「対話的誠意 ←→ 精神的耐性」?

id:tigress-kyoto さんからいただいた、涙が出るほどうれしいご指摘

 人の意見に対して自分の自意識や自信、尊厳がずたずたになろうとも全身全霊で人の意見に対し向き合う姿勢を崩さないこと。 (中略)
 その姿勢って、たまにネット空間以外のところで「今は絶対その姿勢取るべきだな」と感じた時に取ってる。こうやって毎日更新しているブログで、毎日人の意見と向き合ってたら自意識がずたずたになって身が持たんよ。



去年、コメント欄でひどい思いをしてから、ずっと考えてることで…。


誠意をこめて対話的な態度を保とうとすると、それだけ受傷率は高くなる。 というか、体質が受傷的になる。
かといって、安易な悪意には走りたくない。
→ 「泣き寝入り」的になって、ズタズタになる。


開放的な誠意 と、悪意や欺瞞への耐性 とは、どうやったら両立できるんだろう。
2ちゃんねるの文化に、ヒントはあるだろうか…





「硬直する視界」

うまく言えないのだが、「視界が硬直する」という感じ、わかります?
凡庸な比喩だが、まさに「牢獄の中に監禁されている」感じが、視界そのものの体感にあって、これが僕の「感受性の態度」を閉鎖的かつ非交流的に硬直させている。 それはひょっとするとおそらく同時に、僕の「五感の知覚過敏」をも形作っている。
世界への性交的態度(へんな言い方だが)を僕が保てないのも、この「視界の中に幽閉されている」感覚に関係している気が…してしょうがない。 音楽への感受性を抑圧していたり、消費や労働をこれほど僕が苦痛に感じるのも、ひょっとして…。


これは、言葉の努力で解きほぐすしかないんだろうか。*1
それとも、≪体験≫で解きほぐしていくもんだろうか。


いずれにしても、この硬直は僕にとってストレスになっている…





*1:庵野秀明氏は結婚後、どこかで「女性に受け入れられてしまったから、もう『エヴァンゲリオン』みたいな作品は作れない」(大意)と語っていた。 抑圧が生み出す創造性、というのもあるわけか…。