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[語句説明]

2005-02-22  ギリギリ

つぶやき つぶやきを含むブックマーク

メールや電話での大事な連絡・事務書類送付等で、有効可処分の時間とエネルギーがどんどんなくなり、継続的に練り続けなければならない問題になかなか取り組めない・・・・。非常に苛立つが、それも言い訳だ。ぜんぶ「必要な」作業なのだから。

というか、精神的・肉体的に問題ありすぎて、「有効可処分の時間とエネルギー」が少なすぎる。ずーっとフル稼働できたら、もっとたくさんさばけるのに。

――というのはかなり無理のあるつぶやきで、あと何年も生きていられないような絶望的な心身の状態にあえぎ続けてるじゃないか。

自分は今かなりやばいよ、ということにもう少し向き合うべきじゃないのか。



「内面探索」vs「課題遂行」 「内面探索」vs「課題遂行」を含むブックマーク

仕事に集中しようとするなら「心身がやばい」なんて口にするべきじゃない。読者のかたや関係者にご心配かけるし、「仕事できない奴」ってことになる。自分の中でも気が散る。

いや、もう一つ問題があって、引きこもりやニートのBLOG*1は、多くの場合「つらく苦しい内面」にどんどん沈潜してゆく。どす黒い内面の探索作業。この作業は、一方では本人にとって必要なものであり得るが、実はその作業自体が本人をついばみ、苦しめ、追い込んでゆく作業にもなり得る。「やばい自分をひたすら凝視する」わけだし、考えているうちに明晰になってくるヤバイ思考もある(今はあえて書かない)。

いっぽう、課題を決めて仕事を遂行する場面では、「内面の闇に沈潜する」みたいな作業は、邪魔でしかない。自分の内面などは放置して、リアルでドライな情報処理に徹するべきであり、「それをやっている自分」を意識することは、むしろ無能ぶりを意味する。



内と外 内と外を含むブックマーク

さて、しかし。ひきこもりについて考え、仕事をするにあたって、私はどちらを目指せばいいのか?

ひきこもりに関連する支援やイベント・原稿執筆などの「外的な課題」には、最初から「内面の闇」が課題内在的に繰り込まれている(内面事情を勘案しながらしか作業を遂行できない)。一方かつ、「内面の闇」と呼ぶべき破滅的な感情には、最初から「外的な事情」が繰り込まれている(経済的絶望感や家族への罪悪感など)。


こちらでまた問題になったように*2、各人の個人的事情によって協力関係が築けなくなる問題から、私は「属性と課題の峻別」を唱え、ひとまず自分や他者の≪属性≫レベルの事情は不問にして、共有できる≪課題≫レベルで議論と活動を続けよう、としたわけだ。

しかし、それに取り組んでいる私には苦痛にあえぐ内面があって、「課題を共有しよう」と唱えつつ、いっぽうでは「何をやっても駄目なんだ」という冷めた(醒めた)意識に苦しんでいる。「勉強しようが議論しようが、自分も引きこもりもこのままなし崩しだ」。 ≪生きてるのがイヤだ・・・≫と繰り返しつぶやくことでしか支えられない時間。将来への展望や課題設定は吹き飛んでいる。議論への自己動員は、何か「ためにする」自己説得のようにしか思えなくなる。生き延びねばまずいから、そうしないと精神を維持できないから、やらないとまずいだろ、というような。



インストール インストールを含むブックマーク

「降りようとする」ベクトルと、「課題に取り組もうとする」ベクトル。「負けようがどうしようがどうでもいいから、とにかくこの世から消えたい」という闇雲な衝動と、「何があっても絶対に許さない」怒り。

「生きていかねばならない」というような稀薄な道徳は、「降りたい」「消えたい」という内面の叫びに、生きる動機を与えない。動機を与えないところで「戦え!」と強要しても、内面は持続しない。だから外面も崩れる。

「消えたい」という衝動と内側でつながったような、わけありの課題をインストールする必要がある。

絶対に許せない怒りか、あるいは「絶対に消えない愛」か。

意識の上っ面に覆い被さるような課題(「働け!」「生きろ!」「戦え!」)ではなく、意識の地下水脈と内通したような課題。

行動は高らかでも、動機は秘められているような課題。

課題の重圧が自分を押し潰すのではなく、取り組むことが自分を癒してゆくような課題。


放置された自分の属性*3が「外部の課題」*4を目指すのではなく、インストールされた課題が、内側から自分を変えてゆくこと。同時に、課題そのものが変質してゆくこと。



「代わりに戦ってくれ」 「代わりに戦ってくれ」を含むブックマーク

ひきこもりは、基本的に「戦えない」ことを基本属性としている*6。 というより、むしろ「四六時中空転する戦闘行為に意識を忙殺されているので、合理的な日常生活・職業生活ができなくなってしまっている」状態とも言える。そこでは、戦闘行為の歯車が外部世界とつながっておらず、その妄想的な空転ぶりがさらなる危険状態を生んでもいるのだが、「世界は危険だ」「他者は危険だ」という意識は非合理とばかりも言えず、しかし現実問題として、≪戦果≫を作る形の戦闘行為に従事できずにいる。少なくともカネを作れていない。


ひきこもり(+経験者)が経済生活から排除されていて、これから生き延びていくためには、集団的課題においても、個人的課題においても、≪戦わなければならない≫とすれば、事情はどうあれ「戦えない」のであれば、黙して死ぬしかない。もしくは、「自分は戦えないが、誰か代わりに戦ってくれ」とお願いすることになる。 → 親や支援者が、その「代わりに戦ってくれる人」になるべく期待される。

私は多くの当事者(+経験者)から、「あなたに期待します」と言われる。「頑張ってください」と。しかし私はすでに頑張っているし、そもそもその声をかけてくれている人は、悪気はないのだが、「協力します」とは言わない。「私にはできません、だから代わりにあなたがやって下さい」。ひきこもりの属性として「自分にはできない」ので、自分が生き延びるために発生する種々の課題については、「あなたがやってください」。


しかし、「できない」という属性は、放置して良いのか? ≪当事者≫という属性を自称した人間は、もう「変化する」課題を負わないのか。支援者や家族に、生き延びるための闘争や努力を丸投げにしていいのか。「自分は変化しないで、自分が抱えた課題*7のための闘争を人任せにする」のは、単に威圧的ではないのか。

ひたすら他罰的な当事者たち。



最難関 最難関を含むブックマーク

「戦わないと生き延びられない」として、本人の中に「生き延びたい」気持ちが稀薄*8なのであれば、「生き延びるための課題」(「働く」「戦う」)を無条件に本人に強要するのは、まさに「説教」でしかない。しかし、「生き延びる」という課題が本人の中でしっかり内面化されていて、なのにそのために必要な課題を全部他人任せにするとしたら、それは横暴としか言いようがない。(現実には、無力感に打ちひしがれているわけだが。)

問題はだから、自分の中に、あるいは誰か*9との関係に、「実は存在しているかもしれない」強烈な課題*10、どうしても不可欠で無視してはならない、自分としても絶対的に納得できる≪真に内面化された課題≫に、出会えるかどうか、ではないか。

その課題との関係を維持するために、自分にできることを探す勇気を持てるかどうか。他人任せにする暴力を、我慢できるかどうか。

その我慢において、他者と共有できる課題が生まれ、少しずつ孤立感が薄らぐのではないか。

相変わらず、「これ*11は本当に自分にとって大事な課題なのか」という揺らぎに悩まされつつ。

いや、むしろ大事すぎるからこそ、直面できないのか。



愛憎 愛憎を含むブックマーク

削除



暴走 暴走を含むブックマーク

今日のエントリ、あとで総削除しそうな予感。





*1:「ひきこもり・ニートBLOG選」の件で悩み抜いています。(打ち明ければ、これは『ユリイカ』から頂いた企画です。) ▼「暗黒の内面」を徹底探索しているようなBLOGを、雑誌に紹介するのか。紹介したら、「視線に晒された」重圧で潰れてしまうのではないか・・・・・・。 ▼「当事者系はいっさい取り上げるべきではない」かもしれません。

*2こちらでも触れましたが、私としては、「当事者でなくとも引きこもりのために重要な貢献はできる」という立場で、だから id:hikilink さんの現在が引きこもり状態ではなく、あるいはさらに極端化して、「ひきこもり経験がない」としても(仮にです)、彼のサイトの価値を減ずるものではない、それどころか誇るべき範例でしょう。 ▼ただし、(本人の思惑とは必ずしも一致せず、)人物像が社会的に流通するときに発生する政治的な「代理=表象(representation)」機能を考えたり、あるいは「ひきこもりを内在的に語る」ことが問題になるときには、当該人物の「経験の深刻さ」は、問われざるを得ません。 軽症事例がクローズアップされれば、深刻事例は抑圧されます(ただし「不安」の問題など、ひきこもりの深刻さに関係なく共有できる課題はあるはずです)。 ▼(これはある方から受けたご指摘なのですが、)ひきこもり当事者は、「あまりにも弱い自分は、強い連中に搾取されている」という強烈な被抑圧意識を持っていることが多く、それが身近な「自称当事者」(と見える者)に向かいやすい。本来は「本物の社会的搾取者」に向かうべき反抗のエネルギーが、「お隣さん」に向かってしまうやりきれなさです。 ▼私は『「ひきこもり」だった僕から』などというタイトルの本を出しており、モロに「俺は経験者だぞ」ヅラしているのですが、「20年ひきこもり続け、悲観して両親を殺害した」事例に比べれば、果たして「経験者」などと名乗って良いものかどうか。 → やはり深刻さは、常に相対的なものでしかない。 ▼「相対的に比較して考えるべき部分」と、「概念的に純化して抽出し、課題共有して考えるべき部分」とを、峻別する必要があると思います。 ▼ちなみに、「属性ではなく課題を」「共感の共同体だけではどうしようもない」と連呼している私も、深刻な状態を知る者同士でお会いした時には、「そうそうそう!!」などと叫んでいたりします。その醍醐味には、やはり重要な機能がある(ちなみに、苦しみ続ける支援者同士の「共感の共同体」も必要だと思います)。 問題は、「それだけではどうしようもない」というところだと思います。

*3:「仕事も恋愛もできない」

*4:「仕事や恋愛しろ」

*5こちらより。

*6:拙著でも触れたが、ひきこもりとは究極の「政治的敗者」なのだ

*7:「生き延びる」など

*8:「消えたい」

*9:憎む人、愛する人

*10:以前の私なら「欲望」と言っていたでしょう。今でも言いますが。

*11:「この人を愛すること」「生き延びること」「あいつだけは許さない」

2005-02-21  イベント告知

NPO法人淡路プラッツの2005年講演会 NPO法人淡路プラッツの2005年講演会を含むブックマーク

【22日22時ごろ追記: ▼ここに、リンク先のイベント情報を転載し、関係機関の細かいリンクを張ったりしていたのですが、自分がスタッフや出演者として関わるわけではなく、関係者の多くについても良く知らないまま*1のイベントのことを、(身近の企画だからというだけの理由で)細かくご紹介するのは、批評性を目指す当BLOGの趣旨にそぐわないと考え、転載記事を削除しました。 ▼イベント情報を「単に列記する」情報サイトは絶対必要だし*2、私自身飢えてすらいるのですが、いっぽうで、批評的緊張感を目指したくもあります。 「まぁテキトーでいいじゃないか」ではなく、何が良くて、何がまずいのか、今後どうすればいいのか――単なる知的探求ではなく、現場の(カネ絡みの)緊張感と、知的問い詰めとを常に往復しつつ、具体的な形を模索したい。 ▼もちろん、自分を追い詰めてばかりでは続かないのですが・・・・。 どうかよろしくお願いします。

【さらに追記: ▼当然ですが、上記イベントのルポを書くかもしれませんし、参加されたかたのルポを読んでみたいです。


私は、以下のイベントの参考にもしたいし、「第2分科会」に行きたいですが、仕事の都合もあり、ちょっと未定です。




「社会的ひきこもり」市民講座 〜ひきこもりから仕事を考える〜 「社会的ひきこもり」市民講座 〜ひきこもりから仕事を考える〜 を含むブックマーク

  • 日時 : 平成17年3月6日(日) 午後2時から4時半まで(開場1時半)
  • 会場 : 横浜にぎわい座 地下2階 小ホール(のげシャーレ)


こちらは行政に関係するイベントで、無料です。

リンク先から、電話かFAXでお申し込みください。 (先着順、定員120名)

【22日16時ごろ追記 : 22日の午前中に定員に達したそうです。 ありがとうございました。

【22日22時ごろ追記: chiki(id:seijotcp)さんが、このイベントの告知と、参考リンクを作ってくださっています。 ▼本当に励みになります。 ありがとうございます。




チャット大会番外編ログ : 「モニターの向こう側へ。チャット大会番外編ログ : 「モニターの向こう側へ。」を含むブックマーク

ログまとめ、お疲れ様です。

このチャットで出た話題は、今後も考えることになりそうです。



*1:樋口明彦さん、金城隆一さんなど、私が今まさに話を聞きたいと思うパネラーのかたはいらっしゃいます。

*2:行政の運営する「情報集積センター」のような機能です。

*3:私です

2005-02-17

シンポジウムの企画案や、ブログ選考の件などで格闘中です。 いずれも、今後の活動指針に直結する、原理的に核心的な問題のように思うのです・・・・。


第3回チャット大会ログ : 「対話の鍵を握るもの。第3回チャット大会ログ : 「対話の鍵を握るもの。」を含むブックマーク

id:kwkt さんの示唆が、本当に勉強になります。

それにしても、編集、お疲れ様!>chiki(id:seijotcp)さん


2005-02-09  判断基準メモ

「ブログ選考基準」考 「ブログ選考基準」考を含むブックマーク

ひきこもり当事者のBLOGやその交流が、「独り言同士の“共感の共同体”だけではどうしようもない」(大意)という私の意見について、反論をいただきました。

id:yodaka:20050207 より。

 上山さんがそう言うのはわかるし、今の路線でぜひ頑張ってほしい。 でもいいと思うよ。 ネットの片隅でつぶやくだけでも。 循環思考でもなんでも、他者に見られる可能性を持った文章を書くんだから、どうしたって他者の存在や自分の中の他者性みたいなものを意識する場面は出てくるんだし、それだけでも「状況を変える」布石になる可能性はあると思う。

 なんでもかんでも役に立つかどうかで判断するのは僕は嫌いで、(中略)たとえば起床時間を淡々と記録するだけでも継続できれば立派立派。


非常に大事な点だと思いますし、「ひきこもり・ニート」関連BLOG選にも関わりますので、id:yodaka さんへの直接的反論というのではなく、いただいたご意見をきっかけに、少し敷衍して、関連する論点を一般的に論じてみたいと思います。 (反論めいた論調も登場しますが、id:yodaka さんへの直接的反論というわけではありません。)




≪戦う≫ → 「社会的」と「臨床的」 ≪戦う≫ → 「社会的」と「臨床的」を含むブックマーク

一人一人の個人的な取り組みは、「独り言でも何でもいいから続いたほうがいいよ」というのはまったくその通りだと思います。その個人的な作業の中に、≪変化≫への種子が胚胎されるのではないか、という点も御意。

ただ、「なんでもかんでも役に立つかどうかで判断するのは僕は嫌いで」というのは、判断の難しいところ。

一言でいえば、戦う必要がある時に、「役に立っても立たなくてもいい」とは言えない、ということだと思います。「共感の共同体に留まるだけでなく、課題共有に向かいましょう」という私の呟きは、「誰も≪闘い≫という要因を見ていない」という焦りでもあります。「このままじゃまずい」と。


喩えとして適切かどうか迷いますが、たとえば被差別部落問題。1922年(大正11年)の水平社宣言以来80年以上が経ちましたが、初期の解放運動について、「やってもやらなくてもいい」、「うまくいかなくてもいい」などと言えるでしょうか。全員が活動に参加するのはもちろん無理でも、誰かが戦果を作っていかないことには、黙って見殺しにされるだけ。

「部落差別と引きこもり差別は話が違う」というのはわかります。しかし例えば私は、次のようにも言われた。:「部落差別は≪いわれなき差別≫だが、ひきこもり差別は≪いわれある差別≫だ」。戸籍によって差別されることには合理的な理由はないが、働かない(そういう過去があった)人が差別されるのは、合理的差別だ、というわけです。▼こういうあからさまなことを言う人は珍しくとも、引きこもりやニート、つまり様々な理由から継続的な就労や経済活動ができない人は、黙って放置されればどうしようもなくなるでしょう。私は個人的にはそれほど貧困層だとは思っていませんが*1、それでも切迫を感じている。まだ若くて再復帰がいくらでもできるとか、何もしないでも年金受給開始年齢まで無職で生き延びられるような人は延々と独り言や共感ゲームに打ち興じていればいいですが、そうではない人は、「何もしない」ということは、「ジリ貧の死」ということでしょう。本当に「それでいい」と言えるのか。


独り言や共感ゲームだけでいい、というのは、課題設定が個人レベルで閉じています。「自分がそこで元気になれればいい」というような。もしそのまま放置してもその人がずっと安泰なのであれば、それ以上の課題設定を導入する必要はありません。しかし、現実問題として「履歴書の空白」で排除され、いったん脱落したら復帰できない、云々といったトラブルが続いているとしたら、それら各点については、何か具体的に抵抗して是正努力をし、そこで戦果を得る必要がある。つまり、課題設定が「独り言でいい」というレベルをはみ出る必要がある。


雇用市場からの構造的排除が一方であるとして、引きこもり・ニートの心理面を問題にする必要があるとすれば、それは「対人恐怖」そのものというよりも、戦うべきところでちゃんと戦わず、やられるままになるその青臭い間抜けぶり、悪く言えばバカさ加減、それこそが核心的なのではないか。世間的にはその「お人好しの間抜けぶり」が、「怠け者」と見られるのではないか。「戦えない者は死ね」と。 → さらに個別臨床的に言えば、対人恐怖などの症状は、「戦うことができない」というメンタリティの帰結とも言えるのではないか。だとすれば、≪戦えるようになろう≫というのは、社会課題のみならず、個人レベルの臨床課題としても設定できることになる。


「やられるまま死んでもいい」というのが嘘であるなら、社会的な取り組みを真剣に模索する者を「なに大風呂敷にマジになってんの?w」とバカにする当事者が多いのは、どういうことか。そのように嘲笑する本人は、自分の身近の対人関係においては排除されイジメられる側に回っていたりするわけです、「戦えない」がゆえに。(自分の無力を私に投影しているということか。) ▼そしてそういう排除やイジメに対しては、「独り言」や「共感ゲーム」は、一時的、あるいは準備的な意味しか持たない。あるいは何度も触れているように、むしろ「共感ゲーム」そのものが、非常に感情的な排除のゲームを生み得る(「偽ヒキ問題」などの深刻度競争)。


というわけで、≪戦わなければならない≫というのは、「脱落しても復帰できる環境作りをしましょう」という大きく社会的な課題共有のレベルにおいてもそうだし、「自分の仕事や生活の環境において、自分のトラブルに自分で取り組めるようになりましょう」という個人的なレベルでもそうだと思う。つまり、「環境を変える」という目標においても、「自分を変える」という目標においても、≪戦う≫という要因を支えられなければ、どうしようもないではないか、と思うのです。ここで、「生活とは、戦って勝ち取るものだ」という説教系の比喩を思い出してもいい。継続的な生活運営には、≪戦い≫という要因が不可避のように思います。

これは、私が何度も触れている≪トラブル耐性≫にも関わります。ひきこもりやニートの当事者・経験者は、極端にトラブルに弱い。ということは、ストレスに弱い。それが具体的には、「対人恐怖」「外出恐怖」といった名前で呼ばれているのではないか。あるいは、一つ一つの強迫的な症状となって現れているのではないか。だから「戦わなければ!」というのは、何も大風呂敷の政治的アジテーションというばかりではなく、個人レベルでの臨床課題でもあると思うのです。大枠の課題設定には共感できなくてもいい(それは誘惑できなかった側の問題でもある)。しかし、どのような人であれ何らかの形では職場や生活圏で対人接触を持つのですし、引きこもっていても家族とは一緒にいる、あるいは一人暮らしでも親に仕送りされている。だとすればどこかで「その状態を支えるのか、支えないのか」で周囲と格闘せねばならないはず。そもそも、どのように閉じこもっても、社会の中で暮らさねばならないのだから、常に繰り返し社会的な審問に付される。「ほっといてくれ」という主張も、≪戦い≫の一つでしょう。


今、元気に生きている人は、どうも「トラブルを楽しめる人たち」ではないでしょうか。憔悴し、働けなくなっているのは、「トラブルにいちいち参っている人たち」ではないでしょうか。私はこれまで明らかに後者のタイプで、しかし単に「好戦的」というのはなれそうもなかったし(そもそも空しい)、他の人に呼びかけるにも現実味がなかったので、間をつなぐ方法、というか取り組みの方法論をずっと模索していたのですが、「属性ではなく課題への帰属」、それも「多層的複数帰属」ということで、ひとまず整理がついたわけです。




≪分析≫(「メタ−ベタ」の緊張感溢れる往復)同士の出会い ≪分析≫(「メタ−ベタ」の緊張感溢れる往復)同士の出会いを含むブックマーク

「公的−私的」のほかに、「メタ・レベル−オブジェクト・レベル」(メタ−ベタ)という点で考えてみます。

リアル・ワールドにおいて排除されている人間は、単にメタレベルで沈思黙考していても埒があかない。オブジェクト・レベルで具体的にプレイヤーの一人になって、ベタに戦果を出さねばならない。しかしいきなりベタにプレイヤーになるだけでは、そのフィールドのゲーム・ルールそのものが持っている問題を意識化し課題設定することができません。だからベタに1プレイヤーをやって戦果を上げつつ、常にメタとの往復を試み、課題そのものを仕切り直す必要がある。(この往復をしないで済むベタな「試合没頭タイプ」が、具体的戦況にめっぽう強かったりするわけで、難しいですが・・・。)


メタそのものに葛藤や戦いがあるし、ベタにはもちろん勝ち負けの具体がある。そして、「メタ−ベタ」の間にも、戦いがあると思うのです*2。ひきこもり支援関係者の多くは、直接的な農作業や「手に職をつける」訓練*3のみを「意味のあること」と見なし、メタレベルの話を「頭デッカチの空理空論」としか見ません。逆に言えば、自分たちがメタに抱えた支援方法論を絶対だと思っている。あるいは無批判に、(斎藤環氏などの)権威者に依拠すればいいと思っている。で、考えかたの違う他の支援者と、ベタレベルでは泥仕合ばかりになる。

各人がベタに身を置きながら、自分の居場所でメタとベタを往復すること。「ひきこもり支援」という課題設定にこだわるのではなく、その≪分析≫*4の作動において、出会える人を探すこと。その≪メタ−ベタ≫の緊張感において、戦いを続けること。

私は何度も潰れそうになりましたし、今後も潰れるかもしれませんが、ひきこもり論で出会う人が、「ベタレベルのどうしようもない事情を無視していきなりメタに引きこもりを論じ」たり、あるいは逆に、「現場のカネ絡みの葛藤を重視するあまりメタな分析のすべてを拒否する」、その両極端ばかりなのです。現場の葛藤とメタな分析の両方に足をかけ、≪メタ−ベタ≫の緊張関係でものを考えている人は本当にいないし、そういう作業を試みる者は信じられないほど孤独になります。端的に、「お前は邪魔だ」という話になる。いない方が「話がスムーズに」進むからです。


ひきこもり当事者の為す社会的議論はよくバカにされますが、これは「(オブジェクトレベルで)レースに参加していないのに、なに言ってんの?」ということでしょう。リングに上がらずに試合中のボクサーに文句つけてるだけ、みたいな。しかし逆に言えば、「現場に巻き込まれてしまったら冷静に考えることなどできなくなる」のも確かで・・・・。目の前の業務に忙殺されているうちにどんどん身動き取れなくなってゆく。 → 「現場に残りつつ、しかし現場の要請に忙殺されてもいない」でいるためには、どういう議論をすればいいのか。

同じことが、「ひきこもり支援」の実務にも言えるのだと思いますし、できれば私としては、そういう緊張感に引き裂かれながら為されている引きこもり論を、ピックアップしたいわけです。




時間切れ 時間切れを含むブックマーク

というわけで、私の「BLOG選出評価基準」考を、少しだけ書いてみました。

まだまったく部分的なものなのですが、今日は時間切れなので、続きはまた後日。(書きながら考えている感じです)

漏れている評価基準もありますし、この「評価基準」そのものが、熱い論争点になり得ると思います。★「取り上げた方がいいと思うBLOG」の直接的ご推薦*5だけでなく、「評価基準」についてのご意見も、できれば TrackBack などでご教示いただけるとうれしいです。




御意 御意を含むブックマーク

id:yodaka さんより孫引き。

 社会をおもしろいと思えない人は、社会に積極的に関わろうともしないのです。 社会を良くしたいと思うのなら、まずは社会と人間をおもしろいと思わせるところから始めるべきなのです。




*1:統計的位置づけは良くわからない

*2:これは三脇康生氏のご指摘です

*3:当然ですが、そうした直接的な訓練は≪絶対に≫必要です。私も今後、チャレンジし続けるでしょう。

*4:「メタ−ベタ」の往復

*5:すでにid:umetenさんと、id:nopikoさんから、いくつか候補を挙げていただいています。ありがとうございます。

2005-02-08  手がかり

最近、自分の努力指針のスタイルを整理するのに精一杯で、他の方々の言葉に絡む余裕がまったくありませんでした。まだスタイルは形成途中ですが、いくつか絡みながら少しずつ確認してみたいと思います。

この作業は、「ひきこもり・ニート」関連BLOG選の件にも関連します(それについてのもう少し込み入ったエントリを、9日分に予定しています)。



「インターフェースとしてのコミュニティー」 「インターフェースとしてのコミュニティー」を含むブックマーク

id:flapjack:20050204#p1 のうれしいご指摘から、id:flapjack:20031211#p1 へ。

 そういう歴史的過程の結果として、国家と個人の間のインターフェースとしてのコミュニティーが日本では未発達になってしまった。

 でも、そろそろ、どういうふうに開かれたムラ的ではないコミュニティーを自覚的に作り上げていくか、という課題を正面から引き受けるときがきているのではないか。


驚きました。 1年以上前に、こちらの私のエントリとほぼ同じ問題意識。

id:flapjack さんの存在は(Ririka さんのダイアリ経由で)当時すでに存じ上げていましたし、当該記事を拝見していた記憶すらあるのですが、その頃の私にはまだ自分の身に迫る問題設定とは受け取れなかったように記憶します(政治経済的脱落者である私にとって、「国家と個人」という“高尚な”話より前に、取り組むべき問題があるように思われたのだと思います)。 私のほうが少し成長して、id:flapjack さんの出されていた議論に追いつけた、ということでしょうか。 (今回私が「中間集団」の機能を考えたきっかけは、経済に詳しい友人との会話、それに「制度論的精神療法」を論じておられる三脇康生氏との会話でした。)

ところで、「どういうふうに開かれたムラ的ではないコミュニティーを自覚的に作り上げていくか」については、「脱落も復帰も自由にできる」という目標設定*1、それにこちらのようなスタイル(課題共有による、≪機能的・一時的・動態的≫中間集団への多層的複数帰属)を考えてみたのですが、いかがでしょうか・・・・。




ひきこもり原理論のための助走ノート ひきこもり原理論のための助走ノートを含むブックマーク

杉田俊介(id:sugitasyunsuke)さん。

 ひきこもりの人々とその家族の未来に関する(一つの)問題点の所在を明確にし示したい、と願って書いてみました。 正直、気持はすごく切迫しています。 ひきこもりとその家族のヒトビトに残された時間は少ないのではないか、と。


直接の当事者・ご家族や、ひきこもりへの職業的支援者ではない方がこのような問題意識を持ってくださるのは、本当にうれしいことです。 ありがとうございます。

しかし、逆に「当事者・ご家族や職業的支援者」の側が、こうした切迫した議論を正当に評価できていない面があるかもしれません。私もよく切迫した問題意識を口にしますが、たとえば「高齢化する当事者・経験者の将来像を悲観的に描く」ことに対し、関係者から「不愉快だ」と抗議を受けることがあります。 「話題にしなければ、現実にならない」と思っているのでしょうか・・・。


 ぼくは、正直、ひきこもり者の一定部分は、「就労」するのが今後も無理だ、と感じる。(中略)

 ひきこもり者の長期的な未来を考えていくと、問題のつかまえ方の素朴なシフト(転回)がどこかで必要で、「いかに働かせるか」ではなく、「働かない(働けない)ことを条件とし、いかに長期的に生きていくか」の問題を真剣に考え続けないとダメなのかも知れない・・・。 考えないとダメなんじゃないだろうか? (中略)

 冷徹に現実をみれば、ネオリベラル的にはこの「結論」しかない。 働いて自活できる能力がないなら、君達は死ね、自己責任を甘受しろ、自業自得だろ、と。 でも、もしもそれを自明の「結論」と考えないならば、仕方ないと考えないのであれば、別の道筋が必要なことにはやはりなる。 そろそろこのことを真剣に考える時に来ている気がする。


杉田さんは私よりもはるかに勉強家で、不平等論や社会思想の基本も押さえた上で論じておられるのだと思います。 しかし、「やはり現実にはこの社会は、身動き取れず途方に暮れる大量の個人を見捨てて運営されてゆくのだろう」という私の悲観論は、なかなかリアルな努力手続きを見出せずにいます。



2005-02-07  予感

「ひきこもり・ニート」関連BLOG選 「ひきこもり・ニート」関連BLOG選を含むブックマーク

引き続き、募集中です。

よろしくお願い致します。



いろいろ痛恨 いろいろ痛恨を含むブックマーク

先日の第1回に続き、第2回のチャットログを chiki さん(id:seijotcp)が整理・公開されています。 (お疲れ様です)

ところで、これに続く第3回チャットを楽しみにしていたのですが、告げられていた日時を忘れてしまってて、昨日メールもらって初めてもう済んでいることに気付きました。 orz


2005-02-06  論者と発言内容

ひどい風邪を引きました。 インフルエンザかもしれませんが、少し持ち直しました・・・。



「発言者」と「発言内容」? 「発言者」と「発言内容」?を含むブックマーク

先日からきわめて有意義な議論をさせていただいている三脇康生氏は、フェリックス・ガタリの臨床方法論を参照されている方。斎藤環氏は、ジャック・ラカンの議論を参照されている。ガタリとラカン(ともに故人)はお互いに批判的な関係にあったというから、三脇氏と斎藤氏の間にも相互に批判的な距離があり得るのかもしれないが、私は三脇氏との会話からも、斎藤氏との会話からも方法論上の恩恵を得ている。そして逆に、どちらのおっしゃることにも、同意できない部分がある。

さらに広げて言えば、何かある意見表明や言論仕事をした人がいるとして、その人の「言っていること」と、「その人自身」とは、どの程度重ねてしまってよいものだろうか。


ネット上の論争に顕著だが、相手の「発言内容」を批判すべきところで、相手の「人物」を攻撃している場合がある。あるいは逆に、「発言内容」を冷静に批判されているのに、言われた側が「人格攻撃だ!」と受け取り(要するに派閥的な対応)、論者の片方(あるいは両方)が、テーマを「派閥レベルで味方か敵か」、あるいは「人格レベルの侮辱か否か」という話に落とし込むために、議論がまったく不毛に終わっていることがある。これらはあまりに下らない感情的罵倒合戦にしかならないのだが(「批判」ではない)、多くの場合、自分と見解の違う(と思われる)相手については、もう相手の言い分などいっさい聞かず、「とにかく罵倒してやれ」という姿勢になっている。やり取りは無意味にヒートアップする。


さてそこで理性的に振る舞おうとすれば、「これこれ、いかんなぁ。派閥主義を排し、人格と発言は分けなきゃ」となるのだが、果たしてどこまでそれを貫くべきか。

真っ先に思いつくのは、「コミュニケーション・コスト」という観点だ。ある観点を確保してしまった1人の成人は、もう余程のことがなければその考えを変えることはせず、固定的な自分の意見に基づいて安易な定型的コメントを垂れ流すだけ。あるいは、こちらの発言趣旨を無視して、独り言をつぶやいているだけ。だから、「この人はダメだ」と見切ったら、もうその人については「人物=意見」と固定化して、何も期待しないこと。そうやって、時間や対話エネルギーを節約すること。その人物の口にしていた意見については、「見解のプロトタイプ」として、人格要因を消し去り、整理分類して記憶にストックしておけばよい。

自分が名指しで批判されており、しかもそれがきわめて理不尽だった場合・・・・、非難者の「人格」と、相手の「発言内容」を峻別することはきわめて難しくなるが、これまでの経験で言うと、そういう場合にこそ、相手を「一定の見解を口にする非人称的な何か」としてのみ扱い、人格要因を黙殺したほうが、精神的に楽に済むし、相手の粘着性にも篭絡されずに済む。つまりいずれにせよ、わざわざ注目すべきでない論者については、「人物=意見」と固定化した上で、人格要因を忘却すればよいことになる。

相手が有名人で、影響力が無視できない場合には、「人物=意見」とした上で、人格要因を捨象・忘却してしまうわけにはいかないと思うが。


では、「人物=意見」としてはいけないのは、どういう場合か?

相手が、開放的な論争態度を保持している場合ではないか。*1

対話的な関係において、相手は見解を変えるかもしれないのだ。あるいは、相手の自由闊達な批判的意見表明が、私の難点を取り除いてくれるかもしれない。「人物=意見」としてしまっては、失礼、というより、大事な対話機会を失うことになりかねない。

そしてこの場合には、相手の人格要因は、その都度の意見表明とは切り離された形で、こちらに記憶されることになる。大切な≪言葉の場所≫として。


難しいのは、論者というものは、常に一定の利害関係をバックに話している、という点だが・・・・。*2

「発言者」と「発言内容」を分離すべきか、そうでないかについては、もう少し考えてみるつもり。




「当事者・経験者ゆえにできる言語化」? 「当事者・経験者ゆえにできる言語化」?を含むブックマーク

ひきこもりの当事者・経験者によるサイトやBLOGがたくさんありますが(うちもその一つ)、それらの意義というのは、どういうところにあるんでしょうか。

先日からのエントリなどを参照して言えば、当事者の言葉は、まずは「葛藤に満ちた内面をこねくり返す独り言」みたいなものでしかないのだと思います。これはこれで、本人にとってのささやかな「言語努力」であり、他者との回路をまさぐるリハビリ作業になっているのかもしれないし、そういう作業をひそかに読んで、慰めや励みを得ている読者も多いのだと思います。 これはまさしく「当事者・経験者にしかできない言語化の作業」であり、本人にとっても、あるいは一部の読者にとっても、「必要な言語化」なのだと思う*3。――しかし、政治的・社会的展開については、かなり孤立したものと言わざるを得ないのではないか。単純に言って、そうした独り言に「共感できない人たち」にしてみれば、それら「共感の共同体」の存在は無に等しいし、極めつきの社会的弱者の漏らす独り言は、孤立した単発の共感者を生み出すに終わり、「何か状況を変える」動きにはならない。状況を放置しても私たちの生が安泰ならばそれでいいのだが、放置すれば私たちが追い詰められる一方だとすれば、そして再復帰にチャンスも見込めなさそうだとすれば、「何かを変えなければ」ならないのだが、どうも「当事者の独り言」からは、そうした手がかりは見えてこない。「苦しい」といううめき声と、「でもやっぱり仕事しなきゃ」*4という単純素朴な思い込みを、往復するだけ・・・・。

そこで、当事者発言のもう一つの要因、「共有できる事業を目指す社会的言語活動」という側面が問題になる。 → 「独り言」から「社会活動」への移行は、漸進的なもの、あるいはグラデーション的なものだと思うのだが、当事者・経験者としての表現行為に、≪社会活動≫という要因が伴い得ることを自覚している人は、どの程度いるのだろうか。私としては、そのような自覚をもつ方々と、何か努力を共有できれば、と思うのだが・・・・。




「ひきこもり・ニート」BLOG選? 「ひきこもり・ニート」BLOG選?を含むブックマーク

さる老舗雑誌の企画より、「ひきこもり・ニートに関連するBLOGを10個選び出し、レビューを書く」という原稿依頼を頂きました。ありがとうございます。

しかし、・・・・頭を抱えてしまった。

私は、引きこもり・ニートのBLOGを10個も読んでいないからです。

上記の「当事者ゆえの言語化」とも関わりますが、今の私にとっては、当事者の限界的な苦痛体験の記述や吐露については、考えるべき事柄を確認するために「参照する」ぐらいで、継続的に読者としてチェックする、という作業はしていません。呑気な独り言のような当事者発言であれば、なおさら参照価値はない。

私が現在目指しているのは、≪共有すべき課題の彫琢≫、あるいは≪社会・経済生活のために必要な訓練≫であり、そうした課題のために参考になるネット上のソースやBLOGというと、おのずと「当事者独り言系」のものは視界から消えていきます。

先日の三脇さんとの会話を参照して言うならば、私は「当事者である」ということ自体をフェティッシュに尊重した人間関係において共同体感情を維持したいのではなく、「分析の一貫性(consistency)」、あるいは≪共有課題≫との関係において協力関係を模索しているし、意識的に課題を共有できなくとも、あるいは相手の立場や属性には関係なく、私が参考にできるものはどんどん参照させて頂きたいと思っています。


当BLOGについても言えることですが、書き手が「当事者・経験者である」というのは、BLOGが注目される最初のきっかけ作りにはなっても、継続的に読む価値がある根拠にはならない。私自身、いつもエントリに失敗していますが、BLOG活動を継続していく中では、実際のコンテンツで皆さんに評価していただくしかない。 → そう考えてみると、「ひきこもり・ニートのBLOG」を10個選んでくれ、と言われたときに、果たして「当事者・経験者」のものをどの程度、どのような理由で選出すれば良いのか・・・・。

問題はもう一つあります。

ひきこもりの当事者・経験者は、「他者の視線」というものに、極端に過敏です。

BLOGで TrackBack を送る際には、相手が誰であれ気を使うものですが、書き手が当事者系となるとますますそうだし、TBでなくとも、アンテナで巡回している痕跡すら残してはまずいのではないか。「読まれている!」と気付かれた時点で、相手が驚いてBLOGを畳んじゃったりしないか・・・・。

現に私は何度か、メール返信やTBを試みた相手に、自意識過剰・あるいは被害妄想気味に絡まれています*5。 この上、「雑誌記事で言及された!」となったら・・・・。


取り上げるべきBLOGは、「当事者」のものと限る必要はないようで、また言及は「BLOGトップページ」だけではなく、「話題になったエントリ」だけでも良いそうなので、そういう意味でも、一度フランクに、候補を考え直してみようと思います。

私としては、「当事者系」よりも、「話題になったエントリ」、あるいは「今後当事者系の人が参照すると吉」のBLOGやエントリを中心に選出できないか、と思っているのですが、いかがでしょう・・・・。

現時点では、どうしても取り上げる必要があると思っているのは、「切込隊長BLOG」のこちらのエントリのみ。また、「ひきこもり・ニート」とは言っても、問題の連続性から、「フリーター・野宿者」の問題も、絡んでくるように思われます。

当事者系については、「引きこもり・ニート」に関する巨大な「はてなアンテナ」*6で、被登録数の多いもの上位を無造作にピックアップする、しかないでしょうか・・・・。


原稿〆切は迫っているし、その前に早急に、「取り上げる記事やBLOG」を選定せねばなりません。

★どこまで参考にできるか分かりませんが、「このBLOG(記事)は取り上げるべきだ!」*7と思われるところを、メールや TrackBack にて、教えていただけませんでしょうか。




*1:ただし、「姿勢は開放的だが、聞くべき意見を何も言えない人」は多いわけですが。

*2: → 【参照

*3:拙著の前半部分はそういう試みだったと思います。

*4:それは、単に過酷な労働条件に苦しむ底辺労働者を再生産するだけでしょう。

*5:ほとんどのかたは紳士的で、メールや TrackBack のやり取りは本当に喜ばしいものなのですが・・・・。

*6:「旧ひきこもりアンテナ」、「ひきこもり日記のアンテナ」、など(他にもありますでしょうか)。

*7:当BLOGは、選考対象から除外します。

2005-02-05  アクロバティック

自己矛盾リスト 自己矛盾リストを含むブックマーク

ネット上の議論がフレームアップする時、すごい高頻度で「自己矛盾」を発見します。

具体例をメモ的に列記してみます。 今後も随時追加予定。*1

  • 「説教してはなりません。いいですか、わかりましたか」と説教する
  • 「権威主義はいけない、と○○先生が言ってたぞ!」
  • 「あなたは知的に傲慢ですね。私の言うことが分からなければ、この本を読みなさい」
  • 「滅私奉公こそ素晴らしい・・・・」と自己チュー(セカチュー)に耽溺する
  • 「人に迷惑をかけない限り何をしてもいいのだ」と言いながら迷惑かけてばかり
  • 「バカが揚げ足とって喜んでるw」とはしゃぐバカ
  • 「派閥的であってはならない!」と言い張る自分への派閥的支持を要求する
  • 「言論活動を私怨晴らしにしてはならない」と言ってる本人が私怨晴らし
  • 「この場で最も不幸な私を尊重しろ!」と言いながら、自分より不幸な人を無視
  • 「誰でも何でも受け容れよう」とする全面受容主義の、極端な排他性
  • 「≪他者性の尊重≫を最大限重視する私たちは、一心同体だね!」
  • 語ることのできない「まったき他者」は尊重するが、「語る他者」は他者すぎて尊重しない
  • 「理論には価値がないのだ、なぜなら・・・」と理論展開
  • 「言論活動に価値はない」と言い張り続ける言論活動
  • 「しょぼい奴らばっかりだな」と言いながら、そいつ自身のほうがしょぼい
  • 「共感主義なんてダメだと思う。この気持ち、わかってくれるよね?」
  • 「私は自己責任至上主義です。ただし、その主張をしている私に責任はありません」
  • 「希望を持つのはファシストだ。私たちは絶望しなければならない」と活動をやめない


「平和を実現するためには、戦争しなければならない」とか、「私は自由を広めるために、世界を暴力で支配する」とかの矛盾は、社会思想では当たり前のことなんでしょうか。

この辺の「自己矛盾」ロジックは、ジジェクの独壇場のようにも思うのですが、どんな話でしたっけ・・・。




「議論する者は排除する」 & 「自発性のない者は処罰する」 「議論する者は排除する」 & 「自発性のない者は処罰する」を含むブックマーク

上記自己矛盾リストのうち、

  • 「誰でも何でも受け容れよう」とする全面受容主義の、極端な排他性

ですが、これは「存在を全面受容する」代わりに、「言説を完全排除する」姿勢なのだと思います。


私は父性をもちたい」などを拝見していると、「父性の復権」派が教育現場でタコ殴りにされる状況が、バックラッシュ的嫌悪感を生んでいるように思うのですが、これは「不登校」支援論では20年以上前から激論の焦点になっているところだと思います。

「存在の全面受容」=「言説の完全排除」を≪母性的受容≫と呼ぶべきかどうかは難しいですが、その状況に対する苛立ちがあるとして、「唯一の父による説教」をではなく、「複数のプロジェクトによる魅惑」を、私は対案として考えます。


「全面受容」が欺瞞的な窒息(相互フェティッシュ関係)でしかないとして、しかし自発性を起動できていないところでの「厳しさ」は、「説教」でしかあり得ない。 → 「厳しさ」は、≪自発性の起動≫との関係で論じる必要がある。

逆に言えば、説教しかできずにいる人は、相手の中の≪自発性≫という要因を無条件に前提しすぎる、あるいは無視しすぎる。 自発性こそ、「健全な」人が無自覚に体得しているうらやましい既得能力なのに。

言葉を代えれば、説教しかできない人は≪魅惑≫に失敗している*2。 「働かないのは人間として最低だ」、「お前は非国民だ」など、「私はお前を軽蔑する」、「お前を脅迫する」という話ばかり。 「自発性をもつのは貴様の義務だ」というあのロジックです。


社会の構成員が、お互いに、相手の自発性を賦活できるかどうか。――これはきっと、不況対策の議論といろんな論点を共有するのではないでしょうか。

相手の自発性を賦活できず、かつその相手の不活性状態がきわめて≪迷惑≫なとき、その「迷惑さ」は、社会的にはどのレベルで糾弾できるのか。 ひとまず法律論に限定されるように思うのですが、違うのでしょうか。 → 何度か扱った論点ですが、ニートや引きこもりをめぐって、法や憲法の改正論議もあり得るのか。


自発性≫の問題は、ひきこもり論の傷として、ずっと存続するように思います。

「受容・強制」云々で議論が紛糾したら、たぶんこの辺の話です。




「フェティッシュ」 ←→ 「分析の consistency」*3 「フェティッシュ」 ←→ 「分析の consistency」*3を含むブックマーク

3日の夜、神戸三ノ宮で三脇康生氏とお会いし、長時間ご一緒させていただいたのですが、≪自発性≫に関連し、きわめて示唆的なお話をいただきました。

それはいわば、「病気のような自発性」であり、身体性をともなった「強迫的な不可避性」*4があり、押さえ込むとひどく苦しいものです。

  • 【人間関係二態】
    • 出会うことで気を使い、こちらの自発性が抑圧されてしまうタイプの人間関係(相互フェティッシュ的)
    • 議論すればするほど、それぞれの自律的自発性が先鋭化し、頭がクリアになる人間関係

三脇氏との議論で体験したのは、明らかに後者でした。 お互いに宿る強迫的な「consistency」の共鳴・増幅。 消耗させる「相互フェティッシュなベタレベルの人間関係」ではなく、それぞれが取り憑かれた「メタとベタの往復運動」の出会い。 この「≪分析≫同士の出会い」*5においては、まさに≪プロジェクトが自発的にシェア≫されています。


制度論的精神療法」というネーミングにずっと抵抗を感じていたのですが、その核心にこうした姿勢や方法論があるならば、ぜひもう少し考えてみたいです。

今の時点での疑問は、こうした「consistency」が、≪お金の論理≫と、どのように交わるのか、という点です。




*1:みなさんも、他に思いついたら教えてくださるとうれしいです。

*2:みずから進んで説教されたがる人には、(某占い師みたいな)「説教臭い人」は好ましいのでしょうけれど。

*3:三脇氏の表現です。 「consistency」は「一貫性」(英語で言ったほうがオブセッショナル=強迫的な感じがして気に入っています)。

*4「受動的かつ不可避の自発性」という、なんとも奇妙な構造。

*5:三脇氏の表現。 「ふれあい」などとはまったく違うものだと思います。

2005-02-04  「議論をやめろ」

ここ最近、あらためて内外から、「上山は議論をやめろ」というプレッシャーを受けています。

まだ未整理ですが、現時点で明らかになっている論点を、少しだけメモ的に記しておきます。



「議論やめろ」三態 「議論やめろ」三態を含むブックマーク

私に対し、「反論する」というのではなく、「議論をやめろ」という意見は、だいたい次の3通りに分けられると思います。

  • (1)「お前は当事者属性が(すでに)低いから、お前が当事者(経験者)としてひきこもりを論じると、自分のように深刻な引きこもりの状態像が抑圧されてしまう」
  • (2)「議論していても誰も救えないのだから、一人一人に直接関わるべきだ」
  • (3)「何の意味もない頭デッカチの議論はやめて、さっさと肉体労働でもしろ」


順次見ていきます。



(1)≪当事者属性が低いから語るな≫について (1)≪当事者属性が低いから語るな≫についてを含むブックマーク

  • 当BLOGではもう繰り返し論じていることですが、典型的な「属性と課題」の混同です。 属性レベルで共有できるものがあるかどうか、という話と、課題レベルでプロジェクトを共有できるか、という話を混同している。
    • 逆向きの権威化が、「当事者同士の課題共有」、あるいは「経験者の為す社会活動」の足を引っ張るわけです。 マイノリティ運動に繰り返し登場する、どうしようもない泥沼劇。
    • 私は、自分を「ひきこもり状態」に追いやる様々な属性から、なるべく自由になろうとしています。 属性レベルでは、徹底して症状の軽減を図っているわけです。 苦痛除去を目指しているのだから当たり前。 「当事者っぽく見えるために、なるだけ属性を残し、つらそうにする」なんて、本当に馬鹿げてます。
    • ただそのとき、単に「症状改善」ではなく、たとえば「静態的中間集団が苦手だ」という私の課題から、≪動態的中間集団≫というモチーフも出てくる。 自分の苦痛から取り組みのモチーフを析出しているわけです。
  • 「共感と相互慰撫の共同体」(a)を成り立たせるための要請と、「具体的プロジェクト彫琢のためのミーティング」(b)とを混同している。 ▼(b)の議論をしている時に、(a)の論理(「お前は私のことを分かってくれない!」など)を持ち込んではいけないはずです。
    • たとえば id:hikilink さんについて、「恋愛したり学校に行ったりしているらしいから、ひきこもりとしての当事者属性が低い」という(非難の)声を聞いたことがありますが、彼の運営しているサイトは(少なくとも一部の人にとっての)有用情報に溢れているのであり、これはむしろ、「当事者属性がなくとも、ひきこもりに有益な活動はできる」ことの具体例として、胸を張ればいい。 ▼ただし、こちらのご指摘にある通り、id:hikilink さんご自身が「属性レベルでの争い」をやっている場合もあるようなので、ややこしいのですが。
    • 「プロジェクト・シェアにおいては、属性レベルは問題にしない」、「課題設定のための討議においてのみ、≪より深刻な状態像≫を問題にする必要がある」という決然とした峻別が、何としても必要です。
  • 「当事者属性の低い者は語るな」を≪サバルタン・ロジック(logic)≫、「課題としては不可視の存在を常に考慮しなければならない」を≪サバルタン・エチック(ethic)≫と呼び分ける案を、chikiさん(id:seijotcp)より頂きました。
  • 相手を共感の共同体に巻き込めなければその相手の活動そのものを絶対に認めようとしない、というのは、「共感の共同体」「活動の有益性」を混同した、どうしようもない「足の引っ張り合い」です。
    • 「共感」は、自分のどうしようもない状態に取り組み始めた初期においては必要なステージだと思いますが(私にもありました)、いつまでもそこに留まっているのは、単に「泣き寝入り」ではないでしょうか。 「泣き寝入りの共同体」に留まろうとすることは、弱者にとって有害でしかない。
  • 「共感の共同体」に居留まろうとする人は、ほぼ確実に「深刻度競争」を始めます。 私自身は、「有益な活動に向けての課題共有」を目指したいし、課題共有できない人による「私に共感しろ!」には、暴力しか感じません。 それは一定の当事者属性をフェティッシュ化し、当事者の活動努力をその属性内に封印しようとすることでしょう。 繰り返しますが、それは当事者が当事者に向ける暴力です。
  • コミュニケーションも、努力も、非常に困難です。 しかし、「だから絶望した状態に留まるべきだ」ではない(それは「絶望している自分」をフェティッシュにしているだけ)。 「困難ではあるが、でも続ける」というというところで、誰かとの課題共有を模索するしかない。*1



(2)≪対面で救え≫について (2)≪対面で救え≫についてを含むブックマーク

  • (3)とも関わりますが、「抽象的な議論は、論じている人の自己満足でしかない」という責めだと思います。 ややこしいのは、実際の「当事者によるひきこもり論」の多くは、そういう「自己満足」を目指すものでしかないこと。 しかし議論には、「プロジェクト共有指向型」のものもあるはずです。私自身、論じている人間の自己満足を目指すような「議論のための議論」には、何の興味もありません。
  • 「支援」は、「直接対人接触を持つ」ことだけでしょうか。 魅惑的なプロジェクトを提示し、誰かの自発性を起動できれば、立派な≪支援≫ではないでしょうか。 個人的接触だけでなく、「環境整備」を目指すことも、支援であるはずです。 ▼「何をもって支援となすか」自体が、きわめて政治的な論点だということに気付いてください。 (多くの人は、「甘ったれてるだけなんだから、支援なんて必要ない」と言っています。 政治的な立場として、大いにあり得る視点です。)
  • 「議論はやめて具体的に救え」という人には、たいてい「こうすればいい」という≪対案≫が何もありません。 「共感しろ」ということでしょうか。 しかしそれも支援の一方法論です。 選択肢の一つではありますが、どうして他の方法論を模索してはいけないのでしょうか。 実際に私は、≪課題共有≫という形で、対案を試みているわけです。
  • 「支援方法論のための議論はやめるべきだ」という見解は、それ自体が一つの議論です。



(3)≪頭デッカチめ、さっさと目の前の仕事しろ≫について (3)≪頭デッカチめ、さっさと目の前の仕事しろ≫についてを含むブックマーク

  • 当事者や経験者のする議論には、「自己意識を慰撫するための独り言」と、「仕事を創出し、それ自身が社会活動であるような言論仕事」の2通りがあると思います。 前者については、適当にやめて行動に移すべきです。 しかし後者については、私が積み上げてきている議論ですら、まだまだまったく足りない。
    • 当事者・経験者のしている議論は、たいていは前者でしかないし*2、「活動や仕事としての議論」が、誰にでもできる(あるいは誰にでも必要な)ものだとは思いませんので、「コミュニケーション・コスト削減のための確率論」で言えば、ほとんどの当事者・経験者に対しては、「思考停止して体を動かせ」で充分なのかもしれません。
  • 黙って動くべきところで考えてしまい、考えるべきところで思考停止する。 どうもそういうジレンマを感じます。
  • 「議論をやめて働け」は、発言者の「仕事」についての考え方*3を無条件に絶対化し、「その考え方を受け入れないのはお前が悪い」とする態度です。 一定の価値観勢力に味方していることに気付いていない。 それに「議論をやめろ」と言い張る人間に限って、「ひきこもり支援をめぐる謝礼金について」など、敵対的論点については徹底的に自分の意見表明をしたがる。 あるいは、非常に硬直した自分の意見に固執する。
    • 足の引っ張り合いはもういい加減にやめて、「ひきこもり支援の対案」、「支援者への支払いについて」など、具体的な議論を始めるべきでしょう*4






「事業による誘惑(自発性賦活)」 → 「project sharing」 「事業による誘惑(自発性賦活)」 → 「project sharing」を含むブックマーク

Mさん*5のメールより引用。 強調は引用者。

 「課題共有」は、そのまま英訳すると、「project sharing プロジェクト・シェアリング」となりますね。 (中略)

 「シェア」は「共有」であると同時に、「分有」「分権」でもあるというのがポイントで、「シェア」という方法は、各人のプライヴァシーや権限を保持しながら、共有できる部分には参加(関与・貢献)しようという発想に基づくものだと思います。*6

 「過渡的に行なう場合を除いて、問題は生産過程から排除されてしまった人びとに対する給付金を確保することではなく、その排除をもたらした状況を取り除くことなのである」*7

 私が「社会契約論」に関心をもつのは、それが、各人が他人と何をシェアし、何をシェアしないかという決定権をめぐる問題だからだと言えるかもしれません。 それは同時に、集団生活・社会生活のルールをめぐる問題でもある。 そしてそこに、上山さんが注目している「自発性/強制」の問題も絡んできます。 集団生活・社会生活が成り立つためには、各人による「帰属への自発的同意」と構成員への「ルールの強制」が必要だと私は考えます。 ただし、各人の「分離の自由」は認めなければならないし、成員の提案による「ルールの変更」を受け入れる余地も残しておいたほうがよい。 これに対して、「帰属の強制」や「(上からの)恣意的ルールの強制」は耐えがたい苦痛をもたらす要因になるし、また、各人による「ルールへの自発的同意」を待っていては、各人の恣意を統制できない無政府状態をもたらすことにもなりかねない。 シェアしあう部分に関しては、どうしても「ルールの強制」あるいは「ルールの決定をめぐる闘争」という問題が出てくる。


≪契約≫に必要な、「帰属への自発的同意」というところがミソだと思います。

自立は孤立ではない」と書いたときに私が考えていたのは、まさに(Mさんのおっしゃる)「プロジェクト・シェアリング」*8ですが、そこで「シェア」が成り立つためには、共有されるプロジェクトは、「人の自発性を誘うもの」、魅惑するものでなければならない。

≪フェティッシュとして人を魅惑する≫のではなく、≪プロジェクトとして人を魅惑する≫こと。 それによるアウトリーチが、選択肢の一つとして浮上していると思います。 → 私は明らかにこちらの派です。

この方法論がすべてだとは思いませんが、「何も考えないで、とにかく仕事しろ」といった方法論しかない支援環境に、別の努力方法論(の選択肢)を与えるもののように思います。




*1:ここのところで、「機能的・動態的・一時的」中間集団が問題になるのだと思います。

*2:しかし、それは後者への準備段階かもしれない。 私はそうでした。

*3:「何をもって仕事となすか」は極めて政治的な判断だと思います。 「いい仕事をした」のか「自己満足」なのか「やっつけ仕事」なのか。

*4:こんな当たり前のことを今ごろ言わねばならないとは。

*5:ご本人さえ良ければ、お名前を出させて頂きます。 今後メール頂けるかたは、お名前を公表してよいかどうか、記していただけるとうれしいです。 ▼ところで、Mさんからは以前にもヴィヴィッドなメールを頂いているのですが、ぜひご自分でBLOGを開設されてみてはいかがでしょうか。 単純に、お書きになる文章の一読者として、それを願っていたりします。

*6:【参照1】、【参照2】、【参照3】、【参照4

*7:『福祉社会と社会保障改革―ベーシック・インカム構想の新地平』p.140。 Mさんの引用より。

*8:たいへん示唆的かつ魅力的な表現に感じます。

2005-02-03  三脇康生氏へのメールより

ご無沙汰してしまいました。 すみません。

読書や、オフラインでの複数のミーティングなどから、本質的な刺激を受けていました。

これからまた1〜2週間の間に新たな出会いや面会が予定されており、進行中のプロジェクトの件も含め、新たな展開があるかもしれません。



私信転載 私信転載を含むブックマーク

個人情報を削除し、言葉遣いや発言内容をいくぶんか訂正し、転載します。

太字強調などは、元のメールにはありません。

当然ですが、以下での私の発言には、三脇氏からの異論もあるはずです。



以下、全文私信よりの転載です





「制度論的精神療法」 「制度論的精神療法」を含むブックマーク


三脇康生様


上山和樹です。


ドゥルーズやガタリをほとんど読んだことがなく、かつもう何年も思想系の議論から遠ざかっていた私は、『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』の議論になかなか入っていけず(すみません)、悩ましかったのですが、最近知人から贈られた『図書新聞』(2000年5月13日、第2485号)掲載の三脇さん・杉村昌昭氏の討論を、とても興味深く――というより少し興奮しつつ――先ほど拝読いたしました。

  • 「超越的−超越論的」に対応する、「制度的−制度論的」
  • 「一方的な権力批判ではなく、各人が制度分析をし、自分の役割に対して自己分析をする」
  • 「(イベントの多さや資本主義的使命とは別の形で、)病院の活動性を上げる」
  • 「(単に制度的立場を降りるような)ナイーブな降り方はいっさい許されない」
  • 「前向きの想像力と後ろ向きの想像力」
  • 「“芸術療法”は存在せず、存在するのは芸術だけである」
  • 「単なる医療化社会を超えるために、社会で複数の制度分析の出会いをどのように生じさせていくのか」

こうした論点に、いちいち「我が意を得たり」でした(などと言うと僭越でしょうか・・・)。


三脇さんが「精神科医」「大学の先生」というお立場でありながら、何の肩書きも学位も持たない「ひきこもり経験者」でしかない私と、対等にお話する機会をくださったのは、「制度論的精神療法」というお立場やお考えがあってこそだったのではないか・・・・、と愚考いたしました。(もちろん、「制度論的精神療法」が何なのかは、まだよくわからないままなのですが)



≪中間集団≫ ≪中間集団≫を含むブックマーク

経済に詳しい知人と話していて思ったのですが(私は経済学も社会思想もよくわからない人間です)、「個人vs国家」、あるいは「個人vs市場」でしかない状況があると思うのですが、これでは太刀打ちできるわけがない。 → 「個人が状況に太刀打ちする」ために、何か≪中間集団≫(コミュニティ?)レベルでの制御要因や問題を検討することは、できないのでしょうか。こうした議論(地方分権論などと関係するでしょうか?)を、いわゆる「左翼」とは別の形で模索できないか。


ここで私は、三脇さんが佐藤学さんのお名前を出しながらされていたお話を思い出したのです。現在、地域共同体など、中間集団たるコミュニティは崩壊していて、「個人vs市場」、「個人vs国家」になっているとして、唯一≪中間集団≫が機能しているのが、「教育」の現場ではないか。そしてその中間集団の弊害が、「いじめ」などとして出ており(内藤朝雄氏)、ゆえに中間集団機能を撤廃して、「教育機関すべてを、機能主義的な自動車学校のようにすればいい」というのが、三脇さんのご紹介くださった宮台真司氏の議論だったのだと思います。

これと同型の話が、「中間集団としての精神医療現場」にもあるのではないか、と思ったのですが、勘違いでしょうか。つまり、「権威主義(パターナリズム)的な精神医療は良くない」からと、医療現場を機能的にドライにしてしまって、「医療スタッフは、社会保障とお薬への窓口になるだけでいい」というような指針です。


「制度論的精神療法」について少しだけ(本当に少しだけ)勉強させていただいた観点からすると、こうした「ドライ化・機能主義化」は、自己分析や制度分析の必要をまったく喪失させてしまい、自分と制度の双方を静態的に固定化してしまう。中間集団機能を撤廃したことによって、個人(教師と生徒、医師と患者)は、自分の機能的役割を設定してくる制度に対して、まったくお手上げになってしまう。つまり、個人の取り組みが完全に「非政治化」され、その存在は、制度内での固定的な一機能に還元される。これはいわば、個人の自由を「選択権をもった消費者」としてのそれに縮減(限定)し、状況や制度に改善点があるとすれば、「選択肢の少なさ(貧しさ)」だけである、とするドライ化の指針だと思います。 【宮台真司氏は「個人−市場」の機能的ドライ化を、つまり「流動性の高まり」を機能的に徹底させ(それは効率性の観点からも推奨される)、しかしそれだけでは個人(の自意識)がもたないので、内面と制度を安定的につなぐ静態的補完項目として、「天皇」という、流動性を無条件に逃れた装置を持ってくるのではないか――というのが、現時点での私の理解です。】


私は内藤朝雄氏や宮台真司氏の議論をフォローできていないのですが、もしこうした「ドライ化・機能化」の指針が、「中間集団の弊害」に対抗してあり、かつその批判対象としての≪中間集団≫に、保守的な学校や病院だけでなく、「自己分析を伴わない集団主義的左翼」も加わるとしたら・・・・。ここでは「ドライ化・機能化」の徹底は、「左翼のイデオロギー的集団主義」にウンザリしている人たちからも、支持されることになります。 → 『図書新聞』の三脇さんのご発言に、「ガタリは制度論的精神療法の方法論を社会に持ち出そうとしたが、それをラボルド*1の人たちは無茶だと考えた」(大意)とありましたが、「病院で可能なことが社会で可能だろうか」という話は、そのまま≪中間集団≫の機能を巡る議論ではないかと思ったのですが、勘違いでしょうか。


社会環境や制度を徹底して機能主義的にドライ化することで、その中をうろつく個人の自由度を高めよう、ということだと思うのですが*2、これは個人が制度的環境に動態的・改変的にアクセスするチャンスや権限を奪い、もって効率を高めようとする指針になる。 → ≪中間集団≫の機能は、果たしてそこに帰属する個人に、制度に改変的・動態的に関わるチャンスを与えるのかどうか。(もし与えないなら、イジメや集団主義をなくすためにも、そして効率化のためにも、「中間集団はなくすほうがいい」ということになります。)


話を広げすぎかもしれませんが、社会における中間集団としては、当然ながら「会社」「法人」といった≪職場≫の問題もあるわけで・・・。こうした経済的中間集団との関係における自己分析と制度分析、というところで、三脇さんの出された「employability*3のお話にもつながりますし、その中間集団はマクロな社会や経済とどう関係するのか、といったところで、政策論にもつながると思います。 【こうした議論は、いわゆる「CSR、企業の社会的責任」や、「SRI、社会的責任投資」という議論ともつながれるように思うのですが・・・・。】


・・・・・というわけで、考えれば考えるほど、≪中間集団≫という要因の機能や是非(問題を含みつつも、あえて中間集団の機能に期待して議論を続けるのか、それとも完全撤廃を志向するのか、など)が気になるのですが・・・・。(これはひとまず私の思いつきにすぎません。共有すべき課題設定は、今後の問題です。)



「属性による静態的中間集団」から、「課題共有による動態的中間集団」へ 「属性による静態的中間集団」から、「課題共有による動態的中間集団」へを含むブックマーク

ひきこもりとの関係で言えば、社会や中間集団との接点をいっさい持たなくなっている引きこもり当事者が、いわば「アタッチメントなき超越的目線」*4に立って、対案もなく社会や支援者を攻撃的に批判することは、まったく空しいと言える。それよりも、「不可避的に巻き込まれている個人」として、自己分析と制度分析が必要なのだと思います。

この場合、ひきこもり当事者(経験者)にとっての「制度分析」は、自分が脱落した社会や制度の分析であるとともに、自分が包摂され扶養されている「家族」という制度(システム)の分析でもあると思います。家族を≪中間集団≫と呼ぶのは無理があるかもしれませんが、少なくとも「社会からの脱落」は、実は「中間集団へのアクセスを失う」ことであり、しかし引きこもりは、(ホームレスとは違って)「家族(という集団)には包摂されている」(樋口明彦氏)状態なわけです。


三脇さんには釈迦に説法ですが、いわゆる「対人恐怖」は、中間集団においてこそ問題になるのだと思います。つまり「人間関係」という、引きこもりやニートで常に問題になる苦痛要因も、まさに≪中間集団≫の問題であるわけですが、実は私自身も、いわゆる「引きこもりのためのフリースペース(溜まり場)」が苦手な理由は、ここに尽きます(共有できる課題設定のない、「雑談」しなければならない中間集団)。 ですから私自身、宮台真司氏的な「機能主義的徹底」には、実は魅力を感じているのですが、それでいいのかどうか・・・・。 → そこで、やはり三脇さんの提示されている、≪制度論的≫というお話が気になるわけです。


私自身の先日からの議論との関連では、≪中間集団≫そのものを機能的に考え、それへの多層的複数帰属を考える発想として、≪課題共有≫、あるいは≪プロジェクト・シェアリング(project sharing)≫*5という話をしていることになります。つまり属性による静態的中間集団ではなく、問題のアクチュアリティとの関係における、≪課題=プロジェクト≫レベルでの帰属関係のみを問題にし、この「機能的・動態的・一時的」中間集団においては、「関わっている個人の肩書きや立場は何であるか」は問わない、という取り組みスタイルです(これはまさに、三脇さんが「教授や学生は制度にではなく、プロジェクトに帰属すべきだ」とおっしゃったお話そのままのように感じたのです)。 → ここに、「制度論的精神療法」と似たモチーフを読み取るのは、失礼でしょうか。



(以下略)




*1:フェリックス・ガタリが≪制度論的精神療法≫の実践現場としたラボルド精神病院

*2:経済の議論における、「ケインズ主義(国家による介入)」vs「市場原理主義」を、そのまま「パターナリズム」vs「機能主義的ドライ化」に重ねるのは、初歩的間違いというか、乱暴すぎるのでしょうか。

*3:【参照1】、【参照2】、【参照3】、【参照4

*4:これは「絶望する自分に居直る私」と同じ構造だと思います

*5:読者から頂いた表現です

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