「属性による静態的中間集団」から、「課題共有による動態的中間集団」へ

ひきこもりとの関係で言えば、社会や中間集団との接点をいっさい持たなくなっている引きこもり当事者が、いわば「アタッチメントなき超越的目線」*1に立って、対案もなく社会や支援者を攻撃的に批判することは、まったく空しいと言える。それよりも、「不可避的に巻き込まれている個人」として、自己分析と制度分析が必要なのだと思います。
この場合、ひきこもり当事者(経験者)にとっての「制度分析」は、自分が脱落した社会や制度の分析であるとともに、自分が包摂され扶養されている「家族」という制度(システム)の分析でもあると思います。家族を≪中間集団≫と呼ぶのは無理があるかもしれませんが、少なくとも「社会からの脱落」は、実は「中間集団へのアクセスを失う」ことであり、しかし引きこもりは、(ホームレスとは違って)「家族(という集団)には包摂されている」(樋口明彦氏)状態なわけです。


三脇さんには釈迦に説法ですが、いわゆる「対人恐怖」は、中間集団においてこそ問題になるのだと思います。つまり「人間関係」という、引きこもりやニートで常に問題になる苦痛要因も、まさに≪中間集団≫の問題であるわけですが、実は私自身も、いわゆる「引きこもりのためのフリースペース(溜まり場)」が苦手な理由は、ここに尽きます(共有できる課題設定のない、「雑談」しなければならない中間集団)。 ですから私自身、宮台真司氏的な「機能主義的徹底」には、実は魅力を感じているのですが、それでいいのかどうか・・・・。 → そこで、やはり三脇さんの提示されている、≪制度論的≫というお話が気になるわけです。


私自身の先日からの議論との関連では、≪中間集団≫そのものを機能的に考え、それへの多層的複数帰属を考える発想として、≪課題共有≫、あるいは≪プロジェクト・シェアリング(project sharing)≫*2という話をしていることになります。つまり属性による静態的中間集団ではなく、問題のアクチュアリティとの関係における、≪課題=プロジェクト≫レベルでの帰属関係のみを問題にし、この「機能的・動態的・一時的」中間集団においては、「関わっている個人の肩書きや立場は何であるか」は問わない、という取り組みスタイルです(これはまさに、三脇さんが「教授や学生は制度にではなく、プロジェクトに帰属すべきだ」とおっしゃったお話そのままのように感じたのです)。 → ここに、「制度論的精神療法」と似たモチーフを読み取るのは、失礼でしょうか。




(以下略)





*1:これは「絶望する自分に居直る私」と同じ構造だと思います

*2:読者から頂いた表現です