事件は、差別感情の口実ネタ。

今回の事件であらためて思ったのですが、差別や排除の意識というのは、「事件ゆえに形成される」というよりも、「もともと潜在的にあった差別感情が、事件を口実に結晶化する」*1と言ったほうが正確ではないでしょうか。

これに似た事情は、ジジェクが「ユダヤ人差別」を素材に語っていたように思います。*2

つまり、反ユダヤ主義者が想定するような、「人をだまして搾取する」ような人物は、ユダヤ人を探せば必ず見つかる。 → 「それみたことか、やはりユダヤ人はこれだ」。
しかし、では「そうではない」ユダヤ人の例を無数に挙げたとして、反ユダヤ主義者は改心するでしょうか。 「しない」というのがジジェクの答えだったように思います。 つまり、確定記述(特殊性)のレベルでいくら反証を挙げても、「差別」という≪剰余≫は消えない、と。


「生まれによる差別」「行動による差別」 は、同じには語れないと思いますが、「ユダヤ人」というのは、そもそも「ユダヤ教徒」ということであり、もとは「行動選択」の差異だったはず…。 → 両差別の違いは微妙のようです。







*1:この状況を比喩で表すのに、私はやはり物理学における「量子化」の比喩を使いたくなってしまいます。 以前、この比喩を「安易に使ってしまった」と反省したのですが、やっぱ捨て難いなぁ…。

*2:どこでだっけ…