ギュゲス、あるいは症候的脱落者 → ≪内部と外部≫

こんにちは、はてな大学で勉強中の上山です。
4月12日のコメント欄に、id:Ririka さんが『責任と正義』(ISBN:4326601604)からの抜書きをして下さっています(ありがとう!*1)。


「ギュゲスの指輪」については、たとえばここを参照ください。要するに、「透明人間ツール」ですね。

 人々は《不正がばれたら困る》と考えてしぶしぶ道徳に従っているのであり、もし不正がばれないのであれば誰でも不正を行なう方が得だと考えるだろう

「姿を消すことができるならみんなそうする」、つまり「降り」られるなら降りるし、見つからないなら悪さもする(「道徳を守ろう」ゲームから降りる)、と。その「姿を消した=降りた」人たちを「制度の他者」・「脱社会的存在」と言うようなのだが、引きこもりについて考える場合には少々事情がよじれている。


ヒキコモリ当事者は、経済・社会生活を送れないという意味では「制度の他者」だが、価値観(内面生活)においては過剰なまでに「制度内的」・「適応的」であることが多い。「人間はこう生きなければならない」「男は〜でなければ」といった規範意識がきわめて強烈なのだ。 → 意識においてはきわめて「制度内的」なのに(というよりも「それゆえに」?)、具体行動においてはなぜか「脱社会的」になってしまう、という事情。
★意識的・自覚的な損得計算に基づいた行動選択としての「降りる」ではなくて、「can't help quitting」のようなもの。いわば「症候的脱落」。
ただ、もちろん「自覚的選択」なのか「望まざる選択」なのか、というのは微妙な問題なわけで。


「働かなければならない」「人間関係を持たねばならない」といった規範が社会を覆い尽くすのはたまらんが、こうした議論から見えてきたのは≪内/外≫のゲーム。
どこかでジジェクが、「現代世界では、誰もが『内側に入らなければ』というゲーム巻き込まれており、そのためのバトルがあちこちで展開されている」*2という趣旨の発言をしていて、ずっと気になっていたのを思い出した。彼は現代資本主義について語っていたのだと思うが、考えてみると「内/外」というバトルはいろんな形で見出せる。思いつくまま列挙してみると・・・・*3



*1:といいながら、id:Ririka さんの期待に添うような議論はぜんぜんできていないと思います。すごく大事な刺激をいただいて、あとは自分の議論を展開してみた、という感じ。申し訳ない。

*2:どの本でしたっけ。

*3:我ながら稚拙なメモの羅列ですが、これが僕の現状です。アホなこと言ってたらご指摘お願い致します・・・。

政治

  • 国際政治は、「誰が制度の他者か」というバトルなんでしょうか。*1
    • 「≪世界を覆い尽くそうとする資本主義≫vs≪イスラム≫」という構図解説をたまに耳にするんですが、どこまで信じていいのやら。


  • 日の丸・君が代問題で教職員が処分された。
    • 僕はこの話、「文化的忠誠」の話と「行政登録」の話をゴッチャにしていると思うのだが。行政登録上「日本人である」ことは、イコール「日の丸・天皇を信仰する」ことを意味しないはず。
    • 僕は日本食や和室が好きだが、それが「信仰か」と言われるととまどう。ましてや「日本人なら信仰しろ」は暴力としか思えない。
    • 「日本が侵略(攻撃)を受けたらどうするのか」というのも、工学的なセキュリティのイメージで考える。「愛国心」「日本人なら」みたいな「降りるなゲーム」は、動員スキームとして今でも有効なんだろうか。
    • サッカーのワールドカップやオリンピックを観ていると、やはりいつの間にか日本を応援している。でもそれは、高校野球でなんとなく自分のいる県の学校を応援するのと変わらない。
    • 僕は関西に住んでいるが、「関西人なら阪神タイガースを応援するのが当たり前やろ」と絡んでくる連中にはウンザリ。
    • 完全に社会から排除されていた個人が、「天皇陛下万歳」で「内側」に入れる、という事情もあるんだろうか。
    • 拉致事件や人質事件に関連して、20代の人が「非国民」という言葉を当たり前に使うのをネットやオフラインで何度か目撃した。これって少数派なんだろうか。それとも大きなトレンドなんだろうか。ものすごく不穏なものを感じる。


  • イラク開戦以来の米兵死者は600人を越えた(!)というが、そのニュースよりも「日本人の人質が3人」という方が僕らはショックを受ける。
    • ジジェクの「社会的想像界」という言葉を思い出す。人質問題にはもちろんいろんな要因があって難しいのだが、「私たちと同じ日本人が」という感情移入的要因は無視できない。「外側」のアメリカ人が何人死んでも大丈夫だが、「内側」の日本人が人質になるのは耐えられない、という事実。
    • 同じ事情は、他のいろいろな社会問題や、あるいはもっと個人レベルの話にも言えるかも。TVのニュースで赤の他人の殺人事件を聞いても大丈夫だが、身近な人間が事故で重傷を負えば耐えられない。客観的事実として「死んでいるほうが重大だろう」という説得は、コンスタティヴには正しくとも、パフォーマティヴには無力だ。
    • そういう感情面での事情とは別に、やはり「客観的な」、いわば行政登録レベルの理解も必要だと感じる。それは「公私を分けて考える」ということだろうか。あるいは、「自分を相対視する」ことだろうか。政治家や公人に要求されるのはそういう姿勢だろうか。いや、でも「代表する」(represent)という要因もあって・・・・。(混乱)




*1:波状言論」の北田鼎談でもそういう話題が出てましたね。ところで北田暁大さんははてなダイアラーでした(id:gyodaikt)。失礼しました。

文化的排除と経済的排除*1

  • 「引きこもりの問題はカネさえあれば解決する」という言い分を聞くことがある。
    • 成熟した資本主義社会である日本では、文化的に「脱社会的」であっても、お金さえ持っていれば、経済的には制度内の存在でいられる(という意味だろう)。
    • 「カネさえあれば」というのだが、それは「タケコプターさえあれば」という仮定に近い。多くの自殺者は経済的理由によって死んでいる。彼らだって「カネさえあれば」死なずにすんだのだ。
    • 就労の局面においては、文化的要因から「脱社会的存在」にさせられてしまうことが多い。年齢差別や「履歴書の空白」など。「経済的効率性」は、文化的排除の口実となることがある → 逆に言えば、文化的排除は経済的実績によって覆すしかないのかもしれない。


  • 「社会の外に追いやられた存在=弱者」について。
    • 社会保障というのは、放っておけば競争社会の中で「脱社会的存在」になってしまう弱者を、ふたたび「社会」のスキームの中に繰り込むプロジェクトだろうか。
    • 杉田さんの言う「弱者が弱者を叩く」構図も、「俺とお前でどっちが内部的存在か」という椅子取りゲームみたいなものか。最初から内部的存在たりえている人はそういう惨めなバトルをしないですむわけだが、「仕事をしないで生きられる」人以外はつねに脱落の恐怖に怯えているし、実は資産家といえども、その資産家としての生き方を「社会に承認してもらう=内部的存在として扱ってもらう」必要があるのではないか。
    • 前段とも関係するが、とにかく「経済的脱落者」にならないことが最優先課題だと思える。


  • 引きこもりは、「脱落者が親に保護されている」状態*1
    • 家を追い出せば、それは単純に「保護されない弱者」として排除され、死に近づく*2。それは「だから同情してくれ」というのではなく、「別の形の社会問題になるだけ」ということ。
    • 「自分は社会から排除された存在だ」という当事者の意識は、おそらく必要以上に肥大している。もちろん、イジメ被害や経済的挫折からくる絶望ゆえだろうが、「必要以上に」肥大させる必要はない → その絶望的自意識をつつきまわして楽しむのがヒキコモリ批判者たちだろう。
    • 実は、引きこもり当事者を軽蔑し排除する機運が高まれば、当事者の絶望は現実的なものとなる。文化的排除は、明らかに経済的排除につながるからだ。

「競争を激化して脱落者は切り捨てる」のか、それとも「なるだけ脱落者の出ないシステムを目指す」のか。 → これはそのまま政策論争ではないのか?



*1:もちろん「資産家の隠居」という例もあるだろうが、自主的隠遁で苦痛がないなら「支援」の必要さえないし、仮に苦痛があるとしても、「働かなくていい」のであれば支援のアプローチはずいぶん違ったものになるはずだ。

*2:ホームレスとして生きていける当事者が多数派だとはとても思えない。

「味方のつくりかた」

「社会的脱落者には味方がいない」という問題。

  • 引きこもっている人間が最も切望するのは「味方」という存在でありその感覚だと思うが、社会から脱落してしまい、明確な仕事や活動を持たない人間が「味方」を得ることはとても難しい。課題共有がないからだ。
  • じつは「課題共有ができない」ということが、僕らの生きづらさの根幹にあるような気がするんですが、いかがでしょうか。
  • 「日本人」「引きこもり」といった共同体的アイデンティファイによってではなく、「課題共有」による開放系の味方作りが重要だと思うのですがいかがですか。




「絶対的貧困」

あまり言うと、また「左翼だ」とか安易なレッテル貼られそうですが・・・。

  • マルクスは、「①自分という労働力商品を自由に売りさばける ②あらゆる労働条件から切り離されている」という「2重の自由」に陥ったプロレタリアを≪絶対的貧困≫という言葉で形容していたと思う。つまり「外部に追いやられた存在」とその「再内部化」のダイナミズムに希望を見出していたということか。
    • しかし労働者は(おそらく左翼系の社会運動のせいもあって)マルクスの言うような形では「絶対的貧困」に追い込まれず、だから転覆要因にはならなかった、というのは間違った理解なんでしょうか。


  • 引きこもり当事者は親に扶養されているので、餓死の段階はともかく現在の経済事情としてはまさか「プロレタリア」と比較はできないのですが、当事者の主観事情を説明するのに、「絶対的貧困」というマルクスの言葉はとても魅力的に見えます。
  • 外界の条件としての「主体的労働力と客体的労働条件の分離」*1が内面化された、と考えるのはあまりにもお決まりの発想?*2


  • 「じゃあなぜ日本に突出して多いか?」となりますが・・・・。
    • コジェーヴが資本主義爛熟以後の世界を「アメリカ的動物」と「日本的スノビズム*3」と表現していましたが、今の日本で元気に生きているのが「動物的」*4な人たちだとすれば、引きこもってしまう人たちというのは、絶対的貧困」を空虚な形式として強迫的に反復している人達なのではないでしょうか。




*1:資本論

*2:「存在が意識を規定する」ってやつですね。僕は1987年に予備校の講師から聞かされてずいぶん感動したのを覚えています。

*3:否定性をともなわない、空虚な形式の反復

*4:東浩紀さんの表現

自由――「分離と接続」

立花隆『宇宙からの帰還』ISBN:4122012325 にあった、バックミンスター・フラー*1の印象的な言葉 : 「それぞれの人にとって環境とは、『私を除いて存在する全て』であるにちがいない。/それに対して宇宙は、『私を含んで存在する全て』であるにちがいない。*2

  • 「水の中に水があるように存在する」動物*3と違って、人間は世界から分離されている。
    • 再接続を試みるときに、「課題共有」と「労働」の局面を強調する僕は「象徴界的」であり、「自然との一体感」「共同体感情」などを強調するのは「連続性の想像的回復」ということか。
    • 東浩紀さんが「アディクション」を強調されていたのがとても印象的。
  • 「分離 → 連続性の回復」の再生産が人生の全てだと思うのですが、分離のされ方が「運命」として各人に与えられるとして、「再接続の作法・方法」にこそ、各人の掛け金があるということか。(経済的困窮は、僕らから考える余裕を奪う。)


  • 「自由」の問題を、「分離と接続*4」の問題として考えるのは変でしょうか。
    • 「降りられない社会」は、「降りたが最後 再接続のチャンスはない」ということでしょう(共産圏とかファシズムとか共同体主義とか)。
  • 僕らにとっていちばん切実なのは、日本の社会では一旦ドロップアウトした人間は極端に再復帰しにくいということです。つまり日本は、就労の問題において「降りようにも降りられない」社会だといえる。
    • 「降りる自由」は、人文的にはもちろんですが、何よりも経済的に実現すべきではないでしょうか。「人文的な≪降りる自由≫の条件は、経済的な≪降りる自由≫である」というのは言えませんか?




*1:宇宙船地球号」はこの人が言い出しっぺなんだって。

*2:原文:『Environment to each must be “All that is excepting me.”/Universe in turn must be “All that is including me.”』

*3:ジョルジュ・バタイユ

*4:たとえば宮台真司さんが語っていた「政治からの自由と政治への自由」は、「分離の自由と接続の自由」ですね。

ずるずる。

頭から湯気が出そうなので(笑)、今日はこれぐらいにしておきます。
要するに、「問いを明確にする」作業だったわけですが、僕のメモのどこが稚拙でどこを伸ばすべきなのかを、勉強しながら少しずつ考えていきたいと思います。部分的にでも、課題を共有してくださる方がいるとうれしいのですが・・・・。









誰のルサンチマン?

僕の「嫉妬」についての発言を、「ルサンチマンの典型」と受け止めた方がいました。
うーん。正直、誤解としか思えません。軽蔑されてしまったようで、放置すべきなのかもしれませんが、「ひきこもり」へのリアクションとしては典型的かもしれないので、いちおういくつか反論を試みてみますね。

 親の金で暮らしている人間がみな「裕福な人たち」なのでもないし、まして「楽しく人生を謳歌している」わけでもない。

いや、それは当たり前なんですが、僕は「働く必要がないほど裕福で、かつ楽しく人生を謳歌している人たち」に限定して喋っているわけで・・・・。「親の金で生きている人」のうち、「裕福で楽しんでいる人」と、「貧乏で苦しんでいる人」(ヒキコモリ)を対比させて、「どうして後者ばかりが悪く言われるんだろう」と言ったわけです。
この点がすれ違ってしまっているので、以下に言われていることは全てすれ違いです。


「社会に出て傷つき苦しみながらも頑張っている尊敬すべき人達」を持ち出して引きこもり当事者を侮辱する、というのは、説教スキームとしてはあまりに陳腐ではないでしょうか。――というより、実はその侮辱図式は引きこもり当事者の内面にこそ最も強烈に存在するのです。「みんな社会に出て頑張っているのに、自分はなんてクズなんだ」。


ルサンチマン」というのは、たしかに引きこもり当事者に付いて離れないテーマだと思いますが*1、僕の発言に関して言うならば、むしろ問題にしなければならないのは「引きこもり当事者に嫉妬する人たちのルサンチマン」じゃないでしょうか。
「傷つき苦しみながらも頑張っている友人たち」を敬愛するのは僕も同じです。そして、彼らと付き合えることに誇りと感謝を感じていることも。また、「裕福に幸福に生きている人たち」が軽蔑されるべきだとも思いません。みんなが「裕福に幸福に」なれればいいに決まってる。――少なくとも今回非難を受けた発言においては、僕自身が誰かを嫉妬していたわけではなかったと思います。


僕のあの発言がこういう誤解に遭うということ自体が、ヒキコモリを巡る現在の文脈についていろいろ物語っているのかもしれません。TV番組でも、「ボクのことわかって!」みたいなベタなのが多いですからね・・・・。 → これについては、「当事者語り」の置かれた文脈ということで、ちゃんと考えてみるべきなのかも。



*1:滝本竜彦さんの『超人計画ISBN:4048734814 は冒頭がこの話でしたね。いや、じつは全部読んでないんですが(汗)。 ← 読んだ方がいいですか?