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[語句説明]

2004-06-30  権利 ・ 単独性 ・ 武道

「相手にされる議論」を作るのは、本当に難しい。



「差別」と「権利」の峻別 「差別」と「権利」の峻別を含むブックマーク

僕が「ひきこもりの安楽死」という話を出したことをめぐり、「上山はひきこもりを差別的に排除(抹殺)しようとしている」という危惧も(ごくわずかですが)出ているようです*1。 大事な論点を含むと思うので、すこしだけ。

以前僕は、「ひきこもりは≪病気≫か≪葛藤≫か」というエントリーを行い、ものすごい反響がありました。 今回の「安楽死」もそこに連なる話ですが、どうもこのあたりに「ひきこもりをめぐる核心的論点」があるようです。

あらかじめ書いてしまいますが、ここでは ≪差別(排除)≫≪権利≫ が踵を接しています。


「病気と見なす」 「遺伝子レベルでの有意の差異」 「安楽死という選択肢」 ――これらが≪差別≫という文脈で取り上げられるとしたら最悪です。 「ひきこもりは抹殺されるべきだ」と言っているわけですから。

しかし、≪権利≫という文脈で眺めてみてください。 ひきこもりが「病気」であり、「遺伝子レベルの差異」を持つことが確認されれば、社会保障への道はきわめて大きく開かれることになります。 さらに、客観的な事情に基づいて「激痛を伴う絶望」が確認されれば、「安楽死」という「権利」さえ発生するかもしれない*2


これまでにも何度か書きましたが*3、ひきこもりは、定義上「病気」ではなく*4、「遺伝子レベルでの差異」もない*5ために、本人自身は「致命的な無能力」を抱えているにもかかわらず、社会的には「働く能力がある」と見なされる。 → 現実的には「不可抗力の無能力」であるにもかかわらず、その不可抗力性を客観的に証明する方法がないために、社会的には「やればできる」としか見てもらえない。 すなわち、「働かないのは自己責任」=「死んでも自業自得」という話になる。


おわかりでしょうか。 「ひきこもっている人間には有意の器質的差異*6はない」という言い分は、「生物学的差別」には抵抗していても、「社会的な侮辱と排除」には加担する可能性があるのです。

「みんなが同じ条件を持ち、自分の自由意志でどんな結果も導き出せるのだから、ひきこもるのも自由意志の結果」*7――このように考えれば、ひきこもりへの社会保障は絶対に許されないことになります*8。 そもそも「引きこもっている人間が社会復帰するための支援」は、すべて(本人の自由意志を無視した)「引き出し屋」ということになる(本人自身が「助けてくれ」と言っている状況でも、「強引な引き出し屋」と言われるのは妙な話です)。


深刻な引きこもりの状況をわずかでも知っていれば、「自分の意思でその状況を選んでいる」(いつでもその状況を出られる)とは、口が裂けても言えないはずですが*9、某「ひきこもれ!」の思想家といい、現場を知らない人ほど、「ひきこもり」を自分に好都合に勝手に理想化するようです。

日本の現状では、ひきこもることは(特に就労との関連において)社会的に致命的なマイナス評価を生みます。 そういう白眼視をなくすためには、「ひきこもる権利」*10を主張する必要がありますが、それは「苦痛緩和」への支援とセットになる必要がある。 つまり、「ひきこもりは悪くない」を主張していただくのはいいのですが、それは「放っておいたら(本人の意に反して)死んでしまうかもしれない」、そういう「激痛を伴う不可抗力の状態像」の話だということも忘れてほしくないわけです。


ベーシック・インカムなど、「働かないでも生きていられる」という選択肢が社会的に用意されるのは、アマルティア・セン的な意味で「豊か」だと思います。 僕としてはその可能性も見据えつつ、やはり現状では「病気でもないのに働かない(と見なされる)奴は死ぬしかない」のですから、「ひきこもりは働ける」という主張は安易にしてほしくない。 本当に「不可抗力の無能力」であるなら、それ相応に「権利」を云々するべきだし、その権利主張に現実味がないなら、「絶望的な状態像」を解消するための方途(政策・訓練)を、模索する必要があります。


「本人の努力によってはどうしようもない絶望的な状態である」ことを最大限受け止めつつ、その状況を緩和・解消する努力も忘れないこと。

「絶望」を受け止めてくれない人は、苦痛緩和のためには何もしてくれません…。




「特異点」? 「特異点」?を含むブックマーク

id:essa さんが、「社会の中の極小値=特異点」と見る比喩について、詳しく書いてくださってます*11

「特異点」という言葉は、僕も数学や物理学の一般向け解説書で見かけて以来、ずっと気になっているのですが、ソーカルの批判などもあるし、この理系概念をどう使えばいいか、あるいは使うべきでないのか、考えあぐねているところです。 ひとまず、「議論の刺激になればいい」というぐらいに受け止めて、次のようなメモを書いてみることにします(essa さんへの批判やレスポンスと言うより、「特異点」という比喩の射程を確かめたい、という感じです)。


  • 「法則の崩壊」「宇宙検閲」といった話からは、「トラウマ」「原抑圧」「穴としての現実界」といった精神分析の議論を思い出す。
    • 「裸の特異点」ならぬ「裸のトラウマ」「裸の現実界」はない、というような。 「抑圧を完全に取り去る」ことはできませんし…。


  • ひきこもり=特異点=「社会の構造上、不可避的に生じる極小値」と考えると、「社会からはひきこもりはなくせない」となってしまうが、ひきこもり状態を身に引き受けた個人としては、自分が「不可視の暗部」ではなくなるよう、努力せざるを得ない。
    • いったん生じたブラックホールが解消不可能*12であるように、ひきこもりは「解消不可能=出口なし」だろうか。
    • 「特異点の発生」は、「本人のせい」だろうか、「社会のせい」だろうか。


  • ひきこもりは、「居場所がない」(放っておけば潰されて消えるしかない)という問題。 しかしブラックホールは(たとえば銀河系中心の巨大ブラックホールのように)それ自体が時空の構造形成に確固たるポジションを持っているし、数学の特異点は「必然的帰結」。
    • 「特異点の解消」という言葉もあるようですが、物理でも数学でも、特異点には「弱者」という要因はないと思うのですが。
    • 不可避的に追い込まれてゆくポジションではあっても、それが「弱さの極値 → 消えていくしかない」という無条件の運命ではなくなるよう、「権利」*13などの枠組みで守ることが必要だと思います。


  • 「ひきこもりという特異点」が「法則の成り立たない点」だとして、その点(point)はみずからの単独性(singularity)を放棄して、「法則に従う周囲」に同調すべきでしょうか。
    • 「法則に従わない」を、「制度の規範に従わない」と見れば、「特異点=脱社会的存在」ということになります。
    • 「周囲に順応するため、特異性を放棄する」には、「洗脳」という要因もあって難しい。 「自分へのこだわりなど捨てて、無心になって順応せよ」は、しごく真っ当な言い分であると同時に、危険なメッセージにもなり得る。
    • 特異性は、「自意識の問題」だろうか、「構造的配置」だろうか。


  • 特殊性と単独性」という話で言えば、物理や数学の「特異点」は、確定記述に還元できる「特殊性(particularity)」でしかない。
    • “この”ブラックホール」と言えば、単独性の話だが、それはすでに物理的な特異性(singularity)とは関係ない。 どんな物体でも「この」単独性であり得る。
    • 「ブラックホール」が天文ファンのロマンティシズムに結びつくように、主体が「特異点」に同一化することで「想像的なきらめき」に惑溺する(自分の窮状をそのままの姿でロマンティックに肯定してしまう)のは避けたい。


  • 物理や数学の「特異点」は「人間には改変不可能の法則(論理)」による帰結ですが、社会的に発生する最弱点としてのひきこもりは、どこまで「不可避的に生じる」と言い得るか。
    • 「最小値が存在する」ことは不可避でも、「排除されてはいない」を目指せないかどうか。


なんというか、破綻スレスレの(いや破綻してる?)きわどい記述ばかりですが、ちょっとは刺激になり得るでしょうか…。

こうやって書いてみて思ったのですが、やはり「理系概念の比喩的転用」は、「話を面白くする」(刺激になる、エンターテインメントになる、啓蒙的効果を持つ)という以上の意味はないような…。

理系概念には「不可避的運命」というニュアンスがつきまとうので、政治的な緊張関係をともなう話にそれを用いることには、やはり慎重であるべきかもしれません。

ただ、最近は「経済物理学」という言葉も登場しているそうで…。 信頼すべき可能性があると言えるんでしょうか。




単独性を僭称する特殊性? 単独性を僭称する特殊性?を含むブックマーク

宮台真司×奥平康平『憲法対論』ISBN:4582851649 を読む努力を続けていますが*14、どうもやはり「日本」について、「単独性」(代替不可能)を言うかどうか、がネックのように思えます。

天皇を、「法則の崩壊する」ポジション(特異点)として要請するにしても、それは形式的な要請(特殊性)であって、「代替不可能の単独性」ではないのではないか。つまりジジェク的に言えば、それは「世界中の国が採用」すべきものであって、「日本」だけのものではないのでは。


宮台氏は憲法の話をするときには「他の国にも通用する議論」をしているようなのに、「天皇」「日本」の「文化的」側面を問題にするときには、「代替不可能の単独性」を主張しているように見えて、その混乱が理解をひどくややこしくしています。

「憲法的枠組みは死守すべきだ」という話と、「日本を文化防衛すべきだ」という話とは、分けるべきではないでしょうか。




「居着き」 → 「非中枢的な身体」 「居着き」 → 「非中枢的な身体」を含むブックマーク

27日のコメント欄から、id:mommoo さんの「居着き」を思い出し、こちらの論文を読んでみました。 ひきこもり当事者(経験者)の苦痛緩和および「有力化 empowerment」のヒントになるかもしれないので、以下、簡単に引用しながらメモ。


 身体技法としての武道は、「武士道」や「忠君愛国」のような、ある歴史的状況に固有の社会的価値観との関連だけで理解できるものではない。

三島由紀夫との関連でこれは重要ではないか。


 おのれの生命身体についての過度の気遣いが不安を昂進させ、結果的に運動能力を低下させ、生命身体の危険がいっそう高まる。 この悪循環が「居着き」の構造である。

「意識しすぎるがゆえに何もできなくなる」という要因は、ひきこもりにとって絶対無視できないと思う。


 運動だけがあって反省のない身体、刺激の意味について省察する中枢を関与させないで反応する身体(「寸断された身体」「アナーキーな身体」)、これを私たちは以下では「非中枢的な身体」と呼びたいと思う。 (中略)

 いずれも「私の外部」に運動の操作主を想像的に設定し、そこに運動の支点や起こりを移すことによって、私の本体を完全に力みの抜けた一種の「操り人形」状態に置くことを技術的な「仮説」としている。*15

「不自由な自意識」に苦しむ身としては、大きなヒントを感じる。 ただ、

 敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときに、戦う者は最強となる。 なぜなら、彼にはもはや「守るべき自我」も「破るべき敵」もないからだ。 その身体運用はあらゆる「居着き」を去った融通無碍、完全に予見不能の自在境に到達している。 しかし、その最強の身体は、もう戦うことに意味を見出すことができない。

と言われてしまうと、欺瞞(は大袈裟にしても危機)を感じざるを得ない。 「戦わなければ消え去るしかない」身の上としては、「戦う意味」が消えることはない。 本当に「自分が消え」ていいのなら、排除されたまま滅びてしまってもいいではないか。

少々強引かもしれないが、僕はここに「単独性の抹消」を読んだのだが…。



社会生活をよく「ゲーム」に喩えるが、「武道」の発想を取り入れたほうが有用ではないか。「命のかかった真剣勝負」というような意味で。


この件はまたぜひ立ち返って考えてみたい。




*1:僕自身当事者(経験者)だし、「死にたいのは自分自身だ」と言っているのですから、冷静に考えれば「何をか言わんや」なのですが。

*2:しつこいようですが、判例を見るかぎり、「ひきこもり」に「安楽死」という話題を持ち出すのは、「激痛と絶望」を理解してもらうための論点でしかあり得ません。 ただ、経済的破綻や精神的苦痛について、救済の具体案を提示もせずに「命を大事にせよ」というのは、きわめて欺瞞的だと思います。 拷問のような生を放置しつつ、「その激痛を生き続けろ」と言ってるわけですから。 長期的には、「絶望の社会的実存」と「自己決定」をめぐる重要な話題であると思うのですが(「一人で勝手に死ね」は、絶望を「悲惨の中に放置」します)。

*3こちらこちら

*4:「精神障害を第一原因としない」とされます。

*5:「社会的ひきこもりの原因遺伝子」というテーゼは、「社会的」なものを「遺伝的」に説明する、という形容矛盾です。 「極度に過敏な感受性を持ちやすい遺伝特質」などはあり得るのかもしれませんが、それを特定しても「差別のため」ではないでしょう(たとえば「ガンになりやすい遺伝子」があるとして、その研究は「差別」のためではなく、予防や権利整備のためのはず)。 一定の特質を持って生まれているとしても、それが「社会的ひきこもり」という状態像に結実するには、相応の社会的環境が要るわけです。 議論を「遺伝子」に特定したがる人間は、肯定的であれ、否定的であれ、この「社会的」要因を無視しています。

*6:生物学的に特定できる差異

*7:思想的には、「リバタリアニズム」と呼ばれるのでしょうか。

*8:現実的には、≪不可抗力≫なのか≪意思的選択≫なのかの線引きは、客観的には不可能でしょうから、「ひきこもり」という状態像そのものへの社会保障の設定は、不可能ではないでしょうか。 あり得るとすれば、統合失調症や鬱病など、「精神障害」の診断が必要であり、そうするとそれはもはや「社会的ひきこもりへの社会保障」の問題ではなくて、「精神障害への社会保障」(障害年金等)の問題です。

*9防衛反応としての不可避的な状態選択、しかもその選択が「死に至る固執」である場合、それを「自由意志的選択の結果」と言えるかどうか――という問題は残る、と言うべきでしょうか。

*10:閉じこもること自体は犯罪ではないのだから、ひきこもりという状態像そのものは糾弾の対象であってはならないはずです。 ひきこもりというのは、糾弾されるまでもなく苦痛に満ちているし、糾弾されるがゆえに、社会復帰が不可能になっている面があります(「いったん脱落したら、二度と復帰は許さない」という日本の特質でしょうか)。 真に責められるべきは、「ひきこもりは悪いことだ」と言っているその目線そのものでしょう。 その目線が解消されるだけで、苦痛はかなり緩和されるし、復帰への道のりもつきやすくなるでしょう。

*11:うちに言及いただくときには「いつも緊張する」とのことで、お気遣いいただいて本当に感謝しています。 しかし、一方的な中傷ならともかく、essa さんが対話的な姿勢を保ちつつ発言くださっていることは明らかなので、なるだけ気楽に言及いただけるとうれしいです。 というか、ご本人にはチープな思いつきでも、案外そこに面白いヒントや刺激があるかもしれませんし…。

*12:ホーキングは「ブラックホールの蒸発」も言っているそうですね。ここでの比喩には関係ないですが。

*13:「権利」は文系の概念でしょうか。比喩に比喩で応じるようでまずいですが、ひとまずこう書いてみます。

*14:なんとまだ第二章を読み終われない(汗)

*15:強調は引用者。

LPitLPit 2004/07/02 02:59 とりあえず、ひきこもりの人達はもっと弱く生きるべきだと思います。いろんな意味で。「人間は強く生きなくてはいけない」という幻想はいいかげんに捨てるべきなのでは・・・?

2004-06-27  むしろ

どうも精神的にヤバイ、と思って、ある友人にすごく久しぶりの電話。 感謝。


いただいているレスポンスの論点を網羅することはできませんが、少しだけ頭を整理できたように思うので、書いてみます。



問いの焦点 問いの焦点を含むブックマーク

  • ひきこもりについて「安楽死(尊厳死)」を口にすることが、一つの「絶望」の表現だとして、それは「支援を考える人間」としての絶望であるとともに、「一当事者」としての絶望だった。
    • 僕自身が、「生に向けてのチャレンジ」を断念し始めていた。 つまり、安楽死したがっていたのは、誰よりもまず僕自身。
    • 僕の個人的問題でしかないならば、ブログに書き付ける意義はない。 しかし、「死にたい奴は黙って首を吊れ」は、「負け組は文句を言わず死ね」でもある。 「身体的に不可避な死」が目前に迫っていない人間にも「死ぬしかない」という決意があり得るとすれば、その決意自体が社会的に問題にされ、議論されることで、改善すべき構造的な矛盾が見えてきたり、「死ぬ必要はない」ことに気付くチャンスもあるのではないか。
    • 当然だが、公的に承認された「安楽死」が選択肢として用意されても、「黙って首を吊る」ことはできる。


  • 判例にもあるとおり、「末期の癌患者」に対してさえ妥当性が危ぶまれる現状では、「ひきこもりのための安楽死」は、お題目自体としてはほぼ戯れ言にすぎない。
    • ひきこもりの限界的な状況*1は激痛に満ちており、かつ「もはや打つ手はない」と思えるほどに絶望的 ――言葉を尽くしてそれを説明しても、ほとんど伝わらない。 しかし「安楽死」を話題にすれば、「激痛を伴う」「絶望的」といった問題設定はすぐに伝わる。
    • 僕という存在を自分のウサ晴らしに利用する人は、僕の発言のディテールなどどうでもよく、妄想的な揚げ足とりで騒ぎたいだけ。 読者の大半は良心的なのだから、僕も「1人の罵倒」を妄想的に全面化してはならない。 → 「良心的な対話的批判」と、「悪意ある独善的侮辱」を見分ける難しさ。


  • 「ひきこもりはそれ自体がトラウマになる」は、なかなか理解されない。 しかし「支援活動は、それ自体がトラウマになる」は、もっと理解されない。
    • ひきこもり支援は、人の家庭の最も致命的な局面、愛憎入り乱れる人の生き死にに関わること。 いいか悪いかはともかく、現状では命懸けの仕事。
    • あまりの激務に、支援者がどんどん倒れている。 「支援などするな、ひきこもりなど見捨てろ」という社会からの糾弾もある。 → 「当事者を守る」必要とともに、「支援者を守る」必要がある。 → ミッション・プログラム(線引き)の明確化が喫緊の課題。


  • 「癌患者が自殺した」といえば、そのいきさつや苦痛は社会の誰にとっても他人事ではない。 → 「安楽死」というテーマを通じ、絶望的な状況への処遇が公的に議論される意義がある、とされる。
    • ひきこもりは、「一部の脱落者」の問題であって、自殺者が出ようが、支援に絶望しようが、社会の圧倒的大多数にとっては「他人事」。 → どんなに絶望的で苦痛があろうとも、その処遇をわざわざ公的に議論する必要はない(「安楽死」も当然必要ない)とされる。 「見捨てておけ」と。
    • → むしろ真の問題は、「脱落者の自殺は、公的に問題視されるべきなのか」だと言える。 「そこに生じている苦痛や絶望は、社会的処遇の対象たるべきなのか」。 「安楽死」は、議論のテーブル設定としては役に立つ。


まだ議論としてはぜんぜん満足していないのですが、論点は変形してきたかな…。*2



入り口 入り口を含むブックマーク

「ひきこもり」というのは僕にとって「入り口」であって、そこを通じて、自分にとって大事なテーマにつながって行ければいいのだと思う。



「精度を増していく」 → 「楽しむ」 「精度を増していく」 → 「楽しむ」を含むブックマーク

『TOP RUNNER』で、大平貴之というプラネタリウム技術者のロング・トークを拝見する。 工学的探求がアーティスティックであり得る、つまり「精度を高めていく」という側面が自分や他人にとってエンターテインメントであり得る、というのが新鮮だった。




*1:ネットを楽しんでいたり、知人との交流を持てるなら「限界的」ではないです。 でも、「ネットはできるが仕事は無理」なら、死はやはり身近。 「金の切れ目が人生の切れ目」なのですから。

*2:27日に長文のメールくださったかた、ありがとうございます。 とても救われました。 今日のエントリーも、ご期待には添えていないと思いますが…。

dokushadokusha 2004/06/28 11:13 そもそも「自分が生きる意味は何か」という問いかけが、宗教であるとか自己開発セミナーなどで「洗脳」の初期段階。つまり、人格解体に使われるように、破壊力を伴った「無意味な問いかけ」であるように。「生きる意味がない、と前提した上での死」について考える事も破壊力を伴った答えのない問いかけであると思います。
ヒトの生とは、所与として意味を持つ者ではなく、それに意味をつけていく営為自体が生なのではないでしょうか。「自分が生きる意味」などという問いかけに「予め」回答は用意できません、後になって「ああ、そういうことだったのか」と気がつく事ができるかもしれない程度の事なのではないでしょうか。それでも意味がないなどとは思えません。また、「生きる意味がない」と断じて「さて、生をどうしたものか死をどうしたものか」と思い煩う事は、それ自体がどんどんと問題領域を現実(社会)から遊離させて、更に解決(社会との整合)から遠ざける結果になりそうです。
ここで、以前あった議論をもう一度蒸し返してみますが。
結局、「ひきこもり」という問題は当事者と、それをとりまく環境(社会)の間に起きた不整合なんだと思います。この時に環境(社会)を変えるか、当事者自身が変わらなければこの間に起きた不整合は解決しません。
確かに環境(社会)に問題が無いわけではないと思います。ここで語り合ったり、動かせる事は動かしていくべきだとは思いますが、全てが思い通りに変わるわけではありませんし、一般的に言えばもっと環境(社会)は硬直的でしょう。
ということで、当事者側への変革を求めると、それが新たなストレスになったり、そもそも個人の変革を求める事がそのヒトの人格を否定する事になるのかも知れないという意見は理解できます。「社会性を身につける」「同調圧力」なるものが、その個人のパーソナリティーを押し潰してしまう事もあるのでしょう。しかし、社会的に遊離して、自分自身を責め苛む「個人のパーソナリティー」とはなんなんでしょうか?それほどまでに苦しんで、追い込んで、それでもなお、守らなければならない「個人のパーソナリティー」というものの価値に疑念を抱きつつあります。
表面的に社会と整合性を取りつつ、あたかも社会性を持ったかのように振舞って、更にそのコアに自分自身のパーソナリティーを持つ。つまりは表面的に嘘をつく事になるわけなのでしょうが、こういったあり方というのは不可能なことなのでしょうか。

anhedoniaanhedonia 2004/06/28 14:49 >>dokushaさん・・・「嘘」をついて「心を閉ざして生きる」ことも、ひとつの生き方、ということかな?
◆なぜ、そこまでに公認された承認に拘るのか? 確かに非承認を生きるのは辛いけれど、非承認には非承認なりの生きる道があると思うのですよ・・・・・・ ◆ムカデの寓話を思い出した。 ある日ある人がムカデにこう言った「ところで君は、歩くとき、何番目の脚からどういう順番で動かしているんだい?」 すると今までそんなことを考えたことがなかったムカデは、脚がこんがらがって歩けなくなってしまいました。とさ・・・ ◇教訓----- 歩くためには、歩き方を(手・脚の動かし方を)問うてはいけない・・・ 

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/29 06:03 dokusha さん、真摯な長文投稿をありがとうございます。うかつにお返事したくないほど、大事なお話だと思います。 ★ 「生きる意味」を考えてしまうこと、そして社会との不整合を引き起こしてまでも硬直してしまうこと ――こうした自意識は、一種の「防衛反応」として考えられないでしょうか。 つまり「あえて選択する」のではなく、「そうなるほかない」反応、そしてそれゆえに生じている苦痛と致命的無能力、と。 ★ そこで必要なのが、そうした事情を踏まえた上での苦痛緩和および「有力化 empowerment」なのですが、anhedonia さんの寓話から、id:mommoo さんの「居着き」 http://d.hatena.ne.jp/mommoo/20031009#p1 を思い出しました。 で、そこから飛んで、 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3949/budonokagaku.html ← を読みながら考えています。 今すぐに満足のいくお返事はできませんが、もしよかったら、お付き合いいただけるとうれしいです。

ippann hikikomoriippann hikikomori 2004/07/01 02:13 はじめまして。上山さんとか、その他ひきこもり有名人とは違って、私どものような一般ひきこもりにとって、自殺と言うのは具体的な解決策に思えます。ひきこもりであることを開き直って商売に出来れば良いのですが、ひきこもりのブームは既に終焉しています。障害年金や生活保護の不正受給をする度胸もありません。やっぱり死ぬしかないと思う今日この頃です。

2004-06-25  「ひきこもりのための安楽死(尊厳死)」をめぐって

1回ここにアップするとそのまま寝込んでしまう、というような状態が続いていて、どうも我ながら危機的です…。

「ひきこもりのための安楽死(尊厳死)」というエントリーに、コメント欄をはじめ様々のレスポンスをいただきました。 論点を網羅することはできませんが、今の時点で気付いたことをいくつか。



安楽死が正当化される条件 安楽死が正当化される条件を含むブックマーク

東海大病院・安楽死事件の判例では、「積極的安楽死の4条件」として、次が示された*1

 (1) 耐え難い肉体的苦痛がある

 (2) 死が避けられず、その死期が迫っている

 (3) 肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない

 (4) 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある

ひきこもりが明白に満たし得る条件は(4)だけ。 (2)については「餓死」しかない。

「精神的苦痛も肉体的苦痛と言える」は、現状ではほぼ不可能な主張。 → (1)は無理。


大事なのは、(3)の「他に代替手段がない」と言えるかどうか。 → 後でも触れるが、これを私的・公的に俎上に載せることこそが重要。




「自発的」のみです 「自発的」のみですを含むブックマーク

id:anhedonia さん

 ひきこもりにとって《決断》することが最大級の苦痛だから、ひきこもりにとっての安楽死とは、「自殺のための決断(自己決定)を回避して『気が付いたら死んでいた』状態にする」つまり、限りなく他殺に近い状態で死ぬことを目指してるんだろうと思う。

僕の提案は「自発的安楽死」*2、すなわち当人の意思による場合だけです。 → 君が代の強要による辞任が「自発的」とされるように、死の選択が本当に「自発的」か?というのは、繰り返し問われるべきだと思います。



loveless zero さん(2004/06/24):

 選択肢は提供されていいと思いますが、「本当にダメな人」かどうかの判断の困難さからは逃れられないでしょうね…。

立岩真也氏も懸念する通り、「お前は無価値だから死ね」は断じて避けられるべきです。

しかし、家族に扶養能力がなくなり、本人も家族も「自立は無理」と考えていれば、「もうダメだ」という認識になると思います。 → そこでやはり、「本当にダメなのか?」が問われますが、(あとでも触れますが)大事なのはこの問いの共有なのだと思います。




SOL(生命の尊厳) と QOL(生活の質) SOL(生命の尊厳) と QOL(生活の質)を含むブックマーク

「日本尊厳死協会」では、尊厳死を「自分の意思で延命治療をやめてもらい、安らかに、人間らしい死をとげること」としていて、「安楽死=他殺」と区別しているようです。 しかし、「安らかに人間らしい死をとげる」のは「当然追求されるべき目標」なので、これでは「尊厳死は是か非か」は無意味な問いになってしまう。 →

 これに対して、「尊厳死を実現するにはどのようにすればよいか・するべきか」が問題となる。 ことに「死」以外に人間らしさを保つ方途がないと判断される場合に、意図的に死をもたらすことが「安楽死」と呼ばれる。*3


ひきこもりに対する延命努力(扶養)を「本人の意思で」停止し、餓死を迎える、というのは「尊厳死」でしょうか…*4


安楽死(尊厳死)においては、SOL(Sanctity Of Life、生命の尊厳)と、QOL(Quality Of Life、生活の質)が対立するようです。 「生命は無条件に尊い(だからどんなことがあっても延命せねばならない)」と、「悲惨で改善不可能の生は生きるに値しない」の対立。 → 僕は明白に後者の立場です。 もんだいは「本当に改善不可能なのか」ということ。(当たり前ですが、改善可能なあいだは徹底的に改善努力をすべきです。)




積極的と消極的 積極的と消極的を含むブックマーク

積極的安楽死(死なせる kill)と、消極的安楽死(死ぬに任せる allow to die)。

斉藤環氏が強調していますが、重度のひきこもりは放置されれば自律復帰はまず不可能。 → 社会がひきこもりに無対策であるなら、それは「消極的安楽死」に近い。 「放っておけば死ぬしかないが、あえて何もしない」のだから。

いや、厳密には「消極的(何もしない)」ではあっても、「安楽死」ではないですね…。 「餓死しろ」 「死にたい奴は首を吊れ」というのは、「安楽死」の話ではない。 それは「悲惨の中に放置する」ことです。 → せめて「セデーション sedation」(意識レベルを下げて、苦痛を感じないようにすること)に社会が手を貸せば、より人道的であるでしょうか*5


問いを仕切りなおすと、次のようになると思います:

 社会はひきこもりを「悲惨の中に放置」しているが、それで構わないか。

 ひきこもりを「生の世界に引き戻す」努力を模索すべきではないか(延命と苦痛緩和)。

 しかし、そこには取りこぼしが必ずあるのだから、絶望的事例については「積極的安楽死」、せめて「セデーション(鎮痛処置)」を、可能な社会的選択肢として検討すべきではないか。




「都合のよい自己決定」 「都合のよい自己決定」を含むブックマーク

立岩真也氏が懸念するのは、「本人以外にとって都合のいい安楽死」という点だと思います*6

 具体的に誰にとって都合がよいのか。 負担を免れる人にとってである。 家族だけがその負担を負っている、負わされているなら家族であり、また社会的に医療や介護の負担をしている場合にはその「社会」である。 結局、私たちが、私たちにとって都合のよいものとして、自己決定としての安楽死を支持するのである。*7


本人自身が、自分の身体的苦痛のみを考えて死を決断するのではなく、「自分は周囲に迷惑をかけているから」死を選ぶ、というのであれば、それは「自発的」に見えて本当は「バイアスに屈した」だけではないのか、と。 【これは上山による敷衍です。 繰り返しになりますが、これは「自発的辞任」への疑問と同型ではないでしょうか。】

ひきこもりに「耐えられないような苦痛」が伴うとしても、それはひとまず「身体的な原因を持つ」とは考えられず、それゆえ「バイアスに屈する」要因はより大きいと考えられる。


「なぜ苦痛なのか」、「なぜ死にたいと思ってしまうのか」は、充分検討されなければならない。




「極小値=特異点=出口なし」? 「極小値=特異点=出口なし」?を含むブックマーク

id:essa さん

 なんとも途方もないような重い話ですが、id:ueyamakzk さんにとってはすごく現実的な話ではないかと想像します。 ひょっとしたら、ueyamakzk さんは、それ以外に苦痛から逃れるすべを持たない人の顔を具体的に何人か思い浮かべながら、こういうことを考えているのかもしれません。

essa さんにはいつも貴重な励ましをいただくのですが、今回も非常にうれしいご指摘です。

僕は、実際に有料でご相談に対応したケースは極めて少数ですが、その全員が、「この人は、ほっといたら死ぬな」という状態だった。 しかも、ものすごく強烈な苦痛を伴っている。 → この点への(世間一般の)想像力のなさに、僕は本当に苛立っています。


対人訓練や職業訓練といった、「生に向けての苦痛緩和」は最後まで試みられるべきですが、やはり「苦痛緩和」というテーゼを掲げている以上、「どうしようもないケース」については、「安楽死」も視野に入れたくなる。


 比較級で社会や経済が成り立っている以上、集団の中に極小値は存在します。理論的には、人間と人間を比較することが可能であるとしたら、そして人間が有限個しか存在しないのであれば、「引きこもり」のような存在は避けられません。 それは数学的に証明できる事実です。 極小値を引き受ける人は、痛みや無能力を一方的に受け続けなくてはなりません。

比較級である以上、「極小値は必然的に存在する」のはわかりますが、それは必ずしも「ひきこもり」という状態像を取らなくてもいいですよね。 日本以外では、「極小値」はおそらくホームレスや自殺で、日本でもこれから「ひきこもり」は「ホームレスや自殺」にシフトしていくのでは、と一部の人*8は予想しています。

【現在40代後半以上の「親世代」は、働けない子供を「我慢強く扶養」しましたが、個人主義的な「新人類」以下の世代では、やはり「家を追い出す」のではないか、と。 最近「児童虐待」が多く報告されているのも、その前触れのように思います。】


 「有限の要素を対象にした推移律を満たす比較」は必ず特異点を産む、そして流動性の高い現代社会は特異点の露出しやすい社会なんだと思います。 そこまでは論理的必然です。 問題は特異点にも顔があることです。 具体的な顔のある問題としてこの問題をつきつけられたら、私はどうしたらいいのかわかりません。

理系のタームがわかりにくいのですが、「特異点=極小値」でしょうか。 「特異点」については、翌日に次のようにお書きになっていますが、これは(比喩ではなくて)純粋に理系の話でしょうか?

 特異点は、事象の地平線、つまり我々の知覚の及ばない「あちら側」にないといけない。 特異点が露出するとかなり困る。

比喩として考えてみると、「社会の特異点たるひきこもりは、社会的に表面化(露出)すると困る」となり、興味深い話になります。 意地悪く理解すれば、「放置され黙殺されるべきだ」というような。


id:essa さんは「顔のある特異点」についてはどうしたらいいかわからない、とおっしゃっていて、これは大事かもしれません。 以前、「当事者は実名を晒すべきか」を話題にしたとき、「顔が見える」ことの大事さが問題になりました。 ひきこもりというのは「何かわからんが不気味な連中」というだけでは、容易に切り捨ての対象になってしまう。 社会的な感情移入が駆動するためにも、「顔のある」存在になる努力は必要かも。――いや、それとも「感情移入」に頼る時点でダメなのでしょうか。 「法的・制度的な問題」としてドライに論ずべき? しかし、社会的な感情移入が希薄な問題が、真面目な議論のテーマになるでしょうか…。

→ その意味で、実際の実現可能性は低くとも*9「ひきこもっている人に安楽死を希望する人は多い」というテーゼを持ち出すことには、一定の効果がないでしょうか(そしてそれは「演出のための誇張」ではないと思います)。




「私、安楽死を希望します」の模擬ミーティング 「私、安楽死を希望します」の模擬ミーティングを含むブックマーク

今日のエントリーで繰り返し参照させていただいた清水哲郎氏は、「安楽死が倫理的に正当化される条件」として、上記の判例のほかに、次の項目を付け加えています

 (c) 患者の意思確認のプロセスは十分なコミュニケーションとケアによるものである

 (d) 医師の独断ではなく、医療チームとしての合意による

僕が「ひきこもりのための安楽死(尊厳死)」の提案においていちばん重要だと思う契機がここです。

当人に「死にたい」という決意があるとして、それが他の人と共有され、検討されること。

  • 本当に死ぬ必要はあるのか。 他の苦痛緩和の方法はないのか。
  • 苦痛の原因は本人に還元されるべきなのか。 それとも社会環境や周囲の人間に改善すべき点もあるのか。
  • 死ぬことによるメリット(苦痛からの解放、周囲への負担の終焉、など)と、デメリット(泣き寝入りのまま死ぬ屈辱、家族を悲しませる、など)は何か。

こうしたミーティングそのものに意味がある。

→ ひきこもりに対して実際に(薬剤投与などによる)安楽死機会を提供するのは無理でも、「模擬ミーティング」として、「私、安楽死を希望します」というのは、導入されていいのではないか。

  • 当人は、どうやって周囲を説得するか。 → ミーティングの結果、「生きたい」になるのか。
  • 周囲は、どうやって当人を説得するか。 → ミーティングの結果、「死になさい」になるのか。

単に「死にたい奴は勝手に自殺しろ」では、この「ミーティング」のプロセスが一切共有されないため、やはり不毛だと思います。




おびえ おびえを含むブックマーク

今回の僕の「安楽死」エントリーについて、「社会的役立たずとして抹殺されるのではないか」というおびえの声があがったことは、注記すべきだと思います。 立岩真也氏によれば、「どの国でも障害者の組織は安楽死に反対してきた」*10。 ひきこもりは、他の社会的マイノリティ(弱者)と同じく、つねに「お前たちさえいなければ社会はもっとうまくいくのに」というプレッシャーを感じているのだ。 その状況で口にされる「安楽死」は、まかり間違えば容易に「虐殺」にすり替わる(そこでは当然、「健康」をスローガンにしたナチズムを想起すべきだろう)。


ただ(これも論点の繰り返しになりますが)、「ひきこもりを問題にしない(放置する)」は、この社会の「優勝劣敗」「弱肉強食」に同意することでしかなく、それは(直接の手を下さずとも)、ひきこもり当事者が社会的に抹殺されていくプロセスを放置することだと思います。 「ひきこもりなんて、(残虐に)死んでも仕方がない」。

そう考えれば、やはり現状よりは「自発的安楽死」のほうが慈悲的ではないでしょうか。 少なくとも、「苦痛緩和」の目論見が含まれているのですから。




「人間の苦痛緩和」 「人間の苦痛緩和」を含むブックマーク

繰り返しがあったり、いただいたコメントを取りこぼしていたりして穴だらけですが、ひとまずこんな感じでしょうか…。


僕は(立場上)話を「ひきこもり」に限定しましたが、

  • 「苦痛緩和の選択肢としての安楽死(尊厳死)」は、「経済的困窮」や「精神的苦痛」に対しても適応可能なのか
  • 「安楽死を希望します」の模擬ミーティングには、様々な可能性が秘められていないか

という点は、もう少し一般的に議論されてもいいのではないでしょうか。


安楽死について考えるうちに、やはり「人間の苦痛緩和」の複雑さ・悩ましさを痛感します。 「何をどうすれば楽になるか」が、とても難しい。


生きることそのものがあまりに苦しく、「あえて生きていく」ことをどうしても動機づけられないときには、「楽に死ねるかもしれない」のみが無上の甘い蜜に見え、(なんとも皮肉なことに)それが行動を動機づけたりする。――そういう点も、無視したくはありません。




*1こちらより。

*2:ひとまずこちらの言葉遣いを踏襲しました。

*3こちらより。

*4:餓死は苦痛を伴うので、とても「安楽」死とは言えませんが…。

*5:現実には、安定剤などを処方する精神科医が、その任をすでに部分的に担っているということでしょうか。

*6:僕はネットや著作の必要な箇所を読んだだけですが…。 間違いはぜひご指摘くださいませ。

*7:『弱くある自由へ』ISBN:4791758528 p.54

*8:斎藤環さんなど

*9上記のとおり、現状では「ひきこもりのための安楽死」はほぼ不可能でしょう。

*10:『弱くある自由へ』ISBN:4791758528 p.61

anhedoniaanhedonia 2004/06/27 12:28 『なぜ、安楽死という社会的に承認された制度でなければならないのか? という素朴な疑問があるのだが。』

sivadsivad 2004/06/27 13:55 ? 末期癌患者が安楽死を必要とするのと同じことではないのでしょうか?

anhedoniaanhedonia 2004/06/27 17:02 そうだとは思うのですが、なぜ同じである必要があるのか? なぜ、非承認の死ではダメなのか? という疑問があるわけです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/28 04:00 むしろ、その辺がキモだと思います>anhedonia さん。 脱落者が「自発的に」選択した死は、社会的に共有される(問題にされる)べきなのかどうか。 単純な話、僕が自殺しても「悲しむ人」より「喜ぶ人」のほうが多いと思うし、それよりも「無関心な人」が圧倒的大多数。 ★ 癌ならば多くの人が「自分もなるかもしれない」と思えるけど、ひきこもりなら「自分は大丈夫だろう」と思える。 → 「その自殺はそもそも話題にする必要があるのか」こそが本当の問題ではないか。

2004-06-23  絶望 ・ 去勢 ・ 安楽死

21日のコメント欄では、またしても有益かつ刺激的な投稿が。 (引用は、意味を変えない範囲で変えさせていただきますね。)



絶望的な「永遠の現在」 絶望的な「永遠の現在」を含むブックマーク

  • id:igi 氏: 「概念の輸入」については、柄谷行人『日本近代文学の起源』ISBN:4061960180 を参照してみては。

先日の固有名論の『探求供ISBN:4061591207 もそうでしたが、線を引きながら読んではいても、それは「目で追っていた」だけで、「読んで」はいなかった、そういう本ばかり…。 要するに、「自分の問題意識」の軸(というかテーブル)がはっきりしておらず、だから意識の表面で「知的に」は理解しているように思っても、それが自分の中の言葉と有機的にちっともつながっていなかった。


『日本近代文学の起源』も、なにやら線を引いてありますが、何も頭に残っていませんでした。 それで本を取り出してボーッと眺めていたのですが、いくつか気になる記述が。

しかし、フロイトの説においてもっとも重要なのは、「内部」(したがって外界としての外界)が存在しはじめるのは、「抽象的思考言語がつくりあげられてはじめて」可能だといっていることである。*1

 ひきこもり当事者の内面生活も歴史的なものだ、と…。 その内面生活への処遇(「甘えている」云々)自体が、歴史的性格をもつ…。

 もともと一つの「原因」を確定しようとする思想こそが、神学・形而上学的なのである。*2

「ひきこもりの原因は○○だ」という論争が後を絶ちませんが、その「原因探求」の姿勢そのものが、一つの思想的立場なのですね。 「○○だ」という確定が立場を生むのではなくて、「原因を確定せねば」という前提自体がすでに(無自覚的な)立場選択の結果である、と。


柄谷氏の言い分を丸呑みすればいいと言うわけではもちろんありませんが、「当事者の内面事情や、それへのアプローチ自体が、歴史的に醸成された文化的な事件である」という視点は、大事なのでは。

僕自身、自分で非常に症候的だと思っていることの一つに、「歴史意識のなさ」が挙げられます。これはたぶん僕個人のもんだいではなくて、同時代の(それこそ「動物化した」)人たち全般の傾向なのかもしれませんが、自分の置かれている場所を歴史的な目で眺める能力が、極めて低い。 「歴史的な成果として現在の生活が営まれているのだ」という認識が、完全に蒸発している。


「動物的」が、「歴史意識なんて要らない」という側面を持つとしたら、ひきこもりに向かう人の意識は、「自分の個人史を、完結した一つの作品にしたい」(自分の人生を、目的論的な一つの歴史と化したい)ということでしょうか。 作品にする、という牽引要因がないと自分を維持できないのだが、「生活のための労働」にはそんなベクトルはないので、その欠損から自意識のすべてが瓦解する、というような。

「歴史全体」を意識しても*3そんなものはどうせ自分の手の届くところにはないし*4、何も変えられない。 自分が手を下して「歴史化=時間化」できるのは、せいぜい自分の人生だけ。 で、それを必死に「歴史化=人間化=作品化」しようとするが、うまくいかない――そんな感じか。


ところが非常に皮肉なことに、限界的なひきこもり状態は、まさに「時間意識の蒸発」として体験される。 1年前の≪今≫と、いま現在経験している≪今≫が、質的に完全に同じに見える(というか体験される)。 完全な絶望として体験される均質な≪今・今・今…≫*5が、無限に連なるように見えるだけ。 で、いつの間にか何年も経っていて、精神的にはまったく成長していないように思うのに、生理年齢は驚くような数字になっている。

→ 非常に特徴的なことですが、ひきこもり状態が始まった時点で、精神的成長と自覚年齢(「自分は○○才ぐらい」というセルフイメージ)は停止します。 たとえば僕だと、2000年春(31才)のセルフイメージはどう考えても15〜6才(不登校開始時の年齢)でした。 「ひきこもり」というテーマ設定ができ、それとの関連で社会的な活動(および責任)が始まって、急速に自覚年齢が実年齢に近づいてきた(まだ追いついてない気がしますが)。


つまり、どうも「歴史化=時間化」のためには、最小限の「希望」がなければならないのではないか。 ≪現在≫が、≪凍結された絶望≫でしかないならば、その「現在」は永遠に時間化されない。 放置された≪激痛≫の永続体験にすぎない → 継続に意義はない。

よく言われることだと思いますが、現代人に歴史意識が失われているのは、「意識してもしょうがない」、つまり「過去から連なる現在を自覚することによって、将来への自覚的展望を持つ」というようなことが金輪際不可能になっているからであって*6、そこに「歴史意識をもて」などと言っても、歴史オタクの説教にしか聞こえない。

「歴史意識を持たせる」最高の方法は、「希望(ビジョン)を具体的に示す」ことでしょう。 ビジョンを持てないなら、過去の想起は「ナルシスティックな自慰」か自虐、未来の想像は「電波系の妄想」か(やはり)自虐行為。 「希望がない」なら、「現在に棲む」がいちばん合理的*7。 そしてその≪現在≫が激痛の体験でしかないなら、それを体験している自分を抹消するのも合理的選択。


ひきこもり自意識の苦痛が「文脈(歴史)意識の持てなさ」に関わるとして、それが同時に「去勢されない」状態であるとしたら、次のように言えないでしょうか。 → 「去勢され、文脈意識を持てるようになるには、希望(ビジョン)が必要だ」。 的確に去勢されるためには、的確に希望を持てなければならない。

宮台真司氏*8ではありませんが、「安易な希望」を持ち続けるよりは、いったん完全に絶望した方がいいのかもしれない。 しかし、ひきこもりほど完全に無能力の中に落ち込んでしまい、「再起不能」としか言いようがなくなってしまえば、もう「絶望」という言葉を使うことすら嫌になる。 「絶望から出発しよう」というそのスローガン自体が、あまりに空しい*9、というか「本当はダメだと分かっているくせに希望を口にする」という自虐にしか思えない。


ひきこもり当事者(経験者)の「言葉のチープさ」は、この「絶望の周辺で言葉が蒸発してしまった」状態に見えます。 知的に考えることは「絶望」に太刀打ちできず、苦痛しか生まない。

希望なしに人を去勢する(歴史意識を仕込む)のは、拷問にかけるようなものではないでしょうか。 「お前はもう、ダメなんだ」という自意識をインストールするだけなのですから。




日本という文化圏 日本という文化圏を含むブックマーク

iux さんにご紹介いただいたこちら、いやあ、面白いです。 「国民文化研究所」?(この「国民」という概念にも注意せよ、と但し書きがありますね)。 田中征爾というお名前は初めて拝見しましたが、おひとりでされてるんでしょうか。


 ひきこもりというのは「日本独特」ともされているわけで、「だから日本文化が悪い」というヒステリックな叫びとは別に、日本という場所が文化的変遷としてどのようないきさつをたどってきたのか、を考えることは、高度に苦痛緩和的な効果を持つかも。

じっさい、先日から「天皇」ということを(憲法との関係において)考えるようになって、それは僕自身をかなり変えた気がします。

僕はこれまで、歴史や日本に対してあまりに無自覚だった*10し、「天皇」という存在への嫌悪や反発があまりに大きかったので、一種の「思考停止」に陥っていたのだと思います。 知識もなかったし、考えようともしなかった。 現時点での基本的な立場は21日に示したつもりですが、これからも、継続的に考えてみようと思います(もちろん、「ひきこもり」との関連において)。


これは斎藤環氏の『ひきこもり文化論』ISBN:4314009543 を部分的には引き継ぐ目論見かもしれませんね。




去勢 去勢を含むブックマーク

  • id:sivad 氏: 「公と私ってのは対立概念なのでしょうか」。

うーんと、僕は思想史的な基礎知識があまりに欠落しているので、「公−私」という概念の成立史も知らないのです…。 古代ギリシャとかに遡るのかなぁ…。


ちょっとご提案の趣旨から外れるかも知れませんが、僕が「公私」で考えたのは、≪去勢≫という、ひきこもりを論じるときに必ず持ち出されてくる概念です。 「私」は、「公」との関係において去勢されるのではないか、というような。

 人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。 さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。 つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。 これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。

成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。 成長の痛みは去勢の痛みですが、難しいのは、去勢がまさに、他人から強制されなければならないということです。 みずから望んで去勢されることは、できないのです。*11


ひきこもりは「幼児的万能感」にひたっており、それゆえ「去勢されていない」(去勢否認)とされる。

僕自身は、この去勢否認自体が、「絶望」を生きるしかできない状態への防衛反応だと思っているのですが、さらにもうひとつ――ひきこもり当事者(経験者)は、実は「本当に納得できる形で去勢される」ことを、誰よりも切望しているのではないか。

しかし、「真に合理的な去勢」は、それを内面的探索によって探り当てようとしても、おそらくどうしようもない。 「科学的・論理的根拠に基づく内発的去勢」というのは、おそらくあり得ないのではないか。 去勢には、不合理な飛躍、「なぜかわからないがそうなってしまった」という要因が、必要なのではないか。


何か「どうしてもやりたいこと」を持っている人は、早い時期に去勢される。 才能がある人はその「やりたいこと」を通じて社会参加することになるから、たとえば音楽や文芸などの創作活動をしている人であれば、「作品公開」にともなう責任を通じて去勢される。 才能がない人も、繰り返し演奏や投稿をするうちに「自分はどうもダメらしい」ということに気付き(去勢され)、早々に(家業を継ぐなどの形で)社会参加することになる。――いずれにしても、「好きなこと」を通じて他者への回路が維持されており、そこを通じて去勢される。

「やりたいこと」がない人には、この最低限の「他者への回路」すらない → 去勢されないがゆえに、「生きていこう」という欲望さえ湧かない*12 → 去勢されるより前に干からびて死んでしまう。



「天皇」や「憲法」は、「日本人にとっての去勢」の問題だと思うので、やはりどうしても外せない話題だと思うのですが、これに関して一つ。

ひきこもりは「去勢されていないからいけない」と言われるわけですが、よく政治的な言説の中で、「去勢された日本」などというフレーズがありますよね。 あれ、「去勢されているからいけない」という意味のはずです。

  • 幼児的万能感 → 「去勢されなければならない」
  • 萎えた生き方しかできない → 「去勢されてはならない」

この辺で混乱しています。


そもそも、ひきこもり当事者は、完全に閉じこもってしまった密室の中で、仙人のように、あるいはこう言ってよければ、宦官のように暮らしている。 「インポテンツ」を生きているわけで、まさに社会的には「去勢」されまくっているわけです。 「負け組として何もできない」わけですから(反抗運動さえ起きない)。

→ これ、どうも「最近の子供たち」を理解するヒントにもなるような。 「小皇帝」のように振る舞い、「来訪者さえ気にしない」のに、社会的な単独者としては完全に無力な(去勢された)生を生きている。――こじつけですか?




ひきこもりのための安楽死(尊厳死) ひきこもりのための安楽死(尊厳死)を含むブックマーク

少々過激な言い分になりますが…。 避けて通れないと思うので。


上でも書きましたが、「去勢」を相手に望むのであれば、そこには(その相手にとっての)「希望」がなければならない。 「希望」がないのならば、それは「拷問の強制」でしかないので、「去勢」は不可能ではないでしょうか。

ひきこもり支援は、何らかの形で本人に欲望を持ってもらい、ということは「希望」を持ってもらい、そこから去勢への回路が開かれ、もって「社会」への回路も開く、という道筋を持つものだと思います。

しかし…。

「努力すれば、誰でもなんとかなる」というのは、幻想だと思います。 「努力してもどうにもならない」人もいる(少なくとも、短期的な実現可能性の中では)。

だとすれば、「努力してもどうにもならない」人のための苦痛緩和的な選択肢も、用意しておくべきではないでしょうか。


現実的に言って社会再復帰の可能性がなく、しかも当人の主観的苦痛があまりに激しい場合には、(文字通りの意味での)安楽死(尊厳死)を、検討すべきではないでしょうか。


21日、少しだけ書きましたが、やはりあらためてこの問題を真剣に検討すべきではないか、と思うようになっています。

  • 「この人はもう、社会的にはどうにもならないんだ」ということを周囲が悟った*13として、それを本人に告知すべきかどうか。 「君はもう、社会的には死んでいるんだ。 あきらめなさい」
    • 告知後に(短期的にでも)扶養を続けるなら、「自意識レベルでの拷問」状態になるし、扶養をやめるなら、「私たちは君を放置するから、激痛とともに死ね」と言っているだけ(自殺の誘発因を作っている)。
    • → 告知は残酷すぎる。


  • 何も伝えず、「まだどうにかなるんだ」という本人の妄想的な希望にうなずいてあげて、可能なかぎり食事だけは与えるのか。
    • 本人のプライドを維持したまま死なせてあげる = 「自意識の尊厳死」(苦痛のないまま、すでに社会的にはクズと化した自意識を葬ってあげる)
    • 本人が死ぬまで扶養できるならそれもいいが、できないなら、「金の切れ目が(本人の)妄想の切れ目」。 早晩修羅場がやってくる。
    • → (一生働かなくていい)資産家以外は、告知せずとも激痛が訪れる。


  • 本人自身が充分なリアリティをもって「完全にあきらめている」場合、将来的に予想される断末魔の恐怖が彼らを本当に苦しめている(僕も他人事ではない)。
    • この状態で「命を大切にしなさい」とか「やればなんとかなる」というのは、そう言っている人のナルシシズムの問題でしかないのではないか(「人の命を大切にするワタシ」、「人を励ましているワタシ」)。 本人の望まない延命の強要は、人の人生に無益な苦痛を押し付けることであり、それ自体が犯罪的ではないか。
    • 状況改善の具体案を出せないのであれば、生の強要はかえって無責任ではないか。


ひきこもりというのは、社会参加や職業生活に関する完全な無能力であり、かつ激痛をともなう。 もちろん、再復帰に向けての訓練や環境整備は可能なかぎり続けるとして、しかしそれが「間に合わない」人については、やはり「苦痛緩和」の人道的見地から、安楽死(尊厳死)の選択肢を、検討すべきではないか。


末期癌の患者さんに対してさえ適応できそうもないと言われている尊厳死。 「ひきこもり」の実情を知らない人からすれば、僕が冗談を言っているようにしか聞こえないでしょう。 でも、申し訳ないが僕は本気なのです。

「ひきこもっている人のすべてに尊厳死が必要だ」などとは、もちろん言いません(癌だって最後の最後まで治療努力をするように)。 でも、「どうやら本当に駄目らしい」人については、「とにかく社会復帰せよ」というのとは別のルートで、「苦痛緩和」の道筋を用意すべきではないでしょうか。

「本当にダメな人」を放置するのは、苦痛の実在そのものを社会的に否認する(なかったことにする)ことであり、暗黙に「野蛮な形で自殺するか、野垂れ死ね」ということ。 それこそ非人道的に思えます。 → ひきこもり当事者の立場から、本気で政治家を説得(ロビー活動)すべきかも。


安楽死(尊厳死)については、やはり社会学を研究している方々が扱っておられるのでしょうか。

ひきこもっていて、自殺を真剣に検討中のみなさん。 自殺のマニュアル本を調べるのも現実的だと思いますが、「安楽死(尊厳死)」の実現に向けて、社会的なアクションを起こしてみませんか*14。 あるいはいますぐに「ロビー活動」が無理としても、このテーマについて、一度ちゃんと考えてみませんか。

繰り返しますが、適当な冗談で言っているつもりはありません。 苦痛があまりに激しく、しかも社会保障などを期待できないのであれば、無惨な仕方で自殺を試みるよりは、もっと人道的な対策を用意できないだろうか、ということです。


――ああ、言ってしまった。 本当はずっと言いたかったはずなんですけど、「自殺は許されない」が絶対的な掟になっている日本では、あまりに口にしにくくて*15

やはり「自殺は許されない」というのが、社会を成り立たせるために必要な虚偽意識、ということなんでしょうか。 自殺が社会的に公認され、そのための楽な方法まで用意されたら、亡くなる人が後を絶たないのは目に見えているし…*16


生きるための支援が期待できず、かつ死ぬための支援も期待できない、というのは、ものすごく残酷な状態だと思うのですが、いかがでしょうか…。




*1:p.48

*2:p.142-3

*3:「全体を意識できる」というのはもちろん空想的な思い込みですが

*4:「われわれ自身が、歴史的イベントそのものである」(われわれ自身が歴史の一部である)というのは、現代人にとっては空しい自己確認…。 認識したって何も変わらないんだから。

*5:『生き生きした現在』ISBN:4938427923 という本をよく見ていました。

*6:つまり「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)という意識そのものも終わった後を生きている

*7:自意識を、機能的に必要最小限に縮減すること。

*8:『絶望から出発しよう』ISBN:4901391305

*9:宮台氏の本に登場する「絶望する人」は、「恋愛もできて、仕事もできる、でもオレなんて代替可能なんだよね」というレベルに見えます(ちがう?)。 自意識の問題としてそれが「絶望」に見えてしまうのは分かるつもりですし、その自意識そのものはひきこもりも共有するものだと思う。 でも、「恋愛も仕事もできる」状態に「絶望」という言葉を割り振ってしまったら、(ひきこもりのように)「恋愛も仕事もできない」状態はどんな言葉で記述すればいいのか。 それともそれは、「脱社会的存在だから記述対象でさえない」のか。 「遺棄されるべき存在には絶望という言葉すらもったいない」?

*10:「無−歴史的」な時間を生きてきた

*11:『社会的ひきこもり』ISBN:4569603785 p.206-7。 改行や強調は引用者。

*12:「欲望」は、「去勢」ゆえに生じる、と理解しているのですが、違ったっけ…。

*13:端的に経済的な理由から「扶養できない」など

*14:この発言のメカニズムに、なるだけたくさんの人が気付いてくれますように。

*15: は! 「散るを厭う 世にも人にも先駆けて」(三島由紀夫・辞世の句)…。 ここでまたしても三島的問題意識と交差してしまった。 彼は、「ただ死ぬ」のではなく、「行動」として死ぬことを望んだのでした…。

*16:現在発表されている日本の「自殺者数」は3万人程度ですが、これは「決行から24時間以内に死亡した」ケースのみ。 時間が経過してから亡くなった場合にはカウントされないし、当然「未遂者」は、既遂者の何倍にものぼります。

anhedoniaanhedonia 2004/06/24 07:53 もし、この<私>とはなにか?とか「私という自意識」の不思議な感覚を感じているのなら、他のことを考えるのを一旦止めて、『永井均』(「子どものための哲学」とか「私のメタフィジックス」とか)を読んでみるのも悪くないですね。

anhedoniaanhedonia 2004/06/24 08:26 日本は自殺には比較的寛容で、「自殺は許されない」という掟は、存在しないと考えた方が良いと思います。 ◆ひきこもりの「自殺」を認めて欲しいのなら、親が「私が死ねば息子は自立に目覚めるはずだ」と考えて自殺することを容認しなければなりません。 というか、自殺を認めようが認めまいが現実にはたくさんの人が自殺している現状にあって、つまり実際には自殺は許されているのに、どうして生きているんだろう? ◆社会的には死んでいるも同然なのに、どうして生きているんですか?という問いには、どう答えたらいいのだろうか? 

temaritemari 2004/06/24 09:45 「努力してもどうにもならない」人、とか、「この人はもう、社会的にはどうにもならないんだ」とか、この人は「本当にダメな人」なんだ、とかいうことは、誰がどういう基に基づいて評価・決定するのでしょうか?まさか、当事者に決定させるわけではないんでしょう?当事者は、多かれ少なかれ「自分はもうダメなんだ」という気持ちをもっていますし、また、往々にして、当事者の自己認識はゆがんでいることが多いので、当事者にその決定を任せるのは不適当だと思われます。・・・では、誰か第三者が当事者を観察・評価して、「この人は社会的にはもうすでに死んでいるので、よって、安楽死させるも止む無しとする。」という決定をするのでしょうか。それではなんだか、保健所に収容された捨て犬、捨て猫が、一週間の猶予期間を経て、安楽死への道を強制させられるのと似ているのではないでしょうか?ましてや、それを決定する権限が当事者の親にゆだねられることにでもなれば、それこそ複雑な問題(経済的な側面をも含んだもの)が、一気に噴出するのではないでしょうか。いずれにせよ、社会的に生きていけない人に安楽死を勧める役割を担うことになった人は、とてつもなく大きな重責を担うことになりますね。あとで後悔の日々などを送ることにならなければいいのですが・・・。また、↑のanhedoniaさんのご意見にもいたく共鳴する者でございます。

nonakanonaka 2004/06/24 10:33 苦痛緩和って考え方は大切だし、引きこもっていない人の多くも意識的・無意識的に身につけている生き方の技術ではないでしょうか。解決でなく緩和を!朝、家の近所の運動公園を通り過ぎるとき、たくさんの方がウォーキングしているのを見て、「ああ、そんなに身体を大切にしてやりたいことがあるのだろうか。それとも一種の時間つぶし(のばし)かな」とか思ったりします。ウォーキングしている人々の明るい、それでいて真剣な(それが「前向き」というやつでしょうか)表情をうらやましく思うせいかもしれません。

nonakanonaka 2004/06/24 10:36 苦痛緩和、即尊厳死の問題ではないということです(蛇足)。

anhedoniaanhedonia 2004/06/24 15:23 >>安楽死(尊厳死)については・・・・・・直接には生命倫理学あたりになると思いますが、哲学とか倫理学とか社会学とか医学とか様々な分野の人が考察していますね(事の性質上当然ですが)。 まず、立岩真也さんのサイトを覗くと良いでしょう。特にALSという難病については、いろいろ考えさせられます。こちら→http://www.arsvi.com/index.htm 

ojahumojahum 2004/06/24 23:02 希望って、とらえようによっては、けっこう危険かもしれない。。

clarakclarak 2004/06/24 23:05 nonaka様。ウォーキングをやっている者です。「やりたいこと」がるからウォーキングするのではなく、「ウォーキング」そのものが楽しいからやってます。こんな私も自殺未遂経験者です。「ああ、もう死んでラクになりたい」と思う時と楽しくウォーキングして空を眺めている時。どちらも私です。

lunglung 2004/06/24 23:26 >ojahumさん、そうですね。希望をもつのは苦しい現実を軽減させてくれますが、未来の希望に「全てを」託してしまうと障害にもなりえますね。現在に集中できなくなるという意味では・・

taroYtaroY 2004/06/25 03:18 引きこもりのみなさん、北アルプスの頂上付近の山小屋で「尊厳死」について語りませんか?

nonakanonaka 2004/06/25 07:57 clarak様、ああ、やっぱりそうなんですねえ。やっぱりそれ自体が楽しいんですよね。何かのため(健康のためとか)だけじゃ、あんなに楽しそうにやれませんよねえ。

nonakanonaka 2004/06/25 08:03 ついでに言うと(話がそれてすみませーん、上山さん)、その運動公園ではおじさん、おじいさんたちがよく将棋を、休日などはそれこそ朝から晩までやっています。プラスチックの盤や駒を持ち寄って。それは楽しそうなものです。

LPitLPit 2004/06/26 03:28 嫌な言い方ですが「死ぬ価値もない」というのが世間のひきこもり、という人たちに対する真意では。「安楽死の権利」を主張すると「死ぬ価値を得る為に御国の為に働いてから死ね」と言う対応をされるのでは・・・。とりあえず、「死」は解決にはならないし、「自分自身の人生」くらいは自分の意志と行動で終らせてみては・・・? 生まれるのも他人の行動の結果、死ぬのも他人の行動の結果、ではあまりにも虚しいです・・・。

psyredpsyred 2004/06/26 09:36 ただ思うんですけど、場合によっては重篤なひきこもり(この言い方もどうかと思いますが)っていうのは実は精神障害を伴っているって可能性もあるかもしれないと私は思います。安楽死もその辺の可能性全部判断して、からにしたほうがいい気はします。…もっとも脳医学がすすんできて引きこもりの人の脳をいじる…とかいう時代が来ないとも…そっちのほうが「残酷」かもしれませんが。

asdfghasdfgh 2004/06/29 17:38 宮台氏の「絶望する人」は恋愛も仕事も出来ない今の自分では社会に存在できないと思い無理して修行して恋愛、仕事が出来る当時の彼から見て代替不可能な境地に至った。しかしそこでも代替可能な存在であるという現実からはやっぱり逃れられなかった(泣)ということに気付いてしまった絶望

2004-06-21  現状確認

興味深いコメントをたくさんいただいているのに、更新遅れてすみません。 話が大事なところに差し掛かっているせいもあるのですが、個人的につらいことがあったり、体力的にダウンしたりしてました(19日はデビューネットさえ休んでしまった)。

迷走するとは思いますが、でもなんとかこの議論を続けてみたいと思います。



コメント欄 コメント欄を含むブックマーク

17日のコメント欄は、大事な投稿をたくさんいただきました。 以下、僕なりに整理してみます(自由間接話法みたいにさせていただきます)。 奥まった段落が僕のレスポンスです。

  • id:anhedonia 氏: 「社会」や「国」を口にする人に「公」の意識があるわけではない。 「公」とは、批判的姿勢を維持する「まなざし」ではないか。
    • ありがとうございます。 こういうことを言っていただけるとホッとします。


  • nonaka 氏: 公私の境界をめぐる議論はパフォーマティヴ。
    • おっしゃること、とてもよくわかります。 ただ、コンスタティヴなレベルでちゃんと論じ、制度的なものに働きかけることは、パフォーマンス・レベルにも影響を持つのではないでしょうか。 たとえば「それは法で禁じられている」という発言が可能かどうかは、パフォーマンスとして決定的です。
    • 既存の法や規範意識では扱い切れない「公私の境界」の問題が生じている、ということでしょうか(著作権やセキュリティ問題のように)。 → 「ひきこもり」を題材にして、「公私の境界」の危うさを論じることができないでしょうか。


  • miyagi 氏: 「主観と客観」
    • 「客観」は、社会的な現実の中では「ヘゲモニー争い」の問題なんでしょうか。 「誰の主観的主張が“客観的”と見なされるか」というような。



  • id:aimee 氏: 「世間」は英語に翻訳できない。 → id:igi 氏: 「otaku」「hikikomori」のように、「seken」として説明を試みる態度がいいのでは。 【→ 「seken」でググってみました。】
    • ここの、「Seken-tei は日本の社会を内部と外部に分割する」は重要。 → 「世間体を気にする」と「公的な意識を持つ」とは同じではない。
    • こちらでは、「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり(仏のみが真)」という聖徳太子の言葉が紹介されている。 → 「世間は間違っていて、自分だけは正しい」という反転にも使える。


    • 「世間知らず」は、「世間体」とは微妙に違うことを言っている気がする(同じか?)。 「世間はキレイゴトではすまない」というような。
    • 阿部謹也氏の本を注文してみましたが、アマゾンのレビューによると、「個人」や「社会」は明治20年代に輸入された概念とのこと。 → 概念に「和製」と「国外産」で分け目がある?


    • ひきこもり当事者の自意識は、「自分だけ間違っている」と「自分だけが正しい」の両極を往復しているように見える。 「自信を持って主張しつつ、正当な批判は受けいれる」というバランスがない。
    • 同じことは、「ひきこもりについて発言する人」にも言える。 「ひきこもり」は、なぜか日本人のすべてを「にわか評論家」にする。



id:jouno 氏にご紹介いただいたページの記述と、投稿コメントを引用します(強調は引用者)。

 ハバーマス系統の社会理論のキー概念のひとつに「公共性」があります。(中略)

 公共性とは、たしかに「私的なもの」と対立する概念ですが、同時に政治権力とも対立する概念なんです。

# jouno 『コミュニタリアン的おおやけは、ひとつの「善」であり立場ですが、公共とは、複数の「善」を両立させるための、そして複数の「善」から個人を守る「距離」としてのロールズ的な「正義」にかかわるのではと思います。』

  • 「公」は共同体主義でも語れるが、単一的な善。 「公共」は、「複数の善」を共存させる「距離」。
    • この「公共性」の説明を聞いて、「これはいわば≪対話の場を維持する≫姿勢ではあるが、そういう≪声の複数性≫そのものを認めない人にはどう対処するのか」が難しいと思いました。 「民主主義それ自体は排他的絶対性である」というような。
    • 東浩紀(id:hazuma)氏の言う「否定神学」と「複数の超越論性」の区別は、ぜんぜん関係ないでしょうか。


    • 「ハバーマス」や「ロールズ」という名前がどんな立場につながっているのか、それさえ知らなくて…。 「ハバーマス的公共性」や「ロールズ的正義」は、日本の憲法や法律について考える際にも重要なのでしょうか。
    • とまれ、「公と公共のちがい」という軸を導入いただき、本当にありがとうございます。 初歩的な認識なのかもしれませんが、僕には必要なご指摘でした。




憲法・公私・単独性 憲法・公私・単独性を含むブックマーク

『憲法対論』ISBN:4582851649、ようやく第1章読了。 ひきこもりを考える上で必読と感じました。

1年前の僕なら、たぶん読めなかった。 致命的なものを扱う言葉が自分の中に成長するのに、これだけ時間がかかった、ということかもしれません。 僕は斎藤環氏の『社会的ひきこもり』ISBN:4569603785 が(おそろしくて)ずっと読めず、ようやく読んだのは(親の会での)カミングアウト後、支援活動を本気で検討し始めてからです*1。 内面的・外面的な文脈が熟さないと、(おそろしくて)とても読めない本、というのがあるのだと思います。


ひとまず、絡まりあう3つの軸を確認しました(これも自由間接話法的にやってみます)。

  • (1)憲法
    • 直接「天皇」を論じることはできず、やはり「憲法」との関係で考えないと…。
    • 「自分も他人も、手段としてではなく目的として遇せよ」というカントの命題を、「日本国憲法が当然の理として踏まえている原理」とする奥平康弘氏の発言に感動。
    • それが「生活経験の代替可能性」と関係する、というのは新鮮な知見。


  • (2)公共/公/私
    • 日本の「組織の目的」がはっきりしないために、公(公共)に尽くそうとするトップランクの学生は公務員を見切り、外資系コンサルタント会社を目指す。
    • 「公的意識を持ってしまうと、逆に排除される」 → 昔は終身雇用だったから「我慢」に意味があったが、今はそれもない → 「組織への忠誠」には(公的にも私的にも)何の意味もない。
    • 「私益のために公益を売る輩は許せない」、「公益を騙って私益を追求する連中は許せない」(p.42)と宮台真司氏は主張してきた、とのこと。
    • 実存不安と結びついた、「システムを自覚して正しく生きたい」という社会運動。


  • (3)特殊性/単独性
    • 「祭り的“国粋”は、“愛国”の態を成さない」(p.48) → そこで「愛」の対象になっている「国」は、特殊性(確定記述の束)なのか、トートロジックな単独性*2なのか。
    • 宮台氏は、憲法的な「個人レベルの代替不可能性」を問題にするだけでなく、(三島由紀夫氏の名前を出しつつ)「国レベル」でも「代替不可能性」を問題にしているように見える(p.30)。
    • 僕は「国」は、行政登録等の「機能的存在」(特殊性)としか理解していなかったが、昨今の「愛国心」をめぐる議論は、そこに収まらないように見える。 「単独的な日本への愛」を口にすることは、「統治と動員のスキーム」として「あえて」持ち出されているだけ、と見過ごすことはできるか。


「憲法を認めない」派には、「あれはアメリカに押し付けられたものだから」という主張があるようです。 つまり、「日本固有の憲法を!」=「代替のきかない日本にふさわしい、(代替のきかない)単独的な憲法を!」と。 → 「憲法意思」そのものを「やまとごころ」に置きかえよう、ということでしょうか。

いっぽう、「日本国憲法は、特殊性(確定記述の束)として至上である」と考えれば、逆に「世界中の国が日本国憲法(と同型の憲法)を採用すべきだ」ということになる。(これは「日本が世界を支配する」とはまったくちがう。)




「強制された自己決定」 「強制された自己決定」を含むブックマーク

最近、東京の小学校のPTA会長(僕と同い年)が、公の場で日の丸・君が代問題に触れたところ、辞任に追い込まれたそうです。 朝日新聞の記事であることを差し引いても、これが事実だとしたら本当におぞましい。

  • 「お子さんがいじめられるかもしれない」
    • 予想される子供たちのイジメ行動への黙認宣言、という形での脅迫(「ご家族が危険に晒されますよ」)。
    • 「私がいじめるわけではない」から、「私の責任ではない」。
    • 「イジメが起こってもやめさせるから安心しろ」とは、誰も言わない。 (「イジメをやめさせる」ことへの無力感がある。)


  • 「PTAは思想的に真っ白であるべきだ」
    • よく聞くフレーズだが、「思想的に真っ白」なんてあり得るのか。
    • 「真っ白」、すなわち「無垢」が、「政治的な正しさ」のアリバイ表現になっている。


  • 「辞任は本人の意思」
    • 「問答無用の弾圧による不可避的選択」を、「本人の自己決定」にすり替えている。


僕は「ひきこもり当事者のための選択肢を増やせないか」と思って天皇の話をしたのですが、やはり既存の文脈では、「天皇」の話はすなわち「日の丸・君が代問題」であり、それは「選択肢の豊饒化」ではなくて「選択肢の抹殺圧力」。


「世間が許さない」は、「日の丸・君が代」と連動していないでしょうか。 「ひきこもることは、日の丸に逆らうことだ」というのが、保守派の言い分なのでは。 もっとはっきり言えば、「ひきこもりは、非国民だ」と言われているのではないか。




「自己決定」: 陛下と国民 「自己決定」: 陛下と国民を含むブックマーク

『憲法対論』、精読したのは第1章までなのですが、斜め読みで全体を見渡したとき、次のような一節が。(強調は引用者)

 ほとんど憲法学者が問題にしているように感じられない、僕一人というつもりはないけど、でも僕が非常に強調して考えていることの一つの問題があるのです。 もし天皇制問題で違憲問題が今の日本国憲法の中にあるとすれば、皇室典範の第一条(女帝の排除)ではなく、天皇、皇太子、皇太孫には退位の自由がないということです。 これは決定的に憲法違反だと僕は思う。*3


「天皇陛下は≪国民≫か」という論点に関わると思うのですが、次のようなことでしょうか。

国民は、陛下にそのお立場を無条件に押し付け、それを「陛下の自己決定」にすり替えている。 現在の陛下はさいわい「ご自分の意思で(そのお立場を)選択した」のだとしても、それは偶然的なものであって、「選択しない権利」自体がないのはおかしいではないか、と。 → ここには、「国民が日の丸を拒絶できない」のと同型の論理がないか。


僕が雅子妃に注目したのもこの辺のことです。 ご成婚前の報道を見ていた方は覚えておられると思いますが、独身時代の雅子さんは、どちらかというとあまり笑わない、決然とした印象の方だった。 → ご成婚と同時に、「作り笑い」と言いたくなるような笑顔だけになった。

あれは「ご本人の自発的笑い」なのか、それとも「強制された笑い」なのか。 国民が日の丸を振って「雅子さまー」と呼びかけるとき、それは「あなたは(日の丸を振る国民に)笑ってくれる人ですよね?」という強制になっていないか。

皇太子のご発言によれば、雅子妃は「皇室になじむ」ご尽力をされたそうで、だから挫折しても、「皇室に嫁いだのは自己責任」などとは言われないと思います。 しかし、逆に言えば「雅子妃が感じているプレッシャー」は問題にしなくてもいいのか。 そこには、国民一人一人が感じているプレッシャーの雛型がないか。 そのプレッシャーに、国民一人一人が加担しているのではないか。(つまり、国民一人一人のあり方が、国民自身への理不尽なプレッシャーを形作っていないか。)


「日本国民として自己決定せよ、さもなくば非国民だ」という矛盾した論理(脅迫)は、いまなお日本国内において現役ではないでしょうか。

繰り返しになりますが、「ひきこもりへの説教」には、これと同型の枠組みを感じます。




≪陛下の御意≫の地位 (「本物」か「形式的承認」か) ≪陛下の御意≫の地位 (「本物」か「形式的承認」か)を含むブックマーク

226事件においては、天皇陛下への最高の忠誠を誓った人たち(皇道派)が、陛下ご自身によって「逆賊」とされ、処刑された*4。 「これこそが陛下のご意思のはずだ」という皇道派の思い込みが、陛下ご自身によって否定された*5

同じことを、現代の右翼について言えるだろうか。 つまり、「右翼の言動は、(平和主義的な)今上陛下のご意思に反する」と、素朴に言えるだろうか。


僕がここで思い出すのが、ジジェクが(ヘーゲルを参照しつつ)言っていた、「≪我欲す≫の形式的承認」の話。

つまり、陛下が儀式の中で「わたしは○○を望みます」とおっしゃった場合、それは「陛下ご自身の意思」ではなく、閣議決定に対して(象徴的な特異点にいる者として)「形式的承認」を与えているに過ぎないのだ、という話。 もし仮に閣議決定の内容が陛下ご自身の個人的意思に反するとしても、「天皇陛下」というご公務にあるお立場としては、「私は望みます」と言わなければならない。

「誰が陛下の≪本物のご意思≫を代弁しているか」*6としてしまうと、陛下を巡る承認闘争になってしまう(「天皇陛下がこうおっしゃっていた」が、誰にも逆らえない最終審級になる)。


僕が「ひきこもり経験者」および「支援を考える者」として、「天皇」という話を持ち出してきた最も核心的な着眼点がここにあります。 つまり、「弱者の行なう正義の主張」であっても、それが(「我欲す」の形式的承認を経て)「陛下のご意思」として主張できるのであれば、社会的に無視することはできないのではないか。

たとえば「ひきこもりは非国民だ」という罵倒に対して、「その発言は陛下のご意思に反する。 よってあなたこそが逆賊だ」と言えるのではないか。


今上陛下ご自身は、おそらく本当に「非国民」などという野蛮な罵倒を嫌われそうにも思いますが、そうした「個人的ご意思への国民の詮索」とはぜんぜん無関係に、「陛下のご意思」を形式的に問題にできるところが、「象徴天皇制」のミソだ、というのが、ジジェクの主張だったと思います。


たとえば「日の丸の強制は≪陛下のご意思≫に反する」と、言えるのかどうか(国旗国家法が閣議で通ってしまった以上、「日の丸の強制は陛下のご意思」なわけですが)。 「日の丸」が、「無条件的忠誠」を誓わせるものではなく、「閣議決定への形式的承認」のマークでしかないなら、「強制」ではなく、「法的正当性」の問題になると思うのですが…。




死に至るシニシズム → 内ゲバ 死に至るシニシズム → 内ゲバを含むブックマーク

 自分たちが議論する言葉がなかったり素養がないということについて、忸怩たる思いを抱く学生さんが増えているのも事実で、だからこそ僕のゼミが盛況になる。 しかし逆に、どうせ考えても分からないから、忘却の淵に沈もうというような学生さんも増えていて、先鋭に二極分解しつつある印象があります。*7

これ、そのまま「ひきこもり」業界、とくに当事者・経験者の生態についても言えないでしょうか。

2ちゃんねるの、「ヒッキー」板のスレを、どれでもいいから覗いてみて下さい。 もちろん「2ちゃんねる」全般がそうなのでしょうけど、「このままほっといたら死ぬしかないけど、考えたってどうにもならない」というシニシズムがひどい。 それが、「上山は文化人気取りのバカ」という罵倒にもつながっている気がします。

「シニシズム」というとふつう、「体制に順応している人」の冷めた順応主義をいうと思いますが、ひきこもりの場合、「不可抗力の完全な脱落者」として、シニシズムに陥っている。 まさに「死に至るシニシズム」です。


こういうタイプの人が困るのは、「何を言ってもどうにもならない」と思っているがゆえに、ひきこもりの立場を悪くするような言動も平気でとるということ。 何を言っても「プラス方面にはどうにもならない」んだから、無責任でトチ狂った発言をしても、「マイナス方面にも大丈夫だろう」と。


僕に向かって「何を言ってもどうにもならないんだから、お前は黙ってろ」と言う人は、その自分の発言のパフォーマティヴな効果は信じている*8わけだし、自分の「どうにもならない」という信念については、絶対的だと思っている。 → 「ひきこもりはどうにもならない」という当事者の信念には、ほとんど宗教的なものさえ感じます。 「ほとんど宗教的なまでに絶対化された絶望、というような。

ほんのちょっとでも「希望はあるかも」と口にした瞬間、「おめでてえな」と言われ、ウサ晴らしの対象になる。 → ひきこもり当事者(経験者)同士の内ゲバ。


「努力を続けていれば、何かあるかもしれない」というのも「信仰」でしょうが、同じ信仰なら、ベタな努力を尊重するスタイルを採りたい。(そのスタイルをとれないほどに絶望しているのが当事者なわけですが。)




≪純潔主義≫ → 「安楽死」か「絶望の措定」か ≪純潔主義≫ → 「安楽死」か「絶望の措定」かを含むブックマーク

 がんばれば報われるというふうに素朴に思う学生さんはどんどん減っていて、「実際にはそういうふうになっていないじゃないか」ということを言います。 利いた風な口を叩いているけれども、こういうニヒリストぶりっここそが「純潔主義」に見えるんです。*9


よく言われることですが、「何をやってもどうにもならない」は、「どうにもならない」と認識している自分自身は、純潔に温存することができます。 「どうにかなるかも」と現世的な努力をはじめた瞬間に、自意識が不純にけがされる。


と言っても、ひきこもり当事者(経験者)が「どうにもならない」と言ってしまうのは、「それほどまでに絶望が深い」ということだし、「その絶望の断言自身が防衛反応である」と言うこともできます。 「まだ希望があるかもしれない」と言ってしまったら、あの危険と傷つきに満ちた時間が始まってしまうのですから。


恋愛についてもそう。 「自分にだって、希望はあるかもしれない」と言うことが、どれほど苦しいか。 「自分にだってあり得た」のだとしたら、「何もなかった30年間」は、どう理解したらよいのか。「頑張れば何とかなった」のか。 → 「努力しても自分にはムリだし、そもそも自分には必要ない。このまま死ぬしかない」と受け止めれば、楽になれる。 自意識の安楽死


「希望がある」という感覚が「不純」で、それゆえに引きこもり当事者(経験者)には耐え難い(なじみにくい)ものだとしたら、斎藤環氏の言う「ひきこもりはオタクになればいい」というのは、かなり無理のあるスローガンになる。 現世的で(不純な)希望(快楽)には、喪われた(苦痛に満ちた)あの時間*10を補填するほどの実りはない。 傷つき、完全に絶望した当事者のメンタリティに見合うのは、「完璧なる純潔主義」だけなのではないか。 → その純潔主義を、「ニヒリズム」から、「社会的に措定された絶望」に向かわせることはできないか。


上で触れた、「閣議決定後の形式的承認としての≪陛下のご意思≫」が、そのようなものであり得ないだろうか、というのが僕の論点でした*11。 → それは「天皇陛下万歳」を叫べばいいという話ではなく、「閣議決定」が大前提なのですから、憲法や法律について勉強するとか、実際の政治活動が必要になるとか、そういった話になってしまうわけですが。


完全に絶望した当事者(経験者)を動機づけるほどの何かが示せないなら、やはりニヒリズムに徹し、「自意識の安楽死」に身を任せるしかないのだと思います。 あるいは文字通り、「ひきこもり当事者の安楽死を認める法案」を検討し、ロビー活動すべきでしょうか。 「私たち引きこもりには生き残る希望が一切ないのだから、せめて安楽死させてくれ」と。

僕は冗談で言っているつもりはありません。 「どうしたら楽に死ねるか」は、ひきこもり当事者の最大関心事の1つのはずです。


絶望のピュアリティに見合うほどの現世的事業はあり得るか。

「ひきこもり」は、「オタク」に似ているように見えて、実はまったく違う。

「ひきこもりに精神主義を押し付けてはいけない」と言いますが(それは本当です)、それは「ひきこもりは精神主義を嫌うから」というよりも、「(いい加減な説教では)精神主義の度合いが低すぎるから」ではないか。 ひきこもりを動機づけるには、「もっとよりピュアな精神主義」である必要があるのではないか。 「命懸けのひきこもり」に見合うだけのピュアリティ。

ひきこもり当事者こそが、もっとも極端かつ先鋭的な精神主義者であり、それは「完全な絶望」ゆえのなれの果ての姿。 あまりに傷ついているので、そのようなピュアリティによってしか自分を保てないのではないか。


社会復帰のための「有効な訓練」があり得るとしたら、それは「精神主義の解体」か、逆に「極端に純度の高い精神主義のインストール」以外にないのではないか。 これほど深く傷ついてしまった人たちには、もはや「適度の精神主義」は不可能なのではないか。




「空疎な抽象論」か、「理論なき(恣意的な)個別対応」か 「空疎な抽象論」か、「理論なき(恣意的な)個別対応」かを含むブックマーク

僕が個別対応的なカウンセリング業務に困難を感じ、思想・制度の問題を考える必要を痛感したのには、いくつかの理由があります。 以下に列記してみます。

ただし、これは「個別対応の価値を認めない」ということではなく(そんなことできるわけありません)、「現状では個別対応の価値ばかりが喧伝されているが、理論的に考える努力にも意味はあるのではないか?」という提言です。


  • 相談業務をしていると、一人一人の依頼者が、「特殊性」(「依頼者として」)ではなく、「単独性」(「個人的な友人として」)の対応を要求してくる。 → 「誰が友人になれて、誰がなれないのか」の承認闘争が発生し、耐えられない状況になる。
    • 「斎藤環は冷たい」と言われるのもこれでしょう。 斎藤氏は「医師」であり、面接室には「患者−医師」関係しかないし、それしか許されない*12
    • 逆に言うと、在野の支援者は、「支援対象との人間関係(の線引き)をどうするか」に、つねに悩まされる。 「スタッフとして付き合っている」のか、「個人的に親身な友人」なのか。 → 支援者も(趣味趣向を持った)一人の人間であり、「相談を受けたすべての人を個人的な友人にする」ことなど不可能。 → 「スタッフとして付き合っている」にもかかわらず「単独的に対応している」は、あり得るか。
    • というより、「単独的対応」は、やはり必要なのか。 「単独性」については、当事者同士、あるいはまた別の「出会い」に託すしかないのではないか。
    • ――といった議論そのものが、「理論的検討」である。


  • 支援活動における、「ミッションの確定と線引き」という論点に即し、支援技法を洗練する必要がある。
    • この「線引き問題」は、関係者にしか理解しにくいのかもしれないが、支援者を守るためにも、当事者(消費者)を守るためにも、必須の論点*13。 → 支援者が「引き受けすぎない」よう、消費者が「ぼったくられない」よう、契約時にはっきりさせる必要がある。
    • その際、上記のような「単独性/特殊性」という理論的理解はとても重要。
    • 「ミッションの設定」は、「ひきこもりに対する理論的理解」が行なうはず。 「理論など要らない」は、それ自体が一定の「ひきこもり理解」の理論的帰結であり、思想的立場の表明。 あるいは、自分の恣意的立場を絶対化しているにすぎない。


  • 「ゴチャゴチャ考えてないで、やれ」が有効な局面は、たしかにある*14。 しかし、何度も触れているように、努力課題のすべてを「個人レベルの修行」に置くことは、「課題のすべてを当事者個人に還元する」ことになる。
    • 「個人的な訓練は必要ない」のではない。 「どのような訓練が必要か」が問題なのだ。 → それを決めるのは思想的理解*15
    • ひきこもりの苦境が、「自意識のトラブル」に多くを負い、それが時代的背景と密接に関わるとしたら、思想的な議論は無視できないのでは(もちろん「苦痛緩和に役立つ」範囲で)。
    • ひきこもりが、「政治的敗残者」の問題であるとしたら*16、「思想」や「制度」の問題をどうして無視できるでしょうか。 「脱落者」であればあるほど、思想や制度の成り立ちを検証する必要があるはずです。


  • 個人的に考えて、「言葉に関する貧困さ」が、あまりにも大きな苦痛と悲劇を生んでいるように思われてならない。
    • 「ひきこもり」は、関係者【当事者・経験者・家族・支援者・研究者・批判者】の言説を、ひどく貧しく、ステレオタイプなままに温存し、それがひどい苦痛を生んでいる*17。 → 「ひきこもりについて論じるのであれば、最低限この程度の議論は踏まえなければならない」という業績を蓄積し、「議論の貧困さ」に対抗する必要がある。
    • 「為すべき議論を為す」のは、ひどく難しい。 しかし、少なくともチャレンジの価値はあるのではないか。 「有意義な議論」が、どれほど大きな苦痛緩和を育むか、を考えれば。


僕は、業界関係者(当事者・支援者など)にとっては「哲学ヲタの馬鹿」であり、アカデミシャンにとっては「理論と教養のない馬鹿」になる。 現場には理論家の成果が届かず、理論家には現場の葛藤が伝わらない。 → 「現場の苦痛に即した理論」こそが、必要だと思うのですが…。




「経済」の話はどう関わり得るのか 「経済」の話はどう関わり得るのかを含むブックマーク

今日アップした議論では、僕の以前からの懸案である「経済(学)」についての議論がまったく扱えませんでした。 今後の課題です。 ――というか、今日考えたような「自意識」や「敗残者」の問題が、経済政策論(あるいは地域通貨・ベーシックインカムなど)とどう関わり得るのか、それ自体がよくわかっておらず、だから経済の勉強も遅々として進まないのですが…って言い訳ですが。



長々と書いてしまいました。 数日に分けてエントリーすることも考えたのですが、今日の話は僕の中では一つのまとまりを持っているので、あえて一括掲載してみます(すべて一気に書き上げました)。 「これでは読みにくいので、今度からは分けろ」ということでしたら、そうします…。


もし読んでくださった方がいたら、本当に感謝です。 忌憚ないご意見をうかがってみたいです。




*1:僕の持っているのは「2000年6月27日第9刷」。カミングアウトは同年6月です。

*2:シェイクスピアになぞらえて言えば、「おお日本、どうしてあなたは日本なの!」

*3:p.219。 憲法学者、奥平康弘氏の発言。

*4:という理解がいちおう共有されている

*5:三島由紀夫は『英霊の声』の中で、「あれは≪人間天皇≫の発言であって、≪本物の天皇≫のご意思ではない」という意味のことを言っていなかったでしょうか。 「などてすめらぎはひととなりたまひし」を、僕はそのように理解したのですが。

*6:在野でも、権威者の周囲にはつねにある風景だと思います。 そこには「○○先生が、権威主義はいけないって言ってたぞ! 逆らう気か!」という喜劇さえ…。

*7:『憲法対論』p.16、宮台氏の発言。 赤字強調は引用者。

*8:「上山を傷つけて楽しみたい」のでしょう。

*9:『憲法対論』p.17、宮台氏の発言。 太字強調は引用者。 あと、「実際には〜ないか」を、引用者がカッコに入れました。

*10:引きこもっていた時間

*11:これは「否定神学」で、だからいけない、と言うべきなんでしょうか。

*12:精神科医が患者と「プライベートな友人・恋人関係」になることはご法度のはずです。 斎藤環氏は公的に僕をご紹介いただくとき、「友人の上山さんです」とおっしゃるのですが、これは僕のためではなく、斎藤氏ご自身のケジメのためだと思います。 僕は斎藤環氏の患者になったことは一度もなく、「患者 → 友人」という展開では一切ありません。 【蛇足ながら、当ブログで僕が展開している議論を斎藤氏がどう思われているか、僕はまったく知りません。】

*13:逆に言えば、この点をぼやかす支援者は、信用してはならない。

*14:特にひきこもりの場合、「防衛反応として(逃避的に)抽象思考に没頭する」という要因は無視できないし、短期的成果のためには「とにかくヤル」は必要。

*15:「思想とはなんだろうか」と思ってしまった。とりあえず「何が正しいか」についての立場、としておきますが、僕が「必要だ」と言っている「思想」とは、どのようなものでしょうか。

*16:拙著 p.188

*17:「ひきこもりについて論じている」光景は、いつも「陳腐なロールプレイ」にしか見えません。 肯定派も否定派も、既視感のあるパターン化された言説を繰り返すだけ。

igiigi 2004/06/22 11:11 概念の輸入については、未読でしたら、柄谷行人「近代日本文学の起源」を参照されるのがよいかもしれません。

iuxiux 2004/06/22 14:11 はじめまして。天皇や近代思想に関してはこちらがよくまとまっています。http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/3776/thought.html

sivadsivad 2004/06/23 13:28 力作ですね。以前から疑問なのですが、公と私ってのは対立概念なのでしょうか。

2004-06-17  「公私混同」のディテール

昨日はコメント欄にて、「世間」や「憲法」についてのご教示をいただきました*1。 いずれも、すでにアカデミックな議論が大量に積み重ねられているのだと思います。 論点の取捨選択が難しいところですが、「ひきこもり」というテーマ設定との関係において、少しずつ調べていこうと思います。



「法や制度」と、「慣習や世間」 「法や制度」と、「慣習や世間」を含むブックマーク

最近、憲法を調べてらっしゃる id:matuwa さんからは、具体的な論点とともに、「公私の区別は、憲法が決めている部分もある」というご指摘をいただきました。なるほど。

ええと、まだよくわかっていないのですが、「法律」というのは「国が国民を縛る」もの、「憲法」というのは「国民が国を縛る」もの、という理解でいいのでしょうか。


コメント欄にも書きましたが、「法や国家の権威よりも、『世間』という権威や圧力への対処法のほうが切実だ」というご意見は、微妙なところだと思います。 「世間」(そこには「他の当事者」や「インナー世間」も含まれます)からの圧力があるからこそ、それに対抗するためにも、「法や国家」の権威が必要かもしれない。 つまり「既存の法や制度ゆえに、なし崩しに追い詰められる」面は確実にあるとして、しかし反対に、「既存の法や制度の中にも、私たちを救済してくれる要因はあるのではないか」と。

苦痛緩和のための議論が「空理空論」にならないためにも、既存の制度の何を変更すべきで、何を活用すべきなのか、そこは具体的に論じるべきなのだと思います。 「この社会のすべては間違っている!」とか叫んでも、どうにもならないので…*2


「法や制度」と、「慣習」はちがいますよね…。 以前、アメリカの「年齢差別禁止法」について触れましたが、日本でこの問題をちゃんと考えてもらうためには、やはり「政治家への直訴」しかないんでしょうか…*3



余談ですが、「世間」について、太宰治 『人間失格』ISBN:4101006059 より。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。 これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 世間とは、いったい、何の事でしょう。 人間の複数でしょうか。 どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。 けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。 あなたが、ゆるさないのでしょう?)

今ならさながら、「ひきこもり」こそが「人間失格」でしょうか…。



「公と私」 「公と私」を含むブックマーク

宮台真司氏の『憲法対論』、魅力的ながら読み進むのにとても難儀しているのですが、ひとまず「公私接続の論理」を問いの機軸として、読む努力をしてみようと思います。

でも、「ひきこもり支援」について論じるのに、「公私」の話なんて必要なんでしょうか。 それこそ、苦痛緩和に関係ない「知的お遊び」なんではないか。

そこで、実際にこのテーマについて論じてみる前に、「そもそもそんな話は必要なのか」について、すこし考えてみます*4


拙著ISBN:4062110725 p.208 で、僕は次のように書きました。

 あるシンポジウムで、「ひきこもりの連中は≪自分≫を捨てていない、≪自分≫を捨てろ!」と言われたことがあります。 これは、「公と私」の問題を言っているわけですね。 「公」のために「自分を捨てる」ことを学べば、ひきこもりなどにならないはずだ、と。 ひきこもりはあまりにも、≪自分≫に執着してしまっている、と。


これは2000年の10月、僕が「ひきこもりの経験者」として、初めてシンポジウムのパネラーをさせていただいたときのエピソードです。 僧職に就かれているのか、スキンヘッドの男性が僕への質問のために発言し、「社会のため、国のために自分を捨てろ!」と叫んだのでした。 これで僕は、「ああ、引きこもりというのは、保守・右翼系から糾弾を受ける立場にあるんだな」 「実名を晒してしまっているし、うかつに引きこもり擁護の発言をすると、殺されるかもしれないな」と思ったのでした。 その場では、次のようにお返事したのを覚えています。 「ほかの当事者はどうかわからないが、私自身について言えば、≪本当に納得して自分を捨てる≫という体験を、実は切望している」 「必死にそういうテーマや対象(天職)を探している」 「さもなくば自分を支えられないと感じている」。


保守・右翼系からは「自分を捨てろ」と糾弾されるのですが、実は僕は引きこもり当事者たちからも、ここ3〜4年同じ罵倒を浴び続けています。 「元ヒキでしかないくせに哲学談義をして、≪プチ斎藤環≫の文化人気取り」 「ひきこもりという不幸体験をネタにした売名行為」 「当事者に寄生して稼いでいる」――いずれも、「いくらカッコつけても、お前の言動の≪真の動機≫は見え透いてるんだよw」という指摘です。 僕がひどい目に遭わされても(殺されても)、当事者たちは「それみたことか」と嗤うだけでしょう。

つまり僕は、どんなに頑張っても、「お前は自分の私利私欲のためにほざいてるだけだろ」と見られているわけです。


僕を罵倒した右翼や当事者が本当に「公」の立場にいるのか、はともかく、「私欲のために公的な利益を犠牲にしてはならない」という前提は、共有されているようです。

でも、考えてみれば、現在の経済社会は、「私欲の追及」に基づいて成立しているはず。 というか、「ひきこもり当事者」のメンタリティには、「私利私欲の追求」になじまないところがあって、だからこそ社会に入っていけない面がないか。

先日から「自意識の純潔」などと書いていますが*5、「無垢なる純潔」を譲らない(というか譲れない)という点において、僕はひきこもり当事者の内面に、危ういものを感じています(もちろん他人事ではありません)。


本にも書きましたが、「秘密のマネジメント」の下手さ、「泣き寝入り」体質*6、それに「社会的不正義に怒る」*7といった当事者のメンタリティには、「守るべきところで自分(や大切な人)を守れない」、「公的な正義を夢想しすぎるがゆえに、現実的な私生活を運営できない」という本質的な問題が見え隠れしています。

つまり「公私のけじめをうまくつけられない」というのは、ひきこもりを批判する側にとって重要な論点であるばかりでなく、当事者本人の内面生活にとっても、喫緊の問題ではないか。

現実に僕は両サイドから、「お前は公私混同している」と非難されているわけです。


「ひきこもりなんて自己責任(自業自得)なんだから、公的に支援するなんておかしい」といった非難も、「公私混同」を問われている。 当事者が「社会的弱者」だとしても、それへの支援は「公的には正当化され得ない」と。

当事者自身が社会的再デビューを目論むとき、自分の自意識のレベルでは、どのように問題解決するのか。 「自分が生きるために、妙な正義感は捨てる」のか。 「自分なりの努力は続ける」のか。 そもそも「自分の自意識を維持するために正義に固執する」のは、それこそ「公私混同」ではないのか。――といった各種の問題設定。 → それは、「憲法」「政治」などとの関係において、どう扱い得るのか。


「好きなことを仕事にしたい」 「天職に就きたい」という願望も、「お金(私欲)のためにすべてを犠牲にする、というような苦しみに満ちた生き方はしたくない」という認識の、おだやかな表現ではないでしょうか。 そしてほとんどの人にとっては、「やりたくないが、仕方ない」が全てだし、「働く喜び」があるとしたら、その中から探していくしかないのではないか(やりたいことを仕事にできる人なんてほとんどいない)。 つまり「私欲の追求」のなかに、わずかに光る「人のため」を探すしかないのではないか。


私が「ひきこもっていてはいけない」「侮辱・排除されるべきだ」としたら、それはどのレベルにおいてだろうか。 法律、ではない(ひきこもりは違法行為ではない)。 政治? 道徳? 「親が子供を扶養する」という個人的なイベントに、どうして他人が(「公」の顔をして)口を挟むのか → しかしそれを言うなら、公的な援助は期待できない? いや、そもそも「ひきこもり」は、本人自身が(エゴで)望んだ状況とは言えない――などなど。



積み残し 積み残しを含むブックマーク

……というわけで、「私」と「公」の関係は、「ひきこもり」というテーマに内在的であると思うのですが。

実はこの「公私」のテーマ、拙著の中では最も「うまく語れなかった」部分だと思っているのです。 「いちばんうまく語れなかったが、でもひょっとすると、いちばん大事かもしれないテーマ」。 そんなふうに考えて、ゲンナリしていたのでした。




*1:いつの間にか、当コメント欄への書き込みがアンテナに反応しないようになっているようです。どなたか設定をいじられたのかな?

*2id:matuwa さんがそうだと言ってるのではないので念のため。 僕自身が、どうしても「感情的な叫び」で終わってしまいがちなので。

*3これは共産党のページですが、「年齢差別禁止」というのは、少数派にしかできないような「過激な」主張なんでしょうか…。

*4:「『そもそもそんな話は必要なのか』という問題提起はそもそも必要なのか」という無限後退もいちおう視野に入れつつ。

*5:当サイトの最上部の窓で、「自意識 純潔」の2語を入れて検索してみてください。

*6:いずれも p.192

*7:p.148、p.208〜。 「自分をイジメた相手が公正に裁かれていない」という怒りもここに入ります。

anhedoniaanhedonia 2004/06/18 11:27 いわゆる右翼が言う「社会」や「国」は、いわゆる右翼のその人の「私」の拡張したもので、そのまま「公」になるわけではないのです。そのように言ういわゆる右翼にとってのみ居心地が良い私的な「社会」や「国」を夢想しているだけで、実際の「社会」や「国」を捨象しているからです。そこには「公」の意識は無いのです。  「政府」や「役所」は、「公」の一部ではあるけれど「公」の全てを代表しているわけではなく「私」の延長にあるもの。と、捉えることもできます。   では、「公」とは?  とりあえず、実体のある何かや誰かではなく、その行為は公正か?妥当か?と問う「眼差し」としておく方がリーズナブルではないかと・・・ 

nonakanonaka 2004/06/18 15:50 公と私の境界をめぐる議論ってパフォーマティヴになりますよね。「それは僕のプライベートだ」と言えば、「あんたたちは黙っててくれ」という意味になるし、「これは公にかかわることだ」といえば「俺たちにはお前のことに口を出す権利がある」と主張しているわけです。つまり「私」や「公」ということばを道具にして、議論に参加する資格を狭めたり広げたりしている。コンスタティヴに決まる話ではない。必要を感じる者が境界について語るごとに、境界は揺らぐのでしょう。

aimeeaimee 2004/06/18 17:44 仕事上、よく翻訳の真似事のようなことをしているのですが、いつも「世間」という言葉を英訳するのに四苦八苦します。MSN辞書 :) なんかで調べると、the world; society; people. って出てくるんですが、日本語でいう「世間様・・・」はニュアンス的に違うのよね。あと、「世間様に顔向けできない」なんて言葉を訳すことになった日には、一日悩んでしまいます。アメリカには、あまり「世間」という概念が無いように思うのですが(「コミュニティ」みたいなのはありそうですが)、こういうところも日本に引きこもりが多い、という部分につながるんでしょうか。余談でした。

miyagimiyagi 2004/06/18 21:49 1.上山さんの本で、「公私」を「主観と客観」という言葉で置き換えて読んではだめでしょうか?2.風の谷のナウシカ・第7巻・p192で、クシャナさんの父親(王)が、「失政は政治の本質だ」と言っていました。3.「ひきこもる」ことによって、守れるものと失われるものは何ですか。もし、「ひきこもる」ことで苦痛があるとすれば、「公」(客観的に)としてどのような苦痛が挙げられますか。苦しみは結局、「私」つまり自分にしか分からないとも思うのですが。

jounojouno 2004/06/19 00:37 http://archive.honya.co.jp/contents/knomura/reading/civil01.html またコミュニタリアン的おおやけは、ひとつの「善」であり立場ですが、公共とは、複数の「善」を両立させるための、そして複数の「善」から個人を守る「距離」としてのロールズ的な「正義」にかかわるのではと思います。

igiigi 2004/06/19 21:45 世間の話はなかなか論じにくいですね。とりあえずは阿部世間論に身を寄せながら考えるしかないのかな、と思っています。世間は英語にするのは難しいので、とりあえずseken(italicで)でいって説明するのが一番いいのではないかと…(私は他の国には他の国の世間があるのではないかと思ってはいますが…)。

2004-06-16  「公」と「私」のよじれた関係 このエントリーを含むブックマーク

興味深い論点をたくさんいただき、本当にありがとうございます。時間はかかると思いますが、一つ一つの論点について、じっくり考えてゆきたいと思います。


「雅子妃の現状を≪ひきこもり≫と呼べるか」については、考えているうちに話が広がっていきました。ご本人の「状態像」についての情報が少なすぎるので*1、今は問いそのものに「Yes/No」で答えることは控えますが、「雅子妃の置かれている状況(の論理)はどのようなものか」について考えることは、いろいろと生産的であるように思えます。


ひとまず僕は「公/私」のよじれた関係が決定的であるように思えました。日本では、昔から「ハレとケ」*2と呼ばれたそうですが、この「公私」概念(の論理)は、西欧的なそれとは違うのでしょうか。

また、「皇太子妃」と「一般国民」では、「公私」の区別も違っているように思えます*3


「ひきこもりを非難する人は、雅子妃も非難するのだろうか」という問いも含め、この件はもう少し考えてみます。



宮台真司氏 『憲法対論』ISBN:4582851649 も入手しました。

読むのにものすごく時間かかりそう…。



*1:「長期にわたり家族以外との接点がまったくない」のか、それとも「公の場には姿を現さないが、個人的な友人関係は保っている」のか。

*2:漢字はないのかな

*3:これは憲法論になるのでしょうか。

RirikaRirika 2004/06/17 06:32 *2:漢字>晴れと褻(猥褻の「せつ」)、かな。 雅子さんが卒業した高校(ベルモント・パブリックスクール)はうちから車で20分くらい、U君の母校だよ〜。『憲法対論』は読むのはすぐだけれど、旧日記に感想書いたように、基礎的な知識のないわたしには、判断できないところだらけで。かなりの素養を要求するというか、、

anhedoniaanhedonia 2004/06/17 10:41 「公」と「私」・・・なんとも厄介な問題ですね。  ひきこもりが「世間の中に居場所がない」ということであるなら、阿部謹也氏の『世間論』を軸に考えるとわかりやすいかも・・・

anhedoniaanhedonia 2004/06/17 12:02 雅子様・・・基本的に病気だし、“ひきこもっている”のではなくて“閉じこめらている”わけですから、雅子様に対してはひきこもりに対するような非難は無いですよね。どちらかといえば雅子様擁護の雰囲気が強いと思います。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/17 20:03 Ririka さん、漢字ありがとう。 へぇ〜>パブリックスクール。 ★ 「かなりの素養を要求する」ということは、逆に言えばこの本を叩き台にしていろいろ勉強できるということかな。ただ、「そこまでして読む価値はあるのか?」という疑問はあるわけで、勉強のための「問いの軸」が必要な気がします。日記本文でちょっとだけ触れた「公と私の接続の論理」というのが、その「軸」として使えないだろうか、と思っているのですが…。 【「旧日記」に書かれたという「感想」は、もう読めないんでしょうか?】

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/17 20:04 anhedonia さん、「世間論」の導入、ありがとうございます(阿部謹也というかたは知りませんでした。今後もご教示いただけるとうれしいです)。以前「はてな」では、「インナー世間」という言い方が流通したりしてました。「自分の中の世間が許さない」みたいなことですね 【ひきこもっている人の価値観はあんがい保守的で、「自分で自分を責める」ことが多いように思います】。 先日 Bonvoyage さんが「≪みんな≫って誰?」という問題提起をされていましたが、「世間」というのもよくわからないですね…(太宰治を連想)。 ★ 雅子妃については、ご本人の事情がどうであるかはよくわかりませんが、処遇事情がどう展開するか(どのような立場の人が何を言い、どんな影響力を持つか)、今後も見守ってみたいです。展開次第では、もちろん「ひきこもり」問題に深く関わると思いますし。

matuwamatuwa 2004/06/18 00:19 なにが「公」で「私」かを、憲法が決めている部分もあります。たとえば20条の信教の自由と政教分離は、「私」の場での信仰は自由だけれど、その信仰を「公」の場に持ち込むことを国民に禁じていると解釈でき、宗教=「私」になります◆天皇および皇族に対しては、このような「公/私」の区分は通用しない場合がおおい。たとえば長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(ちくま新書)には「天皇家の人々に表現の自由や信教の自由があるとも考えにくい。天皇がキリスト教に入信したり、マルクス主義を唱導したりすることは、憲法の予定していない事態であろう」(p.93)とある。ちなみに基本的人権を享有する「国民」に天皇および皇族が含まれるかどうかは、憲法解釈でも複数の説があります◆こんな法や国家の権威よりも、ひきこもり当事者にとって切実な問題は「世間」という権威や圧力への対処法かもしれません……

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/18 00:38 matuwa さん、こんにちは! そちらの日記でされている引きこもり(支援)論や憲法のお話、これからもぜひ参照させていただきます。甘えた言い方になりますが、今後もぜひご教示いただけるとうれしいです。 ★ 「法や国家の権威よりも、『世間』という権威や圧力への対処法のほうが切実だ」というご意見は、微妙なところです。 「世間」(そこには一部の当事者も含まれます)からの圧力があるからこそ、それに対抗するためにも、「法や国家」の権威が必要かもしれない。既存の法や制度には、問題点があるばかりでなく、社会的に弱い立場に立たされた者に有意義な要因もあるのではないか(もちろん改善の必要な点はあるにせよ)、というのが、そもそもの着眼点でもあります。

2004-06-15  脱落者に必要なもの

こんにちは。13日のエントリーにはたくさんの書き込みをいただき、うれしいかぎりです。コメント欄にて長文のレスポンスも試みてみましたので、よければあわせてご覧ください。 【この件については、もちろん引き続きご意見を募集いたします。すべてに十全なお返事をすることはできないと思いますが、必ず全文読ませていただきます。】



「引きこもり=マイノリティ」? 「引きこもり=マイノリティ」?を含むブックマーク

僕は無造作に「引きこもりというマイノリティ」などと書いていたのですが、よかったのでしょうか。

つまり、たとえば「黒人」や「同性愛」などの生来の条件によって社会的少数者に追い込まれた場合は、「その条件を改変することは不可能」であり、「そもそも改変を望んでいない」。しかし「引きこもり」の場合は、カテゴリそのものが「可変的な状態像」に基づき、かつ「無能力ゆえに生じている苦痛」が根本であるため、「できればその状態を改善したい」わけです*1。――これを「マイノリティ」と呼んでいいのかどうか。

僕は「社会的に少数者で、弱い立場に置かれている」という意味で「マイノリティ」という言葉を使っていたのですが。


というわけで、ネット上で調べてみたのですが、次のような文章が見つかりました

 「マイノリティ」の定義は国際連合のレベルで長い間議論されましたが、今日も明確な合意に至っていないのが事実です。マイノリティとは、一言でいうと数の問題です。ある特定の社会に所在する個人を民族や宗教などで分類したとき、少数に属する人たちと考えれば間違いないはずでした。ところが国連レベルでは、数だけでマイノリティを定義できないという問題があります。特に南アフリカのアパルトヘイト問題で、少数の白人が多数の有色人種を差別しました。

相対的に数が多くても、立場が弱ければ「マイノリティ」である?

 女性の問題にしても、確かに女性は男性よりも多数ですが、歴史的に今日、女性は差別を受けています。女性はマジョリティで男性はマイノリティだという議論は、少なくとも国際人権法の立場から議論できません。マイノリティとは、特定の個人集団が享有する人権とその尊厳、アイデンティティを尊重するために用いられ、それを課題とする歴史があり、数だけで割り切れないのです。結局、マイノリティの定義を議論するのはやめることになりました。

やめたんですか(泣)


いちおう、引きこもりも「社会的に弱い立場に追いやられた少数者」ということで、「マイノリティ」をめぐる諸議論には、今後も注目してみたいと思います(それぞれのジャンルで事情は違うのでしょうけれども)。



個人的訓練・環境整備・解釈変更 個人的訓練・環境整備・解釈変更を含むブックマーク

引きこもりというのは、深刻度を増せば増すほど苦痛が激しくなり、その脱出の極度の困難さから(そして「脱出後」にも、就労およびその継続は極度に困難であることから)、ほうっておけば「死に至る」状態です。「ひきこもっている状態そのものが悪である」わけではありませんから、そういう意味では責められてはなりませんが、「苦痛をともなう状態のまま放置していい」というわけではない。道徳的には状態像を受容しつつ、苦痛緩和のためには具体的に社会との接点を模索せねばならないし、「訓練」のプログラムを設定しなければならない。――そういうアクロバティックな援助姿勢が必要になります。

当事者*2を社会から守りつつ、かつ当事者を社会に接続せねばならない…。安易な「洗脳」や「順応強要」であってはなりませんが、なんらかの「訓練」やそのための環境整備は不可欠です。


難しいのは、その際の「訓練」が、ただ当事者本人の閉じた個人的トレーニングの問題では済まないのではないか、ということ。つまり、「修行系トレーニング」は、既存社会の制度上の問題等々を温存し、問題の一切を「お前が強くなれ」に還元してしまう。――そういう問題ではないはずです。


僕が「天皇」を持ち出したのは、「修行系の提言」ではないし、かといって単に「環境を変える」でもない。いわば「私たちの解釈を変えることで、既存の制度を(引きこもりの苦痛緩和のために)活用できないか」という発想です。


先日の分類で言うと、(3)に見える態度をとりながら*3、そこで期待されている実際の目論みは(1)に限定される、というような。 【そこには、北田暁大氏が暫定的にアップされている「言語行為論」が深く関係しているように思うのですが、これはまたじっくり考えたいです。】



拒絶の2つの理由 拒絶の2つの理由を含むブックマーク

今回の「天皇」云々の提案について、引きこもり関係者(とりわけ当事者・経験者)からの反発がどうしてこれほど激しかったのか。実は僕自身、1経験者としては痛いほど思い当たりますし、そこを「あえて」やっているところがあります*4


拒絶や反発の理由はいくつか思い当たりますが、暫定的に考えているのは大きく次の二つです。

  • ひきこもっている人は、絶望的なまでに「孤立している」わけですが、「天皇」というのは、「私を抑圧してくる多数者たち(“みんな”)」の文化装置。
    • 「私は、糾弾され排除される側に回っている。その私が天皇を尊崇するとは、これほど屈辱的なことがあるか。」*5


  • 「日本」「天皇」は、機能的で代替可能な(つまり「確定記述の束である」という意味において「特殊的」な)存在でしかないはず。なのに「単独的固有名」を詐称しているのではないか。*6
    • 「私の純潔な自意識は、そのような存在のためにピュアな愛的忠誠(単独的固有名に向けられる感情生活)を捧げるわけにはいかない。」


僕自身、他人事ではありません。でも、少なくとも「天皇」という存在を問題にすることで、こうした問題そのものをクローズアップできる(議論のテーブルを明確にできる)のではないでしょうか。



「敵の武器(たる言語)を、敵以上に上手に使う」 「敵の武器(たる言語)を、敵以上に上手に使う」を含むブックマーク

上記2つの「拒絶理由」に関連し、こちらのコメント欄がとても興味深いのですが、ここでは「排除された者の戦略」について、少しだけ。


「親に捨てられた孤児」であった作家ジャン・ジュネは、そのあまりに見事な表現力が高い評価を得ているそうですが、次のように語っています(強調引用者)。

 まず最初に医学の博士論文を普通に書いてから隠語を使って書くというような芸当は私にはできない、私のような囚人にとっては、自分を拷問し抑圧するものの言葉を使って書かなければ、最初からなにも聞いてはもらえなかっただろう*7


先日、日記本文でたった一言「2ちゃん語」を使ったところ、強い反発を受けたのですが、これは実は大切なご指摘かもしれないのです。

社会に入っていけずに呻吟している引きこもり当事者(経験者)が、「漏れらなんてもうだめぽ」と隠語を使った自虐に走っても、それ自体には何のインパクトもない、というか「支配的な目線で自分を痛めつけているだけ」です。

2ちゃん語のすべてが「自虐系」だとは思いませんし、僕もこれから面白がって使うかもしれませんが、これだけ「粗暴な発言でお茶を濁す」人が多いなかでは、「見事に言ってみせる」努力のほうがよりインパクトがあると思うのですが、いかがでしょうか。*8


「引きこもり」においては、2ちゃん的な「アンダーグラウンド」な文化は絶対に無視できない。しかしかといってそれだけではどうにもならず、「厚生労働省」「法律」に代表されるような(あるいはPC)、正統的で「表舞台」の努力も必要になる。その両極のどちらをも無視できず、だから非常に難しい…。*9


このように書けば、僕が「天皇」に注目した理由の一端も、ご理解いただけるでしょうか。




*1:「ホームレス」もそれに近いですね。

*2:厳密には「現役の当事者」と「経験者」に分けねばなりませんが、面倒なので以下では「当事者」と書きます(私は「経験者」です)。

*3:「天皇陛下万歳!」など

*4:宮台氏の「あえて」は、「本当は信じていないが、(そうする他ないので)信じているフリをする」ですが、僕は「実際の有効性に希望があるなら、反発があっても可能性を検討すべきだ」という意味で「あえて」と言っているので、(有効性への望みをベタに残しているという意味で)シニカルではないと思うのですが、それって宮台氏と同じでしょうか…。僕自身には、「冷笑的」なつもりは毛頭ないのですが(だからこそ、「恐いほどユーモアがなくなってしまった」と言われる)。 【そして、それが「本気で国を愛せ」ではなく、「(ジジェク的な)≪形式≫を本気で尊重せよ」というメッセージなので、ややこしいのですが。 → それは理論的には、もうすでに批判され尽くしたのかな?…】

*5:現実の文脈としては、引きこもりを糾弾しているのは保守・右翼です。

*6:三島由紀夫なら絶対に許さない見解でしょう。これについてはまたちゃんと考えてみたいです。

*7:『20世紀文化の臨界』ISBN:4791758110 p.104。あるインタビューでのジュネの発言を、鵜飼哲氏が要約している。

*8:といっても、chiki(id:seijotcp)さんや鈴木謙介(id:charlie_k)さんなど、2ちゃん語を駆使しながらも社会的説得力を維持できる方もいらっしゃるようで…。キャラクターの問題なんでしょうか。というか「年齢」もあるか…。

*9:「アングラ」と「社会的正当性」、その両者について、言語訓練が必要であるように思います。

sivadsivad 2004/06/16 03:25 天皇制におけるルターが必要なのかな、とよく分からないながらに思います。天皇が神だとするなら、今の右翼はさながら教会ですね。

temaritemari 2004/06/16 09:37 私は他の方のような難しいことは何一つ書けませんが、「天皇制」が日本における階級差別制度の根源であり、マイノリティーの迫害の一翼を担っているのだとしたら、週刊誌的レベルな話をして申し訳ありませんが、今注目の的になっている「雅子様問題」などは、これこそ、メジャーの中にマイノリティーが混在されてしまったことによって、起こるべくして起きた問題なのではないか?などとも思ったりもします。(まあ、エリートであった雅子様をマイノリティーと呼んで良いかどうかは、少し疑問の残るところですが、「天皇制」の前においては、雅子様でさえ、やはりマイノリティーに属するのかもしれません。今の雅子様が、まさに「ひきこもり」のような状態におちいっていらっしゃるのも、これもまた、偶然の一致ではなく、何かを暗示しているのかもしれないなと思いました。うまく書けないのがもどかしいのですが・・・。

BonvoyageBonvoyage 2004/06/16 11:01 ひきこもりと天皇制にどんな関係があるのか僕には未だ見えてきませんが、ueyamakzkさんが現場の情報から発見してきたことですから、簡単に否定できるものだとも思いません。アイデアが言葉になるまで楽しみに待つことにします。◆話は変わって… 雅子様には僕もシンパシーを感じています。彼女自身、とても頭のいい人ですから、事前に「そこでやっていけるかどうか」をよく吟味されたんだろうと思うんです。そこで「周囲からの圧力・束縛が、見積もっていたよりもずっと辛かった。でも逃げ出すこともできない。見積もりが甘かったのは自分の責任。それに皇室の一員として外交に取り組みたいという意思も強い…」というような自他からのマルチバインドがあるんじゃなかろうか。そんなことを勝手に想像してしまいます。これは僕がひきこもったときのパターンなんですけれども。

sivadsivad 2004/06/16 12:19 ふむ、むしろ宮内庁=教会ですかね。やはり現人神なのがネックですね。聖書主義のような内面化が難しそうです。

jounojouno 2004/06/16 13:50 聖書主義、福音主義的に内面化された天皇制というのは、三島なのではありませんか。とりわけ226的な青年将校は、「一君万民」の平等を信じ、「君側の奸」に悪を見出したわけです。ぞっとしないとぼくはおもうのですが。

sivadsivad 2004/06/16 14:05 結局、内面化するにあたってはインプットする「聖書」「福音」の内容が全てなんですが、天皇の場合それが少なく曖昧な上、現人神故に変更可能だったのが混乱を生んだのかもしれませんね。

BonvoyageBonvoyage 2004/06/16 14:22 変更可能かあ… ってことは、宮内庁とかが「雅子様、ひきこもりOK!」という声明を出したら、ひきこもり一般に対する世論も少しは動く? なんてね。あはは。

sivadsivad 2004/06/16 14:42 ふむむ、雅子様もひきこもり、という言説を流布すれば、もしかしたら風向き変わるかも??

qqqq 2004/06/16 22:01 本筋とは逸れますが、今の2chをアングラと言ってしまうのは語弊がありすぎるように思います。

2004-06-13  「必要な努力は何か」の選択 = 政治的立場の決定

なんでそうなるの なんでそうなるのを含むブックマーク

「天皇」云々と書いたことについて、「ガッカリした」「これで上山も過去の人だな」など、いくつかのブーイングが出ています*1。僕としては、「議論することに価値はあるかな」と問いかけただけだったのですが、「天皇」という単語を持ち出して引きこもりを論じようとすることそのものに、ものすごい幻滅・恐怖・拒絶反応が出ているようです。ナイーブというか…


天皇制が暴力や抑圧と無関係ではないとして、しかし「論題として取り上げることそのものを許さない」というのは、それ自体があまりに抑圧的ではないでしょうか。

誤解のないように言っておきますが、僕自身は、まだ「天皇と引きこもり」の関係について、あるいはその関係をどう論ずればいいかについて、明確な立場や考えを持っているわけではありません


「引きこもり」が、「日本という悪い場所」*2特有の問題であるとしたら、その場所と「天皇」とはどう関係するのだろう、いや関係しないのだろうか――そうした議論だって、必要かもしれない(既存の不登校・ひきこもり支援は左翼的な文脈を持つことが多いので、こういう論点ならご理解いただけるでしょうか)。あるいは逆に、(ひきこもりという)社会的弱者支援、という観点から、天皇制に光を当てることはできないだろうか――など。

天皇論そのものがあまりに膨大だし、文献渉猟の専門的訓練を受けていない僕が取り組むのは無謀なのかもしれませんが、少なくとも「必要な論点」だけでも、析出できないものか。「みんなで一緒に考えてみましょうよ」という呼びかけだけでも、できないものか。そう思ったのです。


具体的な論点を明確にできていない段階でこういうことを言うのはとても空しいのですが、「考えてみる価値があると思ったし、勉強も(細々とでも)試みてみます」ということです。繰り返して言いますが、今の時点で何か明確な立場やビジョンがあるわけではありません。


引きこもり(およびその支援)には、「私たちは、私たちの経済生活をどう切り盛りしていくのか」、そしてその際の「継続的な自己管理をどうしていくのか」というテーマがあって、これはとうぜん種々様々の思想的立場を生む問いですから、キナ臭い論争が絶えません。支援団体間のイザコザも日常茶飯。

僕としては、「(社会的・精神的な)選択肢を増やす」ということを1つの目標と考えてきたので、検討可能な選択肢はすべて検討してみたい。それだけのことです。



たのむよ たのむよを含むブックマーク

*3に対する罵倒の多くは、文章全体を読み取る努力をせず、「1つのフレーズ」レベル、もっとひどい場合には「1つの単語」レベルで僕の言っていることを判断し、それを攻撃しています。

文章そのものが「パフォーマンス」ですから、ブログのレイアウトを洗練するとか、1回のエントリーは少なめにするとか、「的確に読んでいただく」ための*4工夫は必要なわけですが、ここまでひどいとさすがに脱力…。

というか、この読解力のなさ自身が、1つの徴候なのでしょうか…。



「抽象的思考」の是非 「抽象的思考」の是非を含むブックマーク

先日からわがコメント欄で大活躍の id:anhedonia さんですが、また興味深いご指摘をいただきました

「セクシュアルマイノリティの世界では、抽象的な思考は排除されてはいない」そうです。僕は伏見憲明という方のお名前も知らなかったし、セクシュアルマイノリティについては何も分からないのですが、どうしてセクシャルマイノリティでは抽象的思考が排除されず、引きこもり(というマイノリティ)では、それが排除されてしまうのでしょうか


僕自身は、「すべての抽象的思考に意味がある」とは思わないし、残された時間をどうでもいいテーマに費やすのは嫌です。「本当に必要だと思う厳選されたテーマを、必死になって考える」ということに、僕の努力は向かいたい*5


id:ojahum さんへのお返事にも書きましたが、人生にしろお金にしろ、有限の資源をどう割り振るか、というのはそれ自体が政治的な決断。

もう1つ言えば、「ひきこもり支援にとって重要なテーマは何か」という判断自体が、政治的立場の選択だと思うのです。


「抽象的思考は必要ない」という判断自体が政治的決断だといえる。

というか、そもそもどこからが「必要のない抽象論」で、どこからが「具体論」なのか。 → その選別自体が、恣意的ではないか?


僕自身、「どの努力が本当に必要か」がはっきり見えているわけではありません。というか、当ブログは、その見極めを必死になってやっている、と言える。 「ひきこもりの苦痛緩和」との関連で、「必要な努力は何か」を探しているのです

僕のやっていることをバカにしている人は、「何をすればいいか」について、もう答えが出ているのでしょう(政治的立場の選択として)。 → 分かっているなら、バカにしてないで、教えてくれませんか。「本当に必要なものは、どんどん学ぼう」という姿勢は持っているつもりです。

何をすればいいか、わかっていないのに僕を馬鹿にしている人は、その人自身が何か勘違いしてるとしか思えない。わるいけど…。



3つの態度 3つの態度を含むブックマーク

勉強はぜんぜん進んでいないのですけど、その時その時で、通過点的に理解メモ、というか疑問メモを残してみようと思います。*6


天皇への態度について、今の僕は次の3つを分けて考えています。*7

≪ 形式的尊重 − フェティシズム − 「愛」的執着 ≫

(1)形式的尊重 ―― 憲法、ジジェク(Aバレ)

(2)フェティシズム ―― ワイドショー的目線、「天皇萌え」?

(3)「愛」的執着 ―― 「単独性」への信念、三島由紀夫など


僕が考えたいのは(1)なんですが、宮台真司氏は「あえて」(3)を選べ、というわけでしょうか。

『天皇論を読む』ISBN:4061496883 というのを手に入れてみたのですけど、上のような分類で考えてる作品はぜんぜんない…。




*1:メール・掲示板、など

*2:椹木野衣氏

*3:というか、文章を公にすれば誰でも経験されるのでしょうけど

*4:東浩紀さんふうに言えば「誤配を少なくするための」

*5:「そこに僕のエロティシズムがある」とか言ったら、笑われるのかな。 → 死ぬ2週間前の三島由紀夫ISBN:4108007026 は、「≪美−エロティシズム−死≫が一本の線を成してる」とか語っていたけど、この単語をどんなニュアンスで使うかに、その人の思想のかなりのことが表現されるような。

*6:先日の「固有名と愛」もそうですけど、僕が作ろうと試みているのは「オリジナルの業績」ではなくて「苦痛緩和に役立つ仕事」であり、「オリジナリティ」が必要だとしたらそれも「苦痛緩和のため」です。メモに間違いがあったらご指摘いただきたいですし、「それについてはこういう先駆的業績があるよ」とか、「これを勉強してみたら」とか、あったらぜひ教えてくださいね。
 いちばんうれしいのは、「僕(私)もいっしょに考えてみます」なんですけどね…。

*7:専門的な言葉遣いがぜんぜんわからないので、完全に自己流です。

LPitLPit 2004/06/14 03:27 問題提起はもっともですし”日本”を語る際には外せない”もの”ですが、果たしてひきこもりの人でどれぐらい普段から意識してる人がいるのかと考えると、結び付けて考えるには不適切な気も>天皇、というもの

TDCTDC 2004/06/14 04:14 >>LPitさん■果たしてひきこもりの人でどれぐらい普段から意識してる人がいるのかと考えると、結び付けて考えるには不適切な気も>天皇、というもの■これは上山さんの意図を取り違えてると思いますよ。「ひきこもり」の問題について何かを語る場合、「ひきこもりの人自身」と「ひきこもりを扱う人」の関連というマクロの視点で見る必要があり、その中で「ひきこもりをめぐる問題」を、かっては天皇中心の道徳感によって支えられ戦後そこからの急速な断絶を求められた戦後民主主義の問題と関連づけて考えることは非常に有効なことだと思いますよ。

nonakanonaka 2004/06/14 09:02 抽象的思考(議論)は闘うためには絶対に必要なんだろうと思います。サイードにしたってバトラーにしたって、「誰が読むの」ってくらい難しい文章書くけど、彼らの著作を理論的武器にしようとして読む人々が大学界の外にもいるってところが、アメリカのいいところでしょう(日本だとなかなか知的ファッションを出ない)。僕は上山さんの議論が日本におけるそうしたものになればいいと思っています。だいたい、「具体的なことをやれ、具体的なことだけが大切なんだ」っていう議論は「弱者が偉そうなこというんじゃない」っていう抑圧のレトリックでしかないと思います。最近でいえば、イラクで捕虜になった日本人に「たいしたヴォランティアもしてないくせに」的な批判をしていた人々とか(経験が浅いと、理論的批判をしちゃいけないのか!)。失礼しました。

nonakanonaka 2004/06/14 09:18 で、天皇制の話になりますが、上山さんのあげた3つの態度の分類は面白いなあと思いました。でも個人的には、(2)のフェティシズムが大事なんじゃないかと思います。最近、皇太子発言に寄せられた大きな関心にしても、基本的にはフェティッシュな関心、つまりやや下世話だけど実感のこもった性質のものだった。宮台の天皇論はあまり読んでいませんが、(3)といいつつ実際は(2)じゃないか、あるいは少なくとも(2)として流通することを計算に入れてやっているのではないでしょうか。(1)は、結局ぼくらのうちに天皇への「情熱」なり「執着」(正のベクトルにしろ負のベクトルのにしろ)を呼び起こさないから駄目なんでしょう。なんだかんだいって、キャーキャー言って旗を振るおばさんたちが真に担い手だ。とはいえ、僕らがそうなるべきだという意味ではありませんから、念のため。

ojahumojahum 2004/06/14 13:53 もともと他人の言動に打たれ弱いヒッキー体質だと、ほとんどすべての他者との関係が「政治的」に感じられかねないですけど、別に反論や非難や中傷が来たところで、実質的に主張を曲げて従う必要もないので、それほど政治的とも思えませんが・・。当初の方針に戻って、悠々と、上山さんが、自分の悩みっぷりを開示し続けながら、反応を見ることもできる場としてここを捉えるのが精神衛生上はよろしいかと思いますw。他人の言動にさらされながら、自分を保てる、自分を肯定できる、という訓練じたいのほうが、苦痛緩和としての意義が大きいような気がします。ぼく個人の体験としては、ひきこもり的な苦痛は、他者との関係性から来ること大にもかかわらず、議論として、過度に社会的、政治的要素をとりこむと、苦痛緩和には遠回りになる気がします。結局、他人が変わるべきか、自分が変わるべきか、社会が悪いのか、自分が悪いのか、というテーマの同工異曲になりやすいからです。他人を変えるのは、自分を変えるより難しくて、面倒だ、という理由から、ぼく自身は、なるだけ、自分個人で生き易くなる道を模索して、実際に自分が他人と関わる場面以外では、社会とか政治性とかは、意識しないようにしました。社会をとりこみながら議論を精緻にすることで、肩身の狭さや冷たい社会の反応から自分を守ることはできるけれど、ぼくの場合、それ以上、なにも進展させられませんでした。他人の価値評価を孕む視線に自分の存在が過剰に脅かされやすい、という点さえクリアできれば、あまり社会のことに頓着する必要はなくなってはきました。悩むスタンスはほんと、それぞれなんですけどね。

anhedoniaanhedonia 2004/06/14 16:25 自分の気に入らない意見や納得できない意見を“無視”できるような“図々しさ”を獲得できれば、かなり「苦痛緩和」ができると思うのですが・・・・・・それができればこんな苦労はしないですよね(^^:

ojahumojahum 2004/06/14 17:17 ですよねぇ。。

momoyamomoya 2004/06/14 17:25 ue様よ。6月6日付「こんなふうに議論したい」の美辞麗句もメチャメチャになっていますよ。それと、先月ぐらいまではほの見えたユーモアが、全く失われています。怖いほど。

momoyamomoya 2004/06/14 17:25 ue様よ。6月6日付「こんなふうに議論したい」の美辞麗句もメチャメチャになっていますよ。それと、先月ぐらいまではほの見えたユーモアが、全く失われています。怖いほど。

ojahumojahum 2004/06/14 18:15 じーんせい、らくありゃ、くーもあーるさー、なみだーのあとには、にーじもでーるー♪

BonvoyageBonvoyage 2004/06/15 18:24 昨日、自分のアンテナを開いたら↑のojahumさんのコメントが目に入って、ふとTVをつけたら水戸黄門やってました。 あ、ごめん、それだけ。

ojahumojahum 2004/06/15 19:50 シンクロニシティざんすぅ〜♪

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/15 23:45 LPit さん、こんにちは。「普段意識している人が多いかどうか」は、「天皇の話をすることがヒキコモリを考えるにあたって有意義かどうか」とは、直接的な関係にはないと思います。「考えている人は少ない(というかほとんどいません)けど、でも考える価値がある」ということもあり得るのではないでしょうか。いや、その価値のほどは僕もまだよくわからないのですが。 ◆ TDC さん、ようこそ。おっしゃる通り、僕の問題意識は、最近ようやく「マクロな視点」を問題にし始めたところです。そちらのダイアリーを拝見しましたが、TDC さんは社会学を専攻されているんですね。「社会学・経済学・歴史・法律」といった、僕がこれまでほとんど触れてこなかった議論に、急速に注意が向かっているところです。まだ暗中模索状態であり、拙劣な議論しかできませんが、ぜひいろいろ教えていただけるとうれしいです。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/15 23:45 nonaka さん、お久しぶりです。たったあれだけの私の説明から、私の言いたいことをきわめて的確に受け止めてくださって、本当にうれしい限りです。「引きこもり」というテーマは、なぜか不思議なほど、関係者(当事者・経験者・家族・支援者・批判者)の言語を貧困にしていきます。「ひきこもりについて論ずる」という風景は、たいていは信じられないほどステレオタイプの言説循環で終わる。私はそうした状況に非常に苛立ち、危機を感じているので、少しでも風穴を開けたい、と思っています。本当に最近、「≪言葉≫は大事だ」と切実に痛感しています(本当に、身を切られるほど)。言葉の環境や体験がほんの少し豊かになるだけで、どれだけ状況が一変するか。たった一人の人間の言葉に、どれほど救われたことか。 → だとすれば、「言葉の体験」が貧困な状況にとどまることが、どれほど危険なことか。本当にゾッとしているのです。 ★ 「天皇」については、まだ本当に何も分かっていないのですが、私としては、既存の制度について、解釈のレベルでアクロバティックなことはできないのだろうか…と考えているのですが(まだよくわかりません)。ジジェクが、ラカンとヘーゲルを掛け合わせ、熱狂を生んだ事例が範かもしれません(彼の通りにやる、という意味ではありませんが)。――と、こうしたことを抽象的に夢想していてもあまり意味はないので(笑)、また具体的にアイデアをひねってみたいと思います。ぜひまた遊びにいらしてください。ご教示やご批判も大歓迎です。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/15 23:45 ojahum さん、真摯な長文投稿ありがとうございます。「苦痛緩和のための課題設定」を、自意識への「修行系訓練」に限定してしまうと、宮台真司氏が「タフな自意識を持とう」と言うのに似て、努力目標が非常に限定的な「個人トレーニング」にならないでしょうか。僕が「天皇」とか言っているのも、ある意味「自意識の工夫」の問題なのかもしれませんが、≪一回既存の社会制度を通過している≫ということと、それを通じて≪「自意識の工学」みたいなものを工夫しようとしている≫わけで、「とにかく根性で個人的に頑張る」みたいな話ではない(つもりです)。現時点ではあまり理解していただけないと思うし、僕自身もまだよく分からないのですが、「排除された人間が、どのように社会的自意識を――継続的に・自滅せず――確保すればいいのか」といった試みであり、そのためのアイデアです。もちろん、いろいろの歴史的問題もあるわけで、もう少し勉強してみたいと思います。 ◆ anhedonia さん、最新エントリーも拝見しました。とてもツボです。これからも楽しみに拝見しますね。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/15 23:45 momoya さん、はじめまして。ご心配をおかけしてしまったみたいで…。うまくお応えできるかどうかわかりませんが、注意すべき警告として、真摯に受け止めさせていただきます。ありがとうございました。 ◆ 「ue様、ユーモアを!」というご指摘に「水戸黄門」で応えてくれた ojahum さんには、ぜひ座布団一枚さしあげたいのですが(笑)。天然系で引っ張った Bonvoyage さんも妙な味出てますw

2004-06-11  「引きこもり支援のために、天皇制について論じる必要はあるか」

「具体的な処方箋」のために 「具体的な処方箋」のためにを含むブックマーク

「上山さんがブログでしている考察は、空虚な抽象論であって、まったく意味がない」という主旨の指摘を立て続けに受け、ゲンナリ。「ひきこもりについては、難しいことを考える必要はない」。

対人支援の現場での、個別的なカウンセリング・テクニックや、就労支援・職業訓練についての具体的なプログラムを考えたほうが良い、というわけだ。

自意識(自己管理の文化)の問題、その自意識が社会的に存在しているということ、といった話は、「空理空論」だ、というのだろうか。

「議論のための議論」など、しているつもりはない。僕が現役で仕事をできる時間はもう残り少ないと思っているし、どう転んでも「命懸け」だと思っているので、それに見合うこと、「本当に必要なこと」しか考えたくない。

ただこの件については、僕が自意識レベルでエクスキューズを重ねても意味はない。「僕は違うんだ!」と叫んでも、提出できる具体案が空疎なら、「ほら、やっぱり」でしかない。


「自分は投げ捨てられている(孤立している)、自分を支えることができない」という痛切な感覚にとって、本当に必要なことは何か。社会で暮らすにあたって、あまりにも脆弱な立場に追いやられてしまった存在に、何が可能か。「本質的な無能力」から抜け出すのに、どんな訓練プログラムを用意すべきか。――そうしたところで、具体的な処方箋が必要だ。


そういうわけで、先日の「単独性」についての議論以来、ちらちらと触れていた「天皇制」の問題を、「ひきこもり支援」に内在的かつ必要な話として真剣に扱うべきか否か、頭を悩ませている。

社会に入っていけず「不気味なもの」(フロイト)となってしまった存在が、「天皇陛下」というマジックワード(およびそれに関連する諸効果)において、社会に復帰できるか否か。

この辺の議論は、粗暴にやろうと思えばいくらでもやれる。ただ、テーマ設定としてヴィヴィッドかつ具体的なので、「議論する価値はあるか」について勉強し論じるだけでも、何がしかの成果は期待できると思う。


僕自身は、不登校になった中学生の頃から、「天皇制」に強い反発と嫌悪を感じてきた。不登校や引きこもりを社会的に支援してくださっているのは基本的に左寄りの方々だし、保守・右翼は引きこもりバッシングを続けている。その文脈で、「引きこもり支援のために、天皇制について論じる必要はあるか」という問題設定を持ち出すのは、トチ狂ったとしか思われないかも。いや、実際にトチ狂っているのかもしれない。それならそれで、はっきりさせたい。


ひとまず、宮台真司氏の議論を勉強する努力をします。停滞や中断を繰り返しながら、少しずつでも考えていきたいと思います。

「馬鹿かお前は」というツッコミも含め、いろんなかたのご意見をお待ち致します。



読んだもの 読んだものを含むブックマーク

「引きこもり支援のために、天皇制について論じる必要はあるか」については、なかなか具体的な発言ができません。なので、「読んだもの」について、とりあえず列記してみたいと思います。読んだかたは、声をかけてくださるとうれしいです。






自意識上の問題を解決できないでいるひきこもり・・・・しかしながら正規雇用の特権性が温存されたまま、そちら側へとなんとか若者を引き込もうとする非正規雇用対策では、結局は就職できた奴が勝ち組、駄目な奴は何をやっても駄目、という構造を温存し、結果、雇用を巡る社会的分断が拡大する・・・・非正規雇用者の拡大=わけの分からない若者の増大=大人/被正規雇用者/勝ち組の不安の増加=排除策による分断の強化、というルート・・・・

・・・・雇用や労働を巡る「勝ち組/負け組」の言説が強力なのは、誰にも「勝ち組」への路が開かれている、という勘違いを持ってもらえればその分断自体は肯定されてしまう・・・・貧困にあえぐ人は社会改革という「現世志向」を捨て、宗教による「来世志向・現世否定」へと傾く・・・・閉ざされた門があり、その門に入れないとき、その人は門のアーキテクチャについて思いを巡らすことなく、むしろブラックボックスとしてのその門をある種オカルティックな視線で眺めるのではないか。


「天皇の話を持ち出すのは、自意識レベルの問題でしかなく、だから必要ない」と考えるべきなんでしょうか…。


というか、今日のエントリー自体がバカげてるのかなぁ…。



*1:とか言うと失礼でしょうか。僕自身もそうなので、共感してしまうのですが。

anhedoniaanhedonia 2004/06/13 21:45 哲学的な考察を経ることでしか世界との繋がりを獲得できない人もいるわけで・・・その人にとっては無意味でも、ある人には有意味かもしれない・・・それこそ、「ひきこもり」も十人十色、百人百葉、千差万別なんだから・・・◆ゲイの世界における伏見憲明さんのようなイデオローグは、ひきこもりの領域には必要ないってことなんだろうか? セクシュアルマイノリティの世界では、抽象的な思考は「まったく意味が無い」と排除されてはいないのだが・・・

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/13 22:43 先日から、anhedonia さんのご指摘はツボ突きまくりです。「抽象的思考を排除するか否か」自体が興味深い問題のような気がしてきました。

ojahumojahum 2004/06/14 00:13 言葉にされた抽象的思考は、他人の目に触れて、とやかく言うことができるのだけれど、言葉にしようとする意欲、手応え、というのは、抽象的思考だろうがなんだろうが、たしかに、その言葉をつむぐ本人には、(手応えとして)あったわけで、もう、それで十分だと思う。その抽象的思考が、迂回であろうと、反復であろうと、退歩であろうと、なにかしらの手応えや、なにかわからないけれどたぐりよせればなにか見えてくるかもしれないもの、それを感じているから、抽象的思考を呼ばれるものを、重ねて続けてしまうし、そうすることしか思い浮かばないのだから、それが当人には最善なのだと思う。他人の目に触れてしまうから、さまざまな立場の人の感想をひきこんでしまうので、ちょっと、厄介なだけで、思う存分やるのが、いいと思います。

ojahumojahum 2004/06/14 00:14 ・・・なんか、日本語、変?

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/14 00:52 ojahum さん、ありがとう。「言葉にしようとする意欲」についてはおっしゃる通りだと思うけど、その意欲自身が社会的に存在していて、たとえば大学では、研究費分配のあり方(有限の予算をどの研究に割り振るか)が政治的な問題になる → 研究テーマには優先順位がある。 ◆ 僕は「ひきこもりの苦痛緩和をするのに、抽象的に考える努力も必要だ」と思うのだけど(もちろんすべての抽象思考が重要というわけじゃない)、僕に向かって「そんなのくだらない」と言う人たちは、「抽象的思考は、ひきこもり支援をする上では優先順位が低い(というか要らない)」と判断しているわけです。 → これもやっぱり、政治的な立場の問題なんだと思う。 ◆ ところで ojahum さん、本物かどうかわからないので(笑)、もしよろしければ、ログイン状態で書き込んでいただけるとうれしいです。

ojahumojahum 2004/06/14 07:58 いちおう、本物です。

2004-06-10  友人感謝デー このエントリーを含むブックマーク

すやすや

久しぶりに id:aimee にメール送ったら、なんかほのぼのエピソードになってて。

許可を得て、彼女の返信の一部を転載します。



 あとね、Sn*1 が会社の近所で猫拾ってきちゃって・・・これまた大変。


 なんか、彼がひとりで会社からコーヒーでも飲みに行ったら、後をついてきた仔猫がいたらしく。

 まだ目も開いていないちっちゃな産まれたての仔猫がふらふらとついてきたんで、見捨てられなくなったらしい。


 私も会社を抜け出してみにいったら、もう死にそうなわけ。

 鼻血だしてるし、目は見えないし、鼻もつぶれてるし、ぐちゃぐちゃだし。

 これは死ぬなーと思ったんだけど、あまりにかわいそうだから病院連れてったら「1週間が山場です」と。

 でも、いい獣医さんで、時間外なのに診療してくれて、仔猫用の介護用品?なんかを全部無料で提供してくれました。


 と、いうわけで産まれたての仔猫の看病をしておりました。

 生き延びるかどうか、今のところは分からないけど、だいぶ元気になってきました。

 でも、まだぐったりしてる。目はみえるようになるかなー。


お名前は「げんき」君(♂)で、右上の写真*2が彼です。 【13日追記: げんき君、ご主人様のダイアリーで正式に紹介されました。 「目の見えない PTSD Cat」…。】


ほかの友人たちからもいろいろ恩恵を受け、「友達」のありがたみを痛感した一日でした。



*1id:aimee の彼氏さん

*2:当ブログ初!

2004-06-08  ミドルマンを目指して?

微熱と下痢が持病みたいになってしまっていて、今日は一日寝てました。うう。


防衛反応的思考停止?【それは引きこもりに深く関係するテーマかも】 防衛反応的思考停止?【それは引きこもりに深く関係するテーマかも】を含むブックマーク

「死が排除されているのはまずい」という僕のつぶやきに対し、id:mizutetsu さんと id:dokusha さんが真摯なコメントをくださり、さらにずっとご無沙汰だった id:jouno さんまでお見えになって、うれしい限りです。ありがとうございます。

みなさんの議論そのものが興味深いので、このままギャラリーでいたくもあるのですが(笑)、僕なりの問題意識を少しだけ書いてみます(これは必ずしもみなさんの議論へのレスポンスではありませんので、放置いただいても結構です)。


「命を大切に」とか「ふれあいを」というプリンシプルへの疑問はいろいろありますが、ひとまず次のような感じです。

 実社会は、私たちの命を大切には扱ってくれないし、「ふれあい」という曖昧な要請は、たいてい不愉快で不本意な癒着関係しか生まない。

 「命を大切に」も「ふれあいを」も、一種の思考停止(隠されているかもしれない重要な問題の隠蔽)への誘いであり、状況はかえって窒息的になるのではないか。


「学校文化と実社会文化の落差」*1はよく話題になるところだと思いますが、実社会がものすごい生存競争の世界であり、「負ければ死ぬしかない」ような状況なのに、学校の教師が「命を大切に」としか言わないのは、とても欺瞞的に感じます。というか、学校の中でだって「命は大切に」されているのでしょうか。積極的に殺しはしないまでも、(先日からの言い方でいえば)「特殊性」としてのみ扱われて、「単独性」としては扱われていないのではないか【 → だからといって「単独性として扱え」というスローガンを作れば済む問題ではなく、これは「ひきこもり支援」を考える場合にもそうです】。


「命を大切にして、ふれあおう」ではなくて、「私たちの社会ではお互いを単独的に扱えるだろうか」とか、「法律はわたしたち個人をどのように守っているのか」とか、そういう話をすべきではないでしょうか。 【って、すでに宮台真司氏が言ってそうですが。*2

少なくとも、「なぜ私たちはお互いを尊重できないのでしょうか」という問題設定をすべきで、いきなり「命を大切に」では、出血を続ける傷口に絆創膏を貼ったようにしか見えない(防衛反応的思考停止)。表面的に出血が止まったように見えても、内臓の方では変な事態が進行し、別の形で表面化するのではないか、というブキミ感があります。


僕は著書の中で、「≪お金・性・死≫は、家族の中において最も話題にしにくいテーマだ」と書いたのですが*3、考えてみると、これらは学校教育の中でもほとんど扱われないのではないか。「天皇」については「扱いにくい理由」はまた別かもしれませんが、宮台真司氏の言葉を引用すれば、「隔離よりは免疫を」というのは重要な視点では。結論は提示できずとも、「このような論争が実在する。これは社会的にホットな論点なのだ」ということを教えておく必要はないでしょうか。

基本情報を与えたあと、「結論を教え込む」のではなく、「論点を知らせておく」必要が。


僕が「日常から死が排除されているのはまずい」と言ったのは、ひとまずは「死がタブーにされると、窒息感がひどくなるのでは」というぐらいの意味でしたが、肉親の死を秘匿したい人も多いでしょうし、公共の場に死を引きずり出せばいいというものでもない。

社会的に広く考えれば、国内外の経済格差の問題とかも絡んでくるんでしょうか。 【「内部」の人間の死は喧伝されるが、「外部」に追いやられた人間の死は(構造上の問題を隠蔽するために)むしろ抑圧される、とか。 → でもTVでは、「日本人の死体」はまず映りませんが、「外国人の死体」はかなり平気で映されてますね。それはまたちがう問題か。】


「自分が有限の死すべき存在であることを忘れている」というのが現存在の傾向だ(ハイデガー)とか言ってしまうと、文化や経済による条件の差異を考えにくいし、「頽落はいけないから、決意して本来的に生きよう」みたいな話になるような*4

いずれにしても、「死を意識せねばならない」というだけでは、精神主義的な説教になってしまいますね。


…考えているうちに、話が広がってきたようです。≪死≫の話、また取り上げてみようと思います。

というか、これまで重要だと思ってきた「性・愛・死・お金」というテーマに、「特殊性/単独性」という議論軸が加わった、ということなんでしょうか。個人レベルだけでなく、社会的な問題設定としても、考えてみたいと思います(もちろん、引きこもり関係者の苦痛緩和のために)。



「概念のジャンル越境」あるいは「使える概念」 「概念のジャンル越境」あるいは「使える概念」を含むブックマーク

先日、「自然」記述と「人間(精神・社会)」記述それぞれにおける概念運用についての疑問をメモしたのですが、id:Ririka さんが「自由意志と量子力学」という対話*5をアップしてくれています*6

このテーマには、歴史的にも膨大な議論の蓄積があるんだと思います。僕は科学哲学にも物理学にも通暁していないし、そもそも「ひきこもりの苦痛緩和」にとってこの議論にどんな意味があるかもよく分からない。でも、僕が10代のころから内発的な興味を寄せている議論であるのは間違いなく、「ひきこもりの内面生活にとっても関連があるかもしれない」ということで、現時点での僕の理解をメモしておきます。


「自然の観察と人間の観察」に関して、僕がずっと悩ましく抱えている思考実験があります。次のようなものです*7

 完全に密閉された箱の中に 人間A と 人間B が入り、それを外部から 研究者C が観察する。

 A と B はお互いの発言を理解できるが、それは C にとって未知の外国語であり、会話を聞いても理解できない。 C の用いる観測機器は、音波、A・B の体温をはじめ、箱の中のあらゆる物理現象を読み取れる。

 実験開始後、しばらくして B が発声し、A の体温が上がった。 C は因果関係を特定しようとしたが、系が複雑すぎるのか、わからなかった。 → 実験終了後、通訳を介して C が A に訊ねた。

 C: 「なぜ君の体温が上がったんだろう?」

 A: 「B が私に≪お前はバカだ≫と言ったんだ」


  • 「物質の観測」をしているかぎりは理解不能な現象でも、「意味の解釈」をすると5歳児にもわかる因果関係だったりする。 → ≪理解≫には、「意味の解釈」と「物質の観測」の2種類がある?
    • 「物質理解」に用いる概念操作と、「意味の解釈」に用いる概念操作とを混同するところに、概念濫用の典型がないか。 【「理系概念濫用の哲学者」、「宗教に向かう物理学者」など。】
    • 哲学を嫌ったファインマンは「予測可能性」をサイエンスの身上としたが、上記の実験では、「物理的な観測」では将来予想は不可能であり、「意味の解釈」のほうが将来予想に意味がある。
    • 一般に「人間関係がヤヤコシイ」という場合、物質レベルの複雑さを問題にしているわけではない。


  • 「ラプラスの悪魔(決定論的認識)は不可能」だとしても、「認識はできなくても、でも≪決まっている≫」気はする。
    • 決定論は、幸・不幸(境遇・事件)や「バカげた判断」もすべて≪運命≫だとし、鏡像的(ナルシスティック)に肯定して終わる*8。 → 「まだ将来は決まっていない」を前提にしないと、改善努力が始まらない。
    • 「将来は決まっていない」と判断して行なう決意や努力さえもが「決定された運命に繰り込まれている」と考えてしまって、キリがないわけですが。 【この自意識の無限後退にはどうやって決着をつければいいんだろう?】


  • 天皇陛下の特異性は、物理的観測対象*9のレベルにあるのではなく、社会制度上のポジションの問題。身体そのもののレベルに特異性を探すのはおかしい。
    • 貨幣が社会的に持っている機能(およびその運動)の特異性も、貨幣の素材レベルに起因するのではなく、その社会的ポジションに因る。 【 → 貨幣経済の運動を、本来は物質科学の記述言語であるはずの数学(しかも凄まじい高等数学)で記述することへの不信。*10
    • 「陳腐な対象を(そうと知りながら)特異的に扱う」ことがフェティシズムだとしたら、それを科学的な説得で解除することは不可能(か?)。 【「宗教は民衆の阿片」を国是としていた旧ソ連が、レーニンの遺体を「超自然的秘宝」のように尊重していたことについては、ジジェクが触れていました。】


  • 「心を物質科学で理解できた」として、「解釈」や「社会的ポジション」から生じている苦痛を緩和できるか。*11
    • 「脳内の物質状態の変化による苦痛緩和」の追求と、「人文的・社会的苦痛緩和」の追求。両方必要だと思います。問題はバランス感覚というか。
    • ≪洗脳≫という問題系(つまりどのような状態になれば「自由意志が奪われている」ことになるのか)を、「物質科学」と「人文系学問」の両面から考えるべきではないか。


ひとまずそんな感じでしょうか。


驚いたのは、次の発言です。

Wy : 理論物理でつかっている計算は、数学が専門の人からすれば非常にいい加減なことをやっているわけで、(中略)そういう意味で、物理の人からみれば非常にいい加減だけれども量子論をつかって意識の問題について考えることもできるかもしれませんね。

「数学者にとっては非常にいいかげんな計算」が、「理論物理では有効」ということがあり得るのですか?(数学である以上は、同じ厳密さだと思ってた)

それは「帰納と演繹のちがい」とかいうだけでは済まない*12、もっと原理的な問題なんでしょうか。…と言っても、これはさすがに「引きこもり」とは関係ないか。


「ある議論ジャンルの厳密な概念を、他ジャンルの議論に応用することに伴う諸問題」というふうに一般化すればいいんでしょうか。(広げすぎ?)

「現実を論じる議論」と、「フィクション」のあいだで、使われる単語の影響関係はどうなっているだろう、とか。(さすがに広げすぎか)


僕が興味を持っていて、かつ斎藤環さんも依拠される「精神分析」という議論ジャンルは、ポパーをはじめとしていろんな人から「インチキ」だと言われていて、そういう意味でもこの「使える概念」の話は、やっぱり目が離せません。



苦痛緩和に意味あるかなぁ、この議論…。 苦痛緩和に意味あるかなぁ、この議論…。を含むブックマーク

今回 Ririka さんがアップしてくれた対話ではっきりしましたが、「1つのジャンルの本当に厳密な議論」は、専門家以外には理解不能。以前に「ミドルマン」という概念を取り上げましたが、僕が「ひきこもり関係者の苦痛緩和」のためにどんなジャンルの、どこまでの議論をフォローすればいいのか、悩ましいところです。



「観測者=当事者」? 「観測者=当事者」?を含むブックマーク

以上までをエントリーしようとしていたら、Ririka さんのコメント欄経由で「観測者が当事者になってしまったの?」というフレーズを発見。 id:fujisawamasashi さんがどんな文脈でこのフレーズを出されたのかはぜんぜんフォローしていないのですが(すみません)、「引きこもり」を考える上で、重要なフレーズになるかも。

とりあえずメモしときます。




*1:学生時代には男女平等が当たり前だと思っていた女性が、就職活動で性差別に直面し、しかもその実態が「男女雇用機会均等法」という建前によってかえって隠蔽されている、というのはよく言われる話です。

*2:そんな気がしただけ。具体的な箇所を教えてくださるとうれしいです。――というか、宮台氏の発言はずっと気になっているのですが、なぜか読書がぜんぜん進みません…。読むのがすごくつらいです。なぜ?

*3:p.173

*4:この段落、前日コメント欄id:jouno さんから投稿いただく前に書いたのですが、僕のハイデガーについての指摘はおかしいかもしれません。詳しい方、ぜひツッコミをお願いいたします。

*5:メッセの過去ログかな? とても「夢」には見えません(笑)

*6:対話の後半はこちら

*7:既存の議論では、何と呼ばれているのでしょうか。

*8:あまりにも悲惨な境遇や事件に直面し、どうしてもそれを受け入れられないときには、「運命」という宗教的な概念が求められることもあるようです。(逆に、「事件をきっかけに信仰を失う」こともあるようですが。)

*9:DNAなど

*10:情けない話なのですが、僕はこの疑問でつまずいてしまっていて、どうしても経済学の議論に入っていけません。トホホ。ていうか、この不信感は学問的にはとっくに解決済みなんでしょうか。

*11:『皇帝の新しい心』ISBN:4622040964 も、この点についての立場がよくわからなくて、すぐに読むのをやめてしまいました。「心を物質的に理解する」ことで得られる苦痛緩和は、どのようなものなのでしょう。

*12:というかそういう話ではないのか。

RirikaRirika 2004/06/09 16:11 おしまい近く、「驚いた」発言については、数学の人と物理の人それぞれから何度も聞いたことがあるので、いつのまにか、そういうものだとおもうようになってるけど、具体的に、どういう違いなのかは理解できてません。たとえば数学者チャイティンは『セクシーな数学』で、そのような「事実」を踏まえつつ、理論物理の可能性を積極的に述べていて、へぇ〜〜とおもったけど、数学の人から見たら(チャイティンもそうなのだけど)意見の割れるところではないかとおもったり。また参考になりそうな「夢」をうまく見られたら報告しますね〜(笑)

はしはたはしはた 2004/06/10 07:41 貨幣経済を数学で表現することへの不信はわからなくもないですが、数学を「本来は物質科学の記述言語」とするのは少々疑問です、とか些細な突っ込み。前後の文でおっしゃりたいことはわかるつもり。◆密閉のAとBを観察するC…の思考実験については「あらゆる物理現象」をどこまで認めるのか?観察の実験時間はどのくらいまで認めるのか?という点が不明瞭なのが問題。◆仮に無限の観察時間があるとするなら、未知の外国語はいずれ未知ではなくなるでしょう。◆また、観測方法自体の進歩によって今わからない現象が新しい観測方法によって理解できるようになるかもしれない。◆そしてそもそも、Cの分析能力は神レベルのものなのかどうか?◆要するに、Cが因果関係を特定できなかったのは物質科学を十分に駆使できなかったから、と言うことができてしまうわけです。物質科学そのものが無能だったから、じゃなくて。◆…AとBも解析を終えるまで発狂せずに生きててもらわんといかんからCだけでなくAとBも神でなくてはいけないので、あれ?

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/10 18:35 Ririka さん、ここまで来たら、最後まで「夢」で通しましょう。健闘祈る(笑) ◆ はしはたさん、僕が「数学は物質科学の記述言語」としてしまったのは、確かにうかつだったかも。あとのご指摘については、「物質観察と言語解釈では、研究者の理解態度がちがう」という僕の論点が伝わっていないような…。

はしはたはしはた 2004/06/11 00:17 私の前のコメントの後半、なんだか一人でとんちんかんな方向に行ったっぽいですね。失礼しました。◆改めて読み直してみると、「物理的な観測」と「意味の解釈」の関係は、「数学の専門」と「理論物理で使っている計算」の関係に似ていると思いました。◆で、それが苦痛緩和に意味があるか?となるとなかなか難しいかも。むしろもっと一般的なことで行き詰まったときに思い出せるといいのかなぁ。

2004-06-07  訓練の課題設定

「関係のイデア」? 「関係のイデア」?を含むブックマーク

昨日の話は稚拙でお恥ずかしいかぎりだけど、追記的メモとして。

  • 「関係」について「イデア」という言葉を使えるのか。
    • 僕はそれをどうしても「関数」という言葉で表現したくなるが。


  • すごく仲のいい人間関係において、
    • 「僕ら、付き合ってるよね?」 → 「Yes」なら恋人、「No」なら友達。 【合意の有無】
    • 「恋愛頑張ってね」と言い合える → 友達。 「浮気しないでね」 → 恋人。 【拘束の有無】
    • 「友人としての感情の高まり」と、「恋愛感情の高まり」の質的違いはナゾ。


生活感情の質を高めるために、性愛とか「単独性」の要因は大事だと思うけど、それを論じることがどういう鉱脈に通じているかは、まだよく分からない。

宮台氏のしている話、「労働生活」、「現実逃避」といったあたりのテーマに目をつけているが。



死が排除されているのはまずいと思う。 死が排除されているのはまずいと思う。を含むブックマーク

性愛に関する文化はすごく日常化していると思うけど、「死」については、あいかわらず日常から完全に排除されているのでは。

長崎のカッター事件について、教師たちは「命の大切さを」とか「心と心のふれあいを」とか言っているが、学校にああいうヌルイ(それゆえに抑圧的な)文化しかないなら、子供のストレスはいや増すのではないか。

僕らの生活圏から死を排除することなどできない、僕らは死に接しながら生きている、という話を、戦前みたいに「天皇陛下」との関係で語るのか、それともそうではないのか、といったところで、考える必要があると思うのだが。



言葉で立ち向かうしかない。 言葉で立ち向かうしかない。を含むブックマーク

ここ数年間の、「書きかけて破棄したメールや原稿の下書き」を見ていたら、感情の古い部分がダバダバ出てきて、やばいです。「魅力的」という意味でもやばいです。


ところで、うまそうだな、キミ


mizutetsumizutetsu 2004/06/08 00:48 死は日常から排除されているとおっしゃいますが、しかし、どのように導しうるのでしょう。所詮は他人の死しか私は知らないわけで、朝御飯を食べるように、寝る前に今日したことを反芻するように死について考えることはできそうにありません。単独者の絡みで言えばキルケゴールあたりが死を思えとぶつくさ言ってた気もしますが、しかし、それはやはり日常に持ち込めないと思います。むろん「命の大切さを」などと言っているこの言葉の後には「訴えなければいけない」と続いていて、それは未だ「訴えていない」のだからそれは問題です。ぬるかろうがなんだろうが、それは「すべき」という規範として語るうちは未然のものでしかないので、語ることは死に対してどれだけ力を持つのでしょう。自覚的に生きるという行為だけが死を意識したものとしてあらわれるのであって、それは語ることとは別のように思います。それから手前味噌ですが、僕のHPでも個有名のことや唯一的な他者他者について考えた卒業論文(出来がいいとは思いませんが)を載っけてますので、御高覧いただければ幸いです。http://www.eonet.ne.jp/~feiron→archives→レポート→他者のてざわり

mizutetsumizutetsu 2004/06/08 01:05 訂正<どのように導しうる→どのように導入しうる>/それにしても勢いで書いたら面白いほどねじれていますね(汗)でも、理屈をこねだしたらキリがないのでほっときます(え)いきなりお邪魔してすみませんでした。

ojahumojahum 2004/06/08 11:53 ぼくも、ときどき、ダバダバします。

dokushadokusha 2004/06/08 13:03 日常に死を意識する事はそんなに難しい事ではないと思いますけどね。実際、自分の子供の頃のことを思い出すと比較的近くにあった気がします。どういうことかというと、「このままこいつと関わりあっていたら自分はこいつを殺すかも知れない」または逆にこいつに殺されるかもしれない。というような濃密な関係じゃないかと思うのです。「殺されるかもしれない」と思うから、そこに抑制も働き、知恵もつきます(言い方を変えようとか、アプローチを工夫しようとか)また「殺してしまったら」どのような事が待ち受けているだろうかと、リアルに損得を考えもしました。
漠然と「皆仲良く」というような「ヌルイ関係性」であるとか「だから子供たちからインターネットなどと言うものを切り離さなければならない」というような本末転倒の「対策」は問題の本質から遠ざかるだけであるように感じますね。

mizutetsumizutetsu 2004/06/08 16:29 死を意識するというのは自分も経験のあることですが、それは「日常」でしょうか。あるいは「日常」としてそのままにしておくことのできるものでしょうか。仮にそういう時期が経験として通ることが必要だとしても、常に訪れる日常として歓迎することはできないように思います。漠然とした「対策」は論外ですが、死が個人的なものであるかぎり、「考える必要がある」とか、そういう言い方をしたところで死についての啓蒙なんてできないと思っています。死について「本質」があるというのはある種楽天的すぎるように思います。また、ぬるい言葉が死を隠蔽できるかと言ったら、「死」はそんなにヤワなものでもないと思うのでどのように隠蔽されている(と感じる)のか気にはなります。特に性愛に関してだって学校はぬるい言い方しかしません。それでも「日常化」の度合いに差があるとするなら何故か。

dokushadokusha 2004/06/08 18:58 わたしはなにも「死を日常としろ」といっているわけではありません。「日常の中に死と直面する瞬間がある」といっているだけなのです。また「死」を完全に理解することなども無理だと思います。なにせ経験できないのはおっしゃるとおりなんですから。ただ、死と直面した時にそれとどのように距離をとるか、どのように付き合うか、またはどのように自分自身を納得させるか。という作業は可能だと思うのです。つまり漠然とした「死」という概念。小説であるとかテレビ、映画、ゲームの中で見聞きし形作られた概念と。現実の生身の自分を据えて自分自身が「殺すかもしれない」「殺されるかもしれない」または「死ぬかもしれない」と感じてみる。こういう作業は逆にその作業によってリアルな「生」を実感する契機になるかもしれません。
子供たちから悪戯に「死」を遠ざけ、「殺し殺される」という危険性までを含めた人間関係というものを遠ざけるならば、いよいよ子供たちから「死」概念が遠ざかり、ひいては彼等から「生」の手触りのようなものまで奪う結果になるのではないかと思うわけです。

ojahumojahum 2004/06/08 21:58 ダバダバ。。。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/08 22:10 mizutetsu さん、はじめまして。サイトを拝見しました(とっても楽しそう)。教えていただいた卒業論文はまだちゃんと読めていませんが、似たことを考えている方がおられてうれしいです【大澤真幸さんも「恋愛」の話をこういうふうにされていたとは!ていうか僕の不勉強まるだし!(笑)】。 ◆ dokusha さんと mizutetsu さんの「死」に関する議論、ぜひ続きも読んでみたいです(お2人とも、紳士的に振る舞ってくださってありがとうございます)。翌日の本文で、少しだけ私なりの考えを書いてみようと思います(ご期待に沿う形ではないと思いますが)。死の話は、教育との関連でいろんなかたが語っておられますし、私は「引きこもり」にも深く関わる論点だと思うのですが、なかなか焦点がつかめなくて。失礼な言い方かもしれませんが、とてもいい刺激ときっかけをいただきました。 ◆ あ、ojahum さん、ダバダバはきついですね〜(笑)。でも、そういうやばい精神状態を扱える言語を開発する(というか訓練する)努力の必要を感じるんですよ。

jounojouno 2004/06/09 01:12 レヴィナスのハイデッガー批判で死を意識することの問題が出ていたように思います。死の隠蔽というのは日常的にある話では。簡単にいって、テレビで死骸は映さないとか。死が病院の内部に閉じ込められているとか。もっとも死を直視するといってもハイデッガー的な死を意識して先取りするヒロイックな主体性というのも十分にうさんくさいとおもうんですが。

2004-06-06  目指すべきものは?

「こんなふうに議論したい」 「こんなふうに議論したい」を含むブックマーク

「コメント欄付きの意欲的なブログ」は、参加してくださる方にも良心的なかたが多く、管理人を熟考に導くコメントも多い。それだけに、「目の前のチャット状態」に埋没して大局を見失ったり、瑣末な論点に拘泥してヒートアップする*1のは、あまりにもったいない。

→ いいコメントをいただいても、それへの最大級のお返しは、「直接のレスポンス」ではなく、「結果的に自分の為したい議論を豊かにする」ことではないか。私の期待する良心的なゲストは、そのような立場を共有してくれるものと考えたい。


私が自分や他人のブログで議論に参加するときに目指しているのは、次のようなスタイルだと思う。

 私の考えていることは、論理や思考そのもののレベルで、あるいは状況に照らして間違っている可能性があるし、その間違いを指摘されることについては、徹底して開かれた態度を保ちたい。的確に間違いを指摘された場合には、憎悪どころか感謝の念を抱く。開かれた態度において、正しさにたどり着くために共に試行錯誤したい(「最終的な答え」はたぶんないけれども)。

 発言内容への批判と、人格攻撃とを可能な限り峻別する(「解決すべき課題」と、「私自身」とを切り分ける)。

 個人レベルの熱情*2をガス抜きしながら、議論そのものの中立的なフィールドを維持する必要がある。


いっぽう、私が回避したい議論スタイルは、次のようなものだ。

 「一緒に試行錯誤したい」というよりは、「私が掴んだ≪本物の真実≫を共有してくれ」という懇願にすぎない(「確認済みの予定調和を共有してくれ」と言っているだけ)。批判された相手が、生産的な試行錯誤を共有しようとまともにつきあっても、「認めてくれない」ことに腹を立て、大量の感情言語を吐き出して終わる。

 探求努力をしているわけではなく、いわば「自慢している」だけ、あるいは自分の抱えた≪真実≫のまわりを酔狂でつつき回している(「論理もどき」)だけだから、「褒められる」「同意される」ことだけを目的としている。 → 発言内容に即した批判を「人格攻撃」と受け止める。相手のした「一部への同意」を「全面肯定」にすり替え、肥大した自意識のエサにする。

 「ラスト・ワードは私のもの」、あるいは「ラスト・ワードを所有する権威者への帰依」が前提となっている。 → 発言はつねに、「お前にはそんなことも分からないのか?」という非難や冷笑とともにある。


発言者が、「共に試行錯誤したい」と言ってきているのか、それとも「私の持ち込んだ≪真実≫を共有してくれ*3」と言ってきているのかは、瞬時に見抜く必要があるかもしれない。


「発言が奇妙になっている人」については、相手の主旨を本気で汲み取ろうとしても徒労で終わる(発言内容そのもののレベルには、酔狂しかない)。 → 発言の中に断片的に転がっている利用可能な情報やフレーズだけをピックアップする。


自分や他人の発言について、可能な限り「特殊的」に見る必要がある。つまり「意見サンプル」。人工知能が特定の人格類型や思想傾向をシミュレートし、特定のインプット(エントリー)に対してリアクションをアウトプットしてるんだ、というような。【実際の社会的影響はもちろん配慮する必要があるが。】

大事なのは「人格的お付き合い」ではなく、「インプット → アウトプット」の循環を非人称的に洗練することだ。


【この「こんなふうに議論したい」については、今後もいろんなご意見を参考にバージョン・アップを重ねてみたいです。】



精神の根っこ 精神の根っこを含むブックマーク

4日は母が15年ぶりに冷蔵庫を買い換え、5日は僕が3年半ぶりに携帯電話を買い換えた

どちらも、生活気分をかなりラディカルに変えてくれたような。



「社会恐怖」の一端 「社会恐怖」の一端を含むブックマーク

5日夕方、「ひょうご犯罪被害者支援センター」の総会に参加した知人女性(Kさん)から電話が入り、三ノ宮でいっしょに食事。

彼女のお姉さんは6年前に殺害され、死体を九州の山中に遺棄された*4


引きこもりと犯罪被害ではフィールドがずいぶん違うが、「突発的な被害に対する恐怖」や「それへの社会的処遇」を通じ、僕にも共有できるテーマがあるかもしれない。

以下、Kさんと話したことの一部を、許可を得てメモ。

  • 有罪が確定しても、被害者には一回きりの見舞金*5しか出ない。
    • 慰謝料などの損害賠償を求めるには、遺族が独自に民事訴訟を起こさねばならない。(賠償命令が出ても、犯人に支払能力がなければ回収できない。)


  • 寄付金や義援金の額が大きくても、被害者が多数である場合には、一人頭の支給額は小さくなる。
    • 奥尻島の津波被害と阪神大震災では、義援金の一人あたりの交付額がまったくちがった
    • 支援活動を、システマティックに整備する必要があるのではないか。


  • 犯罪被害については、アメリカやイギリスなどの支援先進国*6があるが、「hikikomori」に関しては、お手本とすべき国はどこにもない。
    • 途方に暮れるが、「議論が終わってしまうことこそが最悪だ」と信じて、少しでも苦痛緩和を目指したい。
    • 「誰かに任せる」のではなく、「自分たちで取り組む」努力が要る。


Kさんの話を聞いていると、「被害者(あるいは遺族)への支援」はほとんど何もないことが分かる。

日本では、「突発的な被害体験」によるドロップアウトさえ許されないのか…。


彼女が「むかし校長先生に聞かされた」という次の言葉に妙に納得。

 ≪働く≫というのは、「人が動く*7」であると同時に、「ハタをラクにする」ことだ

当ブログでの活動が、ちょっとでも「ハタ・ラク」になってればいいですが…。



「人文系概念」と「理系概念」 「人文系概念」と「理系概念」を含むブックマーク

先日、かなりうかつに理系用語を比喩に用いたのだが、以後自重します。

人文系の人間が理系概念をズサンな比喩に用いることは、ソーカルをはじめいろんな人が揶揄している。でも、ぎゃくに理系の専門家が「自然を記述する概念」をうかつに「人間(精神・社会)の記述」に用いて失敗している事例、というのはないのだろうか。

詳しく知らないので、とりあえずメモ。



“I've decided what to do with my life.” “I've decided what to do with my life.”を含むブックマーク

92才の現役医師・日野原重明氏のインタビューをNHKで観る。次のような言葉に感銘と共感*8

 人生というのは、自分に使える有限の時間。患者さんを相手にするのは、「自分の寿命を使う」ということ。全身全霊を込めて、命懸けでやっている。

ネット上の議論だって、「自分の寿命を使う」こと…。



鬱と「Aセクシャル」のちがい 鬱と「Aセクシャル」のちがいを含むブックマーク

先日の自衛隊情報に引き続き、id:anhedonia さんより、「人を性愛の対象としない、もしくは性欲がない」という「Aセクシャル」のサイトをご紹介いただきました。

「女性に魅力を感じる義務はない」というのは、僕にとっては解放感すらもたらす晴れやかな認識ですが、やっかいなのは「鬱」との関係です。

僕も定期的に「女性に興味を感じない」状態に陥りますが、それは実は鬱状態。異性に対してだけでなく、おいしそうな食事や美しい景色もすべてが灰色*9になり、活動的な努力が失われます。 → 「恋愛やセックスにふける必要がない」のはいいとして、「何もできない、楽しめない」は困る。


ウッディ・アレンの映画『アニーホール』のもとのタイトルは“Anhedonia(快感喪失)”で、アカデミー賞を受賞しても彼は“anhedonic”だったそうですが、ウッディ・アレン自身はとても活動的な人。

この辺にも何か議論の鉱脈がありそうな…。



個体の単独性 → 関係の単独性? 個体の単独性 → 関係の単独性?を含むブックマーク

固有名の循環」にはじまり、「無意識的な愛」「愛国心」「愛情生活」などと迷走を続けている「特殊性/単独性」の議論ですが、リニアな議論展開をするにはまだまだの状態。

このテーマは今後も考え続けていくと思うのですが、今日は懸案だった「本当の愛」を中心に、思い付きをいくつかメモ。


  • 先日、「≪対象a≫の遍在性」を問題にしたが、よく考えたら「ジュリエットがロミオに振り向けるような単独的な愛」も、共時的・通時的に遍在する(泣)。
    • ≪対象a≫と「単独性」の関係はやっぱりよくわかんないです。
    • 「かけがえのない恋人」は、「いわくつき*10この1万円札」に対応するか。【他の1万円札と「この1万円札」は社会的機能としては変わりがないが、私にとって「この1万円札」は代替不可能である。 → 「1万円札」は数えることができるが、「この1万円札」は数えることができない。】


  • 目の前の恋人は、「愛のイデア」の具現化だろうか。
    • 「相手の存在」を実体化して「イデアの具現化」としているのか。それとも、「相手との関係性」を名指しているのか(「イデア化された関係性」の具現化)。


  • よく「友達以上、恋人未満」という言い方をする。 「この人は、私にとって≪友達≫だろうか、≪恋人≫だろうか」
    • 「友達」と呼ばれる関係性があり、「恋人」と呼ばれる関係性がある → 「私があの人と維持している関係は、どちらの名称で呼ばれるべきだろう」。 つまり「関係性」をイデア的に想定し、どちらのイデアにより近いか、を問題にしている。


  • 相手が単独的であり代替不可能ならば、「この人との関係」を名指すにも、単独的な固有名が必要ではないか。
    • 80年代に浅田彰氏が(ドゥルーズを参照しつつ)「n個の性」と語ったときにはピンと来なかったが、「対象の単独性 → 関係の単独性」という道筋ならば、「n個の関係」は理解できるか。


  • 2ちゃんねる「『耳をすませば』を観て自殺」スレ
    • 関連記事: こちらこちら。さらに押井守氏のコメント
    • あまりにも見事な愛情関係(「イデア」)を見せつけられると、それとあまりにもかけ離れ、イデアから疎外された自分の現実の生を否定されたように感じる*11。 → 単独的な恋人との関係において活性化されることのない、投げ捨てられたゴミのような自分の人生の単独性(ほとんど特殊性にしか見えない)を、愛し得るか。

ここら辺で、「まったり革命」から「愛国」に向かう宮台真司氏の議論が問題になると思うのですが、それはまた追い追い。



「単独性と愛」の話、完全に当ブログの連載企画になりましたね…。




*1:→ 参考。 メールや掲示板など、ネット上で目撃した文字はどうしてこうも胸をえぐるのだろう。

*2:求愛・憎悪など

*3:単純な事実誤認の指摘や、初歩的な啓蒙努力は肯定されるべき、というか大歓迎ですが。

*4:→ 判決文(Kさん本人のHPです)。

*5犯罪被害者給付金。申請した全員がもらえるわけではないらしい。

*6:アメリカで被害に遭った id:aimee の受けた支援が「充分だった」とはとても思えないが…。

*7:ニンベンに「動」

*8:僭越ですが。

*9:よく言われることですが、「色は見えているのに灰色」という変な状態です。

*10:「死ぬ間際の父に手渡された」など。

*11:ここにまたしても、三島由紀夫『金閣寺』のモチーフが見え隠れ。

anhedoniaanhedonia 2004/06/07 10:46 私は上山さんとほぼ同世代の1970年生まれなんですよ。  >>「何もできない、楽しめない」は困る。<<   ホントに困りますね。生きることに肯定的な気分になれないんですよね。 斎藤環さんが良く言っているように、快楽とか欲望はホントに大事なんだと思います。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/07 19:54 それはそれは>1970年生。「快楽とか欲望」ですが、語ろうとするとどうもボロボロになりがちで(言い訳めきますが今日の「イデア」云々も杜撰すぎ)。でも、こういうヤバイところでちゃんと考える作業が必要という気がしていて、試行錯誤ですけど、「やってみよう」という感じです。

2004-06-03  有効な枠組み設定を探してる

コメント欄にはなかなかうまくお返事できませんが、大事なご意見をいただくほど、その場での即答は難しくなります。頂いたコメントはとても参考になっているので、「結果的に上山の議論が少しでも豊かになればいいや」というぐらいの寛大な態度でお付き合いくださるとうれしいです。



「愛情生活」という枠組みはダメかな… 「愛情生活」という枠組みはダメかな…を含むブックマーク

引きこもりをめぐって考えるのに、どういう議論の枠組みが必要か、ということを考えてみているわけですが、今日あらためて、「愛情生活」という枠組みを実験的に使えないだろうか、と思い至りました。

僕がここで主張することには独創性など期待するべくもなく、というか「独創性」が必要であるとしたらそれも「苦痛緩和」のための道筋にすぎないわけで、逆に言えば「愛情生活」という枠組みが陳腐であっても、苦痛緩和に役立ってくれれば、それで充分。

エクスキューズを重ねても意味はないので、今日考えたことをいくつか箇条書きにしてみます。


  • 「現象経験の極限」、その最上最善は、≪愛≫あるいは愛情生活と呼ばれる何かではないか。
    • 理論的な探求が僕らにもたらすもの。労働の成果。
    • 「現実を変える」と言っても、目指されているのは「愛情」に関わる何かではないか。
    • 「現実逃避」というのも、愛情生活との関係で考えたい。


  • 「愛」について語り出すと、途端にその人の思想のカッコ悪さとか、ダダ漏れになる。
    • 「本物の愛」とか、ロマンティックにはしゃぐとか。 → 思想の本性が出てしまわないでしょうか。
    • 愛情生活に関する立場の選択は、思いのほか政治的ではないでしょうか。


  • 「働きながら暮らしていく」ときの自己管理とは、やはり「愛情生活」の問題ではないのか。
    • 自分の内面生活、プライベートの愛情関係、職場の人間関係*1
    • 「とにかく働かなければ」という無条件のテーマ設定は、社会的な問題意識も、投げやりな内面生活も、置いてきぼりにしている。


  • 「再配分と承認」という社会学的(?)な問題設定も、マクロレベルでの「誰が愛されて誰が排除されるか」という話。
    • 少々こじつけめくけど、そう考えれば、身近に引き寄せて考えやすいのではないか。「話題に興味を持ってもらえる」というのは大事だと思っているので*2
    • 愛についても、むしろ機能的な、工学的な発想が必要ということかな、逆に言えば。


  • 引きこもりの内面生活にとって、「愛」の話は「ロマンティック」というよりは苦痛に満ちたもの。
    • 自己愛、親への愛憎*3、これまでの悲惨な人間関係。
    • 「性愛関係から完全に排除されている」という苦痛に満ちた意識。
    • 致命的であるのに抑圧された感情生活。


  • 支援活動にとっては、「特殊的受容」から「単独的受容」*4への変化が大きなテーマとなるはず。
    • 新しい出会いにおいて、「当事者同士であるか否か」よりも、こちらの方が重要な問題。
    • 「支援者と被支援者の線引き」の問題*5も、この辺の話ではないか。


  • 宮台真司氏は「愛国心」と言うのだが、これまでの彼の発言からして、「本当は愛していないのに(あえて)愛しているフリをする」というわけか。
    • 「国への愛」という言い方は、どの程度信用できるレトリックなんだろう。
    • 性愛関係や経済生活から完全に排除された当事者が、「愛国」を叫ぶことで一気に内部化され得る、か?


  • 愛は自然現象か*6という、長年の問い。
    • 文化的・社会的な努力と、ケミカルな処理(向精神薬など)と。 → 「愛とは何か」というよりも、「具体的に愛し愛されるようになるための具体的処方箋」が欲しい。 【個人(ミクロ)レベルで、そして社会(マクロ)レベルで】
    • 「僕らの人生の残りの時間が(広い意味での)愛情生活である」として、その時間に少しでも改善を試みる。


  • 「地獄とはなにか? それは、もはや愛することができない、という苦しみである。」*7
    • 無色透明な「自意識の純潔」にとっては、「目の前の単独性」を愛することは、許されない(「私の自意識がけがれてしまう」)のではないか。 【 → 同じ問題構造が、「国への愛」にあると思う。】
    • 虐待や、「モテない」*8は、「愛されない」の苦しみ。



また軌道修正します。 また軌道修正します。を含むブックマーク

結婚する気がないのはいいとして、「愛情生活」まであきらめている、というのはうかつに言うべきではないのかも。「恋愛」である必要はないのかもしれないが*9


今日の僕、なんか恥ずかしいこと言ってるでしょうか。 言ってたら消そう。




*1:愛の話も、システム論的にすべきなんでしょうか。

*2:「上山は不必要に難しい話ばっかしてる」といつも関係者から言われるのです。僕は「必要だ」と思うからしているのに。

*3:この問題は大きい。

*4:「特殊性と単独性」については、こちらを参照。「単独性」が愛の話である、というのは、柄谷行人さんご本人をはじめ、たくさんの方が論じているようです。

*5:これは、在野の関係者にとって悩ましい話だと思います。

*6:「言語は自然現象か」「貨幣経済は自然現象として解析できるか」といった問いと連動しているでしょうか。あるいは、社会を「自然」の一環として見るのか(「ホッブズ的秩序問題」?)とか。

*7:ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

*8:拒食症は、「愛される自分が性愛化することへの拒絶」と捉えればいいのだろうか。いや、もっと広く、「愛されようとすること」におけるトラブルか。

*9:というか、恋愛を求めれば求めるほど恋愛は遠ざかり、「どうでもいい」と思った瞬間に(少なくとも友人としては)うまくいき始める、という皮肉な事情を感じる。

BonvoyageBonvoyage 2004/06/04 02:34 「愛」という言葉は意味が曖昧だし、それを使うのは政治的にも不利な気がします。「愛があるなら厳しく、ひきこもりを家から追い出せ」という話にもなってしまいそうですし。◆「不必要に難しい話ばっかしてる」というのは、私もよく言われます。本当のところは、「私が感じている現実」と「他の人が感じている現実」に差異があるために、「私が感じている現実」を説明しようとすると、どうしても難しい話になってしまいがちだ、ということなんだろうと思います。もしかすると、詩的表現とか、セミフィクション小説とか、「みんな」の話みたいのとか、そういう工夫がいるのかもしれません。より多くの人を議論に巻き込むには。

BonvoyageBonvoyage 2004/06/04 04:05 何だかすごく重要なことを思い出した気がするので、書いておきます。◆私は以前、あるビジネスマンから相談を受けたとき、こんなことを提案したことがある。毎晩寝る前に奥さんに1万円渡して、「今日も一緒にいてくれてうれしいよ、ありがとう」と言う。奥さんは「私もよ」と言って、別の1万円札をだんなさんに渡す。ここに年収365万円の2人が突如として現われた(日本のGDPも730万円上がった)わけだけれど、自分は「ただ、いる」だけで年間365万円を稼げる人間なのだ、ということを自分自身にすり込むことの効果は、ばかにできない。◆いや、実はそのビジネスマンのその後を聞いてないので何とも言いがたいのですけれども。個人(ミクロ)レベルでの「愛し愛されるようになるための具体的処方箋」への起案でした。

anhedoniaanhedonia 2004/06/04 07:26 既にご存知かもしれませんが・・・  こんな人々もいます《 http://www.asexual-japan.net/ 》《 http://www.asexual.jp/ 》 (キーワード:Aセクシュアル asexual Aセク)とりあえずご参考までに

nonakanonaka 2004/06/04 08:37 上山さんのいう愛情って、居場所のことでしょうか。僕の小市民的感覚からすると、人間居場所があるのが幸せなことだと思ってしまいます。

miyagimiyagi 2004/06/05 12:10 「ひきこもり」は現象ですから、認めなければならないと思います。初心に戻る意味で、質問したいのですが。「ひきこもり」になる背景は何ですか?こういう問いは、「ひきこもり」を論じるにあたって、駄目でしょうか。

BonvoyageBonvoyage 2004/06/05 12:42 あ、シンプルかつストレートな問い。◆一般論というか、何人ものひきこもりの方と対面なさったueyamakzkさんの考える率直なところを、私も聞きたいです。私は自分のことしか知らないので。本に書いてあると言われればそれまでかもしれませんが、ここまでのまとめなおしというか、そういうものを。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/05 14:40 anhedonia さん、先日から驚くべき新情報を次々いただいて、ありがたい限りです。まったく知らなかった。 → 「性への興味を持てない」ということと、「愛への興味を持てない」(これは強いかも)の違い、とか考えました。……しかし、性愛に興味を持たない人間なんてあり得るんでしょうか(性行為や「ワイセツ」に興味がない、というのはあり得るにしても)。「好きな人がいない」はあっても、「人を好きになる能力自体がない」はあり得るのか、とか。「誰からも愛されなくていい」はあり得る? いや、そもそも性愛関係から「降りる」ことだってあるわけか。 【なんか重要な問題の気がしてきた…】 ◆ nonaka さん、こんにちは。なるほど「居場所」という言い方ならば、必ずしも性愛化して語る必要はありませんね(あえて実験的に性愛化して語ってみたのですが)。「居場所がない」という言い方も、往々にして感情的・感傷的に語られがちですが(「思春期の青臭い感想」)、政治的・社会的(システム的?)な問題意識の出発点と考えるべきなんだと思います。 ◆ …うーん、「性愛と居場所」の関係って、宮台氏のいう「道徳と法」の関係に似ているような。気のせい?

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/05 14:40 miyagi さん、Bonvoyage さん、こんにちは。「なぜ引きこもりになるか」ですが、僕は、この問いよりも上位に、「どうやったら苦痛緩和できるか」というプラグマティックな課題が来るべきだと思う。つまり「なぜ」と問うことは、それが結果的に苦痛緩和に貢献するのでなければ、意味がない、と(逆に言えば、苦痛がないのならば、あれこれ考える必要もない)。具体的な処方箋や行動に結びつかない「なぜだろう」は、かえって関係者(本人、家族など)の苦痛を強めたりする。 ◆ 「引きこもっているのは本人が悪いんだ」「いや家族だ」「いや社会が悪いんだ」などの犯人探しをやりたがる人は多いですが、そういう人の持ち出す具体案は恐ろしく貧困で、判で押したようにパターン化しています(もしくは何も具体案を出さない)。議論を活性化させるために、「引きこもりというのはいったい何なんだろう」という大きな問いはぜひいろんなかたに共有していただきたいのですが、やはり大事なのは、ミクロ・マクロ両レベルでの具体案の創出なはず。そういうところで考えたいと思っています【「イジメの加害者に慰謝料を請求する」とか、そういう恐ろしく具体的な取り組みが有効なケースもあると思うし】。 ◆ なんだかご質問をはぐらかしているようで申し訳ないのですが、僕自身は、「言葉」の仕事が大事だ、と痛感しているところです。「言葉の仕事が大事だ」というのは、それだけで何事かを物語っているかもしれませんが。

BonvoyageBonvoyage 2004/06/05 16:27 ueyamakzkさん>おっしゃってることはよくわかるつもりです。犯人探しになりがちなのも想像に難くないし、実際にそういうご経験もあるでしょうし。誰か1人でもそういうことを言う人が出てくると、他の人がそうじゃなくても、一気に議論が不毛なほうにいっちゃいますしね。◆しかし、どんな状況なのか、どんな苦痛を抱えているのかという情報がなさすぎて、具体案を考えるどころか、ほとんど何も想像することすらできないのも事実。私には、「イジメの加害者に慰謝料を請求する」のが有効なケースって具体的にどういうときなのか、うまく想像できません。それは私自身がひきこもった背景の根本に、「やられたらやり返す」方式に嫌気がさしたってのがあったから。もちろん個々のケースがあるわけだけれど、シチュエーションがうまく想像できないんです。◆「言葉の仕事が大事だ」というのは、そういうことも含めておっしゃってるのかも。

木通-akebi-木通-akebi- 2004/06/05 21:37 ごぶさたしています。先日の公演、聞きに行かせてもらいました☆
ところで、「Aセクシャル」に当てはまるのかは分からないけど、私の知り合いの男の人で実際に、自分には恋愛感情というものが一切無いと言っていた人はいましたよ。その人は、そうなるまでの経過が色々あったそうなんですけど。
そういう性分の人もいるものみたいですね。

hizzzhizzz 2004/06/05 22:45 こんにちわ。「Aセクシャル」は、最近国内でも自称なさる方が出てきましたけど、元々これはカップル文化と、若々しさ=性的魅力が自明である米国ならではのアイデンティティなのではないでしょうか。日本は、婚姻してても(家庭内離婚とまでいかなくても)普通にセックスレスというのは案外多いです。「愛」よりも「情」の結びつき(家族)の方が勝っているのではないでしょーかね。大体、「おやじ/おばさん」には性的魅力はあまり求められないですね。だから「30代独身女は負け犬」という見方も成立するので、よけい「若くあること」しか可能性を見いだせない若くなくなってきた30代がキビシーということかも。しかしそれは年とってみればわかりますが嘘です。「恋愛」から離れて考え方を替えれば、日本は老獪な「おやじ/おばさん」天国です(苦笑)。

ueyamakzkueyamakzk 2004/06/07 16:41 木通-akebi- さん、お久しぶり。声かけてくれればよかったのに>講演会 ◆ hizzz さんって、ひょっとして僕より年上?(驚き)>この場でははじめまして!

2004-06-01  「必須の論点を析出し、洗練する」必要

今の僕は、一つ一つのテーマを洗練している、というよりも、「引きこもりを論じるにあたって必須のテーマは何か」、その項目をリストアップしている段階なのかも。

引きこもりをめぐる議論が稚拙な段階にとどまっているのはとても危険だ、という問題意識が常にあります。「引きこもり」を、むしろ私たちの生を考えるためのきっかけにすること。


引きこもりの支援活動の難しさにも関連する「単独性とイデア」は必ず再度取り上げますが、今日は他のテーマもリストアップしてみます。螺旋的に、一つ一つのテーマを洗練していければいいな、と思っています。



「社会という戦場に適応するための軍事訓練」 「社会という戦場に適応するための軍事訓練」を含むブックマーク

29日のコメント欄は、本当に刺激的でした。うかつなレスポンスでネタの鮮度を落としたくないのですが、一つだけ。

# id:anhedonia 『元自衛官です。現在の自衛隊の訓練は健康な人であればじゅうぶん堪えられるもので<暴力的な特訓>は行われていませんし(警察や消防の方がずっと厳しいです)、洗脳なども行われていません。むしろあるタイプの人には一般企業よりはずっと馴染みやすいと思います。(中略)

 自衛隊の普段の仕事は武器や設備のメンテナンスや体力増強のためのマラソンなどが主で、みなさんがイメージされるような戦闘訓練は年に数度も行われません。


素で驚きました。三島由紀夫の体験入隊をイメージしていたのですが。正規の入隊と体験入隊は違うのでしょうか。 → google:自衛隊 入隊google:自衛隊 体験入隊


韓国で兵役を済ませた男性から聞かされた話、それに『フルメタル・ジャケット』という映画などから、生死をかけた過酷な訓練(洗脳的要因を強烈に含む)を想像していました。

『批評空間』第三期第1号の斎藤環×中井久夫×浅田彰の鼎談「トラウマと解離」では、「戦場で人を殺せる兵士にする」ためのアメリカ軍の訓練が紹介されています*1


社会という戦場に適応するための軍事訓練、が必要なんでしょうか。



「生き延びるために刑務所に入る」 「生き延びるために刑務所に入る」を含むブックマーク

先日の『クローズアップ現代(2004年5月31日)』は、「急増する老人犯罪*2」というテーマだったのですが、「犯罪を犯す老人たち」が直面している問題があまりにも「引きこもり」に類似していて。

家の中で邪魔者扱いされる高齢者たちが、生き延びるために軽犯罪(無銭飲食など)を重ねる。かつてコメント欄で「生き延びるために刑務所に入る」という選択肢が語られたことがありましたが、高齢者たちはすでにそれを実践していたのですね…。

仕事を見つけるためには最低限「住所」を持っていなければならないが、「更生保護施設」と正直に書けば「前科者」ということで雇われない。部屋を借りようにも、「保証人」と「敷金・礼金」(数十万円)を用意しなければならない →ムリ。 生活保護を受けるためにも「住所」が必要なので、それもダメ。そもそも「高齢者の一人暮らし」というだけで、お金があっても貸してくれない。


いったん弱者側に回ってドロップアウトしたら、二度と復帰できないのが日本社会なんですね…。



「想像力を持つ権利さえ奪われている」 「想像力を持つ権利さえ奪われている」を含むブックマーク

chiki さん経由で飛んだリンク『宮台真司・仲正昌樹トークセッション〜「共同体」と「自己決定」〜発言録』と、そこからさらに飛んだ仲正昌樹氏のインタビュー【(上)(下)】がとても興味深い。

「大きい物語=再配分の話」と、「小さな物語=承認の話」など、参考になる議論満載で、いずれまたちゃんと論じたいのですが、今日はメモ的に一箇所だけ引用しておきます(少々長いですが)。太字・色変えは僕です。

ドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域に対する権利」がこんな話だったとは。

 たいていの人間はそういうネガティブ・アイデンティティを持っています。自分では何かはっきり分からないのだけれども、どっかで歪んだ牴燭瓩自分の中に入ってしまったように感じる。でもだからといって本来の自分というのは、どういう状態なんだと言われると、それは分からない。

 この女性*3にいきなり、売春辞めさせてまともな生活をさせてやる。だから、お前は本当はどうしたいんだ? と聞いても、おそらく答えられないでしょう。もちろんどうにかしてあげたいと考えることは必要なんです。けれどもその時あなたはどういう人だ? 自分で決めろとやるのは全然だめですね。むしろ、自分がどういう存在に本来なりたいのかをもう一度自己再想像していくために、そこを権利の領域として考えるべきだとドゥルシラ・コーネルは言うのです。

 自分がどういう人間になりたいのか、理想像を完全に持ちきっていない人間に対して、もう一度、選択の余地を与え直すということです。当然、赤ん坊には戻れないし、他人にはどうにもできないこともある。けれども、社会的制度上の障害を取り除くことによって、ある程度もう一度自己再想像=リイマジネーションすることが可能な領域というものもある。それがイマジナリーな領域に対する権利という考え方です。*4


勉強しなければならない量がどんどん増えていて、途方に暮れてます。これはもう、やっぱり職業的にやらないとどうしようもないな…。



「年収600万円でも、未婚なら負け犬」 「年収600万円でも、未婚なら負け犬」を含むブックマーク

同じくchiki さん(id:seijotcp)の「今日のネタ」より*5


みんな結婚してるよ、キミは結婚しないの?」というわけでしょうか。

「30歳を過ぎ、年収600万円以上ありながら、結婚できない男性は負け犬でしょう。最近の女性は結婚相手に求める条件が高くなっている。かつての『3高(高学歴・高身長・高収入)』に加え、最近は『3低(低姿勢・低リスク・低依存)』がトレンドです。レディーファーストをわきまえ、安定した職業で、なおかつ相手を束縛しない。そんな男性でなければ相手にされないのです」

「年収600万円で未婚」が「負け犬」なら、「稼げないで未婚」は「生きる資格もない」って感じでしょうか。

 35歳を過ぎると、完全にアウト。9割が一生独りで生きる可能性が高いとのデータまである。

僕はたぶん一生独身で、場合によっては恋愛もないと思いますが、「それでも構わない」っていう選択の権利はないんでしょうか。

「結婚して一人前」という風潮に従って社会制度が出来上がっていれば、それにしたがわざるを得ない、ということか。 「独身でいて不利益をこうむっても自己責任」?…



「間違えられた男」、or even worse 「間違えられた男」、or even worseを含むブックマーク

同じくchiki さんのネタ集より。


僕が電車やバスに恐怖を感じる理由の一つがこれです。

 例えば,沖田事件というものがあります。この事件の真相が沖田さんの言うとおりであるとすれば,単に駅前を歩いているだけでも,「彼に痴漢されました」という証言があれば,逮捕される可能性もあることになります。

「家を一歩出るだけで、加害者にされる可能性がある」ということではないでしょうか。

女性は「あの人に痴漢されました」と言えば、相手男性の人生を破壊できるわけです。

考えれば考えるほど恐ろしい。



「無能力の結果としての引きこもり」と、「自己決定の結果としての引きこもり」 「無能力の結果としての引きこもり」と、「自己決定の結果としての引きこもり」を含むブックマーク

5月31日、講演にお招きいただいた京都(京田辺市)で、初めて

 展開次第では、「引きこもりが死んでも自己責任」という論調が起きかねない

と言ってみた。(主催者の方々にはインパクトがあったようだ。*6

いっぽう、工藤定次氏は次のように語っている。

 ふと考えてみるに、いったい「大人」とはなんだろう。

 私は、「自己決定」と「自己責任能力」に尽きると思う。*7


工藤氏は「自己決定と自己責任に関する能力がないから引きこもってしまうのだ」と言っているわけで、「引きこもって死んでも自己責任だ」ではない。【「自己決定における無能力の結果としての引きこもり」と、「自己決定能力の行使の結果としての引きこもり」のちがい*8。】

だが、上で引用したドゥルシラ・コーネルの議論に即せば、取り組むべき課題すべてを個人レベルの「自己決定と自己責任」に還元してしまう姿勢は、「社会制度上の障害を取り除く」問題意識を吹き飛ばしてしまうのではないか。 → リバタリアニズム批判に通じる。


これも今後につながる重要な論点だと思うので、とりあえずメモとして。



「引きこもり」から「虐待」へ 「引きこもり」から「虐待」へを含むブックマーク

京都の講演会には、児童虐待防止・支援の活動をされているNPO『CAP』京都支部の方がお見えで、講演会主宰の方にご紹介いただきました。

斎藤環さんは「これからは引きこもりが増えるというよりも、児童虐待や自殺・ホームレスが増えるのではないか」と言っていて、無視できない意見だと思っています。

今の親世代は、子供が引きこもってもなんとか面倒を見てきましたが、現在30代以下の子供世代には、「思い通りにならない子供の世話をする」包容力も忍耐力もないのではないか、と。

最近、虐待による幼児死亡事件が頻発しています。「いよいよ始まっている」のでしょうか…。


ところで、『CAP』の方によると、被虐待児童に対する最も重要なケアは、「あなたは悪くないよ*9、大切な存在だよ」というメッセージを繰り返し聞かせることだそうです。 → 「固有名と愛」、「単独性」の話を思い出しました。「自分は望まれない、どうでもいい存在なんだ」という認識が、人の命を奪い得るほどの破滅的な認識だとして、しかしケアを志した支援者が、全ての子供に「単独的」と言い得る愛情を注げるでしょうか。

→ この話が、そのまま引きこもり支援にも当てはまると思うのです。詳しくは、また「単独性とイデア」を論じるときに考えてみます。



考えるべき問題がたくさんありすぎて… 考えるべき問題がたくさんありすぎて…を含むブックマーク

冒頭にも書きましたが、「たくさんある話題の全てを論じよう」というよりも、「必須の論点を析出し、洗練しよう」と言うべきですね。

ぜひ、アドバイスいただけるとうれしいです。




*1:第二次大戦までは、「敵に対峙した時のアメリカ兵の発砲率」は10〜15%だった(!)。 → 若い兵士を中心にした徹底的な訓練により、ベトナム戦争では発砲率が95%にまで上がった。 → ベトナム帰還兵の社会への不適合率はものすごく高い(戦場に適応した結果、社会に適応できなくなった)。

*2:ここ10年で3倍以上に増えたとのこと。

*3:麻薬中毒の売春婦。子供のころ、実の祖父に近親相姦を強要されていたが、祖父は行為のたびにアメ玉をくれた。「それが快感で、自分のアイデンティティのパターンになってしまった」というのが彼女の自己分析らしい。「性行為によって報酬を得る」という「アイデンティティのパターン」。

*4:仲正昌樹氏のインタビュー内、「マイノリティ、望んでなったわけじゃない」より。

*5:これだけ膨大なネタを毎日、すごい…。

*6:他には、「僕は命懸けで引きこもっている」というある当事者の言葉が印象的だったとのことです。

*7:工藤定次『脱!ひきこもり』ISBN:4939015645 p.81。この本は2004年4月21日に発売されているので、原稿はイラク人質事件よりずっと前に書かれている。

*8:後者は、万人のいかなる状況をも「自己決定の結果」と見なすのではないか。

*9:「自己責任」論からすれば、「児童が虐待されたのは、本人がワガママだったからだ」ということになるんでしょうか。

dokushadokusha 2004/06/02 03:51 自己決定と自己責任、および社会制度は個人から社会を見るか、社会から個人を見るかと言うような話題になりそうな。わたし個人としては個人から見たい。つまり、自己決定が個人の自由を「作る」とみたい。まあ、この決定権もその範囲は予め社会が枠をはめるんでしょうけど。
職業だけでなく「結婚」とか「恋愛」も流動性が高いような気がします。またそもそも「恋愛」自体もその形態が幅広いんだろうと。「結婚」というか「婚姻の届け出」が社会制度上有利(先の選択の枠の一つか)であろうとは思いますけど。

withdrawalwithdrawal 2004/06/02 13:21 「負け犬の遠吠え」という本が話題になったものですが、負け犬の定義が30代でも独身で子供いない女性でしたっけ?仕事や趣味で生き生きしてても、独身で子なしだったら負け犬というのはエライ乱暴な表現だなあと思いました。この負け犬の定義に「職なし」が付いてしまってる女性は一体どうすればよいのやら。あと、自己責任という言葉は自業自得と同じ意味で頻繁に使われてる感じがする今日このごろです。

TDCTDC 2004/06/02 15:03 はじめまして。「婚姻制度」はそもそも「家族制度」と1セットになった、社会的連帯性を保つための制度であるという認識なので、個人として乗っかりたい人間は乗っかればいいし、乗っかりたくない人間は乗っからなくて言いと。

TDCTDC 2004/06/02 15:08 そのような前提条件に言及せずに、単に結婚=幸せというイメージで語られることにどれほど抑圧を感じる人がいることか、、、。って年収600万にいく予定も結婚できる予定もない自分が、ルサンチマン垂れ流してみたりw

儚 2004/06/02 19:50 細かい事はともかく、私の人生が潰れ無駄になってしまった事は、私だけの責任ではないので、最後の意地として復讐だけは果たしておきたいと思っています。人生を潰された人間の当然の権利だと思います。最低限の後悔を残さないために・・・。今、私が自分の為にしてあげられる事は、金で解決できる欲望を果たす事と、復讐を果たす事位ですね。

anhedoniaanhedonia 2004/06/02 21:32 −ちょっと補足− ◆私は10年ほど前に、陸・海・空ある自衛隊のうちの陸上自衛隊にごく短期間所属したに過ぎませんので、私が自衛隊について知っていることは極々僅かですし、あくまでも私の経験した範囲での印象ですから、あまり過大に評価しないで頂きたいと思います。 ◆体験入隊はあくまで“それっぽい雰囲気”を味わうための体験版であって、当然ながら正規の入隊の訓練内容とは違います。◆韓国軍と比べればかなり〈ユルイ〉と思います。 ◆中井氏が紹介している米軍の「戦場で人を殺せる兵士にする」ための訓練は、私は経験していませんし、私よりもずっと長く自衛隊にいた知人も経験していません。

LPitLPit 2004/06/03 02:28 ヴェトナム当時の米軍と違い、自衛隊は「実戦」をしているわけではありませんから>訓練 むしろ、高校や中学の体育会系部活の方が、「非人間度」は高いと思います。日本では。

nonakanonaka 2004/06/03 10:33 復帰するためのシステム、誰がどうやって作るか。社会的制度上の障害、誰がどうやって取り除くか。そこがどうしても見えてきません。

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