「この人」であり、そういう魅力的な野心家がいなければジャンルの色気は失われる。

ヒキコモリについてありきたりなことをボンヤリ考えていても、言説ジャンルとして廃れていくだけだ。(現にヒキコモリ本は今まったく売れないらしい。せいぜい斎藤環さんの本が少し売れるだけ。)

これを読んでくれているあなたが当事者であるなら、あなた自身が、そういう突出した個人を目指してみませんか?



「接点の回復」の難しさ 「接点の回復」の難しさを含むブックマーク

僕は35歳になるから、同世代の連中が集まると、往々にして80〜90年代の昔話になる。「あの頃は楽しかったよね〜」というわけだ。

こういう席で、僕は黙り込んでしまう。


80年代の消費文化に、僕はまったく馴染めなかったし、同世代の思春期文化にも疎遠感ばかりがあった*7。90年代前半は父の闘病と死、95年に被災、それからはバイトに挫折するたびに閉じこもりが深刻化。要するに80年代・90年代の20年間は、僕にとって「疎外感の深刻化」のプロセスであって、この間の流行歌などは僕にとって軽い「トリガー」になっている(当時の異常な不安感が生々しく蘇る)。とにかく異常に孤立していった。

アニメ・漫画・パソコンといったオタク的なものへの耽溺も84年まで。要するに人からも物からもディタッチメントを深めていって、何もできなくなってしまった。ただひたすら「苦しい」「生きるのがつらい」という感覚だけが確かで。「興味がないのに、どうしてこの世界に居続けなければならないんだろう、こんなに苦しいのに」――そんな感じだった。


「孤立すると、人間の感受性は萎縮する」。 僕は最近、うれしい出会いを持ったのだが、その人との交流を通じて、自分の感受性が花開く(というかほぐれる)感覚を何度か味わった。今まで何の興味もなかったクラシック・バレエをTVで観て快感を覚えたり、ちょっとした水彩画の色彩にじんわりと感じ入る――すぐに気付いたのは、「これは1人っきりでは絶対にあり得なかった感覚だ」ということだ。

極端に孤立した人間は世界への興味を失う。興味を失うから共有できる話題がなくなり、ますます孤立する。孤立するからますます興味がなくなり・・・・。この悪循環でどんどんおかしくなる。いったんこのループに入った人間が世界とのアタッチメントを回復するのは、容易ではない。


そう、本当にやっかいなのは、「世界への興味を失った人間」ではないのか。そしてヒキコモリ当事者の95%以上は、誰にもどこにも相談せず、ひっそりと隠遁しているはずだ。長期化すればするほど、欲がなくなり、仙人のようになっていく。



ヒキコモリ=過労? ヒキコモリ=過労?を含むブックマーク

id:aimee が、「過労と餓死は似ている」というコメントをくれている。彼女は車上ホームレスなどを経験し、今は徹夜を含む早朝から深夜までの殺人的スケジュールに耐えているのだが、「餓死を選択する精神状態と、過労の精神状態が似ている」という指摘は考えさせられる。

「ヒキコモリの果てに餓死する」というのは、要するに「疲れ果てた」ということではないのか。

外面的にはヒキコモリは「何もしていない」「甘えている」と言われるわけだが、内面的にはむしろ過労状態、「四六時中得体の知れない精神的激務に忙殺されている」のではないか。だからこそ、身動きできなくなっているのではないか。「世界に興味を持つ」「目の前の問題を処理する」以前の段階でなにものかに忙殺されているのではないか。

重要なヒントとして覚えておきたい。ありがとう>aimee。



ああ ああを含むブックマーク

自分の言語の貧しさにゲンナリ。やっぱり、アタッチメントのない人間の言葉は貧困化するよ・・・・。だからますます社会的に弱い立場に追い込まれてゆく・・・・。

これ、重大な問題だと思う。言葉が使えない人間は社会的に徹底的に弱いところに追い込まれるのではないか。




*1:attachment 結合・帰属・愛着・傾倒。この語に懐かしさを感じたアナタ、『構造と力』読んでましたね。ちなみに僕がこの本を初めて読んだのは1991〜2年ごろ。

*2:だから精神分析は僕にとって最初から「教養」ではなく「自分の苦痛」との関係にあった。

*3:detachment 超然・無関心・分離・孤立

*4:前にも書いたが、これがヒキコモリ当事者の鬼門だ。

*5:と、僕は思って淋しい思いをしているのですが、どなたかおられますか? いたら教えてください。

*6:この断定も失礼でしょうか。「社会学は内在的な語りである」と言うべきなんでしょうか?

*7:ある年下の方が僕の年齢を聞いて、「じゃ、80年代に『ホットドッグ・プレス』読んで、デートの研究とかしてたでしょ?」って・・・・・。そう、たしかにそんな雑誌が当時出てましたね・・・・僕には無縁でしたが・・・・。

Anonymous CowardAnonymous Coward 2004/04/09 01:12 >*5 公的にはカミングアウトしてませんので、今日は匿名です。私的にはカミングアウトしています。引きこもり歴は半年かな。引きこもりを語ること自体にはあまり興味ありません。というか個人の体験を公に語ることにはというべきか。哲学史的には「引きこもり」と似た概念があるのでそっちを掘るほうがむしろ今は楽しいかな、てふ感じ。ご多幸を祈る(じゅわっ)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/09 01:38 個人的体験のサンプルはかなり出てきているし、需要から言ってももうあまり必要ないかも。今後は実名にしろ匿名にしろ、「どんなコミットをするのか/しないのか」という問題でしょうか。◆ところで何?>「哲学史上の、引きこもりと似た概念」。聞きたいなぁ。

Anonymous CowardAnonymous Coward 2004/04/09 02:41 重力とか自己圧縮とかまあいろいろと。自己破壊力は同時に自己展開=創造力の初源。カバラーとかともつながるのかな。ユングやケレーニーの太母論とか。そちらはおいかけてませんが。

Anonymous CowardAnonymous Coward 2004/04/09 02:44 言葉の問題はご指摘のとおりでしょうね。大分前に読んだ話ですが、親の蔵書500冊というのが子どもの学歴と相関するとかしないとか。アメリカのSATの参考書には露骨に「言語能力なくして高学歴と将来の高収入はありえない」と書いてありました。

matuwamatuwa 2004/04/09 03:00 当事者による理論といえば、シューレ大学や東京大学の上野千鶴子ゼミ関係者が「不登校学」を提唱されてますね(http://www.shure.or.jp/univ/activity/ueno_zemi_0310-11.html)。
淡路島に「淡路プラッツ大学」を設立して、上山さんが「ひきこもり学」をたちあげる……こんなの、いかがですか?

2004-04-07  実感&分析 → 夢中になれる問いの析出

前書きと引用 前書きと引用を含むブックマーク

『波状言論』の鼎談(宮台真司×鈴木謙介×東浩紀)を読み終え、いくつかブログを見ていて思いついたことのメモです。

見出し分けは、整理のための便宜上のもの。今日の書き込みは1個のメモとして一気に書き上げました。


 id:Ririka さんの 「詩の魅力、あるいは、自同律のフカカイ」 から。

 wyicht.j さんは、わたしにとって、詩。

 それは、わたしを詩にかえてくれる、ことと同じ。

 小さな子供たちがそうであるように。

 今、私の考えている方法は、詩から一切の曖昧な私性を追放してしまう。

 ・・・・私の生活の言葉は私の詩の言葉と完全に分離できるだろう。 (谷川俊太郎の詩論)

 好きだから好き、としか言えない症状的な面があって、(中略)

 一方で、おとなになってからめぐり逢って、罹患するってこともあるだろうし、発病しなければ健康体ってことかもしれない。



情念から砂漠へ and back? 情念から砂漠へ and back?を含むブックマーク

僕が浅田彰氏の発言から受け取った最も強いメッセージの一つは、「情念の湿地帯から、砂漠のような遊技場へ!」というものだった。 → 「カラカラすぎて生きられない」


アインシュタインは、ある人から「あなたは世界のすべてを数学で記述できると思っているんですか?」と訊かれて、大意次のように答えた : 「それは大いにあり得ることだが、数学的表現においては、豊かな実感が犠牲になる」*1


「われわれはラブレターの文法の間違いを直す無粋な科学者先生ということになる」(『「知」の欺瞞』ISBN:4000056786 日本語版への序文)



無意識――実感・構造・郵便 無意識――実感・構造・郵便を含むブックマーク

「豊かな実感」をもたらすもののように思われる「夢」。

フロイト/ラカンは「切断」を重視し、ユングは「全体的融和」を重視する(というふうによく言われる)。「実感信仰派」にはユングの方が受けがいいみたい。


フロイトは誰だったか*2に、「最強の詩人」と形容されていた。 

ラカンは「構造主義」と言われるが、彼の発言の影響力にとって詩的要因は無視できないと思う(彼以外の「構造主義者」にも似た事情がないか)。 → 「構造」を強調する人物の影響力が詩的なものに支えられていた、というのは興味深くないか。

ラカンはどこかで「分析家には詩的才能が要る」と言っていた。


「ポスト構造主義」と言われる人たちの発言は、「意味」から逃げ、「実感」から逃げるものだったと思うが、読者にはすっかりわけがわからなくなり、かえって「粗悪な詩」のようにしか読まれなかったのではないか(というのが僕の体験)。「意味にも実感にも与しないことに悦に入る」というふうにしか見えなかった。


無意識を「届かない手紙」に喩える東浩紀氏の議論は、「構造」でも「実感信仰」でもない別種の無意識理解の道筋をくれたように思った。彼の提示する垂直軸の議論(メタ語り)に、僕はいつも強い印象(実感)を得ている。

僕にとって東浩紀氏は、「当事者語り」をしている方だ。*3



「俯瞰的拒絶」と「接続して味わう」 「俯瞰的拒絶」と「接続して味わう」を含むブックマーク

「現場との緊張関係でなされるメタ語り」にこそ、最もスキャンダラスで甘い果汁がないか?


僕はといえば、一人で考えているとついすぐに「世界全体を拒絶して」、「世界全体を一挙にどうにかしてやりたい」というトンデモ系思考に埋没してしまう(当ブログでもたびたびお見せした)。これは世界に興味を失った僕の自己防衛の仕組みだと思える。肉体ばかりでなく精神まで世界から撤退させ、もって世界を一挙に俯瞰し(こうなるとディテールはどうでもいい)、そのすべてを一括して「変化させる」こと。物理学的な意味で「解釈するのではなく変える」こと――妄想的野心としか言いようがない。

この感覚を内的に諦めさせるのが、恋愛系の尊重体験ではないか。「世界が変質」してしまっては、「この人」が消えてしまう。その人との関係における果実が失われる。「それは困る」――そのときにのみ、「世界を受け入れる」忍耐が始まるのではないか。「全体を一括して俯瞰して拒絶する」のではなく、「1点において世界に接続されながら我慢強くディテールとつきあう」。世界に接続されない間には、日常のディテールとのつきあいは修行でしかない。そこに果実はない(果実は「拒絶の感覚」「麻痺」にのみある)。接続された1点との関係においてのみ僕らは世界を味わえる。



80〜90年代の個人的記憶断片 80〜90年代の個人的記憶断片を含むブックマーク

実感の極北(と思われる)文学と、実感排除の極北(と思われる)数学との類似性(すくなくとも従事する人たちの精神的近親性)がよく語られる。柄谷行人氏の仕事や個人史はつねにこの2つの緊張関係で成立している?(ていうか80年代の知的言説が?)


 「あえて」やる(メタレベルに自己を温存する) ←→ 「ベタに」やる(意識活動がオブジェクトレベルに没入している)

 その時のバランス感覚としての、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」(浅田彰『構造と力』ISBN:4326151285


かつて90年代に『imago』(青土社)誌上で、「自分が生きているということ」を実感として肯定してしまう木村敏氏と、「それはファシズムにつながる姿勢だ」として批判するラカン派?精神科医*4との間の論争を見た。「実感の明証性」につくのか、「明証性にこそ危ない排除がある」という観方につくのか(というふうに僕は理解していた)。


分析的に考える努力が自家中毒に陥っていくプロセスは、「好きだから好き」が言えなくなっていく苦しいプロセスでもあった。そのときに、僕がジジェクの論考などから得た啓示の一つは、「症候を生きる」という最終的な倫理的ポジションだった。そこには「実感」が肯定される余地があるような気がした。(「症候」はついに消えず、「人間存在は症候そのものである」とされる。)



詩的に楽しむということ、そして≪現実≫ 詩的に楽しむということ、そして≪現実≫を含むブックマーク

 「気に入った人物は詩であり、私を詩にしてくれる」。 イエス、なるほど。

 しかし、小さな子供は必ず詩だろうか。


 合理的目的意識(生活の言葉?)とも私性とも無縁な態度はまさに「詩」と呼びたくなる。


ここで僕が思い出すのはむしろ「遊び」という感覚。

  • ニーチェの3段階 : 「ラクダ(忍耐) → ライオン(勇気・戦闘) → 小児(遊び)」  つまり「遊び」に至上性がある。
  • 「学問も芸術も遊びだ」という発言はよく聞く。 「遊びをせむとや生まれけむ」
  • 「≪遊び≫の反対は、≪真剣≫じゃなくて≪現実≫だ」(フロイトだっけ?)

「遊び」では、「私性」なんて邪魔だ。「現実」では、「私性」を常に気にしていないと崩壊する。(だからビクビク怯えてる。 → 生活恐怖が「私性」を作ってる面がないか。)


バフチンに「生活の言葉と詩の言葉」という論文があって、これはたしか「芸術の言葉でさえ社会的形成物なのだ」という論旨だったと思うが、逆に彼は「生活経験がそのままで芸術経験でなければならない」というようなこともどこかで言っている。「芸術は社会的であり、生活は芸術的だ」というこの言い分、10代の僕は熱中したんだけど、やっぱりマルクス主義者の戯言でしかないだろうか。

「芸術は現実であり得るし、生活は遊びであり得る」という視点は、ヒキコモリが深刻化して生活苦を考えねばならないようになって以後の僕からはほとんど顧みられなくなり、それは同時に精神が荒廃してゆくプロセスでもあった。


「子供から大人への変化」は、遊び=詩が散文的現実に取って替わられるプロセスだ、という陳腐な幻滅的事実がすべてだろうか。大人になって以後にも生活努力が「遊び」であり得るのは、一部の才能に恵まれた人たちだけか。


「好きなことを仕事に」という村上龍@『13歳のハローワーク』(ISBN:4344004299)は、「自分のやっていることに果汁を求める」ことで流動的な生活世界や溢れる情報を縮減しようという態度。「意味があるから」という理由でその仕事をするのではなく、「好きだから」という「味わい」主義*5

これは単なる実感信仰や精神主義とばかりも言えなくて、「好きなこと」を仕事にしていれば苦痛なく勤勉になれるし熱中できるから、自然と競争力がつく。生き残る知恵、つまり機能主義的選択としての「好きなことを仕事に」なのだ。*6



「solution(解決)」と「問い」の螺旋的深化。 「solution(解決)」と「問い」の螺旋的深化。を含むブックマーク

一つの学問的決着は、新たな問いの生産にすぎない。ただし問いは深化されている。

それと同じように、生活努力においても、日々の答え(=稼ぎ)と同時に、どこかで深化されていく問いの要因を持たなければ、持続的にやっていけないのではないか。


  • ある方から、「solution の名手であるよりは、問いの名手であってくれ」と言われた。ものすごくうれしかったし、大事な指針をもらった言葉。
  • 真理にも動員力があるが、問いにも動員力がないか。
  • 「世界の意味」を求めるとダメだが、「世界を問いとして捉える」というのは陳腐すぎますか。「世界とは悪い冗談だ」というのも思い出す。


    • 【真理】 → 「へぇ」
    • 【問い】 → 「・・・・・・」(沈黙)


今の僕は、「問い」の明確化の中にもっとも充実した果実があるような気がしている。しかし、そのためには一度「好きなものは好き」という盲目的な病に罹患する必要があると思っている。(僕は「発病していない健康な人」が苦手だ)



メモの終わりに メモの終わりにを含むブックマーク

思想や哲学に興味のある当事者は多くても、ヒキコモリという状態そのものを巡って思索してくれる人はあまりいない。「ボクつらいんです」というベタな当事者語りはたくさんあっても、その自分の発言や置かれた状況そのものを分析的に理解する作業(メタ語り)は、あまり誰もやってくれない。

【付記:本当は、当事者と支援者が自分の立場(オブジェクトレベル)をカッコに入れながらメタ語りし、お互いの状況や機能を検証する必要があると思う(要するにロールプレイとその検証だ)。これができる支援者や当事者は何人いるだろう。盲目的な「治療主義」のなかでは、こうした作業は不可能だ。当事者とともに、支援者も自らの活動についてメタに語れなければならない。】


僕には系統だった基礎教養がなく、学問的なテーマに言及したとしてもそれはいわば素人語り、あるいは「ヒキコモリ当事者としてはこう考えてしまうんですけど」というサンプル提示でしかあり得ないと思っていたのだが(野心から言っても能力から言ってもポジションから言ってもそれが相応だと思えた)、そういう卑屈な謙遜はやめにして、もっとガップリ四つに組むべきなんだろうか。


しかし、その作業を続けていくためには食っていかねばならない。語ろう(考えよう)とする意欲が「生きよう」という意欲を支えるならありがたいが、大学教員や作家になれない者が家に閉じこもってウンウン考えてもそれがどんな「明日」を生むだろう。

言い古された言葉だけど、「モチベーションの創造」(自分と他人を動員すること)こそがもっとも喫緊かつ最難関の仕事だ。これだけ陳腐かつ否定的な材料しかない複雑な状況から、わかりやすく魅力的な問い(希望)を析出するのは容易ではない。


僕ら以後の世代に、どんな仕方で「夢中になる」体験があり得るだろう。「夢中にさせる」体験を、僕らは創造できるだろうか。

「夢中になる」ためには、適度の「単純な目標」が必要だ。

僕らの生活を遊びにする、それが僕らのライフワークか――いや、しかし「遊び」にならないからこそ苦しむわけで・・・・。


 ひとまず今は、「語ることと書くこと」――問いを洗練させること――の中に、ヒントを探したい。

 魅力的な問いへの従事が、そのまま人生になってくれればいいのだが。




*1:13年前に観たNHK『アインシュタイン・ロマン』に登場したエピソード。間違っていたら教えて!

*2:誰だっけ?

*3:でもこれは、ご本人にとっては不本意な評価だろうか。『存在論的、郵便的』ISBN:4104262013 のあとがきで、東氏は「僕のつぎの哲学的な仕事は、・・・・『この私』とは徹底して無関係なものになるべきだ」と語っている。

*4:兼本浩祐氏だったか?失念。

*5:宮台氏だったらこれも「強度」と言うのかな。

*6:「好きなことを仕事にする」ことが本当にサステナブル(sustainable)かどうかは、また後日考えたい。

dokushadokusha 2004/04/08 13:06 「ホモ・ルーデンス」について「べたレベル」で。
その前に、わたしは「悩み」(内攻化してゆく「問い」の製造とでも捉えられますか)を持ちません。すべての「悩み」は「解決されるべき問題」と捉えなおされ、解決に向かうか、解決不可能な事実として受け入れる以外にないと決定されます。そこには「深化」はありません。しかしこれが現実に立脚して生きる知恵だと自分自身を縛っています。たぶん、この自縛を解き放つと自分自身が自分自身の深い闇に落ち込んでいきそうなんですね。
つまり、このような「べたレベル」の人間として「ホモ・ルーデンス」を考えると、確かに仕事が一つの遊びであると思えることはあります。そしてその実感は才能であるとか努力も思ったよりは必要ないのではないかと思えるのです。確かに時間的拘束、ノルマなどのプレッシャー、そしてなにより肉体的な苦痛というものはどのような仕事にも付いて来るでしょう。しかしそれらを成し遂げた時の達成感は、それを成し遂げた結果に生ずる社会的関係性(評価であるとか給料であるとか)を離れて意味を持つのではないかと思います。
ですので「べたレベル」としてはどのような小さな事でも成し遂げてみる。または、成し遂げられる程度に小さな事に当たってみる。というのが「遊び」と「仕事」を接続させる一つの方法だと思えるのです。(それが自分−遊び−仕事−社会(金銭)−生活−自分というループを繋げる方法なのではないかと思えるのです)

BrittyBritty 2004/04/08 13:17 先月友達と呑んでて『構造と力』:若気の至り ノマド:「年がばれる言葉」「いやもう若い人知らないって」「うううむ」。なにやらゆかしすみれ草。

BrittyBritty 2004/04/08 13:19 その後ポスト構造主義で100年後も残るのは誰だろ、という話になりました。みなさんほとんど鬼籍に入ってしまいましたね。レヴィ=ストロースが9.11で発言しているのをみて「まだ生きてるんだ」とびっくり。やることがある人は長生きするやうです。はい。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/09 00:23 こんにちは>dokusha さん。ヒキコモリ支援のやっかいな問題の一つは、「達成感と呼び得るものをものすごく感じにくい」ということです。支援者が達成感を急ぐと、どうしても「就職しろ」になってしまう。達成感がないまま、じりじりとストレスに耐えるのは、本当に難しい。◆どうなんでしょう、むしろ「達成感を得られないままどうやってしのいで泳いでゆくか」という精神作法を身につけるべきなんでしょうか。それとも、身近なところで小さな「達成感」(資格、貯金など)を遊び的に実現していくべきなんでしょうか。――この辺の難しさは、「野心的になる」ことの難しさにも通じますね。達成感の見えないところではなかなか野心的になれない。「頑張って頑張って、それでも無理でした」という取り組みしかないような気がする。(それでもやらないよりはマシだ、と言うべきなのはわかるのですが、その動機付けが難しい。とりわけ挫折して絶望感に苦しんでいる場合は。)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/09 00:23 驚き>レヴィ=ストロース。今年で98歳か・・・・。◆フリーターはノマドかなぁ・・・・。100年後、「ひきこもり」なんていうテーマ設定はまだ存続しているんでしょうか。謎。

2004-04-06  自分で自分を動員する難しさ

的確で濃密な議論が必要だよ 的確で濃密な議論が必要だよを含むブックマーク

 どうもこのところ体調不良です。全身ダルくて、ボーッとして。

 しかし使えそうな時間を使って、『波状言論』の第3号と4号に掲載された鼎談「社会学の現在、宮台真司の現在」(宮台真司×鈴木謙介×東浩紀)を読んでました。(ずいぶん前に配信されたのに今頃・・・)

 ヒキコモリについてちゃんと考えようと思ってる人にはぜひ読んでほしいし、これをネタにちゃんと議論してみたいんだけど・・・・。僕の周囲のオフライン友達にはこれを読んでいる人はいないっぽい。


 ヒキコモリに関する情報ナビゲーターが要るな、と思いました。「考えて、勉強して、議論して」という上質のプロセスがもっとたくさん要る。上記3氏は大学におられるわけですが、在野のヒキコモリ業界でこういう密度の議論をセッティングできるかどうか。

 少なくとも、ちゃんと考えることが状況打開のために必要な気がしてなりません。「状況は打開できない」という考えまで含めて議論の俎上に載せないと。


 ところで韓国に行く前にこの鼎談読んでたら鈴木謙介さんにいろいろ質問したのにな・・・。どんな方かよく知らないままお会いしてましたよ。もったいない。

 いや、いずれにしてももっとちゃんと考えて勉強しなくちゃ。



実名か匿名か 実名か匿名かを含むブックマーク

 興味深い書き込みありがとうございます。少しだけ僕の意見というかコメントを追加します。


 「当事者は匿名が当然」という空気になってしまうと、「ヒキコモリというのはやはり隠すべき恥ずかしいことなんだ」という前提が崩れず、実名者のニュース価値は上がる。逆に実名者がたくさん出てきて当たり前になると、それはもはや「カミングアウト」でさえなくなり、ニュース価値はなくなる。

 「名前を出すことで自分も変わりたい」という個人的動機も含め、「実名をあえて出すことでリスキーな状況自体を変えたい」と考えるのか、「実際にリスクがあるのだから、自分や家族を守るためにも匿名であるべきだ」と考えるのか。

 マスコミの利益に振り回される必要はもちろんないわけですが、もう少し大きな戦略的視点(というと大袈裟ですが)が必要な気がする。


 でも、今ネット上ではほんのちょっと明確な自分の意見を言おうという人は、みんな匿名ですよね(2ちゃんねるとか)。実名を出して意見表明を行なう人はほんのわずか。

 社会的にリスキーな同一性(「2ちゃんねらー」もその一つ?)を引き受ける人は、「差別反対」を叫びながらも匿名でいることが多い。

 やはり、「大多数は匿名でいく」という当たり前の結論になるんでしょうか。


 id:dokusha さんのご指摘にありましたが、視聴者の想像力は目の前に映っている人物に影響を受ける。たとえばヒキコモリ報道の初期にTVに頻出した「ゴロウさん」(渋谷区の大豪邸に住んでいる)などは、「ヒキコモリ」の一般イメージにかなり影響を与えた気がする。そういう意味では、「誰が登場してどんなことを言うか」はけっこう大事なのかも。

 NHK特番に登場した実名当事者たちを悪く言う書き込みをたまに見かけますが、出演する側にも非難する側にも、難しさを自覚している人は少ないかも・・・・。


 ほかの皆さんのご意見も伺ってみたいです。

【付記:本日分をアップする直前(かな?)に高尾さんからの書き込みが昨日のコメント欄に。高尾さんは去年7月のNHK特番でご一緒した方です。】



「上山さんの言う『餓死』っていうのは、要するに自殺でしょう」 「上山さんの言う『餓死』っていうのは、要するに自殺でしょう」を含むブックマーク

 と、ある人に言われた。積極的な意思表示としての自殺ではなく、「そうするしかなかった」という限りなく受身的な現象だが、たしかに「死を選んでいる」と言えるかもしれない。

 それは「本人が死のうとした」のか、それとも「そこに追い込まれた」のか。


 僕が先日「安楽死」(もう少しおだやかには「尊厳死」)について、「それを認めないのは野蛮だ」という意味のことを言ったら、「安楽死は認めるべきだが、そこに到るプロセスや環境を改善する努力は徹底してすべきだ」という趣旨の反論を受けた。*1

 人が死を決意するには、病苦もあるが、社会的・経済的に追い詰められて、という場合がある。本人の死ぬ権利は認めるべきだが、「なぜ死なざるを得なくなったか」については、じゅうぶんに検討する必要がある、というわけだ。


 むずかしい。社会的・経済的要因をいくら改善しても、「生きていること自体がつらい」という心理的要因は残るかもしれない。



ふう ふうを含むブックマーク

 くだらないものも含めて書きたいネタはたくさんあるのですが、今日は長くなったので・・・・。


 さいなら。*2




*1:お名前出していいでしょうか。こういうご趣旨だったと思うのですが。

*2【個人的ご連絡】
 書くのを忘れていましたが、僕は諸般の事情から、3月一杯で「しごとふれあい広場アメリカ村」のスタッフを離れました。期待してくださった皆さん、ごめんなさい。
 短い間でしたが、いろんな方と興味深いお話ができて、楽しかったです(当時の会話の一部は、要約してここにアップさせてもらうかも)。
 お望み通りのお返事はできないと思いますが、もしよかったらまた当ブログに遊びに来てください。よろしく!

M江M江 2004/04/08 00:14 えーっとはてなは書込みすら利用した事がないので、どこからご挨拶した物か分かりませんが

M江M江 2004/04/08 00:17 す、すいません。不慣れな物で。簡潔に、しごとふれあい広場で色々お話していただいたM江です。匿名かどうかという議題中に伏字でどうも(汗)。4月の体制からお会いできなくなって残念です。その代わりはてながまた始まった様ですので息災の様で安心しております。

M江M江 2004/04/08 00:20 改行キーを押すクセが抜けなくて何回もホントにすいませんっ!続きで、またダイアリーよく読んで感想を書かせていただくかもしれません。その時はよろしくです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/08 00:55 おお、M江さん! 書き込みありがとう!(HTMLメールで下書きしてコピペするとうまくいきますよ。ちなみに「br」タグだけが使えるようです。) ◆みなさんお元気でしょうか。よかったらまた気楽に遊びに来てくださいね〜

aimeeaimee 2004/04/08 12:56 餓死って何だか究極の「めんどうくさい」だと思う。自殺とかいうのとも違うし・・・。餓死したことはないけれど、引きこもっていて家に食べ物がなくなり、小麦粉をなめて生きていたことがあるけど、別に餓死してもいいや、っていう感じだった。そのうち、栄養状態が悪くなって、動きたくても動けないようになって、不思議と食欲もなくなって・・・。自殺したい?というのとも違うような気がしたなぁ。自殺って、ある意味、行動力と思い切りが要るし。うーむ。今自分がそうだからかもしれないけど、過労と餓死は似ている気がする。

2004-04-05  ヒキコモリはむしろ「不自由」の問題では。

「降りるしかできない不自由」 「降りるしかできない不自由」を含むブックマーク

 「脱社会的存在」という言葉について考えているうちにいろいろ構想が広がって、東浩紀さんのメールマガジン『波状言論』に掲載された鼎談を読んだりしています。「脱社会的存在」という言葉をキーワードに社会学に入門する、というのもアリでしょうか。


 少し前に「降りる自由」という言葉がネット上で取り沙汰されたようです。僕は、このテーマが持ち得る社会思想的な射程はよくわからないのですが、「降りる自由」と聞いて真っ先に考えたのが

「降りるしかできない」人はどうすればいいんだろう

ということでした。「降りる自由」ならぬ「降りるしかできない不自由」です。

 働こうと思っても仕事に就けない、なんとか就職しても続かない(辞めざるをえない)、辞めさせられる、云々――なんとか参加しようとするのに、できない。


 前にも書いたけど、ヒキコモリは医学的には「疾患」ではないけれど(単なる状態像だ)、本人の主観的には「障害」と認識される。そうするとヒキコモリ当事者にとっての「バリアフリー」は、どんなものか。



実名のあとさき 実名のあとさきを含むブックマーク

 3月27日の合同説明会&シンポジウム「地域で支える『社会的ひきこもり』」についての記事が毎日新聞はんしん版4月1日(日刊)にあり、僕と永冨奈津恵さんの発言要旨が掲載されています。自分のまとめた文章ではないのでもどかしい部分もありますが、「今回の企画は画期的だった」という趣旨さえ伝わってくれれば・・・。

【付記:記事では、「18歳のころに通った支援団体にはカリスマ性のある代表がいてイヤだった」というニュアンスになっていますが、代表者の思想性がその団体のカラーを決めてしまいがちなのはどの団体でも同じ。僕の通ったところだけがまずい、というわけではありません。この辺についてはまた当ブログで取り上げます。】


 ところで、この記事で僕は実名と顔写真が大きく出ている。もちろん自分でゴー・サインを出したのですが、やはり家族に迷惑がかかる可能性がある。

 昨年のNHK特番では、僕以外にも多くの当事者が実名で登場していた。これはうれしい動き。


 「ヒキコモリは隠さなければならないことだ」というバイアスと絡んで、「実名か匿名か」はけっこう重要な問題だと思うのですが、皆さんはどう思われますか。


windvalleywindvalley 2004/04/05 18:57 「爽快」!当たり前のことを政治性を自覚して語らなくてはいけないと思う。

BrittyBritty 2004/04/05 23:12 「語る」という行為自体がすでにして政治的なのでは?

windvalleywindvalley 2004/04/06 01:31 もちろんですね。正しくは、自覚していながら意欲的に、ということでした。ごめんなさい。スルーしてください(笑)。

windvalleywindvalley 2004/04/06 01:45 要するに楽しい話もこういう話もいろいろ読みたい、ということでした(笑)。

hikilinkhikilink 2004/04/06 02:31 ueyamakzkさんへは某所で個人的にお伝えしているのですが、僕はNHK特番etc...の実名顔出し報道には疑問を感じています。きちんとしたことはまた余裕のあるときに日記本文で書きますが・・・簡単に言うと、実名顔出しするリスクをイマイチ認識していないにも関わらず、マスコミの利益と一致する形で実名顔出し報道されてしまうことが不快なのです(倫理的でないと感じる)。みなさんは、どうお考えですか?

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/06 03:31 Britty&windvalley さんへ。「意欲的に」というのは、「結果に対する意欲」であるべきなのかな。僕は夢中になって語るときには、あまり結果(効果)は考えていないかも。問いの深度を深めようとしているだけ、というか。◆「語ること自体が政治的」「自覚的にやろう」と考えすぎると、負担がインフレを起こして何も語れなくなる。あるいは、期待が大きすぎて幻滅しちゃうとか。もちろん自覚的であることを目指すのだけれど、「どういう効果が生み出されるかはやってみなければわからない」「計算し尽くした行動は不可能」「やらないよりはやった方がマシ」というぐらいのスタンスでいます。その都度フィードバックで微調整すればいいや、とか。◆ところでお2人ともお久しぶりです。windvalley さんは3ヶ月近くもトップページに晒してしまってごめんなさい!(「爽快!」って何が?w)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/06 03:31 hikilink さんの「実名顔出し問題」については、また本文で考えます。いろんな方の意見聞きたいです。一種の「カミングアウト論」かな。

dokushadokusha 2004/04/06 13:59 こんにちは、実名・匿名の問題に関して。ではマスコミやその視聴者/購読者はなぜ実名を必要としているのか。という視点もあると思います。マスコミやらせ問題などを契機として、マスコミ報道に対する信頼性が揺らいでいる事への対応なのでしょうか。(マスコミ報道に対して視聴者/購読者が一定の懐疑を持つこと自体は良いことだと思います)それとも、匿名(目線にぼかし)では視聴者/購読者に何かが伝わらないと思っているのかもしれません。
もしも実名で報道したとしても、大多数の視聴者/購読者には知り得ないヒトであることに変わりは無く、結局実名とはいっても匿名と何ら変わらないのではと思います。つまり、実名であろうと匿名であろうと単なる受け手にとっては一つの「物語」でしかないわけです。
これの対極にあるのが「統計の数字」という奴でしょうか。何万人、何十万人と一括りに言われてしまうと、その中に含まれている何万、何十万の苦しみや日々の暮らしに思い至る事が困難です。これらを対比させて考えると、この社会では何万、何十万の事実(数字の積み上げ)よりも一つの物語の方が力を持つということかもしれません。
以上の意見は矛盾しているようですが、つまり本来受け手に十分な情報リテラシーがあれば匿名事例と統計的な数字の提示で十分ではないかと思われるのですが、それが期待できない現状では実名(しかし、本当は実名であるか否かは問われない)による物語の提示の方がインパクトを持つということでしょう。敢えて言うと「覗き見趣味」に応えることができるとも取れます。
シニカルに考えると、リスクを背負うのはご本人で、それによって利を得るのはそれを伝えるマスコミということになるのではないかと思います。

hotsumahotsuma 2004/04/06 16:00 ↑読者さんの書き込みを読んでて、やべっちのいじめカミングアウトを連想。

高尾高尾 2004/04/06 23:44 上山さん、お久しぶりです。実は私、3月から旭川に転勤になって、3年半ぶりの外勤記者をやっています(以前は見出しやレイアウトをする内勤記者でした)。実名についての話題だったので、ひきこもり経験者でもあるし、取材する立場の人間でもあるし、書き込みしたくなりました。マスコミが実名を求める理由はいろいろとありますが、僕は精神系や障害者系の話では、できれば名前はもとり顔を出してほしいと要求します。それはなぜかというと説得力が違うからです。差別や不利益な状況は、本人、当事者が立ち上がらなければ、状況は変えれません。親や支援者じゃダメなんです。世間に対して全然、説得力がない。ハンセンの人たちも当事者たちが立ち上がったからこそ、社会を動かせたと思うんです。すべての無理して実名を明かすことはない。でも、誰かがやらなければ前に進まない。ちなみに僕はひきこもり経験者として実名を出したり、テレビに出たりしても、勤めている会社内では特に問題はありません。業種によって難しいとは思います。自分の場合は、新聞社なので比較的自由なんですよね。

高尾高尾 2004/04/06 23:49 すいません。誤字脱字が多いですね。5行目は「すべての人が無理をして実名を明かすことはないけど、誰かがやらなければ前に進まない」です。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/07 00:39 hotsuma さん、「イチョウ葉」のお話とか、参考にさせていただいております。またいつでも遊びに来てくださいです〜

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/07 00:40 高尾さん、お久しぶりです。貴重で心強いご意見と体験談、ありがとうございます。この件は、今後も持続的に考えてゆきたいですね。

2004-04-04  味方のいない脱社会的存在

 あまり気張った書き込みばかりしているとまた息切れするので、まぁ今日は茶でも飲みながら。(昨日は寝込んでました。うう。)


「魅惑」できないから 「魅惑」できないからを含むブックマーク

 僕はこのブログで繰り返し「魅惑すること」について書いてるんだけど、考えてみれば、みんな「魅惑できない」からこそ苦しんでいるわけで。あるいは、「魅惑できるかできないか」の瀬戸際のきわどい緊張感に疲れ果ててる。


 対人恐怖や視線恐怖は部分的には、「自分が魅力的な存在であり得ているか」、「自分の存在は不快感を与えていないか」という恐怖でしょう。


 みんな、就職できないで苦しんでいる。自分を1個の労働力商品として「売りさばく=魅惑的にする」ことに失敗している。いったん仕事に就けても、自分を魅力的なまま維持するのはきわめて難しい(流動的な労働力市場はその不安と緊張を強める)。自分で事業を興す場合にも事情は同じ。


 「お年寄りがなんで鬱になるかわかる? ≪誰にも求められない≫からよ」

 「お金のこともあるけど、『必要とされている』のがうれしいから仕事を続けるの」(以上2つ、ある60代の女性)

 年配の方々が孫を可愛がる理由はそんなところにもないか。 「孫だけは、自分を無条件で慕ってくれる」


 自分がどんな状態になっても、お金を持っていれば、私は他人を魅了できる。金を払えば、人は私の言うことを聞いてくれる(商品を売ってくれる)。制度に保証された肩書きや権力に匹敵するぐらい、お金は僕らに社会的な力をくれる。

「お金だけは、私を裏切らない」(こう語った僕の友人は、しかしお金に至上の価値を置いているわけではない。だから友達でいられる。)


 「自分が愛されたいから努力する」のではなくて、ひたすら問題を解こうとして頑張っている姿が魅力的であったりする。適度なフィードバック以上の自意識は邪魔だ。卑屈になるだけ。周囲もシラケる。

 自意識が問題にならないぐらいに努力や目標に没頭できればいいのだけれど。そういう没頭は、才能ある人に許された特権なのかもしれない。


 自分の存在や活動を魅力的なものにできないとき(あるいはそれが金に換えられないとき)、年金や社会保障が問題になるのかな。


 魅力的で価値のある仕事が継続していくには、金銭的報酬がなければならない。ところが、そのマネジメントは思いのほか難しい。「少数派のための仕事」ならばなおさらだ。



「味方がいない」 「味方がいない」を含むブックマーク

「好みのタイプは?」

「うーん・・・・好みっていうか、これは男性でも女性でもそうなんだけど、初対面で出会った瞬間に相手を異性として品定めして、『自分の恋愛対象じゃない』と踏んだ瞬間に信じられないほど冷たい態度に出る人っているでしょう。ああいうのは、男でも女でもいやだな」


 「人間的な好意」を持たれるのは常にうれしいが、「性愛的な好意」が問題になると、お互いにいろいろややこしいことになる。


 僕が人間的な好意で示した親切を、女性たちはすぐに性愛的アプローチと勘違いする(「言い寄られた」)。無理もないんだろうけど・・・・。――いや、そもそも異性に示した好意が「性愛的ではない」なんてこと、あり得ないのかな。どうなんだろう。


 「人間的か性愛的か」というよりも、「自分の方を振り向いてほしいと思うかどうか」が問題なのか(それなら同性同士についても言える)。相手のことを気に入っても、「振り向いて」と思わなければお互いに楽でいられる。でも片方だけが「私を見て」とか思い出すと、妙に居心地の悪い磁場が発生する。(お互いに「振り向いて」と思えればハッピーなんだけど、滅多にない)

 「振り向いてくれなくてもいいから、この人のことを大切にしたい」とかお互いに思えれば、幸せなのに。無理なのかな。


 僕は、相手が誰であれ「この人と話したい」と思うことがあんまりない。

 分岐点はどこにあるんだろう。相手の何が、「話したい」という気にさせるんだろう。


 友人関係でも恋愛関係でも、お互いに魅力的な存在になるのは、難しいですね・・・・。(そういう緊張関係に疲れるから、「親子の愛」とか「永遠の愛」に憧れるのかな。)


 「無条件の愛」っていうけど、僕らが気の置けない友人に期待するのはそんなものだし、そういう友人と利害関係を持ちたくないのは、「無条件」の関係を壊したくないからかもしれない――いや、そう考えている時点ですでに幻想なのか。


 「カノジョっていうのは、要するに≪味方≫なんですよ」(ある20代の男性)

 なるほど。でもそれって、「友達」にも言えるよね。

 「味方」ってことは、「条件付きの味方」か。


 考えてみると、仕事に関しても、「ただ使われるだけの仕事」と、「味方を生み出す仕事」とがある。


 「自分のほうを振り向いてください」ではなく、自分なりの努力で頑張ってみること。その結果、味方になってくれた人の一部に、自分とプライベートな関係に入れる人物がいる――そんなイメージがいちばん健全な気がするんですけど、いかがですか。


 でもね、「味方がいるから頑張れる」っていうのもあるわけで・・・・。あまりに孤立した人間は、もろく弱い。

 孤立した人間として、どう味方を作っていけるか、どう戦ってゆけるのか――そんなことなのかな。

 年配の方々からは、「昔は生きるために必死だったし、孤立しても戦ってきた。最近の子は、生きる力が弱い」ってお叱り受けるわけですが・・・。


 味方を作るというのは、それ自体が「労働」だと思う。そして、無条件で絶対的で永遠の味方、なんてものはいない(それが「信仰がない」ということの本当の意味ではないか)。

 金銭で結びついた味方なのか、それともそうではない別の形で結びついた味方なのか。「国」とか「民族」とか「主義」とか、お互いを敵と味方に分けるもろもろのこと。

 「人間関係は嫌いだ」という人はいても、「味方は要らない」という人はいないと思う。(いや、いるのか?)


 それに「味方」といっても、こちらの言うことを常に無条件に肯定してくれる人が「味方」というわけではないしね・・・。的確な批判をしてくれる人こそが味方、というのも真実だし。

 「味方の作り方」に、その人の趣味や思想が現れる気がする。

 難しいや。



「必要な思考」 「必要な思考」を含むブックマーク

 僕は理論的に考えることをいちど放棄してしまった人間なんですけど、実はそれっていろんな学問分野でも起こっている現象らしくて。「理論的に考えたってしゃーない」っていう気分が共有されてるってことでしょうか。

 東浩紀さんがいつか「理論的に考えるとはどういうことか」という問題提起をされていたけど、僕も現場の緊張感との関係でよくそういうことを考える。


 ちなみに、最近「ひきこもり」について刺激的な発言をしている人には、社会学系の方が多いような気がしている。*1

 僕は本屋さんで何度か社会学の本(ルーマンとか)を手に取ったことがあるんだけど、「これを頑張って勉強したとして、それで誰がどんなふうに楽になるんだろう」というのがサッパリ見えなくて。


 「理論的に」考える必要があるかな、やっぱり。

 一つ言えるのは、考えるのをやめればそれに従ってどんどん頭は悪くなるだろう、ということ。

 いや、「考えてしまう」ことこそが、本当に「必要な思考」なんだろうけど。


 自分以上に見事に、自分に必要な思考をしてくれる人――そういう人から、僕らは目を離せない。



*1:「刺激的」というのは、必ずしも「擁護してくれている」を意味しない。宮台真司氏が「脱社会的存在が遺棄されるのは仕方ない」と語るときの「脱社会的存在」というのは、どういう射程を持つんだろう。不勉強でまだよくわからないんですが、「望みもしないのに引きこもらざるを得なくなった」みたいな人も、「脱社会的存在」なんでしょうか。

bmpbmp 2004/04/05 17:03 いやぁ、ほんとお帰りなさい。自力で參加していけない人も「脱社会的存在」じゃないかなぁ。第三者からはどうしても区別が付かないんですよね。彼(宮台)はそこから、「望みもしないのに引きこもらざるを得なくなった」ような人を引っ張りあげる機会をあたえようとしてるんだと おいらは解釈してるんですが。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/05 17:36 そうですね>「第三者からは区別がつかない」。この件、時間をかけて考える必要がありそうです。

BrittyBritty 2004/04/06 01:12 ルーマソで救われている?人々はid:contractioさんとか(ほんとか?)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/06 01:53 その救われた極意を聞きたいなー。

2004-04-02  韓国ヒキコモリ会議レポート

前口上 前口上を含むブックマーク

 2004年1月31日、韓国で開かれた「ひきこもり」会議に出席してきました。

 「ひきこもり会議」といっても当事者が集まって会議したわけじゃなく、「専門家」の会議。僕は「当事者」という立場を期待されたんでしょう。

→ これが「オタク会議」とか「宗教会議」だと≪当事者≫の集まりになるのかな。

→ 「オタク学会」「宗教学会」だったら≪専門家・研究者≫の集まりか。

→ 「ヒキコモリ学会」ができたとき、≪当事者≫の発言はどのような位置づけになるだろう。当事者の発言なら何でも尊重されるべき、というものでもないだろうし・・・・(こういうのって社会学の問題設定なのかな)。


 話がそれた。


 今回の会議のレポートとしては、斎藤環さんの『韓国の「隠遁型ひとりぼっち」と日本の「ひきこもり」』(『中央公論』2004年4月号)が発表されています。僕がスルーした発言も取り上げられていますし、公的な報告としてはそちらをご覧ください。( → id:hikilink さんのメモがあります。)


 ここでは、1参加者としての感想を、気ままに書き散らしてみます。

【★付記:以下、韓国側の参加者に対して、あるいは会議そのものに対して、批判的なことばかり書いているように見えるかもしれませんが、これは僕なりの視点から現状を把握するためになるだけ事実に即して書こうとしているだけであって、一方的に韓国側を悪く言おうとか、会議そのものをけなそうとか、そのような意図は毛頭ありませんので念のため。むしろ個人的には、「ヒキコモリ」というテーマの会議に誠実に臨まれていた参加者の方々に、感謝の念さえ抱いております。】


 実は韓国旅行は2泊3日にわたっていて、原稿用紙換算で150枚におよぶ韓国旅行記(空港・ホテルの様子、会議、飲み会、西大門刑務所博物館、市場での買い物、犬料理、など、細かい会話も再現しつつ)を書き上げたのですが、今回は会議の部分のみ公表します。

 気が向けば、他の箇所についても(会話以外)アップしてみようと思います。


 さーて、はじまりはじまりー。






 韓国には前日深夜に到着し、日本側の関係者は全員同じホテルに泊まっていた。僕は夜中2時過ぎに布団に入ったのだがまったく眠れず、朝の9時半に時計を確認したあと、少しだけウトウトした。



会議直前 会議直前を含むブックマーク

 さいわい体調はそれほど悪くない。


 ホテル内の小さな食堂でお昼ご飯のあと、いったん部屋に戻り、「1時半にこの食堂に集合」というので行ってみたら、そこに縦長に机が並んでいるので驚く。・・・・こっ、ここでやるんですか? そうですか。

 次々とスーツ姿の会議参加者がやってくるのだが、この食堂はとても狭く、かつホテルの1階にあって、透明なガラスドアを手で押し開けるとすぐに外の道路。大丈夫かよ・・・・。


 細長く並べられたテーブルのこちら側が日本、向こう側に韓国の発言者が座る。「両国通じて、当事者として発言者席に座るのは上山さんだけだから、頑張ってね」なんて誰かに言われる。

 「ひきこもり」というテーマにとって、今回の日韓合同会議がきわめて重要なイベントであることは間違いないと思う。


 いつの間にかマスコミ関係者らしき人たちが増えてくる。ざわざわ。




会議が始まった。 会議が始まった。を含むブックマーク

 最初に全員が簡単な自己紹介。両国とも10人ずつぐらいの参加者だが、韓国側は漫画家さんとネット中毒の専門家?をのぞいて全員ソウル大学(と誰かに聞いた。日本でいう東大ですね)出身の精神科医。日本側は精神科医は斎藤環さんだけで、あとは社会学、哲学、心理学、学校関係者、フリースクール主催者、当事者、韓国の若者事情に詳しい方、など多彩。


 僕が「当事者です」と自己紹介したら、気のせいかイリオモテヤマネコを見るような目で見られる。あとで訊いたら、韓国ではヒキコモリ当事者が公の場所で実名を晒して発言するなどあり得ないそうだ。いや、日本でも2000年当時は僕ぐらいだったし、今でも少ししかいませんが・・・*1


 僕の自己紹介中、事前の心配が的中。道路からドアを開けて、50代とおぼしきオッサンが何やらわめきながら乱入してくる。どうやら「お前らこんなとこで何やってんだ、バカヤロー!」みたいなことを叫んでいたらしい。テーブルとかを殴りつけながら会場を横切って出て行った。ああ。


 ところでこの会議、当然だがお互いに相手の言語が分からないので、発言者は自分の発言をみじかく区切って翻訳を待ち、また次の言葉をすこし話す、というやり方。ひどく難しい。いい経験ですが。



さて、ちょっと言いにくいのですが・・・・。 さて、ちょっと言いにくいのですが・・・・。を含むブックマーク

 会議の進行にともなって、韓国側の極端な権威主義――としか言いようのないもの――が明らかになってくる(これは日本の精神科医においても同断なんだろうか)。最も年長で真ん中に座っておられるイ(Lee Si Hyung)氏を中心として、座っている順番に見事にピラミッド型の人間関係を成している。イ氏の人脈で来ていただいたせいなのか、あまりにも露骨なヒエラルキーを感じて辟易。


 さらに気になったのが、日本側への対応。韓国側は、要するに「斎藤環」の発言しか期待していないのではないか。というか、質問はまず中央に座っていて「最も権威者」の斎藤環に向けるのが礼儀だと思っているフシがある。斎藤さんが答えている内容は、斎藤さんのヒキコモリ本を全部読んでいる人には周知の内容ばかり。これでは何をしに来たのかわからない。

 まるで「斎藤環とイ氏の対談にみんなが付き合っている」構図。


 イ氏ご自身は「ヒキコモリに関心を向けている時点ですでに韓国では傍流ですよ」とエクスキューズされていたみたいだが、少なくとも日本のヒキコモリ当事者は「権威体質」というものに激しいアレルギー反応を示すし、周囲の人間の権威主義に傷つけられてきた人間が多い。韓国での当事者事情は分からないが、ちょっと気になる。



日韓の違い? 日韓の違い?を含むブックマーク

 韓国側はしきりに「ヒキコモリ」という日本語の単語を交えながら発言するんだけど、どうも彼らが想定している状態像と、日本側のそれとはかなり違っているらしい。たとえば韓国では引きこもっている人はほぼ100%インターネットをしているらしいが(対戦型ネットゲームの中毒が社会問題化しているらしい)、斎藤氏によると日本ではかなりの少数派(1割?*2)という。(僕が関わった当事者の多くはネットもメールもしていなかった。お金がない/興味がない/ネットで傷つけられるのがイヤ/といった理由だったと思う。ちなみに僕がネットを始めたのは1998年。ネットに関する技術の習得も含め、あまり熱心なユーザーとは言えないかも。)


 韓国側からは「めんどくさい病」みたいな言葉も飛び出した。家を出るのがメンドクサイ、仕事するのがメンドクサイ、みたいなイメージか。

 あと、韓国の不登校はかなり自己主張するらしい。「行きたくない場所にどうして行かなければならないのか」とか。


 興味深かったのが両国のイジメ事情の違い。日本ではイジメというと、ごく少数の実行犯を大多数の傍観者が黙認して成立する、という感じだが、韓国では「全校イジメ」という形をとるらしい。つまり、たった一人の生徒を全校生徒が寄ってたかっていじめる。すごいのが転校した時で、なんとネットを通じて相手の学校にまで情報が行き、さらにイジメが続く。(正直、「それでは自殺するしかないではないか」と思った。)



「共同体回帰」? 「共同体回帰」?を含むブックマーク

 会議では、韓国の不登校への取り組みとして、合宿と共同遊戯(仲間と協力しないと遊べないゲームなど)を紹介したビデオが上映された。小学校低学年への取り組みなのだが、参加にはものすごい大金(たしか30万円?)がかかるらしく、一般的ではない。


 もっと気になったのは、ああした試みが、日本の不登校への取り組みにも見られるような、「共同体回帰主義」の要因を含んでいるのではないか、ということ。日本と韓国では体質が違っていて、どうやら韓国の方が共同体的体質が濃厚らしいのだが(これについては後にいろんな形で聞かされた)、僕自身はそういう「共同体に復帰せよ」みたいなメッセージがひどく苦手で苦しんできたので、韓国にそのような文脈しかないとしたら問題ではないか。【付記:当ブログではかつて「洗脳」というテーマが話題になったことがあるが、誤解を恐れずに言えば、ひきこもり支援には常に「洗脳して社会に復帰させる」という危うい要因がつきまとう。】


 社会から逸脱した人間が再復帰を試みるとき、「共同体回帰」以外のプログラムは提示できないのか。「人間的支援があるにもかかわらず、開放性が維持されている」という難しい状態が重要ではないか。



「治療」? 「治療」?を含むブックマーク

 会議では、これまでに参加してきた日本のヒキコモリ関連のイベントでは絶対になかったような途轍もないつらさを味わい続けた。これはなんだろうと思ったら、どうやら韓国側の参加者を支配している「ヒキコモリは治療せねば」という雰囲気のせいらしい。彼ら精神科医にとって、「ヒキコモリ」(“隠遁型ひとりぼっち”)というのは飽くまで病的な、「治療せねばならない」対象であって、ひきこもるという行動が自己防衛などの重要な意味をも持ち得る、少なくとも閉じこもること自体が悪いわけではない、といった視点がないようなのだ。道徳的葛藤の余地すらなく、ただひたすら「治療」という大テーゼがある。

 (これは書いていいかどうかわからないが、斎藤環さんもその点を気にして、休憩時間には僕を気遣ってくださった。)



 逆に言えば、ここ数年間に斎藤環さん*3が日本でしてきた啓蒙活動がいかに重要だったか、あるいは僕がいかにその恩恵に浴して活動してきたか、ということだ。あらためて痛感した。


 2000年前後に連続して起こった「ヒキコモリによる犯罪」によって、ヒキコモリは「犯罪者予備軍」として人口に膾炙した。それ以後も「ヒキコモリは甘えだ」*4云々と主に保守的な人々による非難が続いたが、斎藤氏は徹底してヒキコモリ擁護にまわり、TVなどでの発言を続けた。現在では、NHKのサポートキャンペーンをはじめとして、「ヒキコモリ当事者は苦しんでいる」がマスコミ報道の前提となっている*5。「社会問題に精神科医の発言が求められる」という状況を意識的・戦略的に逆手にとって、意図的に権威として振る舞ったわけだ(個人的には、これ以上はないくらいに気さくでフレンドリーな知人なのだが)。


 実は「ヒキコモリ擁護」というのは左翼陣営の人たちもしていて(「資本主義の犠牲者だ」など)、だから斎藤さんだけの功績ではないのだが、イデオロギー的な主張にはない細やかなディテールを持ったヒキコモリ論をしているという意味においては、斎藤氏の功績は大きい*6。最近では安易な斎藤批判で何かを言ったつもりになる人が多いが、やはり戦略的には斎藤氏を擁護しておくべき場面が多い。(難しいのは、ひきこもりが「医療」という枠組みだけでは扱えないテーマだということだ。これについては後述。)



「餓死」というテーマ設定 「餓死」というテーマ設定を含むブックマーク

 ・・・・そう、そういう戦略的な意味合いにおいて、僕は韓国で失敗したかもしれないんだ。

 僕は会議前には、「今回の会議では、何か発展的な論点を示せないか」と息巻いていて、それを集約した話題が「餓死」というものだった。


 当事者も親も若い間は、ヒキコモリは「親が面倒を見るべきか否か」という価値観的な論点で話がすむが、両者ともに高齢化し、親に扶養能力がなくなると、ヒキコモリは価値観の問題ではなく「生きるか死ぬか」という問題になる。端的な話、お金がなくなるのだ。もちろん親も間もなく死ぬ。そのとき、どうするか。働きに出て、稼ぎを作れるか。それとも、閉じこもるしかできなくて餓死するか。


 ちなみに「餓死」という死に方は、きわめて「ひきこもり的」だ。飛び降りや首吊りは、「扉を開けて死の世界に出てゆく」というイメージがあるが、餓死には、「ひきこもったままなし崩しに死んでゆく」というイメージがある。


 「働くぐらいなら死んだ方がマシ」という、子供っぽくはあるがきわめて実感のこもった当事者の言葉を紹介しながら、家を出て働くということがいかに当事者にとって苦痛か(餓死は合理的選択でさえある)、また、斎藤環氏はご自分の立場として「数人の友人ができるまでが精神科医としての私のミッションだ」というのだが、本当のハードルは「それ以後」、つまり就労&その継続にあるのであって、多くの当事者は僕も含めて「経済的自立」の問題で行き詰まっている。これまで、日本のひきこもり関連のシンポジウムではパネラーは精神科医かカウンセラーだったわけだが、今後は労働や雇用問題の専門家にも参加してもらうべきではないか。


 会社勤めをしている友人の多くは、仕事をして生きていくことは本当に苦しいことだと繰り返し言い、「ひきこもっている人に、『家を出ればこんなに素晴らしい人生が待っているから、だから出ておいで』とは、とても言えない」とつぶやく。経済状況や労働環境の問題が、明らかに「ひきこもり」に関連しているのだ。【この1段落の内容は会議では触れていない】


 ハローワーク(職業安定所)では、仕事の紹介はしてくれるが、心のケアはしてくれない。逆に精神科医に相談に行くと、精神的な悩みの話は聞いてくれるが、仕事のことを相談しても「まぁ、焦らずにいきましょう」としか言ってもらえない。

 多くの人は「仕事に就けない/続けられない」から深刻に苦しむのであって、心のトラブルと就労問題は密接に関連している。つまり、精神科医とハローワークの両方(厚生労働省の「厚生省」的側面と「労働省」的側面の両方)の機能をあわせ持った相談機関が必要なわけで、


 云々・・・・といったことを話した、わけだが・・・・。


 気がついてみれば僕の発言はほとんど顧みられないまま、「治療せねば」というテーマ性ばかりが先行してゆく。しまった。ここは「発展的な」発言を目指すべきじゃなくて、まずは斎藤環の主張をインストールしてもらわねばならない場面だったんだ*7。うかつだった。


 「ヒキコモリそのものを治療すべきというわけではない」という前提をすっ飛ばしていきなり「労働」の話をしてしまうと、「働け」という強圧的な説教と取られかねない。それを避けるためにも選んだアクロバティックな論点が「餓死」だったのだが、あの韓国側の雰囲気では、危機感を煽ってしまい、ますます「治療せねば」と思わせた気がしてならない。



――――――――――――――――――――――――


休憩時間 休憩時間を含むブックマーク

 共同通信(だったと思う、ウロ覚え)の記者さんに呼び止められる。会議にあたって、どういったことをお考えですか、と聞かれたので、「ヒキコモリは若い間は価値観の問題ですむが、高齢化とともに生き死にの問題になってゆく」という趣旨の発言をする。(帰国後に関東の知人が教えてくれたが、あちらではその発言がそのまま僕の名前とともに記事になっていたらしい。)


 休憩中、斜め向かいに座っていたイ(Lee Si Hyung)氏が僕に日本語で優しく話しかけてきた。(あの世代は皆さん話せるんですね・・・)

「また自分がひきこもってしまうかもしれない、と思いますか?」

「うーん、難しい質問ですね。また引きこもってしまうかもしれません。そうなってしまうのをとても恐れています。いや、本当にわからないです。いや、正直、本当にツライ質問です」

「あー・・・・」と、笑いながら溜息をつき、後ろに身をのけぞらせたイ氏。個人的にお話するには悪い方ではないらしい。とても好印象。



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社会的・人文的観点 社会的・人文的観点を含むブックマーク

 後半が始まった。


 鈴木謙介さん*8、漫画家のイ・ヒョンソク(Lee Hyun Seok)さん(都立大に留学中)*9が、社会学の観点から興味深い指摘をしてくださる。高度成長期を終えた日本の事情、日本と韓国の若者文化の変遷、日本で好まれる宗教の変遷(来世利益から現世利益へ?)など、とても面白かったのだが、詳細は忘れてしまった(『中央公論』の記事でも取り上げられておらず、残念)。とにかくこれらの発言で、今回の会議でやっと呼吸ができた感じ。いやはや。


 鈴木・イ・両氏の社会文化論的指摘についても、韓国側の精神科医たちはとまどっていたようだ。そういう議論を聞かされること自体を想定していなかった、という風情。やはりポカンとしていた。【付記:と、僕は思ったのだが、斎藤さんのレポートによると韓国側の精神科医にも「社会的問題として」捉える方がおられたようだ(Yeo In Joong 氏)。これは僕の印象間違いか?】


 このとき、物凄い大活躍を見せたのが漫画家のイ・ヒョンソクさん。通訳やマスコミを含む会議参加者の中で、日本語と韓国語の両方を完璧に理解し、かつ両言語の理論タームを熟知しているのがイさんだけだったのだ。イさん自身の日本語がとても的確で問題をよく捉えているから、「この人に翻訳してもらえれば的確に伝わっているはずだ」という安心感がある。イさん自身はまず日本語で意見を述べて、それから自分でものすごいスピードで翻訳していた。他の場面はともかく、この社会学的な観点を導入した議論の場面では、イさんがいなければやり取りが成立しなかった。


 ところでこのイさんの発言で興味深かったのは、「日本に来て、すごく楽になった」という点。韓国では一人で外食をしていると「なんだアイツは」となるらしい。ところが日本では何も言われない。すごく楽だ、と。どうも韓国では、「仲間と一緒にいること」が当然の社会行動として要求されるようだ。

 うーん、それは確かに苦しいぞ。



「解決」ではなく 「解決」ではなくを含むブックマーク

 他にもネット中毒の問題など、いくつかの話題が出たが、会議全体を覆う「治療対象としてのヒキコモリ」という雰囲気がとてもつらくて、実はそれ以上はあまり覚えていない。


 発言者席に座っている当事者は僕だけだったが、会場には他にも日本人当事者がいて、短い発言を求められていた。一人はたしか18歳の男性で(これから大学を目指すという)、韓国側の精神科医から質問も出ていた(内容は失念)。



 会議の最後、司会者の方が締めとして、「・・・ヒキコモリの solution を・・・・」という言葉を口にされたので、「ちょっといいですか」と手を挙げて、発言を許可してもらった。

 いま、「solution(解決)」という言葉を使われました。先ほどからも「臨床」ということが言われているわけですが、ヒキコモリを「治さなければならない」とだけ考えてしまうと、その「治療」というテーマ設定がほかの議論すべてを排除してしまって、議論そのものがものすごく貧しくなるんですね。で、その議論の貧しさが、ものすごいストレスを生むんです。

 ひきこもりというのは、本人自身にとっても「なぜこんなことになってしまうか」が分からない、あるいは親や精神科医、支援者など、関係者のすべてにとってもその理由がわからない――ということは、どうすればいいのか誰にもわからない――状態で、その意味で、誰にとっても≪問い≫だと思うんですね。

 韓国側の皆さんにぜひお願いしたいんですが、どうかその「ひきこもりは問いである」という認識を、共有してもらえないでしょうか。

 だいたいこんな話だったと思う。翻訳されたら、何人かの方がメモを取っていた。どうか伝わっていますように。(この最後の発言は『中央公論』記事では全面カット)



 司会者が会議を締めくくった。


 いやあ、疲れたずら。マジで。






いま思うこと いま思うことを含むブックマーク

 「ヒキコモリ」の問題は、それがひどい苦痛を伴うという意味においては「医療」の問題だし、日本においては文脈上まずは精神科医が啓蒙のイニシアチヴを取る意味があったと思う(「犯罪者予備軍」「甘えている」という偏見に対抗するには、いったん医師が「医療」の問題として取り上げ、しかもその当の精神科医自身が「ヒキコモリ」を肯定する、というアクロバティックな身振りが必要だったのではないか)。


 だから文脈上・戦略上の意義は無視できないし、それだけでなく内実としても精神科医の方々に果たしていただきたい役割は重大だと思うのだが(僭越な言い方でスミマセン)、「ヒキコモリ」という大きなテーマ設定を俯瞰的に考えてみれば、「医師」に担える役割というのはあくまで部分的なものであることに気付く。

 しつこいようだが、医師の役割を軽視したいのではない。「医師」という肩書きがなければできない手続きや対応があるのだし(行政との関係、クスリの処方、他疾患の可能性の診断など)、相談窓口としてはどうしても必要な存在だ。

 だが、会議録でも少し触れたように、ヒキコモリというテーマには様々な要因が絡んでおり、中でも本質的なのは社会的・人文的要因*10、そして「職業生活」だと思う。


 社会的・人文的要因ゆえの苦痛、そして「働けない」がゆえの苦痛――そうした事情において、「精神科医」が果たし得る役割はおのずと限られてくるはずだ。【付記:斎藤氏はこの僕の指摘をレポートで取り上げてくださっている。こうした点も、僕が彼を信頼できる理由だ。】


 斎藤環氏は「精神科医」という立場に立ちつつ、精一杯「倫理的」に振る舞おうとしているのだと思う。そしてヒキコモリが「医療」という枠内では扱いきれないテーマであるとしたら、彼(精神科医)が為しえない仕事は、他のポジションにいる人間が担わなければならない。



 僕自身は、自分の最大テーマは「苦痛除去」だと思っている。だからその意味で僕の発想は医師的だとも言えるのだが、人間の苦痛を除去するには、体のことだけを考えていればいいわけではないし、そもそも「医療的」に振る舞えば振る舞うほど、苦痛をいや増してしまう、という皮肉な事情がある(「臨床的」であろうとすればするほど「臨床的」でなくなる、というような)。

 僕自身は社会的には医師というポジションにはないわけだから、人文や経済を含んだ、もう少し領域横断的な発想をするべきなんだろう。


 ところで斎藤さんは『ひきこもり文化論』(ISBN:4314009543)という人文的な本を書かれている。その書評でも書いたが、既存のヒキコモリ論に欠けていて自分が必要だと思う論点については、各人が自分の力で提出し奮闘するしかないのだろう。ないものねだりではなく、自分が実際にやってみせて魅惑すること!(ああ、またれいの論点だ!)



 というわけで、おしまいおしまい・・・・。


 ご清聴ありがとうございました。



(幕)



P.S. 3月27日、大阪で、関西の民間支援団体や行政相談窓口の「合同説明会」*11があり(画期的なガイドマップも配布されました*12)、その前座のシンポジウムで、永冨奈津恵さんとパネラーをしてきました。やっぱりいろいろ考えたので、またレポートしまーす。約束を破るかもしれない前提でお待ちくださーい。





【注】

*1:ヒキコモリ当事者が実名や顔を晒すことの是非については、後日また取り上げたい。

*2:これは斎藤環氏の面接室を訪れた人の中での割合だと思うので、もう少し大きな母集団で調査した場合にどうであるかはわからない。 → 日本でのネット普及率と比べたらどうなんだろう。一般には、「ひきこもっている奴はネットばかりしている」というイメージがあるような気がするが。

*3:日本の「ひきこもり」の文脈においては、朝日新聞記者の塩倉裕さんを忘れることはできないのだが(塩倉さんの新聞連載は斎藤さんの本より前だ)、日本の文脈では「精神科医」たる斎藤環氏が権威に据えられることになり、マスコミのコメント依頼は斎藤氏に集中した。「精神科医」にすべてを頼ろうとすることへの疑問も含め、そういう文脈上のいきさつは踏まえておくべきだと思う。

*4:私見では、ヒキコモリは「甘え」の問題ではなく「絶望」の問題だ。

*5:NHKの番組にありがちな「ボクたちのことをわかって欲しい」みたいな取り上げ方に問題がないとは思わないが(個人的には激しく苦手)、非難の論調よりはマシというか。その辺の戦略は難しいです、ハイ・・・・。

*6:一般向けのレポートとしては、斎藤氏のものより塩倉裕氏のものが読まれたのではないかと思うのだがどうだろう。僕は「当事者」という立場であり、身近でお付き合いがあるのも当事者やご家族ばかりなので、一般の読者にとっての事情がどうであるのか、よくわからない。

*7:いや、そもそも韓国側からすれば斎藤氏の主張も「日本側の事情」であって、「韓国側は韓国側」なのだろうか。この辺、今の僕にはまだよくわからない。

*8:会議について、鈴木謙介さんご自身のエントリがあります。

*9:精神科医のイ氏と混同してしまうが、韓国では「名字」がものすごく少なくて、5つぐらいでほとんど全国民を網羅できるとか。だから銀行で呼び出されるときも、名字じゃなくて下の名前で呼ばれるんだって。

*10:少々唐突に聞こえたろうか。これは今後考えていきたい問題だ。

*11:これがいかに画期的かは、少しでも支援業界の事情を知っている人ならお分かりでしょう。

*12:入手希望の方は「A’ワーク創造館」までお問い合わせください。1部1000円です。「ひきこもり支援団体のガイドマップが欲しい」と言えば通じるはずです。

hikilinkhikilink 2004/04/04 13:24 「現在では、NHKのサポートキャンペーンをはじめとして、「ヒキコモリ当事者は苦しんでいる」がマスコミ報道の前提となっている*5。」はほんとうにそうですよね。冷静に考えてみれば驚くべきことですね・・・。斎藤さんに感謝。

ojahumojahum 2004/04/05 15:06 意欲的なレポート、すごいです。ひきこもり業界(?)のビッグネームの斉藤さんや、韓国での会議に出席となると、もう、上山さんは遠い存在になってしまわれた、って感じがしたりして(笑)。文字で読む誰かのお話が、自分の日常と連続している実感がもちにくい意識のあり方って、ひきこもりちっくなんでしょうか。その気になれば、淡路プラッツに言って、上山さんのご尊顔を拝見することも可能ではあるんですが(笑)。

ojahumojahum 2004/04/05 15:08 淡路プラッツって、淡路島だと思ってたから遠いなあ、と思ってた。阪急の淡路駅で降りる、あの淡路なんすね。。w

hikilinkhikilink 2004/04/05 16:58 僕も最初は淡路島だと思ってました(笑)

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/05 17:17 淡路島に「淡路プラツツ」を作って混乱させる活動に1票。

BrittyBritty 2004/04/06 01:16 プロ野球のスコアボードでもフルネーム表記しますな>韓国

2004-04-01 ひとまず再起動。


 あのう、お久しぶりです。上山です。


 このブログでいろいろつらい思いをしてしまって、書けなくなり、3ヶ月放置してしまいました。ごめんなさい。

 いろいろ悩んだのですが、試験的に、「はてな」で再開してみます。(ダメなら、また停止か、他のブログ・ツールを検討してみます)


 個人的な友人たち、メールをくださった皆さん、あるいは直接お会いした方々に、感謝します。


 なお、当ブログは、本日より方針がだいぶ変わります。更新頻度もぐっと落ちるでしょうし、以前のようなレスポンスやコンテンツを期待してくださる方々には、物足りないかもしれません。どうか、寛大な目でお付き合いくださるとうれしいです。

 ご期待には添えないと思いますが、ご意見・ご要望をいただけるのもありがたいです。いろいろ微調整していくつもりです。


 それでは、どうかよろしくお願い致します。






ここに、「★読んでくださる方々へ★」という文章があったのですが、 ここに、「★読んでくださる方々へ★」という文章があったのですが、を含むブックマーク

こちらに移転しました。




hikilinkhikilink 2004/04/01 23:08 復活おめでとうございますヽ(´ー`)ノ

nonakanonaka 2004/04/02 08:31 待ってました!フザケた上山さんも面白そう。最近、面白い夢見ませんねえ。。。

aimeeaimee 2004/04/02 08:54 いえーい、再開おめでとう。お互いアホやって楽しみましょう。ああ、今日も朝から残業(ええ、朝が残業なんです)。脱出するぞ。

ojahumojahum 2004/04/02 14:58 一年以上前、ご著書の感想を上山さんにメールで送りつけてしまいました一読者です。夢ということなのですが、ぼくは、明晰夢という、目が覚めてからも、あまりにリアルでどっちが現実なのかしばらく区別がつかない夢というのを何度か体験したことがあります。かなりSFチックな夢だったのですが。フロイト的な夢解釈はあまり知りませんが、以下の本なんか、興味あります。まだ読んでないんですが。いずれ、読みたいと思っています。→http://web.kyoto-inet.or.jp/people/arisu/syo_mei.htm

ojahumojahum 2004/04/02 14:59 移転完了でごんす。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/02 15:15 サンキュー!>ojahum さん。他の皆さんも書き込みありがとう!

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/02 16:19 「夢か現実か分からない夢」もあるが、「夢の中で≪夢だ≫と気付く夢」というのもありまするな。◆「現実の中で≪現実だ≫と気付く現実」というのは、aimee みたいに殺人的に忙しい人には残酷な体験・・・・俺もイヤだけど・・・・。「忘我の境地」を求めてやまないものであります。

bmpbmp 2004/04/02 16:34 おかえりなさい。

RirikaRirika 2004/04/02 19:40 わたし待ちましたわ。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/02 22:27 かえりました。この子どこの子。たしま理絵か。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/02 22:28 お返事しまくりやんけ。(以後沈黙予定)

杉田@http://www5c.biglobe.ne.jp/~sugita/index.htm杉田@http://www5c.biglobe.ne.jp/~sugita/index.htm 2004/04/03 17:06 上山さん、お久しぶりです。以前お会いした時にお聞きした内容を私的にまとめたので、今度メールで送ります。ではでは。

hallcinhallcin 2004/04/05 00:21 再開おめでとうございます。嬉しいです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/04/08 03:13 なんかたくさんコメントいただいて嬉しいかぎりです。

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